本尊認定権について

今回の創価学会の会則変更に関して、私のところにも、いくつか質問が寄せられたので、概括的に、私の考えを述べたい。質問の趣旨は、1、創価学会に本尊認定権があることを教義的にどのように正当化するのか、2、創価学会の本尊は、弘安2年の本尊を書写した本尊なのに、その本尊を受持しないと決めながら、それを書写した本尊を受持するというのは納得できない、ということにまとめられそうだ。
これらの質問に関しては、創価学会が日蓮正宗の信徒団体であった時代には、日蓮正宗の教義を受け入れていたために、本尊書写権は日蓮正宗法主のみに属する権限であり、同時に、出世の本懐論との関連で、弘安2年の戒壇本尊が日蓮の出世の本懐であり、この本尊との宗教的関係を持たなければ、たとえ日蓮の真蹟本尊であっても、功徳は無いという教義を受け入れていたということが背景にある。日蓮正宗のこの教義に基づいて、創価学会の本尊授与権に関して、批判を加えたのがネットに掲載されている、法華講連合会の機関紙大白法掲載の「創価学会『ニセ本尊』破折100問100答」という文書である。
今回の会則改正は本尊授与権の延長にある本尊認定権の問題であるから、この批判を検討するなかで、正当化の問題をまず考えてみたい。
「創価学会『ニセ本尊』破折100問100答」の中で、本尊授与権に関して批判を加えているのは、「第七章 御本尊の書写・授与について」であるが、そこでの議論を検討していこう。

1 「奉書写之」の解釈

日蓮正宗の法主が書写した曼荼羅の左下には「奉書写之(之を書写し奉る)」(ちなみに、日興上人御本尊集編纂委員会編『日興上人御本尊集』によれば、日興書写曼荼羅には「写之」「書写之」と記載されているもの、あるいは何も書写情報を記載しないものがあるが、「奉書写之」と敬語表現を使用しているものは現存する曼荼羅の中には一つもない)とあるが、「創価学会『ニセ本尊』破折100問100答」では「之」を「本門戒壇の大御本尊」と解釈している。つまり「之」は書写される、手本となった本尊を指していると解釈しているのである。だがこの解釈が唯一の解釈であるわけではない。
日蓮真蹟曼荼羅(立正安国会編『日蓮大聖人御真蹟御本尊集』)と日興書写曼荼羅との対応箇所を検討してみると、讃文、授与書、年月日などの対応箇所を除外すれば、日興書写曼荼羅の「書写之」に対応する部分は、日蓮真蹟曼荼羅のNo.1の「相州本間依智郷 書之」、No.2の「於佐渡國圖之」、No.13の「甲斐國波木井郷 於山中圖之」、No.16の「甲斐國波木井郷於 山中圖之」という作成情報に関する部分と思われる。曼荼羅作成に関して、日蓮の場合は「図顕」、日興の場合は「書写」、日蓮宗各派では「揮毫」という表現が使用されているようであるが、日蓮の真蹟曼荼羅には「書」「図」の表現しかない。この場合「図之」「書之」という表現で「之」が指示する対象は、当の図顕された本尊である。そのように考えれば、日興書写曼荼羅の「書写之」の「之」も書写の手本となった曼荼羅ではなく、書写された当の曼荼羅を指示すると解釈する可能性が生じる。
この解釈が妥当だと思われる理由は、日興周辺で作成された『富士一跡門徒存知事』には「御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由諸方に其の聞え有り所謂日向日頂日春等なり。 日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり」とあり、ここで「書写し奉り之を授与する者なり」の中の指示代名詞「之」は「書写し奉」った本尊を指示しており、その本尊を授与するというように読解するのが普通だと思われる。もちろんこの文は「奉書写之」ではなく「奉書写授与之」という漢文表記の書き下し文となり、「授与之」の「之」が、授与された本尊だとしても、「之」は「授与」の目的語であることは明白であるが、同時に「書写」の目的語になっているのではなく、ここでは目的語は表現されていないという読解も可能であろう。しかし「書写」の目的語が表示されていないとしても、それは表示する必要がない、すなわち「書写」と「授与」の目的語が同一だから、表示する必要がなかったと読解できよう。
日興書写曼荼羅には「書写之」という表現が、「授与之」という表現と併存している事例が数多くあるが、「授与之」の「之」の指示対象が、当の書写された曼荼羅を指示するのに、「書写之」の「之」が書写された曼荼羅ではなく、手本となった曼荼羅を指示すると解釈することは、「書写之」の文法的解釈において、「之」が手本となったものを指示するということが文法的に確立しているという思い込みがある。
しかし日興の孫弟子日大の『尊師実録』には「本尊書写事 尊(日尊)仰云大聖人御遷化之刻六人老僧面面ニ書写之給ヘリ然而無異議」「富士門流付弟一人可奉書写之」「人々面面奉書写之」「一人可書写之」と多くの用例があるが、これらの用例では「書写之」の「之」は書写の手本となった本尊ではなく、書写された本尊を指示することは文脈から明らかである。
あるいは写本の後書きに、たとえば日興の弟子三位日順の『日順雑集』には「時に延徳二天潤七月九日書写し畢ぬ。私に云く初のは日院・後は日進追て書次ぎ奉るなり。天文十四季三月廿三日之を書し畢りぬ  右筆・揚順房」とあるが、この「之を書し畢りぬ」という表現の中の指示代名詞「之」は揚順房によって書写された天文十四年の写本を指示しており、書写の手本となった延徳二年の写本情報については その前の文章で表示されている。
このような古文の「書写」の用語の文例を勘案すると、「書写之」の「之」は書写の手本となる本尊ではなく、書写された本尊を指示していると解釈するほうが古文の解釈としては普通だと思われる。

