2006年度 文学に親しむつどい

   日 時…2006年1月23日(月)午後1:30〜3:00
場 所…芦屋市民センター401号室
   講 師…堀 信夫(神戸大学名誉教授)
   議 題…俳句・もう一つの国際性

俳句・もう一つの国際性

@話の便概
  1 「俳」という字の意味
  2 俳諧歌の登場
  3 俳諧は滑稽なり・『史記』の滑稽伝
  4 俳言という言葉
  5 文人趣味と漢詩文
  6 俳句の国際性
 
A「俳」「優」「諧」の字義

  俳  ハイ  たわむれる
  解説 形声。音符は非。非に排(おす)・徘(さまよう)の音がある。
非はすき櫛の形で、両側に同じように細かい歯を刻んだ櫛の形である。[説文]に「戯るるなり」とある。
それで二人並んで戯れ演じることを俳といい、「たわむれる、たわむれ、おどけ」の意に用いる。
滑稽な動作をして舞い歌うわざおぎ(役者)を俳優という。
滑稽を主とする俳諧連歌の第一句(発句)が独立し、五・七・五の十七音節からなる短詩が俳句である。

  優 ユウ (イウ) やさしい すぐれる
  解説 形声。音符は憂。憂は喪に服して、頭に喪章をつけた人が哀しんで佇む姿である。喪に服して哀しむ人の姿を優といい、またその所作(しぐさ)をまねする者を優という。葬儀のとき、死者の家人に代わって神に対して憂え申し所作を演じた者であろう。二人並んで戯れ演じることを俳といい滑稽な動作をして舞い歌う「わざおぎ」、役者を俳優という。優のうれえ悲しむ姿、動作から「やさしい、しとやか、まさる、すぐれる、ゆたか」の意味にもちいられるようになったものであろう。

  
音声の和らぎあう、俚俗の耳に叶い面白く感じること。

B『古今集』俳諧歌
  1011 梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭(いと)ひしもをる  読人しらず
  1049 唐土の吉野の山にこもるともおくれむと思ふ我ならなくに  左のおほいまうちぎみ
  1061 世の中のうきたびごとに身を投げば深き谷こそあさくなりなめ  読人しらず
  1062 世の中はいかにくるしと思ふらむここらの人にうらみらるれば  在原元方

 『万葉集』戯笑歌
     痩せたる人を笑う歌二首
  3853 石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫せ(めせの反なり)
  3854 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るな
   右、吉田連老、字は石麻呂という。所謂仁敬の子なり。その老人となりて、身体甚く痩せたり。これに因りて、
   大伴すくね家持、聊かにこの歌を作りて、以って戯笑を為す。

C『俊頼髄脳』(藤原俊頼)
  次に俳諧歌といへるものあり。これよく知れるものなし。又髄脳にも見えたることなし。古今についてたづぬれば、ざれごと歌といふなり。よく物いふ人の、ざれたはぶるゝが如し。(下略)

D『奥義抄』(藤原清輔)

E「あはれ」と「おかし」
  あはれなり(形動)@感慨ぶかい。A趣がある。B悲しい。Cかわいい。D尊い。
〔現〕@かわいそうだ。Aものさびしい。
【解説】「あはれ」は「ああ」と「はれ」との二つの感動詞が合わさったもので、すべて「ああ」と感動の声を発する状態をいう。しみじもとした情感に多く用いるが、現在のように悲哀の情に限定されてはいない。
  をかし(シク形)@興味がある。おもしろい。Aふぜいがある。趣があるBすぐれている。C美しい。
〔現〕こっけいだ。へんだ。
【解説】強く興趣を覚えるさまを形容する語る「あはれ」とともに平安時代の代表的な美の理念。「あはれ」とほぼ同様であるが、「あはれ」が情的で、しみじみとした静的な美であるのに対して、知的興味をひく動的な明るい美。後世は知的興味の典型的なものである「こっけい」の意に用いる。
  
F『三冊子』ー「俳言」
 〔四〕俳言ということ
連・俳本一なり。心・詞ともに連歌あり、俳諧あり。心は連・俳に渡れども、詞は連・俳わかれて、昔より沙汰しおける事どもあり。『俳無言』といふ書に、「声にいふ詞、すべて俳言なり。連歌に出づる声のものもあれども、俳言の方なり。屏風・几帳・拍子・律の調子・例ならぬ・胡蝶などいふ類なり。千句連歌に出づる鬼・女・竜・虎、そのほか千句ものの詞、俳言なり。連歌に嫌う詞の、桜木・飛梅・雲のみね・霧雨・小雨・門出・浦人・賤女などの詞、『無言抄』にも紹巴の聞書にもあまた見え侍る。かやうの類みな俳言なり」

