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慶林日隆の上行菩薩=本因妙説の検討――日蓮は上行菩薩を釈尊の因位の姿として理解していたのか
初めに
以下に述べるのは、日蓮正宗で主張されてきた日蓮本仏論の一つの論拠とされる日蓮=本因妙の教主(『百六箇抄』)の議論の原型となる八品派の派祖日隆の「上行菩薩=釈尊の本因妙」という議論が、智顗、湛然、日蓮の議論と整合するのかどうかという問題の検討である。私は創価学会が日蓮を「末法の御本仏」とすることについて、「末法の御本仏」=「末法の教主」=「末法の導師」という意味では、日蓮個人の思想と大きな相違はないと理解している。しかし日蓮を「久遠元初の自受用報身」(『本因妙抄』)として、久遠実成釈尊を「応仏昇進の自受用報身」(同)として、そこに勝劣を見る思想(日蓮正宗の日蓮本仏論はこの勝劣論に立脚している)は、日蓮個人の思想とは大きな隔たりがあると思っている。まずは日蓮本仏論を明瞭に主張した大石寺9世日有の議論を検討する前に、その議論の論拠の一つとなった八品派日隆の「上行菩薩=釈尊の本因妙」という議論を検討したい。
1 問題の所在
1-1 初期の日興門流の本迹の区別と上行菩薩の位置づけ
日蓮本仏論が成立するにあたって、上行菩薩が釈尊の因位の姿であるという上行=本因妙説は決定的に重要な役割を果たしている。日興門流においては、大石寺6世日時の『御伝土代』において、「日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり」(5-1)とあるように、日蓮=上行再誕説であり、おなじく、「日蓮聖人云ク本地は寂光(?)、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心(涌出品)ノ第一ノ弟子なり。 本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧祇劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍成数の本仏なり。 法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり何ぞ日蓮聖人の弟子となつて拙くも天台の沙門と号せんや」(『富要』5-11)とあるように、上行菩薩=久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子=本眷属、本仏=久遠実成無作三身という位置づけであり、上行が釈尊の本因妙の姿であるという議論は全く見えない。また本迹の区別も法華経の前半と後半を分ける智顗の本迹の区別と同じであったことが分かる。
なお永く『御伝土代』の著者は、堀日亨の鑑定により、大石寺4世日道の著作とされていたが、池田令道の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」(『興風』第十六号)、「大石寺蔵『御伝土代』の作者について(補遺)」(『興風』第二十三号)により大石寺6世日時の著作であるとされた。今はそれに従う。また『本因妙抄』についても、日時写本の存在が堀日亨によって伝えられているが、池田令道は「解題 大石寺蔵 某筆『御書目録日記事』の解説」(『御書目録日記事』(興風叢書(6))により、日時による写本ではなく、大石寺直系の14世日主(次は要法寺系15世日昌)周辺で書写された可能性が高いことを指摘している。なお9世日有と保田妙本寺11世日要の聞書が混在している『雑雑聞書』には『本因妙抄』に拠ると思われる「唯我与我」という用語の使用例があるので、要法寺から大石寺に帰依した左京日教によりもたらされた『本因妙抄』を日有が知っていた可能性もあるが、別の箇所では「要云はく・釈尊は唯我一人と説き、聖人は唯我と我(唯我与我)(本因妙抄)計り遊ばす是信心の時の形像なるべし云云」(『富要』2-164)とあるので、日有ではなく日要の聞書である可能性の方が高い。また『本因妙抄』を解説したと思われる部分が『百六箇抄』にあるが、『百六箇抄』には日興門流では使用されなかった教学用語の「五味主」が「五味主の中の主の本迹 日蓮が五味は横竪共に五味の主の修行なり、五味は即本門・修行は即迹門なり」とある様に使用されているが、この用語は日蓮の『曾谷殿御返事(焼米抄)』(339 日祐写本)にあるとはいえ、八品派日隆により法華独勝を主張するために頻繁に使用された用語で、『本因妙抄』『百六箇抄』が日隆の影響下で、出雲周辺出身の日尊門徒により作成された可能性を示唆している。
( 日教(日叶)「本因百六ヶ等相承書」奥書に「本に云く、本是院日叶之。 以前、此の秘蔵抄は先師日耀より相伝ありと雖も、当乱に就いて雲州馬来の本堂・院坊は破壊し畢んぬ。しかる間、本尊・聖教は皆々紛失す云云。ここに日広上人所持本を申し請けて書写し了んぬ。近年、日瑶と申す不思議の人ありて入筆これあり。随為の削りはなお以て不審これ多し。他本を以て校合あるべきなり。ただし本来の百六ヶ条は日瑶の少智を以て添筆致し難きなり。 奥に云く、不審ある故にこれを言わず。後見、御意得あるべきなり。 文明十一年(1479)八月二十八日 日叶在判」(御書システム)とあり、出雲馬来の日耀から「百六箇抄」等を相承したが、戦乱で紛失したので、京都の上行院の日広の所持本により書写したことが述べられている。日耀、日広はいずれも日尊門流に属する。)
1-2 9世日有の本迹論の位置づけの変更
日興門流で日蓮本仏論を明確に唱えた9世日有は、『化儀抄』において、「一、本迹とは身に約し位に約するなり(『法華玄義.』33.0770b09)、仏身に於いて因果の身在す故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身自行成道なれども既に成道と云ふ故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より已来た機を目にかけて世々番々に成道を唱へ在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云ふも迹の世道なり、故に今日花厳阿含方等般若法華の五時の法輪、法花経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹ともに迹なり、今日の寿量品と云ふも迹中の寿量なり、されば教に約すれば是本門なりと雖も(『法華玄義釈籤』33.0923c16)文。
さて本門は如何と云ふに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以つてそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熟の位、分真究竟の脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ(『法華文句記』34.0156c26)と釈して脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是なり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり、仍つて迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則法華経の本意滅後末法の今の時なり。されば日蓮聖人御書(?)にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為めなるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、属累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故に住本顕本(『法華玄義』33.0798b07:?五住本顯本)の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字ありと遊す是れなり云云。」(『富要』 1-77)と述べている。
日有の議論においては日興から日時へと継承された日興門流初期の法華経前半十四品=迹門、後半十四品=迹門という思想とは異なった、久遠の遠本本因妙=下種益=本門、本果の仏身=脱益=迹門とする新たな本迹思想が提示されている。ここでは本門=本因妙=一文不通の信=名字即(=未断悪)=下種益=末法=題目の五字、迹門=本果妙=智慧解了=断悪証理=脱益=在世=一品二半という対概念が見られる。
1-3 日有が閲覧した日隆の『法華天台両宗勝劣抄』(四帖抄)の議論
日隆は久遠本因妙下種を本門として、本迹勝劣を唱えたことは、日有も閲覧したとされる『法華天台両宗勝劣抄』(四帖抄)に「この上に第三本門をもって迹門・爾前を見れば皆悉く無得道なり。所以に迹門・爾前の脱益を、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」して、現在の脱益を去って久遠下種を取り、これをもって迹中の三五七九(『法華玄義釈籤』33.0815b21)の衆生を見下せば皆悉く久遠下種のものなる間、本門成仏の得分と成って迹門無得道なり。観心抄に云く「爾前迹門の円教すら仏因と成らず」と云えり。あるいは、「一品二半より外は未得道教云々」」と述べていることに明らかである。日有は湛然の『法華文句記』の「脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ」を同様に引用し、「此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり、仍つて迹門無得道の法門は出来するなり」(御書システム)と述べて、久遠本因妙の名字初心の信によって得道するのであり、「迹門無得道」であるという日有の議論の展開は日隆と同様である。このような議論の展開は日興門流では日有以前には見えないから、日有は日隆の種脱の区別を基にした本迹論に影響を受けたと考えてよいだろう。
1-4 慶林日隆の本迹論の革命
日蓮滅後、日蓮の継承者たちは本迹勝劣をめぐって、さまざまな論争を展開したが、その根本原因は、日蓮は『観心本尊抄』などで法華経後半の十四品で説かれる本門が勝れ、前半十四品の迹門が劣っていることを明言しながらも、その修行においては、『観心本尊抄』述作以後も、迹門に属する方便品と本門に属する寿量品との二品読誦を継続し、時には法華経二十八品を読誦するという一部読誦を行い、また「地引御書」にあるように天台宗で盛んに行われていた多人数で法華経を書写するという一日経の儀礼も行った。特に方便品読誦という重要な儀礼に関して、どう本迹勝劣という思想と整合させるのかということについて、日蓮は明確なコメントをせずに亡くなったので、日蓮滅後、天目に代表される迹門=方便品不読という異議が生じた。この問題に関して六老僧の間では、方便・寿量の二品読誦という日蓮の儀礼の継承では一致したが、その教義的位置づけに関しては相違しており、それが本迹論争を複雑にした。
だがその場合、本迹を法華経の前半、後半で分けるという本迹思想は継承されてきたが、本門を久遠本因妙で定義するという教義的革命を起したのは八品派の派祖慶林日隆であった。日隆の『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』には「この本門とは玄の一に云く、この妙法蓮華経とは本地甚深の奥蔵なり云々。「本地の奥蔵」とは「復倍上数」の本因妙の所なり。玄文止の中に在々所々に本門久遠を称歎する時は、本果妙已前の本因妙を出すなり。経文には、「復た上の数に倍せり」云々。弘の五に云く、「十法既にこれ〈中略〉若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指してもって積劫となし、本成仏の時をもって妙悟となす」云々(『止観輔行伝弘決』若約本門。指我本行菩薩道時以爲積劫。本成佛時以爲妙悟)(46.0292b)。籖の十に云く、「迹門は大通をもって元始となし、本門は本因をもって元始となし、今日は初成をもって元始となす」(『法華玄義釈籤』迹門以大通爲元。始本門以本因爲元始。今日以初成爲元始)(33.0949a)と云えり。この文に三所の元始を釈するに、本門の元始には本果妙を出ださず。本因妙を出して元始となす処は、玄の一の「この妙法蓮華経とは本地」(此妙法蓮華經者。本地甚深之奧藏也)(33.0681c)の本地とは本因妙をもって正意となすべしと見えたり」(御書システム)とあり、本門を本果妙ではなく、本因妙に定義づけている。
1-5 日隆の本迹論の革命の論拠となった湛然の『法華玄義釈籤』の議論
その論拠は日隆の引用に明らかなように、智顗の『法華玄義』の「但論如來布教之元始」(但だ如来の教を布くの元始)(33.0800b)に注釈した湛然の『法華玄義釈籤』に「叙始末者迹門以大通爲元始。本門以本因爲元始。今日以初成爲元始」(33.0949a)(始末を叙すとは迹門には大通を以て元始と為し、本門には本因を以て元始と為し、今日は初成を以て元始と為す)とあるように、湛然は法華経の種熟脱の「元始」を今日、迹門、本門に分けて、それぞれ始成正覚、大通覆講、久遠実成の本因妙を元始とする。「元始」の意味については、智顗の『法華玄義』に「此經明佛設教元始巧爲衆生。作頓漸不定顯密種子」(33.0684a11)(此の経は、仏の教を設くる元始、巧みに衆生の為に、頓・漸・不定・顕・密の種子を作すを明かす)にあり、法華経化城喩品にて、大通覆講において、釈尊より下種されたことを事例にして、説明している。だから湛然の本門の元始は本因であるという意味は、釈尊が久遠において我実成仏已来の本果妙で下種したのではなく、我本行菩薩道の本因妙で下種したというように解釈可能である。
1-6 湛然の「元始」論への日蓮の言及
