日有 『化儀抄』の「脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへる」という議論について
1 問題の所在
日有の『化儀抄』に以下の重要な議論がある。
「一、釈尊一代の説教に於いて権実本迹の二筋あり、権実とは法花已前は権智、法花経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法花已前に仏の権智を示めさるれば機も権智を受くるなり、さて法花経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽(智顗)の釈に云く権実約智約教(法華玄義.33.0770b09)と釈して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは蔵通別の三教は権教なり円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約するなり(法華玄義.33.0770b09)、仏身に於いて因果の身在す故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、 夫れとは修一円因、感一円果の自身自行成道なれども既に成道と云ふ故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より已来た機を目にかけて世々番々に成道を唱へ在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云ふも迹の成道なり、故に今日花厳阿含方等般若法華の五時の法輪、法花経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹ともに迹なり、今日の寿量品と云ふも迹中の寿量なり、されば教に約すれば是本門なりと雖も(法華玄義釈籤33.0923c16)文。
さて本門は如何と云ふに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以つてそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熟の位、分真究竟の脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ(『法華文句記』「雖脱在現。具騰本種」34.0156c)と釈して脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是なり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり、仍つて迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則法華経の本意滅後末法の今の時なり。
されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為めなるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、属累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故に住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字ありと遊す是れなり云云。」(『富要』 1-76,77,78)
ここでは重要な論点がいくつもあるが、今は種熟脱の三益を理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即に配立する日有の議論に注目しよう。日興門流では、日有以前に種熟脱の三益についての議論は見当たらないようであるが、日有は三益について議論するだけではなく、それを六即に配立している。私にはその議論は八品派の日隆に影響を受けていると思われる。
2 日隆『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』における三益と六即
大石寺17世日精の『富士門家中見聞下』に日有の伝記が記されているが、そこに「釈の日有、俗姓は南条、日影の弟子なり、幼少にして出家し師の教訓を受け法華を習学し又御書を聴聞す。或る時、富士門徒化儀一百十五条を制作して門徒の法式を定む、又衆に対して本因立行の奥義を談す、此の義諸門徒に於いて独歩せり。又先師の旧業を継かんと欲し永亨四(壬子)(1432)富士を出で華洛に至り奏聞す、在洛の内、尼崎の日隆と相看したまふ、隆公四帖書を以て有師に進らす有師拝受して之れを見ず(其の書今に之れ在るなり)」(5-256)とある。日精の『家中抄』には、それまで「本因立行の奥義」についての言及はなかったから、日精は「本因立行の奥義」が日有から始まったと見なしており、それを「此の義諸門徒に於いて独歩せり」と高く評価している。そして八品派日隆との関係について「永亨四(壬子)富士を出で華洛に至り奏聞す、在洛の内、尼崎の日隆と相看したまふ、隆公四帖書を以て有師に進らす有師拝受して之れを見ず(其の書今に之れ在るなり)」(同)と述べている。日有が日隆から『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』を受け取り、その『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』が日精の時代には大石寺にあったと述べている。現在は存在していないようであるし、『富士年表』の1432年には日有が京に上ったことは記されているが、日隆との交流については記されていない。つまり日隆と日有の関係を隠蔽しようとする意図が見える。日精も日有が『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』を読まなかったと注記している。それでは一体日有はどこから「本因立行の奥義」を学んだのであろうか。日有以前の大石寺の住持で「本因立行の奥義」を述べた者はいなかったのだから、それについては説明する必要があるだろうが、どこにも説明がなされていない。とりあえず「三益と六即」に関する日有に先行する議論を日隆の『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』に探ってみよう。
日隆の『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』には次のようにある。
