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以下の論文は『花野充道博士古希記念論文集 日蓮仏教とその展開』(2020年)に掲載された論文を縦書きから横書きに変更し、若干補筆したものである。

望月歓厚『日蓮教学の研究』における本尊論の検討 創価大学文学部名誉教授 宮田幸一

1 問題の所在

 望月が日蓮宗の「宗義大綱」作成に関して果たした役割については、日蓮宗現代宗教研究所所長茂田井教亨が「『宗義大綱』に対する疑義に答う―特に竹田日濶師の質疑に対して―」の中で、「全体は望月先生の文章で成った」(注1)と述べているように、非常に大きかった。また茂田井は同時に「望月先生はご存じのごとく一尊四士を主張しておられた。これは一宗学者としての個的立場である。ところが、『宗義大綱』は、一宗の伝統を尊重し、その種的立場を慮った大公約数に立って成案されたのである」(注2)と述べているように、「宗義大綱」には「一尊四士」についての言及はない。「宗義大綱」が簡潔であったために、その解説を書くよう指示された茂田井の「宗義大綱解説」(『現代宗教研究』第8号、日蓮宗現代宗教研究所1974年)でも一尊四士への言及はない。
 その後日蓮宗の教師向けの解説書として『宗義大綱読本』が1989年に作成されたが、浅井円道によって執筆された「第4章 三大秘法」の中で、ようやく一尊四士と曼荼羅本尊との関係について言及されている。今日の日蓮研究者の間で主流となっている大崎ルール(日蓮思想研究において資料として使用するのは、1、真蹟、2、真蹟曽存、3、直弟子写本、引用の三種類に限定する、より厳格には1,2に限定する)によれば、浅井円道の記述には『教行証御書』『三大秘法稟承事(三大秘法抄)』『御義口伝』『四菩薩造立抄』『諸法実相抄』『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』などが含まれているから、学問的な記述ではないと批判されうる。勝呂信靜は「御遺文の真偽問題―その問題点への私見―」において、上記1,2のみを収録した『平成新修遺文集』に『宗義大綱読本』で言及された遺文が収録されていないことを指摘し、「とくに注目されるのは『平成新修遺文集』における顧問の諸先生と『宗義大綱読本』の執筆者の諸先生とが、顔ぶれがほとんど重なっていることである」(注3)と述べているが、宗義と学問的研究の乖離には大きいものがある。
 望月は浅井要麟の祖書学に起源をもつ大崎ルールを採用していないが、そのことを茂田井は「―故望月歓厚先生追悼にかえて―『望月宗学』の後にくるもの」の中で、「望月先生は、口癖のように『ボクは浅井君と方法を異にしていた』といわれた。・・・宗祖の思想を追求するに当っても、文献批判は浅井先生ほど神経質ではなく、たとい、第二資料と目されるものでも、宗祖の本質的立場から可能性ありと認められれば、用いるに吝かでないという態度を執られた」(注4)と述べている。
 望月が「宗義大綱」作成に大きな役割を果たし、日蓮宗の本尊論にも大きな影響を与えていると思われるのだが、現在の多くの日蓮研究者が採用している大崎ルールに基づいて、望月の本尊論を検討した論文は、私の貧弱な知識にはない。そこで試みに、大崎ルールを採用して、望月の『日蓮教学の研究』における本尊論を検討してみようと思う。これは私の所属する創価学会の本尊論を究明するための一つの手がかりにもなるだろうと予測しての試論である。

2 望月の本尊論の問題意識と研究方法

 望月は『日蓮教学の研究』の「第4章 日蓮聖人の本尊」において、日蓮の本尊論の異議の根源として、1、「法仏の先後・勝劣という教学上、思想上の根本的対立」、2、「文字式大曼荼羅と木像式形像」の表現上の差異、3、「聖人授与の大曼荼羅と親拝された木像釈迦仏」の「実際上の矛盾」(注5)の3つを挙げている。
 1の問題は、文字曼荼羅を法本尊、仏菩薩の木像を仏本尊として、教学上勝劣があるかどうかを論じるという伝統的な問題である。これは日蓮自身が本尊についてどのように考えていたかを考証する問題である。望月は「仏に悟られた法、仏に成就された法界、仏の説かれた教法を基礎とすることは、既に不動である。従って本尊の法仏に関しては、日蓮宗教学上、仏本尊たるに異論がないであろう」(注6)と述べる。
 2の問題は本尊の形態上の差異として目立つ。木像は主に釈尊一仏、一尊四士、二尊四士などの形態で仏菩薩として造立された。しかし文字曼荼羅には仏菩薩でない「南無妙法蓮華経」の首題が中央に大書されている。木像であっても中央に題目、もしくは題目宝塔が配置されている、一塔両尊四士であれば、文字曼荼羅と形態的(デザイン的)には同一であるとされうるが、題目、題目宝塔が欠如している仏菩薩のみの形態であれば、文字曼荼羅と木像本尊との形態的差異は強く意識されるだろう。
 3の問題は、望月によれば、「聖人の随身親拝された木像本尊と、広く門徒の伝持した宗祖真筆直授の文字大曼荼羅とが、若し自行の為の一尊と化他の為の大曼荼羅」(注7)の相違として考察できるならば、日蓮自身は釈尊一仏を本尊として伊豆流罪以後草庵に安置して、門下には佐渡流罪以後文字曼荼羅を授与したが、それをどのように解釈するかという問題であるとする。
 望月は3の問題を手掛かりに、1、2の問題も顧慮して、「1、文献的立場から立論する、 2、『本尊抄』等の重要遺文に立脚し、大局的に立場を決定する、3、聖人の実際の行儀、4、聖人滅後の本尊造立史」(注8)の4つの観点から考察している。以下、この4つの観点について要約、検討していこう。

