日蓮正宗綱要
前書き
以下の論文は国立国会図書館のデジタルアーカイヴの堀慈琳(日亨)著『日蓮正宗綱要』(大正11年)を市販のOCRで読み取り、読み取れなかった部分は、自分で入力したものである。したがって、読み取れた部分は旧字体が使用され、自分で入力した部分は新字体が使用されている。『日蓮正宗綱要』は上段がカタカナを使用した文章で「日蓮正宗綱要」とされ、下段が平仮名を使用した文章で「日蓮正宗綱要講義」と名づけられている。後に出版された『日蓮正宗綱要』では上段部分が削除され、下段の「日蓮正宗綱要講義」の部分が、一部内容を削除して、『日蓮正宗綱要』として出版されている。創価学会の会員は直接日蓮正宗の教義書を読んで、日蓮正宗を理解することはほとんどないと思われるので、日蓮正宗の教義と創価学会の教義との相違を理解できないで、日蓮正宗の在家団体として創価学会に所属して、信仰を続けてきたのであるが、『日蓮正宗綱要』には明白に創価学会の教義との相違が述べられている。その最大の相違点は本尊論について、日蓮正宗では、日蓮御影像を人本尊として別立し、本尊奉安形式において、日蓮御影像と曼荼羅本尊とを前後に配置する御影堂方式(住持三宝式)、あるいは日蓮御影像と日興御影像と曼荼羅本尊の三つを並べる客殿方式(別体三宝式)などが伝統的に認められてきたが、創価学会では日蓮御影像を人本尊であるとは教えられていない。だから9世日有の時代には明白であった日蓮=仏界、日興=九界の師弟関係による即身成仏などということも教えられていない。創価学会が日蓮正宗から分離する前の在家団体の時代には教義解釈権は日蓮正宗に独占されていたので、日蓮正宗の歴史を調べる中で、疑問が生じたとしても、異議を唱えることは不可能であった。しかし今や日蓮正宗は創価学会とは無関係な別教団になったのだから、独自の研究成果として、納得できないことに対しては、批判することは当然のことである。そのための第一歩として、日蓮正宗の教義を堀日亨の『日蓮正宗綱要』から学ぶことが必要であると私は考えている。「日蓮正宗綱要」と「日蓮正宗綱要講義」はそれぞれ長文の著作であるので、とりあえず、二つを分けて掲載した。一部判読不能な個所もあったが、それは容赦していただくことにしよう。
刋行の意趣
此から日蓮正宗教学叢書を刊行することになりました。
内容は宗史と宗義と行体と釈義と訓話とで、何れも數篇を出だす考へです、筆は多分は私が執りますが、幾分かは他師に高著を仰いで本書を莊嚴る事にします。此企ては畢竟私共の宗門に刋行書の少きを補うて、日蓮大聖人の御正義を成るべく汎く弘めんとの念願であります。一部でも多く買ってくださる事と、能く讀んで信行の糧としてくださる事と、善悪に拘はらず遠慮なき批判をしてくださる事を望みます。此をば私の力とし励みとして斯大願を成就したいと思ひます。
大正十一年七月 日
緒言
吾宗門由来宗義ノ大綱ヲ網羅シタルノ小冊子乏シキガ故ニ、緇素ノ望ミ甚切ナル処アリ。然ルニ当路ノ巨師持重シテ徒二発セザルハ慷歎ノ事ニ属ス。小僧宗學ニ没頭スルノ日久シク且自ラ窃ニ深縁アリト信ズト云ヘドモ、資性愚劣ニシテ白頭猶新學二等トシ。敢テ教ヲ垂ルルノ器ナランヤ。一ニ宗祖開山ノ垂示ヲ憑ミテ云為スルノミ。若シ夫レ世界ノ新知識ニ伴フ義學ニ至テハ聾唖ノ如シ。茲二大方ノ嗤笑ヲ顧ミズ自ヲ陳呉ノ先駆ヲ爲サン卜欲シ、試ニ學生ニ授クルモノ自ラ此著トナル。蓋シ章段ノ聊各宗綱要ニ倣フモノアルハ其比較研究ニ‘資センカ爲ノミ。書意若シ宗祖開山ノ冥慮二合スルコトヲ得バ、僥倖之ニ過ギズ。加之固ヨリ文辭二嫻ハズ、時二當テノ草稿行文尤モ晦澁ヲ極ム。今多少ノ修補ヲ加フルモ亦面目ヲ改ムル能ハズ。且譯話亦巧ナズシテ原文ヲ補フコト能ハザルハ重テ羞恥ヲ増ス。然リ卜イヘドモ此ヲ公ニスルコ卜ハ、偏二大賢ノ叱正ヲ乞ハンガ爲ナリ
大正十一年五月 日
堀 慈琳識ス
目次
宗史―|―総説―|―序 1頁
| |―正 5頁
|―別説―|―宗祖 13頁
|―開山 34頁
|―三祖 53頁
|―中興二師 61頁
|―教学等 71頁
宗義―|―所依経釈 95頁
|―宗名 104頁
|―判教 106頁
|―教義―|―総説 121頁
|―別説―|―宗旨三秘 123頁
|―宗教五綱 145頁
|―本迹二門 155頁
|―折伏正規 161頁
|―謗法厳戒 166頁
|―受持正行 169頁
|―下種正益 173頁
日蓮正宗綱要
第一章 宗史
第一段 総説
第一節 序説
無始ノ始ヨリ無終ノ終ニ至ルマデ、諸仏救世者世ニ出現シテ、応時ノ教ヲヲ説キテ、人類ノ救済ヲ謀ルコト断ユルコトナシ。始メ久久遠遠ノ元初、教運草昧ノ時ニ至人アリ。求道ノ志熱烈ニシテ厭クコトナク修道増進シテ、遂ニ第一世ノ仏陀卜成ル。其年代容易ニ量ルベカラズ。且ダ五百麈黠劫時卜云フ。
爾来吾等ノ世界ヲ中心トシテ、他ノ世界ニモ分身散影シ、名字年紀ヲ異ニスレドモ、大智ト大悲ハ始終一貫シテ淪ルコトナシ。故ニ其覺智ノ廣大ナルハ十方ニ亘タリ、其徳澤ノ深厚ナルハ三世ヲ貫ケリ。