2 『御本尊七箇相承』
 
さて文法的問題はここでおくとしてそもそも「奉書写之」の「之」が戒壇本尊を指示するという解釈はどこからでてきたのであろうか。日蓮には「書写之」と表示された曼荼羅は当然のことながらないし、また本尊書写に関して教示した御書も無い。日興は多くの本尊を書写し、「書写之」「写之」と表記したが、「之」が何を指示しているかを明示した文章は無い。
日蓮正宗の相伝書とされる『御本尊七箇相承』にも、「又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」とあり、日蓮真蹟の曼荼羅を手本にして書写することを指示していると読解できるが、どの曼荼羅を手本にすべきかについては言及されていない。あるいは追加条項とされる「仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ」によれば、手本となった曼荼羅には「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なり」と書かれていたことが推測できるが、そのような讃文がある真蹟曼荼羅は数多くあるので、そこからはどの曼荼羅を手本にしたかは特定できない。
戒壇本尊には「仏滅度後二千二百三十余年」ではなく、「仏滅度後(仏滅後 訂正 2015.11.18)二千二百二十余年」とあるから、戒壇本尊が手本となったとは推測しにくい。現存する日興の書写曼荼羅はすべて「二千二百三十余年」で統一されており、「二千二百二十余年」の書写曼荼羅はない。

3 日興が手本とした真蹟曼荼羅

むしろ曼荼羅の諸尊などを詳細に検討すれば、日興が戒壇本尊とは別の真蹟曼荼羅を手本にしたということが推測できる。日興書写曼荼羅No.7は、日蓮が日目に授与した真蹟曼荼羅No.60を手本にしたと思われる。その理由は日興書写曼荼羅No.7には「龍王女」が書かれているが、日蓮の真蹟曼荼羅で「龍王女」が書かれているのは真蹟曼荼羅No.60のみであるということが第一の理由であり、また日興書写曼荼羅No.7には「不動」と「愛染」が通例とは左右逆に書かれているが、真蹟曼荼羅No.60も左右逆に書かれているということが第二の理由である。(ちなみにこのNo.60の真蹟曼荼羅は首題の「南無妙法蓮華経」と「日蓮」の間に大きな空白があり、そこに「天照大神」「八幡大菩薩」が書かれ、首題と「日蓮」の一体感は感じられない。日蓮の真蹟曼荼羅は「日蓮聖人大漫荼羅一覧」で検索すれば、ネット上で閲覧することができるが、一体感に欠ける真蹟曼荼羅は多い。)
日興が日目に授与された真蹟曼荼羅を手本にしたという推測ができるのであれば、戒壇本尊を手本にして書写したという議論は論拠を失うだろう。そのほかにも日興書写曼荼羅で別の真蹟曼荼羅を書写したと推定できるものがいくつかある。(川崎弘志は「『富士一跡門徒存知事』成立年に関する一考察」において、日蓮真蹟本尊No. 53(日興による日澄授与に関する加筆あり)について、「日頂授与の第五三番本尊は六師勧請(天台、妙楽、伝教、章安、龍樹、天親の六師)であるという特徴のある御本尊である。日蓮聖人の御真筆御本尊で現存する一二七幅のうち六師勧請の御本尊は第五四番本尊と併せ二幅しかない。それに対して日興書写本尊では『日興本尊集』で相貌が明らかな一五四幅中六師勧請は一二四幅を数え実に全体の八割が六師勧請である。特に興本No. 17からNo. 21は四天王が『増長』・『広目』ではなく『毘楼博叉』『毘楼勒叉』であることや提婆達多を欠くことを含め諸尊の配座は第五十三番本尊と全同であることから日興は興本No. 17からNo. 21の本尊書写に際して第五十三番本尊を基本本尊とされた可能性が極めて高い。」(『法華仏教研究』第22号 p. 130)と述べている。2016/7/13付加)日興書写曼荼羅が公開されたことによって、日興が戒壇本尊を書写したのではないということが明白になったと私は判断している。

