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日蓮正宗綱要の講話
第一章 宗門の歴史
第一段 其の総括くり
第一節 其の序開き

 此の世の在らん限り、我等を救ひ導きくださる仏様が必要な時には屹度お出ましになるのである、そうして人々の為めになるような教えを為さるることが少しの間も断えぬのである。
 世の中の出来始め遠い遠い大昔、何事も一向に開けぬ時代に一人の優越人があった。迷える多くの人の為めにも、亦自分の爲にもなるやうな道を求むる志を立てて、様々と御苦勞をなされた。其思ひが届いて妙法蓮華経と云ふ立派な道の大本となるものを握られた。其を種子として自他の爲に尽力なされて到頭第一世の佛となられた。其時代は今から幾億万年になるやら、世界に在りと有らゆる数字を使っても、勘定の出来ぬほどの年数であるから、假に五百麈點刧の昔と云はれてある。
 其れから後は吾等の住居する此世界を本家として、外の多数の世界の中にも代理の仏たちを遣ったり自分でも出たりして、其名前や時代は一々に異つては居るけれども、人を導く廣き智慧と人を助くる大なる慈悲とは少しも変ることが無いので、此の限り知られぬ永き年代の間に積りに積もった智慧の広さは東西南北四維上下の十方世界にも行き亘り、御慈悲の深さは過去と現在と未来の世の中の在らん限りを貫き通してる。
 此の数々ある仏様の中で今から二千余年の昔し印度の国に出られた仏を釈迦牟尼仏と云ふのであるが、第一番の初代の仏様から幾万代目に当るやの推測は出来ぬけれども、其間の仏達が世の中の為に尽くされた功徳と云ふ功徳は、皆持って生れて居られて、五十年の間に華厳阿含方等般若法華の五つの重なる御経の中に、蔵通別円と云ふ四つの教理を織り込まれて、人々の知識に応じて次第に進めて法華経に引き込まれた。此處で一同の人々も御自分と同じ佛となるべき事が決定して、折角世に出ただけの目的は成就して大満足を為されたのぢゃが、猶後々の世の為にも亦心を砕かて、法華経の中の妙法蓮華経の五字をば、第一番最初成仏の前からの御弟子で、最も因縁の深い上行菩薩に伝受して、末法の最も衰へた時を待ち出でて、頼りなき哀れな人々を救ひ導くやうに云ひ付けられたのである。

第二節  其の正味

 御釋迦樣の無くなられてから後は、其時々の人々の意趣次第で、教えの方も色々に移り変って、末には到頭効能も薄くなり、又弘まつた国々も段々に少くなった。其を正法千年像法千年末法万年の三つに仕切ってある。其中に外部の型式と内部の精神とが、少しも缺けずに満足に流行った時代が正法で、内部の精神が微になって外部の型式ばかり殘って流行つた時代が像法で、型式も精神も一所に微弱になった時が末法である。
 正法像法には其時代相應の學徳共に高い人達が出られたので、多分は御法を仏様の思召のやうに正直に説き勵められたので、人々は大に利益を受けたけれども、末法になると菩薩羅漢がたの學徳秀でた僧達は全く出なくなって、佛を売り、法を売りて生活する商賈の職業の坊さんばかりで、売る僧も買う信者も、仏法は賣買すべきものでないと云ふ事には気が着かずに居る。よし氣が着いても活命には替えられぬで致し方がない。亦自分の宗旨は疾くに癈れて居て現代の役に立たぬ事をも深く考へずに、先祖伝来のが今時に不向きと見ると直に様々に飾り立てて短所を隠し、自分の宗ばかりが此上も無き法と云ひ立てて他宗の事は悪しきものと定めて、口にまかせ筆のまにまに謗りてをる。亦は世間体を飾りて陽には誉め上げて陰では真から嫌うて自宗さへ繁昌すれぱ結構な事ぢやと思うてをる。此様な仏教各宗が繁昌すればするほど、其仏法は人と国とには無用であるばかりでない。僧侶の商売信徒の迷信から文明の進歩を妨げ、一国の栄ゆる道を塞ぐ事にもなる。
 釈迦仏が予言をして置かれた様に、斯様な濁った悪世の人々を救ふ爲に生れられたのが、吾等の尊信する日蓮大聖人である。大聖人は無論現代の救ひの主であるが、色々な時代後れの宗教が一般に弘まつて居て、大聖人の救ひの御手の邪魔にもなり、又人々の進まうとする智慧や信仰の妨にもなるから、此等の障碍物を取除ける爲に、念佛無間禪天魔真言亡国律国賊等と、四箇の格言を叫ばれた。此の障碍物が民衆の頭から取り払われた処で、本門の本尊と戒壇と題目との三箇の御大法を与えて、人々の身心の拠り所落ち着き所と、御定めになったのである。
 当世に法華経を弘むる事のむつかしいのは、已に御釈迦様が経文に説きなされてある。それで大聖人様が命がけの弘通をなされて、島流しや打頸の座にまで坐られたほどに御苦労なされても、天子将軍の御信用を得ることはできなかったので、やむを得ず、各地に散在する門弟中より秀れたる日昭日朗日興日向日頂日持の六人を、安房上総下総武蔵相模駿河甲斐等の所々の棟梁となされたが、別して日興上人を六人の中から選り出して全ての寺跡や大法をお譲りになった。
 日興上人は之を日目上人に日目上人は日道上人に譲られれたが、此時に内部に爭ひがあつて、次ぎの日行上人の時までも解決がつかず、日時上人の時に漸く落着した。此災難の為に広まるべき御法が却って縮んだ。日有上人は此跡で散々に御苦勞なされて、御法義をも御寺跡をも漸っと已前に回復せらた。
 此より先き日興上人の御時代に他の五老の門中では、上は御本尊の事より下は神社参詣の事で、大聖人の仰せ置かれた事を大分曲ぐるやうになったので、獨り師の御正義を立て通して、止むなく自然に五老の方とは絶交同樣になってより、後世までも大聖人の御在世に立還り’て和合することが出来なかった。
 併し日尊上人(目師弟子)の創められた京都の要法寺とは、始めより多少の交通はあったが、日主上人の時に改めて和合の御約束が出来たのは結構であった。此の調子で段々と交通和融の諸山が増せば善かったが、末には此すら破れたのは残念な次第である。日精上人の時に新しき江戸の都に布教を爲されて、末寺も殖えた。本山の伽藍も擴大せられて面目を一新したばかりでない。自門の学林も出来て學僧も多くなり、布教も盛んになつた。
 日俊上人日永上人日宥上人の時代には、段々と世法仏法の御都合が善くなって永い間衰えて居た事を何かと改進せられて、本山も末派も善くなってきた。日寛上人は学と徳とを備へた希なる御方であって、宗学の研究も行き届いて門人も沢山に殖えて、宗門も昔に変りて非常に振るい起った。其れから代々其の掟を守りて明治の維新まで、格別の事も無く推し移ってきた。
 徳川幕府が倒れ皇政復古となったのは結構な事であったが、生神道家が多くなって仏法を破る風儀が全国に広がり、此れが官憲と結び着いて善悪共に玉石同架に仏寺を壊して廻ったので、宗門でも大いに妨げを受けた。日霑上人は非常の高徳であったので衆僧に推されて再々住して段々ご回復を計られた。此より日應上人日正上人の即ち当代に至るに及んで、本山も末寺も追々に盛大にならうとしてをる。