其中ニ今ヨリ二千餘年ノ昔、印度ニ出現シタル釈迦牟尼仏卜云フ、第一世仏ヨリ数ヘテ、幾萬世ニ當ルヤヲ知ラズトイヘドモ、其久遠ノ功徳ハ悉ク此仏ニ積聚ス。成道己來五十年、五時四教ニ衆機ヲ調養シ、從淺至深シテ法華經ヲ説ク時ニ出世ノ本懐ヲ満足ス。茲ニ於テ其要法ヲ無始深縁ノ上行菩薩ニ伝ヘ、以テ仏法衰微ノ世ニ出デテ、無告ノ人類ヲ救済セシム。
第二節 正説
釈迦牟尼仏ノ入滅後、其教法ハ衆機ニ趣キテ変遷シ漸々ニ衰微ス。其教域モ亦從テ縮小ス。其間形質共ニ完全ニ行ハレシヲ正法卜云ヒ、質微ニシテ形ノミ完備セルヲ像法卜云ヒ、形質共ニ微弱ナルヲ末法時代卜云フ。
正法像法ノ時ハ、此ニ応ズル菩薩大徳出現シテ、仏陀ノ遺教ヲ如法ニ適用スルガ故ニ、人類其利ヲ受クルコト少ナカラズトイヘドモ、末法ニ至リテハ聖賢亦形ヲ現セズ、但賣買ノ徒ノミ在リテ能所此ヲ悟ラズ。在来ノ教ヲ因襲シテ互ニ相排擠シ、以テ自ラ得タリトス。此ニ於テ佛陀ノ遺教全ク無用ニ属スルノミナラズ、却テ人類チ蠱惑シ、文化ヲ妨害シ、国運ヲ壅塞ス。此時ニ当リ釈迦仏ノ予讖ニ応ジテ、濁世ノ民衆ヲ救フベク出現シタルヲ、吾日蓮大聖人トス。蓮聖ハ実ニ末法ノ救世者タリ。各種ノ廃教路ヲ梗塞シテ、民衆ノ進化ヲ妨グルモノヲ除カンガ為メニ、四箇ノ格言ヲ唱ヘ、正シキ依止ノ爲ニ、三秘ノ妙法ヲ與フ。
然レドモ悪世ノ弘教ハ仏讖已ニ困難ヲ説ク。故ニ身命ヲ賭スルモ尚一天廣布ノ目的ヲ達スルコト能ハズ。遂ニ六箇ノ高弟ヲ各地ノ法將トシテ弘教ノ重任ニ充テ敷百ノ門徒ヲ分属セシメ、特ニ日興上人ヲ抽デ、総跡ヲ付屬ス。
日興上人ハ日目上人ニ伝フ。日道上人ノ時ニ内訌アリ。三代ニ亘リテ法運ヲ壅塞ス。日有上人苦心百方世出ノ挽回ニ力ム。曩ニ興上ノ時已ニ他門ニハ宗義ノ濁亂ヲ生ジタレバ、止ムナク清義ノ孤立ヲ爲ス。爾来亦爾リ。日主上人ノ時ニ至リ改メテ要山ト結ブ。日精上人始テ江戸ニ教勢ヲ張リ、又本山ノ規模ヲ擴張ス。此間専属ノ學林ヲ起シ教運漸ク開ク。日俊上人日永上人日宥上人鋭意教儀ノ革正ヲ計リ本末堂宇ノ修理ニカム。日寛上人ハ曠世ノ大徳又教理ノ精美ヲ開闡シ、門下菖々トシテ宗門始テ振フ。爾來世出其ノ規ヲ守リテ明治維新ニ推移ス。
時ニ一般廃仏ノ悪風ハ防グニ由無ク教運大ニ塞ガル。日霑上人老躯ヲ力メテ再々住スルノ止ム無キニ至リ、漸ク頽勢ヲ回復ス。日応上人日正上人ニ至リ本末漸次ニ隆盛ニ至ラントス。
第二段 別説
第一節 宗祖
宗祖大聖人ハ、安房国小湊ノ人三國氏ナリ。少ニシテ清澄山ニ出家シ、天台真言ヲ學ス。
長ジテ鎌倉ニ出デ禅淨土ノ義ヲ聞く。更ニ遥カニ比叡山ニ上リ数年ノ困學ニ止觀瑜伽ノ深旨ヲ窮メ、傍ラ東寺ニ三井ニ南都ニ高野ニ天王寺ニ八宗ノ碩奥ヲ探ル。
學成リ道達シテ建長五年四月二十八日清澄山ニ於テ始メテ法華本門ノ題目ヲ唱ヘテ応時新真ノ宗旨ヲ建立シ、本仏開顕ノ時運ヲ調フ。
顕正ノ前ニハ必ズ破邪アリ。清澄ノ立宗ニ荊棘ヲ拓ケル四箇ノ格言ハ、大慈ノ止ムヲ得ザルニ出イズルトイヘドモ、鹿猪ノ折伏語ハ、中毒失心ノ耳ニ逆ライ、杖木ノ難起ラントス。
千金ノ子ハ死セズ。’空シク辺仭(?)ノ土ニ化センコト、一天広布ノ素願ヲ失スルヲ以テ、直ニ鎌倉ニ上リ、幕府ヲ驚カサントシ、草庵ヲ松葉谷ニ卜シ、街衢ニ出デテ、毒皷ヲ撃チテ宣伝ス。暴徒蜂起スレドモ入信ノ徒甚少ナキハ經讖ノ如シ。
加之天変地夭頻々ニ至ルハ、即チ邪教伝播シテ、正法閉塞スルノ所由ト感ジテ、岩本ノ経蔵ニ入リ、校閲スルニ微衷ノ経文ニ契フヲ見テ意ヲ决シ、文應元年ニ立正安国論ヲ製シテ、幕府ニ呈スルニ省セラレズ。
却テ暴徒ノ爲ニ、草庵ヲ燒カルノミナラズ、弘長元年ニ伊豆ニ流謫セラレ、具ニ艱苦ヲ甞ムコト三年ニ至ルトイヘドモ、亦邊土ノ化益少キニアラズ。
赦シヲ得テ鎌倉ニ歸ルヤ、直チニ安房ニ歸省ス。立宗已來十年ヲ經テ、旧地亦信ズル者有リ。此レヲ以テ東條景信ノ怨嫉甚シク激発シテ、師徒ノ鏖殺ヲ小松原ニ試ミシガ、幸イニ虎口ヲ脱シテ房総ニ輪遊スルコト數年ナラザルニ、天下ノ形勢ハ日々険悪ニ陥リ、安国論ノ警讖著々トシテ的中シ、文永五年ニハ蒙古ヨリ強壓ノ通交書アリ。成ラズンバ兵火ヲ見ン。明ニ是他国侵逼ノ兆ナリ。
現ニ此ノ国難ノ時ニ當リテ、徒ニ邊地ニ蟄スルコトヲ得ンヤ。決(?)然トシテ鎌倉ニ’出テ、警告書ヲ幕吏ト大僧トニ與フルコト、十一通ナリシモ、其論鋒ニ當ルコト能ハズシテ、默殺ノ対策ヲ取ル。中ニ血氣ノ徒アリ。公庭ノ問註ヲ催ガシタルモ、遂ニ成ラズ。文永八年ノ夏ニ至リ、行敏私問ヲ発シテ、敢ヘテ蟷螂ノ斧ヲ振フニ、宗祖却テ公場対決ヲ求ムルニ又ナラズ。茲ニ於テー擧シテ邪膜ヲ决スルノ快擧ハ望むムベクモアラズ。此ヲ以テ私場ノ強折ハ少シモ緩マズ。
茲ニ良観等ノ大僧ハ、幕吏ニ結ビテ罪名ヲ巧ミ、捕ヘテ直ニ龍口ニ斬セントス。暴虐モ亦極マレリト云フベシ。然レドモ魔刀遂ニ聖首ニ加フルコトヲ得ンヤ。天警頻リニ至リ却テ恐懼シテ、佐渡ニ流刑スルコト四年ニ及ブ。
一難加ハル毎ニ一徳ヲ顕揚ス。龍口ノ刀難ニハ、本仏開顕ノ機發シ、佐渡ノ流難ニハ自界叛逆ノ難ヲ確カニス。佐渡人ノ夷狄ナルコトハ、伊豆人ノ温情ニ比ベクモアラズ。
加フルニ境ハ極熱極寒ノ窮地ヨリ、開目抄ノ如キ本尊抄ノ如キ、宗大事ノ教令ハ頻々トシテ門弟ニ発セラルルノミナラズ、身心益聖化シテ安祥タリ。自門ノ讃仰他門ノ驚異、蓋シ此間ニ於テ彌高シ。悪国悪時ノ艱難ニ大聖格ヲ玉成セラレタリト見ンハ愚ナリ。正ニ是本地開発ノ霊境ナリト信ズベシ。