 〔四〕連歌と俳諧は、本来、同じ形式の一つの文芸である。心と言葉について見るならば、それぞれの要素において、連歌の領域のものと、俳諧の領域のものとがある。なかで、心は連歌と俳諧の双方に共通していても、言葉によって連俳に分かれるものがあり、その言葉については、昔から決められている事項がある。『俳諧無言抄』という本に、「漢字の音で読む言葉は、すべて俳諧の言葉である。連歌を発祥とする漢字の音で読む言葉もあることはあるが、それも俳諧の言葉として用いるのである。例えば、屏風・几帳・拍子・律の調子・例ならぬ・胡蝶などといった言葉の類である。千句連歌で用いられている鬼・女・竜・虎など、千句連歌のみで用いられる言葉も、俳諧の言葉として扱うのである。連歌では嫌う桜木・飛梅・雲のみね・霧雨・小雨・門出・浦人・賤女の類のような言葉は、『無言抄』や紹巴の聞書類にたくさん見える。これらもみな、俳諧の言葉である」と記されている。

G正式連歌と畳字連歌
 夢うつつともわかぬあけぼの月に散る花はこの世のものならで         心敬
 心細きは老いが身の秋夜な夜なの空にかけ行く月を見て            能阿


真実の花とは見えず松の雪明春さこそつぼむ冬梅
催促かしての遅参の春の雨所在の外に梅や散らん

H連歌の発句・俳諧の発句   
  
   連歌の発句
    天の戸を春立出る日影かな       専順
    袖にみな時雨をせきの山路かな    宗祇
    つみのこす花を春野のかたみ哉    宗伊
    雪ながら山本かすむ夕かな       宗祇
    梅いづこ匂いは知れる袂かな      賢仲
    薄雪に木の葉色こき山路かな      肖柏
    山は雪いくへ汀のうすこほり       宗祇
    秋の色に風もすゝふく山路哉       宗祇
    涼しさや一夜をまたぬ秋の風       兼載

  俳諧の発句
    名月や池をめぐりて夜もすがら      芭蕉
    初雪や水仙の葉のたはむまで      芭蕉
    風流の初やおくの田植えうた       芭蕉
    山吹は宇治の焙炉の匂時         芭蕉
    金屏の松の古さよ冬ごもり         芭蕉
    八九間空で雨ふる柳哉           芭蕉
    六月や峯に雲置く嵐山           芭蕉
    釣鐘にとまりてねむるこてふ哉      蕪村
    さみだれや大河を前に家二軒       蕪村
    鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉       蕪村
    大とこの糞ひりおはすかれの哉      蕪村
    雪とけて村一杯の子供哉          一茶
    有明や浅間の霧が膳をはふ        一茶

  俳句
    鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる      楸邨
    遠足や出羽の童に出羽の山        波郷
    鎌倉を驚かしたる余寒あり         虚子
    寒鯉はしづかなるかな鰭を垂れ      秋桜子
    くろがねの秋の風鈴鳴りにけり      蛇笏
    さみだれのあまだればかり浮御堂    青畝
    ぜんまいののの字ばかりの寂光堂    茅舎
    頂上や殊に野菊の吹かれ居り       石鼎
    夏草に機関車の車輪来て止る       誓子
    万緑の中や吾子の歯生え初むる     草田男
    湯豆腐やいのちのはてのうすあかり   万太郎

I談林俳論書『俳諧蒙求』(岡西惟中)
荘子一部の本意これ俳諧にあらずといふ事なし。(中略)是かの大小をみたり、寿夭をたがへ、虚を実にし、実を虚にし、是れなるを非とし、非なるを是とする。荘子が寓言これのみにかぎらず、全く俳諧の俳諧たるなり。しかあれば、おもふまゝに大言をなし、かいてまはるほどの偽をいひつゞくるをこの道の骨子とおもふべし。
(にがにがしくもおかしかりけり我がおやのしぬる時にもへをこきて)
又うたの道の政のたすけとなれる事は古今の序に貫之が書るなり。されども、俳諧の本意は格別の事也。ここが右にあまた申侍る荘子が寓言。老子の虚無底俳かいにある所なり。おやのしぬる時へをこきてよしたる作為更にとがむべきにあらず。(中略)しかあれば荘子らが道におゐての俳諧師なり。俳諧は常をやぶり俗をみだるのこと葉なれば、もしある前句に到りてはおやのしぬる時へをもこきけるよと作意すべし。かゝる心をさとらねば、連歌にひとしくていつまでも俳諧といふものにはらぬ也。(『俳諧蒙求』)

