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独合点 141号
ゲスト  坂多  瑩子

できごと

坂多瑩子

 

 

 

 

昨夜 雨が激しく降った

庭の

石のくぼみに水たまり

小さくふたつ

目だね

髑髏だね

そう見えちゃうと

夕がたには

鼻もあって口もある

夜中 目がさめると

枕のそばに

すわっていて

いつのまに手に入れたのか

体もあるよ

進化の速度ってはやいものだ

でも

なんかさびしそうだけど

理由聞くのも気がひけるので

こんばんは 

挨拶だけして

どてら羽織ってトイレに行って帰ってきたら

枕占領されてて

背中むけて

寝ちゃってるみたいで

気づいてくれない

わたしだんだん自分に自信がなくなって

仕方なく

枕のそばにすわっている

 

 

 





 

 

 

ほんとうは私小説作家になりたかった ―中上哲夫さんに

金井雄二

 

 

          中上さんはバーテンダーに

          ぼくは私小説作家に

 

 

 

 

もう何年も

図書館で毎日本を貸出して

家に帰ってきては

こうやって詩を書いている

でも

ほんとうは私小説作家になりたかった

原稿用紙を文机の上に積んで

モンブランを握りしめ

書き損じた原稿用紙は

くしゃくしゃに丸めて

うしろに投げ捨てる

そうして五百枚もの大作を

夜を徹して

一気に書く!

妻が用意してくれた夕飯には箸もつけず

(気に入らないときはひっくり返す)

時にはコップ酒をあおり

時には編集者を別室に待たせ

時には温泉旅館に連泊をして

原稿を書く!

俺の小説はだれにもまけない、と

人に聞こえるように小さくつぶやき

妻を一発張り倒してから他の女のところへ行く

だが今のぼくは

たった二十行の詩が書けなくて

悶悶としながら家族の皿を洗っているのだ

ああ、でも、やっぱり、そんな昭和の時代の

私小説作家になりたかったなあ

 




菅原克己とサークル詩

金井雄二

 

 

 

 

 

 第二次世界大戦後から新たに出発した詩は、いわゆる戦後詩という呼称が与えられた。戦後詩とは、十五年戦争による概念、意識を徹底的に覆し、焦土の中から新たな詩の世界観を生み出そうとするものであった。 

 鮎川信夫を中心とした、戦後の同人誌「荒地」は、それまでの詩とは全く違った価値観の詩を掲げることで、戦後詩を牽引してきた。メンバーには鮎川の他、田村隆一、中桐雅夫、北村太郎、黒田三郎がいた。その後批評家でもある吉本隆明も加わっている。彼らは、戦前、戦中までの、生活を書いてきた民衆詩、日本の美意識をもった抒情詩、メッセージを強く打ち出したプロレタリア詩、戦争協力詩などを強く否定した。彼らが求めたものは、斬新な手法と、より深い意識である。言葉を突き詰め、過去の体験から脱し、真の言葉の改革をめざした、「考える詩」を書こうとしたのである。基本になったものはモダニズムの思想であり、それに暗喩を効果的に使用することによって詩を形成してきた。

 戦後詩のもう一つの潮流は詩誌「列島」である。基本的に「列島」は戦前のプロレタリア詩の系統を汲む詩誌であるとされていて、先ほどの「荒地」の思想とは反対の立場をとっている。したがって厳密には「戦後詩」とは呼べないという考え方もある。