「流義に云く、権実釈をもって熟脱を顕わし、本迹釈をもって種子下種を顕わすなり。故に熟脱は迹中の所作なり。下種は常恒に過去にあり。諸御抄に「三五下種」と遊ばさるはこれなり。過去下種は必ず本門の得分なり。仍ってこの種・熟・脱を六即に支配する時、名字は下種の位なり。観行・相似は熟の位なり。分真・妙覚は脱の位なり。然るに止観は解・行の二なり。前六重の妙解はこれ名字即なり。この方便に依って妙行に至る。妙行は観行即なり。これ熟の位なり。この故に今日迹中一代の諸部の円妙を共同して、一箇の円頓止観と名づけ、像法の機の熟益を成ずるなり。日蓮大士は、六即は一即と習う時の一即をば名字即と相伝して、名字即をもって下種の位となし、而も過去に置いて本門本地の位と定めたまえり。この名字の位の実義を迹門止観にはこれを隠密して方便に属するなり。諸御抄の意は、この名字即をもって過去久遠の根本の位となす。四信五品抄この意なり。この抄に「一念信解とは即ちこれ本門立行の首め」と云えり。「本門立行の首め」は名字の位なり。この名字の信心は即ち三世の仏・菩薩の根本下種の深法なり。この名字の位をば迹中諸経に曾てこれを説かず、今経の本門にこれを説く。四信五品の中に一念信解の信と初随喜となり。この下種を顕わさんがために本迹釈を設くるなり。かくの如きの義勢をもって、両宗の不同を簡別すべきなり。」(出典は興風談所の御書システム)
日有の「名字の初心は種の位、観行相似は熟の位、分真究竟の脱の位なり」という表現は、日隆の『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』に影響されたと見てもよいだろう。また日有は「されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり」と述べているが、どの御書にそのようなことが述べられているのかは分からない。「八品」を強調するのは、『観心本尊抄』であるが、そこに「本門八品」と「題目の五字」が同意だという趣旨の表現は見当たらない。
3 湛然の『法華文句記』の「雖脱在現。具騰本種」についての日有の2種類の解釈
日有は三益を六即に配立した後で、湛然の『法華文句記』の「雖脱在現。具騰本種」を引用して、「脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐ(『法華文句記』「雖脱在現。具騰本種」34.0156c)と釈して脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是なり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり、仍つて迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則法華経の本意滅後末法の今の時なり」と述べて、A,「脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへるなり」ということと、B,「此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり」ということの二つを「雖脱在現。具騰本種」から導かれる結論であると述べているようだ。
Aの議論については、連陽房の日有「聞書」(文明八年(1476)五月廿三日 大円日顕之を相伝すとある)にも、次のようにある。「一、仰せに云はく・天台宗の、法華宗の立義は如何様に立てられ候やと問ひける程に、只我れ等が家(法華宗)には天台大師所判に立て候と云ふ時、其の所判如何と云ふ間た、雖脱在現具騰本種の釈を出すなり、其の故は後五百歳の今時に師弟共に三毒強盛の愚者迷者の上にして位・名字の初心に居して師弟相対して又余念なく南無妙法蓮華経と受持する名字は下種なり、此の下種に依つて終に脱するなり、さて何物を脱するぞと云へば本の下種を脱するなり、譬へば籾を何ともせずして指し置く処は種なり、 籾を田へ下す処は下種なり、さて其れが苗と成り菓を結ぶ処は熟なり、熟してはや刈り取って籾にする所は脱なり、去る間た脱すれば本種に成るなり已上。」(『富要』 2-147,8 )とあり、「脱すれば本種に成るなり」の意味は「師弟共に三毒強盛の愚者迷者の上にして位・名字の初心に居して師弟相対して又余念なく南無妙法蓮華経と受持する名字」の位に戻るということのようだ。つまり仏道修行において、脱すなわち成仏するということは重要なことではなく、「師弟共に三毒強盛の愚者迷者」が「名字の初心」において「師弟相対」して「南無妙法蓮華経と受持」することが重要であると日有は見なしている。ここには熟脱の修行は末法の愚者迷者の可能な修行ではないという日有の固い信念がある。初心の名字即から観行即さらには究竟即へと向上していくというプロセスを智者の修行として排除している。
4 湛然の『法華文句記』の「雖脱在現。具騰本種」の本来の意味
もともと湛然の「雖脱在現。具騰本種」という言葉は、智顗の『法華文句』のいわゆる四節三益(種熟脱の三益)と呼ばれる「且約三段示因縁相。①衆生久遠蒙佛善巧。令種佛道因縁。中間相値。更以異方便。助顯第一義。而成熟之。今日雨花動地。以如來滅度而滅度之。②復次久遠爲種。過去爲熟。近世爲脱。地涌等是也。③復次中間爲種。四味爲熟。王城爲脱。今之開示悟入者也。④復次今世爲種。次世爲熟。後世爲脱。未來得度者是也」(34.0002c)(且らく三段に約して、因縁の相を示す。①衆生は久遠に、仏の善巧に仏道の因縁を種えしむるを蒙り、中間に相い値いて、更に異なる方便を以て、第一義を助顕して、之れを成熟し、今日、花を雨らし地を動ぜしめ、如来の滅度を以て、之れを滅度す。②復た次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等、是れなり。③復た次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す。今、開示悟入する者、是れなり。④復た次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す。未来に得度する者、是れなり)という文章に対して付けたコメントの中にある。
そのコメントでは「今經本迹二門施化並異他經。此文四節良有以也。故四節中唯初二節。名本眷屬。初第一節。雖脱在現。具騰本種故名本眷屬。今不云是本者。以同在今始脱故也。本種近脱者。以彌勒不識發疑故來偏得本名。然現脱者若未得佛智。猶未能知種」(34.0156c、34.0157a)(今の経(法華経)は本迹二門の施化、並びに他経と異なるなり。此の文の四節良に以(ゆえ)あるなり。故に四節の中、唯初めの二節を本眷属と名づく。初めの第一節は、脱は現に在りと雖も、具に本種を騰ぐ。故に本眷属と名づく。今是れ本と云わざるは、同じく今に在って始めて脱するを以ての故なり。本種近脱の者、弥勒識らざれば、疑いを発するが故に来たるを以て偏に本の名を得。然るに現脱の者、若し未だ仏智を得ざれば、猶未だ能く種を知らざるがごとし。)と述べて、四種三益の第一節の釈尊在世で法華経を聞いて成仏した衆生について、その衆生を「本眷属」と呼ぶことの理由として、「久遠下種」を挙げる文の一部である。「本眷属」は智顗の『法華玄義』では第二節の「地涌の菩薩」に与えられる名称であるが、第一節の衆生も拡大解釈して「本眷属」と湛然は読んでいる。