第二段 其の別々
第一節 宗組樣

 吾正宗の祖師であらつしやる日蓮大聖人樣は、安房國長狭郡東條郷小湊の人で、聖武天皇の御末の三国氏より出た重忠が御父で梅菊が御母である。貞応元年二月十六日の御誕生で、天福元年十二歳の時、程近き千光山清澄寺に登り、道善房を師として天台真言の学業を修められた。其から剃髪を爲されて是生房と改名して益々勉學なされた。日蓮と改名せられたのは、宗旨御建立間際の事であらう。何しろ清澄は片田舎の事とて善き師匠もなく沢山の書籍もないので、時の都なる鎌倉に出でて新しき佛教である禪宗と淨土宗との宗義を聞かれたが、御意に滿つる程の事も無いので、此上は正式に明師に就いて佛學の奥義を窮めなくてはならぬと大決心を遊ばされて、山河遥遥と清澄の本山なる比叡山に登られた。時の三塔の大學頭俊範法印は恵檀両流の先達八家兼得の學匠であれば、此の下に數年の研學を勵み、更に隣の三井園城寺や南都の興福寺東大寺等は申すに及ばす、紀伊の高野山摂津の天王寺京都では東寺御室等まで駈け廻り、八宗の奥義を存分に探りて、又叡山に歸り論場にて現今流行の佛法の不満足なる事、当山の宗學も根本大師の精神を取失へる事を、細々ご論義せられたのに、耳を傾くる者もないので、故山に歸りて建長五年四月廿八日の正午に、清澄の諸佛坊の持佛堂の南面で、諸宗の邪義を破拆し殊更当時都鄙流行の弥陀念仏は謗法の科に依って無間地獄に入るものなりと高唱せられ、現代はこれ等を打ち捨てて唯法華経の題目をのみ唱へて成仏得道を願ふべきものであるとて、自ら南無妙法蓮華経と声高らかに唱へ始めなされた。
 此は末法相応の三秘の大法門の始めであつて新しき真実の宗旨であり、又此の題目を唱へ始むることは、追って本門の本尊の人と法とが顕はれますべき前駆である。正義を説き顕わそうとするには、此れを見聞すべき人の習慣づけられてる或る邪義を払ひ除くる必要がある。古き悪習慣が取れねば新しき正義を其れと見定むる事が出来ぬ。清澄で云ひ始められた諸宗の邪義折伏は余りにも剛義のやうだが、大慈大悲の上からやむを得ざる折檻であるけれども、受くる方では其の御慈悲の程を感ぜず、其の言葉の荒々しきに興醒めて、却って悪感情に走り、己憎つくき坊主奴、我らが為には仏敵法敵ぢや容赦はならぬ存分打ち懲らしめてやらうと身構えする者が多かった。此れ諸宗謗法の毒気に中りて、本心を失へる迷いの人々には甚だ耳が痛かったからである。世界の一切の人々を救うべき大事の身体だ。片田舎の悪太郎の為めに犬死してはならぬ、如何なる方法でも、政府の力を借りても、一日も早く天下に此御法を弘めて国民の安堵を計らにゃならぬ。鎌倉は当時の事實の政府であり全国の大小名の集れる大都會の事であるから大に便宜がよい。其の名越の松葉谷に些やかな庵室を結ばれて、仮の起臥の床として、日中は人通りの繁き辻路に出でて、諸宗の邪義折伏に熱弁を揮はれた。
 茲では棒が飛び石が降る。其れを泰然と堪えて説法に、悪罵の声は日々に増すけれど骨折りの割に随喜の信徒は出来にくかったのは、御経文の予言の通りである。併し少き入信の人は何れも堅固な信行の人ばかりてあつたので、慰めつ慰められつして日々の迫害を忍ばれた。其頃から世の中に不思議と彗星が出たし、大地震があつたり、やれ飢饉、それ疫病と、頻りに人民を苦しむる事のみ多くなった。此れは畢竟禅念仏等の邪教が流行して、法華正教の流れを塞ぐので起るものと考えなされて、念の為に駿河国富士の岩本実相寺の一切経蔵に入りて委しく御覽なされたが、御考へに少も違はぬ御経文が出たので、彌決心の上に文応元年に立正安国論を作りて、宿屋左衛門入道を以て執権職北條時頼に差上げて、念仏停止法華信用の献白を為さったが、幕府では採用しなかったので、兼ねて大聖人に破折せられて恨むでる諸宗の悪徒等は、何れ執権家の憎まれ者だ殺したって傷づけたって御調べもあるまい、それ燒打にせよとて御菴室に火を懸けた。此暴擧の御調べがあらばこそ、漸く難を避けられてる大聖人を見付出して、伊豆の伊東に島流しにした。此處で弘長元年五月十一日より足かけ三年の御苦勞を遊ばされたが、地頭の伊東朝高始め追々とご歸伏の者も出来たので、邊土の流刑も無益では無かった。
 御赦免で鎌倉に歸る早々故郷の安房に歸省せられた。宗旨御建立から十一年目、前回の御帰省からは十二年目になる。此の間に追々信者も出来たので、兼ねて世法仏法の恨みを持てる所の地頭東條左衛門は、最早捨て置けぬと大勢の軍兵を集めて、御一行の小勢を小松原に待ち伏せして散々に攻め立てたので、弟子檀那に死傷が出来る。大聖人も額に傷を負はれて此の場を逃れなされ、猶も房総の処処に巡化せられた事が数年であったが、此の程中より曾て安国論で政府を諫められた事が、不幸にも実現してくる。文永五年には他国侵逼難の前兆として、大蒙古國より朝鮮の取次で通交書が来た。表面には和親を結んで交際しようと云ふのだけれど、向うは大国で此方は小国で対等とは行かぬ。何れ体よき併呑ものである。朝鮮とても已に蒙古に属してをる。其れで若し不承知とあらば兵力を以ても云ひ分を通すと云ふ。無理難題である。
 吾国は昔し外国から攻められた事はあるが、相手が弱かったので大した心配も無かった。今度は恐るべき相手だ。蒙古と云ふ僻地から出て段々と總ての小国を滅ぼし、遂には大宋國まで亡ぼした大した勢力である。朝鮮などは已に平伏してゐる。其恐い叔父さんの難題だ。国家存亡の時だ。啻に政府のみの心配事で済むべきでない。上下萬民一般の大痛事である。兼ねて斯あらんと御心配なされてゐた大聖人に取りては、何して下総辺に落ち着いて居られようか。直様鎌倉に上りて松葉谷に入り、此處で十一遉の御状を書かれて、政府の役人では宿屋左衛門入道北條彌源太平左衛門の三人に、大寺では建長寺の道隆極樂寺の良覿大仏殿の別當等七人に、改めて警告状を發せられた。又弟子檀那の一同へも逹せられたのである。其處で政府でも差當り何する亊も出来ぬ。七大寺では勿論返答が出来ぬで、握りつぶしにする不面目の至りだ。中に正直で血気の徒は此論争に憤激して公塲の對决に應じようと企だてたが成らなかった、又當方では冨木常忍等の信者側で對决があつたような御書が殘つてをるけれど、結果は明瞭でない。其後文永八年の夏になりて極樂寺の良観の下に在る行敏と云ふ者から、對論を申し込んで来たが、大聖人は私の議論では埒が明かぬ、公の法庭で邪正を决しやう、其の手続きを運べと返事なされて、此を機會に公塲對决を催がされたが、此も物にならすに消えた。殘念の次第である。
 公場の對决乾坤一擲の大解決は迚も出來ぬやうである。其間到る所に如何なる機會でも折伏の手は、緩まなかつた。良觀の雨の祈りの失敗などは非常に折伏の好問題に取られたので、彼等の大僧官僧等は兼ねて懇意の又邪法に緑厚くて、大聖人を佛敵と僻める幕吏共に深く結托して、様々に相談を遂げた。遂には徒党を集むるの鎌倉を騷がすのと云ふ罪名を巧んで、九月の十二日に平左衛門頼綱が多勢を引卒して、松葉谷に乱入して召捕へて、一回の調べもなく直ちに大路を引廻して、腰越龍の口まで引き出して頸を斬らうとしたは、如何にも乱暴の極みである。けれども斬ることは出来なんだ。其れは近くの江の島の方から大きな光物が出て、太刀取り等の頭上に耀き亘つたので、皆が驚き恐れて畏まる腰を抜かす斬る処の元気でないのに、政府の方でも様々の事があつて、俄かに斬罪を止めて遠き佐渡に島流しにして四箇年苦しめ申した。
 大難四箇度小難数知れず、一難加はる毎に一徳が明らかに光るのである。龍の口の頸の座では父母所生の凡夫の肉身が、即久遠名字の御本仏と拜まれた。佐渡の流罪には守護の本間に鎌倉の同士討を暗示して、自界叛逆難を明らかにせられたので、本間一家の驚異は非常であったが、国風は伊豆のように温和でない。僧俗共に荒夷同然である。数百人の僧俗が塚原の三昧所に押し寄せての問答に散々の敗北、其の腹癒せに何彼と妨害をした。其れに夏は暑く冬は寒きのみならず万事不如意の所より、鎌倉等の弟子檀那に御法門が書き送られた。松葉谷時代とは大変に相違した大事の大事の御法門である。開目抄と云ひ、観心本尊抄と云ひ、如説修行抄顕仏未来記等の大小の教令が頻発せられた。そうして三昧所の雪に閉られ風に曝され暑熱に中てられ食料乏しき中に、何等の御障りもなく安泰に却って法悦を示さるる。此は到底凡僧に出来る亊でないと信徒の歸依は彌が上に加はる。三徳の依止は此御僧である。あら有難やの聲も涌く。叉他宗の謗法者どもは何たる不思議の僧であらうと驚きの眼を見張って、益々恐ろしがるようになった。艱難汝を玉にすと云って人格は苦勞で出来上ると云ふのは、平常の人に世間の人が云ふ事である。大聖人様の上では別して機に觸れ時に依り處に激して、久遠より潜在し給へる本地本佛の自づと開け顯れた御霊境と信じ奉るべきであらう。
 鎭倉の執権家では龍の口の斬罪が無法であった事を後悔もし、又大聖人に危険思想があった譯でない。一途に弘法の熱心より起ったと云ふ事が、自然に判って來たので、佐渡の遠流も亦法に過ぎた事である。永らく苦しめ申してはならぬ。もう召し還して宜からうと云ふので、文永十一年に鎌倉に歸られた。、執權家の実務に當れる例の平左衛門が、早速對面して何彼と御伺ひをした。此は佛敵法敵と見て居ながらも再々の不思議に首を傾げて居たから、自づと鄭重な扱ひであつた。其處で他国侵逼難も今明年に逼って来た。天下を安穏にせんと思はるるなら兼日の願を叶へて諸宗を沙汰せよとの仰せ言があったが、何も此事ばかりは採用しかぬる。併し此程の英僧を野放しにするのは天下の損失である。多少の優待をして政府の御用僧の中に入れて軟化させようとしたが、大聖人は斷然此を退けて、三度諫めて用ひられずば身退くと云ふ古賢の例に寄せて、御弟子の日興上人に縁深き甲斐の身延山に籠られたは如何ばかり残念な事であったらう。後年の蒙古襲來他国侵逼難の實現も致し方なき次第である。此身延の深山に大聖人隱れましますと聞いて、各地に散在せる御弟子方の中に、特別の用務無き者又は暇ある御壇方達は、吾も吾もと慕ひ寄って來た。重立つ老僧方も時々の御見舞御給仕の登山が絶えなかったので、茲に學僧の教養も始まり中々の多勢となつて、假初の坊舎も建ち並んだ。
 表面は遁世者の姿をして居ながら国家救済の大慈悲心は寸時も止む事がないので、有縁の地には有為の弟子を置きて、折伏弘通を励まし教田の開拓に力められた。即ち安房上総には日向等、下総には三位房大進阿闍梨又は日頂等、武蔵相模には日朗日昭等、駿河甲斐には日興を主として日源日持日位日法日華等が教陣を張つた。中にも冨士熱原の法難は最大なるものにて、当事者の日興上人等に限らず殆んど各地方一円の僧俗が頭を惱ましたものである。大聖人は此を吾身弘散の満足として、此を機會に弘安二年十月十二日に本門戒壇の大御本尊を筆して、後世の人々の爲に殊に一天広布本門戒壇国立の時の爲に、日興上人に賜へられた。此は是三大秘法の隨一たる本門本尊の中の随一である。此三大秘法の中に題目は建長の宗旨建立に始まり、本尊は文永中に顕れて今茲に整うた。戒壇の一つは天下の公認を得ねばならぬ。御在世には時來らぬので將來を待つべく、別して日興上人に遺属せられたのである。大聖人様の素質は御丈夫であらした樣であるが、永年の無理の御苦勞の爲か晩年には病身になられ、御養生の爲に常陸の湯へ行くべく、武蔵の池上で休まれたる中に重態になられて、弘安五年十月十三日に御涅槃遊ばされた。時に大地震動等の奇瑞があった。御看護に集れる御弟子老若始め無敷の信者方は、三徳大恩教主の別れに血の涙を搾ったのである。其れから六百餘年なるが、未だ広布の目的は遂げられぬが、何となう近づいて来たような気持がする。

第二節 御開山様

 本山大石寺を開かれた日興上人は甲斐国巨摩郡大井の人である。家系は紀氏の橘家で遠江から移って来た大井橘六と云ふが御父で妙福と云ふが御母である。幼少の降りに父親が亡くなられ母上が武蔵の綱島家に再縁せられたので、母方の富士河合の由比家に養はれて、後に岩本実相寺で出家し伯耆公と交名して天台真言を學ばれた。又此より二里計り東の須津荘に來てをる冷泉中将が歌道と筆道との譽れ高き人であるから此に入門し、同じ所の良覚美作阿閣梨と云ふ學匠に外典の學問を爲された。其の頃宗祖大聖人様が岩本の一切経を
御覽遊ばすので、大衆より時々三大部等の講演を請へることことあり、如何にも學問と云ひ辯説と云ひ並々ならぬ上に、日常の御高徳を慕ひ申して改めて御弟子となられた。白蓮阿闍梨日興の名は文釋を考へて後の賜はりである。宗祖様が鎌倉に御歸りの時は御伴申して御側の給仕を怠らず本宗の行學を励まれた。伊豆の御流罪の時にも御供申して、熱海の金剛院(今の大乗寺)行満を教化して弟子となされた。佐渡の御流罪の時は殆んど常隨給仕で、殊に筆芸に秀れてあるので書記を勤めた計りでない、御漫荼羅の代筆まで爲さつた。此在島の因縁で太和房日性や日行房等の弟子も出来、阿佛一之澤も法緑と爲つて晩年に阿佛日満(阿仏房の曽孫)が入室したのである。又岩本に御帰りの時は御弟子の日華日持治部日位や後輩の賢秀日源等を励まし、御師の正義を山内に植え付け、叉駿河は申すに及はず甲斐遠江にまで布教の手を延ばされた。
 実相寺は田舎では大寺で數十の塔中を持つてをる。本山は叡山の横川で慈覺流の天台真言である。此流れを其儘汲んでおる僧侶の方よりは、宗祖の御義を立つる改革派の方を外道と呼ばつてゐた。興師の一味よりは、習ひ損ひの天台宗、師敵對の天台宗と酬うてゐた。又自分等は決して外道でない法華の正文に依る佛陀の正道であると爭議して、議論はいつも勝利であったが、彼等の多敷は勿論院主を以て官権の手を借り、一山の和合を破り邪義を立つる者として山内を擯出したので、止むを得ず興師御一同は冨士河向の蒲原莊内なる四十九院(岩淵停車場後の高峰)と云ふに退去して、暫らく此を仮の足場として猶八方に弘教せられたが、其内に実相寺の院主及び一山の大衆の放埓より自ら引退せにやならぬ事になったので、興師始め御一同が久しぶりに故山に歸りて一山全く歸伏の實を挙げた。此は餘程後の亊である。又熱原の法難の日秀日辯等は皆興師の弟子である。神四郎等は其の又弟子である。四郎が傷を負ひ彌四郎が殺され日秀日辯が迫ひ出され、神四郎等三人が鎌倉で首を斬られ十七人が所拂ひになる。御大法の爲とは云ひながら悲惨極まる事であった。岩本の法難も熱原の法難にも興師は總大将であって、采配が厳格に揮られた。此等の堅固の信行は宗祖の御賞歎を被むり、又僧俗一般の御帰依を増さしめた亊である。
 宗祖の三大秘法は中々信じにくいのである。又安々とは弘められぬのである。其は本門の題目の上で云へば、是迄在り來りの彌陀大日等の諸佛の名號を唱ふる亊を一切止めて、唯偏に法華経の題目ばかり唱へよと云ふ事ぢやから、先入主になつてる衆多の人の意趣には何しても適らぬのである、次に本門の本尊の上で云へば、其も御題目さへ唱ふれば在り来たりの何れの佛を拜んでも宜いと云ふなら未だしも、一切の諸仏を捨て、新しき法華の本尊にのみ向って唱へよ、と云ふのぢやから、実に六つかしくなってくるが、最後の大目的なる本門の戒壇は其處ぢやない。上は皇帝より下は庶民に至るまで、天下一同他の仏事を捨てて、専ら此御本尊に向ひ此題目を唱ふべき本門の戒壇を、国家の命令で建てよと云ふ注文ぢやから、此は六つかしい中にも取別け六つかしい事である。
 題目と本尊とは宗祖樣が到る處に弘められたけれども、戒壇建立の一大事は御存命中には出来上らなんだ。已に世を捨てて山中に籠られたからには、此大事の方面に身命を抛つ者を見立ててをかにやならん、此大任に内々興師が撰ばれて戒壇本尊をも予め授與なされたのである。又弘安四年には宗祖自ら上奏文を書かれて、此が天奏の役目を興師に申し付けられた。此時の朝廷の御感状の意味が三井寺の學匠から出たと云ふので、此の申状をば園城寺申状とも、其下文をば園城寺下文とも云うて、宗門名譽の事にしてあるけれども、戒壇の公許は得られぬので、實に残念の事であった。且又興師は永年御側の給仕で書記の役をも爲されたので、他の御弟子よりも法門深義の口伝を受くる事が頗る多かつたは申すまでもない事である。宗祖様が晩年に定めた六人の本弟子、即ち後世に云ふ六老僧の中では第三番目に在るけれども、此は次第不同の意味である。人の撰り出し方は、第一に信學行が勝れて、第二に多数の弟子檀那を持って一方の旗頭で在ったり重立つた六人を、先づ多勢の中から抜き出して其を法臘順に並べたのである。決して人格の上下ではない。一番は勝れ三番は劣ると云ふではないのである。宗祖樣は兼日の御見込通り戒壇建立の一大事と、門徒の總本寺としての身延寺久遠寺の院主職をば、興師に御附属なされた。此は次第を越へたのでもなく一朝一夕の御取定めでもないのである。
 大聖人様が池上で御涅槃の後、興師は其記録を書かれて、一同と共に御遺骨を守護して身延に登りて安置なされた。其翌年御廟守護の月番を重立った弟子十八人で爲ようと云ふ制度を書かれて三老師の承諾の證判まで取られたけれども、百簡日忌以後門弟方は自分の本陣に歸る。其地相応の拔き差しならぬ法務もあり、年に一月でも定つた時に登山することは容易に出來にくかつたと見えて、何興師が其職として居らるるから如才はあるまい、一切御願ひ申してをけ位の考へで、月番の事は自然に御流れになって實行が出来ないのを、師は再三慨いて催促を為さるので、三回忌後に向師(六老第四)一人漸く登山した。其の時分延山におったは興師の御弟子で宗祖の直弟と爲った人々、又は御涅槃後の興師の新弟子、又は宗祖の末輩の弟子逹であつたので、今日向が見へたは珍らしい事である。且又論談决擇の名匠であるから、地頭の波木井入道とも相談して早速一山の學頭職に挙げられた。此人は何らかと云ふと智者逸才の側で、謹直な行者では無かったので、時々化儀上の脱線があったが、又一方には地頭の入道も師の謹厳に厭いて日向の寛放が好きになって遂に数々の非例の事があった。今も昔も同じ人心で信念さへ確なら行爲には間逹ひあっても怠けても少し位はかまはぬ。四角四面の理窟は聞き厭きたと云ふ我儘の僧俗が多い。入道も日向も此類でもあるか興師の教誡に從はぬ。此れでは宗祖の御法魂を穢す亊になり此山に留まるべきでない。何なる處でも師匠の正義を立て通し得る地が、真の寂光淨土であると、悲痛の涙の中に此山を立退かれた。其は正應元年の十二月五日であった。先づ取敢へず冨士の河合に寄られて由比家に身を休められた。其から上野の南條家の持佛堂(今の下之坊)に移られて、南條時光の丹誠で富士山を負ひ駿河の海を眺むる景勝此上もなき大石原に御大坊が出来た。其地の名の儘に大石の寺と云はれ御遺命通りに本門戒壇の建つべき根拠を得たのを湍足なされた。此は正應三年であった。
 此を一宗の根本道場と定めて宗祖より御付属の戒壇の本尊始め御大事の宗宝どもを安置し奉つり一天御帰依の時を待つのである。御弟子方の中にも宗祖の直弟に進まれた日目日華日秀日禅日仙等の老僧方が、直に支院を其前後に建てて開山上人の御大坊を守護せられた。又日尊日乗等の若僧方も坊舎を立てて表坊十三坊が出來上ったのである。
 大石寺の大坊塔中の構へが粗出来てから、直東で程近き重須の郷に又法華堂が出来て御開山は移られた。上野では本六と云って日目蓮蔵坊日華寂日坊日秀理境坊日禅南之坊日仙百貫坊日乗了性坊が上座であった。其の一老の目師が五老や他の若大衆を卒ひて主座として寺務に當られた。重須ではぐつと後に新六が出来た。其は若大衆であって日代日澄日道日妙日豪日助であった。其中で日澄が学頭を努めた。上野の新六たる日尊日蔵日円日道等もまた其頃であったらう。当時は近き所でもあり旁両山の区別は無かったようである。
此より前かた宗祖の御遷化前から御門下に秘かに二様の気風があつたが、後には表面に顕はれて何となく反りが合はぬ事となる。其の一方は表面は物柔らかに成るべく世間の人情に逆らはぬようにして、裏面に堅靭の信仰を持つことが布教にも便利であると云ふのと、又一方では表も裏も極厳格でなくてはならぬ。当世には質直な者は居ぬ。逆らって怒らせて地獄に落しても信に入れにゃならぬ。此が師匠の御義であると云ふ。前の軟派は日昭日朗等の五老方に多く、後の硬派は御開山の方に多いので、五人の鎌倉方と一人の甲駿方とは萬亊が次第に氣まづくなる。身延御離山の後は彌此傾向が甚しくなって、冨士は全く外の門中と別るるようになつた。此硬軟分離の始は神天上の解釋で、善紳が社殿を捨て去った跡に悪鬼が代ってる神社ぢやから参詣無用と云ふのが、硬派の議論で宗祖の御義に順ってをる。悪鬼が代って居ても法華の行者が法味を上ぐれば、善神は喜んで社殿に還るから参詣しても宜いと云ふのが、軟派の説で宗祖の御義には悖るけれども、世間には折合が善い、又本迹二門は車の両輸の如しとて強いて一致を立てて天台の理説に同せんとするは軟派で、本迹不思議一は天台の説で宗祖の本迹には重々の勝劣あるべきぢやと云ふが硬派である。果ては方便品は迹門ぢやから看経に用ゆれば本迹一致であるとて、開山上人の誠を用ひずして却て其上を行く積りで、冨士方をも方便品を讀むから本迹一致の仲間であると謗るのが天目等の極端論者である。朗師は地體温良な人で且又宗祖に仕ゆる日が永かったので、興師の正義を以て即宗祖の御義なりと考へて、態態二度も富士に見えて、興師に会って手を取って泣かれた。頂師も不幸で及川俗別当に追ひ出されて、冨士に來てから再び真間へは歸らなかった。延山の僧分には開山聖人の御離山を悪し様に罵る者あるけれど、波木井の一門は清長を始めとして後々までも、興師を慕ひ申したようである。
 開山上人冨士に移られてから四十餘年、天下諌言戒壇建立の誓願は遂に成就しなかったけれど、内に在っては宗祖の御筆物を集めたり’御要文を分類したり御相承法義を集めたりして、後世の爲にと尽された。又外に在りては御弟子方を関東の武家に京都の公家に度々代り代りに遣はして、国家諌暁に怠りなかった。そうして御身が御丈夫であったので一生御病気と云ふものがなかった。正慶二年二月七日八十八歳で薪尽きて火の消ゆるやうに、至って安らかに重須で御遷化遊ばされた。御弟子も御壇方も、中々に多かったので、御迭葬の次第は宗祖樣の御時よりも、却って広大であつた記録がある。