 しばらくの間、ぼくもそのような考えであった。しかし、自分でよく調べていくうちに、それはどこか違っているのではないかと思うようになった。「荒地」および「列島」は、思想こそ相反するものがあるにせよ、戦後のスタートラインに立つという、その個人の立場は同等であったはずだ。確かに「荒地」グループの考えは、新しい言葉の改革を目指し、そのために、旧態依然とした詩の形を否定し続けてきた。それが正しいかどうかはぼくが決めることではないので、ここでは明言は避けるが、「列島」グループとて、同じ考え、意識を持っていたのだと思うのだ。つまり、戦後という価値観のもと、強い時代意識を持ち、新しい詩の模索をおこなってきたのである。それはどちらも変わらない。その方法論として、「荒地」グループはモダニズムを基調とした、アカデミズムな詩を本望とした。すなわち「考える詩」を標榜し、複雑な心境、新しい世界を表現するには、徹底した斬新な比喩を用いたのである。一方「列島」の詩人たちはプロレタリアの系譜をまといつつ、市民の声から詩を立ち上げようとしたのではないだろうか。我々生活者の持つ言葉の力を信じ、まずは生きているものの声から文学は始まるのだということを信じ、誰もが詩を書いていいのだと提唱してきたのだ。まずはその上で、言葉の水準を上げていき、文学として成り立たせることが大事だと考えたのだろう。

 ここでぼくは「荒地」派であるとか、「列島」がいいのだ、とか、そのようなことを問いたいのではない。現在の詩の歴史を考える上で、きちんとした、つまりは平等な観点から見ておきたいのだ。

ぼくは詩を書き始めて以来、第二次大戦後の詩の表現の豊かさは例えようもないぐらい素晴らしい世界だと感じている。戦後詩と呼ばれた、これらの作品群を読んだとき、人間の偉大さに触れたような気がしたものだ。それらは、多くが思潮社の「現代詩文庫」からである。鮎川信夫をはじめとする、田村隆一、中桐雅夫、黒田三郎、北村太郎など。そう、「荒地」の詩人たちの作品群である。大半は「荒地」を基本としたモダニズム系統の詩人ばかりであった。詩のジャーナリズム的メカニズムがそのようになっているのではないだろうかと思う。だが、ぼくには、菅原克己という詩人がいたのである。菅原克己は基本的に左翼派であろう。当然そちらの方も気になってくる。長谷川龍生、長谷川四郎、秋谷豊、関根弘、黒田喜夫、木島始、出海溪也、浜田知章、等々なども読んでいく。土曜美術社の「現代詩文庫」も相当な数の詩人が収められているのだ。

 さて、このようなフラットな姿勢で戦後詩、そして現在の詩を眺めてみると、やはり見直されなければならない問題として、一般市民の詩について、ということがあるとぼくは考える。それはとりもなおさず、私自身が一般市民だからである。小さな市の公務員として毎日働き、小さなマンションに住み、妻と子どもを養い、小さな詩を書きながら生活してきた。いまでも同じ生活をしている。ぼくは、難しい言葉を使って論文を書ける大学教授詩人でもなければ、影響力のある言葉を発する評論家詩人でもない。詩が好きなだけのただのおじさんである。ただ、詩が好きだというだけで、詩を書き続けているだけの人間だ。若い頃、一生懸命に詩や詩論を読んだ。だが、難解で理解できないものが多かったのだ。これがわからないぼくはもしかしてバカなんじゃないだろうか、ぼくみたいな人間は詩など書いてはいけないのじゃないだろうかと思ったものだ。そして、そういう人間が詩を書くことの意義はどこにあるのか。そういう人間でも詩を書いていいのだろうかと、真剣に考えたこともあった。そんな不自然な疑問さえ湧いてくるのである。答えはもちろん、ノーなのである。詩はだれにでも開かれている文学であるべきなのだ。いいや、詩に限らず、文学はどんな人にも開かれているべきものなのだ。とくに詩は、アカデミックなものだけではない。詩の精神を捕まえ、言葉として定着させることが詩であり、それは人間である限り誰もが表現していいことなのである。