日隆以前にも、湛然の『法華玄義釈籤』の「本門以本因爲元始」はそれなりに注目されてきたが、必ずしも本迹勝劣とは結びつかなかった。『断簡348』には「横の一念三千 〈迹門〉 縦の一念三千 〈本門〉 籖の十「迹門は大通を元始と為し。本門は久遠を元始と為し。今日は初成を元始と為す」」とあり、「本因」が「久遠」と言い換えられている。『注法華経』では「《③表79》籤の十に云く、初めに始末を叙せば、迹門は大通を以て元始となし、本門は本因を以て元始となし、今日は初成を以て元始となす」とあり、『断簡348』で「本因」を「久遠」に言い換えた日蓮の意図は不明である。日蓮の意図は「本門の元始」を「本因」ではなく、「本果」に見出していたのかもしれない。この問題は後述する。
湛然の三種の元始は、智顗の『法華玄義』の「七番共解」の「教相」において説かれる、「三種教相」の「教相爲三。一根性融不融相。二化道始終不始終相。三師弟遠近不遠近相」(33.0683b)(教相を三と為す。一に根性の融・不融の相、二に化道の始終・不始終の相、三に師弟の遠近・不遠近の相なり)に対応している。日蓮の真蹟遺文である『三八教』には「玄義一に云く「教相を〈経の一字に三八教あり〉三と為す。一に根性の融不融の相、二に化道の始終不始終の相、三に師弟の遠近不遠近の相」。 一に根性の融不融の相とは、籤の一に云く「列中三意とは、前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約す」」(『昭和定本』2223)とあり、この「三八教」には三種教相の第一の根性の融・不融に含まれる化儀・化法の八教しか述べられていない。
しかし『三種教相 図録4 日朝録外』は詳細な三種教相に関する議論であり、日蓮の親撰とは思われないが、そこでは①「第一根性の融不融。華厳・阿含・方等・般若・法華各々得道有り。種熟脱を論ぜず」(2229)、②「三の巻化城喩品の意なり。大通を以て元始となし、余教を以て種と為さず。 第二化導の始終不始終。爾前の得道を許さざるなり。種熟脱を論ず。迹門。種は大通、熟は中間と今日の四味、脱は法華なり」(2229)、③「寿量品の意なり。五百塵点、久遠を以て元始と為すなり。世々番々の成道なり。 第三師弟の遠近不遠近。種熟脱を論ず。本門。種は久遠、熟は中間大通と今日の四味、脱は法華なり」(2229)とあり、三種教相と三種の元始が対応させられているのが分かる。この日朝録外の『三種教相』においても、『断簡348』と同様に、「久遠を以て元始と為す」とあるから、日蓮が弟子に三種教相を教授する時に、そのように述べていた可能性はある。さらに『三種教相 図録27 三宝寺』にも「久遠を以て元始と為す」(2393)とある。もっとも後の部分で『法華玄義釈籤』を引用する箇所では「本因を以て元始と為す」(2399)とある。この問題は後で論じよう。
1-7 藻原寺4世日海の『三種教相見聞』と本迹論
1-7-1 『三種教相見聞』における三種の元始
「三種教相」は日興門流では重視されなかったようで、それに言及した文献資料は見当たらないが、日朝、日隆以前では、日向門流の藻原寺(妙光寺)4世の日海の『三種教相見聞』(応安二年(1369))では、「先師大聖人より始めて此の教相を別して書き抜いて一巻の書となし、三種教相と名づけて、今に至るまで是れを習い伝ふる処なり」(『三種教相見聞』興風叢書19 p. 5)とあり、他門流では三種教相が重視されていたことを述べており、『三八教』は日蓮が「書き抜い」た「三種教相」の一部と思われる。『三種教相見聞』では三種の「元始」について、①「一、寂滅道場為元始と云う事/ □□化城喩品已前には未だ化道の始終を説かず。故に今日已前の化□□□□□るに、天台は教相を釈し給ふ時も第一の根性の融不融□□□□□前の化道の元始を釈し給はず。寂滅道場□□化道の元始となすなり」(p. 26)、②「一、大通を以て元始となす事/ 尋ねて云く、大通を以て元始となすと云う意如何。 答えて云く、化城喩品にして化道の始終を説く時き、大通智勝仏の因位の王子十六人の皆な出家して沙弥にて御坐しける。其の中に第十六の王子は今の釈尊にて御坐す。釈尊は其の時き初住真因の成道を唱へ、大通智勝仏入定の八万四千劫が間だ、大通智勝仏の説き給いし法花を覆講し給いし時を元始として、迹門に種熟脱を論ずる故に、大通を以て元始となすと云うなり」(p. 237,238)、③「一、本因を元始となすと云う事/ 尋ねて云く、本因を以て元始となすと云う事如何。 答えて云く、本因とは、釈尊が五百塵点劫已往に妙覚成道を唱えたまふ時より尚先きに、「我本行菩薩道」の「初住真因」の成道を唱へ、初住より已来た及び今日乃至未来の機を鑑たまふ時を始めとなす故に、本門の意は本因を以て元始となすと云うなり。籖の十に「本門以本因為元始」と云へる。是の意なり」(p. 340)と述べて、三種教相と三種の元始の対応を述べている。
このように三種教相と三種の元始を対応させれば、日隆と同様に日海も迹門無得道を唱えるのが、論理的必然と思られるが、日海は迹門不得道について「一、不許爾前迹門得道と云う事/ 尋ねて云く、不許爾前迹門得道と云う意如何。 答えて云く、迹門にして爾前の得道を已にこれを破して無得道と云う義は是れ畢んぬ。其の上に本門にして迹門の当分の得道は一往これを許すと雖も、再往はこれを破す。其の故は、中間今日乃至未来の大小の益は皆久遠法花の功に依る。是の法花とは本門無作の法花なる故に、爾前迹門の当分の益は全く本門の功とこれを奪うなり。仍て不許爾前迹門得道と云う注に久遠の下種を奪う故と書きたるなり。さて其の爾前迹門の得道とは当分の得道なり。故に得道の注に当分得道と書きたるなり。しかるに是の当分の得道は久遠の下種がこれを奪うなり」(p. 341)と述べて、迹門無得道を認めている。
1-7-2 日海の四重興廃論
それでは日海は日隆と同様に本迹勝劣を唱えたかというと、それは否である。その論拠について日海は「尋ねて云く、爾前・迹門・本門・観心と四重に習う事如何。 答えて云く、爾前においては蔵通別円の浅より深に至って四重に教の浅深あり。しかりと雖も爾前・迹門・本門・観心と四重にこれを習う時きは、前三教はこれを置き、華厳兼別の円、方等四教並対呵讃の円、般若帯二の円、已上三ヶの円を一物となして爾前・迹門・本門・観心と習うなり。しかるに爾前の円は無相寂滅に一理を説いて、不相の理は説かず。二乗成仏を明かさず。久遠実成もこれ無し。法華迹門は無相不相の理を説いて二乗成仏を明かすと云へども、久遠実成を説かず。性真如観を帯して諸法実相と開すと雖も、諸法を実相に帰して諸法実相とこれを談ず。「是法住法位。世間相常住」と説くは此の意なり。本門の円は久遠実成を明かし、性真如観を帯して諸法を実相に帰せずとも、即ち万法の事々当体これを談ず。しかりと雖も迹門をば従因至果・捨劣得勝の法とこれを嫌いて、本門には従果向因して、迷妄の衆生は全く無作の覚体とこれを談ず。観心の円は本迹不二にして、施迹の近事即ち遠本の理なりと談じて、無作三身の妙観を用いるなり」(p. 371,372)と述べて、観心の円においては本迹不二であるとして、本迹勝劣を否定する。
1-7-3 智顗の『法華玄義』の絶待妙の四重興廃説と湛然の『法華玄義釈籤』の注釈
この四重の円は、その論拠を日海は「玄の二(33.0697b)に云く、迹の中のごとき、先づ方便の教を施せば、大教は起こることを得ず。今大教若し起これば方便の教は絶す。所絶を将て以て妙に名づけるのみ。又迹の中に大教既に起これば、本地の大教は興ることを得ず。今本地の教興れば迹中の大教は即ち絶す。迹の大を絶するの功は本の大に由る。絶迹の大を将て本大に名づく。故に絶と言うなり。又本の大教若し興すれば観心の妙は起こることを得ず。今観に入って縁寂なれば、言語道断にして本教は即ち絶す。絶は観に由る。此の絶名を将て観妙に名づく。此の義を顕わさんがための故に、絶を以て妙となすなり」(p. 372)と述べて、智顗の『法華玄義』の「絶待妙」の議論と、それに対する湛然の『法華玄義釈籤』の注釈「籖の二(33.0846b)に云く、如迹より下は本迹に約して以て能所の意を釈す。教と本迹と及以び観心と展転して相ひ絶す。何となれば迹中の円融の説に由らず。故に本地長遠の本を知ること能わず。若し本の遠の教興る故に迹をして絶せしむ。本は迹を絶すと雖も、豈に即ち遠を説くに能く心性を知らんや。若し心性を語すれば迹本倶に絶す。故に本迹殊なりと雖も不思議一と云う。彼の殊を一にするが故に。故に知んぬ、徒らに遠近を引くは未だ観心を了せざることを。遠近は彼れよりす。我れにおいて何かせん。貧の宝を数えるがごとしとは此の謂いなり」(p. 372)によることを明らかにしている。
「絶待妙」により迹門修行を容認することはまた「一、絶待妙の事/ 示して云く、本門絶待の意は迹門の名体を全く本門の名体と開会するなり。 尋ねて云く、玄の二に四重興廃を釈す。しかるに「今本地教興迹中大教絶」と云ふ。今の絶待妙の意と云うべきか。如何。 答えて云く、しかなり。是れ則ち本門絶待妙を釈せる文なり。 尋ねて云く、云うがごとく此の文を以て本門絶待妙の釈となせば、今本地教興迹中大教即絶。本門の修行の興せる時は迹門を用うべからざるか。如何。 答えて云く、「本地教興」すると云ふ意は、本地教所談の迹の名体は即ち本の名体と談ずる故に、本迹一致にして本迹の二法を行ずる。是れ即ち「本地教興」にてこれあるなり。さて「迹中大教即絶」と云ふは、未知久本の唯迹の大教は即ち絶するなり。是のごとく料簡するに子細なし。全く迹を一向に取り捨てて唯だ本のみ用うべしと云う意とは云うべからざるなり」(p. 402,403)と日海は述べている。
1-7-4 身延3世日進書写の『立正観抄』の四重興廃批判
日海の四重興廃の議論は智顗や湛然の議論を論拠にしているだけで、日蓮の御書を引用して、四重興廃を論ずることはない。『三種教相見聞』には日進書写の『立正観抄』(『立正観抄送状』は1330年日進書写)は全く引用されていない。『立正観抄』には「次に観心の釈の時本迹を捨つと云ふ難は、法華経何れの文人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや。設ひ天台の釈なりとも、釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之れを用ゐるべからざるなり。依法不依人の故に、竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり。其上天台の釈の意は、迹の大教起これば爾前の大教亡じ、本の大教興れば迹の大教亡じ、観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは、本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、今像法の修行は観心修行を詮と為るに、迹を尋ぬれば迹広し、本を尋ぬれば本高し、極むべからず。故に末学機に叶ひ難し、但己心の妙法を観ぜよと云ふ釈なり。然りと雖も妙法を捨てよとは釈せざるなり」(『昭和定本』p. 846)とあり、四重興廃を論拠に観心の円をを重視して、本迹の教を捨てることを批判している。
日隆は『天台法華両宗勝劣抄』において、智顗の『法華玄義』の四重興廃と湛然のそれに対する注釈を引用して、「法華の教を廃し止観の大教を取って観心を成ずべしと判ずる間、法華は劣り止観は勝ると云う事、これ等の文義顕著なり」と主張する天台宗の主張に対して、「上件の天台末学の種々の大僻見を尼崎本興寺流に会通して云く、但し委悉には立正観抄に御会通これあり。私の才覚に及ぶべからざるか」(御書システム)と述べて、『立正観抄』に既に回答があることを明言している。
2 日隆の本迹論の概要
2-1 智顗の『法華文句』の四節三益と湛然の『法華文句記』の注釈
さて日隆の本門の元始を本果妙ではなく、本因妙に見出す論拠は湛然の『法華玄義釈籤』にあったことは先述のとおりであるが、日隆の『法華天台両宗勝劣抄』にはまた湛然の『法華文句記』の「雖脱在現。具騰本種」(34.0156c)(脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ)が引用されている。この湛然の言葉を、日隆は現在の脱益を去って久遠本因妙の下種を取ると解釈している言葉だとしているが、湛然の元の文脈ではそうは言えない。
もともと湛然のこの言葉は、智顗の『法華文句』のいわゆる四節三益(種熟脱の三益)と呼ばれる「且約三段示因縁相。①衆生久遠蒙佛善巧。令種佛道因縁。中間相値。更以異方便。助顯第一義。而成熟之。今日雨花動地。以如來滅度而滅度之。②復次久遠爲種。過去爲熟。近世爲脱。地涌等是也。③復次中間爲種。四味爲熟。王城爲脱。今之開示悟入者也。④復次今世爲種。次世爲熟。後世爲脱。未來得度者是也」(34.0002c)(且らく三段に約して、因縁の相を示す。①衆生は久遠に、仏の善巧に仏道の因縁を種えしむるを蒙り、中間に相い値いて、更に異なる方便を以て、第一義を助顕して、之れを成熟し、今日、花を雨らし地を動ぜしめ、如来の滅度を以て、之れを滅度す。②復た次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等、是れなり。③復た次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す。今、開示悟入する者、是れなり。④復た次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す。未来に得度する者、是れなり)という文章に対して付けたコメントの中にある。
