詩集紹介&作品抄 本文へジャンプ
詩集&詩作品抄

第一詩集

「動きはじめた小さな窓から」  
 1993年 ふらんす堂 より。

第8回福田正夫賞受賞







五月

 

 

 

いつも空を指さしていた

空には形のよい雲が浮かび

誰かがその雲は幸福の雲だと呼び

「触れるとシアワセになれる」という噂だった

 

五月になるとみな野球帽をかぶった

帽子のひさしには太陽がひっかかり

頭の上では時がとまり

いつもぼくらは永遠に遊んでいることができた

 

我を忘れて遊ぶこと

つまりそれは走り続けること

体と速度と脈拍は次第にあがっていった

 

雲はいつまでも成長する彼方にあり

我らの五月はみにくく積みかさなり

いつしか矢をひく弓のように重くなっていった





動きはじめた小さな窓から 

 

 

だれもいない駅で

だれかに声をかけられた

ふりかえると

発車の笛がなり

扉が閉まろうとしていた

プラットホームと車輛のあいだには

境界線のような黒い隙間があり

それをまたいで列車に乗った

動きはじめた小さな窓から

ちぢんでいた手を不意に突き出し

おおーい!と言って

そのままおもいっきり手を振った

やはり駅にはだれもいなかった

四人掛けの席に一人で腰かけたとき

窓で四角く区切られていた空の青が

少しずつはっきりとしてくるのを感じていた

さきほどわたしはあの駅で

わたしの大事な人と話をしたのを思いだしていた





枯 芝 

 

 

立ち上がって

ズボンについた枯芝をはたいた

陽はもうじき沈むだろう

ぼくは帰るために歩かねばならないのだ

すれ違う人ごみの中に

偶然むかし好きだった人を見つけた

もちろんむこうはぼくに気がつかなかったし

ぼくはぼくで話しかけることもできなかった

何度か立ち止まってはたいても

枯芝はぼくのズボンにまとわりついていて

うまく捨て去ることができなかった





第二詩集

「外野席」 
 1997年ふらんす堂  より。

第30回横浜詩人会賞受賞
 







歩いて手紙をだしに行く

 

 

ポストまで歩いて手紙をだしに行く

家をでて左に曲がり

十字路を右に曲がり

二つめの信号を左に曲がるのだ

書かれねばならなかった

文字の束を

手に持って

決して短い道のりではないが

ぼくは歩いて手紙をだしに行く

犬がむじゃきに片足をあげている

太ったおばさんが一生懸命に自転車を漕いでいる

若葉が風にふれて何かしきりに訴えている

死を考えるのは

あたたかい陽をあびながら

生きているものを見たときだ

あと倍ぐらい歩くと

ぼくは確実にポストにつくだろう





バナナワニ
 

 

ワニのなかに

バナナワニという種類がいる

と本気で思っていた

 

伊豆熱川のバナナワニ園で

ぼくは探しに探した

けれど

どこにもいない

 

むかしぼくは黄色い絵の具を一本

どこかでなくした

(いや、なくしたのではなく盗まれたのかもしれないけど)

たぶんそれはこの狭い教室の中に

あるはずなのだが

カバン

上履きの中まで

だけど、ない

 

黄色がなくなってしまったので

どうしても

きみの顔を明るく描くことが

できなかった

 

ぼくはなんとかして

見つけないと

きみがぼくから

逃げてしまうのではないかと思ったから

でも、あらわれなかったんだ

 

バナナワニなんて

いるわけないでしょう!