第三節 三祖 目師様

 第三祖日目上人は伊豆國仁田郡畠郷の御生れで、藤原家の庶流小野寺氏から出た奥州三迫の新田五郎重綱が御父で蓮阿尼が御母で、文応元年の御誕生虎王丸と云った。族籍の事は新田家の古文書が沢山存在してるので、他の方よりも明瞭であり、其当時の石碑が師のも御母のも御兄弟のも現存してるは實に珍らしい事である。國の走湯山は鎌倉二所権現の一で、当時幕府の信仰厚く駿豆切っての真言の大山であるから、従って學僧も多いので、十三の歳から修學の爲に其塔中の圓蔵坊に上られた。文永十一年に開山上人が弘長弘教の緑をたどりて巡化せられた時に、此の伊豆山をも訪ひて學匠の式部僧都と様々の御法論があったに、何しても僧都が叶はぬので、小兒ながらも吾山の學頭よりも勝れたる名僧よと感じて、渇仰の思ひで弟子入を願はれ、越えて建治二年の十一月に興師を慕うて身延に上り髮を剃りて蓮蔵房日目と呼ばれた、交名が卿公であったから後に卿阿闍梨とも、又新田氏であったから新田の卿阿闍梨とも云ふのである。身延では開山上人へは無論の事、大師匠分たる宗祖大聖人に給仕せられて御直弟に加へられ、後には墓輪番の一人に加へらるる程に昇進せられた。
 目師は行體の堅固な方で宗祖に御仕への時は、毎日のこと谷河に下りて水を汲ひでは頭に其桶を載せて運ばれたので、自然に頭骨が凹んだと云ふことである。又中々の辯論家であって弘安五年に池上での亊、叡山の二階堂伊勢法印(二階堂伊勢守の子)と云ふ学僧が、親の権威を笠に被て大勢の件侶を連れて、宗祖樣と問荅すべく乘込んで来たので、御側の老僧逹も一寸驚かれたが、宗祖は何とも思召さずに其はいと易き事、卿公に對手させよとの事であったから、早速御代理として伊勢法印と問答にかかられた。第一番は即往安楽世界阿弥陀仏の経文より始まって、十番の問答一々に法印を屈伏させた。永仁元年の七月には大仏陸奥守の探題の時に、鎌倉将軍家の殿中で、西脇の道智坊世に十宗坊と云ふ名僧と問答があった。浄土宗の捨閉閣抛の中には法華経は入らぬと云ふ事で、対手を詰められたので、対手は法然已前の念仏を沙汰すべしと逃げたを捕らえて、法然已前の念佛は時に取りて無用の議論であると言ひ伏せ給ふたので、殿中一同は喝采と歎めあげた。日印の殿中問答は此事實を奪胎したのでは無からうかと云ふ人もある。又開山上人に代りて公家武家への申状捧呈は數十度の多きに及んだと云ふ事である。
 御開山は師の行體が他に勝れてるのを悦んで、日華日秀等の先輩よりも重く用ひられ、大石寺が落成した時には、暗に後住に當てて正應三年十月の御座替の御本尊を授與せられたが、重須に移られてから後は、大坊に入らして實は上野の主であった。
 新田家に取りては伊豆は一時の仮寓であって、陸前の登米郡新田が本領であるので、三迫より一迫にかけて御親類が多かった。新田に本源寺が建ち、隣村の森に上行寺が一迫の宮野に妙圓寺が柳目に妙教寺が建ち、何れも師を開基としてをる。此は再々下向して一族を教化せられた結果である。又石川勝重の密宗に溺れたるを導きて東漸寺を建てられたが、此が駿河の安居山と蒲原と甲斐の谷村とに分れて、三東漸寺と云ってをる。
 目師は若い時から東は陸の奥、西は京都辺りまで再々往復せられた。何日となしに足の踝を痛めてをられる。天奏に付きても充分の成蹟が擧がらぬので、常に念頭に置かれてる。武家の正慶二年、公家の元弘三年に驕れる北條家が滅び、久しぶりに王政復古となったの
ので、此の際公家の奏聞に成功すれば此の上も無い事と思召し、七十四の老躯をも顧みず十一月の寒天に日尊日郷の両人を伴侶として京都へと急がれ、老の葦を踏みしめ宿を重ねて美濃の高地に差し掛かった時、伊吹降ろしに雪を交へて面を向くべきやうもなく、遂に病み着かれて十一月の十五日、垂井の仮の宿に両師に看護れて無念の最期を遂げられたは、如何ばかり嘆かわしい事であつたらう。けれども此が爲に世の末々まで人の氣を引き締めて、此も畢竟宗祖開山の御本懐を暢べ、國の為め神の為め君の為め人の為めの御苦労じゃから、此御跡を継げる代々の貫首は、時機を見て天奏を爲し、此先聖の一大事を暢逹せしむべく、此を唯一の念願とせらるるのである。

第四節 中興と呼ばるる御両師

 吾本山を盛んにしたと後の世に敬まはるる第一の師は九代の日有上人である。冨士の上野の南條家から出た人で、八世の影師の御弟子で又其跡を繼いだ御方である。此時分は郷師が道師に反對して出た後、東坊なる蓮蔵坊一帯の地は自分が目師より相伝したものであると云うて爭ひを起し、鎌倉政府の手までも煩はして出たり入ったり七十年ぶりに、漸く郷師側の望みは全く絶えて、事件がやっと治まった頃である。此の爲に非常に本山が疲弊した。用途は莫大に出る學僧は半分に減る末寺も無くなる。未だ其疵の癒へない時であったので、師は堂宇の維持から學僧の養成門末の手入に、散々に苦んで漸くの丹誠で回復をした。此の経営の間暇を見て雲水姿の草鞋ばきで、東は奥州西は京都又は越後佐渡までも布教して、永享四年には天奏をも遂げられた。今日残ってをる東北の古き寺は、師が中興せられたのが多いのである。
 有師樣が本山に在らつしやる時は、諸国から學徳を慕うて登山する者が多かつたので親切に教導せられた。一体化儀上の細かい事は追々に時代相応に出来上るべきものであるから、師も各国弘通の際に天下の様子を見て来て、細心に信條も儀式も設けて御指南遊ばした。其幾分かが御弟子の南條日住が集めた化儀抄等である。無論丁寧親切の事で当時他門にも此程の掟規は無かったようで、富士系の他山にも軽からぬ影響があった。当門では今日までも此掟が生きてをる。宗祖本仏論でも師は明に立てられて、此から諸の法義も割り出されてる。
 本末の衰へを回復したのと、信仰箇條を一定したのと、一生涯の弘通とは、何しても中興と申し上ぐべき事である。老年になって甲斐の國冨士河西なる杉山と云ふ、至って人家の少い所に些やかな草庵を結ばれて、此處で文明十四年九月二十九日に遷化せられた。此山中に入らるる日には見ず知らずの村の者が夢の御告げで出迎えして非常に取り持ったと云ふ事であり、今に不思議の伝説が此地ばかりでなく、他にも殘つてる中には愚民が勝手の迷信もあらうが、要するに師の高徳の顕れと云はねばならぬ。
 中興と呼ばるる第二の御方は二十六代の日寛上人である。生れは上州館林の酒井家の臣で伊藤市之進と云うた。父は淨圓母は妙真と法號が残ってある。江戸に仕官して十九歳で發心して常在寺の精師の教示を受け、自ら剃髪して同寺の永師を師として出家し覺真日如と云はれた。永師が常在寺より會津の實成寺に転ずる時御件を爲さったが、行學は少しの油断もなかつたので、元祿二年の細草檀林に新来の時は二十六歳の晩學であったけれど、平素の學殖が深かったに、能化の俊師の下に在っての勉學で二十六代の能化に進まれた。此時分大貳阿闍梨堅樹院日寛と改められた。名目條箇四教集解玄義文句の開講も丁寧なものであって、一々に草鷄記と云ふ講録を作られた。玄義の草鷄記十巻は元禄七年に始まり、なお文句の草鷄記十巻は同十一年比に始まってをる。又御經文の談義も数々残ってをる。
正徳元年に永師の御招きで六代の學頭として其新築の学頭寮に入院された。茲で御書の御講義が始まった。其始めは何であったか記文がない。安国論と撰時抄との記には正徳五年六月とあり、題目抄の記は同六年である。享保三年に宥師の御譲りで二十六代の貫首として大坊へ移られた。慣例には談林能化昇進順であるので、能化順は廿四代宥師廿五代養師廿六代寛師ぢやから、宥師の次には養師が晋むべきであるけれども、寛師の年長と學徳とを推して養師自身は跡に廻られた。謙譲の美徳は有り難き事である。其で寛師も三年と立たぬ内に養師に譲りて学寮に引き下がって、又専ら御書講にかかられた。観心本尊抄の文段は享保六年で、報恩抄のは同七年であるから此時代の講録である。享保八年に養師が遷化された後に進むべき四十三歳の詳師も在ったが、此人は殆んど寛師の門下でもあり、又寛師の盛徳を衆檀が仰ぎ奉って、強いて再住と云ふことに願つたので、又大坊に入院された。現存する再治の六卷抄の御正本は享保十年中に出來上つてをるけども、講演に加はつたのは此再住の前後であつたようだ。殊に此抄は前来の御書の講義にも述べたものを纒めて、實に心血を注がれた精義で、此と本尊抄文段とは特に門外不出貫首直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至ったのは、善か惡か全く時の流れであらう。但し秘すも顕すも信得が要訣であらうと思ふ。
 当門で宗學の盛んになったは師の時が絶頂であるので、御門下の多くなったは申すまでもない。享保六年の本尊抄の忠師の聞書には、同聞衆として住職格七人所化廿五人を載せてある。此所化の中で四十一歳の孝明日詳が第七位であるから、随分四十五十まで寺も持たずに老所化として講學に身を任せた人の多かったのは、実に宗学繁昌が思ひ遣らるる。又此の聴衆の中から詳師廿八代東師廿九忠師三十代因師三十一代の四貫首と延師との一学頭とを出している。此に預からぬ年少弟子の中で元師三十三代堅師三十六代との二貫首があるので、六人の山主を作った形である。寛師樣は世に在りふれた學問一點張の御方でない。短かき山主の代にも常唱堂や石之坊を作り五重塔を作るべき資金を殘された。畢竟信心修行講學に何一つ愚かは無かったので、其淳信を以て學問を生かされたから學弊と云ふものが無く、言行一致の徳者であったので、仮初の御話草も皆珠玉の如き美しきもので、此も亦天性の美しき所から出たのであらう。實に僧俗の帰依は一通りでは無かった。晩年に少しの病であったのを、死の到れるものと覚悟して醫藥を退けて、後々の山の大事の計晝又は弟子逹の事何一つ殘る方なく、詳師に遺言せられ、病体を駕籠に乘せて諸堂への御暇乞なんど、惣て凡僧の所作でなかった。享保十一年八月十九日と豫め指定して安かに六十二歳で御遷化になった。爾後今に至るまで御遺徳が他師に越えて輝やき旦って居るのである。