4 戒壇本尊書写という主張の初出

板本尊形態の戒壇本尊について明白に言及したものは1561(AN280)年保田妙本寺日我が『観心本尊抄抜書』において「久遠寺の板本尊今大石寺にあり大聖御存日の時造立なり」(『富要』4-170)と記述されるまでないようである。日我が直接板本尊を見たとは思われないが、この大石寺にある板本尊が戒壇本尊を指すと解釈されている。
それ以前の資料では『日興跡条々事』に「日興充身所給弘安二年大御本尊」という記述があるが、大石寺は日興直筆の『日興跡条々事』原本があると主張しているが、外部の鑑定を受けたわけではないので、学者の間では、信頼されていない。なお『富士年表』によれば、『日興跡条々事』に関しては、1559(AN278)年に要法寺日辰が日郷系の小泉久遠寺で『日興跡条々事』の写本を書写しているが、それ以前の情報は記載されていない。またこの「日興充身所給弘安二年大御本尊」が板本尊、あるいは戒壇本尊であるということも『日興跡条々事』では示されていないので、この本尊と現存の戒壇本尊が同一であるということも分からない。
あるいは1489(AN208)年の左京日教の『六人立義破立抄私記』に「日興嫡々相承曼荼羅以可為本堂之正本尊」(『富要』4-43)が戒壇本尊を指しているかとも思われる。その前文で戒壇について述べ「三箇秘法建立勝地富士山本門寺本堂也」(同)とあることから、「日興嫡々相承曼荼羅」が戒壇本尊とされる板曼荼羅を指すとも解釈可能であるが、不明確である。『六人立義破立抄私記』の日興への付属に関する記述は「二箇相承」を引用した議論ではあるが、『日興跡条々事』には言及していないので「日興嫡々相承曼荼羅」がどの曼荼羅を指示するかが不明確であり、『日興跡条々事』の「日興充身所給弘安二年大御本尊」であると断定できないからだ。
明確に「日興充身所給弘安二年大御本尊」と戒壇本尊が同一であることを主張しているのは、執筆年代不明の14世日主(AN274-336)の「日興跡条々事示書」であり、日我の『観心本尊抄抜書』と後述の要法寺日陽の間の資料だと推測される。そこには「富士四ケ寺(大石寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺か)之中ニ三ケ寺者遺狀ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付囑分ナリ。大石寺者御本尊ヲ以テ遺狀被成候、是則別付囑唯受一人ノ意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、從興師正應之御本尊(No.5)法體付囑、例者上行薩埵定結要付囑大導師以意得如此御本尊處肝要ナリ。從久遠今日靈山神力結要上行所傳之御付囑、末法日蓮・日興・日目血脈付囑全體不色替其儘ナリ。八通(「日代譲状並置状八通」か)四通者惣付囑歟、當寺一紙三ケ條之付囑遺狀(『日興跡条々事』)者文證壽量品儀ナリ、御本尊者久遠以來所未手懸付囑也。」とある。大石寺の正統性は、日蓮の戒壇本尊、日興の日目授与の書写本尊No.5の継承に示され、そのことは『日興跡条々事』に書かれているという趣旨と解釈されうる。この資料で初めて明確に『日興跡条々事』の「日興充身所給弘安二年大御本尊」と戒壇本尊とを結びつける議論がみられるのだが、大石寺中興の祖とされる日有(AN121-201)から100年後以上後の資料であるという点にこの議論の危うさがあるだろう。
戒壇本尊について直接見たと明白に述べているとされる資料は、1617(AN336)年に要法寺日陽が「大石寺に着く、当住日昌は本来要法寺の住僧で…同学であり…霊宝残らず頂拝す、中にも日本第一の板本尊」(日辰『祖師伝』に合本した『日陽伝』による 『富要』5-59)と述べられている資料だろう。
ここでは戒壇本尊の真偽問題を検討したいわけではないので、これ以上の言及はしないが、戒壇本尊が資料的に言及される以前は、戒壇本尊を書写したという議論自体は存在し得ない。左京日教以後いつごろからこのような議論が生じたのだろうか。
日陽は「日本第一の板本尊」と述べているが、この板本尊こそ日蓮の救済のカリスマの唯一絶対の根源であるという主張をしているわけではない。そのような主張は江戸時代の日寛になって初めて見られる。だから戒壇本尊を特別視する議論は日寛からだと考えてよいだろう。日寛は『観心本尊抄文段』において、「宗旨建立已後第二十七年に当たって己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕わしたまえり」と述べて、「聖人御難事」の「余は二十七年なり」と「戒壇本尊」とを結びつける議論を展開している。
それでは日寛は戒壇本尊を手本にして書写するという議論を展開しているだろうか。私は日寛の研究者ではないのでよくわからないが、日蓮正宗の戒壇本尊を書写したという主張の文献的根拠として、日寛の書写に関する議論を引用したものを見たことは無いし、今回の会則改正に関して、日蓮正宗宗務院から発行された『大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす――矛盾のスパイラルにおちいった創価学会』の「付録1 創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集」にも日寛の書写に関する議論の引用はないから、多分無いのであろうと考えている。
戒壇の本尊を手本にして本尊書写をするという議論は、わたしの調べた範囲では1919(大正8)年に大石寺56世大石日応の『本門戒壇本尊縁由』に「當宗に於て授與する處の御本尊は一切衆生に下し置れたる此の御本尊(戒壇本尊)の御内證を代々の貫主職一器の水を一器に瀉すが如く直授相傳の旨を以て之を瀉し奉り授與せしむる」とあるのが初出のようである。ここでもストレートに戒壇本尊を書写したとは言わずに、「此の御本尊(戒壇本尊)の御内證」を書写したと述べている。このように表現すれば、書写本尊と戒壇本尊との相貌の相違に関して、そのまま書写したのではなく、内証を書写したのであるから、相違があっても問題ないという議論が可能になる。
だが書写曼荼羅作成は日興以来700年以上の歴史があるのに、戒壇本尊を書写したという議論がたかだか100年しかないというのは、この議論が後世に作られた議論であるということを雄弁に物語っている。
「読者から日寛の『報恩抄文段下』に「書写戒壇本尊奉掛之処山山寺寺家家皆是道理戒壇也」とあるというご指摘を頂きました。ただ「書写戒壇本尊」とあるのに、実際に日寛の書写した曼荼羅には戒壇本尊とは異なった図顕讃文が書かれていることについては何も言及がない。また日寛が「書写戒壇本尊」とストレートに書いているのに、大石日応が「此の御本尊(戒壇本尊)の御内證」を書写するとトーンダウンして述べていることの整合性も不明である。いずれにしてもご指摘を感謝します。」(2015.6.14追記)