バナナの木陰で

きみとワニが明るく笑っている





夜空に入る 

 

 

酔いざめの頭の痛さをこらえながら、公園の近くにさしかかる。とその時、キイヨー、ギイヨー、とブランコのきしむ音が聞こえてきた。真夜中の空からは、師走の霧雨が、あたりいちめんに振りまかれているようだった。いまごろ、公園に人などいるはずがない。わたしは酔った頭をひっこめるようにして、おもわず身震いした。街灯はグニャリと黄色い光を放っている。

 

しかし、たしかに誰かが公園にいて、ブランコをこいでいる。少し酔ってはいるが、わたしの耳はおかしくない。アベックだろうか、それとも酔っぱらいだろうか、まさか小さな子供ではあるまい。公園は冬枯れの樹で囲まれていて、その枝は節くれだった指のように見える。霧雨を含んだ指は、時間をきしませ、公園を包みこんでいるようだ。わたしは誰がブランコをこいでいるのか、むしょうに知りたくなり、小走りになる。キイヨー、ギイヨー、ブランコの音は、胸の中で肥大する。

 

いつも走りながら、公園の低い門を通過した。目指すものはブランコだった。誰にもなにも言わず、必ず一人でなければならなかった。たぶん、その頃のわたしは、自分だけが空と同化できるのだと、それだけを信じていた。わたしは自分が少年であるということさえ信じていなかったのかもしれない。ブランコに乗り、おもいっきり近づいてくる空の中に、わたしは何度も何度も一人で突入していった。

公園の中は、街灯の黄色い光でグニャリとしていた。砂場の砂山は、湿り気をおびながら崩れはじめていた。誰かが捨てた空き缶から、腐ったジュースがユラリと流れ出ていた。ステンレスのすべり台は、くもりガラスのように濡れていた。夜空は何層にも重なりあい、溶けかかっていた。少年は、ブランコに一人で乗っていて、必死にこいでいる。キイヨー、ギイヨー、キイヨー、ギイヨー、と音をきしませながら




第三詩集

「今、ぼくが死んだら」

 2002年 思潮社 より。

第12回丸山豊記念現代詩賞受賞








石を。

 

谷を下って

胸の奥から

せせらぎがあふれだしてきたら

靴の紐をていねいにほどき

ズボンの裾をまくり

靴下をぬぎ

素足になろう

早春の路草の

寒さがちぎれた

水に浸ろう

そしてぼくはぼくのいとしい人の

手の大きさを

頭のなかで

彫刻し

その人が両手で

ハイッ、と包んで持ち上げることができるほどの

石をさがすのだ

石はなるべく

まんまるなのが

いい。




今、ぼくが死んだら

 

 

 

今、ぼくが死んだら

と思いながら起きあがった

ブラインドの羽根を人差し指で押し下げて外をみる

斜めになった陽射しが入る

午後なのに子どもたちの歓声がない

救急車のサイレンが遠くで鳴っている

時計の秒針が動く

スヌーピーのぬいぐるみがカタッと動く

お腹を押すと笑いだす玩具を遠ざける

タオルケットをかけなおしてから移動する

別の部屋に入る

ドアは閉めない

ほっとする

音楽はやめておく

大好きな詩集を手にとる

外は木枯しだが、中は暖かい、そんな詩集だ

髪の毛を梳かしていないことに気づく

顎の先にうっすらと髭が伸びているのがわかる

詩集を一冊読む

いいなぁ、と思う

どのくらいの時間がたったのだろう

外で子どもたちの声がひびきはじめた

詩集をもとの場所にもどす

先ほどの部屋へ様子を見に行く





黄金の砂

 

 

二本の足で

自分の体をささえる

右足を前におくりだす

左足を前にあずける

そうしてほんの少し移動する

右手が宙に浮く

左手が空をきる

バランスをとっている

頭がおもい

数メートルで尻をつく

見あげる

ぼくの顔を見ている

眼があう

その眼がほそくなり

前歯二本がまぶしい

座りこんだまま

ふいに

手を砂にうずめる

指がなくなる

手の甲もみえなくなる

やがて小さな握りこぶしがあらわれる

ふたたび

二本の足で

ようやく自分の体をささえる

右足を前におくりだす

左足を前にあずける

手が握られているので

よろけそうになる

握っていた手をさしだす

ぼくは彼の眼を見ながら

ありがとう

と言って黄金の砂をもらう





第四詩集

「にぎる。」 
 2007年思潮社 より。








やさしい木陰

 

