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日興の教学思想の諸問題(1)――資料編
 宮田幸一  (初出 創価大学人文論集第18号 2006)

0 初めに

 HP作成ツールを変更したので、長文の論文でも分割しないで、upできるようになったので、ひとまとめにした。論文の目次をつけ、見出しの表記を変更し、また追記の出典なども付加し、文中の注も表記を改めて読みやすくしたが、内容は特に変更していない。この論文を執筆していた時には入手できなかった資料もあり、もう少し書き改めたい箇所はあるが、情報の改竄につながるようなことは避けた方がいいと思われるので、そのままにしておいた。

1 問題の所在 
2 日興関係文献の検討
2-1 血脈相伝類
2-1-1 『本因妙抄』
2-1-2 『百六箇抄』
2-1-3 二箇相承書
2-2 日興筆録の口伝類
2-2-1 『産湯相承事』
2-2-2 『寿量品文底大事』
2-2-3 『教化弘経七箇口決大事』
2-2-4 『御本尊七箇相承』
2-2-5 『上行所伝三大秘法口決』
2-2-6 『本尊三度相伝』
2-2-7 『御義口伝』
2-3 述作類
2-3-1 『三時弘経次第』
2-3-2 『神天上勘文』
2-3-3 『引導秘訣』
2-3-4 『安国論問答』
2-3-5 『五重円記』
2-3-6 『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』
2-4 日興の講述類
2-4-1 『富士一跡門徒存知事』
2-4-2 『五人所破抄』
2-5 日興の消息類
2-5-1 『美作房御返事』
2-5-2 『原殿御返事』
2-5-3『与波木井実長書』
2-5-4 『報佐渡国講衆書』
2-6 要文、記録類、申状その他
2-6-1 要文類
2-6-2 記録類
2-6-3 申状類
2-6-4 その他
2-6-4-1 『遺誡置文二十六箇条』(『日興遺誡置文』)
2-6-4-2 『定大石寺番帳事』
2-6-4-3 『日興跡条々事』(『日興跡條條事』)
2-6-4-4 『佐渡国法華衆等本尊聖教之事』『定補師弟並別当職事』
2-6-4-5 『日盛本尊相伝証文』(『与了性房日乗書』)
2-6-4-6 『日興置状(日代八通遺状)』(『日代譲状並置状八通』) 『日興付属状』(『日代等付属状』)『日興覚書』(『与日代書』)『与日目日華書』『与日妙書』『日興譲状』
2-6-4-7 『本門寺棟札』

1 問題の所在

 日蓮正宗の教義についての学者による研究は、執行海秀『日蓮宗教学史』や望月歓厚『日蓮宗学説史』で、日蓮宗各派の教義の歴史的展開の一部として、考察されているほかに、執行海秀の遺稿を編纂した『興門教学の研究』ではこの問題に焦点を絞った考察がなされている。執行はまた日蓮宗教化部長金子弁浄編『創価学会批判』の「教学面からの批判」を執筆している(執行1 p.2)。
 これらの研究に共通しているのは、文献学的考察に基づいて、日蓮正宗の教義の歴史的展開過程を明らかにするということであり、それによって、現在の日蓮正宗の最も特徴的な教義である日蓮本仏論は、日蓮正宗の派祖である日興(1246-AN52)の教学思想とは異なっていることを証明するということである。
 これらの研究に対しては、創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会批判を破す』などの反論がある。だが創価学会による反論の問題点は、文献学的考察において、直接文献を確かめた上で反論するということができなかったということにある。
 日蓮正宗はいくつかの重要な文献に関して、日興正筆の存在を主張するが、その主張を客観的に証明するための文献資料の公開をしていなかった。部外者の学者のみならず、在家信者の創価学会員にも、また日蓮正宗の一般僧侶にも公開していなかった。
 さらに創価学会は日蓮正宗の在家団体であり、日蓮正宗の教義の解釈権を持たず、教義の最終的解釈権は日蓮正宗にあるから、創価学会がそれなりの自立的な研究により、日蓮正宗の公式見解とは別の見解を発表するということも制度的に不可能であった。しかし現在創価学会は日蓮正宗とは教義的には無関係な教団となったのだから、日蓮正宗とは無関係にその教義の説明責任を果たさなければならない。
 現在、第一次宗門問題以後に日蓮正宗から分離した細井日達前法主系の僧侶集団である正信会の僧侶たちが立ち上げた興風談所の地道な研究により、『日興上人全集』(以後『興全』と略称)『日興上人御本尊集』が出版され、日興正本の写真版により、従来未公開であった日興の資料的問題はある程度解決済みとなっていると思われる状況にある。
 もっとも編者大黒喜道は「『日興上人全集』正編編纂補遺」において本来は写真版ではなく古文書原本を参照すべきであるが、直接原本に接することができたのは数点のみであったことを述べ、「その原因は専ら文書の非公開性にある」(大黒 p.321)という現状を指摘している。
 これらの資料を駆使して、日蓮正宗の教義的問題に批判的検討を加えたのが、東佑介の『大石寺教学の研究』である。これらの研究状況を踏まえて、日蓮正宗の教義を再検討し、創価学会が日蓮正宗のどの教義を否定し、どの教義を継承すべきかを試論的に検討することが、私の『創価学会研究』理念編第1部日蓮正宗論の課題であるが、本論はその一部をなす日興の教学思想の諸問題を検討する。(結果的に紙幅の関係で今回は(1)資料編のみを公表する。)
 第二次宗門問題が発生して以来10年以上が経過して、創価学会は会則変更により日蓮正宗との教義的関係を会則からは消去したが、創価学会自身の教義書を未だに発行していない(下記注)。私の理解では、創価学会は日蓮本仏論のひとつの派生形態である法主=日蓮代理人説(血脈相承説)に関して、現法主の血脈断絶を主張しているとは思われるが、日蓮正宗の教義はそもそも法主の不在を想定していない教義であるから、そのような事態が生じた場合に、日蓮の救済の秘儀はどのようにして継承可能かという新しい血脈の理論が必要となる。
 