第五節 布教と學事

 宗門の始より戦国時代までは、政府の方も落着がないので總てに御世話が不行屆であった。中には行屆く國主もあつたが、広くも永くも續くものでなかった。布教するにしても談林を建つるにしても、立入て世話するの取締るのと云ふ事もなかったが、徳川幕府になってからは何事も几帳面で取締が行屆き、仏教各宗の保護もしたが、煩さい程立入て世話やかるべき運命に立ち到ったので、自然談林を設くる事にもなり、又猥りに他宗の教域には折伏布教は六つかしくなって、何彼と面倒な事計りであつたが、現代は又複雑になって來たようである。
 宗祖大聖人樣の鎌倉時代御流罪時代でも、御側の人に時を撰ばず信行の要目を訓へ込まれて、其御弟子逹が直に他宗の僧俗を教化に出かけたもので、常住の御話し草も御行爲も其儘講学であったので、別に學則なんどは無用であった。其御弟子には色々の種類がある。先ず俗学も佛学も外で修行してから入門した人もある。其は古き弟子の三位房日行や弁成日昭などは叡山出である。白蓮日興や賢秀日源などは岩本出である。下野日秀越後日弁などは龍泉寺出である。何れも旧寺で相当の學問をしてから御弟子となり更に宗要を授かったのである。大國日朗民部日向等は幼少よりの御弟子であったので、何れ先輩の弟子が多分は面倒を見て、時々宗祖が御仕上をなさったものと見ゆる。又孫弟子などには宗祖より直に教訓を受け得ぬものもあったらう。
 延山に籠られてからは誰と定まりなしに、先輩の學僧を助手として、御自身で天台學も宗學も一般に教授なさつたものであるけれど、校規などは一つも設けてなかった。日常の總てが學科であったので、煩さき規律で縛るるより却って能率が舉った。其に草創新鋭の時代ぢやから無信無行の糟坊主は少かったので、剛信と苦行とが先に立って總ての學問を生かすと云ふ風であった。尤も上には宗祖樣は勿諭の事、御開山方の生きた御手本がゐらっしやるので、一信二行三学の次第も亂れずに、随喜展転の布教が生々と行はれたのである。後の世の規則責めの学校の学問が盛んになって、多敷の時間を費ぶし沢山の先生と多勢の学生とを集めても、一向僧侶らしき人物も出来ず、従って布教の成績も挙がらず、世間体に見榮に学問して住職の資格を作ったり、また何かの為めに心にもなき御役目の空教授をするのとは、總て月と鼈と比較物にならぬのである。
 御開山が富士に移られてから重須談所を開かれたのは、他の五老門中に未だ無き学問所の魁であったが、面倒な學則などは無ったらしい。初代の學頭は民部日向の許から帰伏して来た寂仙房日澄(日頂の弟)であって、次が三位日順であった。此人が中々の學匠なので、講学も盛んに又色々の書物を遺された。眼を潰ぶされて談所を退かれた後には講学も型ばかりであった。上野では目師様が自ら其任に當られたが、留守の時は始には大學日乗了性房が御代理を努め、其が亡くなつた後に其子の民部日盛が鎌倉に遊学せるのを呼び寄せて使はれた亊もあつたようである。
 目師御遷化の後は講学も衰へ切った。時師は仙波談所(武蔵国天台宗)の出で大に其志は有ったが、例の争論の中で好機がなかった。有師は柏原談所(美濃国天台宗)に學ばれたらしいが、奮起して大に宗學を復興せられたので、御門下も中々に多かったが御遷化の後は又教学の火が消えた。院師は土屋(相模国天台宗)にも仙波にも學ばれ、主師は東金(上総国日蓮宗)に學ばれ、昌師は飯高(下総国日蓮宗)に學びて校内に轟くほどの學匠であったとの事であるが、門内では残念ながら學蹟が伝はつてない。
 戦国時代の末になって一致門下の檀林が起ったのと、叡山が衰微したのとで、従って各所の天台の談所に行く人が段々少くなった。盈師は松崎(京都)小西中村(下総)と移られたが、元和年間に本迹論があって勝劣門下の学生は、飯高小西中村の一致檀林を引き拂って、宮谷檀林(上総)を起したので、盈師も此に移って集解等の小部を教へ後に玄能に進まれた。精師は宮谷から沼田(上総)に移って玄能となった。此時は宮谷は什門が主であって、沼田は隆門が主であったらしい。舜師も沼田に小部を教へてござつた。典師が沼田の所化時代の寛永十八年に爭論があった。春琢玄旨等の冨士八品連合の二十餘人が連盟離檀して、日逹唯然を主領として新檀を組織せんとしたが、両人が応じなかったので止むを得ず、春琢等を主として、阿波の蜂須賀家の淺草鳥越の邸内の法昭寺に在る日咸に懇請して、其檀那鏡臺院殿を説いて資金を出してもらって、沼田より近くの細草の地に新檀林を起した。此が遠霑山法雲寺である。
 右様の次第で當門所化の講學所は一定しなかったが、此より多分は此處で天台學をすることになった。始め確定でもなかったが何日となしに、此檀林の卒業者即ち能化に昇進したものでなくては、本山の學頭になれぬような風に成って來た。此處は建て手即ち資本家の多くは當家であって、先生と學生の多くは隆門の本能寺等であったが、次第に当山が能所共に多数になって、冨士の中でも他山は少なかった。其に三沢(武蔵)大亀谷小栗栖(山城)等が出来たので、他山も或は其に行き当門からも土地の便宜上行くものもあったが、細草の中末時代には当山が重なる経営者であって、其化主八十八代の中に三十五代は当山出で、初期は二割強に中期は四割弱に末期は六割強に、次第に出身が増してるやうな次第である。
 此等檀林の学科は宗学は抜きであった。始め何門の経営であっても、入学は各門随意で解放的であったので、通則の天台學に飽き足らず熱血の學生が宗義を論争するので問題を起し、分裂又分裂となったので遂に御書法度などと純天台学と爲った。此は経営者も亦取締の政府も姑息的合意の上で、当時は止むを得ぬ事であったらう。但し細草に於ける宗祖の御影の飾りは、能化の交代で赤にも薄墨にも変ったと云ふ。責めてもの信念を顯はした事も有ったと聞いてをる。斯ういふ風で檀林學は所化の心血を作らずに昇進の型のみを作りつつ、或は盛んに或は衰ろへて命脈を繋いで來たが、其取締るべき徳川政府が倒れて、新政府の側には排仏家が多く潰れよがしの扱をしたので、遂に廃檀になったけれど、地体型式一片のものであったから、潰れたからとて宗門の生命には大した影響は無かったのである。檀林學の外型ばかりでは宗門は立ちようわけがない。信仰の血脈を繋き又は振ひ起す爲には宗學の必要がある。
 精師已来少しは色着いて来たけれど、永師の學頭寮復興(寛永三年)の頃から寛師の学寮入りに始めて宗學の発展を見たのである。寛師は長き檀林時代もぢやが、殊更學頭時代より御一生宗義の開發に盡くされて、遺憾なく宗祖開山巳来伝燈口伝の法義を纏められた。其から後の貫首學頭師方は成るべく寛師の高説に依って宗學を立てられ、中間多少の盛衰はあるが、何れも學寮を中心となされたので、寮舎の規模も小山に似合はず、中々に広大なものであったと云ふ事である。
 宗學に檀林學に所化は二重の負担の苦しみがある。其に教学共に政府の取締が厳しいので何事も新義は法度である。発展も進化も新地布教すら出来ぬ窮屈さたらないけれども、去勢されて柔順にしてをれば生活は保証せらるるので、軟化者が続々と出る。其處に気慨のある硬派が出て来て、兎も角宗祖大聖人の昔に還さうと努むる。此を政府と軟化の大本山側とて壓迫しようとする。不受不施悲田等の禁制は此に発生して田舎の山寺にまで累ひは飛んで行く。迂濶すると寺が潰ぶさるる。新しき気勢を張るどこぢやない。先づ以て閉塞の形だ。其ばかりぢやない。三島院日秀と云ふが、精師の弟子と云うて本山類似の法義を弘むる。精師には疾に破門された人で、云はば新義異流ぢやから禁制になつたが、幾百年にも法脈が亡びない隠れたり顯れたり勝手な真似をする。斬罪流刑猶怯まぬ。此等が又本山の煩となる。堅樹日好は一時穩師に帰伏して居たけれど、時弊を慨き過ぎて脱線して本山をも謗るようになり、四箇格言を勤行に交へ、種々の新義を骨張して愚民を惑はしたと云ふので、安永元年に召捕れて入牢の上、同四年に三宅島に流された。餘類が東にも西にもあるが、何れも散々に取締られ今は大概本宗に歸伏した。
 覺林房日如は不思議の英僧であつた。二十四歳で仙台に下って布教をしたのに多分の信徒が出来たので、俗吏が咎め立てをして翌年の明和二年に覚林房始め多数の信徒を召し捕り入牢吟味の末に、覺林房だけを蓋渡しに流罪とした。敬慎房日清は讃岐中之坊主で大坊(法華寺)始め仙門一同の法義の革清を唱へて、大に効があったので、俗吏の爲に丸亀へ監禁せられ寺社方の厳責に伏せず、寳暦七年八月廿二日に牢死をされた。此が讃岐門中の刺激となって革正の効が成った。玄妙房日成は仙臺佛眼寺の主である。嘉永二年に藩葬が大年寺で行はるる時、諷経に列せよとの命を拒んで、更に大年寺の禅天魔の謗法なることを建白し、孝勝寺にも同座無間の忠告を爲せるより、遂に追放となったけれども、此等の事を本山では如何する事も出来なかった。金澤の人々の信仰は寛文年間に始まったが、享保九年頃に林源太夫等四人が主家より閉門申付った。此は一致派の僧了妙と云ふを教化して改派せしめたので起った事で、以後永く他に説き勧むる亊を禁ぜられ、寛保宝暦天明寛政に至るまで、再々の法難があったので、遂には信仰の亊には実名を用ひないで法名ですましたと云ふ位である。
 信州春近の城倉茂左衛門の所拂等の法難、別して甚しきは尾州北在の岩田理蔵の入牢拷問の爲に責殺されんとしたを、御年寄の山住右近の爲に出牢が出来た。其外本宗の寺院なき所の信仰には、何れも大小の法難があったのであるが、大體時の制度が窮屈で又其を運用する小役人の頭か惡るい。其よりも他宗他門の坊主が全く陰険である。金澤の初期の法難の時には、滝谷妙成寺日蓮宗本山格が大石寺は公許の宗門であるけれも大石寺の看板の下に三鳥派悲田派不受不施派の禁制の宗義を弘めてる者があると書き上げた。此では實情に暗い田舎の役人共が謬まられるのは無理のない事ぢや、北在の法難では反對側の寺々が一千餘兩の金を集めて袖下に使つたと云はれてをる。此等の法難を避くる爲には、尾州では表面檀那寺より受けた本尊の裏手に、深く本宗の本尊を隱くし置き、又は深夜に御講を内密に營んだとの事もあった。此樣な事情で新地の布教は全く出来なかつたのである。
 明治の維新になってからも矢張り少しも変る所は無かつたのに、排佛と云ふ宗祖樣も御存知ない新らしい強敵が殖えたので、一時は困難の絶頂に上ったが、漸く信教自由の勅令に少しく布教の路が開けたが、田舎では此が効能は少なかった。其から追々と弘教の妨害が取れて樂になった時は、既に何れも無信仰の状態に陷って來た。此では猶更仕様がない。其に今時の物の分ったと云ふ人々の頭には、何も彼も一理ぢやと云ふ考が強いので、本宗の折伏逆化は受けが惡るいやうで、相変らず發展は容易でないけども、一般の浮薄な風潮を脱して、却って大磐石の地盤か堅めらるるのであらうと思ふ。
 檀林制度が廃れたので自然に上代の様な無造作の教育に還ったが、今の自由境は大に奮励すべきの時であらうと云ふので、明治二十二年に従前より布教の機関となって居った布教會の、其學林が出来て少しばかり規模が立って来た。其から同二十四年に聯合宗であった興門の第二支林と転じ東學林と変りても、學則には大変動は無かつた。同三十三年一山分離の時に富士學林を實施すべきものを、他の組織の方が急ぐので暫らく自然教育にしてをいて、學頭寮に專門道場を置いて學脈は繋いであるが、大体は本末適宜である。本年から教学財団資金の募集が始まるので出来上ったら、刮目して見るほどの亊になるであらう。
 本節の終に官憲との関係を一寸記してをかふ。上代は政府があの通りであつたから一貫した取締なんかは無い。干渉も受けず保護も受けず殆ど放任の姿であった。徳川時代に入りて一本寺と云ふ格で独立して居た。政府の用件は江戸の寺社奉行から勝劣派の役寺に伝
へ、其から常在寺に転送した。常在寺より本山へも末寺へも伝へて、不自由ではあったが用弁は足りた。今から見れば不思議なものである。近世になって神仏合同の大教院から日蓮宗から勝劣派から興門派と段段に分裂して水油混合の不都合不自由を稍逃れたけれど、政府の取締は中世と粗同じである。教部省から内務省の宗教局へ、其が文部省に移り、一宗には必ず管長を置いて宗制を以て一宗を統治して行くように取締る。又地方の府県庁にも内務部や社寺係が主務省の委託を受けて寺院の財産等の監督をする。郡役所にも市町村役場にも亦庶務などて其下役をして居る。随分に煩はしい事である。明治三十三年に一山分離して清々した。本山の法主が即ち一宗の管長で、本山で直に一宗の事務を扱ふようになつた。此は明治の初年よりの僧俗一般の希望であった。否六百年前よりの本願であつた。此からは富士派と名乗らうが正宗と云はうが本体に変りはない。真に自由の天地に活躍すべきであり、過去六百年来の不自由の幾分を脱したので、精精弘法に尽し、仏恩皇恩は申すまでもない。社会への報謝を完全に実行せにやならぬ。宗祖開山が自他同成三徳深縁の御精神から一期の大事として出世の本懐として、心血を注いで奮闘色読せられた国法と仏法との合体、勅命の戒壇堂の建つように必死の努力を爲すべきである。更に又世界一般に此の大法の行き亘るよう不退の一修行を励むべきである。