 

一本の樹の下に立っていた

耳の奥がツンとして

汗が水滴をつくって

のどが渇いて

でも休むつもりじゃなかったんだ

坂のてっぺんにある出張先

長い石段を

一歩一歩のぼって

やっと中腹まで来て

折れまがった踊り場に

一本の樹とやさしい木陰を探した

早くしないと午後からの

大切な会議におくれちまうけど

心のどこかで

ちょいと休みなよ、おじさん

と誰かが言ってたんだ

くるりと風が巻いて

シャツの襟を吹き流した

ぼくはハンカチを握りしめ

汗をぬぐった

見渡すと

下には小学校が見えて

だれもいない校庭は異様に静かで

ただスプリンクラーが

水しぶきをあげていた

校庭の外側をかすめて

髪の長い女性が

キラリと光るまぶしい自転車に乗って

走っていくのが

見えた

音のない世界を涼しく切りひらきながら





夜から朝へ

 

 

くぐもった声の裏側で、ぼくは眼を覚ました。

まず腕を見た。それから腹を見た。そして足を。どれも自分ではなかった。すべてが硬い殻におおわれていた。それもずいぶんと黒い。立派なものだ。指というものがない。両脇に三本ずつ足がのびている。節から節へとのびた先端には、二股に分かれている鉤爪がある。記憶の中の自分の足とは、異なる足があるということに悲しみを覚えた。カフカという作家が書いた小説、「変身」が浮かんだ。きっとあれは現実のことなのではないかと思った。そしてぼくは頭のなかで考えている。ぼくは・・・という言葉使いより、俺は・・・という言葉を使いたくなったと。俺は強くなった。俺はみせかけの強さに魅かれた。「こいつぁいいや!」笑いたかった。笑ってしまいたかった。笑うしかなかった。だが声はでなかったのだ。声を出そうと思うと、首や胸からギシギシと妙な音だけがした。暗闇のなか、臭いや気配には敏感になれた。頭のほうから自然に感じ取ることができる。不思議な感覚だ。怖くはないし、もう、眠りたいとも思わない。眠ってしまったら、またなにもかも昨日と同じになってしまうような気がして。未練など感じなかった。書物も言葉もいらなかった。そう思えると急に心が平らになった。心地よくもなった。匂いを感じる。甘酸っぱい匂いだ。これは雌の匂いだ。しがみついている場合ではない。背中に力をいれた。硬い殻が二枚開き、薄い羽をおもいっきり開いた。

沈み込むような雲がある。そのすきまから光がもれる。

どんよりと頭も重いが

俺は朝がきた。





泡がでている

 

――Yさんに

 

 

こうして並んで座って

遠くを見ていると

なんだかとてもなつかしい匂いがして

ここに来て眺めていれば

きっと思いだす

と言ってくれていたのだけれど

何を忘れていたのか

それさえぼくには思いだせないのだが

白髪になってもぼくは染めたりしないよ

薄くなってもカツラは絶対つくらないよ

ポツリと言うと

年相応ねと言う

ぼくらの大好きな詩人の詩にあった

白い雲があって

蝶がとんでいて

(貨物船は見えなかった)

はるか彼方に遠い忘れ物だけが見えていて

ぼくは以前ここに来たことがある?