J俳諧漢詩文調
  乞食(こつじき)の翁
天和元年末の作であろう。冬の句が三句ならんだあとの歳暮の句が天和二年の歳旦帳に見えるからである。
深川の草庵の庭に李下が芭蕉を植えたのは天和元年春である。この句文を懐紙に記した芭蕉の真蹟(小林豊広氏蔵)を昭和三十六年八月号『俳句』に井本農一が写真とともに紹介した。本文はこれに拠る。

   窓含西嶺千秋雪(まどにはふくむせいれいせんしゅうのゆき)
   門泊東海万里船(もんにははくすとうかいばんりのふね)
                      泊船堂主  華桃青
 我其句を識て、其心ヲ見ず。その侘をはかりて、其楽をしらず。唯、老杜にまされる物は、独多病のみ。閑素茅舎の芭蕉にかくれて、自乞食の翁とよぶ。
   櫓声波を打てはられた氷る夜や涙
   貧山の釜霜に鳴声寒シ
     買水(みずをかう)
   氷にがく偃鼠が咽をうるほせり
     歳暮
   暮〃てもちを木玉の侘寝哉

  乞食の翁
   窓ニハ含ム西嶺千秋ノ雪
   門ニハ泊ス東海万里ノ船
               泊船堂主  華桃青
 深川のわが草庵から見える光景はちょうどこの社会の詩のようである。とは言っても、実は自分はただその詩句を知っているというだけで、杜甫のほんとうの心持はわからない。その侘びだけはおしはかることができても、侘びの奥にある楽しみを知ることはできない。自分が、杜甫にまさっているものは、ただ杜甫よりもなお多病であるという点だけである。粗末なあばら家の芭蕉の葉かげにかくれて、みずからを乞食の翁と呼ぶのである。
   櫓声波を打てはらわた氷る夜や涙  
(寒夜、ひとり深川の草庵にあると、櫓が波をばさと打つ音が聞こえ、はらわたまで氷る思いである。不覚にもふと涙がこぼれる。季語は「氷る」で冬)
   貧山の釜霜に鳴声寒シ
(昔、豊山の鐘は霜の夜に鳴ったというが、この貧山、深川の草庵では鐘ならぬ釜が、からのまま、寒々と霜夜に鳴ることである。季語は「霜」「寒シ」で冬)
    水を買う
   氷にがく偃鼠が咽をうるほせり
(買い置きの水も氷ってしまった。それを割って氷の一片を口に入れ、のどをうるおしたが、わびしくもほろ苦い。『荘子』のどぶねずみーもぐらもちともーにも似て、大望も野心もなく、一片の氷で満足する小さな自分である。季語は「氷」で冬)
    歳暮
   暮〃てもちを木玉の侘寝哉
(年も暮れに暮れて、そちこちから餅つきの音がこだまして聞こえてくる。自分は餅をつくこともなく、ただその音を聞いて、草庵にわびしく寝ることである。季語は「餅」で冬)

K『本朝文鑑』(各務支孝)
昔より詩歌連誹の四つありて,詩歌にも文章あれば、連誹にも文章あり。(中略)されど連歌には文章の筆格をたてず、おのづから和歌の家にせいせられて、源氏、狭衣のぬめりをつたふ。連歌はいまだ文格あらずともいはむか。今や俳諧の文法は、はじめて芭蕉の筆頭より出で、詩歌連誹の姿をわかち、風賦雅頌の体をそなふ。さるは和漢の文法に姿情のふたつをしればなり。

第一には文章の虚実をしるべし。教書紹状の理論にはあらず。
第二には文章の起結をしるべし。一篇の断続たしかならねば埒なし。
第三には二句の長短をしるべし。句読の法にかなはざれば読みがたし。
第四には仮名と真名との配りをしるべし。
第五には俳諧の筆格をたてて、歌人・連歌の跡をおはざるべし。(『本朝文鑑』序)
                              
                                                            2006.1.23(金)