現在ぼくは、かなり高齢な方たちと詩の勉強会を開催している。ぼくを入れて全部で八名しかいない。二か月に一度、つまり年に六回程度だが、各自詩を持ちより、その詩に対していろいろな角度からコメントをしたりしている。これはぼくの勉強の場でもあり、コミュニケーションの場でもある。このような活動を経験しながら、詩の歴史を勉強したとき、過去に、サークル詩の活動、それも、かなり活発な活動があったことを知った。また、菅原克己も、住んでいた調布市で詩のサークル的活動をおこなっていたし、自身でサークル「P」という雑誌も作って発行していた。もちろん、新日本文学会という母体があっての事かもしれない。ともかく、詩を書く運動体の中にサークル詩、というものが存在することを知った。それは、一般市民が詩を書くという上で、大きな意義があると感じたのだ。ぼくは一九五九年(昭和三四年)生まれであり、戦後サークル詩の活動を知らない。詩を書き始めた一九八〇年代半ばごろは、ほとんどサークル詩活動は下火になっていたのではないかと思われる。菅原克己のことを調べるうちに、菅原がどのような考えでそのサークル詩に関わったのかぜひ知りたいと思ったのである。

 サークル詩に関する具体的な資料として、まず挙げたいのが中村不二夫の『戦後サークル詩の系譜』(二〇〇三年、知加書房発行)という本だ。続いて『戦後サークル詩論』(二〇一四年 土曜美術社出版販売発行)がある。それから先に挙げた『列島』には特集として取り上げている号が何号かある。また、『新日本文学』においてもときどき言及されている。最近では、『詩と思想』二〇一八年九月号において、「特集「野火」とサークル詩」等、数多くある。

ただこの文章は、サークル詩についての考察ではなく、菅原克己における、サークル詩の意義を考えていくものである。あくまでも菅原克己の詩を考えていく上でのサークル詩の考察として読んでほしい。

昭和三一年、東京都世田谷区北沢に住んでいた菅原克己は、調布市に移り住む。四十五歳のときである。現在の調布市といえば、自然が多く都心にも近いということでかなり人気の高い町であるが、当時はどのようなところであったろう。田んぼがあり畑があり、深大寺で有名な場所。のどかでありきれいな空気に満ち溢れていたことだろうと思う。菅原は前年より、新日本文学会、日本文学学校の講師を務めるようになっている。昭和三一年の年譜を参照すると、「文学学校生、卒業生を中心に「森の会」を結成、詩誌「森」を創刊する。」とある。

昭和三〇年頃から五〇年頃までの約二〇年間は文学学校の講師として、また公務主任(副校長)として日本文学学校に力を入れていて、そのかたわら、主要な詩集を出版したり、詩の教室の講師をしたり、あまりの忙しさに胃潰瘍にもなって胃の摘出手術をおこなったりと、またそれなりに充実していた時期であったと思う。

そんななか、文学学校生たちと詩誌を創刊したりするのは、もっと若い世代の人たちに詩を読んでほしい、書いてほしいという願いがあったからではないだろうか。昭和四〇年の六月には「サークルP」が、また翌年綴り方教室が発足する。年表から引用してみる。

 

 一九六五(昭和四〇年) 五四歳

六月 「サークルP」を結成、詩誌「P」を創刊する。前年に解散した現代詩の会の後を受け、文学学校の詩の生徒や卒業生を中心として発足した。

 

一九六六(昭和四一年) 五五歳

六月 居住地の調布市内に主婦たちの綴り方教室(サークル)が発足し、終生講師をつとめる。

 

詩人たちが集まって結成する、同人雑誌という形態があるが、サークルとは基本的には趣を同じにしない。同人雑誌はお互いがお互いを意識しあい、緊張感を持ちながら作品の上で競い合い切磋琢磨していくものであろう。またそうでなければやっていく意味がない。だから同人どうしぶつかり合ったりもするため、長くは続かない場合が多い。

サークルはどうであろう。もちろん緊張感がない場所だなどとはいわないし、緩慢な場所であるなどとは思ってもいない。ただ、そこには一つの調和なるものがありそうだ。人と人との繋がりを大切にして、自分を磨いていくような感覚だろうか。そこには導いてくれる先達が必要となる。もちろんそれは先生と呼ばれる存在だが、実力はあっても権威は必要としない。菅原はいわばそんな導き手を引き受ける覚悟であったのではないだろうか。また、それは一般市民の書くものがどのようなものであるか、それがどのくらいすばらしいものか、菅原自身が感じ取りたかったものなのかもしれない。市民の書くものはまた自分の詩を向上させる一つの手助けになるとも考えていたかもしれない。