そのコメントでは「今經本迹二門施化並異他經。此文四節良有以也。故四節中唯初二節。名本眷屬。初第一節。雖脱在現。具騰本種故名本眷屬。今不云是本者。以同在今始脱故也。本種近脱者。以彌勒不識發疑故來偏得本名。然現脱者若未得佛智。猶未能知種(中略)初文即是四節示相。①初之一節本因果種。果後方熟王城乃脱。②次復次下本因果種果後近熟。適過世脱。指地踊者。故知地踊云本眷屬者。乃是本種近世始脱。既彌勒不識非極近也。③次中間種昔教熟今日脱。④次復次下今日種未來熟未來脱。此四節者且取大概。本因本果訖至中間近世今日。竪深横廣」(34.0156c、34.0157a)(今の経(法華経)は本迹二門の施化、並びに他経と異なるなり。此の文の四節良に以(ゆえ)あるなり。故に四節の中、唯初めの二節を本眷属と名づく。初めの第一節は、脱は現に在りと雖も、具に本種を騰ぐ。故に本眷属と名づく。今是れ本と云わざるは、同じく今に在って始めて脱するを以ての故なり。本種近脱の者、弥勒識らざれば、疑いを発するが故に来たるを以て偏に本の名を得。然るに現脱の者、若し未だ仏智を得ざれば、猶未だ能く種を知らざるがごとし。(中略)初めの文は即ち是れ四節に相を示す。①初めの一節は、本の因果に種し、果後方に熟し、王城に乃ち脱す。②次に「復次」の下は、本の因果に種し、果後近く熟し、適(まさ)に過世に脱す、地涌の者を指す。故に知んぬ、地涌を本眷属と云うは、乃ち本に種して近世に始めて脱す。是れ既に弥勒は識らず、極近には非ざるなり。③次に、中間に種し、昔教に熟し今日に脱す。④次に、「復次」の下は、今日に種し未来に熟し未来に脱す。此の四節は且く大概を取る。本因本果より訖り中間・近世・今日に至って、竪に深く、横に広し)と述べている。
ここでは四節三益の第一節の者について、智顗が「衆生は久遠に、仏の善巧に仏道の因縁を種えしむるを蒙り、中間に相い値いて、更に異なる方便を以て、第一義を助顕して、之れを成熟し、今日、花を雨らし地を動ぜしめ、如来の滅度を以て、之れを滅度す」と述べていることを受けて、湛然は「初めの第一節は、脱は現に在りと雖も、具に本種を騰ぐ」と注釈しているだけである。智顗は第一節の者に対して、「仏の善巧に仏道の因縁を種えしむるを蒙り」とはっきりと仏が下種したことを述べている。しかし湛然は、「初めの一節は、本の因果に種し、果後方に熟し、王城に乃ち脱す」と述べて、本因妙と本果妙の両方の時に、下種されているとしている。智顗の文を基にすれば、これは釈尊の本因妙と本果妙のことであると解釈するしかない。したがって、智顗も湛然も地涌の菩薩が釈尊の本因妙だとする解釈は全くない。四節三益の第二節が地涌の菩薩に関する三益だが、そこでも本眷属すなわち釈尊の弟子であるとしている。
2-2 日有の「因位の仏身」の論拠
日有が因位の仏身を想定しえたのも、日隆が釈尊の因位を上行であると述べたことに論拠を持っている。「因位の仏身」とは本因妙の上行を指し、ひいては日蓮を指すことは、『化儀抄』に、「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍て今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我れ等根性には対せらるべからざる時分なり、仍て方便品には若遇余仏便得決了(09.0007c07)(若し余仏に遇わば、便ち決了することを得ん)と説く、是れをば四依弘経の人師と釈せり、四依に四類あり今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思ひ合はすべし」(1-65)、また「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経(『法華文句記』34.0230a24)の人師と釈する此の意なり。されば(中略)仏教に於いて小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は迦葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文珠を脇士とし、本門の釈迦は上行等云云、故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり、其の故は神力結要の付属は受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終つて脱する所を終りと云ふなり、脱し終れば種にかへる故に迹に実躰なきなり、妙楽大師、雖脱在現と上の如し云云、是より迹門無得道の法門は起るなり云云。」(1-78)とあることによって推測できる。
ここでは在世=断惑証理=(本果妙の)釈尊、末法=未断悪=釈迦の因行=(上行)=日蓮という対概念が見られる。だから釈迦の因行が上行菩薩であるという日隆の議論は、日有の日蓮本尊論にとって決定的に重要な論点となる。
2-3 本果妙の釈尊は下種をしないという日隆の議論
日隆は『十三問答抄』において、「第一、在世下種の事/ 一、問う、在世下種の事は、御書并びに本疏に見へて候。下種と申す事は、本因妙の菩薩に値ひ始めて下種を成し、本果妙の仏に随って脱を得べきかと存じ候処に、仏の在世にして下種候事如何」(『日宗全』 8-401)という問題提起をする。
そして三種教相を検討したうえで、「此の三種教相の大綱も過去三五の下種を以て本となし、現在の得脱を以て垂迹の終りとなして、化導の始終・種熟脱をこれを判ず。今日は化導の終りにして、即ち脱益の砌なり。更に在世下種の相を許すべからずと釈する者か」(8-404)と述べて、在世の得益を脱益に限り、在世における本果妙釈尊の下種を否定する。
そして日蓮の稟権抄(『常忍抄』)、太田抄(『曽谷入道殿許御書』)、『法蓮抄』を引用して、日隆は「此等の諸御抄の意は、疑いなく下種をば一円に過去に置き、脱をば今日に置けば、爾前・迹門・涅槃諸部の円は皆脱益なり。在世下種の義は思いも依らざる事なり。仍て日蓮宗と云うは過去宗なり、下種宗なり、本門経王宗なり、事相宗なり、無智宗なり、信心宗なり、易行宗なり、経力宗なり、口唱宗なり、名字即宗なり。「教弥実位弥下」宗、直入法華折伏宗なり。かくのごとく宗義の所詮は、在世を一円に脱益に取り定めて、此の脱を以て過去種に還り、「雖脱在現具騰本種」して、また過去の本種を以て上行に付し、末法の下種と成す。是れ本門流通の本意なり。何ぞ在世下種の義を許さんや」(8-405)と述べて、在世下種を否定する。ただこれは在世下種を否定するだけであって、久遠実成の時に、本果妙釈尊が下種をしたかどうかについては論じていない。またここでは四節三益の第四節の在世下種について日隆は論じない。
2-4 地涌の菩薩に対する下種について
次に日隆は四節三益の第二節の地涌の菩薩に対する下種を論じて、「次に上行等の下種に至って本因本果に亘るや否やの事は、経文・解釈は其の意一途にあらず。経文には、我於伽耶城○令初発道心云々。上行等の本果下種の相は経文に分明なり云々」(8-405,406)と述べて、法華経涌出品に「われは伽耶城の、菩提樹下において坐して、最正覚を成ずることを得て、無上の法輪を転じ、しかしてすなわちこれを教化して、初めて道心を発さしむ。今皆、不退に住せり。ことごとくまさに成仏を得べし」(09.0041b)とあることから、成道を遂げた釈尊が地涌の菩薩を初発心させるという下種をしたことは明確ではないかという問題を提起する。
この問題に対して智顗の四節三益の文、それに対する湛然の注釈を挙げて、「しかりと雖も、文句第一本末の釈は地涌の下種は本因本果に亘ると判じ玉えり、疏に云く、久遠を種となし、過去を熟となし、近世を脱となす。地涌等是れなり。記にこれを受けて「本因果に種し、果後に近く熟し、適近世に脱す。地涌の者を指す」と判じ玉えり。此等の天台・妙楽の解釈は、地涌の下種は本因本果に亘ると判じ玉えり。此等の経釈は相違に似たりと云えども、経文は且く果の一辺を説くと雖も、釈は意を取って因果に亘ると教えしめて判ずるか。所詮、妙楽の釈は疑いなく因果に下種を判ずる者なり」(8-406)と述べる。法華経では果である釈尊が下種するとあるが、智顗は「久遠を種となし」とするだけであり、湛然がそれに対して「本因果に種し」と注釈していることを論拠に、釈尊の本因果に地涌の菩薩が下種されたことを主張する。
さらに日隆は、「疑って云く、当宗の意は、下種は本因本果に亘るか。将た本因と本果と限るか。如何。 答う、「本因果種」の釈は下種は因果に亘ると見へたり。しかるに末師等の当世の天台学者等は、多分下種は本果に限る趣きを沙汰するなり。下種とは因なり。因位の菩薩界にしてこれを成す。其の下種結縁の衆生の熟脱の時分に極果の八相を唱えて、所化の仏果を成ぜしめるなり」(8-406)と述べて、釈尊の本因果における下種ではなく、因位の菩薩による下種であることを、「下種とは因なり。因位の菩薩界にしてこれを成す」と主張する。この下種の主体が「因位の菩薩界」にあるという日隆の主張は唐突であり、経文、智顗、湛然の釈義を引用することもない。
そのうえで本果妙の久遠実成の説法について、「其の上、下種とは人天の機の上にこれを論ずる者なり。極果成道の所化は三乗なり。釈に、三乗根性は仏の出世を感じ、余は感ずるに能わず(『法華文句』三乘根性感佛出世餘不能感34.0004c15)と云えり。本果成道の時は定めて地涌体具の三乗これありて極果を成すべし。争か人天下種の機あるべきや。故に知んぬ、下種は因位に限るべきか云々。妙楽の「本因果種」の釈は料簡すべきなり云々」(8-406)と述べて、久遠実成においては、本果妙の釈尊は「地涌体具の三乗」に対して説法し、脱益を与えたのであり、人天の衆生に対する下種はしなかったと主張する。
2-5 釈尊の因位の姿が上行であるという日隆の議論(一仏二名論)
日隆はこのように久遠実成における本果妙釈尊の説法は下種ではなかったことを主張した後で、それでは誰が一体地涌の菩薩に対して下種をしたのかという問題を論じる。日隆はまず、「次に当宗の意は、本門八品上行要付を以て本尊と憑んで宗旨となす。此の八品の意は本果を以て本因に摂し、本因総在の因果不二の妙法蓮華経を以て上行に付し、上行を以て本時娑婆世界の一切衆生并びに末法の悪人に最初の下種を成すべき事を説くなり。総じて一切衆生の最初下種の本師は上行菩薩なり。其の故は、一切衆生最初下種の国土は必ず娑婆なり。此の娑婆をば諸仏これを嫌い、即ちこれを離れて別に浄土を求む。本門の意は此土を以て体土となし、本土となす。久遠本因本果成道の所も本有の娑婆なり。法華経の迹門大通王子成道の覆講法華下種の時も娑婆の成道なり。法華の教主釈迦尊は娑婆有縁の本仏なり」(8-406,407)と述べて、釈尊の本土は娑婆世界であることを確認し、その娑婆世界の一切衆生の最初下種の本師は上行菩薩であることを主張する。
日隆は「諸菩薩の中に本化地涌計りに娑婆世界衆生の最初下種を譲り玉ふ事顕然なり。仍て滅後末法の下種の主師親なり。太田抄(『曾谷入道殿許御書』)に云く、「地涌千界の大菩薩は、一に娑婆世界に住すること多塵劫、二に〇、三に娑婆世界最初下種の菩薩なり」と云えり。既に地涌は釈尊久住の補処大士となすなり。其の中にも滅後流通の下種の補処なり。かくのごとく滅後の下種付属は過去久遠本果成道の本門八品上行要付の時にこれあり。これを指して「本因果種」とは妙楽釈し玉ふか。本果妙の時に涅槃妙これあり。上行要付の下種付属これあり。是の故に天台の「久遠為種」(34.0002c)と釈し玉ふ下種は、久遠本果成道涅槃妙の滅後末法の下種を指すかと覚えたり。経に「如三世諸仏説法之儀式」(方便品.09.0010a22)と云えり。今日のごとく久遠にも本門八品上行要付の説法これあるべし。此の儀式即ち釈尊・諸仏出世の本懐なり。若ししかれば下種の土は娑婆なり。下種の御経は法華経并びに本門なり。種子の本仏は久遠の釈尊なり。下種の本師は久遠の地涌なり。謂く、釈尊は本果妙の仏界、地涌は本因妙の九界、九界と仏界と互融して円妙を成すなり。下種の本土たる娑婆は即ち本国土妙の国土世間なり。依正互具して三千を成し、三千は即ち本門に限るなり」(8-408)と述べて、娑婆世界の一切衆生の最初下種の本師は上行菩薩であることの論拠は日蓮の『曾谷入道殿許御書』の「しかるに、地涌千界の大菩薩、一には娑婆世界に住すること多塵劫なり。二には釈尊に随って久遠より已来初発心の弟子なり。三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。かくのごとき等の宿縁の方便、諸大菩薩に超過せり」という記述の第三の論点であることを示すとともに、久遠実成においても釈尊による滅後末法への上行付属の儀式があったと主張する。
そして上行菩薩が一切衆生の最初下種の本師であるから、当然久遠実成の時の一切衆生の下種の主体も上行菩薩となる。そのことを日隆は「かくのごとく娑婆有縁の釈尊は一切衆生最初下種の時は本果を去りて本因に移り、上行菩薩と成りて娑婆の一切衆生に始めて下種を成す。また得脱の時は本因を去りて本果に帰せば、久遠の釈尊と顕われて衆生に脱益を成す。故に知んぬ、因果の釈尊・上行は其の体同体一身にして、「其菩薩界常修常証無始無終、報仏如来常満常顕無始無終」(安然『真言宗教時義』75.0376c)(『注法華経』にこの箇所の引用はない)等と云える形なり。此の本師釈尊が滅後の娑婆の衆生のために同体の地涌を召して、娑婆有縁の法華経を以て上行に付し、上行を以て娑婆滅後の唱導と定む」(8-407)と述べて、本果妙釈尊と本因妙上行との同体、いわゆる一仏二名論を主張する。
2-6 湛然の「本因果種」についての日隆の解釈
そのうえで、下種が本因に限られるのに、湛然が「本因果種」と述べた理由について、三種類の解釈の可能性を述べる。
まず「①所以に本疏に「久遠為種」と云えるは言総したる処を、妙楽これを受けて「本因果種」(.34.0157a05)と消し玉えり。其の意は、下種は本因に限ると雖も、久遠体内の因果にして互具する故に、本因下種は即ち本果に互融してこれある間、互融の意を以て本果に亘るを「本因果種」と判ずるか。釈に「本時自行唯与円合。化他不定亦有八教」(34.0162b09)と云えり。本因本果は自行の成道なる故に因果同体にして、本因の処が軈て本果と名づくる故に、下種は因果に亘ると釈する者なり」(8-409)と述べて、「久遠体内の因果」だから本因と本果が互具、互融するから「本因果種」と述べたのだとする解釈を挙げる。