 (注) これは私の認識不足で、創価学会は2002年に『教学の基礎』という教義書を発行している。「まえがき」に「本書は、腐敗した日蓮正宗宗門の権威主義を打ち破り、民衆仏法の一段と力強い展開を示してのち、初めてまとめられる教学の手引き書である。」とあるように、日蓮正宗から分離したことを明確にしている。引き続いて「まだ不備なところもあると思われるが、読者諸氏のご意見をいただきながら、改訂を重ねつつ、よりよいものにしていきたいと決意している。」とあり、今後の改訂を展望している。私が読んだ範囲では、救済論に関して致命的な欠陥があると思われる。すなわち「第1章」の「(七)」において「全民衆の救済」のための「弘安二年の大御本尊」に言及しながら、「第五章」「第二節」「第一項御本尊」においては「弘安二年の大御本尊」にはまったく言及がなく、「御本尊は、根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された日蓮大聖人の御生命を顕されたものといえます」と述べているだけである。この議論では日蓮が図顕した曼荼羅であればどれでもいいという議論を否定することはできない。日蓮正宗の教導下にあった時代には、それぞれの時代における日蓮の代理人(「三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられる所なる」(日有『化儀抄』14))である大石寺住職が、「弘安二年の大御本尊」を書写した「御本尊」を信者に授与するという、「弘安二年の大御本尊」に込められた本仏日蓮の救済のカリスマが、大石寺住職という聖職カリスマを媒介にして、信者に授与される「御本尊」に移されるという議論となっていた。しかし分離後においても、もし「弘安二年の大御本尊」を日蓮の「出世の本懐」として認め、そこに救済のカリスマを認めるならば、その「弘安二年の大御本尊」と創価学会が会員に授与した本尊との救済論上の関係を論じなくてはならないだろう。「一閻浮提総与(全民衆に与えられた)」というだけでは、どこの日蓮系教団の曼荼羅本尊であっても、「弘安二年の大御本尊」をモデルにしたと言えば、救済のカリスマが移転するということになろう。この問題は複雑なので、『日興の教学思想の諸問題――思想編』で議論する。2013.11.13付加)
 