冒頭に、戦後「荒地」グループは詩の改革をうたい、民衆詩やプロレタリア詩を否定してきたと書いた。「荒地」グループも戦争の総括をおこなってきたわけだが、一九四五年終戦の年の十二月にははやくも新日本文学が設立されるのだ。中村不二夫著『戦後サークル詩の系譜』(二〇〇三年、知加書房発行)および『戦後サークル詩論』(二〇一四年、土曜美術社出版販売発行)を読むと、そのなかの「サークル詩の起源と創造」の冒頭に宮本百合子の「歌声よ、おこれ」が記されている。中村の言葉を借りれば、「サークル詩の系譜をみていく上で、つぎの『歌声よ、おこれ』(「新日本文学」創刊準備号・一九四六年一月)の提唱は重要である。」と記されている。ちなみに、中村不二夫の『戦後サークル詩論』はその前作『戦後サークル詩の系譜』の増補改訂版であり、最近はまったく論議されることがなかったサークル詩に光を当てたものであり、貴重な著作だと思う。『戦後サークル詩論』からの孫引きになってしまうが、宮本百合子の「歌声よ、おこれ」を引用したい。

 

「民主なる文学といふことは、私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理に叶つた発展のために献身し世界歴史の必然な動きを胡魔化すことなく映しかへして生きてゆくその歌声といふ以外の意味ではないと思ふ。

 そして、初めは何となく弱く、或は少いその歌声が、やがてもつと多くの、全く新しい社会各面の人々の心の声々を誘ひ出し、その各様の発声を錬磨し、諸音正しく思ひを披歴(瀝)し、新しい日本の豊富にして雄大な人民の合唱として行かなければならない。」

 

この提唱文を受けて、中村は次のように続ける。これも『戦後サークル詩論』から引用する。

 

こうして詩界全体の敗戦処理がはじまる中、宮本百合子は戦後文学の新しい担い手として、これまでの翻訳者を兼ねたアカデミック系の詩人、新聞・雑誌の誌面を独占する一部のエリート詩人に代わり、つぎなる文学の一大勢力として市井に潜む労働層を指名したのである。政治的側面からみれば、来たるべき革命運動の同志たちに向けて「歌声よ、おこれ」と呼び掛けたのである。

そして、そこで呼び掛けられた労働者たちが、真の民主主義というユートピアの樹立をめざし、同時に新しい国作りの主体として、宮本の主張を支持することに何の躊躇もなかった。そして、彼らは文学活動の実践を通し、戦後日本の民主化運動の推進勢力、すなわち労働運動の体現者乃至開拓者として戦後詩界に浸透していった。その後サークル詩は、時代状況の変化に押されて激しく変容していくが、ここでの宮本の「歌声よ、おこれ」に呼応した民衆たちの文学的姿勢はつねに変わらずにいた。

 

 この文章から考えると、戦後の文学は労働者たちによって任せられた。つまりそれは新しい国作り、真のユートピア作りのためである、ということになろう。言い換えれば、革新政党、この場合は日本共産党であるが、戦後民主化を推し進めるために、みんなで声をだし、つまりは、文学という作品群のなかから新しい国作りを目指そうというものなのではないだろうか。中村はこの論の中で後述し、はっきりと書いているが、このような文学概念もまた見直さなければならないと言っている。つまりはサークル詩というのは、確かに当初は政党の、ある意味で戦略として生まれてきたものではあるが、基本的には文学活動として存在するものであるため、もう一度、その価値(フランクルの思想から借りれば態度価値)をたしかめてみなくてはならないということなのだ。その箇所を同書から引用してみよう。

 

  サークル詩を検討する際、当初のサークル運営が日本共産党系の組合主導で行われたこともあり、そこには労働運動における階級意識がきわだっていたという側面がある。つまり、彼らは文学活動を通し純粋に個としての解放を目指したのではなく、政党が戦後の民主化運動を推進するための基調な傭兵とみていたことである。―中略―いずれにしても、現在まで、サークル詩運動=労働者階級闘争という括りで、その活動がこれまで正当な文学運動として論議されてきていない。こうした見方も是正していく必要があろう。