5 本尊作成の様式、資格者の問題に関する日蓮真撰資料について

「創価学会『ニセ本尊』破折100問100答」では「この戒壇の大御本尊の御内証を書写できるのは、大聖人より唯授一人の血脈を相承された御法主上人ただお一人なのです」と述べて、日蓮正宗法主のみに本尊書写権があるということを主張している。その文献的根拠としてあげるのは、前出の大石日応の『弁惑観心抄』さらに日蓮の相伝書とされる『百六箇抄』『本因妙抄』『身延相承書』、9世日有の『化儀抄』、59世堀日亨の『化儀抄註解』である。これらのうち『百六箇抄』『本因妙抄』『身延相承書』は学問的には日蓮真撰を疑われている資料であり、これらの資料を日蓮真撰と認める人は、日蓮正宗の影響下にある人々のみであり、創価学会が日蓮正宗の信徒団体であった時代は、日蓮真撰を認めていても、分離独立して別教団となったからには、これらの資料を日蓮真撰と認める必然性は無い。創価学会がこれらの資料をどのように扱うかは創価学会の今後の問題であり、私が口を挟む問題ではないだろう。
このように見てくるならば、本尊書写権に関する資料として「創価学会『ニセ本尊』破折100問100答」が挙げるもののなかで、信頼できる最古の資料は日有の『化儀抄』である。このことは日蓮真撰であると学問的に認められている御書の中には本尊書写権に関して、言及した資料は何も無いということを示している。日蓮は『観心本尊抄』の中で、本尊の「為体」すなわち相貌については言及しているが、どのような資格があればその本尊を作成していいのか、あるいは本尊作成にあって、「日蓮、花押」の部分をどのように扱うべきかなどの様式について指示している個所は無い。

6 曼荼羅作成に関する歴史的考証

上述した『御本尊七箇相承』のような本尊作成に関する口伝書は日蓮宗各門流によって作成され、そのいずれかを日蓮真撰と判断する根拠は何も無い。日蓮真撰の文献資料にこの問題に関する言及がないのであれば、次に検討すべき問題は、日蓮滅後弟子たちがどのように曼荼羅を作成し、それに関してどのような言及があるかを調べるという歴史的な問題であろう。
日蓮の直弟子で曼荼羅を作成したのは、菅原関道の「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」(『興風』第11号 p.344以下)によれば、六老僧の中では、日昭、日朗、日興、日向である。これらの老僧には、自筆曼荼羅が現存している。さらに六老僧の一人日頂に関して、『富士一跡門徒存知事』には「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由・諸方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等なり。」とあるから、日頂は真蹟曼荼羅を原型にして形木印刷した曼荼羅を作成したと思われる。
したがって六老僧の間でも、日昭、日朗、日興は、自筆で曼荼羅を作成し、日頂は形木印刷で作成し、日向はその両方で作成したという作成方法に大きな相違がある。日興は上述の文で、日向、日頂などを「軽賤する」として批判しているが、その論拠が「不信の輩に授与」することのみなのか、「御筆の本尊を以て形木に彫み」も含まれるのか、ということに関して、文脈においては明確ではないので、形木印刷をどのように判断していたかは、不明である。(日興の直弟子日尊は形木印刷の曼荼羅を作成するように指示しているから、日興が形木印刷を全面的に禁止したとは考えにくい。)しかし日向、日頂が形木印刷を行い、日興はそれを「軽賤」という理由では批判したが、日蓮の教示に背く行為としては批判しなかったということは、形木印刷を禁止した日蓮の指示はなかったということであろう。