文永十一年赦シヲ得テ鎌倉ニ歸ルヤ、重ネテ幕吏ニ警告ス。再三ノ奇験ニ稍信伏ノ色ヲ顕セドモ、全ク高説ヲ容ルルコト能ハズ。他國侵逼ノ警讖モ、不幸ニシテ実現スルニ至ランモ、亦止ムヲ得ザルナリ。
茲ニ於テ宗祖先ハ公諌ノ益ナキヲ觀ジテ、古聖ノ例ニ寄セ、延山ニ籠居シ學衆ヲ教養ス。寒山枯林怱チニ市ヲ為ス。蓋シ大徳ノ致ス所ナリ。身ハ是山林ニ交ルトイヘドモ、有縁ノ地ニハ門下ノ俊髦ヲ配シテ、宣伝怠リナク、逆化毒鼓ノ法戦至ル所ニ起ル。
就中富士ニ大法難アリ。宗祖此ヲ弘願瞞足ノ時ナリトシテ、即弘安二年十月十二日ニ、戒壇ノ大本尊ヲ書シテ後世ニ遺ス。本門三大秘法ノ随一ノ中ノ第一ナリ。三秘ノ中ニ題目ハ建長ニ始メラレ、本尊ハ文永ニ顕サレテ今茲ニ整足ス。戒壇ノーハ天下公認ノ日ヲ待タザルベカラズ。惜哉在世ニ時來ラズ。此ヲ重大事トシ、高足日興ニ囑シテ、弘安五年十月十三日池上ノ信士ノ居ニ門下ニ囲繞セラレテ、涅槃ニ入ル。六十一歳ナリ。爾来六百有餘年。廣布ノ日ハ近キニアラン歟。
第二節 開山
開山日興上人ハ甲裴国大井ノ人紀氏ナリ。少ニシテ富士ノ岩本山ニ出家シ天台ヲ學ビ、更ニ冷泉中將ニ歌道ヲ、良覚美作阿闍梨ニ外典ヲ學ブ。宗祖岩本ニ閲蔵ノ時、其學徳ヲ慕ヒテ弟子トナリ法華ノ行學ヲ積ム。鎌倉ニ伊豆ニ佐渡ニ随遂シテ秘書タリ。然リトイヘドモ、本拠ハ岩本ニ在リテ、山内ニ日蓮義ヲ樹立シ、日持日源日位等ノ弟子後輩ヲ鼓舞シテ、甲駿遠ニ宗化ヲ布ク。
実相寺ニ於ル外道非外道ノ論ハ、不幸ニシテ世法ノ爲ニ蒲原ノ四十九院ニ退出スルニ至リシモ、一時ノ雌伏ニ過ギズシテ、数年ノ後ニハ却テ院主ノ敗退ヲ止ムナクセシメ、興師ノ復寺ヲ見ルニミナラズ、外道等全滅シテ本宗ノ大寺トナルニ至ル。
熱原ノ大法難ニハ、僧分ノ擯出ト俗分ノ禁獄斬首ヲ見シモ、其剛信凄惨ノ風ハ懦夫ヲ奮起セシメテ、一宗ヲ振興スルノ因トナル。此ノ二ノ大法厄ニハ師常ニ総法將トシテ、其指揮宜シキヲ得タリシカバ、益宗祖ノ信任ヲ固ウシ、門下ノ歸依ヲ厚カラシム。
宗祖所弘ノ三大秘法ハ難信難弘ナリ。其本門の題目タルヤ、在来ノ諸余ノ称名ヲ斥ケテ、専ラ法華ノ題目ノミヲ唱ヘシムニアレバ其衆意ニ適セズ。况ヤ現在ノ諸仏菩薩ヲ廃シテ、一ニ法華ノ本尊ニ向テノミ此題目ヲ唱フルハ、実ニ至難ナリ。何ニ況ヤ天下一同他事ヲ捨テテ、專ラ此本尊ニ向テ此題目ヲ唱フベキ。本門戒壇ノ国立ハ至難中ノ難事ニ属ス。題目ト本尊トハ宗祖随所ニ之ヲ弘メラルルトイヘドモ、戒壇建立ニ至リテハ生前ニ成ナルベクモアラズ。既ニ公界ヲ辞シテ山林ニ入レバ、此大任ヲ果タスベキ者ヲ求メテ、興師ニ定メ置カレタルカ。弘安二年所図ノ本尊ヲ特ニ授与シ、四年ニハ自ラ申状ヲ筆シテ、師ニ天奏セシメ、感状ヲ得ラル。園城寺下文等是ナリ。但未ダ時至ラズシテ戒壇ノ公許ヲ得ザルハ永世ノ恨事ナリ。其外重要ノ相承等ヲ此前後ニ受ク。宗祖晩年ニ定メタル六人本弟子ノ中ニハ、第三位ニ在レドモ、此ハ是自然ノ地位ヨリ六人ヲ抜擢シ、更ニ﨟次セシノミ。故ニ宗祖ハ戒壇建設ノ大事ト門徒ノ總本寺タル延山ノ別當トヲ、其序ヲ越ヘテ興師ニ遺付ス。
宗祖涅槃ノ後與師其記録ヲ作リ、遺骨ヲ延山ニ奉送ス。翌年師廟輪番ノ制ヲ筆シタレドモ、各門弟一タビ退山ノ後ハ、延山ノ事ハ一ニ師ノ進退ニ任セテ又師廟ヲ顧ミズ。興師大ニ之ヲ慨シテ数々登山ヲ促ガス。
三回忌後日向漸ク登ルガ故ニ、直チニ学頭職ヲ嘱シタルニ、違法ノ亊アリ。地頭波木井日円亦稍興師ノ謹厳ヲ厭ヒテ、数々非例ヲ爲シテ又其訓戒ニ応ゼズ。
此等僧俗ノ謗法ニ祖法ノ乱サレン事ヲ慨キテ、正応元年ノ冬退出シテ富士ニ移リ、南條時光ニ寄リ、正応三年ニ上野ノ地ニ大石寺ヲ建テテ、一宗ノ根本道場トシ、宗祖付囑ノ戒壇本尊等ノ宗宝ヲ奉安ス。日目日華日秀等ノ法弟弟子、漸次ニ支院ヲ起シテ之ヲ守護ス。
大石寺ノ基礎成ルノ後、重須ニ又法華堂ヲ建ツ。上野ニハ日目ヲ主任トシテ本六厳然タリ。重須ニモ亦新六ヲ置キ、日澄ヲ抽ンデ、学頭トシ教養ニ力ム。
此ヨリ先キ宗祖門下ニ二ノ潮流アリ。一ハ稍温和順化ニ傾キ、世情ニ隨ヒテ弘教ノ便宜ヲ失セザランコトヲ欲シ、一ハ厳粛逆化ヲ主トシ、世俗ニ背クモ祖意ニ順ゼンコトヲ力ム。是遂ニ五一ノ疎隔ヲ來タス所由ナリ。而シテ始メ神天上ノ解釋ニ起リ、後本迹論ヲ生ズルニ至リ、各般ノ異義ヲ生ズ。天目等其極ニ走リテ、興師ノ慈誡ヲ肯ンゼズ。却テ開山祖承ノ勝劣ニ加上セントス。日朗ハ温和ノ人ナリ。再ビ来タリテ、問訊ス。日頂又来タリテ真間ニ帰ラズ。延山ノ僧分ハ師ノ離山ヲ呶呶スレドモ、波木井一族ノ中ニハ理解アリシガ如シ。
開山上人冨士ノ弘教四十餘年、本誓未ダ成ラズトイヘドモ、内ニハ祖筆ノ収集、祖文ノ類聚、相承ノ集録、以テ後生ヲ益シ、外ニハ連連ノ国諌ニ祖義ヲ唱導シ、門葉各地ニ繁ク、身心暢適ニシテ、正慶二年二月七日八十八歳薪盡火滅ノ入寂ヲ、重須ノ森ニ示サル。
第三節 三祖
三祖日目上人ハ伊豆國畠ノ人新田氏ナリ。走湯山ニ童トシテ修學ノ時、其學匠式部僧都ノ、開山上人ニ屈スルヲ見テ、渇仰ノ念起リ、入室ノ契約ヲ爲ス。越ヘテ建治二年延山ニ詣デテ出家シ、宗祖並ビニ開山ニ仕フ。師行持頗ル堅シ。宗祖ニ‘薪水ノ勞ヲ勵ムル爲ニ、頭顱凹メリト云フ。性頗ル辯論ニ長ゼリ。弘安五年ニハ宗祖ニ代リテ、伊勢法印ヲ論伏シ、永仁元年ニハ鎌倉営中ニ於テ、道智房ヲ屈セシム。開山ハ師ノ行徳ヲ嘉シテ、日華日秀ノ先輩ヨリモ、此ヲ重用シ、上野ノ安基成ル時、暗ニ後薫ニ擬ス。重須ニ移ルノ後ハ、師實ニ上野ニ主タリ。