次に「②一義に云く、本果には下種なく、種子ありと習うなり。其の故は、本因妙の下種の根源は本果なり。本果釈尊証得の妙法蓮華経の種子を本因上行に付するを、請け取りてまた一切衆生に種子を下す故に、種子は体なり、根本なり。下種は用なり、枝葉なり。本果は本因下種のための根本種子なる故に「本因果種」と云うか。種の一字を本因に取れば下種の種なり。本果に取れば種子の種なり。かくのごとく料簡を加えれば相違なき者なり」(8-409,410)と述べて、本果妙釈尊は下種するのではなく、証得した「妙法蓮華経の種子」を、本因妙上行に付属するだけであり、本果の種子を本因妙上行が下種するので「本因果種」と述べたのだという解釈を提示する。
最後に「③一義に云く、妙楽の「本因果種」と釈し玉ふ事は、下種の本処は本因妙なり。しかるに本果種と云う処は久遠本果の時も今日のごとく本門八品上行要付の滅後末法の下種を説き玉ふ。其の時の所化の諸衆はこれを聞いて三惑頓断の益を得て当機衆と成る。断証の辺は其の時の在世の得分なり。聞く処の所聞の上行要付の辺は滅後流通下種の得分なり」(8-410)と述べる。これは少し複雑な構造を持ち、久遠本果の時に、在世と同じく脱益を得る衆生もおり、本果妙釈尊はその衆生に対して脱益の説法をし、同時に本果妙釈尊の滅後末法の衆生に対して上行付属の儀式を行うという解釈である。法華経本門に在世脱益と滅後上行付属を説いていることが、久遠本果の時にも生じていたという解釈である。
日隆はこのことを「観心抄に、在世の本門と末法の初めと一同に純円なり。但し彼れは脱、此れは種、彼れは一品二半、此れは但題目の五字なり云々。此の彼此の面重は、同じ本門八品一品二半の方をば「在世本門」と云い「彼脱」と云うなり。八品の方をば「末法の初め」と云い、「此種」と云い「此題目五字」と云うなり。此れを其の時に本仏の本意に約せば、本門八品上行要付の辺を以て正となし面となし、一品二半の方は其の時の傍益なり。是の故に本果成道の時は本門八品上行要付の滅後下種の裏の一品二半正宗脱益の辺を所聞の下種の法に随って且く本果種と判ずるか。これを秘すべし云々」(8-410)と述べて、『観心本尊抄』の「在世」「一品二半」「脱益」と「末後末法」「題目五字」「下種益」との対比が釈尊本果妙の時にも生じていたとする。
また『私新抄』には、同様に「一切衆生下種の根本は本因本果に亘るや/ 仰せに云く、一切衆生は種脱に依って指す所の下種は不同なるべし。衆生得脱する時は「雖脱在現具騰本種」して久遠の本果を指して、此の本果は一切衆生の得道の根本なりと顕本すべし。一切衆生最初下種の時は、久遠本因妙を顕わして衆生下種の本地は久遠にありと顕本すべし。二の中には本因妙は真実の下種の体なり。本因妙とは経には「我本行菩薩道」と説けり。菩薩とは本化の大士なるべし。故に地涌の菩薩は一切衆生の下種の導師なり。娑婆旧住の大士として、悪業の衆生に随逐して無縁大悲は法界に覆う。殊に滅後衆生の下種の薩?なり。故に釈尊の本因妙の修行は地涌の行なり。故に一切衆生の下種の時は地涌と顕われ、得脱の時は釈尊と顕われ玉えり。衆生脱益の時は釈尊と拝見し、下種の時は地涌と知見す。真実の下種の根本は本因妙なるべし。初め此の仏菩薩に従って結縁し、還って此の仏菩薩において成就す云々(『文句記』(初從此佛菩薩結縁。還於此佛菩薩成熟(34.0324a)?)一切衆生の最初の下種は地涌なる故に、得脱の時も釈尊と顕われて、下種・得脱倶に一仏一菩薩(=釈尊上行)に随えり。中間の熟の時は弥陀・大日等の仏菩薩と示現し、余経を説いて一切衆生を調熟せり。其れも本門に至って開迹顕本してこれを見れば、種熟脱倶に釈尊一仏の利益なり」(8-243,244)と述べる。
湛然の『法華文句記』の涌出品釈の「初め此の仏菩薩に従って結縁し、還って此の仏菩薩において成就す」は『注法華経』《⑤裏189Ⅱ》にも引用されているが、それが、菩薩=上行によって下種され、仏=釈尊によって得脱するという日隆の解釈を論拠づけるとは思われない。
日蓮は『一代五時鶏図〔西山本〕』(図録20 真蹟)において、「又云く「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」(33.0756c11『法華玄義』(本眷属妙)本從此佛初發道心。亦從此佛住不退地)も引用するし、『法華取要抄』においてもこの『法華玄義』の文を引用するし、『注法華経』にも《⑦裏212》引用されている。ここでは釈尊による下種が述べられており、菩薩=上行による下種には論及がない。
2-7 中古天台の「五百塵点仮説」への日隆の批判
日隆の第三の解釈において、本果成道の時に、在世の脱益の説法、滅後末法への付属の儀式があったという日隆の議論は、いわゆる繰り返し顕本という議論と関連している。日隆は、その当時の天台宗が五百塵点劫における釈尊の久遠実成を軽視して、法身を中心と見る無作三身論を重視する考えに対して、『私新抄』において「三五塵点は仮説と実説の中に何れや」という問題提起をして、「仰せに云く、天台家等は本門顕本において事理不同を沙汰せり。事顕本とは五百塵点劫の当初久遠劫の仏なりと説く、是れなり。理顕本とは無作三身を顕本せり。十界の当体天然として無始無終本来常住の実体なれば、当体即理の顕本なるべし。三千事事万法己己縁生自体をはたらかさず自受用本有の全体なりと照すは、三千世間依正宛然として、阿鼻の依正は極聖の自身(心)に処す。毘盧の身土は凡下(下凡)の一念を逾へず。(阿鼻依正全處極聖之自心。毘盧身土不逾下凡之一念)(湛然『金剛?論』46.0781a)森羅万象一法として無作三身にあらざるなし。生住異滅の四相自ら証道八相を唱へ、無縁の慈悲をはこばざるに法界を覆ふ。益せざるに無作の利生は三世に遍く、万法口□として自受法楽の顕本に預からざるなし。「一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏」と。是れ即ち理顕本なり」(8-189,190)と述べる。
ここの「仰せ」は日像門流の口伝を意味し、日隆の叔父の日存、日道の教示を指すことが多い。ここでは五百塵点劫の事顕本と無作三身の理顕本を対比する天台宗の考えを紹介し、久遠を時間論ではなく、無作三身の存在論として解釈し、伝教の作とされる『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏」を「森羅万象一法として無作三身にあらざるなし」として天台宗は解釈しているとする。
ちなみに大石寺日寛は『六巻抄』「末法相応抄」で、『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏」を、『観心本尊抄』「本尊段」の解釈において使用し、「其の本尊の体たらくとは正しく事の一念三千の本尊の体たらくを釈するなり、故に是れ一幅の大曼荼羅即法本尊なり、而も此の法本尊の全体を以て即寿量品の仏と名づけ亦此の仏像と云うなり、寿量品の仏とは即ち是れ文底下種の本仏久遠元初の自受用身なり、既に是れ自受用身の故に亦仏像と云うなり、自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人の故に出現と云うなり、故に山家大師・秘密荘厳論に云く「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形仏」云云、全く此の釈の意なり之を思い見るべし」(日寛『六巻抄』 p. 173)と述べて、「一念三千」の本尊=「大曼荼羅」=「法本尊」、「自受用身」=「文底下種の本仏久遠元初の自受用身」=「蓮祖聖人」=人本尊と解釈して、人法一箇の文として解釈している。
この中古天台の無作三身論は日蓮門下に大きな影響を与え、「阿鼻の依正は極聖の自身に処す。毘盧の身土は凡下の一念を逾へず」という湛然の『金剛?論』の文は、偽撰が疑われる『女人成仏抄』(女人成仏抄 40 日健写本)『諸法実相抄』(諸法実相抄 122 日朝録外)『松野殿御返事』(松野殿御返事 231 日朝録外)『色心二法抄』(色心二法抄 続02 日春写本?)にも引用されている。
そして日隆は中古天台における五百塵点仮設論についてさらに詳論し、「義に云く、彼の宗の静明・心賀等の相伝には、理顕本は今経の宗極たり。無作三身の顕本なる故なり。事顕本とは五百塵点の塵数は是れ表示なり。五住の煩悩を表するなり。全く遠の義にあらず。久遠成道とは十界三千の事事万法の当体本有常住にして、自体顕照の自受用智無作本覚の当体なる事を久遠とは云うなり。久遠とはもとのままなる義なり。其れを隠すは五住煩悩なる故に、且く能障に随ってこれを表示する時、五百塵点とは説きたるなり。是れ今経の教門の仮説なり。仍て五百塵点は本門なれども、顕説法華の本なれば還って迹の意なりと相伝せり。あるいは因の久遠・果の久遠と云うことを相伝して、因の久遠とは迹本待対して三五塵点を説いて、五百塵点と際数を挙げて、三世相望して過去の始めを論じ、遠近の時節を沙汰する辺は、三世の域を立てる本なれば因の久遠なり。果の久遠とは摩訶止観の観心の重なり。本迹未分にして三世待対なく、万法諸乗自然として覚体独朗円明の風光なれば、能所の域を絶し、遠近の異を亡ぜり。是れ即ち二(一ヵ)夜不説の絶理、昔は得ざる機のために説かず。今は得たる機のために説かず。終に一代聖教に名を聞かず、体を顕わさず。仏意内証の根本法華の直体を指して云うなり。これに依って今経は顕説法華にして、迂廻道の機が色心移転して迹本と次第する故に、根本法華たる天真独朗の重をば摩訶止観に明かして、一代聖教并びに法華経にも説かず。仍て止観は大師己心所行法門にして、今経の大意にはあらず」(8-190,191)と述べる。ここでは「久遠とはもとのままなる義なり」と述べて、時間論を明確に否定し、法華経を「顕説法華」=「因の久遠」、『摩訶止観』を「根本法華」=「果の久遠」として、止観勝法華劣を主張していることを述べている。
これらの止観勝法華劣の天台宗の主張に対して、日隆は『立正観抄』を論拠に、批判し、「本迹は三世の仏・三世の衆生の種熟脱、仏の本末を顕わして、迹の諸仏諸経を廃して今経の本門寿量品に帰せしめんがためなり。此の時は今経本門独り一代諸経に勝れ玉えり」(8-192)と述べる。そして「仏仏相対すれば前に成仏する久遠の仏計り実仏にして、次の諸仏は皆前の仏の分身垂迹の仏なり。前仏は実仏の無作三身、後仏は有為の虚仏なるべし。久遠の前の実仏をば今経の寿量品にこれを説く。後に分身垂迹の虚仏を爾前迹門の諸経にこれを説く。故に知んぬ、能顕の仏に勝劣あり。故に所顕の実相にも勝劣あるべしと云う事は疑いなし」(8-193)と述べて、久遠実成の釈尊が無作三身の実仏であるとする。そして久遠実成が仮説ならば、衆生の成仏も仮説となるとして、「次に一切衆生の成仏もまた仮説なるべし。三世十方の衆生成仏の下種は久遠五百塵点劫の当初にこれあり。久遠の種子が仮説ならば、得脱の益も虚言なるべし。疏の一の因縁の下に四節増進を三世に約して三益を判ずる時、多分は久遠下種の者なり」(8-193)と述べる。
なお日隆は、「根本法華」=摩訶止観、「顕説法華」=法華経とし、根本法華勝顕説法華劣、即ち、止観勝法華劣が「静明・心賀」の説であるとしているが、『立正観抄』の写本筆記者身延3世日進の同時代人の中山日全は『法華問答正義抄』において、心賀の弟子政海の説であるとして、その辺の事情を詳細に述べている。日全の時代には、天台宗では止観勝法華劣は邪説として禁止されていたことを述べているが、それから百年ほどした日隆の時代には、日隆が天台宗の説として述べている程、天台宗で一般に流布していた説であったようだ。
2-8 日隆の「繰り返し顕本」の主張
日隆は『私新抄』において、まず初めに「本門の意は顕本の報身に始めを論ずるや/
仰せに云く、当世天台宗の義には、本門本地の報身とは無作三身にして本有常住の秘密の三身なり。秘密の三身とは一身即三身・三身即一身にして三一同体不二なり。法身を云えば、法界は法身にあらざる事なし。応身を云えば、法界は応身にあらざることなし。是れ即ち倶体倶用の三身なり。十界三千の依正万法は悉く無作三身にして、塵塵法法悉く久遠成道を唱へずと云う事これなし。三世一念にして本有常住なり。何ぞ久遠本仏の報身に始めを立てんや。始めを論ずれば始覚始成の仏にして、迹門の始成の仏と不同なし。争か本迹の久成・始成を分かたんや。故に久遠の本仏には始めを論ずべからず。無始無終の本来常住の仏なるべし。疏の九に報身如来の相を説かんとして、如如の智を以て如如の境に契ひ、境の智を発するを報となす。○蓋大云々(『法華文句』詮量報身如來。以如如智契如如境。境發智爲報。智冥境爲受。境既無量無邊常住不滅。智亦?如是。函大蓋大34.0128b-c)。境智常住にして無量無辺なりと判ず。何ぞ始めあらんや。久遠成道とは十界本有の顕本なり。若し始めを論ずれば無常なるべし。無作の顕本とは云うべからず。されば天台宗には久遠の二字を「もとのまま」と字訓して、万法常住の義を成ぜり。久遠の仏に始めを論ずべからず」(8-181)と中古天台宗の久遠実成否定の見解を示す。
(『御義口伝』の「第二十三 「久遠」の事」には、「御義口伝に云わく、この品の所詮は「久遠実成」なり。「久遠」とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままという義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、これ働かさざるなり。三十二相八十種好を具足せず、これ繕わざるなり。本有常住の仏なれば、本のままなり。これを「久遠」と云うなり。「久遠」とは、南無妙法蓮華経なり。実成、無作と開けたるなり云々」とあり、中古天台の「久遠」を時間論として解釈しない立場を継承している。)