 正信会は、創価学会と同様に現法主の血脈が断絶したことを主張したが、日蓮からの血脈が断絶したという事態を避けるために、『日興遺誡置文』を根拠にして血脈二管論を主張し、血脈は法主だけでなく同時に僧侶集団にも継承され、法主の血脈が断絶した場合は、僧侶集団によって継承された血脈を新しい法主に注入するという議論をしている。
 これは日蓮正宗の歴史において異流義の要法寺系の僧侶によって法主が継承され、法主の血脈が断絶した時代にあっても、僧侶集団に継承された大石寺の血脈がやがて日寛に注入され、日寛が法主となり本来の大石寺教学を完成したという歴史を説明する議論としてはそれなりに説得力を持つ。(これに対して日蓮正宗はその時代にあっても法主に正しい血脈が継承されており、異流義である造仏論を主張した法主はいなかったと主張している。現在の創価学会は正信会と同じく法主に異流義があったと見ている。)
 血脈問題に関して創価学会はかっては血脈二管論には否定的であり、現在は御書を通じて得た信仰にも日蓮の救済の秘蹟はあるとする信心の血脈論を採用しているようであるが、この議論は実は室町時代の顕本法華宗の派祖である玄妙日什(AN33-111)の経巻相承論と表面的には同じであると考えられるかもしれない。
 なるほどこの経巻相承については例えば創価学会の『折伏教典』においては「仏法の真髄は血脈相承・師子相承といって、かならず面授口決のご相伝によらなければならない。・・・しかるに日什の場合には予言の経証もなく、面授口決ももちろんないままに、経巻相承と立てて、自己の正統を主張するのは、仏法を破壊する根本原因となるのである。日蓮宗なら、どんな宗派でも御書と法華経を手にするのはとうぜんであるが、それでいて多数の邪流邪義を生ずる理由は、まったく経巻相承という増上慢をおこすからである。」(『折伏教典』 p.132)と批判を加えている。
 創価学会の信仰の正しさは少なくともどの法主からも面授口決されていないようであるから、この批判はそのまま現在の創価学会にも当てはまるのではないかと質問されたら、どのように回答するのだろうかという疑問が生ずるかもしれない。それに対しては一例として以下のような回答が可能であろう。
 「創価学会は唯授一人面授口決による血脈相承という日蓮正宗の伝統法義を遵守してきたことは確かであり、その法義自体が誤っているとは考えてはいないが、細井日達法主から阿部日顕への面授口決による血脈相承という事実があったかどうかに関しては、これまでのさまざまな法主の地位をめぐる裁判の過程で、阿部日顕が、自分に相承があったことを、説得力をともなって証明できなかったことから、血脈相承がなかったと判断している。面授口決による血脈相承が存続している限りは、それを無視して御書を根本にして信心の血脈を主張するのは、経巻相承にあたるかもしれないが、現在面授口決による血脈相承を受けた法主は誰もいないのであり、また法主による血脈相承が断絶したという日蓮正宗では全く想定もしていない事態が生じたのであるから、日蓮の指導を記した御書から直接学ぶ以外に成仏への道はない。」という創価学会の回答が予測される。
 正信会の血脈二管論は、僧侶集団にも法主による血脈と同等の血脈が流れているために、法主による血脈が断絶した場合は、僧侶集団の血脈から再び法主への血脈を修復、復活することが可能であることを主張している。しかしこの議論がどのように文献的に根拠づけられるかに関しては、かなりの困難が指摘されている。
 創価学会は法主による血脈が断絶すれば、修復不可能という立場に立っている。わたしはこの創価学会の立場はそれなりに整合的な考えであると考えるが、問題は法主が永遠に不在となったという現状を踏まえて、どのような教義を形成していくかということである。
 日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている。日蓮正宗管長や大石寺住職は選出可能であるが、それは法主ではなく、法主がいなくなれば、日蓮正宗に伝わった日蓮の救済の秘儀を人々に伝える手段が断絶することを含意しているのが日蓮正宗の教義であり、そのような事態が現実に起こってしまったと創価学会が判断する限りは、説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務があると私は考えている。
 また、このほかにも、信心の血脈は広宣流布を目指す日蓮直結の信心であるとして、法主の血脈よりも根本的なものとする考え方が創価学会にはあるが、この点についても、いわゆる経巻相承との相違を明示することが要請されると考える。
 先にあげた立正大学の学者たちは、日蓮正宗の教義と日興の教義とは異なっていることを主張しているが、このことは日興から日蓮正宗の法主への血脈相承を否定するということを意味している。
 日興教学と日蓮正宗教学は同じであるのか、それとも異なっているのか、私なりの検討を加えたい。そのためには、第一段階として日興の確実な正本資料を基礎にして、どのような日興の教学思想が構成できるのかということを明らかにし、第二段階として写本資料しかないが、偽作の可能性が薄いと多くの研究者によって認められている資料も使用すると、どのような日興の教学思想が構成できるのかを明らかにし、第三段階として日蓮正宗の日興の教学思想に関する主張の資料的問題点を検討したい。(なお以下の論述では文献が日蓮滅後何年頃に成立したかが重要な論点になるので、日蓮のなくなった1282年(弘安5年)をAN1年として、以下『富士年表』の年代記述を基本にしてAN年代を表記する。)
 