3 文献的研究

 望月は「一 文献的立場から」において、本尊に関する遺文を、佐渡以前、在島中、身延期に分けて、詳細に検討するが、その際検討される遺文の選択は大崎ルールに準拠していない。そして「三時代を概観して」の中で、身延期の遺文を整理して「イ 大曼荼羅」「ロ妙法五字」「ハ 釈迦仏と法華経」「ニ 釈迦仏」「ホ 法華経」の五種類(注9)が本尊として挙げられているとする。
そしてイ、ロについては「形態は曼荼羅本尊である」とし、ハは「身延持仏堂の本尊形態」すなわち「釈尊の御前に法華経十巻を安置するもの」とする。またニも「一仏釈尊本尊の形態」であるから、ハと「同一本尊様式である」(注10)とする。
 ホについてロと同類と解釈することは誤りであり、ハの中の「法華経」を指しているということを主張する。望月は、その理由として、1、「法華経の宝前」という表現は、仏に対する法を主張したのではなく、広い意味において法仏を籠めて宝前の相を表現した、2、ホはハ、ニの表現と交錯して使用されているから、ハ、ニと同型と考えられる、3、建治以後の本尊表現は身延持仏堂の釈迦仏と法華経十巻を念頭に表現している(注11)ということを挙げる。 
そして、イ、ロを捨てる理由として、1、曼荼羅本尊授与に伴う説明教示の御書である、 2、三秘未分である、3、「お守り」の意義を持つ、の3つ(注12)を挙げる。そして曼荼羅本尊を明瞭に主張している『本尊問答抄』について、聖人授与の曼荼羅に対して疑問を持った真言の徒への教示であり、仏に対して妙法曼荼羅を強調した特殊な事情ということを理由に、「特定の個人を所対として授与した曼荼羅について説示されたもの」であり、『観心本尊抄』や『報恩抄』のような「普遍的に実体的に、特定の場合や特殊の意義に拘束されずに、本尊を説明した遺文と対比」すると、この御書を選択する理由がない(注13)とする。

4 重要御書の検討

 望月は「二 本尊抄と報恩抄」において、本尊に関する重要御書である両書を検討する。望月は『観心本尊抄』の本尊段の「本尊為体」以下の文と日蓮の文字曼荼羅との関係について、「大曼荼羅が本抄の本尊の設定を造立の思想的基準としたことは考えられるが、先ず儀軌として本抄を著し、それに則って大曼荼羅の図容が書き顕わされたとは考えられない」(注14)と述べる。
 その理由として、『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』では「本法五字の妙法は、一切の仏菩薩、総じて十界衆生の能被体である」が、『観心本尊抄』では「霊山虚空会八品の儀相に於て、神力品付属の儀によって授与される五字」であり、前者は「理法本尊」「十界円輪具足の本尊」であるが、後者は「教法本尊」「霊山顕現の本尊」であり、妙法五字に「本法」と「要法」(注15)との区別があり、大曼荼羅の儀相は『観心本尊抄』ではなく『日女御前御返事』の記述と合致しているとする。
 さらに望月は「本尊為体」以下の文によって、「本門八品の本尊は妙法蓮華経を塔中の中尊とし、釈迦多宝を左右尊とし、本化の四菩薩を脇士とする本尊相」であり、しかも「釈迦多宝が中尊で五字の妙法は本尊ではない。教授の法であるから仏の前、若しくは仏の下にあるべし」としても、曼荼羅の妙法五字は「要法五字と解しても中尊であるべきは動かし難い相貌である。かくして本尊為体の相は在世の本尊相、霊山の貌である」(注16)とする。
 望月は、この大曼荼羅に表現された「在世の本尊」に対して、滅後の本尊について述べられる「寿量仏」「仏像」が「末法の本尊」であるとする。この「寿量仏」が「本尊為体の下の妙法五字を中尊とする二尊四士である」という解釈に対して、望月は以下の4点を挙げて反論する。「一には法を表示して塔中妙法蓮華経というのと、仏を表示して寿量仏というとの相違、二には紙墨表現を連想せしめるのと、仏像造立を予想せしめるの相違、三には八品というのと寿量というのとの相違、四には注意される点は、次下に小乗権教迹門の釈尊の造立を、正像の規模とするに対して、若し前文の本尊為体の本尊即ち、妙法五字中尊が末法に於ける本門の規模ならば、何故に法を中尊として主張せず、寿量仏として爾前迹門の仏本尊と同型本尊を主張したかという点である」(注17)と述べて、在世とは別の「末法の仏本尊」の主張が日蓮にあったとする。
 そして本尊段に続く、流通段において、「本門寿量品本尊並四大菩薩」とあり、この文は、本尊段末尾の「寿量仏」にさらに四士を添付して、一尊四士形を表現し、末法本尊を明確にしたと望月は述べる。さらに「此時地涌千界出現、本門釈尊為脇士、一閻浮提第一本尊可立此国」とあり、これは「本化の四士を脇士とする本門の釈尊が本尊であることは、一層明々白々である」とする。さらに上宮の阿弥陀本尊、聖武の華厳教主本尊、最澄の東方鵝王本尊の例を挙げ、「不顕本門四菩薩」とあることから、「四士が本門本尊の必須の条件である」とし、「以上の結論として本門八品虚空会の儀相による『本尊為体』の本尊は在世結要付属の儀相であって、これを在末相対して本門寿量の本尊として造立するには一尊四士の尊形に於てするが、『本尊抄』の真意である」(注18)と望月は述べる。
 次いで『報恩抄』の解釈問題に入り、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の部分について、「『本尊抄』の一尊四士本尊と同体」と解釈し、「所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏」について、『報恩抄』と同時に浄顕房に授与された曼荼羅についての説明であるとして、「釈尊本尊は不動の大断定である。次下の二尊は授与の大曼荼羅の諸尊をこの内に包摂したもので、二尊の形像を教主釈尊の相貌として認めたのではない。『所謂』の語は同一同体を云々するのではなく、類似、若しくは近似の事例を挙げて説明する語である。同一の観念、全同の事体ではない」(注19)と述べる。そして『報恩抄』の「所謂」以下の文は、「多宝・諸仏・四大菩薩を並びに脇士とする文意」であると解釈し、「本門寿量の釈迦を本尊と定め、所謂の下の釈迦多宝二仏をその形相として二尊四士を以て本師釈尊の形貌とするが如きは到底肯わるべきことではない。よって本抄も亦末法の本尊を一尊四士と定めるもの」(注20)であるとする。
 そして日蓮の本尊論には時間的な「説明の次第」があり、「文永の『本尊抄』の曼荼羅相は在世付属の儀相によるもの、これを流通段に、在滅、三時の分別を重ねることによって一尊四士の末法本尊を奠定し、建治に入って『報恩抄』に三秘分別と相俟って末法本尊を明確にし、且つ曼荼羅勧請の二尊を包摂融合して二者の関係を明かし、弘安の『三大秘法抄』に寿量品の本尊を『五百塵点当初以来此土有縁深厚本有無作三身教主釈尊是也』と定めた」(注21)と述べる。
 