このような中古天台宗の考えに対して、日隆は「久遠の本仏常住の因果を修して覚を成すと見へたり。されば寿量品には「如是我成仏已来甚大久遠常住不滅」と、「我本行菩薩道所成寿命今猶未尽」と説き玉ふ。因果所成の仏なれば、久遠の本仏に始めあるべし。其の上、法身は性徳の仏、報身は修徳顕了の身なれば、事相修顕の仏身に何ぞ始めを論ぜざらんや。法身は所縁の境、報身は能縁の智なり。智を以て境に冥ひ、境智不二すれば、「本地難思の境智の妙法」(?)(『法華文句記』34.0342c04本地難思境智)を初めてこれを得たり。所縁の境が既に妙法実相なれば、能縁の報身また実相の智を得たり。能所境智常住不滅なり。疏の九に「如如の智を以て如如の境に契ふ、境に智を発するを報となす。○函大なれば蓋大なり」(34.0128b-c)。函大蓋大と云えり。報身は境智冥合の仏なる故に、智を以て境を縁すれば始めこれあるべし。智を以て境に冥じ畢れば斉限なく無終無生なり。あるいはまた疏の九に云く、法如如の智もて如如真実の道に乗じて○即ち報身如来なり云々(『法華文句』34.0128a法如如智。乘於如如眞實之道來成妙覺。智稱如理。從理名如從智名來。即報身如來)。是れ境智因縁所成の仏と見へたり。しかのみならず本因本果の相を釈する時、仏は円因を修して初住に登りたもう時、已に常寿を得る。常寿○況や復た果をや云々(『法華文句』佛修圓因登初住時已得常壽。常壽?壽已倍上數況復果耶34.0133a)。妙楽はこれを受けて、不尽の因寿を以て不尽の果寿を況す(『法華文句記』故知以不盡之因壽。況不盡之果壽34.0337b)。因果倶に常なることを明かす。」(8-184,185)と述べて、境=法身=無始無終、智=報身=有始無終とし、境智冥合により三身即一身の報身は法身の無始無終の性格を帯びるが、因果所成の仏であるから、始めがあることを認める。そして『観心本尊抄』の四十五字法体段に言及し、「「今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる○三種世間なり云々。仏既に過去にも滅せず」と云うは、不生の言をいたみ玉ふ意なるべし。因妙の生の始めこれある故に、不生とは云わずして不滅と計り書き玉えり」(8-186)と述べて、日蓮も「不生」=「無始」説を容認していなかったとする。
そのうえで日隆は「尋ねて云く、報身において始めを論ぜば、今経の無始無終本有常住の久遠成道は斉限あるべし。斉限あらば無作三身にあらず。「有為の報仏」に同ずべし。しかも始めありてまた無始無終なる相を成ずべきなり。如何」(8-186)という問題を提起する。
そして「三世常住の上の三世なれば、過去の始めと云うも無始無終本来の過去の三世なり。故に今経の本門寿量品の五百塵点は斉限あるに似て、三世本有本来常住の五百塵点五百塵点と断絶なく顕本し玉ふことは無量無辺にして斉限なし。斉限なき無量無辺の五百塵点をつかねて一ヶの五百塵点と経には説けり。既に「寿命無量」と宣べたり。天台は西方の弥陀をば無量寿仏と云うは有量の無量、今経の寿量は無量の寿量と云うなりと、四句を以て他人を破し玉えり。今経の本門の五百塵点と云うに始めありと計り偏えに意得ては、経旨を得ずして謗者に同ぜり。「ち(散)りちり常住・さく(咲)さく常住」と云うがごとし。今経の報身の本因妙の始めも、いつも始めいつも始めにして断絶なきは本因妙の始めなり。若し多仏相対して本因本果を論ぜば、設ひ久遠なりとも始めあるべし。無作三身の釈尊一仏の本来本有の業として何れも釈尊の本因本果なる故に、始めは立てども斉限なき始めなれば、境既に無量無辺なり。智もまた是のごとし。「函大蓋大」と判ぜり。経には「寿命無数劫久修業所得」と説けり。蓮師は「今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり、仏既に過去にも滅せず、未来にも生せず、所化以て同体なり、此れ即ち己心の三千具足、三種世間なり」と判じ玉えり。成住壊空の四劫の所成を離れ、常住の浄土なりと云うも、三世常住にして一念三千の実体なりと判じ玉ふ。誠に以て三世常恒の顕本にして、報身の本因本果常住なるべしと聞こへたり」(8-187,188)と述べて、久遠実成釈尊一仏の本因本果が際限なく繰り返されていくところに、報身の無始無終が成り立つとし、四十五字法体段をその論拠として引用する。
たしかに「過去にも滅せず、未来にも生せず」という句は不思議な句で、無始無終ならば、「過去に生ぜず、未来に滅せず」となるはずが、なぜか逆になっている。(御書講義録には「また本文に「仏既に書くにも滅せず未来にも生ぜず」とあるのは、寿量品に「如是我成仏已来、甚大久遠、寿命無量阿僧祇劫、常住不滅」とあるところから、天台大師は仏の過去に不滅であることを説き、あわせて未来の常住を明かしているので、いまの御文にも「未来に生ぜず」と未来の常住を明かしているのである」と解説が付けられている。しかし智顗のどの文を論拠にしているかは示されていない)
2-9 智顗の『法華文句』の「先仏の法華経」と湛然の注釈(一迷先達)
実は繰り返し顕本は必ずしも日隆の独創とは言えない。日隆は『法華宗本門弘経抄』において、本因妙について説明する箇所で、「猶を尋ねて云く、日蓮宗の意は本果妙より猶を本因妙を以て宗旨の最要となすや。 答う、門流の口伝に云く、先づ本因妙とは、弘の五に云く、若し本門に約すれば「我本行菩薩道」の時を指して以て積劫となす云々(湛然『摩訶止観弘決』若約本門。指我本行菩薩道時以爲積劫46.0292b)。籖の十に云く、本門は本因を以て元始となす云々(33.0949a)。疏の一に云く、久遠に菩薩道を行ずる時、先仏の法華経を宣揚す。亦三分有り。これを名づけて本となす云々(『法華文句』次示本迹者。久遠行菩薩道時。宣揚先佛法華經。亦有三分上中下語。亦有本迹。34.0002c)」(御書システム、第十巻)と述べて、「久遠の菩薩道」の時に「先仏の法華経」があったと述べている。
智顗の『法華文句』には、「次示本迹者。久遠行菩薩道時。宣揚先佛法華經。亦有三分上中下語。亦有本迹。但佛佛相望是則無窮。別取最初成佛時所説法華三分上中下語。專名爲上。名之爲本。何以故。最初成佛初説法故。爲上爲本。此意可知。中間行化。助大通智勝然燈等佛。宣揚法華三分者。但名爲中。但名爲迹。何以故。前有上故。前有本故。今日王城所説三分。但名爲下但名爲迹。乃至師子奮迅之力。未來永永所説三分。亦指最初爲上爲本」(34.0002c-3a)(次に本迹を示すとは、久遠に菩薩の道を行ずる時、先仏の法華経を宣揚するに、亦た三分の上中下の語有り。亦た本迹有り。但だ仏と仏と相い望むに、是れは則ち窮まること無し。別して最初成仏の時に説く所の法華の三分の上中下の語を取りて、専ら名づけて上と為し、之れを名づけて本と為す。何を以ての故に。最初に成仏し初めて説法するが故に、上と為し本と為す。此の意は知る可し。中間の行化、大通智勝、然灯等の仏を助けて、法華の三分を宣揚するは、但だ名づけて中と為し、但だ名づけて迹と為す。何を以ての故に。前に上有るが故に、前に本有るが故なり。今日、王城に説く所の三分は、但だ名づけて下と為し、但だ名づけて迹と為す。乃至、師子奮迅の力もて、未来永永に説く所の三分も、亦た最初を指して、上と為し本と為す)とある。
つまり法華経に説かれる「我本行菩薩道」において「先仏の法華経」があり、それを「宣揚」して成道したと智顗は解釈しており、そうすると先仏と「我本行菩薩道」の修行の結果成道した後仏という関係は「但だ仏と仏と相い望むに、是れは則ち窮まること無し」となり、日隆の言う「繰り返し顕本」がここで説かれていることになる。
湛然は『法華文句記』で「據理非不禀餘佛化。因縁約教既指今佛。故明本迹。且廢於他故指今經壽量爲釋迦本。不得更指前佛所説。前佛復有前佛。故云無窮。唯指一佛則無斯過。降?一本餘皆是迹」(34.0158a)(理に拠らば、余仏の化を禀けざるにあらず。因縁・約教、既に今仏を指す。故に本迹を明かすに、且く他を廃す。故に今経の寿量を指して釈迦の本と為す。更に前仏の所説を指すことを得ず。前仏復た前仏有り。故に無窮と云う。唯だ一仏を指せば、則ち斯の過無し。茲の一本より降りれば、余は皆是れ迹なり)と述べて、前仏そしてその前仏という無窮を避けるために、智顗が法華経寿量品の久遠実成の釈尊の本因本果を「本」とした理由を説明する。
次いで湛然は「問。恐墮無窮唯論釋迦。今欲?論諸佛展轉禀教。終有一佛在初無教。無教爲本有何無窮。若許有窮墮無因過」(34.0158a)(問う。無窮に堕すを恐れて唯だ釈迦を論ず。今諸仏展転して教を禀くるを論ぜんと欲すに、終に一仏初めに在って教無きこと有らん。無教を本と為す、何ぞ、無窮なること有らん。若し有窮を許さば、無因の過に堕さん)という問題を提起し、「答。拂迹求本本求所説。以獲實利。縱有最初不同今初。何益行解耶」(34.0158a)(答う。迹を払って本を求むること、本(もと)所説を求むることは実利を獲るを以てなり。縦(たと)い最初有るも今の初めとは同じからず。何ぞ、行解を益さんや)と回答し、本迹を論ずるのは、衆生の行解に益するという実利のためであるから、寿量品の釈尊一仏の本因本果を本とすることには問題がないとする。
そのうえで「問。若許有最初無教。何須禀今佛之教」(34.0158a)(問う。若し最初に無教を許さば、何ぞ、今仏の教えを禀くるを須(もち)う)という問を設定し、「答。無教之時則内熏自悟。有教之日何得守迷。如百迷盲倶不知路。一迷先達以教餘迷。餘迷守愚不受先教。誰之過歟」(34.0158a)(答う。無教の時、則ち内薫自悟す。有教の日、何ぞ迷を守ることを得ん。百の迷盲倶に路を知らず、一迷先に達して以て余迷を教うるが如し。余迷、愚を守って、先教を受けざれば、誰の過か)と答え、釈尊の久遠成道が「無教」であったことを述べ、同時に迷いの衆生が釈尊の教えに従うべき理由を述べる。
智顗が「先仏の法華経」について述べたことを、日隆は繰り返し顕本の文証と考えたようだが、智顗は、「別して」以下で、久遠実成の成道が本であったとしており、湛然も無教における一迷先達を挙げて、繰り返し顕本を否定していることが分かる。
2-10 二種類の本因妙下種
日隆は繰り返し顕本を主張し、『法華宗本門弘経抄』において、「三世諸仏説法の儀式のごとくんば、仏仏出世毎に仏世一期の化導は前四味の調熟に依って法華にて脱益を成ず。故に文句第十の問答釈の如く、仏在世の衆生は皆悉く過去下種の者の得脱にて、「本未有善」(『法華文句』問釋迦出世踟?不説。常不輕一見。造次而言何也。答本已有善釋迦以小而將護之。本未有善不輕以大而強毒之34.0141a問う、釈迦は踟?(ちちゅう)して説かず。常不軽は一たび見て造次にして言うは何ぞや。答う、本と己に善有り。釈迦は小を以て之を將護す。本と未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す)の但妄の凡人更にこれなし。故に仏世には下種これなしと覚えたり」(御書システム、第八十五巻)と述べて、久遠実成の時も、釈尊は法華経を説いて、その当時の本已有善の声聞・縁覚・菩薩の三乗の衆生に脱益を与えたのであり、本未有善の衆生に対する下種をしたわけではないとする。そして「密に本涅槃妙を唱えて滅後の下種の唱導を付属せんがため、涌出品を説いて顕に上行に命じ、下種弘法の証人に不軽を出して「以要言之」する処は、疑いなく下種は滅後に限ると覚えたり」(御書システム、第八十五巻)と述べて、宝塔品で滅後の流通を勧奨し、涌出品、神力品で上行付属を行い、不軽品で不軽の而強毒之の弘経方法を示し、滅後末法の下種を委任したことを述べる。そして久遠実成の釈尊の滅後に上行菩薩によって下種された衆生が、大通覆講により釈尊に化導され、再び釈尊在世において脱益を得ることを、「今日の如く本涅槃妙滅後悪世に下種の利益妙これありと見えたり。仍て中間今日迹中の二乗三五七方便の権人等は本涅槃妙滅後下種の者なり」(御書システム、第八十五巻)と述べる。
そうすると本因妙は、釈尊が久遠実成において成仏する以前の「我本行菩薩道」の時の本因妙と、釈尊が成仏してから涅槃妙を唱え、滅後の上行下種の本因妙との二種類があることになる。日隆はそのことを「仍て地涌一類の本化の衆の久遠下種と云うは、本の十妙の初めの本因妙、又本果円満体具の大悲最下の本因妙下種の者なり。「本因果種」の釈は此の心なり。しかりと雖も互に通ずる意これあるべし云々。/此の時は本因妙の下種は両処にこれあり。本涅槃妙の滅後と初めの本因妙となり」(御書システム、第八十五巻)と述べる。
そして「初めの本因妙」について、「本因妙名字凡位の釈尊の已前に前仏の出世あり。其の前仏にまた本の十妙の如く自行の因果・化他の能所これあり。自行円満の後の化他の能所の時、本涅槃妙を唱え玉う。其の滅後の本利益妙の末法の時、釈尊は我等がごとき名字の凡人にして本因妙の位に居し、口に南無妙法蓮華経と唱え玉うなり」(御書システム、第八十五巻)と述べて、「本因妙の釈尊」は前仏の滅後において「我等がごとき名字の凡人」であったが、「口に南無妙法蓮華経と唱え」ていたとする。そして本因妙の釈尊に唱題行を教えたのは、前仏の付属を受けた上行菩薩であることを、「三世常恒に滅後は諸方共に上行周遍して仏種を下す故に、其の時も上行なり」(御書システム、第八十五巻)と述べる。そして「重ねて問うて云く、其の時の尊形は直の上行か。 答う、しかるべからず。上行に九界を具す。九界総持の人界にて名字信者の尊形なり。 猶を重ねて問うて云く、其の時の「或従知識或従経巻」(『摩訶止観』46.0010b22)の知識の名字如何。 答う、当流最極の秘事なり。謂く、日蓮大士と名づけ奉るなり。口外すべからず云々。是れ三世益物本来常恒の儀式なり」(御書システム、第八十五巻)と述べて、その時の上行菩薩の姿は「九界総持の人界」の姿を取った日蓮であるとする。つまり名字即釈尊の本因妙の時は、前仏の付属を受けた上行菩薩が日蓮の姿で下種をするのであり、その儀式が繰り返されるというのが繰り返し顕本の最重要の論点である。
そして智顗の「先仏の法華経」の箇所を採り上げて、「かくの如く本因妙の其の前の前仏・前仏・前仏・前仏と尋ね数えれば、余りに無窮なる間、一箇の五百塵点を挙げて、一箇の本因本果の久遠を挙げるなり。実には過去の過去・遠遠の遠遠にして、無始久遠なりと文句第一に釈し玉えり。謂く、次に本迹を示せば、久遠に菩薩の道を行ぜし時、先仏の法華経を宣揚したもうに○。亦本迹あり。但だ仏仏相望するに、是れ則ち窮まることなし。別して最初成仏の時に説く所の法華○を取って云々。かくの如く心得れば、三世諸仏道同して仏仏の在世は熟脱なり。滅後末法は下種の時国なり。故に三五下種倶に滅後なり。今日又末法下種なり。此のこと当宗の一大事なり。心腑に染むべきものなり」(御書システム、第八十五巻)と述べる。日隆は前仏の無窮を説いた部分が智顗の主張であって、「別して」以下の「最初成仏の時」以下は智顗の本意ではないとしている。だがここには湛然の注釈は引用されていない。ちなみに『注法華経』を検索すると「先仏」はあるが「先仏の法華経」はない。