2 日興関係文献の検討
 
 日興がどのような教学思想を持っていたのかについて検討するにあたって、どのような文献的資料が存在するのか、またその文献的資料が信頼できるのかどうかを検討することは、学問的には必要な手続きである。
 興風談所による『日興上人全集』は日興の真筆が現存している文献(疑義のある文献も含む)を正編とし、日興撰として写本で伝承された文献を続編として収録している。文献学的な考察も丁寧にしてあり、多くの写真版も掲載され、信頼するに足る資料集であるが、『日蓮宗宗学全書』(以下『宗全』と略称)第2巻所収の日蓮撰日興相承とされる相伝筆録分は収録されていない。
 日蓮正宗の教義と日興の教学思想との関係を検討する場合、この日興相伝筆録分の検討を欠かすことはできないので、これらについての文献学的考察も必要な範囲で行ないたい。以下で述べることは先行研究を私なりに確認する作業であり、三証の中の文証を確定するという基礎的な作業にあたるが、多くの読者にとっては退屈な部分となることと思われる。
 執行海秀は『興門教学の研究』において、『宗全』第2巻の構成に準拠して、日興関係文献として、次の六種類に区分して、資料的価値を検討している。(執行1  p.97)
(1) 日蓮聖人より唯受一人相承の血脈相伝類
(2) 日蓮聖人の口決を日興が筆録した口伝類
(3) 日興自身の述作した著書類
(4) 日興の口述、あるいは講義を弟子が筆録した講述類
(5) 日興の消息類
(6) 日興の記録した文書、要文類、申状、置文等
 私の見るところでは、執行の文献学的検討は充分なものとは言えないが、日興関係文献のまとまった考察としては他にないようなので、以下においてこの区分に従って、文献学的検討を加えたい。なお文献の名称は『富士宗学要集』(以下『富要』と略称)に従い、『宗全』の名称が異なる場合は( )で表記した。『興全』が資料集としては最適であるが、一般には入手しにくいので(Amazonでは購入できないが、興風談所のHPから質問メールで購入申し込みができるようだ)、『富要』と『宗全』からの引用を主とする。
 
2-1 血脈相伝類

 この部類に算入されるのは、『本因妙抄』(『法華本門宗血脈相承事』)『百六箇抄』(『具謄本種正法実義本迹勝劣正伝』)の両巻血脈書である。また教義的には重要ではないが、血脈相承を証拠立てるとされる『身延相承書』(『身延相承』)『池上相承書』(『池上相承』)の二箇相承書も便宜上ここに含めておく。
 
2-1-1 『本因妙抄』

 『本因妙抄』(『富要』1-1『宗全』2-1)の最古の写本は大石寺六世の日時(?-AN84-125)写本とされている(『富要』1-8)。ただし日時写本には執筆年次が書かれていないうえ、写本の原本が日興正本であったかどうかも言及されていない。
 東佑介の『大石寺教学の研究』によれば、興風談所の大黒喜道が『興風』第14号の「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(一)」において、『本因妙抄』の日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっていることを指摘し、日時写本ということに疑義を提出していることが紹介されている(東 40)。
 私は活字資料を基礎にして考察しているので、活字資料になる以前の写本資料の作者の確定という問題は既に解決済みという前提で議論していたのだが、この問題が解決済みでないということは、『本因妙抄』と日蓮―日興の結びつきへの信頼が一層揺らぐということを意味している。
 次に古いのは要法寺日辰(AN227-295)の写本(AN279)である(『宗全』2-10、『富要』1-8)。『宗全』は日辰本によっているが、『富要』は諸本を校合したとあり、『宗全』の最後の系図の部分が『富要』では欠落している。日辰本の奥書によると、日辰は、日興の直弟子である日尊(1265-AN64)筆とされる写本を写したとあるが、日辰自身はその写本に日尊の花押がなく、字体も日尊筆であるかどうかを確認できないことを認めている(『宗全』2-10)。
 したがって日尊本が発見され、それが日尊自筆であることが証明されれば、『本因妙抄』が日興―日尊と継承されたことを推測できるが、日尊本の所在が確認されていない現状では、『本因妙抄』を日尊の時代まで遡及させることはできない。
 『本因妙抄』の引用文献に関しては日興の薫陶を受けた三位日順(AN13-75-?)の『本因妙口決』(『富要』2-69 『宗全』2-294 執筆年次不明 写本は日棟本(写本年代不明)、日俊(AN356-410)本)があり、次いで日眼の『五人所破抄見聞』(『富要』4-1 『宗全』2-503  AN99? 写本は日諦本(AN377))がある(下記注)。
 もし日順の『本因妙口決』が日順自身の作であるなら、日時写本より古いことになるが、その文章の中に日順の活躍当時には決して使用されなかった「日蓮宗」という用語が使用されていることから、後代の偽作とみなされている。
 (下記注)で考察するように日眼が妙蓮寺5世日眼(?-AN88-AN103)であるとすれば、ほぼ日時と同時代の引用である。これらのことから、日蓮正宗に好意的に見ても、『本因妙抄』は文献学的には日蓮滅後100年前後までしか遡れない。
 内容的にも現行資料のままでは、日蓮滅後に日蓮宗各派の中で論争となった本迹一致、勝劣の論争に言及しているから、日蓮から日興への直授とはみなせない。堀日亨は『富要』では「後加と見ゆる分には一線を引く」(『富要』1-8)として、現行資料から時代的に適合しない部分を削除しているが、その削除が妥当であるかどうかの文献学的根拠は何も示されていない。
 執行は『本因妙抄』は日時によって書かれたことを示唆している(執行1 p.23)。東は大黒の説を踏まえて日時写本説を否定して、また堀日亨の『隠れたる左京日教師』の記述も参考にして、日尊門流による偽作説を主張している(東 p.42)。
 日時写本への疑問が生じてくれば(私は堀日亨の古文書鑑定能力をかなり信用しているのだが、後述の『滝泉寺申状』が日興筆であるという堀日亨の鑑定に対して、堀日亨が活躍していたときには、まだ未公開であった富木常忍の直筆資料の写真版と比較検討して、興風談所の菅原関道が富木常忍筆という見解を発表したことを見れば、古文書鑑定の難しさ、資料の公開の必要性を実感する)、私には『本因妙抄』が誰によって作成されたかの判断はできないが、日興との結びつきが文献学的に証明できないことだけで、この資料を日興の教学思想の解明のために第一段階や第二段階で利用することを差し控える十分な理由となる。
 