第二章 宗門の御法義  
第一段 其土台の御經と御釋など
  
 本宗では御釋迦樣の説かれた法華経八卷と無量義經一巻と普賢経一巻と、其から宗祖樣の御書きになったもの惣てを纏めた本祖文集四十四巻と、同じく其の続集の十二卷と、註法華經十巻と、其から御開山の五人所破抄などを本當の土台とする。又支那の天台の智者大師の説かれた止覿十巻と玄義十巻と文句十巻と、此三十巻を注釈した妙樂大師の弘決釈籤疏記の三十巻等をば、時に依りては土台に用ゆる。其外の佛の御経でも菩薩の御論でも、昔から今までの世界の色々の善き亊を説いた書物は、宗門の義理に照して此を用ゆる事もある。
 本当の土台になる御経の三部の関係は、通例の通りであるから、前の無量義経と後の普賢經とを宗門で用ゆると云ふのは、格別に大切な経文と云ふ意味ではないのである。法華経を依り處にするには二通りの意趣がある。其は文上とて御経の文字に顯れてる事柄と、文底とて文字の上には見えぬが、佛樣と等しい眼で見れば深い意味が含まれてる。此両樣とも取るのである。
 文上の方で云へば、法華経は真実の教であって、其已前に説かれた多くの御経は真実の總てでない。真実から出て居るけれど多分は其形を隠くして、聞く人々の耳當りの宜いように説き柔らげてある。此の柔らげる際に真実昧が失はれて居るから又本の真実に還へさにゃならぬ。如何なる教も法華から出て居るので、彌と云ふ時には、本の法華に納まるべきである。御釈迦樣のばかりでない。其前の佛のも後の佛のも、外の世界の佛のも、皆々法華に納まりて、又法華の爲に本と真実であった事を顕されて意義を持つやうになる。、此が法の統一であり開顕である。又三世十方の一切の佛は法華経の久遠の佛の影法師のようなものである。此佛は御釈迦様は申すに及ばず、阿弥陀大日等の佛の又師匠の佛の大本の佛樣である。此佛が吾等と吾國とに因縁深きものであると云ふ意味が見ゆるので、御難有事として是非共用ひねばならぬのである。
 次に文底の方から見ると御釈迦樣や彌陀大日等の佛も、寿量品の大本の佛も、其は古い昔の事であって時間の隔りが餘りに多い。今時の吾等には直接の因縁を持って居られぬ。云はば御隠居の仏に過ぎぬ。現在直接の因縁を以て居て、前方の御釈迦様や大本の佛樣に代りて、其と同樣の御慈悲を持ってござる生きた佛樣に、佛に成るべき種を蒔いてもらはにゃならぬと云ふ亊が見ゆる。又経文の意味の深き底には本門の本尊等が置かれてある。壽量品の妙法五字は御釈迦樣のでなくて宗祖樣の大事の寳であることだの、神力品の上行付屬は即宗祖大聖人の御出現の予言であることだのと、種々に不思議な難有き文句があるので、依り底の土台に致すものである。
 本宗の意趣は御釈迦樣の予言の通りに出られた宗祖樣の御立義であるから其御書き物の總てを取るのぢゃけれど、其を三つに分けて、信仰の指南になるべき正味の御書と、此が序開きとなり準備となるべき御書と、正味の御書の意から演べ出される御書や御文句などを、其れ其れの意遣ひて拜見せにゃならぬ。漫然と濫読する事は有害無益の事にもなるのは勿論であるが、現今數多の編纂の御書全部のものには、此等を読者に懇切な注意を與へてあるものは少ない。殊に編者の料簡で勝手に抜き去った御書もある。其で本宗では兎も角集書の多いのを取柄として本祖文集を土台にしてゐる。其から後の新発見の御書を増し又は御正本に照らして校訂を加へ、更に拝読者に親切な注意を与へて完全なるものに爲たいものである。
 御義口伝や御講聞書は世間の全集ものには入れてないが、此の文集には入れてある。註法華経だけは入れてない。此は法華経に付いて古人の註釋の要文を集められただけの書で、宗旨の肝要を書かれたのでないから入れてないだらうけれど、本宗宗制の中には世間の別刋書に任せて書目を列ねてある。但し文集再編の時は加ふべきであるが、内容としては肝要なものでない。
 御開山樣の五人所破抄を取つたは、開山と他の五老との開係を知るに付きての代表作であるのと、宗祖より御開山への御相伝は決して誤つてないと云ふ事を知るには、都合の宜いものであるから取り用ゆる。此外にも門徒存知事等の如き用ゆべきもの沢山あるけども略してをく。
 此等の事を更に細に吟味すると一通り序正流通に分けただけでは物足りない。正宗の中でも必要のものと仮初の法義とか別たるべきである。又御書一部の中には仮令短文でも色々の段取りがあり様々の義が織り込まれてある。況して大部の御書は猶更の亊である。
全部其儘には用ひぬが時と場合では用ひねばならぬ所のある傍依の釈に、天台と妙楽との三大部等使う意味は、法華経に付きては印度支那に古くから熱心に注解を企てた人が沢山ある。其中で天台の御釈のみが仏の御意に叶うてをる。此は但の學僧でない。像法時代に法華経を弘むる佛樣と云はれてある位で、三國伝燈の別して因縁深い邊を取るのである。妙樂を取るのは其説を広げた正直な伝燈であるからである。其から日本の伝教大師の説をも取るべき亊勿論であり、其伝統の中の正直な人、即ち弘法大師に感染れぬ人達を取るべきぢゃが、此所には但代表となるべき重な書だけを掲げたのである。

第二段 其宗旨の名稱

 法華経に依って宗旨が立つから上代は但法華宗と云ったが、叡山の天台法華宗から彼是と苦情を云はるるので、又は此方でも天台の法華宗と同一に見らるるのは迷惑ぢゃから、日蓮法華宗と云った事もある。日蓮は弘めた人、法華は弘められた法であるから一寸完全な名であるけれども、寧ろ日蓮宗と云つた方が簡単で明暸で善い。他門で日蓮宗と云ふのは名實相応せぬ嫌ひもあるが、本宗では適當の名であるのに、此名稱を明治の初に舊一致派の方が公に用ひたので、拠ろなく当時の冨士聯合宗では日蓮宗興門派と名乗った。後に此聯合の中の多敷が本門宗と改めたけど、當門では其已前に分るる事になって居たので日蓮宗冨士派と改めた。派號が何だか変だと云ふので日蓮正宗と改めた。此等は皆開山上人の伝統は正しきものである、本家である正系であるとの意趣で、他門他山と區別するの名である。此外に時と場合で私の宗號を立てた事もある。

第三段 其教の見別け方

 本宗では佛の一代聖教を仕別するとき、広略要の順序から、先ず広の一般仏教の浅き義理より、此を少し縮めた略の稍深き義理に、此より又肝要の深き所に、順々に進んで行く教の階段に、権実と本迹と種脱との三重を立つるのである。仏教と外の非仏教との区別をする内外判や、仏教の中でも大乗と小乗との区別をする大小判と云うのは、一般仏教に用ゆる法門の入り口であって一寸廣漠なものぢゃが、義理は却って浅薄である。其内外判は仏教と非佛教なる耶蘇教や回教や道教や印度教などを區別する時に用ゆる。又非宗教である儒教や神道などと区別する時にも用ゆるのである。仏教に非らざる新宗教の出来たのも此中で判くのであるから、仏教各宗共通して用ひてをるので、別に本宗に限った事でないから此には除いてをく。大小判も吾國では殆んど大乘仏教ばかりで.此亦本宗に限ったものでないから同前である。そこで權實判からが本宗の入用である。權實判は内外判大小判よりも其を略したる壓搾したる稍深い義理を持ってをる。本迹判は前よりも亦肝要のもので義理も従って深くて容易に顯れ難い所がある。種脱判と來ると肝要の中の又肝要で、隠れたる中の又隠れたる至って奥深い處に根を持ってをる。此が宗祖大聖人に限られた教の見分け方である。此から順を逐うて此の三を委しく云はう。
 初に權實判と云ふのは天台大師の見方を云ふのである。其は経文を組立ててある教の道理を蔵通別圓の四つに分けて、化法の四教と云はれた。又此教を説き聞かする方法を頓漸秘密不定の四つに分けて化儀の四教と云ひ、二つ合せて八教と云ふのである。御釈迦様が五十年の間に華厳阿含方等般若法華の五つの重なる御経の外にも幾千と云ふ御経がある。其内容は此八教で組立ててある。又此の五つの代表の御経を五時とも云ってあるのは、説かれた時期の順序でもあり、説かれた教理の代表でもあって、至って澤山な御経を順序よく見らるる樣に仕別したのである。一體経文と云ふのは佛の説教を其場で筆記したものでない。後世に纏めたものであるから編簒法が色々になってをる。中には一つの御経で五十年を飛び飛びに續いてるのもある位であるから、明に五時と順序を付くるのは實際は無理である。此を通の五時と云つてをる。通の五時は歴史の事實であるけれど、此では中々入り込んで見難いので、前に云ふ別の五時を立てられた。本宗での一代五時は別の五時を重にするのである。又蔵通別円の化法の四教は教理の淺深の次第であって、前の三は権教で後の円教は実教である。此を五時の上で眺むると初の華厳經の中にも円教がある。方等部の諸経の中にも般若部の中にもあるのが、法華の円教と少しも替らぬと云ふ、此が約教釋である。華厳方等般若に含まれてる円教は独立でない。他の権教たる蔵通別の三教と巧みに織込まれてあるから純でない清浄でない。法華の円教のみ純であり、清浄であると云ふのが約部判である。天台は細かに巧みに此両釋を用ひてあるが、本宗では後の約部釋を取るのである。此の別の五時と約部釈の權實の分け方で、印度支那日本等に流行した仏教各宗の教理の資格を定むる定規とするのである。
 次に本迹判と云ふのは、天台が法華経の序品より安樂行品までの前十四品を迹仏の説かれし迹門とし、涌出品より後十四品経の終までを本仏の説く本門と爲れたように、又久遠第一番の佛を本佛とし其直弟子を本化の菩薩とし、其後の佛菩薩を迹佛迹化と爲れたように、本宗でも用ゆるのである。
 又其三種の教相をも用ゆるのである。但し此は前の權實判にも亘つてをる。其は一は根性の融不融の相と云うて、爾前の教では人々の根性が區々に分れて融通統一されてないから、教へも其人達の別々の意趣に合ふやうに説かるる随他意方便教であるが、法華に来ると人々の意趣が丸で佛樣と一様の處まで進んだので、佛自身の意の奥に考へてる儘に説かるる随自意真実教である。
 其二は化導の始終あると始終なきとの相で、爾前経では今日御釈迦樣に導かれて佛になつたけれども、其始めは何云ふ佛に種を蒔付けられたか明瞭でない。法華では始めて佛種を下ろして呉れたのは三千塵点劫の大昔の大通智勝仏であって、其後は色々の佛逹から教へ育て上げられ、今日御釋迦樣が仕上げて佛にして呉れらるる種熟脱の三益の因縁が明瞭に説いてある。但し此二つは権実判に属すべきものである。
 其三は師弟の遠近と不遠近との相で、爾前と法華の迹門では今日の弟子は前の世では何と云ふ佛の弟子であつたかが明瞭でない。法華の本門では師匠の仏は五百塵点劫の大昔し世の中の始からの佛であって、上行等の大菩薩も其時からの弟子である。即ち久遠の師弟である事が明瞭に説いてある。此は本迹判である。併し天台の云ふ通りでは、第一(方便品等に説く)と第二(化城喩品に説く)とは迹門の説で第三(寿量品に説く)は本門の説であるから、此三種の教相は迹本の二重となる勘定である。宗祖様は一往は此別け方を用ひらるるけれど、其本門の上に更に一箇の本門を設けて、其を第三法門と云って自分の本領と爲さった。其は次の種脱判と同じである。
 終りの種脱判と云ふのは、大聖人の御口伝の法門で他門では餘り云はない奥深い文底本門の重に立つ見方である。御書の中では開目抄と本尊抄とに少しばかり其片鱗を示されたが明晰としてない。末法今時には此日本国に本門の教主釈尊と云ふ佛と、妙法五字の大法とが顯はるると云ふ事は、御書の多くに明に示されて居るるけれど、其本佛本門の教主釈尊と云ふのは、何日何れに生れた現人か、又は理想上の名號か、題目の五字と云ふのは、何人が持って居る者かと云ふ、具体的には明晰でない。尤も通仏教の汎神觀の樣に何事も理想や抽象に塗り付けて強いて大きく模糊さうと云ふなら、其でも宜からうが、宗祖樣のは何しても其有舊れた類で無い樣であるので、是非とも此事は事實に明示せにゃならぬ。即ち本仏と云ふのは現世に生れた凡夫僧であり、本法とは寿量品の奥底に沈めて在ったのである。久遠の本仏と同格であるけれども、妙覺果満の姿を顕はさない名字の凡僧で本因行の形である處の、宗祖大聖人が無宿善の荒凡夫の心田に始めて妙法の仏種を下ろす。此本因下種の仏法が今の時と國とに密接に合ふ生命ある教へである。此地盤から眺めて壽量品の文に明に示された久遠實成第一番の顯本佛や其本果の妙法、其巳下の仏と法とは疾に御用の濟んだもので、現代には無用のもの、即ち脱益仏法とする。此の見方が一般から驚異せらるべき秘中の秘説なのである。
 上の権実本迹種脱の三段の道理の入口は第三法門と一體である。名稱の違ひだけである。又觀心本尊抄の五重三段の法門とも、此から出た開目抄の五重相對の法門とも確と連絡してをる。此等が本宗で諸経の資格を區別する必要な法門である。此外四重興廃とか五重円とか云ふのも、猶此の足しにはなるが其儘には使へぬ。其は天台で出来た法門でもあり、一度此方の物に作り直しての上である。今左に諸図を釣りて見よう。