3 日隆の議論の検討
3-1 智顗は繰り返し顕本を認めたのだろうか。
日隆は智顗が繰り返し顕本を認めていたという議論をするとき、『法華文句』の最初に因縁・教相・本迹・観心の四種釈をすることを説明する中で、本迹を説明して、「久遠に菩薩の道を行ずる時、先仏の法華経を宣揚するに、亦た三分の上中下の語有り。亦た本迹有り。但だ仏と仏と相い望むに、是れは則ち窮まること無し」の「先仏の法華経」「無窮」に注目して繰り返し顕本を智顗が持っていたとする。確かに「我本行菩薩道」の修行により成仏したのなら、「有始」の成仏になり、仏の「無始無終」を言うためには、繰り返し顕本による「無窮」は一つの解決策になるだろう。
しかし日隆は智顗の上記引用に続く「別して最初成仏の時に説く所の法華の三分の上中下の語を取りて、専ら名づけて上と為し、之れを名づけて本と為す」という部分については、本迹の議論をするために、一例として述べたと解釈しているようだが、湛然はそこの部分の注釈で「一迷先達」の議論をして、釈尊が無師、無教の修行において成仏したことを述べて、繰り返し顕本を否定している。日隆は『法華本門弘経抄』では「一迷先達」について引用することはない。
さらに重要なことは、智顗は『法華文句』の「寿量品釈」において、「報身」の無始無終を言うために、繰り返し顕本を述べてはいないということである。2-8において日隆は智顗の『法華文句』の寿量品釈を引用する中で、「疏の九に「如如の智を以て如如の境に契ふ、境に智を発するを報となす。○函大なれば蓋大なり」。函大蓋大と云えり。報身は境智冥合の仏なる故に、智を以て境を縁すれば始めこれあるべし。智を以て境に冥じ畢れば斉限なく無終無生なり」(8-184,185)と述べて、無始無終である境としての法身に、有始無終の智である報身が、境智冥合すれば、報身も無始無終となるという議論を紹介しているが、智顗が報身の無始無終を言う時には、無始無終の法身との境智冥合を論拠にしているのであり、繰り返し顕本を論拠にしているのではない。なぜ日隆が繰り返し顕本に固執したのかは不明であるが、境智冥合により報身の無始無終を論ずれば、結局法身の無始無終によって報身の無始無終が担保されるということになり、中古天台の法身中心の無作三身論を否定しきれないと日隆が恐れたからかもしれない。もう一つは繰り返し顕本論を採用すれば、上行=釈尊の因位の姿ということがすんなり説明できるということがあったと思われる。
3-2 日蓮は繰り返し顕本、一仏二名論を認めていただろうか。
日隆は繰り返し顕本を主張する時、『観心本尊抄』の四十五字法体段を引用し、「今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる○三種世間なり云々。仏既に過去にも滅せず」と云うは、不生の言をいたみ玉ふ意なるべし。因妙の生の始めこれある故に、不生とは云わずして不滅と計り書き玉えり」(8-186)と述べているが、日隆の引用箇所のすぐ後には、「未来にも生ぜず」とある。繰り返し顕本ならば、未来に久遠実成釈尊が再び生じることが含意されているが、日蓮はそれを否定している。だから日蓮が繰り返し顕本を認めているとは考えられない。
また『開目抄』でも「しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々」と久遠実成の文を挙げ、次いで「本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と述べて、「四教の果をやぶる」ことから「本因本果の法門」、「無始」の議論が展開される。日蓮は「我本行菩薩道」の本因から、「本因本果の法門」を説き起こしているわけではない。
また『観心本尊抄』で地涌の菩薩に結要付属する場合に、伝教の『法華秀句』の「果分の一切の所有の法」以下を引用し、地涌の菩薩に付属した法、妙法五字が「果分」であることをわざわざ強調している。だから日隆の本因妙重視の議論は、後に述べる日蓮の本果妙を本因妙と同様に重視する議論とは相違している。
また日隆は釈尊上行の一仏二名論を強調する時、湛然の『法華文句記』の「初め此の仏菩薩に従って結縁し、還って此の仏菩薩において成就す云々(『文句記』(涌出品如来止三義結縁浅)初從此佛菩薩結縁。還於此佛菩薩成熟)(34.0324a)」を重視し、初めに上行菩薩により結縁し、後に脱益の時に上行菩薩と一体である釈尊によって化導を受けて得脱すると解釈している。この湛然の『法華文句記』の言葉は、日蓮の『注法華経』でも《⑤裏189Ⅱ》において引用されているから、それなりの説得力があるように見える。
しかし『一代五時鶏図〔西山本〕』(図録20 真蹟)には大通覆講に関して、「記の九に云く「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す」」と述べているが、その少し後には『法華玄義』の「又云く「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」(33.0756c11『法華玄義』(本眷属妙)本從此佛初發道心。亦從此佛住不退地)も引用されており、この『法華玄義』の言葉は、それより前にある釈尊の師徳を示す「而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」に対するコメントとして、「玄の六に云く「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」」と引用されている。
またこの『法華玄義』の言葉は、真蹟の『法華取要抄』にも「経に云く「在々諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」。又云く「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」。釈に云く「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」。又云く「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す」云云。返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」と述べて、仏による下種を述べて、菩薩による下種に拘泥している様子は見られない。仏による下種を認めてしまえば、一仏二名論は必要なくなる。
3-3 『観心本尊抄』と四節三益
日蓮は『観心本尊抄』で様々な形で下種について述べているが、その場合智顗の『法華文句』の四節三益を念頭に置いていたと思われる。日蓮は本門一品二半の脱益について述べる箇所で、「所謂 一往之れを見る時は久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至りて等妙に登らしむ」と述べているが、これは智顗の四節三益の「①衆生は久遠に、仏の善巧に仏道の因縁を種えしむるを蒙り、中間に相い値いて、更に異なる方便を以て、第一義を助顕して、之れを成熟し、今日、花を雨らし地を動ぜしめ、如来の滅度を以て、之れを滅度す」に該当すると思われる。
また迹門における大通覆講について述べた個所で、「過去の結縁を尋ぬれば大通十六の時仏果の下種を下し、進みては華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ。此れは仏の本意に非ず、但毒発等の一分なり。二乗・凡夫等は前四味を縁として、漸々に法華に来至して種子を顕はし、開顕を遂ぐるの機是れなり」とあるが、これは「③復た次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す。今、開示悟入する者、是れなり」に該当すると思われる。
また「又在世に於て始めて八品を聞く人天等、或は一句一偈等を聞いて下種とし、或は熟し、或は脱し、或は普賢・涅槃等に至り、或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る。例せば在世の前四味の者の如し」と述べているが、これは「④復た次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す。未来に得度する者、是れなり」に該当すると思われる。この第四節の種熟脱は釈尊による在世下種を日蓮が認めていたと解釈できる。また正像に地涌の菩薩が出現しないことを述べた後の個所で、「地涌千界正像に出でざることは、正法一千年の間は小乗・権大乗なり。機時共に之れ無し。四依の大士小権を以て縁と為して、在世の下種之れを脱せしむ」と述べているので、日蓮が釈尊による「在世の下種」を認めていたと解釈する方が自然な解釈だと思われる。
また涌出品で地涌の菩薩が出現することを述べる箇所で、「天台智者大師、前三後三の六釈を作りて之れを会したまへり。所詮 迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に、之れを止めて地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ。又迹化の大衆は、釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり。天台大師云く「是れ我が弟子なり。応に我が法を弘むべし」。妙楽云く「子、父の法を弘むるに世界の益有り」。輔正記に云く「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云」と述べているが、これは「②復た次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等、是れなり。」を念頭に置いている。「久成の人」とあるのは、「近世を脱と為す」地涌の菩薩を指している。また地涌の菩薩が「釈尊初発心の弟子である」ことも含意されていると思われる。
このように見てくるならば、④の釈尊による在世下種のみならず、②の久遠における釈尊による地涌の菩薩への下種・教化をも日蓮が認めていたと思われる。
日隆は四節三益の第三・四節について『法華宗本門弘経抄』において「疏の一の「雖未是本門取意説耳」の釈の意を以て四節の釈を見れば、既に初二の両節に久遠下種を挙げるなり。此の久遠下種を以て第三第四の両節を見れば、皆久遠下種の物なるを、久遠を隠して且く当分に種の名を与える故に、随って熟脱と云うも久遠下種が熟し脱したるなり。かくの如く久遠下種を以て中間今日爾前迹門得道の物を見れば、当座は権迹なれども、下種に従えば本門の得道なり」(御書システム 第十巻)と述べて、①②が久遠下種だから、③④も大通覆講、在世下種となっているが、実は久遠下種なのであると、強引な解釈をしている。しかし「雖未是本門取意説耳」の文意は、①②の衆生については本門で説明されるが、まだ序品の釈の段階で本門に至ってないが、予め本門の内容を先取りして分類することを述べているだけであり、③④を久遠下種で解釈するという意味では全くない。
3-4 『曾谷入道殿許御書』の「娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩」の解釈について
日隆が上行を釈尊の因位の姿だと考えた理由の一つは、上行が末法の衆生に妙法五字を下種するだけではなく、久遠の我本行菩薩道の本因妙名字即釈尊に対して前仏から付属を受けた上行が妙法五字を下種し、本因妙名字即釈尊はその妙法五字を修行して本果妙釈尊となったと考えたからである。日隆はその論拠として『曾谷入道殿許御書』の「而るに地涌千界の大菩薩、一には娑婆世界に住すること多塵劫なり。二には釈尊に随ひて久遠より已来初発心の弟子なり。三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」という記述の第三の「娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」を単に「末法の」「娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」という意味だけではなく、「久遠下種」を含む一切の「娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」と解釈したからであった。
日隆の解釈では「最初下種」の主体は地涌の菩薩、上行であるが、『曾谷入道殿許御書』のこの個所の読解はそれのみではない。「(釈尊により)娑婆世界の衆生の中で最初に下種された菩薩なり」という読解も可能であり、この読解では「最初下種」の主体は釈尊であり、地涌の菩薩は「最初下種」される客体であるということになる。ただその読解を採用すれば、「二には釈尊に随ひて久遠より已来初発心の弟子なり」という記述とほぼ同じ意味内容となるという難点がある。だから日隆の解釈のように「最初下種」の主体は地涌の菩薩、上行とする読解はそれなりの人々の支持を受けてきた。ただ『曾谷入道殿許御書』の第三の記述には、時間規定がないために、日隆のように久遠下種も地涌の菩薩、上行であるという解釈も可能になるが、日蓮の他の御書では、地涌の菩薩、上行は末法における下種を付属されたとされているので、第三を「末法の」「一切衆生」を「最初下種」する菩薩であると限定的に考えることが整合的であると思われる。
そう考えると、「我本行菩薩道」の修行と、上行の末法下種とは直接関係がなくなるが、
日蓮の御書には「我本行菩薩道」の修行について述べた個所はないのだから、両者を結び付ける論理的必然性はない。日隆は方便品の「如三世諸仏説法之儀式」を論拠に、上行による末法下種が繰り返されると説くが、この句は「三世の諸仏の説法の儀式のごとく、われも今、また、かくのごとく無分別の法を説く」という文中の句であり、「無分別の法」とは開三顕一の一乗の法を指している。日隆の議論は文脈を無視した議論であり、説得性はない。