だから湛然の議論では、「雖脱在現。具騰本種」は久遠の下種を受けて、釈尊在世で成仏した衆生のことを述べているだけで、日有がAの意味でこの文を使用するのは、もともとの意味を歪曲、逸脱していると云えよう。
5 日蓮の「雖脱在現。具騰本種」の引用
日蓮の信頼できる御書の中で「本種」で検索すると、「大田抄」(曾谷入道殿許御書 〔C0・文永一二年三月一〇日・曾谷入道・大田乗明〕 170 真蹟)に次のようにある。
「問うて曰く、華厳の時別円の大菩薩、乃至観経等の諸の凡夫の得道は 如何。答へて曰く、彼等の衆は時を以て之れを論ずれば其の経の得道に似たれども、実を以て之れを勘ふるに三五下種の輩なり。問うて曰く、其の証拠 如何。答へて曰く、法華経第五の巻涌出品に云く「是の諸の衆生は世々より已来、常に我が化を成就せり。乃至、此の諸の衆生は始め我が身を見、我が所説を聞いて、即ち皆信受して如来の恵に入りにき」等云云。天台釈して云く「衆生久遠」等云云。妙楽大師の云く「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ぐ」。又云く「故に知んぬ。今日の逗会は昔成熟するの機に赴く」等云云。経釈顕然の上は私の料簡を待たず。例せば王女と下女と天子の種子を下さざれば国主と為らざるが如し」
ここでは法華経以外の爾前経で得脱する者について議論する、「不待時」「あるいは『観心本尊抄』の「毒発」について、「雖脱在現。具騰本種」で説明されている。つまり爾前迹門無得道というBの意味で使用されている。
偽撰の御書には『御講聞書』『本因妙抄』『百六箇抄』『寿量品文底大事』などに引用されており、そこには例えば、『本因妙抄』には「雖脱在現具騰本種と云へり。釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時日蓮が名字即の身に移せり」とあり、「久遠名字即」の修行が末法日蓮の名字即の修行であるということが述べられ、『寿量品文底大事』には「文の底とは他門徒に於ては、平文面には様々の料簡を為すと雖も、聖人の御本懐に於ては全く知らざる者なり。所謂 文の底とは久遠下種の法華経、名字の妙法に今日熟脱の法華経の帰入する処を志し給ふなり。されば妙楽大師釈して云く「雖脱在現 具騰本種」云云。今日霊山会上の熟脱の法華経は我等が得分に非ず。断惑証理の聖者、三周得悟の為なり。さて下種の法華経は久遠名字の妙法なり。然るを日蓮聖人本因妙の修行の手本として、妙法蓮華経の五字を余行に亘さずして下種し給ふ者なり。一毫未断の我等末代嬰児の一切衆生、妙法の名字を聞いて持つ処に即身成仏を遂ぐるなり」とあり、熟脱を「断惑証理の聖者、三周得悟の為」とし、「下種の法華経は久遠名字の妙法」であり、「一毫未断の我等末代嬰児の一切衆生」の為めであるとする。ここには未断或のまま即身成仏するというAの思想が見られる。
だから少なくとも日有のAの解釈は、日蓮の御書から導かれたものではないといえる。
6 日隆『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』における「雖脱在現。具騰本種」の意味
それでは日有はどこから「雖脱在現。具騰本種」をAの意味で使用することを学んだのだろうか。そもそもは日有は日隆『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』における三益と六即の配立を学ぶ中で、「雖脱在現。具騰本種」を使用しているのだから、日隆の『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』の中に、何か手がかりがあるかもしれない。
6-1 「第三の法門」との関連
『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』を「本種」で検索してみると、まずは『稟権抄』(富木入道殿御返事 〔C0・弘安二年一〇月一日・富木常忍〕 310 真蹟)の「第三の法門」に言及した箇所で次のように述べている。
「この上に第三本門をもって迹門・爾前を見れば皆悉く無得道なり。所以に迹門・爾前の脱益を、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」して、現在の脱益を去って久遠下種を取り、これをもって迹中の三五七九の衆生を見下せば皆悉く久遠下種のものなる間、本門成仏の得分と成って迹門無得道なり。観心抄に云く「爾前迹門の円教すら仏因と成らず」と云えり。あるいは、一品二半より外は未得道教云々。その外、法蓮抄・稟権抄・大田抄の初め、これを見るべし云々。(中略)文句の第一に云く、「衆生久遠に仏の善巧を蒙り仏道の因縁を種えしむ。〈中略〉今日に雨花動地して、如来の滅度をもってこれを度脱したまう」云々。妙楽これを受けて、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ。故に本眷属と名づく」と判じたまえり。これ等の諸文の意は、今日迹中の爾前迹門の間、塵数の菩薩・万億の諸大声聞の分真・妙覚の位に至る事は、更に今日一期の功に非ず。久遠に妙法を下種せしその下種の功に依って今日の脱益を得る間、久遠下種に随うれば本門の得道にして本眷属と成るなりと釈する処は、迹門無得道疑いなきものなり。これは玄義第一の三種教相の中の第三の意なり。これに依って稟権抄(富木入道殿御返事 〔C0・弘安二年一〇月一日・富木常忍〕 310 真蹟)に、「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽も粗これを示せども、未だ事畢らず。所詮、末法の今に譲り与うるなり。後五百歳はこれなり」と判じたまえり。日蓮宗として爾前迹門は無得道・諸宗は堕獄と云う折伏は、本門第三の上より云う法門なり。又この第三より大通下種を照せば即ち久遠下種なり。故に大田抄(曾谷入道殿許御書 〔C0・文永一二年三月一〇日・曾谷入道・大田乗明〕 170 真蹟)に「三五下種」と判じたまえり。この三五下種は即ち五味主なり。謂く、この三五下種の本より中間・今日の熟脱の五味を垂るるなり。仍って当宗に五時四教を沙汰するは三五下種を顕わさんがためなり。故に五味主の教時とも、三五下種の教門とも、本門五時四教とも云うべきなり。諸御抄をこの意をもってこれを拝すれば、狐疑氷解して明朗なるべきなり。」
ここでは日有のB,「此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり皆本門の益なり」すなわち「迹門無得道」の議論として引用している。
6-2 「本因・本果」との関連
次に『開目抄』の「本因・本果」の議論と関係して、次のように述べている。