 

サークル詩は当初、詩を書いていくという目的のほかに様々な政治的な動機が潜んでいた。しかしその後は政治的な観点より文学の自立という点にサークル詩は焦点が移っていくのである。ぼくが考えるには、これは当然の結果なのではないかと考える。それはやはり、個という問題があると思う。つまり、詩を書くという動機の根源は、すべてその個人の内部に由来するのである。詩を書く個人の動機のすべてが、政治的なものへと結び着くことはないだろう。もちろん意識的に内容を政治的、社会的意識に変貌させていくことはあるにせよ、どうしても、文学的、芸術的要素が必要になってくるからである。ある意味、サークル詩において、そのどちらを選択するかという意味合いにおいて、いくぶんかは社会性を孕んだ詩になろうとも、政治的動機は薄らいでくるのは必至ではないだろうか。

もう一つ重要なことは、サークル詩の目的が、宮本百合子の提唱によって、一般市民に書く行為を求めたことである。そしてそれは労働者たちによって、受け入れられた。もちろん目的には、政治的イデオロギーが含まれていたという事実はあるにせよ、労働者が文学を手にするということは一大ムーブメントなことであったであろう。多くの職場でサークルができ、雑誌が作られ、詩が小説が書かれたのである。詩の底辺が広がったのである。それまで、一部のインテリゲンチャで占められていた詩の領域が、ここで一気に広まった功績はおおきいのだ。これを戦後詩史のなかに組み入れないで考えることはできないだろう。先ほどの中村不二夫著『戦後サークル詩論』「Z戦後サークル詩の評価と意義」の中から、関根弘の考え方についてこのような記述がある。

 

 関根は、サークル詩に政治と芸術の統合という高度な技術の修得を求めながら、それには段階があり、当面は書く行為そのものが大事なのだと述べている。この関根の二段階理論はサークル詩を見ていく上で重要である。なぜなら、それは現在でもそうだが、たいていの論者は、専門家とサークル詩人、言語詩と生活詩、芸術派と社会派、これをはじめから色付けし分けて考えていて、ほとんど関根のような柔軟な思考がない。―中略―専門家だけで系列化された戦後詩、そこにどれだけの歴史的な真実があるのか。私はここでサークル詩を論ずるにあたって、関根の二段階理論を尊重していきたい。

 

また、この本のなかで中村不二夫は、野間宏の考えも列挙している。それは、サークル詩人は文学愛好者であって、サークル詩人が専門家詩人になったときはすでにサークル詩人とはなり得ない、ということだ。つまりサークル詩人はサークル詩の枠から脱し切ることはない。脱したものは専門家詩人となりサークル詩人ではないという考えだ。どちらの考え方も有るだろうが、政治と文学のはざまにたって、サークル詩は変容していった。政治的なものから文学的なものへと、統合されていったといってもいいかも知れない。

現在、カルチャーセンターでの詩の講座や、各地で開かれている、有名詩人による詩の講座は、すべてこのサークル詩の後継、もしくは亜流ではないだろうか。現在では、そういうカルチャーセンターや各種講座から、多くの詩の賞の受賞者が出ていることをみてほしい。この事実とサークル詩の関係を切り離して考えることはできないのではないだろうか。だが、これはここで、ぼくが解明する問題でもないと思う。

さて、サークル詩の問題を考えてきたが、これは菅原克己が「サークル詩」や「サークル運動」に対してどのような考えを持っていたのかを知るための基本的なものだ。いままで論じてきたことを念頭に置いて、菅原克己はサークル詩に対してどのように関わり合いをもってきたかをみてみたい。

菅原克己は一九四七年(昭和二二年)に日本共産党に入党している。そして一九六一年(昭和三六年)党批判で除名処分されるまで一四年間を党員として活動してきた。日本文学学校が開校されるのが、一九五四年(昭和二九年)。その日本文学学校が新日本文学会の付属学校として運営されるのが一九六二年(昭和三七年)である。一貫して菅原は文学学校に関わり続け、その間、新日本文学会詩委員会発行の「現代詩」、新日本文学会の「文学の友」、その後の「生活と文学」、同人誌「河」などに参加している。「サークルP」が一九六五年、綴り方教室が一九六六年に始まっている。四〇代から五〇代にかけての一番精力的な時期だったとしても、すごい働きようである。