六老僧以外でも、日春は形木印刷をし、日法は河口湖近辺に妙本寺を建立し、板曼荼羅を造立した。さらに日蓮が亡くなったときには、まだ出家していなかった富木常忍は、日蓮滅後出家し、自宅を法華寺にして、後の中山門流を創設し、自ら曼荼羅を作成している。富木常忍と日興は日蓮滅後も関係を保ち、日興は冨木常忍に文献の閲覧を依頼しているが、富木常忍が曼荼羅を作成したことを、日興が非難している個所は無い。
これらの歴史的事例を勘案すると、日蓮が『観心本尊抄』で明示した「本尊の為体」、相貌に大筋で似ていれば、作成者が六老僧であろうと、それ以外の直弟子であろうと、日蓮入滅時は在家であった者であろうと、作成者の資格については問題視しないということが伺われる。またその作成方法に関しても、直筆であろうと、形木印刷であろうと、それも構わないということも伺われる。また作成された曼荼羅の様式に関しても、門流ごとに異なっているが、それがことさら問題にされることもなかった。それぞれの門流においては、多様な曼荼羅が、日蓮の真蹟曼荼羅の代わりとして、信仰の対象となり、門流間で曼荼羅作成に関して、相互に批判することは無かったということが言えるだろう。
この辺の事情を物語るのが、日大の『尊師実録』であるが、そこには「本尊書写事 尊仰云大聖人御遷化之刻六人老僧面面二書写之給ヘリ然而無異議」とあり、六老僧がそれぞれに曼荼羅を作成し始めたが、他の門流の曼荼羅作成を批判しなかったとしている。しかしそれぞれの門流が形成されると門流の統一のために、「富士門跡ハ付弟一人可奉書写之由目興上人御遺戒也云々、其故ハ賞法燈以為立根源也云々、依之本尊銘云、仏滅後二千二百三十餘年之間一閻浮提之内未曾有大曼羅也云々、予モ叉存此義之処、日興上人御入滅後、於一門跡面面諍論出来、互ニ成偏執、多起邪論、人人面面奉書写之云々」と述べて、日興門流では付弟一人のみが曼荼羅書写権を持つとされていたが、日興、その付弟と想定される日目が相次いで亡くなると、主要な日興の弟子の、日道、日妙、日仙、日郷、日代、日満が、日興教団の中心者が誰であるかについて合意せず、それぞれに曼荼羅を書写し始めたという事情を背景にして記述している。
曼荼羅が書写されたということは、それを書写した人を中心にして、独立した信仰集団が成立したということの歴史的証拠であり、そこには「付弟一人」を否定して信仰集団を自立させるという歴史的事情しかない。本尊書写権は単に「賞法燈以為立根源」という教団統制上の問題から生じた議論であり、信仰集団が分立してしまえば、意味を失う議論である。日尊は分立した日尊門流のために「付弟一人」の日興の遺戒を守り、曼荼羅書写はしなかったが、代わりに形木印刷の曼荼羅を授与するよう指示して、教団の分立を維持しようとした。現在創価学会は新たに曼荼羅を書写様式で作成することはせず、既存の書写曼荼羅を形木印刷することにより曼荼羅を作成し、本尊授与を行っているが、創価学会が日蓮正宗から独立した教団である以上、それは当然のことであり、独立以前の議論を展開して、その非を唱えることにはそれほどの意味はない。創価学会の立場から言えば、日蓮正宗には、法主詐称者の出現により、法主は永遠に不在となったから、もはや「戒壇本尊の内証」を書写することも、また既成の本尊を印可することも不可能になったのであり、日蓮正宗も法主の不在により、制度的に従来の主張を維持できなくなったと批判することも可能であろう。