「更に真の大王にあらずと廃迹顕本したまえば、仮立の十方諸仏は消滅して悉くこれなくば、その諸仏の九界二乗王子とその諸仏の円理実相の妃と相つれて、過去久遠本上の王宮に登り、本の如く十如実相の妃母と久成釈尊の大王の父と冥合して、十方法界より来れる王子は、元と大王の父と実相の妃母と和合して父の種子を下して王子を誕生してより已後、第二番已下始覚諸仏の土民が養育して熟・脱を成じ、脱する時、「脱は現に在りと雖も、具さに本種を騰ぐ、故に本眷属と名づく」して、又過去久遠に来って、「これ実に我が子なり、我実にその父なり」して父子天性を成じ、十界久遠成道を唱うる時に二乗作仏も決定して、而も本覚の二乗九界は久遠の本仏界に冥し、本仏界は無始の九界に具して、真の十界互具・百界千如・一念三千を顕わすなり。」と述べて、四節三益の第一節の衆生について述べて、湛然の『法華文句記』のコメントを繰り返している。
6-3 「久遠本因妙の下種」との関連
次に久遠本因妙の下種について次のように述べている。
「次に衆生の下種・熟・脱に約して本門の六即を論ぜば、娑婆界の一切衆生は久遠本因妙の時に修性に下種を成ず。本因妙の教主は仏眼をもって十法界を照すに、十法界は悉く仏性を具せり。仏性とは本有の三因なり。観心本尊抄に爾前の権経を指して、「本有の三因これ無し、何をもってか仏の種子を定めん」と云えり。本有の仏眼をもって衆生の本有の仏性を照せば、能照の仏をもって父となし、所照の衆生をもって子となし、始めて父子の天性を結ぶ。二・六の経文に「悉くこれ吾が子なり、我もまたこれ世の父」と云えるはこの意なり。釈に云く云々。衆生に修徳の下種を成ずるとは文句の第一の四節の釈の下に分明なり。その中に久遠をもって種となし、中間・今日前四味をもって熟となし、法華を脱となす。この意をもってこれを消すべし。久遠本因妙の時、「あるいは知識に従いあるいは経巻に従う」して菩提心を発して下種を成じ、名字の信位に叶う。あるいは涅槃妙流通の時、本門上行要付の座に在って上行の能化より始めて妙法を聞き、久遠本因妙の名字の位に住して始めて下種を成ずるをもって本門となすなり。この本より大通十六王子釈尊の迹を垂るる時、覆講法華の流通の座にして本門の体外に観行即を経て、その後中間に本門の体外に相似即を置いて相似即の内の見思に蔵・通の名を立て、世々番々に三蔵をもって調熟せしめ、乃至今日寂場華厳の座に至って猶を本門の相似を体外に経て、葉中三蔵の仏の見思断の一辺を拝見し、又阿含に至って本門の相似を体外に経て、似位の内の見思を体外の三蔵に取り、又方等に至って本門似位の内の無生の見思を体外の通教に取り、又般若に至って本門似位の内の無量の見思・塵沙を体外の別教に経る。次に法華に至って久遠の分真を本門体外の迹門に経て、初住に至って無明を断じ中道を証して仏知見を開き、開示悟入の益を得て住・行・向・地に叶い、「遊於四方直至道場」して等妙の二覚までこれを極め、軈て仏の長寿を聞いて猶進みて今説の本門の妙覚に入るかと思いてこれあれば、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」して、現在脱益の妙覚をもって妙覚を改めず、軈て妙覚に即して久遠本因妙の名字即に還入して、又本の久遠の父大王の釈尊を還り相(み)て、釈尊の父と迹中諸円の王女の母とは父母境智冥合して、境智冥合の父の本の種子と迹中今参りの三乗脱益の王子とは種脱一致して、初めの久遠の本種子を還り継ぎて、真実に王子と成って久遠成道を唱えしなり。」
ここでは「本因妙の教主」について言及しているが、これは父である「能照の仏」であり、「涅槃妙流通の時、本門上行要付の座に在」る能化の「上行」とは別の存在である。重要なのは「「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」して、現在脱益の妙覚をもって妙覚を改めず、軈て妙覚に即して久遠本因妙の名字即に還入して、又本の久遠の父大王の釈尊を還り相(み)て、釈尊の父と迹中諸円の王女の母とは父母境智冥合して、境智冥合の父の本の種子と迹中今参りの三乗脱益の王子とは種脱一致して、初めの久遠の本種子を還り継ぎて、真実に王子と成って久遠成道を唱えしなり。」とあるように、「現在脱益の妙覚をもって妙覚を改めず、軈て妙覚に即して久遠本因妙の名字即に還入」するのであり、日有のように「妙覚」を去って「久遠本因妙の名字即に還入」するのではないということである。日有は「種勝脱劣」の考えであるが、日隆は「種脱一致」の立場を採用している。
6-4 「本因勝本果劣」との関連
日隆は本因勝本果劣について次のように述べる。
「法華経には過去常並びに「種子無上」を明かし、過去の本地を顕わして迹中の一切衆生の得脱極まれば、「脱は現に在りと雖も具さに本種を騰ぐ」して、今日の等・妙の脱益をもって久遠本因妙下種に還って、種脱・凡聖一如に冥符して久遠地涌の成道を唱うと云うは、即ち本覚の成仏なり。かくの如く、本門本覚の御経に元意の大法を説くなり。所謂、元意の大法とは本門八品上行要付の南無妙法蓮華経なり。玄の一に云く「この妙法蓮華経とは本地甚深の奥蔵なり」と云えるはこれなり。この「本地」と云い、「甚深」と云い、「奥蔵」と云うは、本門において弥よ久遠なる所を指すと覚えたり。経にも本果より猶本因妙をば「復倍上数」と云って、久遠の上の久遠と説きたまえり。これに依って籖の十に云く、本門は本因をもって元始となす云々。本果より猶本因妙をもって終窮の本門となすと見えたり。故に知んぬ、本地甚深の本地は本因妙なり。この本因妙は名字即なり。」
しかしここでも「今日の等・妙の脱益をもって久遠本因妙下種に還って、種脱・凡聖一如に冥符して久遠地涌の成道を唱うと云うは、即ち本覚の成仏なり」と述べて、「種脱・凡聖一如」の立場を崩すことはない。
以上みてきたように、日隆には、日有のBの解釈はあるが、Aの解釈はなく、むしろAを否定して、脱益・妙覚を維持したまま本因妙の名字即に戻るという解釈をしている。
7 日有あるいは日要の「雑雑見聞」における日隆批判
日有と、その年少の同時代人である保田妙本寺11世三河阿闍梨日要の聞書が混在している「雑雑見聞」には次のような日隆批判がある。
「一、仰せに云はく・尼ケ崎流には何れも中々に尚里近く成りにけりと云ふ歌を以つて教弥実位弥下の名字本覚を書きたまふなり(『法華天台両宗勝劣抄』に「所謂、末代と名字と信心と口業と事行と折伏と経力と悪人と本迹と事円と云うは皆悉く事相なり。事相即ち有門なり。有門は独り末代本門流通の悪人相応の門なり。この有門は四門の中には最勝の門なり。然るを釈尊は本門流通末法の朽木書のために、阿含三蔵の時、毘曇劣なりと雖も、而もこれ仏法の根本なりと本門密意の朽木書を示せり。有門の相をば「三世実有法体恒有」と、本門三世常恒の密意の朽木書を示し、軈て通・別・円、爾前・迹門と経登りて本門に入り、三千本覚の旨を聞いて随縁本有三世常恒と悟りて、立ち還って迹門・爾前を見れば、「中々に猶里近くなりにけり、あまりに山の奥を尋ねて」と発得して、本門の悪人成仏の実義は即ち阿含三蔵の有門の底に隠密して置きたまえり。」とある)云云、是れをば富士門流の義には智者の解行と心得べきなり、其の故は此の歌の意は世を厭ひ山の奥を尋ぬる時・余りに深く尋ねて本の里に出でたり、故に是れは賢人の上と聞えたり、此の分は在世の脱機が爾前迹門と打ち登り断惑証理して具謄本種して名字妙覚の悟を開くの分と聞えたり、故に智者の解行なり、さて日興門流の意は山とも・里とも・奥ともはしとも弁へず、但不知不覚の愚者の当位なり云云、此の時は天地水火の相違なり云云。」(2-165)