3-5 『注法華経』での「本因果種」の引用
日隆は久遠下種が本因妙下種であることを強調するが、その論拠は湛然の『法華文句記』の「本因果種」の議論であった。ところが日蓮の御書には湛然の「本因果種」に言及した箇所はない。『注法華経』には「《⑧裏100》」「《⑧表29》」「《③表83》」と三箇所にわたって「本因果種」を引用し、そのうち「《⑧表29》」「《③表83》」の二箇所は湛然の四節三益に対する注をそのまま引用している。注目されるのは道暹の『法華文句輔正記』の「《⑧裏100》輔に云く、本の因果に種すとは、此れ即ち如来が菩薩の道を行ぜし時、化(他)のために下種し、果を証するの時復た下種となす。故に本の因果に種すと名づく」を引用していることである。ここでは「果を証するの時復た下種となす」とあり、本果妙の釈尊による下種について述べている。このことは日蓮は湛然の「本因果種」を日隆のように「本因」下種から解釈するのではなく、「本因」と「本果」の両方の下種を考えていたことを伺わせる。
ただし日隆は『法華宗本門弘経抄』において道暹の『輔正記』の「本因果種」について次のように述べている。
「問う、地涌の菩薩は釈尊本実成の時の下種なりとやせん。将た本因の時にも亘るか〈三百帖〉。 答う、経文に任せば、本果の時の下種に限ると説けり。但し本因の種に亘る亘らざるは計り難きものなり。 進んで云く、記の一に云く、「本の因果に種し」と釈し玉えり。 これに付いて経文を見るに、最正覚を成ずることを得て、無上の法輪を転じ、しかして乃ちこれを教化して、初めて道心を発さしむ。既に本果の時の下種と見えたり。何ぞかくの如く釈したもうや、如何。
答う、此のことを天台の学者会して云く、経文は実に本果の時に初めて発心すと見えたり。又其の前の本因の時に結縁の義もこれあるか。但し記の一の釈に至っては、本書に四節の種熟脱を釈して、復た次に久遠を種となし、過去を熟となし、近世を脱となす。地涌等是れなり。記にこれを受けて云く、本の因果に種し、果後に近く熟し、適めて過去に脱せり。地涌の者を指す。既に地涌等の「等」の字の顕わす処に、地涌の菩薩の流類これ多し。故に多分は本果にて下種すと雖も、少分は本因の時に下種する者もこれあるべしと思いて、妙楽は「本因果種」と釈したもうなり。これに依って輔正記に云く、本因果種とは、此れ即ち如来が菩薩の道を行ずる時、他のために下種し、証果の時復た下種をなす。故に本因果種と名づく。文の心は分明なり。下種は本因本果に亘ると見えたり云々」(御書システム 第七十六巻)
つまり日蓮が引用した『輔正記』の「本因果種とは、此れ即ち如来が菩薩の道を行ずる時、他のために下種し、証果の時復た下種をなす。故に本因果種と名づく」は天台宗の見解に含まれ、法華宗の見解とは違うと日隆は主張している。日隆は本已有善の者に対する熟脱を下種と呼ぶ場合と、本未有善の者に対して下種を与える「正下種」とを区別して次のように述べる。
「記の一に「本因果種」と云うなり。只是れ言総意別なり。謂く、本因に下種し、本果に脱益満ちて本涅槃の砌に又本因の地涌と成って種を下すと云うべきを、言総して「本因果種」と云うなり。されば三世本有の儀式として、一切衆生最初下種の時は釈尊が本因妙上行の尊形を示して、本涅槃妙滅後末法に出現して種を下し玉う。今の本因本果と云う本因も、疏の一の如くんば、前仏の本涅槃妙滅後末法の本因妙と口伝するなり。又一切衆生得脱の時機には上行菩薩が妙覚の八相を唱え、本果釈尊の尊形を示現して仏在世の九法界の脱益を化し、又本涅槃妙を唱えて、釈尊即上行と成って滅後悪世の下種を成ずることは、三世本有の化儀なり。寿量品の三世益物は此の意なり。経に「如三世諸仏 説法之儀式」(09.0010a)と云えるは此の意なり。仍て天台宗に本果の時に下種ありと云うは、是れ熟脱に下種の名を与えるなり。是れ正下種にあらず。正下種は本未有善の機なり。名字即の人なり。仏の在世に生まれて見仏聞法する程の衆生は、皆是れ本已有善の機なり。仍て本果の時に正下種ありと心得べけんや」(御書システム 第七十六巻)
本因妙上行の下種益と本果妙釈尊の脱益が繰り返し顕本により「三世本有の化儀」であるという日隆の議論は、『輔正記』の「本因果種」の議論を否定するかなり偏った議論であると思われる。
3-6 「元始」「久遠下種」「久種」「我本行菩薩道」「本因」「如三世諸仏 説法之儀式」の日蓮の使用
ここで日隆が本因妙上行が釈尊の因位の姿であることを主張する時に使用する特殊な用語「元始」「本因」「我本行菩薩道」「如三世諸仏 説法之儀式」とそれに関連する「久遠下種」「久種」が日蓮の御書の中でどのように使用されているかをチェックしよう。
「元始」については既に述べたように、湛然の用語である「本門は本因を元始と為し」という表現と、それを日蓮がアレンジした「本門は久遠を元始と為し」という両方の表現が見られる。しかもこの議論は三種教相と関連し、本門の久遠実成の下種に関連していることは明らかである。日隆の用語法では「本因妙の下種」という言葉が頻出するが、日蓮の御書には偽撰である『本因妙抄』に一箇所使用されるだけである。
それと関連する「久遠下種」は『観心本尊抄』『守護国家論』『忘持経事』『南条兵衛七郎殿御書』『上野殿御返事(竜門御書)』において使用され、またそれの省略形である「久種」が『観心本尊抄』で使用される。日蓮は久遠本因妙下種ではなく、単なる久遠下種を使用し、本因妙を重視していなかったと思われる。
次に「本因妙」を指す言葉として智顗が『法華文句』で引用する「我本行菩薩道」を検討してみよう。
日蓮正宗教学を大成した日寛は『開目抄』の「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり」の文を解釈して、『開目抄愚記上』で「真の事の一念三千の法門・久遠下種の名字の妙法は、一代経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘沈するなり。故に「一念三千文底秘沈」というなり」と述べている。
また「文底」に関して、同じく『開目抄愚記上』で、「 一、文底秘沈文。
問う、これ何れの文と為んや。
答う、他流の古抄に多くの義勢あり。
一に謂く「如来如実知見」等の文なり。この文は能知見を説くと雖も、而も文底に所知見の三千あるが故なりと云云。
二に謂く「是好良薬」の文なり。これ則ち良薬の体、これ妙法の一念三千なるが故なりと。
三に謂く「如来秘密神通之力」の文なり。これ則ち、文の面は本地相即の三身を説くと雖も、文底に即ち法体の一念三千を含むが故なりと。
四に謂く、但寿量品の題号の妙法なり。これ則ち本尊抄に「一念三千の珠を裹む」(取意)というが故なりと。
五に謂く、通じて寿量一品の文を指す。これ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕すが故なりと。
六に謂く「然我実成仏已来」の文なり。これ則ち秘法抄にこの文を引いて正しく一念三千を証し、御義口伝に事の一念三千に約してこの文を釈する故なりと云云。
今謂く、諸説皆これ人情なり。何ぞ聖旨に関らん。
問う、正義は如何。
答う、これはこれ当流一大事の秘要なり。然りと雖も、今一言を以てこれを示さん。謂く、御相伝に云く本因妙の文なり云云。若し文上を論ぜば只住上に在り。故に「寿命未尽」というなり。若し住上に非ずんば、曷ぞ常寿を得ん。故に大師、この文を釈して「初住に登る時、已に常寿を得たり」と云云。当に知るべし。後々の位に登る所以は並びに前々の所修に由る。故に知んぬ、「我本行菩薩道」の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給うことを。蓮祖の本因妙抄に云云。興師の文底大事抄に云云。秘すべし秘すべし云云。」(『日寛上人文段集』 p. 76,77)と述べている。
此の中で第一の回答である「如来如実知見」は三位日順が『法華開目抄上私見聞』(文和四年)(1355)で「問て云く一念三千の法門・本門寿量の文底に沈めたりと云云、然らば何の文を指すや、答て云く経に云く如来如実知見三界之相○非如非異不如三界見於三界○云云、文の意は三界に於いて凡夫は所に依つて山川を隔て所々替ると見るなりと云云、二乗等は又三界皆如と思ふなりと云云、如と申すは空の義なり、是を仏は凡夫二乗の見を捨て有のままに三界皆実相妙法の躰と見玉ふなり、法既に本妙、麁は物の情に由るの道理なる故に仏は三界実相と見玉ふ故に如来如実知見と云云。私に云く、〈籖の一〉釈して云く長寿只是証躰の用未だ是れ親しく実相の体を証せざるなり、此意は迹門は三千塵点の実相を嘗むる故に三千とて短かし、本門は五百塵点の実相をなむる故に五百とは申すなり云云」(『富要』 2-87,88)と述べているように、一念三千論の中心が実相論だと解釈して、迹門方便品の十如実相論と関連する本門寿量品の「如来如実知見」の文底にあるという解釈である。
第三の回答の「如来秘密神通之力」については、日有が『下野阿闍梨聞書』文明四年(1472)で「仰せに云はく・西山方の僧・大宝律師(西山本門寺8世日眼と推測されている)来りて問ふて云はく日尊門徒に開目抄に云はく・一念三千の法門は本門寿量品の文の底にしづめたり云云是は何れの文底にしづめたまふやと云ふ時、日有上人仰せに云はく日昭門跡なんどには然我実成仏已来の文という、さて日興上人は此の上に一重遊ばされたるげに候、但し門跡の化儀化法・興上の如く興行有つてこそ何の文底にしづめたまふをも得意申して然るべく候とて置きければ、頻りに問ふ間だ興上如来秘密神通之力の文底にしづめ御座すと遊ばされて候、其の故は然我実成仏已来の文は本果妙の所に諸仏御座す、既に当宗は本因妙の所に宗旨を建立する故なり彼の文にては有るべからず、さて如来秘密神通之力の文は本因妙を説かるゝなり」(『富要』 2-152)とあり、日有は「本因妙」の文として、「如来秘密神通之力」を挙げたことが分かる。「如来秘密神通之力」は『三大秘法抄』『御義口伝』で本尊(=久遠実成釈尊)の依文として挙げられるが、智顗の『法華玄義』で本因妙の依文として挙げられるのは、「我本行菩薩道」であり、日有が何故「如来秘密神通之力」を本因妙の依文として挙げたのかは分からない。日隆の文献にも本因妙の依文は智顗と同様に「我本行菩薩道」となっており、ますます謎は深まる。
日寛は智顗の『法華文句』の「佛修圓因登初住時已得常壽。常壽?壽已倍上數況復果耶」(34.0133a)(仏は円因を修して初住に登る時、已に常寿を得たり。常寿は尽き?(ガタ)し。已に上の数に倍す。況んや復た果をや)を引用して、「円因」である「本行菩薩道」の本因妙の文底に「真の事の一念三千の法門・久遠下種の名字の妙法」が秘沈されていると解釈する。
ただ『開目抄』自体には「本行菩薩道」は引用されていないし、そもそも『開目抄』の「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり」の「一念三千の法門」が日寛の主張する「真の事の一念三千の法門・久遠下種の名字の妙法」を指すということも自明なことではない。『開目抄』では、寿量品の「しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々。」の本果妙の文を引用した後に、「本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と述べて、「四教の果をやぶ」るということから、「真の十界互具・百界千如・一念三千」が明示される。だから日本語の文として、通常の読みをすれば、「我実成仏已来」という本果妙の文に続く箇所の文底に一念三千が秘沈されているということになる。
この解釈は『観心本尊抄』でも「四十五字法体段」で「本因・本果・本国土」により「己心の三千具足、三種の世間」が示されるということと同じ主張と思われる。だから日寛の「我本行菩薩道」の本因妙の文の底に「真の事の一念三千の法門・久遠下種の名字の妙法」が秘沈されているという主張は、少なくとも『開目抄』の文意から見れば、逸脱した読み込みすぎの解釈であると思われる。
ちなみに「我本行菩薩道」は『観心本尊抄』に「法華経第一の方便品に云わく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云々。これ九界所具の仏界なり。寿量品に云わく「かくのごとく我は成仏してより已来、はなはだ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず。諸の善男子よ。我は本菩薩の道を行じて、成ぜしところの寿命は、今なおいまだ尽きず、また上の数に倍せり」等云々。この経文は仏界所具の九界なり」と引用され、本果妙の文と一緒に本因妙の文が、「仏界所具の九界」を示す文であるとしている。
同じく『観心本尊抄』に「寿量品に云わく「しかるに、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々。我らが己心の釈尊は、五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。経に云わく「我は本菩薩の道を行じて、成ぜしところの寿命は、今なおいまだ尽きず、また上の数に倍せり」等云々。我らが己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。例せば、太公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるがごとし。上行・無辺行・浄行・安立行等は我らが己心の菩薩なり」とあり、本果妙の文が、「我らが己心の釈尊」を示し、本因妙の文が「我らが己心の菩薩等」を示すとしている。しかも「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」と述べて、地涌の菩薩は「本因妙」の菩薩としてではなく、「眷属」妙の菩薩、すなわち釈尊の弟子として位置付けられており、その位置づけの下で「我らが己心の菩薩なり」=釈尊の本因妙に包摂されている。この文脈からは地涌の菩薩を釈尊の本因妙の姿として理解することは極めて困難であると思われる。