5 大曼荼羅は本尊か

 次に望月は「三 大曼荼羅と本門本尊」において、曼荼羅の意義について検討する。日蓮真蹟曼荼羅の中で、保田妙本寺蔵のみ「大本尊」と表示されているが、他は「大曼荼羅」と表示されている。しかも保田の大曼荼羅は文永期であり、まだ整備されていないので、これを一般の準拠とすることはできないとする。
 次に『撰時抄』に「当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて灌頂する時敷まんだらとするがごとし」とあるように、「曼荼羅の本来の意義は諸仏聚」であり、それに対して「本尊は根本とし尊崇すもの等の意義をもち、独自的唯一帰依の対象を意味して、大曼荼羅とは自ずから別趣である」とする。そして「遺文の上で、曼荼羅を本尊と同体的に言表したものは、・・・曼荼羅を授与し、これを本尊として説明した書」であり、「本尊を直爾に、そのものとして表顕したものと区別しなければならない。故に聖人に於ては、大曼荼羅は本尊ではあるが、本尊は必ずしも大曼荼羅であるのではない」(注22)と述べる。
 曼荼羅と本尊との意義の相違を述べた後で、望月は「体相」の相違として、1、大曼荼羅は諸仏集会の壇、本門本尊は一仏絶対の本尊相、2、大曼荼羅は三秘総在の妙境、本尊は三秘開出の本尊、3、大曼荼羅は人法一体の中尊、本尊は仏体主尊の本尊、4、大曼荼羅は三宝総具の本尊、本尊は仏宝独一の本尊、5、大曼荼羅は霊山顕現の理想境、本尊は今日信行の目標、6、大曼荼羅は教証の曼荼羅、本尊は妙行の本尊であるという6つの対比をし、「修行対象の本尊は本門本尊」(注23)であると述べる。
 次いで優陀那日輝の『妙宗本尊略弁』の六種の曼荼羅、すなわち、1、法界自爾曼荼羅、2、霊山顕現曼荼羅、3、道場荘厳曼荼羅、4、行者心具曼荼羅、5、念念縁起曼荼羅、6、依正各具曼荼羅に言及し、「本門本尊というは第三の道場荘厳曼荼羅中の儀相の分別」であり、「大曼荼羅は第二の霊山顕現の曼荼羅相」(注24)であると述べる。
 次いで望月は「本尊は信仰、修行の対境であるから、局限すれば本尊とは順縁に限る修行対境である」と述べ、それに対して「本法、本種をも大曼荼羅は表現しているから、順逆に拘らず能被の本理たりえる」として信仰の対象としての本尊ではないとする。このことを「三秘の開出」と関連させて考察し、「所謂一大秘法は本理であり、本法であり、又、付属の要法である。在世の要法は順逆を問わず末法下種の体となる。大曼荼羅の中尊はこの妙法を表わす。今末法に入っては一大秘法を開いて順縁のために信行を建て、本門本尊を対境として仏智の本門の題目を信唱し、本門の戒壇に安住すると説く。故に三秘は行門の施設で相対的修行の立場にある点と、一秘の絶対的理・肝要的要法を内容とする点と、或同或異であって、二者は区別して考えられるべき」(注25)であるとする。
 また曼荼羅の「仏滅後二千二百二十余年未曾有」の讃文は滅後末法の本尊であることを示すのではなく、「大曼荼羅造顕の未有であることをいうので、大曼荼羅が行所対の本尊なりとするものではない」と述べて、曼荼羅が信行所対の本尊であることを否定する。それでも「曼荼羅が本尊の全てであるのではない。言い換えれば、曼荼羅は曼荼羅にして本尊ではない。しかし、曼荼羅が本尊となる場合を遮するものではない」(注26)と述べて、曼荼羅が本尊となる場合も認める。また日蓮入滅の時に、「常随の一尊釈尊に代えて大曼荼羅を懸け」させたということは、滅後の伝説にすぎないとする。そしてこれを記述した西山日代に関連して、「祖滅六十年以前には大曼荼羅本尊若しくは二尊四士造像の殆どなかった事実を物語る」(注27)と述べる。