奥ノ登米郡新井田ハ師ノ本貫ナリ。門葉親族繁多ナリ。故ニ新田森宮野柳目各々師ヲ開基トシテ寺觀ヲ成ス。師又石川式部ヲ化シテ寺ヲ建ツ。甲駿ニ亘リテ三東漸寺ト成ル。
師ヤ若年ヨリ東西ニ奔走シテ足疾ヲ成ストイヘドモ、天奏ノ未ダ効果ヲ擧ゲザルヲ慨シ、政権ノ公家ニ復セシヲ好機トシ、七十有四ノ老躯ヲ提ゲテ、日尊日郷ヲ伴ヒテ冬天ニ上京ス。風雪ニ美濃ノ高原ニ苦シミ、宿痾亦發シ遂ニ大志ヲ残(?)シテ、正慶二年十一月十五日、垂井ノ月ト沈ムコト、遺憾限リナシトイヘドモ、其壮烈ノ行ハ千載ノ下ニ振イテ磨スルコトナシ。此畢竟國家ノ爲ニ、宗開ノ素懐ヲ達セントスルニ外ナラズ。故ニ後代ノ山主ハ、時機ヲ察シテ天奏ヲ遂グルコトヲ要務トス。
第四節 中興二師
中興日有上人ハ、富士南條氏ニシテ、影師ノ資九代ノ貫首ナリ。時ニ吾山ハ東坊地七十年爭論ノ餘弊ヲ受ケテ、世出共ニ衰退ノ極ミニ陥リ、法礎将ニ傾カントス。茲ニ師若齢ヲ以テー山ヲ薫ジ、經營辛苦法燈ヲ既滅ニ輝カス。加之間ヲ得テハ弘教ニ草鞋ノ痕ヲ絶タズ。足跡ハ北陸毛野奥地ヨリ又東海ヲ経テ度々京都ニ至リ、其間天奏ヲ遂グ。殊ニ東北寺院ハ師ノ復興ニヨルモノ多シト云フ。師本山ニ在ルノ日ハ、教理ノ闡揚ニ殊ニ教儀ノ大成ニ勉メラレ、化儀抄百廿一箇ハ、信條綿密ニ亘リテ、指南親切ヲ極メ、僧俗今ニ歸趣ヲ此ニ仰グ。当時他ニ之ニ匹敵スベキノ掟規ナキガ如シ。蓋シ宗學ノ復興亦所以ナキニアラザルナリ。本山ノ復興ト化儀ノ大成トー生ノ弘通トハ、中興ノ嘉稱ニ償スルモ宜ナリ。晩年甲州ノ幽境杉山ニ籠棲シテ、遂ニ遷化セラル。文明十四年九月廿九日ナリ。師ノ行実ニ奇蹟ノ喧伝セラルル多キモ、亦其盛徳ノー班ナルカ。
中興日寛上人ハ上野ノ人伊藤氏ナリ。弱冠ニシテ精師ニヨリテ発心シ、薙髪シテ永師ニ‘師事シ修学ヲ勵ム。師ノ會津ニ転ズルニ從ヒ、漸ク元禄二年ニ細草檀林ニ新来シ、俊師ノ提撕ヲ受ク。蓋シ晩学ナリ。此ヨリ困學苦窮業大ニ進ミ、遂ニ二十六代ノ化主トナル。元禄七年ニハ玄籤ヲ講ジ、其草鶏記ヲ作ル。爾来學生ノ爲ニ講学怠ラズ、談林モ亦大イニ振フ。
現存ノ文句集解條箇ノ各草鶏記ハ、此間ノ講録ナリ。正徳元年永師ノ招キヲ受ケテ、學頭寮ニ入リ、祖書ヲ講ズ。五大部等ノ記ハ正徳五年安国論ニ始マル。享保三年宥師ノ後ヲ受ケテ大坊ニ晋ム。ニ十六世ナリ。但シ養師ハ談林ニ於テ先蜚ナリシモ、師ノ学徳年﨟ヲ推譲シタルヲ以テ、師モ亦早ク學寮ニ退キテ、講學ニ勉ム。本尊抄及ビ報恩抄ノ文段ハ此間ニ成ル。享保八年養師遷化ニ依リ、衆ニ推サレテ又大坊ニ入ル。六卷抄ハ此前後ニ記セシモ、再治ハ享保十年ニアリ。
本宗講學ノ隆盛ナル師ニ至リテ頂点ニ達ス。門下ノ殷賑亦前後ニ比ナク、数代ノ貫主皆其門ニ出ズ。而シテ行持周密唱導精美、後昆ヲ照ラスノミナラズ、寺門ノ経営亦一日モ忽ニセズ。殊ニ資性重厚大ニ眞俗ノ依止トナル。享保十一年八月十九日自ラ死期ヲ知リ、決別遺告些カモ遺ル所ナシ。一門ノ哀悼追慕今ニ絶ヘズ。燦然トして中興ノ美名ヲ耀カス。
第五節 教学
上世ハ布教講學ノ制煩瑣ナラズ。中世徳川幕府ノ諸般ノ制度ヲ、仏教ニ下スニ及ビ、本宗モ亦檀林ヲ別設スルニ至リ、教學共ニ容易ナラズ。近世又彌繁雑ヲ加フ。
始メ宗祖ノ鎌倉ニ在ルヤ、随時ニ徒弟ヲ訓養シテ転教セシム。門下ニハ外学内学共ニ他ニ依リシモノアリ。三位日行弁成日昭ノ叡山ヨリ出タル、白蓮日興ノ岩本ヨリ出タル、下野日秀越後日弁ノ熱原ヨリ出デタルガ如シ。内外共ニ門内ニ依ルモノニ大国日朗民部日向等ノ多クノ者アリ。宗祖ノ延山ニ退蔵スルニ及ビテ、台當共ニ自ラ育英ニ務メラレシモ、未ダ談林ノ規模アラズ。然リトイヘドモ糟糠ノ汚僧少ク、熱烈ノ信ト刻苦ノ行トハ、克ク諸ノ學解ヲ卒スルガ故ニ、信行学ノ次第乱レズ、布教モ隨處ニ緊張セリ。
後世ノ講學盛ンナルニ、布教却テ揚ラズシテ、徒ニ衒学空講ニ終ハルモノノ比ニアラズ。
開山ノ富士ニ移ルヤ、始テ重須談所ヲ開ク。此全教団ニ學制ノ敷カレタル翹楚ナリ。而シテ其學頭ハ初寂仙日澄次ニ三位日順ヲ以テシ、台當並ベ立テテ講學允ニ盛ナリ。順師明ヲ失シテ退クヤ又見ルベキノ跡ナシ。上野ニテハ目師在山ノ時之ニ當リ、老年ニ及ビテ大學日盛ヲ鎌倉ヨリ招キシコトアリ。爾来教風大イニ振ハズ。時師仙波ニ學ビテ、其志ヲ抱キナガラ時ヲ得ズ。有師大イニ宗學ヲ起シテ東西ニ弘教セシモ、寂後又振ハズ。院師ハ土屋ニ仙波ニ主師ハ東金ニ昌師ハ飯高ニ雄飛セシモ、共ニ晶々ノ事蹟ナシ。
上世ヨリ中世ニ移ラントスル比、一致門下ノ談林隆盛トナルガ故ニ、台擅ニ遊ブ者少シ。盈師ハ松崎ヨリ小西中村ニ歴遊ス。元和ノ頃本迹論ノ爲ニ分離シテ宮谷檀林ヲ起スヤ、師ハ爰ニ小部ヲ講ジ次イデ玄義ヲ講ズ。精師ハ宮谷沼田ヲ經テ玄義ヲ講ズ。舜師モ沼田ニ小部ヲ講ズ。典師亦沼田ニ學セル時、寛永十八年ノ争論ニ依リテ分離シ、峰須賀敬臺院ノ外護ヲ仰ギ、上総國細草ノ地ニ談林ヲ起ス。遠霑山法雲寺是ナリ。此ヨリ宗門ノ学徒多分此ニ於テ台學ヲ修シ、此學歴ヲ有スルニアラザレバ、本山ニ昇進スルコト能ハザルガ如キ、政府ノ拘束ヲ受クルニ至ル。