この聞書が日有のものか、日要のものかは、不明であるが、名字即と妙覚との関係について、日隆と日興門流との解釈の相違について述べている。日隆においては既に述べたように脱における妙覚を維持したまま名字即に還るのであり、そのことを「在世の脱機が爾前迹門と打ち登り断惑証理して具謄本種して名字妙覚の悟を開くの分と聞えたり、故に智者の解行なり」と述べている。それに対して日興門流で名字即に戻る時には、「但不知不覚の愚者の当位」のままであるとする。そして智者と愚者との相違に関して「天地水火の相違なり」と述べる。
8 日要の「大田抄聞書」(曾谷入道殿許御書)における日隆の「一仏二名論」批判
日要は積極的に日隆から学んでいるが、それでも日隆との相違を自覚して次のように述べている。
「尼崎流ニ釈尊・上行ハ一仏ノ二名也。熟脱ノ時ハ釈尊ト名乗リ、サテ種ノ時ハ末法日蓮ト名乗リ玉フト矣。是迄ハ当流ノ意ト之同ジ。但シ其ノ釈尊・上行ノ実体未ダ顕ナラザル者也。当流ノ意ハ釈尊・上行ト者、過去ノ信ヲ由テ正種ヲ退(帯)スル機ヲ世々番々ニ釈尊出世成道シテ調熟シ、今日寿量ニ現脱スレハ軈テ過去ノ本種ニ還ルヲ云フ也。仍テ雖脱在現具騰本種ト矣。本種ニ移ル(尼崎流)ト云フト還ル(当流)ト云フトハ大ニ不同也。当流ノ意ハ本種ニ還ルト云フカ正意也。如次教〇下(「教弥権なれば位弥高く、教弥実なれば位弥下し」(湛然『止観輔行伝弘決』46.0353b))ト云フハ、其ノ位ノクタ(下)ルニハ非ス。教〇高ノ故ニ教カ実ナレハ位下シト云カ正意也。(中略)円教ハ下機ヲ摂スト矣。」(御書システム)
日要はここでは「本種に移る」(日隆)と「本種に還る」(当流)との相違として議論を展開している。そして湛然の『止観輔行伝弘決』の「教弥権なれば位弥高く、教弥実なれば位弥下し」を引用して、高い教である円教は位の低い下機の衆生(愚者)を救うことができ、低い教えである権教は、位の高い上機(智者)を救う事しかできないとして、日隆と当流との相違を語る。
だがそれにしても、脱の妙覚から、愚者の名字即の本種に還ることが即身成仏であるという議論はなかなか理解しがたいことでもある。どこからそのような考えが生じたのかはまだ不明である。
9 檀那流の恵光房流の秀範の『恵檀両流秘決上下』の「心は理即より等覚へ登り、等覚より又立ち帰りて昔の理即へ入るを即ち妙覚と云うなり」について
鎌倉後期から、南北朝、室町時代の中古天台の資料について、いろいろと調べていたら、『興風叢書17』に、檀那流の恵光房流の秀範の『恵檀両流秘決上下』という文献が翻刻されていた。中古天台の文献は、いつ作成されたのか不明なものが多い中で、珍しく、徳治三年(1308)に執筆されたということが、識語に書かれている。
日蓮は1282年に示寂し、日蓮七回忌の翌年1289年に日興が身延山久遠寺を離れ、1292年(?)頃に六老僧の一人日頂は、義父富木常忍から義絶され、真間弘法寺を追われ、重須近辺に移住し、1293年には北条氏の身内人筆頭である平頼綱父子が謀反により誅殺され、日持は1295年に海外布教に出かけ、1298年日蓮の十七回忌の年に日興は大石寺から重須(現在の北山本門寺)に移り、1299年に富木常忍(日常)は亡くなり、1300年には日頂の弟日澄が日向と義絶し、日興の下に帰参し、1303年には極楽寺良観が亡くなり、1313年には日向は日進に久遠寺を譲り、翌1314年は日蓮の三十三回忌であるが、中山日高、日向が相次いで亡くなり、1317年には日頂が亡くなり、1320年には日朗が亡くなり、1323年に日昭が103歳という高齢で亡くなり、最後の六老僧である日興が1333年に亡くなり、建武の中興が始まるという時代の流れである。
秀範は檀那流の恵光房流に属するが、恵心流の相伝をも熱心に収拾し、恵心流と檀那流との血脈を河田谷真(心、信)尊から受けた文献を記しており、関東における恵心流の拠点である武蔵仙波周辺で伝授されたと思われる。その中に「恵心流諸箇大事」として、「伝に聞く、此の流一千七百大事立つ。但し根本に於て七箇等を出でず。七箇とは、一に一心三観、二に無作三身、三に常寂光土義、四に鏡像円融、五に蓮華因果、六に四句成道、七に証道八相」(p. 47)とある。
この「七箇大事」は俊範―静明―心賀と相伝され、尊海に口伝されたものを、同学の一海が筆録した『一流相伝法門見聞(二帖抄)』(『天台本覚論』所収、p. 288,289)と比べると、後者では、「山家四箇の大事とは、一心三観(境の一心三諦、智の一心三観)、心境義(一念三千)、止観大旨(宗旨、宗教)、法華深義、口伝に云く、法華深義より略伝三箇の大事を開出す。略伝三箇の大事とは、一、円教三身(証道八相、四句成道)、二、常寂光土義の事(事理寂光の習いなり)、三、蓮華因果(本迹不同、被接法門)」とあるのに比べると、まだ整束していないことが分かる。
秀範は「常寂光土義」の中で、「口決に云く、常寂光土義とは浄土は浄土ながら、穢土は穢土ながら、其の体動かずして当体即ち寂光なり。当位即妙不改本位之を思え。天台の云く、一切国土の依正は即ち是れ常寂光なり。一切の言は浄穢に亘る。知んぬ、浄穢の依正倶に当体を動かず。即ち諸仏内証は寂光と云うことを。六即の中、始本二覚を出でず。謂く、理即は本覚、名字已去は始覚なり。但し究竟即は始本不二なり。仍て等覚の後心(妙覚=究竟即)に至りぬれば、返って昔の理即へ入る。若し始覚を得れば還って本覚に同ず。又云く、入重玄門して寂光土に居る。之を思い合すべし。止の一に云く、等覚一転妙覚に入る(46.0010c)。言う、心は理即より等覚へ登り、等覚より又立ち帰りて昔の理即へ入るを即ち妙覚と云うなり。故に理即は究竟即の入眼なり。仍て理即は究竟即に勝りけりと云える口伝即ち是なり。我等凡夫の生死古郷の邪邪の地無くば、何に依りてか諸仏は円満界の内証に叶う。還って生死の古郷に住むを三徳秘蔵に入ると名づけるなり。迷う即ち三道の流転、悟る則ち果中の勝用なり。之を思え。」(p. 48,49)とある。
ここには理即という修行前の衆生の心が、妙覚=本覚であり、名字即から始まる修行が至る究竟即=妙覚は初めの理即に戻るという考えが示されている。ここでは理即が究竟即よりも勝れているという議論も見える。