今、ぼくの手元に、一九六〇年(昭和三五年)二月の「新日本文学」(第一五巻二号)のなかの菅原克己の文章のコピーがある。タイトルは「変貌する労働者の詩」というもので、サークルで発表された詩を題材に、菅原はここでサークル詩、およびサークルについて論じている。菅原は四九歳、第二詩集『日の底』を出した後である。菅原がサークル詩をどのように捉えていたのかが如実にわかる。その文章から引用してみる。

 

サークルは組織といっても、物を自由に書くというところで人が集まったものにすぎない。それはどんなすぐれた詩人でも、過去にやってきたケースなのだ。戦後はただそれが、労組が大きくとりあげたり、労働者の解放というところで結びついたり、あるいは、戦前と比較にならぬ程の民衆の文化や芸術に対する自覚の高まりが見られるだけなのだ。それは結果としてはもちろん充分価値があり、それだけで論じられることなのだが、問題はすべて、今ペンを持って、それぞれのイメージを書き悩む小さい一人のサークル員のところまで戻ることが肝心なのだ。ぼくはサークル論をするためにサークルに行くのではなく、そこでの詩を見るために行くのだ。

 

 非常に明快というか素直というか、直截的に自分の考えを述べている文章だと思う。とくに、「サークルは組織といっても、物を自由に書くというところで人が集まったものにすぎない。」というところや「今ペンを持って、それぞれのイメージを書き悩む小さい一人のサークル員のところまで戻ることが肝心なのだ。」というところだ。

 よく考えてみれば、当たり前すぎるほど、当たり前なことかもしれない。物を自由に書く、つまりそこには政治的イデオロギーも何もないのだ。そして、物を書くために悩む、一人の人間がいるということ。詩や小説を書くことは、それだけで悩みのカタマリかもしれない。悩みを突き抜けたところで一篇の作品が生まれるのであって、悩まずに書けるのは天才しかいない。菅原は一人のサークル員のところまで戻ることが肝心だという。同じ立場に立つこと、悩みを共有し同じ目線にたって考えてあげること。そこでの詩を見るために、サークルに行くという菅原の姿勢を好ましく思う。同じく「変貌する労働者の詩」の中にこのような文章もある。

 

  ぼくがサークルについて思うことは、サークル員にとってサークルは過程にすぎないということである。それは組織としても完璧なものでもなく、文学のサークルといっても、いわゆる文学的なものではない。ただそこには作品を書きたい人、書く人がいるだけである。そして、ぼくがそこにゆくのは、ぼくも作品を書く一人であり、そこに仲間がいるからである。そして、彼らがどんなことを発見しようとしているか、ぼくらの知らない方法でどう書こうとしているのかが、何時も興味を持っているからである。百の作品を見て、その単調さを辛抱しなければならぬこともあるだろう。しかし、何時も思うのだ、詩壇とか文壇とかにない、あるひそやかな生き生きしたものにこの民衆のグループではぶつかるだろう、と。そして、それは事実ぶつかるのだ。

 

詩壇、文壇にないもの、とは何だろう。あるひそやかな生き生きしたものとは? 菅原はそれにぶつかることがあるといっている。サークルにおいて、それが見つかるといっているのだ。そのサークルは組織として完璧ではなく、文学的でもないという。そこに出かけていく人は、作品を書きたい人、なのだ。菅原が出かけていくのは、書く人間であることと、書くための方法論を見つけるためだという。作品を書くためだけの素直な心が確実にある気がする。そこには、政治的なものなどなく、金銭的な関係もなく、わずらわしい出来事も関係ない。ましてや専門家詩人になろうという気持ちなどもないかもしれない。作品を書こうとするもの、その作品を作品たらしめる方法論を考えること、すべては個人の作品に対する、飽くなき探求心なのであろうと思う。そして仲間。組織的でなく文学的でなく、では、それは仲間的とでもいうのであろうか、一種の連帯感か。一つの目標、つまり「書く」という行為において集まったひとつの共同体的なものなのだろうか。それが菅原のいうサークルなのだろうか。つづけて、「変貌する労働者の詩」から抜き出してみる。