 

プルリングに指をひっかけて折りかえす

泡がでてくる

手に持って振ってきたからだろうか

泡がでている





第五詩集

「ゆっくりとわたし」 
 2010年 思潮社 より。








走るのだ、ぼくの三船敏郎が

 

 

ねえ、ちょっと聞いてよ。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。どこまでも肩を上と下に揺すりながら、そのたびに息が、土砂降りの雨の中に消えていくんだ。肩から胸にかけて肌もあらわになって、いたるところに泥までついていて。走るのだ、三船敏郎が。剣を振り回しながら、雄叫びをあげながら。眉毛の一本一本には神経が入っていて、そのどれもがビンとしている。額にも神経はそろりそろりと生えそろっていて、そこには電流が走っている。光がどこからか流れてくるが、それは剣から飛び出しているのではなく、眼の底から発射されているのだ。走るのだ、三船敏郎は。腕にさえ血の筋が盛り上がって、胸は硬くなり首の筋が浮き上がり歯と歯はしっかりと合わされつつ、それでも、息は弾丸のように空気中に、はげしい雨の中に、打ち込まれていく。太腿は、肉を大きく盛り上がらせ、足首にかけての筋はおそろしいほどに伸びきっている。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。走って、走って、走り抜けて、息を四回も吐き続け、一度だけおもいきり吸い込んだ。一軒の飯屋がある。ひなびた飯屋である。三船敏郎が再び走る。飯屋に向かって。戸を開ける。土間に踊りこむ。炊事場に回る。大きな飯炊き釜を見つける。大きな飯炊き釜の重たいふたをあける。そこには真っ白な飯がある。雨と汗と筋肉が盛り上がる腕は、大きめの丼をがしりと左手でつかむと、へらで飯を丼に盛り付けた。どんどんと盛り付けた。もう、これ以上は入らないだろうと思うまで押し込んだ。そして、割り箸を口にくわえると右手で箸をふたつに剥ぎ取った。眼が白いものを見つめる。まず咽喉が上と下に動く。と思うが同時に、口が開かれ、飯が投げ入れられる。次から次に、白米は口の中に放り込まれる。丼の飯があからさまに少なくなっていく。額には滲み出るものがあって、だがそれを拭おうとはしない。咀嚼する口元が、動く唇が、ぎらぎらとする眼が、動き続けている。咽喉がクッと一回鳴って、また再び動き始めた。走るのだ、三船敏郎よ。誰かのもの、じゃなくって、ぼくの三船敏郎の。動き続け、走り続けた三船敏郎の。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。





足袋とUFO 

 

 

ちょっと不思議な話です。足袋を履いたのです。運動会に。小学校の秋の大運動会に白足袋を履いたのです。足が軽くなるからでしょう。それに素足じゃないので、ちょっとした危険防止にもなります。足に固定する金具「こはぜ」はついていません。そのかわり、足首の部分にゴムが入っていて、するりと足が入れられるようになっています。底も布生地。運動会のときに一日だけ履く足袋。一日で擦り切れる足袋。ぼくはその足袋を小学校一年から三年まで三回履きました。三度目の時はゴム底になっている地下足袋でした。不思議な話はここからで、ぼくの同年代にこの運動会の足袋を尋ねてみましたが、誰一人として知らないのです。かえって笑われる始末。さらに不思議なのは、ぼくよりも上の世代の人たちも運動会の足袋の記憶はないというのです。もっと不思議なのは、ぼくの同級生さえも、ぼくは靴だった、という答えです。足袋は運動会の前日ぐらいに、業者が売りに来ていたのです。学校の講堂の隅で、大量の白足袋を拡げて。ぼくたちは並んで足袋を買ったはずなのです。業者までいて、皆で一緒に買ったのに、誰一人として知らないとは、ちょっと不思議な話なのです。不思議な話はもう一つあって、ぼくは運動会の帰り、大山の頂方面から不規則な動きをする飛行物体を見た事があるのです。鳥ではなく、飛行機ではなく、ロケットでもなく、流れ星でもないもの。空を飛ぶ物体としてはあきらかに不自然な動きをしているもの。ぼくが目撃したものは白い光を発して、放物線を描くように回りながら移動し、スッと消えていったのでした。運動会の帰りだったので、午後の三時頃のことだったでしょう。打ち上げ花火だったとは考えられず、宇宙から落下してきた宇宙ゴミだったのでしょうか。それにしても不思議なものを見たもので、これは絶対にぼくのUFO体験だと思うのです。またそれが、運動会の帰りだったことで鮮明な記憶になっているのです。足袋の話をすると、皆が皆、笑いながら知らないを繰り返していますが、UFO体験の話をすると、あっ、それならぼくも経験があると、数人に一人は必ず得々と、自らのUFO体験を語りだす人がいるのです。ぼくにとって、これが一番不思議な話なのです。