6 祖滅直後の本尊造立史

 望月は「四 一尊四士の造立」において、日蓮在世と滅後の本尊造立を歴史的に検討する。『四菩薩造立抄』を日蓮真撰とみなし、「聖人の在世に既に一尊の仏像本尊存在し、四士造立の指示があり、また既に四士造立の事実ありしこと確実なるによって、形像本尊は一尊四士を以て規模とすること疑いがない」(注28)と述べる。祖滅後は一尊四士の造立が先行し、「四五十年頃より、二尊四士、一塔両尊四士、大曼荼羅摸刻像と規模様式を大にした」のであるが、彫刻像が一尊から二尊形へ変化したことが「聖人の意に契うかどうか、教義の本質に背かないか等の問題」(注29)は十分な検討を要するとしている。
以上の議論を要約して、望月は「曼荼羅は文字曼荼羅であるべきで、形像造立の場合は一尊四士本尊を末法の正本尊とする。曼荼羅を写して形像を造立するのは『本尊抄』の仏菩薩に止め、『日女抄』をそのまま形像化するが如きは過ぎたるものといわねばならない」(注30)と述べる。

7 大崎ルールによる望月本尊論の検討
 
 望月は『日蓮教学の研究』「序章」の「三 日蓮教学の特質」においては『御義口伝』、『御講聞書』を使用して、議論を進めている(注31)が、先に検討した「第四章 日蓮聖人の本尊」においては、両者の文献は使用されていない。浅井要麟の祖書学研究の影響によって本覚思想濃厚な両書を日蓮真撰の遺文と見做さなかったのかとも思われるが、『三大秘法抄』などを使用しているところを見ると、そうでもないようだ。浅井は『日蓮聖人教学の研究』(望月が「序」を書いている)「第六章 祖書の思想的研究」において「無作三身」思想を表現している『三大秘法抄』『御義口伝』などは「法中論三の法身仏」であり、『観心本尊抄』の「無始の古仏」の「報中論三の報身仏」とは思想的に違うという主張をしている(注32)が、『三大秘法抄』を使用し、『御義口伝』を使用しないことの理由は何なのだろうか。望月は遺文の取捨選択に関して、真蹟、曽存の「第一資料」(注33)について言及しているが、それ以外の資料も用いることについて何も述べていない。「第四章 日蓮聖人の本尊」においては、『昭和定本』(1952)の「正編」第1巻、第2巻所収の遺文(『三大秘法抄』)を使用して、第3巻所収の『御義口伝』、『御講聞書』は使用していないと私は推測している。『昭和定本』の「正編」に収録された遺文を、何の正当化もなしに使用するという望月の研究方法は、「正編」収録の遺文の真偽問題についても検討している現在の大崎ルールの観点からは、説得力を持たない議論となる。
 たとえば、望月は文永の『本尊抄』、建治の『報恩抄』、弘安の『三大秘法抄』において、教主釈尊本尊論を次第に説明してきたと述べるが、もし『三大秘法抄』を使用できないとすれば、この望月の議論は破綻する。私ならば、望月とは異なって、『観心本尊抄』で曼荼羅と本門教主釈尊の二つの本尊を示し、『報恩抄』で、本門教主釈尊を本門本尊とするということが明示され、「所謂」以下の記述により曼荼羅が本門教主釈尊本尊を含むということであると教示し、『本尊問答抄』で曼荼羅の中心が仏ではなく、法であることを、次第に教示したという議論を展開することもできる。少なくとも私の議論のほうが、大崎ルールに基づいており、文献学的にはより信頼できるということは明白である。