始メ此檀林ハ八品ト富士トノ合成ナリシモ、後ニハ三沢大龜谷小栗栖ニ出デタル者アリテ、次第ニ吾出身ニミ多キヲ加ヘ、化主八十八代の間に、吾門ニ三十五主ヲ出スニ至レリ。但シー般ノ學風トシテ、殆ド純天台ニシテ、宗學ヲ禁ジテ各山ノ苟合ヲ計リシモノノ如シト云ヘドモ、間々教式上ニ於テハ化主ノ独裁ニ依リテ変更セシコトアリト云フ。斯ノ如クシテ談林台學ノ風潮ハ、一進一退近世ノ始メニ及ビシガ、徳川幕府ノ失権ト共ニ、新政府ノ排佛ノ故ニ遂ニ廃檀ノ止ムナキニ至レリ。
宗學ニ至リテハ、精師已來興起セシカドモ、隆盛ニ向セシハ、永師ノ学頭寮復興ニ始マリ、寛師ノ講学ニ宗致ヲ發揮シタルヲ以テ、振興ノ頂上トス。爾来其範疇ヲ越ズシテ近世ニ至ル。
學制巳ニ政権者ニ拘束セラルル如ク、布教モ亦大イニ其圧迫ヲ受ク。不受不施悲田ノ禁制ハ、其累山寺ニモ及ビ、辛ウジテ悲酸ノ境ヲ兔レシノミニシテ、教勢ヲ殺ルルコト少ナカラズ。三鳥院日秀ハ自ラ精師ニ門下ト稱シ、富士ノ教義ヲ借リテ己義ヲ主張シ、宗団ニ属セザルヲ以テ、永ク禁制教徒トシテ間々刑罸ヲ被ル。堅樹日好ハ時世ヲ慨シテ、本寺ヲ誹謗シ、異流トシテ遠島セラレ、其流裔ニ至リテハ、東西ニ徒ラニ強義ヲ唱フルノミニシテ、公然タルコト能ハズ。覚林日如ノ流刑、敬愼日清ノ死、立妙日成ノ追放、唯正義ヲ骨張スルニ在リテ、敢テ余罪ナキモ如何ニセン、本山ニシテ此ヲ救フコト能ハズ。俗士ニシテ金澤ノ各信士、信州ノ城倉茂左衛門、尾州ノ岩田理蔵等、或ハ累紲ノ苦ヲ受ケ追放ノ難ニ遇フ。此等全ク姑息ノ制度ニ基ケドモ、俗吏ノ頑冥ニシテ無理解ナルト、壓制ヲ能亊トシテ、下民ヲ苦ムルコトヲ好メルヨリ出ルトイヘドモ、多クハ他門僧俗ノ怨嫉ヨリノ讒訴ニ係ル。故ニ新地ノ開拓殆ド其便ヲ失セリ。
近世維新ノ始ニハ如上ニ加ルニ、排佛ノ風潮ニ苦シメラレ、教學共ニ弛廃セシガ、信教自由ノ曙光ヲ拝スルニ及ビ、大ニ布教ノ便益ヲ得テ、各地ニ教勢ヲ張リテ、新田ヲ開拓スレドモ、折伏逆化ノ宗風ハ一般ニ可ナラズシテ、教歩遅々タルノ感ナキニアラズ。
學制ニ至リテハ、布教会学林起ルマデハ、制度トシテ特ニ云フベキモノナシ。與鬥第二支林カラ東學林トナリテハ、本宗分離ノ際ニ休校シ、富士學林ヲ實施スベキモ、其挙ニ出ルコト能ハズシテ、宗學専門道場ヲ建テ、僅カニ學統ヲ繼グ。近時教学財団成ラントス。此ニ依リテ教学共ニ光彩ヲ放タンカ。
終ニ本宗ト官邊トノ關係ヲ述ベン。上世ニ在リテハ常時何等ノ干渉ヲ受ケズ。中世ニ於テモ一本寺トシテ、勝劣派役寺ノ支配下ニ在ルノミナリシガ、近世日蓮宗ニ勝劣派ニ興門派ニ転々トシテ、官憲ノ干渉ノ爲ニ、止ムヲ得ズ、呉越同舟ノ境界ニ屈セシガ、遂ニ明治三十三年ニ、一山分離独立シ、日蓮宗富士派トシテ、独自ノ新天地ニ騏足ヲ延ブルコトヲ得。次ニにマタ日蓮正宗ト改称ス。爾後漸次ノ発展ト、過去六百年来ノ屈抑ヲ蝪ブルコトヲ得テ、着々仏恩國恩感謝ノ實ヲ挙ゲ、宗祖開山出世ノ大事タル王仏冥合、一天廣布國立戒壇等ノ完成ヲ待タンノミ。
第二章 宗義
第一段 所依経釈
本宗ハ釋迦佛所説ノ妙法蓮華經八巻無量義經一巻観普賢賢經一巻卜、日蓮大聖人ノ筆作全集タル本祖文集四十四卷同続集十二巻註法華経十卷卜、日興上人ノ五人所破抄等ヲ正依トシ、天台大師所説ノ摩訶止觀十巻法華玄義十卷法華文句十卷、及ビ此三大部ヲ釋セル妙楽大師ノ弘決輔行伝十卷釈籤十卷疏記十卷等ヲ以テ傍依トス。其他ノ經論古今東西百般ノ善論ハ、依義判文して本宗ノ助成卜爲ス。
正依ノ経二在リテ無量義経ヲ開経卜シ、観普賢経ヲ結経トスルハ、實相卜懺法トノ連鎖ニ依ルコ卜、通説ノ如キガ故ニ取意急要ニハアラズ。
法華経ヲ以テ正依ノ經トスルコトハ、文上ニ於テ権実ノ開廃ヲ以テ、爾前ノ一切経論諸仏説ヲ統一シテ、法華ニ歸セシメ、三説超過ノ経王ヲ開顕セルヲ取リ、更ニ本迹ノ開廃ヲ以テ、三世ノ迹仏を開シテ久遠ノ本仏ヲ顕シ、仏国深重ノ因縁ヲ示サレシモノヲ取ル。加之其文底ニ脱ヲ簡ビ種ヲ取リ、以テ現代修証ノ要諦卜ス。
又經ノ各文ニハ宗旨ノ三秘ヲ含ミ、寿量ノ品題ハ宗祖当身ノ秘宝ヲ包ミ、神力ノ付属ハ末法出現ヲ予告シタル等ノ妙旨アルガ故ナリ。
本宗ノ旨意ハ全ク仏讖ニ応ゼル宗祖ノ立義ナルガ故ニ、其著述消息全部ヲ取リ、序正流通ニ三分シテ、此ヲ仰信スルコト勿論ナリトイヘドモ、他門現行ノ各本共ニ未ダ完カラズ。故ニ本祖文集正續ヲ取リ、更ニ新発見ヲ増シ、誤謬ヲ校訂シテ完璧ト爲スベシ。
御義口伝御講聞書ノ如キ、此集ノ内ニ在リ。註法華経ハ集註ニシテ宗要ニアラザルガ故ニ、此集ニ入レザルカ。今ハ別刋ニ任セタレドモ、完本編纂ノ時ハ此ヲモ網羅スベシ。但シ急要義ニアラズ。
開山ノ五人所破抄ヲ取ルハ、五一ノ相対ヲ知リ、祖承ノ誤ラザルヲ示ス。他編亦用ユベキモノ多シ。
已上微細ニ此ヲ見レバ、三分ノ中ニモ亦自ラ傍正緩急ノ別アルベシ。
傍依ノ釋ニ天台妙楽ノ三大部等ヲ用ユルハ、古来法華數十ノ釈家中天台一人正鵠ヲ得テ、像法転時ノ教主卜称セラルル故ニ、時ニ約シテ正確ニシテ三時ノ因縁深厚ナルヲ取ル。妙樂已下ニハ伝教大師等山家ノ正系ヲ等取スベシ。故ニ三大部本末ノ外ニ取ルベキモノ多シ。今ハ代表作ヲ挙グルノミ。
第二段 宗名