天台三種教相

一 根性融不融相一迹門方便品等
二 化導始終不始終相一迹門化城喩品
三 師弟遠近不遠近ー本門寿量品

宗祖第三法門(三重玄門)

第一法門ー法華迹門(天台の一と二)ー爾前当分、迹門跨節ー権実相対
第二法門ー文上脱益本門ー迹門当分、本門跨節ー本迹相対
第三法門ー文底下種本門ー文上当分、文底跨節ー種脱相対

観心本尊抄五重三段  開目抄五重相対

一。一代一經三段(一切経ー序流通ー方便 十巻ー正宗ー真実)ー内外相対
二。法華一経十巻三段(開結余品ー序流通ー方便 十五品半ー正宗ー真実) 権実相対
三。迹門熟益三段(開序等ー序流通ー方便 八品ー正宗ー真実)-権迹相対
四。本門脱益三段(十二品半ー序流通ー方便 一品二半ー正宗ー真実)ー本迹相対
五。文底下種三段(三世仏教ー序、ー方便 文底ー正宗ー真実)ー種脱相對

普通五重相対
内外相對
大小相對
権実相對(三種教相の第一、第二 第三法門の第一)
本迹相対(三種教相の第三 第三法門の第二)
種脱相對(第三法門の第三)

四重興廃
一 爾前大教興 外道廃 教
二 迹門大教興 爾前廃
三 本門大教興 迹門廃
四 観心大教興 迹門廃 観
 教観相対ナルガ故ニ観心即文底ニアラズ此教観ノ上ニ文底ノ教現前スベシ

五重円



観心
元意 文底ト転用スルヲ得ベキカ

第四段 其教えの筋道
第一節 其を総体に云ふ

 本宗では御釈迦様の御本意である法華経を土台とし、御本佛已來大事にかけられた妙法五字を、宗祖樣が末法に持って生れて、総ての人々に與へて成佛させうと為さる御宗旨である。其で悪い人であらうが惡い時であらうが悪い國であらうが一向御搆ひなさらぬ。大慈大悲の下には、邪を正に悪を善に作り直し、人気の悪い世界が気持の善い世の中と成り、悪い苦しい娑婆世界が清い樂しひ寂光淨土と早變りするのである。邪悪さへ正善となる。況して少しでも正善有るものは直に大正善に進むのであるから、順當でも逆様でも正直でも邪曲でも、一切合切洩れなく救ひ助くる力を持てをる三大秘法の作用である。此の三秘に敷多の教への筋道が備はつてる。今は此中の重なるもの六つを示す亊にする。其は一に宗旨の三秘は勿論の亊であるが、二に宗教の五綱、三に本迹の二門、四に折伏が正規、五に謗法の厳戒、六に受持が正行、七に下種が正益である。

第二節 其を別々に云ふ
第一節 宗旨となる三大秘法

 人々の身躰の所作と口の言語と意の思想とが勝手放埓になるのを、充分引き締めて惡い事に成らぬようにして行くには、戒定慧の三學と云って、身口意に惡い事を爲ぬ戒律と、不注意しないで屹度落着く禪定と、思考が明瞭になる智慧とを得る方法が必要であることは、一般仏教の通則ぢやけど、其仕方になると時代と人性とで幾分の相違がある。例を一寸挙げて見ると惡い亊を爲ぬと云ふ戒法にも小乗戒も大乗戒も述門戒も本門戒もあるように、定にも慧にも色々の方法があるが、爰には一々委しく挙げられぬ。要は今時の三學は宗祖大聖人が佐渡御流罪中から説き出された本門三大秘法で無くてはならぬ。其本門と云ふのは勿論天台的の観念心づりてはいかぬ。又一尊四士二尊四士や繪漫荼羅木像羅列の本尊より起つたものでもいかぬのは勿論の事である。
 先づ一つには本門の本尊である。此は三學の定に當る。此を思索に依った心から観てくると虚空不動と云って、虚空の樣に真実に少しも動揺せぬ落着きった處の一切の本體である。又此を直感の上で信心の一念で観るとき、宗祖の書れた大御本尊である。二つには本門の題目である。此は三學の慧に當る。思索に渡して考へてくると虚空の大にして靜かなる様な大智慧の中から、物事に応じて滞りなく湧き出づる智慧の作用である。又此を直感の信心の一念から觀てくると、凡夫の智慧は正當なものでない。思考を凝らせば凝らすほど猥りになってくる。一念の信心にこそ純なものがある。此が却って猥らな智慧よりも善いのぢやから、末法には智慧の代りに信を用ゆる。此純な信心で唱ふる五字七字の題目が其である。三つには本門の戒壇である。観念の上からは虚空不動的の戒の相である。信心から云ふと廣宣流布の時の戒壇堂である。已上の三の深秘の御法は本尊が主体であって、題目と戒壇とは此中に含むまれてる。其は此御本尊を吾等成佛の目的として唱ふるのが題目であり、安置し奉る處が戒壇である。此邊から云へば題目も戒壇も此一つの本尊であるので、此は三秘が一秘に縮まる形になるけれども、此を広ぐれば本尊は人法に分れ題目は信行に分れ戒壇は亊義に分るる。此は三秘が六秘と開かれたる形である。此から下に次第に委しく爲よう。
 第一に本門の本尊と云ふのは、本尊を漫荼羅とも云ふが、文字の筋合で云へば、本尊の二字に、大法の根本であるから尊といものであると云ふのと、本から尊とむべきものであると云ふのと、本の儘の尊き姿と云ふのとの區別があるが、結局は一箇の体相用の別のみである。漫茶羅と云ふときは印度の語で、其意を支那の語に直して輪圓具足、何でも備はつてること、功徳聚と直すときは、功徳が聚つてをること、此等は其持てる徳から名を附けたのである。壇と直すときは四角な土壇の事で、直に形の上に名を附けたのである。其から本尊の体相に法界其儘だの法華の霊山會に顕れた姿だの寺塔を莊ざるものだの行者の心中に具はつてるだのの義が有ると云はるるが、此樣な六つかしい理窟を附けたのは、何事も智慧を主として取扱ふ観解の分際で、今吾等に大した必要はない。信心の上から本尊と曼荼羅と云ふとき無論同一である。信仰する拜禮するに目的である。佛樣の手本であって又佛樣其物である。此御本尊に向ふとき此妙縁に觸るるときは、久遠の大昔から己が心に潜在して居た根本の信心が、自然に涌き出すので、此が遂には金剛の如き堅い堅い信念と成るのである。
 本尊の出現に靈格としてと人格としての兩面がある。即ち法の本尊と人の本尊とである。法の本尊と云ふのは誰の智慧ででも稍考が付く真如とか真理とかの、一層精撰せられた事の一念三千の不思議の境界で、此が妙法の曼荼羅である。其姿を文字に顕はしてある。真中に南無妙法蓮華経日蓮と書いて此が曼荼羅の中心となる。其左右周囲に十界の代表者の佛菩薩から世界を守る神々、妙法を伝へて来た人々までも並べてあるのは、中心となる佛の靈格を示したもので、又中心の光明に照らされて皆々佛に成るべき事を示したものである。
 次に人の本尊と云ふのは、法報應の三身が互に融通する上での自受用報身如来である。久遠の智徳を表面として、内面では法身仏とも応身仏とも交渉するのである。其が末法には人格者としての日蓮大聖人と信じ奉って、木像にも繪像にも作りて猶生きて御座する如く敬ひ奉るのである。
 此自受用身の人格に妙事の三千の法が具って属る處が人即法の本尊であり、三千の法に自受用身が具はってる處が法即人の本尊である。此互具一体の處を人法一箇とも一体とも云って、吾等の帰依し奉るべき佛樣と仰ぐのである。
 或は密に考うれば御曼荼羅の中心の南無妙法蓮華経は法で日蓮判は人であるから、此が人法一体である。斯云へば一重の一体で濟むのに、曼荼羅の前に御影を置く時は二重の一体となる勘定であるけれども、人法を即離するのは理の當然で、又此には一般の佛像を安置せし餘情を引く事にも成り、常識の上から追慕の意にもなる。人間名字の本宗では其れが善いのでは無からうか。併し人情を超越した理智の非常に進んだ非人間には、此信仰の必要は無いと云ふ事にも成らうかと思ふのである。
 其で吾等の世界では寺院でも教会でも俗家でも、必ず此御本尊を置き申して僧も俗も信心修行を励む清浄の道場とするのである。又此本尊を普通の三宝即ち佛法僧に区別する時、佛と僧とは宗祖、法は妙法曼荼羅として一体三寳に見る亊もあるが、古くより佛は宗祖、法は曼荼羅、僧は御開山を代表として其御影を加ふる事があり、此を三宝式とも古くは三幅一対なんどとも云つてるが、宗祖開山の時代に有り得べきものでない。目師巳後に出来た儀式かも知れぬ。此は一般の通儀でなく特別の式と見るべきであらう。
 第二に本門の題目と云ふのは、妙法蓮華経の五字に南無と云って歸命する依止する萬事御願ひするの意を顕はす印度の梵語を加へたものである。此五字は法華経の題號であるから、或は序品第一の上に在るものとも、或は本門正宗八品殊に神力品の上のとも、壽量品の一品二字の上のとも云ってる者もあるが、本宗では寿量品の文底に沈めてあった、久遠本佛の微妙の智慧であるとする。本門の本尊は御本體で動くものでない。其本體から出て動き作用く智用が本門の題目である。此の二は佛の方で云へば御一身其儘の境(本尊)智(題目)、吾等の方で云へば信心修行の上で入るべき境(本尊)智(題目)である。其で身心を投げ出して御願致す。即ち経文の一心に佛を見奉らんと欲はば自ら身命を惜まざれとある意味を纏めた南無の二字を、妙法五字の頭に置くのである。其で御題目の唱へ方は、身に油断怠りなきよう、意に餘念雑念なきようにありたい。口より出す声は早口であったり粘口であったりしてはならぬ。落着いて確固と尻強に中音に唱へねばならぬ。唱ふる數には定まりがない。多くとも少くとも其人の都合であるが、身體の方は両の指掌を合せて指先が鼻の下に向くように、眼は確かに御本尊に向ふように、其して身体中が歓喜で勇躍するようにありたい。御本尊と吾等と一体不二に成るまで励まねばならぬ。
 或は本宗は其様な厳格な苦行を為すべきでない。居眠りしても寝転んでも構はぬと云ふ人もあるが、其でも御本仏の御慈悲は受くるであらうが、其樣な懈怠無行では自行も進まず、他を感化する事も出来ぬので成佛が遲くなる。強因の所に強縁が出来て意外に大なる佛亊を建立するものであると云ふ亊を忘れてはならぬ。
 久遠の御本仏の微妙き智慧は本門の題目であるけど、吾等のは全く御本尊の靈光に照らされて出た處の大本の信心であって、自分獨でに無造作に出たものでないので、一念の信が起った儘放って置くと、其信は延びずに縮んでしまうから、頻に御題目を唱へて此に附帯する助行も亦世間の善事も其又助行であると勵みて、信心の根を培養せねばならぬ。一體信心が起りて難有と思へば自然に口に出る。此が信心の始まりである。此を續けて如何なる邪魔をも退けて、堅い信念を得るの行力は信心の終りである。其で題目を信と行との二つに分けて因信果行始信終行の次第を見せて、此二つが揃はねば信も出来上らず行も起らぬと云ふ事を示すのである。金剛石の樣な何物にも破されぬ堅い信仰を得ることや、吾等と御本尊と一つに成ることの御利盆を得るのは、信行が滿足しての事である。此信行具足の上に境智冥合した處の信智は、世間の所有の智慧の上位に在るもので、又如何なる世間の學問智識にも適當るべきものである。
 第三に本門の戒壇と云ふのは、久遠の大昔から変り無しに続いて居る道徳の結晶とも云ふべき、本門の本円戒を伝へ授ぐる儀式の場所である。其に就きて戒と云ふ事から云ふと、戒には其姿形や品数や本体やが幾様にも成って居るが、悪い亊を爲ぬのが一般の例である。小乗戒では在家の持つべき五戒(不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)も、在家が更に進んで出家の真似を爲る八斎戒(不殺、不盗、不淫、不妄語、不飲酒、不臥高広大床、不華美瓔珞、不歌舞戯楽)も、沙彌と云ふ佛教學生の男女が持つべき十戒(八斎戒の外に離金宝物と離非食時を加ふ)も、卒業した大比丘等が持つ二百五十戒(四重、十三軽、三十捨堕、九十単堕、七滅諍、百衆学等)等も、悪い事は為ぬと云ふ事である。外に善い亊を為ると云ふ事もあるが、要するに自分の爲が重で、社会の爲に他人の爲には働らかぬのである。大乗戒になると梵網経の十重禁戒(不殺、不盗、不淫、不妄語、不飲酒、不説四衆過、不自讃毀他、不慳惜加毀、不瞋心不受謝、不謗三宝)四十八輕戒(不不敬師長、不飲酒、不食肉、不食五辛、不不挙教懺、不住不請法、不不能遊学、不背正向邪、不不能瞻病苦、不畜殺生具等)等には、猶悪い亊を為ぬ樣にのみ成って居るが、更に三聚淨戒と云ふ事を設けて、前の惡い事を為ぬと云ふ外に、善き事を進んで爲ると云ふ事と、社界の爲に身を粉にして働らくと云ふ亊とを立ててある。日本の仏教は何も茲に立脚して居らにやならぬ。法華迹門の戒としても形は此等を元とする。其は理戒であって戒目がないから小乗大乗中の事戒を兼用せにやならぬ事になるので、天台大師は小乗戒であつたが伝教大師は始めて梵網瓔珞を外相として法華迹門を内證にする大乗戒を設けられたので、小乗から大乘に移るに従って、内證は次第に濃厚に成るかはりに、外相は次第に希薄に成るようである。本門になると殆んど外相もない。戒目にも戒相にも固着せぬから、幾箇持つと云ふことも、幾箇破ったと云ふ事も無い。自然の妙戒で金剛不可壊である。此金剛戒に定まった外相の無い處から無戒とも云はるるが、決して放逸無慚の意味では無い。世間並の道徳より何となく勝れて居るべきである。其は自分の信心の力と、止暇斷眠に謗法訶責の責任とて、自然に佛樣より戴く法力が、肉身にも精神にも行き亘って、金剛の戒體を作ってをるから自然天然に悪い事が出来ず善い亊が出来る樣になる所である。
 次に其の壇と云ふのは、印度では雨蓋の無い土の壇で白亜や牛糞で其上を清めている。祇園精舎では三重の壇が三箇所に在って授戒も説戒も為たと云ふ事である。支那では救那跋摩の南林寺、道宣の西明寺を始めとして沢山に在ったが、日本の国立と同じ風ではない。吾国では孝謙天皇の時の東大寺のが始めで在つて、唐招提寺も何れも勅建で小乗戒である。伝教大師の延暦寺の戒壇は始ての大乗戒であったので、大問題を引き起して漸く御滅後に勅建に成った。此等は土壇又は石壇の二重又は三重であり本尊佛を安置して、戒師に充つるそうであるが、小乗大乗共に勅建当時は非常に厳かで盛んであったが、間も無く衰へたので地方人民の便宜を計りて、何れも出張所の小戒壇が出来たけれど、猶戒壇に上る者も少なかった。宗祖の御時代も其頃であって、南都の小乗戒も北嶺の大乗戒も殆んど授戒が絶へて居たのを見て、時の然らしむるものとして、本門の大円戒を起すべき大願を立てられた。其御内証には広大なる御計画が在ったであらうが、順序から云へば伝教大師の戒壇が手本になるべきじゃが、三国一の名山たる富士山の下に堂々たる戒壇堂を中心にし、一大仏教都を建設しようと云ふ御考へで在つたらうが、其地割等も公にしてない。日興上人に口伝せられて其伝統の上人の腹中に存するのであらうが、場所だけは天母原と後世に云つてをる。併し確実な縄張りや壇堂の設計又は授戒の作法等は、其時の法主の口伝から出づべきものであらう。但し堂に安置する御本尊だけは前以て御拵になってある。即ち今の戒壇の大御本尊である。
 此戒壇に就いて事相に顯はるる戒壇堂と義理の上で戒壇とも思へるの二つがある。事相の堂は將來一天廣布の時に勅命で冨士山下に建ち、上は皇帝より下は萬民に至るまで授戒すべき處であるが、先づ其迄は本山の戒壇本尊安置の宝蔵が、先づ其義に當るのである。末寺の道塲も信徒の佛間も、輕くは各其義を持って居るのである。