 (注) 宮崎英修は「富士戒壇論について」の中で、『五人所破抄見聞』に伝奏衆として勧修寺、広橋氏が挙げられている点を取り上げて、この両者が伝奏として活躍するのは、AN190年頃であり、ゆえに日眼はAN100年頃の妙蓮寺5世日眼ではなく、AN190年頃の西山本門寺8世日眼であると主張している(宮崎 p.652)。
 これに対して当時日蓮正宗教学部長であった阿部信雄(日顕)は、資料は明記しなかったが、両者が伝奏であった時代は南北朝以来であり、妙蓮寺日眼とすることに問題ないという反論をした(阿部1 p.30)。
 同僚の坂井孝一に尋ねたところ、足利義満のころには伝奏が制度化されており、当時の資料、例えば三条公忠の『後愚昧記』などを調べるとよいだろうと教えていただいた。それを調べる前に義満時代を描いた今谷明の『室町の王権』を調べたところ、今谷は上記資料などを使用しながら、義満がそれまで幕府との折衝役であった朝廷の武家申次(九清華家の一つである西園寺家が担当)に代えて、それより身分の低い伝奏衆をあたかも自分の部下のように使用していたこと(今谷 p.42)、伝奏衆として勧修寺経顕、万里小路嗣房、日野資康、広橋仲光を挙げ、特に広橋仲光は義満の意を受けて、寺院の人事を裁定していたことを述べている(今谷 p.68)。
 このことから見ると義満時代のAN100年頃には伝奏衆が制度化されていたのであり、日眼を妙蓮寺5世日眼とすることを伝奏衆という論点で否定するという宮崎の議論は破綻している。このことは日眼を妙蓮寺5世であると断定する理由とはならないが、宮崎のように無理な論拠で『五人所破抄見聞』の成立をさらに遅らせることにはそれほど意味のあることとも思えない。重要なのは『本因妙抄』の引用が日時写本(?)とほぼ同時期にまでしか遡ることができないということであり、日蓮、日興との関係を文献的資料によっては証明することができないということである。
「追記 東佑介は『二箇相承の真偽論』において、『五人所破抄見聞』の記述内容を検討し、日代・日仙の論争の記述内容から西山系ではないこと、本仏論に関して、左京日教に代表される在世は釈尊が本仏であり、上行が脇士となるが、末法では釈尊は脇士となり、上行が本仏となるという互為主伴論を展開していること(また日郷系の三河日要にも見られる)、また同じく左京日教の『穆作抄』(九州日向で著作)で展開される、代々の法主に妙法が伝わるという議論を展開していること、また大石寺三世の日目の業績を高く評価していることから西山日眼説を否定し、また妙蓮寺は日目系の寺院であるという論拠がないことから、妙蓮寺日眼説も否定し、結論的には日目の弟子日郷が開いた保田妙本寺の、地方の中心拠点である日向の日郷門徒の中で形成され、日向出身で後に保田妙本寺を継承した三河日要も左京日教の議論を受け入れたと推測している(東2006-1 p. 40-47)。この議論では筆者日眼は事跡不明となるが、互為主伴説がAN100年ごろに既に妙蓮寺にあり、その思想が後代の大石寺九世日有には見られず、その後の左京日教、三河日要に見られるというのも不自然であるから、思想史的方法論から見れば、東の議論はある程度妥当であると思われる。」  
 