法華経に依ルガ故ニ上世ハ単ニ法華宗卜称セシガ、後ニ天台ノ法華宗ニ簡別スルガ爲ニ、日蓮法華宗卜称ス、是人法能所両(?)挙ノ美名ナリトイヘドモ、寧日蓮宗號ノ簡明ナルニ如カズ。此號他ニ稱セラレタルガ故ニ、日蓮宗興門派卜称シ、更ニ日蓮宗富士派卜改メ、現今ハ日蓮正宗卜號ス。但シ開山所伝ノ正統ナルコトヲ示シテ、他ニ簡異スルナク、其他區々ノ私稱モ亦少カラズ。
第三段 判教
本宗ニテハ、仏教ヲ判釋スルニ、廣略要ニ從淺至深シテ、権実本迹種脱ノ三重ヲ用ユ。其権実判ハ略ニシテ深義ナリ。本迹判ハ要ニシテ深秘ナリ。種脱判ハ要中要ニシテ、秘中秘ナリ。故ニ宗祖ノ本領ニ属ス。
其外内外大小ノ廣ノ淺義判ニ至リテハ、通汎ノ義ニシテ敢テ本宗ノミニ係ルニアラズ。
一ニ権実判トハ天台大師ノ八教五時ヲ以テ、釈尊一代聖教ヲ判釈スル如ク、化法ノ蔵通別円ト、化儀ノ頓漸秘密不定卜、一代五時ノ華厳阿含方等般若法華涅槃ノ、通別ノ綱格ニ依リ、法華ヲ實トシ爾前ヲ権トスルヲ取ル。又更ニ各國流行ノ仏教各宗ヲ批判スルノ標準卜爲ス。
二ニ本迹判卜ハ、天台大師ノ本迹二門ヲ以テ、法華経等ヲ判ズルガ如ク、本化迹化ノ區別ヲ立ツルノミナラズ。又三種ノ教相ヲ以テ一代ヲ判スルガ如クス。三種ノ教相卜ハ、一ニ根性融不融相。二ニ化導始終不始終ノ相。三ニ師弟ノ遠近不遠近ノ相。
宗祖ハ一往此判釈ヲ用ヒテ、爾前法華ノ勝劣浅深、当分跨節ヲ判ズルモ、再往第三法門ヲ立テテ、本宗ノ奥義ヲ示サレタリ。
三ニ種脱判トハ、是実ニ宗祖金口ノ秘判ニシテ、他門不共ノ奥義ナリ。開目抄及ビ本尊抄ニ僅ニ其一班ヲ宣ブルノミ。即チ其発顕ノ時ハ末法ニ在リ。國ハ日本ニ在リ。仏ハ教主釈尊、法ハ妙法蓮華経ナルコトハ、顯露ノ義ナリトイヘドモ、深ク其實體ヲ尅定スルトキ、其本仏ハ示同凡夫シ、本法ハ壽量ノ文底ニ秘沈ス。此久遠名字本因下種ノ法仏ヲ以テ、時國相応ノ當機益物トシ、文上顕本ナルノ第一番本仏末法已下ヲ以テ、却ツテ非機非時非国ノ脱益トス。是全ク惑耳駑心ノ秘中ノ秘説ナり。
已上三重ノ玄門ハ、第三法門ト密セル奥義ニシテ、マタ五重三段五重相對卜連結シテ、即本宗判教ノ要諦ナリ。
此外四重興廃五重円等ヲ以テ、助判ト為ストイヘドモ、此ハ是天台附順ノ説ニシテ、転用ニ非ラザレバ要日ナルコトヲ得ズ。
第四段 教義
第一節 総説
本宗ハ釋尊出世ノ本懐タル法華経ニ依リ、本仏護念ノ妙法ヲ以テ、宗祖末法ニ出現シ、一切衆生ニ授与シテ、即身成仏ノ秘訣トス。而シテ惡機悪時悪國夕ルヲ嫌ハズ、本仏慈念ノ下ニ即善人善世淨土卜開顕セシム。况ヤー分ノ正善有ランニ於テヲヤ。是即順逆正邪普潤ニシテ、能變毒爲薬ノ三秘ノ力用ナリ。此三大秘法ニ千萬ノ教義総在ス。今略シテ六箇ヲ擧グ。曰ク宗教五綱本迹二門折伏正規謗法厳戒受持正行下種正益是ナリ。
第二節 別説
第一 宗旨三秘
衆生ノ身口意ヲ調整スルニ、定戒慧ノ三學ヲ用ユルコトハ、仏門ノ通軌ナリトイヘドモ、時機ニ隨ヒテ其表現大ニ異ルコトアリ。例セバ戒ニ大小アリ本迹アルガ如ク、定慧亦然リ。今時末法ノ三学ハ、宗祖佐渡ノ開顕ニ依リ文底下種本門ノ三大秘法ナラザルベカラズ。
一ニ曰ク本門本尊即チ定ナリ。観ズルトキハ、虚空不動ノ定体ナリ。信ズルトキハ、宗祖所圖ノ大漫荼羅ナリ。二ニ曰ク本門題目即チ慧ナリ。觀ズルトキハ虚空不動ノ慧用ナり。信ズルトキハ以信代慧ノ口唱ノ玄題ナリ。三ニ曰ク本門戒壇即チ戒ナリ。觀ズルトキハ虚空不動ノ戒相ナリ。信ズルトキハ廣布ノ戒壇堂ナリ。
此三秘ハ全ク本尊ヲ主體トシテ、他ハ此ニ摂在スルコトアリ。即チ此本尊ヲ成仏得道ノ對境トシテ、妙法ヲ口唱スルハ題目ナリ。此ヲ安置スル道場ハ戒壇ナリ。故ニ合スレバ三秘即一秘ナリ。開スレバ人法信行事羲ノ六秘トナル。以下更ニ細説セン。
一ニ本門ノ本尊トハ、本尊又漫荼羅ト称ス。本尊ノ義ニ根本尊崇、本来尊重、本有尊形アリ。漫荼羅ノ義ニ輪円具足、功徳聚、方壇等アリ。其法体ニ法界自爾、霊山顕現、道場荘厳、行者心具等アリ。此等ノ名義多クハ、觀解ニ属ス。今信行ニ約シテ之ヲ云ハバ、吾人信仰崇拝ノ對象ナリ。此正境ニ縁セラレテ、久遠ノ根本信ヲ発動シテ、金剛信ヲ成就スルコトヲ得ルナリ。
本尊ノ表現ニ霊格ト人格トアリ。即法卜人トナリ。法ノ本尊卜ハ衆人ノ觀解ヲ以テモ、猶此ヲ髣髴シ得ベキ。法界ノ玄理ヲ超ヘタル事ノ一念三千ノ妙境、即妙法蓮華経ノ大漫荼羅是ナリ。其儀相タルヤ、文字ヲ以テ顕彰ス。中央ニ南無妙法蓮華経日蓮卜書シテ中尊トシ、左右周囲ニ十界ノ聖衆護世者伝法者ヲ配列ス。此ハ是中尊ノ心象ヲ示シ、又中尊ニ遍照セラレー如朝宗スルコトヲ示ス。
次ニ人ノ本尊卜ハ報中論三ノ自受用報身如来ナリ。其末法ニ体現スルモノヲ、日蓮大聖人ト信奉シテ、木画ニ表シテ如在ノ礼拝ヲ尽クス。此自受用身ニ妙事ノ一念三千ヲ具スルハ、人即法ノ本尊ナリ、妙事ノ一念三千ガ、自受用身ヲ具スルハ法即人ノ本尊ナリ。此互具ノ邊ヲ、人法一箇トモー體トモ釈シテ、吾人ノ依止卜仰グ。故ニ寺院ヨリ民家ニ至ルマデ、此本尊ヲ安置シテ眞俗信行ノ正境トス。但シ三寳ニ凖ジテ開山ノ御影ヲ加フコトアリ。目師以後ノ古儀ナルガ如シトイヘドモ、或ハ別儀タルベキ歟。
二ニ本門ノ題目卜ハ、妙法蓮華經ニ帰命ヲ点ジタル五字七字ナリ。此ハ是法華ノ經題ナリトイヘドモ、序品ニ在カズ、八品ニ在カズ、一品二半ニ在カズ、寿量文底ニ秘沈スル久遠本仏ノ妙智ナリ。事一念三千ノ妙體ナル本門本尊ノ妙境ニ對スル、事ノ一念三千ノ妙用ナル本門題目ノ妙智ナリ。但シ本仏ニ在リテハ一身ノ境智、吾人ニ在リテハ信入ノ境智ナリ。此ヲ以テ五字ニ南無ノ帰命ヲ加ヘテ七字卜爲ス。