第二 宗旨を教ゆる五つの大綱

 宗旨となる三大秘法を弘むるには、是非とも宗教の五綱を知る必要がある。三秘五綱は猶世俗の三紀五綱の開係の樣なものである。數目の一々を緊密に當嵌むる事は出来ぬが、仮に本尊は天に當リ戒壇は地に當り題目は人に當る位の事は云へる。兎も角三秘の下に在りて三秘を證明すべき大綱の法門である。其五つとは教と機と時と國と教法流布の前後とである。一に教を知らなければ宗旨の三秘が立たぬ。二に機を知らなければ折伏逆化の方法が分らぬ。三に時を知らねば正像末三時の布教が分らぬ。四に國を知らねば我国より此三秘の大法が弘まる事が分からぬ。五に教法流布の前後を知らねば淺きより深きに進みて当時は實大乘法華の三大秘法に限る事が分らぬ。其で五綱を知る事は取りも直さず本門三大秘法の弘まるべき事を証明し得るものである。猶此一々を委しく為よう。
 第一に教と云ふは、佛又は菩薩羅漢等の説かれた経律論などで、上に立つて人を教へた言葉や書物を集めたものである。此に大乗教と小乗教と権教と実教と顕教と密教とあるけれど、大乘の中の真実なる法華経だけが佛の眞實を顕はしたもので、外の一切の經律論等は未だ真実が顕はれて無いものである。其で此法華経を以て一切の経律論を開いて其中から真実を顯はすようにする。色々な教を統一する意味附ける特別の力を持った此上もない尊とい御経であることを知らねばならぬ。其して此尊とき御経の中に末法今時に丁度適當る三大秘法が包まれて居ることを知るのが必要である。又經と云ふのは正しい立涙な義理を説いたものであって、律と云ふのは行べきこと爲べからざる事を説き、論と云ふのは研究を重ねて磨き出された法である。此律と論との二をも持って居るので惣持と云って、此は特に經の修多羅の持前である事をも是非知って置かにやならぬ。
 第二に機と云ふのは、人の心の希望や傾向が腹の中に一杯になって將に發せんとする處である。其が色々ある利ときのも鈍きのも善いのも惡いのも、直に解るのも段々に解ってくるのも、大本の教を好むのも世間並の教を好むのも、種々であるから、其人其人の意向を察して人相應の教を持って行かにや徒事に成るばかりでない。却って教に中毒る事がある。此の機と次の三四の時國とは開係が深い。沢山に集った人々の機は、自から世界である。世の中は時と国とである。一所に総ぶると時国となり、別々に別くると機となる。今の末法には昔しの正像二千年間に善根を持って生れた人々が、皆片付いてしまったので、殘って居る善根の無い悪人逹は、皆悪法の中毒者で善法正理を認むる意識が麻痺して居る。却って正法を悪口して悪果を招くもので、仕方が無いから逆縁で助けてやると云ふ事になる。即ち無宿善の新田に種蒔せらるべき機根ばかりである事を知らねばならぬ。
 第三に時と云ふのは、御釈迦樣が無くなられて其御法の遺つて居る期間を三つに仕切る。正法と像法と末法とである。正法の時代には其前期に小乗教が満足に行はれ、後期には小乗が段々に衰ろへて權大乗が少々起った。像法の前期には權大乗が盛んで後期には實大乗が行はれ、末法には實大乗も微かになって實大乗の中の要法が流布すべき時である事を知らねばならぬ。又此を少し云ひ替へて見れば、正法千年の初の五百年には三界の見思の煩惱を斷じて空寂に歸する修行が完全に行はれ、次の五百年には坐禪入定して段々と意を靜むる修行が満足に行はれ、像法千年の前の五百年には経巻を讀む殊に節を附けて音樂的に讀むことと、御経の文義を講釈する事を聞く風が完全に行はれ、次の五百年には堂塔伽藍を立派に造り磨がく事が盛んになり、末法になると佛法の中で互に戰つたり諍ったり裁判事件を持上ぐる穩かならぬ事ばかり流行るので、佛法は何日と無しに無くなってしまう。仮令有っても生命の無いものである。此暗黒時代には並の戒定慧の法門では無効であるから、其形は無くとも今少し底意の強い無戒と散心と但信とが必要になつてくる。無戒等は却って戒定慧の原始である。此原始の三秘が顕はるべき時である事を知らねばならぬ。
 第四に國と云ふのは、須彌の四洲の中で北拘廬洲には佛も無い聖人の教も無い。東弗婆提と西瞿耶尼には佛は無いが聖人の教は有る。南閻浮提のみに佛も出れば聖人の教も有る。此が吾等の住居する現今の地球上の國である。其中に寒い國と熱い國と大なる國と小き國と貧しき國と富める國と、開けた国と開けぬ國と神佛に信仰の有る國と無い園等があるので、何れの國が仏教に合ふか法華経を信すべき人民の住居するやを能く考へて見るとき、吾日本では古から大乗の流布する國だと云っておる。聖徳太子が仏教を弘めらるる時、法華經を中心として御採用なされてより已來、日本は法華経に縁厚き國と云はれて居る。印度の法華経が西より來て東の果の日本で止まったのも深い縁あるからである。今は日本から法華の三大秘法を、改めて西の方へ弘めて行かねば成らぬ。吾國が新佛法の始まる結構
な國である事を知らねば成らぬ。
 第五に教法流布の前後と云ふのは、佛法の行はれない國は仕方がない、仮初にも佛の御名を知る國では、其地には如何様なる仏教が流行つて居るかを調べ上げて、其に連絡の善い又は其れよりも上級の仏法を弘べきである。小乗から權大乗から實大乗から法華経の迹門から本門と云ふ工合に進めて行かねば成らぬ。其をば強て私の考へで弘め易いからと云うて低級の教を説いて跡返りを爲しては成らぬ。向上すべき進歩すべきものを勝手に逆転させるようにしては成らぬ。栴檀が売れぬとて燒いて炭にして売るような真似を爲ては成らぬ。世間ですら進むべき文明の施設を何彼の都合で逆転させるのは一國の大不幸である。況して仏法にては猶更の事であると云ふ亊を、深く知り置く必要が有るのである。