2-1-2 『百六箇抄』
 
 『百六箇抄』(『富要』1-9『宗全』2-11)の写本は要法寺日辰本が最古の写本として現存している。その奥書によればAN31年に日興から日尊に授与され、AN61年日尊から日大・日頼に授与された。しかし日辰自身が誰の写本によったのか、またいつ書写したのかは不明である。(『百六箇抄』の内容は、『宗全』『富要』とも同じであるが、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』では著しく異なっており、日尊系統から伝承されたことの記述が削除されている。)
 また堀日亨は『富要』において『百六箇抄』の多くの箇所とともに、「弘安三年・・・日蓮在御判」の日付、署名部分を後加として二線をつけて削除している(『富要』1-23)。『本因妙抄』の日付、署名部分には後加記号がつけられていないのに、『百六箇抄』に付けられているのは、いかなる意味があるのか不明であるが、堀日亨が『百六箇抄』を日蓮の相伝書とは見なしていないということなのだろうか。
 『百六箇抄』の引用文献としては、日尊系の住本寺本是院日什(AN147-208-?) (後に大石寺に帰服して左京日教と名乗る)が大石寺9世日有に帰服する前に書いた『百五十箇条』の中に、「百六箇条の本迹口決」(『富要』2-180)とあり、またその中に「文明十二(AN199)年」(『富要』2-211)の語が見えるので、日蓮滅後200年頃には成立していたと推測できる。左京日教の帰服以前に大石寺に『百六箇抄』が存在していた文献的証拠はない。
 日朗門流から派生した勝劣派の日陣門流に所属する越後本成寺8世日現(AN178-233)が書いた『五人所破抄斥』(執筆年代不明)に「百六箇等種々異義」(『宗全』7-182)とあり、『百六箇抄』が引用された『百五十箇条』の執筆後まもなく他門流にもその内容が知られ、『百六箇抄』が偽書として批判されたことがわかる。
 以上のことから『百六箇抄』も日興相伝として認定するに十分な文献学的証拠は見出せないので、この資料も日興の教学思想の解明のために第一段階、第二段階で使用することは差し控えるべきであろう。
 