8 「法華経の宝前」について

 望月は身延期の本尊論でホの法華経の宝前はハの釈迦仏と法華経の並立と同じであるという議論をしているが、望月は建治三年四月の『243乗明聖人御返事』(真)について何も言及していない。ここでは仏への供養と法華経への供養を対比し、後者を勝れていると日蓮は断言している。この遺文は望月の分類によればホに該当するが、この日蓮の記述は、たとえ、望月の言うように身延持仏堂の本尊形式が「釈迦一尊と法華経十巻」であったとしても、その中には優劣があるという議論なのだから、ホがハと同じであるという望月の議論を否定していると考えることができるだろう。
 浅井要麟は『日蓮聖人教学の研究』「後編」「三 日蓮聖人の本尊観」において「法本尊説の文献」として、『本尊問答抄』の次に『乗明聖人御返事』『人軽法重事』を挙げている(注34)のであり、望月がこの議論を知らなかったとは想像しにくい。また望月は『人軽法重事』(真)の「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり夫れ法華已前の諸経並に諸論は仏の功徳をほめて候・仏のごとし、此の法華経は経の功徳をほめたり仏の父母のごとし」も言及していない。この御書は「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像を・かきつくれる堂塔いまだ候はず、いかでか・あらわれさせ給わざるべき」とも述べていて、「寿量品の釈迦仏」の造立に言及しているのだから望月が言及する理由があると思われるが、言及しないのは意図的な無視があったのではないかという疑念が生じる。
 また望月はホがハと同型であることの理由として、両者の表現が時期的に交錯して使用されているということを挙げるが、三浦和弘は「本尊の探求―日蓮聖人の示した本尊―」で、「日蓮聖人の御宝前に対する意識は、a(人本尊)・ab(人法両方を並記)・b(法本尊)の三種類が、様々に表現されており、それはあたかも無秩序に筆をとられたかのように見受けられる。しかし『本尊問答抄』の前後に分けてこれらの分類を見てみると、同抄撰述以前においてはa・ab・bがそれぞれ3対3対5とほぼ同数であるのに対して、同抄撰述以後では1対1対12と、明らかに法本尊としての表現が多く見られるのである」(注35)と述べて、『本尊問答抄』以後は、ホがハ、ニより圧倒期に使用頻度が大きくなることを示しているので、望月の交錯して使用されているという議論は説得力がない。
 また望月は身延持仏堂で曼荼羅が本尊として使用されていた可能性については無視している。日蓮が身延において曼荼羅を本尊として使用したという資料はないが、『本尊問答抄』では「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」とあり、ここでは「法華経の題目」と「法華経」が同義的に本尊とされており、また『本尊問答抄』の末尾で「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と述べているので、「此の御本尊」が曼荼羅であると解釈できるので、「法華経」「法華経の題目」「御本尊」が同義的に曼荼羅を指すことは明白である。だから「法華経の御宝前」という表現が望月の言う「身延持仏堂の釈尊一仏と法華経十巻」であるとは限らず、「曼荼羅本尊の御宝前」という解釈も可能である。
 日蓮は身延の庵室で、曼荼羅作成後に、その曼荼羅を庵室に奉掲し、開眼供養の儀式を行い(注36)、その時にその曼荼羅を授与される予定の信者からの供物を供えたということは推定できるだろう。そして曼荼羅の中には、特定の僧侶、信者に授与されたもののみならず、身延の庵室で使用されたと推定可能な曼荼羅、例えば、「万年救護の本尊」などがあったと思われる。
 身延において、隋身仏と法華経十巻のみが本尊として安置され、曼荼羅が本尊として奉掲されないという望月の想定には不自然なものがあるだろう。渡辺宝陽も「日蓮聖人『大曼荼羅』の背景」で法華堂に奉掲された大きな曼荼羅に言及した後で、「日蓮聖人御真筆の大曼荼羅が唱題修行の礼拝の対象であったことは言うまでもないことです。一紙に図顕された大曼荼羅は弟子の各草庵や、信徒の家に掲げられていたことと推定され、三枚継以上になると、ある程度の門下の集合体が想定される」(注37)と述べて、身延の庵室における本尊問題には言及しないが、大曼荼羅が唱題修行の礼拝の対象であったことを認めている。

9 『本尊問答抄』の評価について

 望月は『本尊問答抄』について「真言教徒への教示 仏に対して妙法曼荼羅を強調した特殊な事情があり、特定の個人に与えたもので、普遍的な説示を与えたものではない」(注38)と述べて、優陀那日輝の『妙宗本尊略弁』の議論に沿って『本尊問答抄』を軽視する。
 しかし浅井要麟は日輝の『妙宗本尊略弁』の議論に対して、イ、浄顕房機根未熟は理義通ぜず、ロ、権実判とするが、末尾に「天台未弘の本尊」とあり、日輝の会通も説得力がない、ハ、浄顕房に対して天台の法本尊を説かれたとするが、宗旨の根本の本尊論で、妥協するわけがない(注39)などの論拠を示して、日輝の会通を批判する。もっとも浅井は『観心本尊抄』『報恩抄』などの標準遺文の仏本尊説が日蓮の真意であり、『本尊問答抄』の法本尊説を否定するのであるが、その論拠については標準遺文と相違するということを強調し、『本尊問答抄』偽書説を暗示しているだけで(注40)、それほど説得力のある議論を展開しているわけではない。
 私は、望月とは異なり、『本尊問答抄』は本尊に関して、仏本尊と「法華経の題目」本尊との対比をした日蓮の唯一の御書であるということ、「御不審を書きおくりまいらせ候」と述べて、『報恩抄』を与えられた浄顕房の疑問に対して答えた御書であるということ、そしてその疑問は、『本尊問答抄』の記述から、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という文と、同時に授与された曼荼羅の相貌において南無妙法蓮華経が中央に大きく描かれていることとの関係についての疑問であったと推定できることから、決して軽視できる御書ではないと考えている。『報恩抄』『乗明聖人御返事』『本尊問答抄』『宝軽法重事』という一連の議論の時間的流れを考えれば、むしろ『本尊問答抄』こそ日蓮の真意を示す御書と解釈することもできるだろう。