 

サークルは運動として全国的にみたなら、概括的にもいえるだろう。しかし、その文学は個人個人の場まで戻らねばならぬ。その人たちの個性、いろんな成長の差異、努力、感性の度合、対象にふれて反応を示すあのもっともヴィヴィットな、実作者なら誰でも経験するところの作品以前のボウバクたる気持ちにまでふれなければならぬとぼくは思う。―中略―くり返すようだが実態はそこのサークルの個人個人にある。それは、その成果がどんなに幼稚であろうとも、まったく普通の作家、詩人と同じ仕事の上に立つ。ぼくらはむかしを振り返って、書き初めのころのことを思いだせばいいのだ。

 

なんとやさしい文章だろうと思う。作品はその個人の中にあって、作品を書こうと思ったその原初まで、一緒に戻って考えてみよう、といっている。菅原のすばらしさが滲み出ているとぼくは思う。「実作者なら誰でも経験するところの作品以前のボウバクたる気持ち」そこまで立ち返って考えてくれる評者が今、どこに存在するだろうか? つまり菅原自身もそうだった、作家や詩人だって、書き初め、いや作品に立ち向かうときはだれだって同じ気持ちだったじゃあないか、ということなのだ。この「変貌する労働者の詩」という文章は、引用の詩作品も数編あり、その解説もおこなっているが、最後は次のように締めくくられている。

 

ぼくはサークルの人たちに関しては楽天的だ。ぼくはサークル論議のなかで、サークル外の人たちが、「組織づくり」「人間づくり」の対象として、サークルを問題にしているのを、何度も読んだことがある。しかし、組織をつくる人はぼくらではなくて、実にそこの部署にいる人たちなのだ。また、誰が自分以外の人のところに行って、そこの人の「人間づくり」をすることができよう。ぼくらにできることは、ぼくら自身がそこにでかけ、文学者としての対等の地位で、詩なら詩の話をかわすだけなのだ。そこで彼らは何かその不足しているものを取りだすことが出来るだろうし、またぼくらも、彼らから得るものを得るだけだ。そして、サークルの人たちおよびぼくらは、そういう仕事に値するだけの未来を持つ。ぼくは何時でもそれを確信しているのだ。

 

 菅原の健全たる文学精神がここに表れていると思う。菅原は先にも書いたように、日本共産党にも入り、思想的には完全に左翼であろう。ただそれは、政治的な思想は左翼ではあるが、文学にあてはめて考えてみるとまたどこか違うものなのだろうとぼくは考える。この文章のなかでも先に論じてきたように、サークル詩運動はある意味、政治的策略のもと、労働者に詩を書かせ国の機構にも変革を及ぼしていく運動体として機能することを予想し、期待していたに違いない。新日本文学にしてもある意味ではそうかもしれない。だが、文学はもともと個人に帰するものである。最終的には個人の問題になってくる。菅原はその個人を尊重してきた。サークルにおいて勉強し、専門家詩人になるとか、ならぬとか、そういうことは問題にしなかった。常に作品、菅原にすれば、詩をいかに書くか、ということだったのだろう。新日本文学がサークル詩を推奨し、会社内で組織が結成され、サークルが出来上がる。しかし、そこでできあがる作品は、素晴らしい国家を作るためのものでもなく、革命をもたらすものでもないことがよくわかっていたのだ。文学はもともと個人の中で芽生えるものであり組織のためのものではないからなのだ。

 詩壇とか文壇とかにない、あるひそやかな生き生きしたもの。菅原克己は常にそれを求めていたに違いない。ぼくにいわせれば、それこそが、現在の詩に足りないものなのではないだろうか。