2-1-3 二箇相承書 

 二箇相承書(『宗全』2-33)に関しては『宗全』では単に古写本を校合したとあるだけで(『宗全』2-34)、写本がどの時代に遡れるのか不明である。『富士年表』によれば、AN187年の住本寺日広(?-AN187-206)の写本がある。
 堀日亨は『富士日興上人詳伝』(以下『詳伝』と略称)で天正9 (AN300) 年に正本が紛失したと述べているが(『詳伝』 p.140 ただし本文は「天文九年」と誤植されている)、そのとき紛失した文書が正本であったという根拠は充分ではない。その紛失以前のAN278年に要法寺日辰が北山本門寺にあった日蓮自筆正本とされる文書を臨写したが、日辰写本によっては正本とされる文書の字配は確認できても、筆跡は日蓮筆とは確認できず(臨写本は筆跡もできるだけ似せて書写するのが通例であるが)、堀日亨は佐渡世尊寺蔵の日健(AN280-344)写本も同じ字配であったことから、日辰写本が信頼できることを主張しているにすぎない(『詳伝』 p.155)。
 二箇相承書の引用に関しては、既に『本因妙抄』の項で述べた日眼の『五人所破抄見聞』に「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也。」(『富要』4-8)とある。したがってAN100年頃には二箇相承書が成立していたと推定できる。もし『五人所破抄』の成立年次が下がれば、もっと後になる。
 この二箇相承書が日蓮から日興に直授されたということは、日興在世の文書では確認できないので、この資料も日興の教学思想の解明のためには第一段階、第二段階で使用できない。
「追記 上述の追記で述べたように、『五人所破抄見聞』の成立時期をAN100年頃とするのは、思想史的に無理がある。なお東佑介は『二箇相承の真偽論』で、二箇相承の成立時期に関して、日興の下で重須学頭として活躍した三位日順の『摧邪立正抄』の「大聖忝くも真筆に載する本尊・日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云」という記述に注目し、「白蓮阿闍梨」という尊称が使われている文献を検討し、この遺札に該当するのは、二箇相承しかないと判断し、その偽作者も三位日順であろうと推測している(東 2006-1, p. 62-64)。東は「 遺札」に注目しているが、私はその前の「真筆に載する本尊」に注目している。現存する日蓮筆の曼荼羅本尊には「白蓮阿闍梨」あるいは「日興」宛の曼荼羅はない。六老僧の日昭などにはその名を示書した曼荼羅本尊を授与しているのに、なぜ日興に授与した本尊がないのか不思議に思っていた。大石寺では戒壇本尊を日興に与えた本尊であるとするが、三位日順は「白蓮阿闍梨」という示書のある本尊があると述べている。その曼荼羅本尊はどうしたのだろうか。日興が書写した曼荼羅はすべて「滅(度)後二千二百三十余年」となっているが、戒壇本尊は「二十余年」となっている。日興が書写したオリジナルの本尊は戒壇本尊ではなく、「三十余年」と書いてある本尊である蓋然性が高い(これについては「日興の教学思想の諸問題(2)――思想編」の「1-1-1-2 日蓮真蹟曼荼羅との比較」を参照のこと。(2014.4.24付加))が、その本尊が三位日順が言う「白蓮阿闍梨」という示書がある曼荼羅なのだろうか。日蓮から与えられた文書類を厳重に保管した中山法華経寺でも、かって存在した冨木常忍に与えられた曼荼羅本尊が所在不明となっている現状を考えれば、「白蓮阿闍梨」宛の曼荼羅も紛失したという可能性もある。そしてまた、同様に白蓮阿闍梨宛の遺札も紛失したかもしれない。現存する資料から判断すれば、遺札に該当する資料は二箇相承であるという東の議論はそれなりの説得力を持つが、『摧邪立正抄』においては、御書の真偽問題がテーマにされているのに、わざわざ周辺で偽作された二箇相承を議論の中で使用するだろうか。私はいまいち腑に落ちない。もっとも「阿闍梨」という示書のある曼荼羅本尊の存在にも疑念をもっているので、東の議論を適用すれば、二箇相承と同様に「白蓮阿闍梨」という示書を持つ曼荼羅本尊も偽作されたのだろうか。三位日順の記述の背景については、不明なことが多すぎる。」(2009/3/22)
「追記 ネットでいろいろ検索していたら、『富士門流信徒の掲示板』の「富士宗学要集について」というスレッドでHNれんの発言(33)として「三位日順の摧破立正抄に『抑大聖忝載真筆本尊授日興上人遺札白蓮阿闍梨云々』(抑も大聖忝くも真筆の本尊に日興上人に授くと載せ、遺札には白蓮阿闍梨と云々)」とあった。つまりこの読みでは真筆本尊には「授日興(上人)」とあり、遺札には「白蓮阿闍梨」とあるという読みである。そうすると「白蓮阿闍梨」の示書がある曼荼羅をめぐっての上述の議論は無意味になるが、このれんの読み方のほうが無理が無いと思われる。
 また日興へ授与された曼荼羅についてれんは「参考までに申し上げれば、御伝土代に記述される"日興上人"上人号授与の本尊ですが、安房妙本寺文書と日向定善寺文書により、重須の本門寺大堂本尊であることが分かっています。もっとも、こちらは安土桃山時代の天正年間の日代師門流の西山本門寺を首謀とする重須重宝の強奪後、西山が乱取りに遇い、所謂る、二箇相承原本と伴に紛失しております」(29)と述べている。
その資料として「参考までに、重須の本門寺大堂本尊裏書きに関する史料を提示しておきます。保田日要師御談・法華本門開目抄聞書
『聖人の御正筆富士におはしますなり。其の御筆に此の本尊は日蓮一期の大事なり、日興上人に授く、血脈の次第は日蓮日興云々』
安房妙本寺文書・本門寺大堂本尊裏書写
『本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日蓮在判。日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与』(千葉県の歴史・資料編中世3の妙本寺文書の一四二号・二四三号・二八一号)
定善寺文書・日蓮付属状写『釈尊五十年説法、相承白蓮阿闍梨日興、可為身延山久遠寺別当、背在家出家共輩者、可為非法衆、弘安五年十月[ ]日蓮在判、武州池上。本門寺大堂本尊裏、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日[ ]日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与』(宮崎県史・定善寺文書四号・五号)」(31)と述べる。
 最後に二箇相承について「なお、定善寺文書所収の写本の末尾には「御正本富士日浄所持也」(重須六代日浄師のこと)とあり、重須日浄師の時代、室町中期に写本せられたことが分かります。本門寺大堂本尊裏書は二箇相承と一具に書写されているので、二箇相承はやはり本門寺大堂本尊裏書の「正中二年(中略)日興在判・日妙授与」の文言とともに、本来、日蓮-日興-日妙の正統を主張する為の文献であることは明らかですね。」(31)と述べる。
 このれんの考察によれば、『御伝土代』に「さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と(日興上人に授与するの意味か)御本尊に遊ばすのみならず」という記述にある弘安二年に日興に授与された曼荼羅は重須本門寺大堂本尊として継承され、その本尊は天正年間の西山・重須騒乱(AN300)の中で喪失されたとするのである。「定善寺文書」で言及される重須日浄は明応二年(AN212)に亡くなっており、また保田日要は永正十一年(AN233)に亡くなっているが、この頃にはまだ重須の北山本門寺に日興に授与された弘安二年の曼荼羅があったのであろうか。なかなか私では眼の通すことの出来ない資料を使用した、貴重な教示であると思われる。(2012/3/02)」
「追記 池田令道『富士門流の信仰と化儀』の「第5章師弟子の法門」の「『二箇相承』の考察」でも「一つは、二箇相承そのものが文献的に信頼できないこと三師伝や聞書類などの後の有力史料が二箇相承について沈黙していることも含めて。二つには、上代の門下全般の状況と二箇相承によって想定するそれとの懸隔があまりに大きいこと六門徒同格と日興上人一人を付弟にすることとの相違の大きさです。」と述べて、二箇相承偽撰説を主張する。」(2009/3/29)