10 『観心本尊抄』『報恩抄』は仏本尊論の御書か

 望月は、浅井要麟も同様だが、『観心本尊抄』『報恩抄』は仏本尊を教示した御書だと解釈しているが、渡辺宝陽は「日蓮聖人『大曼荼羅』の背景」において、『観心本尊抄』の本尊段によれば、曼荼羅本尊論となり、末法流通の記述によれば、一尊四士本尊論となり、「一尊四士本尊論の主張は、『その本尊の体たらく』として指している本尊とは、本化四菩薩を脇士とする本門寿量品の釈尊であり、大曼茶羅は、その寿量品の釈尊を含めた輪円具足の法華経世界である、とするものと窺われます。つまり、あくまでも久遠本仏釈尊が中心であり、脇士によって、その久遠性が示されるという主張です」(注41)と述べて、『観心本尊抄』が曼荼羅本尊と仏本尊の両論併記であると容認したうえで、望月らの一尊四士本尊論の主張をまとめる。
 そのうえで、渡辺は「『観心本尊抄』の文を虚心に拝しますと、大曼茶羅も一尊四士も、久遠本仏釈尊の法華経世界を示した同一の本尊であると窺われます。どちらが欠けても『本尊抄』の御文章が理解できなくなりますでしょうし、大曼茶羅図顯・門下授与の意義が明確になってこないように感じられます。」(注42)と述べて、大曼荼羅が本尊ではないという望月の一尊四士論の行き過ぎを訂正しようとする。私も『観心本尊抄』には、本尊段で語られる本尊と流通段の「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」で語られる本尊とは同一かどうかは不明であり、少なくとも両論併記と考えられると見なしている。
 望月は『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」の文の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の部分は仏本尊であり、その形態は一尊四士であると解釈し、「所謂」以下は同時に授与された曼荼羅の説明であり、決して所謂以下で教主釈尊の形態を述べているのではないと解釈していた。望月は「『所謂』の語は同一同体を云々するのではなく、類似、若しくは近似の事例を挙げて説明する語である。同一の観念、全同の事体ではない」(注43)と述べているが、日蓮の「所謂」の使用例は、『開目抄』の「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」に明瞭なように、「その謂う所は」「その意味は」「すなわち」という意味であり、「同一の観念」である。したがって三大秘法の一つとして明示された「本尊」である「本門の教主釈尊」は、「所謂」以下で示される『観心本尊抄』本尊段の「本尊為体」の本尊と同一であることが『報恩抄』で述べられていると私は解釈している。
 『観心本尊抄』では本尊段の本尊と、流通段の「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」の本尊との関係が不明であったが、両者は同一であることが『報恩抄』で確認されたのである。しかし両者の同一性が言われたとしても、前者が文字曼荼羅、後者が釈尊一尊、あるいは一尊四士の木像で表現されれば、その同一性は容易には理解できない。『報恩抄』と文字曼荼羅を授与された浄顕房も理解困難になり、日蓮に質問した回答が『本尊問答抄』であり、ここでは釈尊像の造立の可否については直接述べずに、本尊としては妙法五字が釈尊より勝れていることを示し、曼荼羅の中では釈尊ではなく、妙法蓮華経が中心であることを教示した。
 しかし日蓮の御書の中で、本尊が文字曼荼羅に限る、あるいは『観心本尊抄』本尊段の本尊が文字でのみ表現されるべきだという議論はない。望月は本尊段の記述は「紙墨表現を連想せしめ」るのに対して、「寿量仏」「仏像」が「仏像造立を予想せしめる」(注44)と述べているが、それは望月の勝手な思い込みであり、本尊段の教示から一塔両尊四士の木像を造立した日蓮後継者も出現したのである。曼荼羅にも、本門教主釈尊も四大菩薩も含まれており、しかも釈尊は曼荼羅の中では最高位の「右尊」として表現されている。本門本尊が釈尊一仏や一尊四士であったとしても、それは曼荼羅の中に含まれるのである。

11 在世本尊と末法本尊

 望月は『観心本尊抄』の本尊段の本尊は在世本尊であり、流通段の一尊四士が末法本尊であるという議論をする。私も本尊段の本尊と流通段の本尊には相違があると考えているが、その相違が在世と末法の相違であるという議論には賛成できない。望月は「大曼荼羅が本抄の本尊の設定を造立の思想的基盤としたことは考えられるが、先ず儀軌として本抄を著しこれに則って大曼荼羅の図容が書き顕わされたとは考えられない」と述べて、大曼荼羅の儀相は『観心本尊抄』の「教法本尊」ではなく、『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』の「理法本尊」に合致する(注45)として、本尊段の本尊と、曼荼羅との直接的結びつきを否定する。だが大崎ルールにより『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』は真偽未定の資料とされるので、この議論は成り立たない。
 次に望月は本尊段の本尊の「塔中妙法蓮華経」が付属の要法であるから、「釈迦多宝が中尊で五字の妙法は本尊ではない」(注46)という議論をする。そうではあるが、図顕された曼荼羅の儀相を見れば、妙法五字は「本抄を要法五字と解しても中尊であるべきは動かし難い相貌である」ので、曼荼羅の儀相から見ると、思想的基盤となった本尊段の本尊は「在世の本尊相」だという議論を展開する。
 しかし、もし本尊段を思想的基盤として図顕された曼荼羅が在世本尊であるとしたら、日蓮は末法において、弟子檀那に在世本尊を授与していたということになり、その理由を説明しなければならないが、単に曼荼羅が「守り」として授与されたという望月の議論だけでは、法華堂の本尊として、信行の対象として曼荼羅が図顕された事例も多いのであるから、説得力をもたない。渡辺宝陽は「『釈迦仏・法華経』覚え書き」の中で、「御守」の意義について再考察する必要を述べ(注47)、さらに「日蓮聖人『大曼荼羅』の背景」においても、「行者守護の本尊」(注48)ということを強調している。
 私は『観心本尊抄』本尊段における「塔中妙法蓮華経」が前文の付属された「本門肝心南無妙法蓮華経五字」、望月が言う「教法」であるという議論は認める。しかし教法だから、教主より劣るという議論は日蓮の御書にはないし、『本尊問答抄』の「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」という表現において、三浦も前記論文で指摘しているように(注49)、「釈尊」「釈迦」には法華経を説いた久遠実成釈尊は含まれず、だから法華経は久遠実成釈尊より勝れているとは言えないという議論も成り立たず、そのような議論を日蓮がしていた形跡はない。むしろ『観心本尊抄』の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」という記述は、久遠実成において釈尊が「因」として修業し、その結「果」、仏としての徳を得た法を、「仏種」、妙法五字の教法として付属したと考えるべきで、久遠実成の釈尊が妙法五字の修行の例外とされるべき理由はないと思われる。『乗明聖人御返事』『本尊問答抄』『宝軽法重事』という一連の議論の流れを考慮に入れれば、教法ではあっても、本尊としては、仏よりも教法を供養すべきだというのが日蓮の考えであったと私は理解している。
 それゆえ、望月が本尊段の中尊は教法である妙法五字ではなく教主釈尊であり、それに合わない妙法五字が中尊となっている曼荼羅は在世本尊だという議論は、中尊論で破綻しているので、在世本尊と末法本尊との区別は無効である。