日有と中古天台との関係については、文明四年(1472)に執筆された『下野阿闍梨聞書』に「我は十六歳の時・常陸国村田と云ふ所にて二帖の書を相伝す」(2-155)とあり、天台宗の学問所で、二帖抄(『一流相伝法門見聞』)を相伝するほど早熟であったことが記録されている。日有が授与された二帖抄(『一流相伝法門見聞』)も日隆から授与されたという『法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)』も大石寺には残っていない。ただ『下野阿闍梨聞書』には次のように関東天台の中心地の仙波で天台宗の学僧と問答したことが記録されている。
「一、仰せに云はく・仙波の備前律師と云ふ様は、法華宗は名字の下種にして受持の一行なる旨若干云ふ時、律師云はく種子と云ふ理即本法の処が正種子にて之れ有り全く名字の初心にて之れ無しと云云、仰せに云はく・其れは智者の種子なり其の故は理即とは一念の心即如来蔵理にて理なる間だ・仏の意の種子なり、此の理即本法の種子を名字の初心にして師弟共に三毒強盛の凡夫にして又余念無く受け持つ処の名字の下種なり、理即は但種子の本法にて指し置きたるなり・理即にて下種の義は意得ざるなり、下種と云ふは師弟相対の義なり、去る間だ下種と云ふは名字の初心なり、此くの如く事迷の当躰にして又余念無く南無妙法蓮華経と信ずる処が即釈尊本因妙の命を次ぐ心なり、尚次ぐと云ふも麁義なり只釈尊の妙の振舞なり、されば当宗は本因妙の処に宗旨を建立するなり、然りと云つて我が身を乱達に持つを本と為すべからず、さて当宗も酒肉五辛女犯等の誡事を裏に用ゆべきなり・是れは釈尊の果位の命を次く心なり、惣じて当宗は化儀化法とも事迷の所に宗旨を立つるなり、化法化儀共に押しとをし得意る事大切なり、止観は天台の像法の時の修行にて理なり、然りと雖も止観にも事理を沙汰するも止観の事理は事理共に理なり、其の故は止観の事は理観の所具所開と成る故に事理共に理なり云云。仰せに云はく・惣じて我等凡夫名字初心にして余念の事も無く南無妙法蓮華経と受け持つ処の受け持つ処の受持の一行・即一念三千の妙法蓮華経なり即身成仏なり、其の故は釈尊の本因妙の時も妙法蓮華経の主と成りたまへば仏なり、師弟共に三毒強盛の凡夫にして又余念も無く受持すれば即ち釈尊の如く妙法蓮華経も別躰無し即信の一字・即身成仏なり妙法蓮華経なり、去る間信ずる処の受持の一行当機益物なり、然れば修一円因の本因妙の処に当宗は宗旨を建立するなり、はや感一円果の処は外用垂迹なり智者なり理なり全く当宗の宗旨は非るなり。」(2-153)
ここには天台宗の学僧備前律師が理即の本種子を重視するのに対して、日有がその種子を下種する名字即を強調するという議論を展開している。この議論の背景には秀範の『恵檀両流秘決上下』で展開された「心は理即より等覚へ登り、等覚より又立ち帰りて昔の理即へ入るを即ち妙覚と云うなり」ということも念頭に置かれていると思われる。日有は「師弟共に三毒強盛の凡夫」ということを強調して、「感一円果の処は外用垂迹なり智者なり理なり全く当宗の宗旨は非るなり」と述べて、「感一円果」という成仏に関しては、「当宗の宗旨は非るなり」と否定している。
10 日我『一流相伝大事私』の「台家は理即本覚、当家は名字本覚」について
日有より百年ほど下るが、妙本寺14世日我に『一流相伝大事私』という中古天台の『一流相伝法門見聞』に日我のコメントを加えた著書が残っており、『興風叢書7』として翻刻出版されている。
『一流相伝法門見聞』には最初に広伝「四箇大事」の「一心三観」の「境の一心三諦」が論じられているが、「三諦」は、『法華玄義』『法華文句』によれば、五重に分類でき、『摩訶止観』によれば四重に分類できるとする。その五重の三諦とは、「易解の三諦」「得意の三諦」「円融の三諦」「複疎の三諦」「不縦不横の三諦」である。五番目の「不縦不横の三諦」は「不思議の三諦」とも「実相の三諦」とも呼ばれるとしている(日本思想体系9『天台本覚論』p. 290)。
日我の『一流相伝大事私』では第五の「不縦不横の三諦」はさらに「本性の三諦」とも呼ばれるとしている。そして『一流相伝大事私』では日本思想体系9『天台本覚論』の『一流相伝法門見聞』では論じられていない「六即」について言及し、「此の本性の三諦の位をば六即の中には何の位にて習うべきやと云うに、理即本覚の内証にて習うべきなり。然りと雖も、今五箇の三諦を止観に臨むる時は、名聞妙解の位なる故に名字即と落居する已上。私に云く、台家は理即本覚、当家は名字本覚。之を習うべし」(p. 18)と述べている。『天台本覚論』に収録されている『一流相伝法門見聞』よりもさらに後代に添加が生じた『一流相伝法門見聞』を日我が相伝し、それに私注を加えたと思われる。
「本覚」の状態が「理即」であるならば、「理即」に還帰することが目的となるし、「本覚」の状態が「名字即」ならば「名字即」に還帰することが目的となる。日有も日我も「名字即」の状態が、末法の衆生の「本覚」、即ち本来の姿であるとして、名字即を離れて別の状態に行くことを否定している。
11 日要の『御書見聞抄』の「久遠元初ノ自受用」について
日要は『本因妙抄』の「彼れは応仏昇進の自受用報身の一念三千・一心三観、此れは久遠元初の自受用報身、無作本有の妙法を直に唱ふ」から、「応仏昇進の自受用報身」と「久遠元初の自受用報身」とを対比して、末法の修行について論じる。
「新(池)尼御抄下」には「神力品ニ至テ八品ノ上行要付シテ爾時仏告上行ト云テ、塔中ニハ釈尊モ久遠本因妙名字信心釈迦ト成テ、要付ノ南無妙法蓮華経ヲ唱ヘ出シ玉ヘハ、上行菩薩モ不知不覚ノ信者ニ成リ替テ、信心ノ手ヲ合テ南無妙法蓮華経ト唱ヘ移シ、名字信心ノ師弟相合テ受持此経ノ化儀化法ヲ顕シ玉フ也。是ヲ久遠元初ノ自受用トハ云也。此事ヲ説キ極メ玉ハンカ為ニ宝塔品ニシテ三身ノ所表ヲハ顕シ玉フ也。是ヲ宝塔品ヨリ事起テ寿量品ニ事顕シ神力品ニ事ヲ極玉タル也(『新尼御前御返事』)。サテ亦々高祖聖人此ノ如ク宝塔品ヨリ此ノ方ノ本尊ヲ末法流通ノ本尊ト経ト御覧シケルハ、御本尊意如何様成ヤラント申候ニ、所詮宝塔品ノ説相見レハ為聴法華経・為聴是経等ト宣テ、多宝・十方分身ノ諸仏等ノ来リ玉フ事、真実ハ此妙法蓮華経ヲ聴聞シ玉ハンカ為ニ来リ玉フト見タル也。是即聞即信行、解即法行・名字是聞、観行是恵ノ道理、又聞法為種ノ道理ナルカ故、滅後末法ノ名字是聞ノ下種ノ即身成仏ヲ顕シテ末法本尊ト成リ玉ハンカ為也」(御書システム)と述べている。
師匠の「釈尊モ久遠本因妙名字信心釈迦ト成」り、弟子の「上行菩薩モ不知不覚ノ信者ニ成」り、「名字信心ノ師弟相合テ受持此経ノ化儀化法ヲ顕」すのが、「久遠元初ノ自受用」であり、このことが「滅後末法ノ名字是聞ノ下種ノ即身成仏ヲ顕」すとする。下種の即身成仏は久遠実成釈尊の脱の成仏とは全く異なることを言外に示している。
さらに久遠元初の釈尊と上行との師弟相対の名字即の修行関係を久遠元初の自受用と述べるだけではなく、日蓮と日興の関係を、釈尊と上行の関係にパラレルに、「中務殿御書下」(四条金吾釈迦仏供養事 〔C2・建治二年七月一五日・四条金吾〕 220 真蹟)で次のように述べる。