レンズ山 

 

 

戦車道路を自転車で行くんだ。レンズ山を目指して。レンズ山は陽の光が当たると、ときどきギラリと光るので、遠くからでもわかるときがあるよ。ぼくらはレンズ山からガラスのかけらを拾う。きれいな三角すいの形になったのがいいよ。太陽の光が通るとき、ガラスのかけらは素晴らしいレンズになる。光は中で屈折して虹色になるんだ。小さな七色の光。プリズム。手の中に納まる三角すいのレンズ。だれが何のためにガラスの山を作ったか、それはだれも知らないけれど、ぼくらにとっては宝の山。だけど、そこに行き着くまでにはかなりの距離を自転車で走らなければならない。それも、でこぼこの戦車道路を。ガタガタガタと走って行く。キャタピラーの跡がずっと続いていて、走りにくいんだ。固い土が出っぱっていて、自転車には都合が悪い。おまけに水たまりもあったりして、戦車道路は戦いの道のようだ。ぼくらの自転車は揺れる。友達の自転車は三段ギヤサイクル。ぼくのは変速ギヤなんてついてない。それでも負けずに走るのだ。レンズ山を目指してね。ここは、あの頑丈な戦車が、米軍の補給廠まで、何台も何台も通っていったのじゃないか。重い車体が、柔らかい土を押し下げながら、何台も何台も連なって通っていったのじゃないか。だからこんなにでこぼこなのじゃないか。実際にぼくらは戦車が走っていったところを見たことはないけど、でも、戦車道路にキャタピラーの跡があることを知っているんだ。戦車道路は隣町の高台を走る。ときおり、眼下にぼくたちの住んでいる町が見渡せる。ぼくらはレンズ山に行き着くまでのあいだ、小さな木陰で休むんだ。空には白い雲。綿アメのような白い雲。透き通った空。サイダーのように透き通った空。どこまでも続いている空。戦車道路。まっ昼間だというのに、ぼくらの町には声がない。咽喉がない。首がない。そんな不完全な、ぼくらの住む町が大好きだ。ぼくは虹色の光をだす、小さなガラスのかけらがほしくて、ここまできた。レンズ山まであと一息だ。友だちがぼくに声をかける。さあ、行こうぜ、カナちゃん、と。ぼくはいつまでも、その言葉を心の箱にしまっておく。そして、ちょっぴり苦しくなったときに、この戦車道路で休んだことを想い出し、心の箱から取り出して、自分で自分に言いきかせるのさ。さあ、行こうぜ、カナちゃん。





ゆっくりとわたし 

 

 