12 三秘開出本尊と三秘総在(未分)本尊

 望月は本尊段の本尊と流通段の本尊との区別を、在世本尊と末法本尊との区別と解釈したが、私はむしろ「三秘総在(未分)本尊」と「三秘開出本尊」との区別と理解している。優陀那日輝 は『妙宗本尊略弁』の中で、「題目の本尊が取りも直さず、寿量の教主久遠実成の釈尊なることを知るべし。然るに釈迦牟尼仏と書き給わざることは、用の迹仏に簡ばんが為なり。而も三大秘法を定め給う時は、久成釈尊と銘じ給う。是第二の本門の題目に簡ぶ為なり」(注50)と述べて、曼荼羅本尊と寿量教主釈尊本尊とは同一であり、三大秘法を分けるときは、本門の題目と区別するために、教主釈尊が本門の本尊として表現されていると論じている。
 三大秘法を分けて、あるいは本尊と修行のための題目とを分けて、説明する時には、本尊として、「本門教主釈尊」と表現し、曼荼羅の中の諸仏の主尊である教主釈尊、さらには四菩薩を挙げ、題目としては「事行南無妙法蓮華経五字」「南無妙法蓮華経と唱うべし」と表現して、妙法五字の口唱という修行が三大秘法の題目であることを示す。三大秘法を分けるときは、本尊としては仏を挙げ、題目との区別を示し、三大秘法を分ける必要のないときは、本尊として妙法蓮華経の五字、あるいは仏を挙げるのである。題目は三大秘法の区分においては行法であり、三秘未分の本尊においては中央首題として表現される要法、教法である。
 日輝は『御義口伝』『三大秘法抄』を使用して、「教主釈尊」が「久遠実成無作三身」という法身仏を表し、それは曼荼羅においては中央の「南無妙法蓮華経」で表現されていると説明した。私はそれらの文献は大崎ルールでは真偽未定とされ使用不可だから、「教主釈尊」は曼荼羅の中では諸尊の最高の位置である中央左上(右尊の位置)に表記されていると理解している。私は曼荼羅の中心は中央の「南無妙法蓮華経」という法であり、「教主釈尊」は諸尊の中では最高位であるが、『本尊問答抄』の教示に従って、「南無妙法蓮華経」よりは劣ると解釈している。
 『観心本尊抄』の本尊段の本尊と流通段の本尊との区別は、流通段では「事行南無妙法蓮華経五字並本門本尊」とあるように、妙法五字が修行法とされ、それと区別するために「本門本尊」と表現され、文脈上からそれが「本門教主釈尊」と解釈されるのである。妙法五字が後の三大秘法の「本門題目」と表現されているので、「本門本尊」を「塔中妙法蓮華経」と表現することは理解を混乱させるので、「本門教主釈尊」と表現されている。本尊段の本尊は「三秘未分本尊」「三秘総在本尊」であり、流通段の本尊は「三秘開出本尊」であると解釈することの方が、日蓮の御書にはない「在世本尊」と「末法本尊」という区別だと解釈するより、無理がないと思われる(注51)。
 望月の『日蓮宗学説史』の諸師の本尊論を見ていくと、三秘一体の本尊と三秘開出の本尊との区別をしたのは江戸時代後期の唯妙日東であるようだ。日東は「当宗本尊者即宗旨三大事、三箇即一箇、一箇即三箇、人法一体之法本尊也」と述べ、また「宗旨三大事中本門本尊者即能証之仏也」と述べて、三秘一体の本尊と三秘開出の本尊との区別をしているが、三秘一体の本尊については、「以妙法七字為人法之本尊也」と述べて、『観心本尊抄』の本尊段の本尊だとはしていない。望月は「何ぞ能証の人を以て曼荼羅の主とは考えざりしか」(注52)と不満を述べている。
 『観心本尊抄』の本尊段の本尊を「三秘総在本尊」とした議論は、望月の『日蓮宗学説史』には見られないから、最近の議論である可能性が高いが、望月は曼荼羅と本尊との体相の相違の中で曼荼羅を「三秘総在本尊」としている。三浦は前記論文の中で、本尊段の議論を引用した後に、(聖人は)「妙法五字(総名題目)の本尊としての姿を自ら図顕した十界曼荼羅の形態で示している。・・・十界曼荼羅を三大秘法との関係で論ずれば、本門の本尊〈本尊A〉は中央の首題の左側に配される釈尊として表現され、本門の戒壇は大曼荼羅の全体であり、本門の題目は中央に首題を大書することで末法における信行―事行の題目を示しており、これらを総在しているのが大曼荼羅であると考えられる」(注53)と述べている。
 