「神力結要付属ノ受持此経ノ師弟ノ化儀即無作ノ三身也。然間、日蓮聖人ノ上ニテ此三身ヲハ落居スベキ也。其故ハ日蓮聖人ノ此妙法蓮華経ヲ唱ヘ出シテ授ケ玉フハ即本地難思ノ智父報身釈迦也。弟子日興手ヲ合セ、此妙法蓮華経ヲ受取玉フ方ハ即本地難思ノ境母多宝尊形法身也。サテ是ヲ弟子檀那等ニ向テ次第々々ニ唱ヘ移ス方ハ分身ノ義ニシテ然モ応身也。サレハ百千万人乃至草木等ニ至迄、如此功徳預ル方ハ、皆唯我与我計ノ日蓮・日興(『本因妙抄』「唯我〈日蓮〉与我〈日興〉計りなり」)ノ師弟ノ能徳事行ノ妙法蓮華経即是ヲ久遠元初ノ自受用ト御口伝スル也。此日蓮三身即一身ノ報身ニシテ即滅後末法主師親三徳有縁ノ本尊ニシテ御坐ス也。仍開目抄下巻ニ、日蓮ハ日本国ノ一切衆生ノ主師父母也ト結成シ玉フハ深秘々々也。」(御書システム)
ここでは師匠の日蓮が「智父報身釈迦」、弟子の日興が「境母多宝尊形法身」、その弟子檀那が「分身ノ義ニシテ然モ応身」とされ、、これを「久遠元初ノ自受用」と口伝するが、その口伝の論拠として『本因妙抄』の「唯我与我」であるとする。これは当時の大石寺や保田妙本寺の別体三宝の本尊奉安様式(中央に法宝の大曼荼羅、向かって左に仏宝の日蓮御影像、向かって右に僧宝の日興御影像)を反映した表現とも思われるが、久遠元初の儀式が末法に移されていると日要は理解している。
同様の事は日有と日要の聞書が混在している「長禄二年(1458)初春の比・筑前阿闍梨日格・登山の時・日有に尋ね申す法門なり秘事なり」という識?がある「日格聞書」(「日格」は「日拾」と読むべきか)には次のようにある。(堀日亨は「日要」とある聞書を除けば、日有の聞書と判断している)
「一、仰せに云はく上行菩薩の御後身・日蓮大士は九界の頂上たる本果の仏界と顕れ、無辺行菩薩の再誕・日興は本因妙の九界と顕れ畢りぬ、然れば本果妙の日蓮は経巻を持ちたまへば本因妙の日興は手を合せ拜したまふ事・師弟相対して受持斯経の化儀・信心の処を表したまふなり、十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以つて結帰するなり、衆生の無辺なる方をば無辺行菩薩の後身日興の本因妙に摂し、三界の独尊の方をば本果の日蓮と決定すれば、十界を本因本果の因果の二法と決定するなり之を秘すべし云云」(2-160)
ここでは、久遠元初の自受用という『本因妙抄』由来の表現はないので日有の聞書と思われるが、日蓮を「本果の仏界」とし、日興を「本因妙の九界」として、「師弟相対して受持斯経の化儀・信心の処を表」すとしている。そして「十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以つて結帰するなり」と述べて、日蓮ー日興の師弟関係に、「本因本果」の姿が示されるとしている。
12 日舜書写の『報恩抄』の文について 上行=妙法蓮華経の思想
「連陽房聞書」に次のような文がある。
「当宗御門徒の即身成仏は十界互具の御本尊は当躰なり、其の故は上行等の四菩薩の脇士に釈迦多宝成りたまふ所の当体大切なる御事なり(報恩抄)、他門徒の得意には釈迦多宝の脇士に上行等の四菩薩成りたまふと得意て即身成仏の実義を得はづしたまふなり、去れば日蓮聖人御筆に曰はく一閻浮提の内・未曽有の大漫荼羅なりと云へり、又云はく後五百歳に始たる観心本尊とも御遊ばすなり、上行菩薩等の四菩薩の躰は中間の五字なり、此の五字の脇士に釈迦多宝と遊ばしたる当躰を知らずして上行等の四菩薩を釈迦多宝の脇士と沙汰するは、中間の妙法蓮華経の当躰を上行菩薩と知らざるこそ、軈て我が即身成仏を知らざる重で候へばと御伝へ之れ有りと云云。」(2-140)
大石寺に伝わる下之坊日舜が書写した『報恩抄』には「一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂 宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」とあるべき文が、「四菩薩」が脱落して、「所謂 宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の脇士となるべし」という文になっている。この文では「釈迦・多宝・外の諸仏」が「上行等の脇士となるべし」ということになり、『観心本尊抄』「本尊段」で「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩」と述べていることと逆の表現になっている。さすがに『観心本尊抄』で、釈尊の脇士が四菩薩であると述べていると矛盾しているので、四菩薩=中尊の妙法蓮華経として、その妙法蓮華経の脇士として釈尊多宝がいるという解釈を施しているが、ここでは上行=日蓮が釈尊より上位であるという考えが明瞭に示される。しかし問題は四菩薩=中尊の妙法蓮華経という解釈が日蓮教学においてどのように正当化されるかということになるが、そのことについての言及はない。日有にとっては日舜写本の『報恩抄』に「所謂 宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の脇士となるべし」とあることが重要であった。
日有の影響を受けた左京日教の『類聚翰集私』(1488年)には次のようにある。
「しかるに報恩抄の事は、釈迦・多宝を上行等の四菩薩の脇士とあそばすを、日向・日頂が御書をカタカナまたは漢字に書きなすより、御文言をも書き失へり。当宗にくら(闇)かりけるか。三箇の法門を悪しくとりなして、宝塔の中の釈迦・多宝、上行等の菩薩を脇士とすべしと書けり。「の」と「を」とのかな一つの違いなり。本御書のかなまじりなるをカタカナにす。私語を備えたり。他門徒の御書には、在世の釈迦を本尊とすると思いてかきなせるか。本門三箇の秘法は寿量品の文底に秘し沈め玉へり」(2-313)
つまり釈迦・多宝よりも上行を上位に奥ということが他門流との決定的な相違と日教も見なしていたことが分かる。この上行=日蓮勝、釈尊劣という思想がいつ頃から生じたのかは分からない。『富士年表』には日舜の『報恩抄』の書写は5世日行時代の1362年だとしている。6世日持は1388年に日蓮御影を造立しているから、この頃には、上行=日蓮勝、釈尊劣という思想が生じていたのかもしれない。しかし、それをどのように教義的に正当化するかということは、十分には成熟していなかったことは、日有の上行=中尊の妙法蓮華経の議論に表れている。日隆から上行=本因妙の議論を学んでからは、種脱の議論で、日蓮=下種の教主、釈尊=脱益の教主という議論が定型となる。
13 上行の位の評価の変化
日時の『御伝土代』には薬王菩薩の後身天台大師と、上行菩薩の後身日蓮とを比較して次のように述べている。