7 結論

創価学会に本尊認定権があることを教義的にどのように正当化するのか、という問題に関しては、少なくとも日蓮真撰と学問的に認められている資料を基にすれば、正当化はできないが、それは創価学会のみならず、全ての日蓮系教団についても言えることである。日蓮は、曼荼羅を作成する者の資格、様式などに関して一切の言及はしていないし、直弟子たちの間で、そのことに関する論争も生じていない。その意味で教義的には、どの日蓮系教団も正当化できないが、教団統制という教団の自治権の問題として解釈すれば、どの独立した教団も本尊認定権を所有する。創価学会も日蓮正宗から、分離独立して別教団になったのだから、日蓮正宗とは無関係に、本尊認定権を所有するのは当然である。そのうえで日蓮正宗の信徒団体であった時代に認めていた日蓮正宗の本尊認定権をそのまま継承するのか、それとも学問的研究成果などを利用して、日蓮正宗の本尊認定権を否定するのか、という問題は、創価学会の教団自治権に属する問題であり、一会員に過ぎない私が口をはさむべき問題ではない。
次に、創価学会の本尊は、弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊なのに、その戒壇本尊を受持しないと決めて、それを書写した本尊を受持するというのは納得できない、という問題に関しては、創価学会の本尊を含む日蓮正宗の法主が書写した本尊は、弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊であるという議論は、大正時代になって初めて生じた議論であり、しかも日興の書写曼荼羅を詳細に検討すれば、この議論が誤りであるということは明白である。
さらにこれに関連して、出世の本懐と弘安2年の本尊とを結びつけた議論は、日興から日有、左京日教に至るまで見られず、江戸時代の日寛になってようやく見られる議論である。出世の本懐について述べている真蹟御書である『聖人御難事』には弘安2年の本尊に関する言及は全くなく、日蓮教学と日寛教学には差異があることは明白である。創価学会が、日寛教学を含む日蓮正宗教学から離れて、自立した教団として、日蓮教学を独自に究明しようとすることは、日蓮を継承する教団としては当然のことであり、今回の会則改正はその第一歩を宣言したものと見ることができよう。