空に残っている、青い色の輝きが失われようとしている。暮れかかった太陽の光が、遠くの山並みに映えている。闇が世界を支配する、その入れ替えの時刻。明るさから暗さへ生まれ変わるとき、空は苦しさのあまり、悲鳴をあげる。それが夕焼けだ。ぼくはその夕焼けを何度見たことだろう。そして何度、苦しさの悲鳴をすばらしい自然の摂理だと思ったことだろう。わたしは夕焼けを見るたびに、人の死を想う。人の死は尊いものだと思う。だからこそ、今自分が生きているということに幸福を感じる。今日も、職場から外に出てみると、山並みから空に向かって悲鳴が聞こえた。たぶん、この狭い日本のなかで、ゆっくりと夕焼けを見る暇などある人は少ないだろう。ましてや、自分の過去をゆっくり振り返って、たどることなどしている時間はないだろう。働き、怒鳴られ、失敗し、自分を責め、くやしいと感じているばかりではないだろうか。だが、どうだろう? ゆっくりとわたし、もういちど、ゆっくりと。自分を想い出してもいいのではないだろうか。人のためにではなく、自分のために。自分の暮れかかった太陽の光をもう一度、想い起こさせる時間をつくってもいいのではないだろうか? 父親の顔を思い出せるか。母親の顔は。母親の若かった頃の顔だよ。兄弟の幼かった時のしぐさは。従兄弟はいるか。名前を思い出せるか。初恋の人の、幼い顔の中の愛らしい瞳を。それらのことのひとつひとつを。他人にはどうでもいい、そういうちっぽけな事柄の、細々とした宝石たちを。闇が迫ってくるまで白いボールを追いかけたとき、あの時にだって、苦しさの悲鳴のような夕焼けは空を覆っていたはずだろう。いったい、このわたしは何をしてきたのか、ゆっくりと想い出すのだ。誰からも評価されることではないし、誉められることでもないけれど。想いだしたなら、おもいっきり泣いた回数を、はじき出してみてごらん。それから笑った回数も。無駄なことのようだけど、もしかして泣いた時間や笑った時間が、わたしが本当に生きた時間なのかもしれない。わたしは今日、ここに立って、遠くの山並みを見ながら夕焼けが美しいと想う。そして、空は苦しさのあまり悲鳴をあげているのだと感じた。むかし、わたしは「夕焼けが美しい」などとは詩に書けなかった。だが、今、こうやって夕焼けの詩が書けることに、ささやかな幸福と誇りを持ちたい。だれも誉めてなんかくれなくてもいい。わたしは、詩を書く人間であったことだけに満足だ。それはわたしがほんの少し、大人に近づいたからだろうか。ここで、こうして、こうやって、ゆっくりとわたし、むかしのことを想いだしながら、夕焼けを見る。ここで、こうして、こうやって、ゆっくりとわたし。





第六詩集

「朝起きてぼくは」
 
 2015年 思潮社 より。

第23回丸山薫賞受賞








台所

 

 

台所で音がする

卵を割る音

油がはぜる音

蛇口からときおり

水のでる音

音はぬくもりを感じられる距離にありながら

どうしても届かぬ場所にある

子どものときに見た

大きな樹と

小川の流れに似ていて

なにをしているの?

ぼくはきみにたずねてみて

そう、台所ですることといったら

料理にきまっているね

きみは毎日同じ場所に立ち

いつもの視線で

生活の一行を

見つける?




蓋と瓶の関係

 

 

蓋の欲望は

瓶の上に乗ることだ

ぼくは瓶の中から

ジャムをすくい

パンにぬりおわると

蓋をしめる

平均的な力を

だんだんと加える

蓋は瓶の縁を

幾重にもなめるように

合わさっていく

がっしりとかさなる

それは純粋な幸福感

子どもがきて

蓋を開けようとしても

あかない




子どもが見た怖い夢

 

 

怖い夢をみたという

どんな夢だったのとたずねると

お父さんが口をあけて寝ている夢だという

そんな夢

何も怖くはないと思うのだが

心の奥底にある

見たくもないものを

不意に見てしまうと

どんなものでもすべて怖いかもしれない

朝の陽の中

器の中のヨーグルト

スプーンですくって

口の中に入れることさえ

現実であるか夢であるのか

いや、これはたしかに現実なのだが

夢を見ているときは

いつも不穏な重みが頭の中を支配していて

それはすべて現実である

口をあけて寝ている姿

怖い




母さんの、ぽん

 

 

ぼくの胸を

ぽん

リズムをつけて

ぽん ぽん

ずっとずっと

たたき続けてくれる手があった

 

ぼくはなぜかねむれない

ぼくはこわくてねむれない

目の底に残っているから

耳の奥に渦巻いているから

 

そんなとき蒲団の中で

ぼくの胸を

ぽん

やさしくたたいてくれる

母さんの

ぽん

ゆっくりと眠るのさ

 

明日がくれば

明日になるよ