第三 本門と迹門の二つ

 本門と迹門との區別は、通例の天台の解釈又は専ら此を用ゆる他門の解釈では、先づ迹門と云ふのは、法華経の前十四品に説いてある所で、要するに因門とて佛と成るべき原因の修行を進むる有樣、始覺とて其して漸との事で始めて佛に成った所、垂迹門とて佛が世に出でて諸の佛事を爲し居らるる所などてある。次に本門と云ふのは、法華経の後の十四品に説いてある所で、要するに果門とて佛と成ってから何を為たかと云ふ所、本覺門とて遠の昔から全く佛であったと云ふ所、本地門とて大本の動かぬ所等を説かれたのである。又二門の取柄は、迹門では一に諸法の実相眞理を顕はす。二に爾前の麁法に對して法華の妙法を顕はす。但し爾前の中に在る妙法は法華の妙法と同格であると云ふ。三に法界三千の諸法は衆生の一念の心より出でたと云ふ事などで、本門では一に佛の壽命は無始無終であること、二に法華の不思議の妙法は爾前にも迹門にも無い本門持切とのこと、三に三千の諸法は一々に霊妙なるものなる亊等に分くるけれど、此は一寸分け目を附けただけで決して本迹を離して置かるべきものでない。委しくは理(本)教(迹)。教(本)行(迹)。体(本)用(迹)。實(本)権(迹)。(已上迹門)巳(本)今(迹)。(已上本門)の六重に分けて、其関係を明かにしてあるが、本迹何れに在っても不思議は一つで有る亊が、表面の道理になって居る。本迹は何處までも別々である。天は高く地は低しと云ふ事實は裏に包まれて居る。即ち不二とて一つであることが表であって、而二とて二つであるとこは影になって居る。此が通例の本迹論である。如何に意義を擴ろげても元は此から割出されてをる。
 此の本迹の解釈は暇令何處で使つても天台宗の本迹で有って宗祖樣の持前の御論でない。宗祖に此御使ひ方があっても其は表面一往の事であって御本意でない。要するに理本事迹とて理性や理想に属する抽象的の所は本門であって、事相や亊實に属する具體的の所は迹門であると云ふ説は、宗祖再往の御本意でない。又本門妙事の三千縁起の事観も畢竟理論で宗祖の御本意でない。宗祖の密意は本因下種の邊が本門で本果脱盆の邊が迹門と成つて居る。即ち第三法門の三番目五重相対の五番目が宗祖の本門である。台家の本門は第三法門の二番目五重の四番目であるから宗祖の前方便に属するを、暫く本門の名が與へてある所も在れども實は迹門であつて種本脱迹が御本意である。一體本迹の名前は羅什三蔵の高弟僧肇が用ひ始めたのを天台が使はれたけれど、意趣は違って居る。肇は悉逹太子の御釋迦樣の上(始成本位)に、天台は久遠實成の御釋迦樣の上(久成本位)に、宗祖は復倍上數の名字佛の上(元初本位)に立てられた名目であることを深く意得て置かにやならぬが、其当時は此法門が口伝であって公開は為られぬ。其口伝も極少数の弟子に限られたので、多分は此を髣髴する位で在ったものと見ゆる。其で経文讀誦の儀式の上でも、一部經を讀む讀まぬ、方便品を讀む讀まぬ、本迹は一致か勝劣か、其勝劣は一品か一品二半か八品かと云ふ争ひも起って、甚しきは宗祖は上行菩薩の再誕でない迹化の菩薩であるの、法師品の小行者であるのとまで脱線した。現代では成るべく此等の諍論から解放せられて宗祖の古へ返らうと務めてる向きが他門に有るのは、悦ばしい傾向であるが、残念にも多分皮相上の亊ばかりで二門の極重たる肉になり骨に成るべき種本脱迹の教義は、未だ閑却せられてる樣である。

第四 折伏が本當の規則

 人に教ゆるに極々硬的な折伏と云ふ方法を使つてるのは、非常の場合で逆縁の事である。平常は重に軟的な摂受と云ふ方法で、順縁に弘むべきであるから、態度は柔和で相手が何な事を仕向けても決して怒らない。語は優しくて氣長で如何なる手からも此方に引き入るる樣にするのが普通である。剛い顏して荒き言葉で手厳しく直に向うの弱点を折く様には滅多に為ぬものである。其摂受的柔和忍辱と云ふ態度が一般僧侶の風儀と成って居るけれど、其は時と場合ひで今時には何等の権威も無い。優柔の風儀では悪国悪時には手の付け樣も無い。其で万止むを得ず硬的な折伏を用ひにや成らぬ。降魔の利剣も振はにやならぬ。念仏無間も真言亡国も律国賊も禅天魔も叫ばにやならぬ。其外の新しい邪教があって妨害になる樣なら其れも退治せにや成らぬ。非仏教であっても非宗教であっても邪義を宣伝して正教弘宣の邪魔になる様なら見逃しには成らぬ。若し千人に一人も直に此言を聞分くるなら、其は稀なる縁の深い者である。多分は悪口して妨害して其爲に顕れたる隱れたる御罸を受けて、不幸になり病人になり死んだりして、現在に後悔して信仰に入る亊になる。又結縁となりて未来に持越す亊もある。此が先づ宗門布教の原則である。此原則の下に時と場合で又人に依りては多少の加減を爲る。即ち四悉檀の中では、世界悉檀の時は、此原則に抵触せざる限り成るべく其時代の政治法律文學習慣等を弘教の方便にする。爲人悉壇の時は對手の通例善行的の意向を斟酌する。對治悉壇の時は對手の思想信仰を破折して屈伏せしむる。第一義悉壇の時は前三箇の手段を越えて直に純理性純信仰に入らしむるのであるが、却って至難の仕方である。此等折伏の手段は上代ては稍一般的であったが、各教団が出来上って本末の分限も定まり、物質上の規模たる堂宇とか財産とかが揃ってくると、其を成るべく持堪へて行かうと為る所に、官權又は財産に對して腰が低くなる。如何に骨?の貫首でも本山の爲なら仕方がない。遂には御追従もし次第に御法の為とて軟風が吹き始まるる…………摂受折伏何れも無方針に御都合次第、又は折伏なんか野暮だと他宗並に摂受一点張りの看板を上ぐる。此等の軟風堕落の一面が禍を成して不受不施騒ぎの原因になった。
 併し宗門で教化に用ゆる折伏は重に言論である。折くも破るも伏するも、皆思想的であり精神的であるから肉體を損ふ事は無い。此では徹底せぬ邊もある。硬教育には拳骨の必要もある如く、御釈迦樣の涅槃經の中の有徳王が覺徳比丘を守護して悪僧惡俗と戦はれた亊、宗祖樣の本尊抄の中の賢王と成って愚王を誡責すと云はるる底には、国家の兵権を行使しても惡王謗国を責むる折伏する事を云ってある。極端かは知れぬが茲に折伏の徹底を見るのであるが、此は佛法守護の大任に當れる國権者の事で、兵権を持たぬ腕力に乏しい今日の組織の宗團では不可能の事に属する。

第五 謗法を厳しく誡む

 謗法と云ふ事は、通例では正法を謗る事を云ふのである。此の謗ると云ふのは口に出して言ふ計りでない。腹の中で善くないと思ふたり、顏を顰めて嫌がったり怠けたり解ら無かったりが、皆謗法であるから其範囲が広くて十四誹謗と云うてあるのは、多くは他宗から吾等の正法を護る時の姿で、宗門の方の意得違となることは、此中には少い樣であるから茲には除けて置く。
 宗門で謗法と云ふのは、折角御大法に入りても又は信心の家に生れても又は僧侶と成っても、兎角信念が弱い處から遂に信仰の決定も出来ず、知らず知らず非宗教に成ったり非仏教に成ったり、他宗門に信を寄せようと思ふたり寄せたり、後には其為に明に反対の態度を取りて宗門の人法を非難攻撃する事になる。此を度々訓誡せられても、頑として改心せぬのが、即ち大謗法である。此樣な人は殘念ながら宗門から離れて貰はにや成らぬ。其は宗門では學問と修行との上位に、信心が置かれてあるから、信仰が無くなつたり反對であつたりする者は、小乗戒の淫盜殺妄の四重罪と等しく、世法の頸を斬る罪に當る。生存の価値が無い計りでない。生存して居れば他の多くの人を損ふ恐れが有るからである。其で無信反信の謗法者は厳重の誡として宗門から放逐せにやならぬ。現行宗制の僧分は一宗擯斥、信徒は離檀と云ふ箇絛が其れである。大誇法より下の輕い小謗法罪とも云ふべき、信行の怠慢や心得違などは凡夫には有勝の事で其都度悔ひ改むれば宜い。謗法の名を附くるにも及ばぬ。強いて附くれば小謗法とても云ふべきで、後悔して再び爲ねば罪は消ゆるであらう。又度々教訓して堅き信仰に進ませて、一人でも救い洩れの無い樣にせにやならぬ。又此謗法厳誡は自行門に、前の折伏正規は化他門に当るのである。

第六 受持が正行なること

 御経の中に在世の弟子の為に四信(一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成)と云ふ修行の仕方を説かれたが今日の用でない。又観行五品(一随喜品ニ自受持読誦品三勧他受読誦四兼行六度五正行六度)と五種の妙行(受持、読、誦、解説、書写)とを説くが佛滅後の作法である。今五品を置いて五種を取る。先づ受持と云ふのは経意を信念の力で確と吾身に結び着けて置くのである。讀と云ふのは経文を見て讀むこと、誦と云ふのは見ないで暗誦すること、解説とは講釈説法のこと、書寫とは書き写すのである。此等の読誦解脱書寫は非常に厳格な尊とい儀式で日本にも行はれた。転読だの八講だの如法経だの一日経頓寫などは、勅會でも行はれた。民間では無論の亊である。宗祖樣も時に依ると用ひられたが正儀とは爲れなかつた樣である。却って此上にある受持の一行は到る處如何なる時でも励まされてる。此が宗門の正行であって餘の四は附属の行であったが、開山上人は更に此等は像法の残物末法では無益な行ぢやと斥けて、信力の故に受け念力の故に持つ妙法の色讀なんどに並べ置くべきもので無いと定めなされた。
 其は受持は徳行でもあり末法に相応しい易行であるから、不輕菩薩の但禮拜ばかり行するのを移された御規模として特に用ひらるるのは、読誦等の四行が同列して受持正行と紛るるのを防ぐ爲である。其して受持正念を相續せしめて境智冥合の域に逹せにや成らぬ。読誦の中でも一部等の廣式は全く此を廃して、漸く方便壽量の二品を殘して、唱題正行の爲の助行と爲された。此は宗祖樣の平常行であったのを取って、御開山が意義を附けられたのである。解説なども八講式等を用ひ無いで、簡単なる純講演風で化他聞法の便宜さへ有れば宜い。書寫は旧説ですら下劣の功徳と云はれてある。如法經にしても頓寫にしても、時代遲れで厳禁する。其巳下の厳儀無しの書寫は、当時は印刷等が盛んになるので殆んど無用である。

第七 下種が正益なること

 佛様が人々を利益するに、下種と調熟と成脱との三期がある。此の期間の長いのと短かいのと、又一刹那の極短期なのも有る。範囲に就いても大きいのと小さいのがあるで、容易に其数は知れぬが、先づ大束みに三つに分けて見る。第一に久遠の元初より實成第一番に至る復倍上数の期間に於ける本因修行中の三益、第二に久遠の第一番五百塵點刧の昔に成佛せし本果本證已後の三益、第三に末法萬年に久遠元初の有様が再び現れたる本因的の三益である。第二の三益は四節念々多種の三益の總體であって型式が完備して居る。第一と第三とは宗祖の御義たる宗門の三益であって、本因的だから本果に比ぶれば型式が整うて居ぬ邊もあらうで、三益と云ふ名は無用であらうとの説もあるが、茲には先づ三益として置く。
 三益に付いて普通に種と云ふのは、法界の玄理を體得したる妙法の穐子である。此種子を佛が弟子の心田に下すが下種であり、弟子が心内に受取った處が下種益である。心の中の雑草たる煩惱を取除けて解行の苗を育てて行く處が熟益である。解行の苗が成長して無明の根本煩惱も無くなり、無上の仏道を自ら證得し、又他の弟子にも證得せしむる亊が脱益である。五百塵点劫間の三益が終期に成って、猶幾分の餘殘が正像二千年に流れて、其も追々に解脱してしまうから、末法には善種を持たぬ荒凡夫のみ残るので、更に新しき種を下ろすべき下種正益の時代で、此が久遠元初の無数の時に始めて本因下種を爲すと同一の理合であるから、元初の再現とも云ふべきである。元初と末法とが中間の長き大きな五百塵点劫の圏線を一巡して出合った樣なものである。此は假の譬で決して少しも変らぬ軌道を辿りて跡戻りするのでは無い。元初が復倍上數と一巡して、五百塵點刧に移り此が大廻りして、末法に来るのである。同じ見當の外側を間斷なく進行する限り無き渦線である。此間に能化の名字は替りても共體徳は始終同一である。此意味を意得ぬ者が稍もすれば元初本因を荒凡夫同然に扱ふのには困る。
 此に依りて更に三益の形を宗門的に云へば、種と云ふのは元初の聖人が未だ迷中に在りながら、他の人々よりも一歩先に妙法の理を體驗した。此を世の中に唱へ出して他人を導びく時、此を聞いた人々が軈て此妙法を己が心内に受け納るるのが下種の利益である。去り乍ら此場合に大道心を起したり知識分別に亘して味つたり修行したり爲る事は出来ぬ。唯難有いと聞いただけで下種益に成るのである。此後に自然に道心も起り解行も出来、煩悩も無くなるのである。此時は能化の聖人は已に元初本因行の頂上より、初住本目に転進して、第一番久遠実成の本果佛と成らるるので、此は第二の三益たる本果的本佛である。
此本果の上の三益は、普通のであって宗門の肝要でないが、第一番佛から妙法を下種せられ、發心して名字即の益を得るのが下種益である。此から種々の解行に亘り、中間大通智勝仏時代に観行相似と進みて熟益を成し、更に一品の無明を斷じて一級の中道を得て八相成道を始め、次第に四十二品を断じ尽して妙覺佛と成る。其終点が釈迦佛の脱益期である。此は大判で此下の小判は猶更此に云ふ必要はない。
 宗祖大聖人の法流を引く各教団で、三益中に宗祖は下種正益で有ると云ふ事だけは、異義なく一決してるが、下種が熟脱に移る工合は明了でない。扨て其種子は本因であるか本果であるか、又其種子を持てる人は本因地の菩薩であるか、本果の仏陀であるか、又は名字仏であるか、若し本果仏の所有とせば播き手は本因菩薩であるか等の義解が区々であるのは、残念の至りであるが、宗祖の御内証は斯く乱菊たるべきでない。返す返す各教団が正義に還らるべきを念願する。
日遶正宗綱要の講話終り