「本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり、迹門の教主を尋れば大通以来三千塵点始成の迹仏なり、教ハ是レ法華経の前十四品迹門也、弘通の時を云へば像法の御使いなり、付嘱を云へば四巻法師品にして迹門の付嘱を稟ケ給フ、因薬王菩薩告八万大士乃至薬王在々処々(法師品第十)ト云云、勧持品にして本門弘経を申シ給フと云へども、涌出品にして止善男子と止められ給ふ、上行菩薩をめしいだされ候、その機を論ずれば此ノ菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。
日蓮聖人云ク本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子なり」(5-10,11)
つまり天台大師は「徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫」という低位であり、日蓮は「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首」という高位であるという対比である。
ところが日有になると「雑々聞書」には、「日有の云はく・仮令ひ地涌の菩薩なりと云ふとも地住已上の所見なれば末法我れ等が依用に非ず云云」(2-163)とあり、「地住已上」の高位にある地涌の菩薩は「末法我れ等が依用に非ず」として、排除する。法華経涌出品の地涌の菩薩は経文に「是諸菩薩。身皆金色。三十二相。無量光明」と説かれ、高位の菩薩であることは明瞭であり、6世日持までそのような日蓮=上行の位についての理解が維持されていたが、日有になると、名字即=愚者が強調される。
日蓮の著作で名字即を強調するのは『四信五品抄』であるが、そこでは次のように述べている。
「問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位 如何。答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・磨・導等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずる事勿れ。進みて過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり。豈に煕連一恒の者に非ずや。退きて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓に纏はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」
日蓮は名字即の位の無解有信の弟子の位をいつまでも低位のままであるとは見ていなかった。日有が脱の後に名字即の愚者に還るとする思想とは大きく隔たっていると思われる。
14 小結
日有『化儀抄』の「脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへる」という文の意味について、気になってあれこれ調べてみたが、末法の衆生の機根が劣悪で愚者であるということは、それなりに納得できることであり、信心口唱が根本の一行であるということも日蓮教学から見れば、納得できることである。しかしながら「脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかへる」という日有の主張の論拠については明確には分からない。ただただ日有の人間不信の信念が見えるだけである。
「有師物語聴聞抄佳跡上」に次のような記述がある。
「一、本書曰、日有上人の仰に云く、天竺には祇薗精舎を寺の元とす、唐土にては白馬寺を寺の始とす、伍朝にては難波の四天王寺を初として候、其の上釈尊出世の本懐たる末法修行の寺に於ては未だ三国に立ち候はざる処に此の富士大石寺は上行所伝の題目弘通寺の元にて候、柳袋の彦次郎地頭方より得銭をかけられて候間、此大石が原と申すは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得にて候処を、公事迄かけられて候事、末代大切なる子細にて候間此の沙汰を成ぜんが為めに三人の留主居を定めて候えば如何様の思案候ひけるや、留主居此の寺を捨て除き候間六年まで謗法の処に成り候間、老僧立帰り高祖聖人の御命を継ぎ奉り候、さ候間一度謗法の処と成り候間、又地頭奥津方より廿貫に此の大石を買得申し高祖聖人の御命を継きたてまつり候と仰せ給ひ候已上」(1-185)
この記述に対して大石寺31世日因が次のようなコメントを付けている。
「次に柳袋の彦次郎等と者未だ之を勘へず、但し此の下日有上人御代の事之を記するか、彦次郎即地頭なるか、或は地頭より柳袋彦次郎に申付けられ大石寺より年貢を取り給ふ事なるか、中に於て上代地頭奥津方とは日行上人・日時上人両代の間・日郷・弟子中納言阿闍梨日伝と伝ふ僧奥津方に取入り違乱をなす故に十八貫文を出し、此大石が原を永代買ひ得たる者なり、然るを亦彦次郎地頭より年貢を取らんと欲する故に日有上人末代の事を思召し三人の留主居を指し置かせられ申し被きを致為せ玉へる者か然るに此三人の留主居・寺を捨て退き去る故に六年の間・彦次郎に奪取られ謗法の地と成り玉ふなり、之に依つて日有上人御老躰の身として寛正(1460-1465)年中に甲州大杉山より立ち帰り・此の寺に住し二十貫文を出して此の大石が原を買い取り寺を建立して・高祖大聖人を安置し法命を相続すと申す御説法なり、老僧立帰るとは日有上人御自身の事なるべし」(1-187)
日有が大石寺を預けた三人の留守居に裏切られて、大石寺を売却されたというエピソードである。
日要の「当体義抄見聞」には似たようなエピソードが次のように述べられている。
「大石ノ日有上人、カシハ原ノ慶順(慶舜=柏原成菩提院2世)法印ニ相ヒ給ンカ為ニ極月廿一日ニ寺出シ玉ヘリ。勤行ノ代ハ尾張阿ヘ仰付ケ、サテ寺家ノ成敗ハ少輔・信濃・土作・作渡阿四人也。此人ヲハ無智トテ奥ノ宮内阿日掟ヲ召シテ且クノ住持ト定メテ美濃ヘ参ラルヽ。日有判形シ玉フニ彼人ヲ云ヘリ、日有兎モ角モ云云。然ニ彼ノ四人ノ方ハ日有死去ト号シ大石ヲノツトル。此ノ時日有下向有テ彼ノ末弟ヲ折檻云云。小泉山城阿モ預ケ玉ヘリ。此内ノ物ヲモ彼ノ四人ノ業ルト云云。山城阿モ罪ニ行ルヽ」(御書システム)
これは当時の天台宗の学問所として有名だった柏原成菩提院への修学の時のエピソードとしているが、留守居に指名した弟子たちに裏切られたことを記している。
日郷門徒との長年にわたる係争に決着をつけて、大石寺の建物を再建し、本末関係などの化儀を明示し、また種脱相対を掲げて、他宗・他門ととの法論に積極的に布教で諸国を行脚した日有であるが、その留守中に大石寺の諸権利を売り払うという不届きな弟子に囲まれて、後事を託した10世日乗、11世日底が相次いで亡くなり、14歳の日鎮を12世に指名せざるをえなかったことから寺院経営者としてはそれほど有能ではなかったようである。日有の死後百年ほどで大石寺の経営が行き詰まり、京都の日尊系の要法寺から住持を迎えて、その人脈により大石寺を再建するということから、日有が将来に対して悲観的であったということもあったのかもしれない。