行者純信ヲ以テ本尊ニ對スルトキ、此七字ヲロ稱スルニ、懈怠餘念ヲ絶シ、躁ナラズ急ナラズ、?ナラズ緩ナラズ、一辺モ少カラズ、千萬モ多カラズ。合掌瞻仰ノ儀禮ヲ尽シテ、遍身法悦ノ域ニ至リ、境智冥合スルヲ期スベシ。久遠本仏微妙ノ智用ハ、是本門ノ題目ナリトイヘドモ、行者ニ在リテハ是全ク本尊ニ叩カレタル根本信ノ発動ナリ。故ニ一念ノ信起リタルママニ放置スルトキハ、成長セズシテ退却スルコト有ルヲ以テ、行ヲ励マシテ漸次ニ信根ヲ助長スベシ。今一念発起ノ信力ハ猛然トシテ口唱ス。此即信ノ始ナリ。此ヲ相續シテ魔縁ヲ退ケ金剛信ニ至ラシムルノ行力ハ、此即信ノ終ナリ。故ニ題目ヲ信行ノ二ニ分ツテ、因果始終ノ関係ヲ明ニシ、二具足スルニ非レバ信成ラズ行起ラズ。金剛信ノ獲得境智冥合ノ利益ハ、全ク信行具足ノ賜ナリ。爰ニ於テノ信智ハ一切ノ世智ヲ超エテ、萬有ノ知識ニ相応ス。忽ニスベカラズ。
三ニ本門ノ戒壇卜ハ、久遠常住ノ道義ノ結晶タル本門戒ヲ、伝受スル厳儀ノ壇場ナリ。戒卜ハ其 、 品体経教各別ナリトイヘドモ、防非止惡ヲ義トス。小乗ノ五八十具ニ止作アリトイヘドモ、自利ヲ主トシ、大乗ノ十重四十八輕等ニハ、三聚淨戒ヲ開キて利他ヲ主トス。迹門亦以テ准ズレドモ、本門ニ至リテハ強イテ名相ニ區々タラズ。持破ヲ論ゼズシテ自然不可壞ノ金器ノ妙戒トス。是無戒ノ名アル所以ナリ。
次ニ壇卜ハ、四域多ク露地土壇ニシテ、祇園精舎ニ在リシハ、三重ニシテ三壇ニ分カレテ、授戒説戒セリ卜云フ。支那ノ戒壇其所頗ル多シ。日本ニ至リテハ、東大寺延暦寺国立戒壇ニシテ土壇三重ナリ。後ニ石壇ニ改メタルアリ。其支所亦各地ニ在リ。何レモ大小ノ本尊佛ヲ安置シ戒師ニ充ツ。
本宗ノ戒壇ニ至リテハ、未ダ予定ノ図案ヲ見ズ。但シ宗祖ハ叡山ノ迹門戒壇ニ准ジテ、本門国立戒壇ヲ冨士山ニ建設センノ意ナリシモ、其場所ヲ公示セラレズ。後世ニ至リ天母原ナリ卜稱スレドモ、確定ノ設計等ハ其時ヲ待ツベキモノカ。
此戒壇二事義ノ二アリ。国立戒壇ハ事ナリ。是未来一天廣布ノ時ノ勅建ニ依ルガ故ニ、其時ニ至ル迄ハ、本寺ノ戒壇本尊奉安ノ宝藏ヲ以テ暫ク之ニ充ツ。即チ義トシテ戒壇ニ當ル。末派ノ道場モ亦此意ニ依テ、分ニ之ニ准ズ。
第二 宗教五綱
三秘ヲ弘ムルニ、先ヅ宗教ノ五綱ヲ知ラザルベカラズ。一ニ教ヲ知ラザレバ三秘ノ宗旨ヲ立ツルニ由ナシ。二ニ機を知ラザレバ折伏逆化ノ手段ニ暗シ。三ニ時ヲ知ラザレバ三時ノ弘経ニ迷フ。四ニ國を知ラザレバ日本国ヨリ此大乗法華ノ三秘ノ弘マルベキコ卜ヲ知ルベカラズ。五ニ教法流布ノ前後ヲ知ラザレバ、從浅至深シテ当時ハ大故ニ五綱ヲ知ルハ即三秘弘通ノ弁證ヲ得夕ルモノナリ。
更ニ此ヲ委クセバ、ーニ教卜ハ仏菩薩等ノ経律論等ニシテ、聖人被下ノ言説ヲ収録シタルモノナリ。此ニ大小権実顕密アリ。其中ニ実大乗法華ハ已顕眞實ノ経ニシテ、他ノ未顕真実タルー切經律論ヲ、開顕統一スル無過上ノ教ナルコトヲ辨知シタル上、更ニ此經ニ末法応時ノ三秘ヲ包含スルヲ知ルヲ要ス。而シテ經ハ正義ニシテ律ノ行儀卜論ノ研究トノ總持タルヲモ了知スベキナリ。
二ニ機卜ハ、衆生可発ノ機根ニ利鈍善悪頓漸種脱等アルガ故ニ、箇人ニツキテ能ク此ヲ弁別シテ、適応ノ教ヲ施サザレバ、化効ナキノミナラズ、却テ教毒ヲ起スベシ。今ハ本未有善ノ機、毒気深入シテ、正法ヲ信ゼズ、誹謗シテ悪果ヲ招ク。故ニ毒鼓逆化ヲ以テ下種結縁スベキノ機ナリ。斯ノ如ク総合シタルノ機ヲ云フトキハ、自カラ次ノ三四ノ時卜國卜ニ転入ス。
三ニ時卜ハ仏滅後ニ法ノ留在スル期間ヲ三時ニ分ツ。正法像法末法是ナリ。正法ニハ多ハ小乗、少クハ権大乗、像法ニハ多クハ権大乗少クハ實大乗、今末法ニハ實大乗中ノ要法流布スベキ時ナルコトヲ弁知スベキナリ。又正法千年ノ初期ニハ解脱堅固ニ住シ、次期ニハ禅定堅固ニ住シ、像法千年ノ初期ニハ讀誦多聞行ハレ、次期ニハ多造塔寺行ハル。末法ニ入リテハ闘諍言訟盛ニシテ、白法隱沒シテ顕ハレズ。此時ニハ戒定慧ヲ超越セル無戒散心但信ヲ以テ、成佛スベキ、本門三秘ノ大法顕ハルベキ時ナルコトヲ了知スベキナリ。
四ニ國卜ハ須弥四洲ノ中ニ北拘盧ニ聖教ナク、仏出ハ南閻浮ノミト云フ。其中ニ寒熱大小貧富文野非宗教宗教等アリトイヘドモ、仏教ニ適シタル國ハ何レゾヤ。殊ニ法華種姓ノ國ハ何レナリヤト考察スルトキ、吾日本国ニハ古来大乗種性有リト称セラレ、聖徳皇ノ弘教已來法華有縁ノ國卜云ハレ、三秘ノ大法茲ヨり起リテ、萬國ニ流布スベキ深秘ノ因縁アル靈国ナルコトヲ知ルベキナリ。
五ニ教法流布ノ前後卜ハ非仏教國ハ暫ク措ク。苟モ佛法流布ノ所ニ於テハ、弘教者ハ必ズ其地現行ノ法ヲ知悉シテ、其ニ連絡スベキ向上ノ教を弘ムベク、小大権迹本等ノ順序ヲ誤ルベカラズ。強テー機ニ滯リテ徙ニ易弘ヲ主トシテ、順序ヲ顛倒セバ、衆機ヲ逆転セシムルノミナラズ、一国ヲ?淪セシムルノ悪果ヲ生ズ。故ニ此觀察ヲ忽ニスベカラズ。
第三 本迹二門