「我本行菩薩道」はその他では、真偽の論争が激しい身延3世日進写本『立正観抄送状』に湛然の『輔行伝弘決』の引用文として使用され、また真蹟の『八宗違目抄』にも湛然の『輔行伝弘決』の引用文として使用れるだけであり、其の外は日蓮親撰を疑われる『御義口伝』『百六箇抄』に引用されるだけである。本果妙の文の「我実成仏已来」もそれほど使用頻度が多いとは言えないが、初期の『守護国家論』以来引用され続けているのに比べれば、本因妙の「我本行菩薩道」の文はかなり使用頻度が低いことが分かる。
日蓮にとっては末法の弘経の主体が結要付属を受けた本化の地涌の菩薩であるということを論証できれば十分であり、何も久遠の本因妙まで遡って、釈尊の因位の姿が上行であるということまでは言う必要がない。
次に「本因」で検索すれば、信頼できる御書では『開目抄』で「本因本果の法門」の使用があるだけで、その他は『小乗小仏要文』に『法華玄義』の引用文中で使用されるだけである。偽撰が疑われる御書では『御義口伝』『御講聞書』『呵責謗法滅罪抄』『寿量品得意抄』『百六箇抄』『本因妙抄』に頻出する。『百六箇抄』『本因妙抄』は日隆の影響下に作成されたことが推測されており、『御義口伝』『御講聞書』は日隆死後の円明日澄周辺で作成されたことが推測されている。
次に「如三世諸仏 説法之儀式」については同趣旨の表現が、真蹟の『寺泊御書』『法門申さるべき様の事』『顕謗法抄』に使用され、また『太田左衛門尉御返事 285 日隆写本』『三世諸仏総勘文教相廃立 348 日祐目録』でも使用されているが、主に法華経の説法について述べており、何かの出来事が繰り返し起こるという意味では使用されているわけではない。
3-7 日有の大石寺教学の革命の動機
3-7-1 日有に至る大石寺の疲弊
6世日持の『御伝土代』には日興から継承された「日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり」、上行菩薩=久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子=本眷属、本仏=久遠実成無作三身という位置づけが明示されている。この日時の見解は『本因妙口決』を除く、三位日順の諸著作にも見られ、大石寺初期の本迹論争の立場は、像法の天台宗と末法の日蓮法華宗との差異の強調という、台当相対、像末相対の立場であった。『五人所破抄』に見られる五一相対は五老僧=天台宗、日興=日蓮法華宗という対立として議論が組み立てられている。
ところが建武の新政の頃に、日興、日目と日興門流の中心人物が相次いで亡くなり、日興の後を継いで重須(北山本門寺)を継承した日興の甥日代は、翌年正月の日興の高弟日仙との方便品読誦をめぐる論争で、日興門流の多くの僧侶や、重須の地頭石川氏と対立し、結果的に生地西山に移り、後の西山本門寺を建立することとなった。大石寺においても、日目の死後、日目の京都への国家諌暁に同行した日郷と、日目の甥で大石寺を継承した日道の間で、日目の住坊の東坊地の相続問題で争いが生じ、しかも日道が日目死後6年でなくなり、後を甥の日行が継承した。しかも地頭の南条宗家の時綱が息子を日郷の弟子にして、その後を継がせるという条件で、東坊地の寄進状を残した。キャリア、年齢からして日行が日郷に対抗するのは困難であったが、大石寺の多くの僧侶は、越後出身のよそ者の日郷よりも、日目の新田家ゆかりの日行を支持したので、日行は辛うじて大石寺の大部分を管理することに成功したと思われる。地頭の南条氏は鎌倉の北条氏とともに没落し、新たに興津氏が地頭となり、日行は興津氏の支持を得ることに成功した。それに対抗して日郷、その後継日伝は守護の今川氏に安堵を求め、成功したが、日行はさらにその上級機関である鎌倉管領に働きかけ、最終的には、日行の後継者日時の晩年応永十二年(1405)に日時の権利が確定した。日精の『家中見聞下』によれば日時は、川越仙波において天台を学んだとあり、関東天台の中心地で中古天台を研鑽したと思われるが、日伝との東坊地の継承問題で、各方面への賄賂で経済的にも疲弊し、その学識を以て諸国に布教活動に行くこともできなかった。日時の後を継いだ日阿は1年にも満たずに8世日影に譲ったが、日影には見るべき業績もなく、9世日有に譲った。
3-7-2 日有の課題
『富士年表』によれば大石寺による国家諌暁は、興国三年(1342)の日行以来途絶えていたが、日有は永享四年(1432)に室町幕府に申状を提出するために、京都に登ったが、日精の『家中見聞下』には、その時に日隆から四帖抄(『法華天台両宗勝劣抄』)を贈られたとある。堀日亨は史実であることを疑っているが、富士門流の住持である日有が京都に来たと日隆が知れば、その三年前に『法華天台両宗勝劣抄』を書いて、種脱相対を論拠に法華勝天台劣を主張した日隆が、その当時、勝劣派は、日陣門流、日什門流、富士門流しかいなく、圧倒的に少数派であったから、日有にアプローチした可能性はあるだろう。長期間富士周辺で逼塞し、内紛で疲弊していた大石寺を日興正統の下で、再建しようとした日有にとって、勝劣派が富士門流以外にも存在し、しかも大石寺初期の五一相対の教義では、その中で独自性を発揮することができないことを悟った日有は、他の勝劣派を圧倒できる教義の再構築の必要性を感じ取ったと思われる。
日有にとって富士門流の化儀のうえでの独自性は釈尊像などの仏菩薩像を造像しなかったということである。同じ富士門流でも京都の日尊門徒は一尊四士の造立をしていたが、関東の富士門流は造像禁止を守っていたと思われる(西山本門寺では一致派の迹門得益を容認し、造仏・一部読誦を行うこともあったようだが、日有の影響を受けた元日尊門徒の8世日眼が勝劣派の教義によりそれを制止したとされる。(池田令道「西山本門寺八世日眼に関する考察」『興風』第20号、 p. 109,110))。造像禁止の理由は『本尊問答抄』に明示されているように妙法五字を中尊とする文字曼荼羅を本尊とするということであったが、富士門流で造像されたのは日蓮御影像であり、時には日興御影像も造立されたようだ。それともう一つの独自の化儀は、方便・寿量の二品読誦に制限し、一部読誦を禁止したことである。他門流でも日常的な勤行には、方便・寿量の二品読誦であったが、僧侶の修学・修行のために一部読誦も取り入れていた。日蓮が一部読誦を禁止したという明文はないから、助行の範囲では一部読誦も容認されるというのが大部分の門流の見解であった。
3-7-3 本尊論の革命
これ等の化儀の相違を前提にして、どのように日有が本迹論の革命を遂行したのかを検討してみると、まず本尊論の革命であった。他門流でも文字曼荼羅が本尊であることは認めていたが、その他に仏菩薩像を本尊として造立していた。試しに日隆の『私新抄』の議論を見てみよう。日隆の本尊論は「円宗本尊亘人法耶」において種脱を区別した本尊論の中で明瞭に示されている。人本尊と法本尊との関係を論じ、「口伝云在世滅後倶ニ熟脱ノ時分ハ以人仏為本尊、下種ノ時ハ以法可為本尊、其ノ故ハ熟脱ハ最初下種ノ法ヲ以自力令修行、自身即仏ノ義をハダ(膚)ヘニ得タリ、能顕能証ノ方を為正意、尤モ尊形の仏ヲ為本尊便也、サレバ正像二時ノ本尊ハ皆仏菩薩等ノ尊形ノ仏ヲ本尊トせり、次ニ下種ノ時ハ以法他力経力仏果ノ種子ヲ令成、仏ニ成ル種子トハ南無妙法蓮華経ニ可限、・・・法ハ聖ノ師也、聖人ニ可成種子ヲ初テ下ス故ニ首題ノ法ヲ以テ可為本尊、本尊問答抄云」(『宗全』8-148)とあり、正像時代の本尊は仏像だが、末法の本尊は法であることを『本尊問答抄』を根拠にして主張している。そしてその後の箇所で「難云約種熟脱分本尊事不審也、所以ニ当宗ノ本尊ハ本門ノ南無妙法蓮華経也、然ルニ首題ニ具五重玄、五重玄ハ人法也、名ハ法、三章ハ人三身也、人法合シテ妙法蓮華経ト云、故ニ当宗ノ本尊ハ可亘人法」(『宗全』8-149)という人法一箇論に基づく人本尊と法本尊の両方を認める立場からの反論について論じて、『本尊問答抄』を論拠にして人本尊を否定している。このように日隆は法本尊と人本尊との関係について詳細に論じ、最終的には『本尊問答抄』を根拠にして、法本尊(曼陀羅、中尊=曼陀羅の中に書かれた中央の題目)を根本として、人本尊を認めなかった。
しかしながらその後の箇所の「本門円宗意以首題五字本尊ト定玉ヘリ、爾者色相荘厳仏果非本尊可云耶」においては、「末代当時ハ以首題、正体ノ為本尊、助縁助道ノ方ハ色相荘厳の仏に可亘、唱法華題目抄云、常ノ所行ハ題目ヲ南無妙法蓮華経ト可唱、助縁ニハ南無釈迦牟尼仏南無多宝仏」(『宗全』8-157)と述べて、日蓮初期の『唱法華題目抄』を根拠に、曼荼羅本尊を正意としながらも仏菩薩の絵像木像も助縁として本尊とすることを認めている。
このような日隆の助縁として仏菩薩像を造立するという考えに対して、日蓮が明白に仏像造立を禁じた御書はなく、むしろ在家信者が仏像造立をしたことに対して称賛した御書が伝承されていた。日興も釈尊の一体仏は仏格が始成正覚の仏であるから、造立を禁止したが、四菩薩を添加すれば、仏格が久遠実成の仏になるから容認していた。このような造仏容認の時代風潮においては、日興門流初期の本尊論では、仏像造立禁止という主張が説得力を持ちそうにないことを日有は悟ったと思われる。日興門流が釈尊像を造立せず、日蓮御影像のみを造立することに対して、日隆は『法華宗本門弘経抄』で、「しかるに釈尊・上行・高祖の造像も本門本因妙名字信行の上の縁了なり。又本因妙を顕わす釈尊・上行、乃至十法界の聖衆も同じく久遠の名字に居して、日蓮大士の如く末代相応の名字信位なり。但し釈尊は本果が家の名字、上行は等覚が家の名字、日蓮は人界の名字なり。故に名字と名字との辺を取って易行の本尊と成し、易行の四依を談ず。しかるに妙法蓮華経・釈尊・上行は日蓮大士と我等がためには本尊なり。本尊の釈迦・上行をば造像せずして、日蓮大士の造像計りを本堂に安置し奉る事は富士門流の法則なり。恐らくは謬中の謬、是れ即ち極大謗法なり。諸御抄に背くことなり。仍て観心本尊抄は偏に木画二像の開眼供養のためなり。唯無智の輩の巧み出したることなり。笑うベし笑うベし。易行の本尊の事は当流随分の口伝なり。これを秘すべし云々」(御書システム 第三十一巻)と述べて、厳しく批判している。
日有は勿論日隆の『法華宗本門弘経抄』は読んでいないから、このような批判は知らないだろうが、「本尊の釈迦・上行をば造像せずして、日蓮大士の造像計りを本堂に安置」するのはなぜかという疑問をしばしば受けたと思われる。
日蓮御影像の教義的位置づけに関しては、日興門流でも不安定であった。『富士一跡門徒存知事』では「聖人御影像のこと。 あるいは五人といい、あるいは在家といい、絵像・木像に図し奉ること、在々所々にその数を知らず。しかるに面々不同なり。 ここに日興云わく「まず影像を図する所詮は、後代に知らしめんがためなり。是に付け非に付け、ありのままに移すべきなり」」と述べて、日蓮御影について本尊とは別の項目で説明している。しかし他門流では仏菩薩、並びに日蓮御影像を造立して、本尊としているので、日興門流でも、日蓮御影像を事実上の本尊として儀礼の中心としてきた。しかしその教義的位置づけに関しては、日時の『御伝土代』に「日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり」とあるように、上行菩薩の後身という位置づけであり、「弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり」とあるように、末法の導師という位置づけであった。また上行菩薩の教義的位置づけは、「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり」とあるように、本地が寂光土にあることを述べているが、このことは法華経では明示されていないが、智顗の『法華玄義』の眷属妙において、「「虚空」とは法性虚空の寂光なり。本時の寂光の空中より、今時の寂光の空中に出づ」と注釈し、また『法華文句』の四節三益において「近世を脱と為す。地涌等、是れなり。」とあるように、上行は成仏を約束された初住位に到達した上位の菩薩として記述され、『御伝土代』でもそれは踏襲されている。
日有は教義的には曖昧であった日蓮御影像を教義的に明確に本尊として、日蓮御影像についての教義的説明を、従来の上行論とは全く別の議論を展開する。日有は『化儀抄』において「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経の人師と釈する此の意なり。されば儒家には孔子老子を本尊とし、歌道には人丸・天神を本尊とし陰陽にはセイメイを本尊とするなり、仏教に於いて小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は迦葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文珠を脇士とし、本門の釈迦は上行等云云、故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり、其の故は神力結要の付属は受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終つて脱する所を終りと云ふなり、脱し終れば種にかへる故に迹に実躰なきなり、妙楽大師、雖脱在現と上の如し云云、是より迹門無得道の法門は起るなり云云」(『富要』1-78)と述べて、断惑証理(=究竟即)=(本果妙)=釈尊、未断惑(=名字即)=本因妙=(上行)=日蓮という対立項を提示する。この引用文では上行は明示されていないが、「神力結要の付属」と述べることにより、上行が釈迦の因行の姿であることを暗示している。なぜ明示しないのかと言えば、上行=釈迦の因行=名字即という議論をすれば、少なくとも、法華経、智顗の釈義、湛然の注釈を論拠にした反論が即座に展開されるからであり、その論争に就いては、日隆の議論に任せ、上行が釈尊の因位の名字即であるという結論だけを利用したと思われる。