13 まとめ

 望月は「序」において「本尊異議の根源」として「1 法仏の勝劣という教学、思想上の問題 2 文字曼荼羅と木像の表現上の差異 3 聖人授与の曼荼羅と親拝した木像釈迦仏との矛盾」の三つを挙げた。1に関して望月は教主と教法との関係により、仏勝法劣を主張したが、私は『本尊問答抄』により、日蓮は法勝仏劣を考えていたことを示した。
 2に関しては、望月は仏が勝れているが故にそれを直接表現する一尊四士像の木像が曼荼羅よりも勝れているとした。私は『報恩抄』の「所謂」の読解により、教主釈尊の表現様式は曼荼羅であると解釈した。一体仏や一尊四士では曼荼羅に示されている教法が表現できないから、それらよりは曼荼羅が勝れているとは思うが、一塔両尊四士になれば教法も表現されているから、曼荼羅と実質的には変わりなくなる。だから文字曼荼羅と曼荼羅の木像化、立体曼荼羅の作成には教義的な勝劣はなく、単に人々がどちらの様式を受用するのかという問題だと理解している。『富士一跡門徒存知事』の「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」という表現が曼荼羅の木像化を禁止しているという日興門流の解釈には疑問を持っている。日本の仏教文化においては仏菩薩を本尊とすることが主流の文化であり、それを全面的に否定することにはよほどの教義的理由がなければならないが、そのような理由を日蓮が教示しているとは思えない。
 3に関しては「日蓮親拝」の本尊を望月は「木像釈迦仏」、プラス法華経十巻のみであると解釈したが、私は常住の安置した本尊は木像釈迦仏、法華経十巻と理解しているが、それなりに重要な儀式においては、ある程度の大きさの曼荼羅を奉掲して、それを対境にして読経、唱題していたと理解している。だから3は矛盾しているわけではない。
 私は日蓮の御書の中には、教法と仏を本尊として両論併記した御書、あるいはどちらか一方しか言及していない御書は存在するが、教法と仏を比較して仏を勝れているとした御書はなく、両者を比較して教法を勝れているとした御書は建治以降の『乗明聖人御返事』『本尊問答抄』『宝軽法重事』が存在するので、法勝仏劣が日蓮の考えだと理解している。

(注1) 茂田井教亨「『宗義大綱』に対する疑義に答う―特に竹田日濶師の質疑に対して―」、p. 13、日蓮宗現代宗教研究所『所報』3号、1969年) (注2) 同論文pp .16-17
(注3) 勝呂信靜「御遺文の真偽問題―その問題点への私見―」、p. 94、日蓮宗現代宗教研究所『現代宗教研究』第32号、1998年
(注4) 茂田井教亨「―故望月歓厚先生追悼にかえて―『望月宗学』の後にくるもの」、p. 16、日蓮宗現代宗教研究所『所報』第2号、1968年
(注5) 望月歓厚『日蓮教学の研究』、p. 141 (注6) 同書、pp. 141-142 (注7) 同書、p. 142 (注8) 同書、pp. 142-143 (注9) 同書、pp. 161-162 (注10) 同書、p. 162 (注11) 同書、p. 163 (注12) 同書、p. 164 (注13) 同書、p. 164 (注14) 同書、p. 165 (注15) 同書、p. 165 (注16) 同書、p. 166 (注17) 同書、p. 167 (注18) 同書、p. 168 (注19) 同書、p. 169 (注20) 同書、p. 170 (注21) 同書、p. 170 (注22) 同書、p. 171 (注23) 同書、p. 171 (注24) 同書、p. 172 (注25) 同書、p. 172 (注26) 同書、p. 173 (注27) 同書、p. 174 (注28) 同書、p. 176 (注29) 同書、p. 177 (注30) 同書、p. 177 (注31) 同書、p.88
(注32) 浅井要麟『日蓮聖人教学の研究』、pp.291-295
(注33) 望月前掲書、p. 149 (注34) 浅井前掲書、pp. 463-464 (『人軽法重事』は浅井の使用した御書名であり、通常は『宝軽法重事』と呼ばれている。内容的には浅井の命名がよいと思われる)
(注35) 三浦和浩「本尊の探求―日蓮聖人の示した本尊―」、p. 34、興隆学林専門学校『興隆学林紀要』第十一号、2003年
(注36) 中尾堯『日蓮聖人の法華曼荼羅』、p. 44参照
(注37))渡辺宝陽「日蓮聖人『大曼荼羅』の背景」、p. 17、身延山大学『東洋文化研究所所報』通号7、2003
(注38) 望月前掲書、p. 164 (注39) 浅井前掲書、pp. 470-471 (注40) 同書、p. 471
(注41) 渡辺前掲論文、p. 15、(注42) 同論文、p. 15
(注43) 望月前掲書、p.169 (注44) 同書、p. 167 (注45) 同書、p. 165 (注46) 同書、p. 166
(注47) 渡辺宝陽「『釈迦仏・法華経』覚え書き」、p. 57、日蓮宗現代宗教研究所『所報』4号、1970年
(注48) 渡辺宝陽「日蓮聖人『大曼荼羅』の背景」、p. 21、身延山大学『東洋文化研究所所報』通号7、2003  (注49) 三浦前掲論文、pp. 30-31
(注50) 優陀那日輝 『妙宗本尊略弁』、『充洽園全集』第3巻、pp. 380-381
(注51) 望月歓厚『日蓮宗学説史』によれば、「在世の本尊」と「末法の本尊」の区別は江戸時代末期の遠成日寿が初めてのようで、「三秘を見る且く在世にては釈尊を本門の本尊、・・・末法においては我等が身即本門の本尊」とある。望月歓厚『日蓮宗学説史』、p. 828
(注52) 同書、pp. 813-814  (注53) 三浦前掲論文、p. 40