本迹二門ハ通判ニ依レバ、前十四品ノ所説ヲ因門始覚門迹門トシ、後十四品ヲ果門本覚門本門トス。又其特長ハ在顕実相、相待妙、理一念三千卜、顕壽長遠、絶待妙、事一念三千等ニ分ツトイヘドモ、二門ノ関係密接ニシテ、暫クモ相離ルベキニアラズ。故ニ六重ニ分ツテ其関係ヲ明ニスル時モ、不思議一ヲ表ニシテ、本迹宛然ヲ包ミ、不二而ニノ関係ヲ示スコ卜常ノ如シ。斯ノ如キノ本迹ハ台門ノ要ニシテ、宗祖出世ノ要道ニアラズ。
宗祖本迹ノ密意ハ、此等ニ超越シタル種本脱迹ノ重ニシテ、第三法門五重相対ノ極重ニ在ルガ故ニ、台門ノ本迹ハ其第二第四ニ当リテ、宗祖ノ前方便ニ属ス。然レドモ上世ニハ此義廣ク開演セズ。秘中秘トシテ一部ニ口伝セラレシガ故ニ、読誦修行等ニ一致勝劣ノ諍論起ルニ至リ、現今稍宗祖ニ還元セント力ムルガ如キモ、皮相ニ過ギズシテ、未ダ肉骨ニ達スルニ至ラズ。
第四 折伏正規
教化ノ方法ニ折伏ヲ用ユルハ非常ニシテ逆化ナリ。平時ニハ多ク攝受ヲ用ヒテ順化ス。故ニ弘教者ハ忍辱軟語柔和ノ態度ヲ以テ摂受スルコト多クシテ、激励麁語剛毅ノ態度ヲ以テ折伏スルコト稀ナリ。此ヲ以テ凡ソ教導卜云ヘバ、直ニ摂受ヲ取リ、弘僧ト云ヘバ直ニ柔和ヲ表ストイヘドモ、今ハ時國共ニ険悪ニシテ人亦無宿善ナルガ故ニ、攝受ノ益アルベカラズ。止ムコトヲ得ズシテ逆化折伏ノ方ヲ用ヒ、四箇格言ノ毒皷ヲ撃チテ妙法ヲ宣伝ス。信ズル者ハ稀有ノ順縁ナリ。謗ズル者ハ顕冥ノ罰ヲ被リテ、現ニ倒レ當ニ起ツベキ逆縁ヲ結バシム。但シ此折伏ヲ正規大則トシテ、國ニ依リ時ニ依リ人ニ依リテ、四悉檀ヲ斟酌シテ宜キニ適フベキコト勿論ナリ。
然リトイヘドモ上世ハ各門此方針ヲ体セシモノアリシガ、稍宗団ヲ造ルニ至リ、現状維持ノ為ニ動モスレバ、俗権ニ對抗スルコトヲ避ケテ、却テ迎合阿諛ノ爲ニ遂ニ軟弱ノ化風ヲ生ジ、攝折兼用或ハ純摂受ヲ標榜スルモノアルニ至リ、中世受不受ノ諍論起リテ、永年解決セズ。引テ宗勢ヲ減殺シ、本宗スラ其波動ヲ受ク。
但シ宗化ノ折伏ハ言論ヲ以テ、邪悪ヲ折破屈伏スルニ止マルガ故ニ、思想的ニシテ肉體ヲ傷害セズ。如何ニ激烈ニ行フトモ、猶徹底セズ。釋尊ノ涅槃経及ビ宗祖ノ本尊抄ニハ、兵権国威ヲ使用スベキコトヲ示ス。茲ニ至リテ始メテ折伏ノ徹底ヲ見ルモ、此ハ是外護ノ所行ニシテ、宗侶ノ爲シ得ル所ニ非ザルナリ。
第五 謗法厳誡
謗法卜ハ通途ニ誹謗正法ヲ云ヒ、更ニ十四誹謗ヲ加称ストイヘドモ、他宗徒ノ謗法ハ措イテ云ハズ。
自家ノ謗法卜ハ、大法ノ信念弱キガ為ニ知ラズ知ラズ信ガ二途ニ成リ、又ハ明ニ反宗ノ態度ヲ取ルヲ極トシ、此ヲ改悛セザル者ヲ、大謗法トシテ破門ニ処スベシ。宗是即門ハ行學ノ上位ニ信ヲ置クガ故ニ、無信反信ハ戒ノ断頭罪卜等シク、自修ノ万行徒労ニ帰スルノミナラズ、他ノ善根ヲ損害スルコト甚シキガ故ニ、極重ニ処置シテ厳誡セザルベカラズ。
已下ノ非行違法薄信ノ行爲ヲ小謗法トシ、随時随所ニ懺悔ノ實ヲ挙ゲテ、堅信ニ進マシメテ衆機救済ヲ期ス。但シ謗法巌誡ハ自行門ニ當リ、折伏正規ハ化他門ニ当ルト云フコトヲ得ベシ。
第六 受持正行
經ニ現在ノ四信滅後ノ五品ヲ説ケリ。又受持読誦解説書写ノ五種ノ妙行ハ、弘法ノ通規トシテ、転読八講如法經等ニ、厳儀トシテ行ハレタリトイヘドモ、宗祖ハ受持ノー行ヲ以テ正行ト定メ、開山ハ像法過時ノ贄行卜定メテ、正行ノ下ニ隷属セシメ、別儀卜爲スコトヲ禁ゼリ。
所以ハ信力ノ故ニ受ケ念力ノ故ニ持チ、念々相続ノ受持ノ総行ハ、末法ノ易行ナルガ故ニ、専ラ但行禮拝ノ規矩ニ用ヒテ、餘ノ四ガ正行ニ濫ズルヲ防ギ、行者ノ專注ヲ助長セシム。
故ニ唱題ハ正行ニ当リ、方便壽量ノ二品讀誦ハ助行卜成リ、餘品ハ一モ勤行ノ式ニ用ユルコトナシ。解説ハ全ク化他ニ属シテ、式ト並行スルヲ要セズ。書写ニ至リテハ殆ド行式ニ加ヘズ。
第七 下種正益
佛陀ノ利生ニ種熟脱ノ三益ノ時期アリ。大小長短念々無数ニ区別スベシトイヘドモ、大判三ニ過ギズ。一ニ久遠元初ノ本因的三益。二ニ久遠実成ノ本果的三益。三ニ末法万年ノ本因的三益期是ナリ。
其種卜ハ法界ノ眞理ヲ体得シタル、即妙法蓮華經ノ種子ヲ云フ。此ヲ所化ノ心田ニ下スヲ下種卜云ヒ、領納シタルヲ下種益卜云フ。次ニ熟卜ハ下種巳來漸次ニ心田ヲ耕耘シ、解行調熟スルヲ熟益卜云フ。次ニ脱卜ハ解行調熟ニ依リテ煩悩ノ繋縛ヲ脱シテ、至上ノ覚行ヲ証得シ自行化他満足スルヲ脱益卜云フ。
五百麈点刧間ノ三益結成シテ、正像ニ幾分流ルルモ、二千年間ニ全ク解脱スルガ故ニ、更ニ新シク仏種ヲ下サザルベカラズ。是實ニ久遠元初ノ再現ニシテ、久遠元初卜末法卜ハ其揆一ナル。此ニ依リテ三益ノ形ヲ云ハバ、種卜ハ元初ノ至人ガ一迷先達シテ、自己ノ體驗タル妙法ノ義ヲ、世界ニ唱導スルトキ、此ヲ聞ケル人々、此妙法ヲ己ガ心田ニ領納ス。此即下種益ナレドモ、更ニ發心解行スルヲ須ヒズ。後ニ至りテ任運ニ発心解行シ或ハ熟シ或ハ脱セントスル時、能化ノ至人ハ已ニ本因ヲ転ジテ、本果ノ仏陀ト成ル。是第一番実成ノ本仏ニシテ、次期ノ五百塵点劫ノ最初仏ナリ。
此本果的三益ノ種トハ、第一番仏ヨリ法ヲ聞テ発心ス。此即下種益ナリ。此ヨリ更ニ万種ノ解行ヲ起シ、中間大通仏時代ニ至リ、観行相似ノ熟益ヲ成シ、已来漸次ニ分眞シ得テ八相成道ス。此終ガ即釈迦仏ノ脱益期ナリ。此ハ是大判ナリ。
各門下ニ宗祖ハ是下種正益ナルコトハ、異議ナキガ如シトイヘドモ、其種子ハ本因ナリヤ本果ナリヤ。又其所有者ハ本因菩薩ナリヤ本果仏ナリヤ等ノ異義乱菊ニシテ、未ダ宗祖ノ本懐ヲ了達スルコト能ハザル如キハ慨嘆ニ堪エザルナリ。