2-2 日興筆録の口伝類

 この部類に算入されるのは、『産湯相承事』『寿量品文底大事』『教化弘経七箇口決大事』『御本尊七箇相承』(『御本尊七箇之相承』)『上行所伝三大秘法口決』『御義口伝』である。
 
2-2-1 『産湯相承事』

 『富士年表』によれば、『産湯相承事』(『富要』1-27 『宗全』2-35)の最古の写本はAN279年の要法寺日辰写本(現存するのは日辰写本を書写したAN347年の日精(AN319-402)本であるが)であるとする。しかし『宗全』にはそれ以前の左京日教の写本も存在しているとしている(『宗全』2-38)。
『富要』では年号、署名部分に後加を示す二線が引かれており(『富要』1-29)、堀日亨は日蓮の親撰であることを疑問視しているのかもしれない。なお『本尊論資料』には日興門流の相伝として日辰写本の後半部分が欠如した『御実名縁起』(AN215年 日意写本)が異本として記載されている(『本尊論資料』 p.335)
 『産湯相承事』の引用は、『百六箇抄』で述べた左京日教の『百五十箇条』にある(『富要』2-232)。したがって文献的にはAN200年頃には存在したと言えよう(ただしいくつかの異本のうちのどの『産湯相承事』が存在していたかは不明である)。
内容的には「国をば日本と云ひ、神をば日神と申し、仏の童名をば日種太子と申し、予が童名をば善日、仮名は是生、実名は即ち日蓮なり。・・・是生とは日の下の人を生むと書けり。日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。」(『宗全』2-36,『富要』1-28)とあり、日蓮の出家名(仮名)が「是生房」であったという前提で記述されているが、日蓮自身は金沢文庫蔵の『授決円多羅義集唐決』の自筆写本の奥書において「是聖房」と書いている。日蓮が自分の出家名を間違って覚えていたということはありそうにないから、『産湯相承事』を日蓮親撰とみなすことはできない。
 なお日朗門流の相伝書である『当宗相伝大曼荼羅事』にも仮名が「是生」(『本尊論資料』 p.280)とあるが、身延門流の相伝書である日意の『日蓮大聖人五字口伝』には「仮名ハ是性房」(『本尊論資料』 p.178)とあり、左京日教の『百五十箇条』にも「是性」(『富要』2-232)とあり(このことは左京日教の日文字相伝は『産湯相承事』とは異なる異本であった可能性が高い)、日蓮の仮名は音で「ぜしょうぼう」と伝えられたが、漢字では伝わらなかったことを示している。また日道の『御伝土代』にも、日蓮の伝記が書かれた『法華本門宗要抄』にも日蓮の仮名は言及されていない。
 また『本尊論資料』には日常門流の日実筆とされる多くの相伝書が掲載されているが、その中には日興門流とは異なった『日文字相伝』もあり、他の門流にも法華経神力品の上行菩薩を喩えた文に即して、日蓮を日月と読むことの相伝も数種類ある。これらのことから考えると多くの日文字伝説のひとつである『産湯相承記』を日蓮撰日興相伝とみなすことはできない。
「追記 東佑介は『産湯相承事の真偽論』において、種々の考察を加え、特に出雲の日御碕神社に関する記述に注目して、出雲の日尊門流において、AN140年以後に偽作されたと見ている(東 2007-1 p. 17-24)。日御碕神社に十羅刹女が祀られたのが特定の時期に限られるという神道研究が妥当であれば、東の結論も妥当であろう。」(2009/3/22)
 
2-2-2 『寿量品文底大事』 

 『富士年表』には『寿量品文底大事』(『富要』1-43 『宗全』2-44)への言及は全くないので日興の筆録であることを否定しているようだ。『富要』『宗全』では保田妙本寺14世日我(AN227-AN305)の弟子の日山(?-?)写本を最古としている(『富要』1-43『宗全』2-45)。『富要』では文末の「日蓮日興記」が後加記号により削除されている。
 引用に関しては不明であるが、内容的には『本因妙抄』を継承していると思われる。寿量品文底大事と命名されているけれども、寿量品のどの文に文底が秘沈されているのかという議論に立ち入っていない。また「一所の所判に末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し乃至妙法蓮華経に余行を交へばゆゝしき僻事なりと遊ばさるゝ此の意なり」(『富要』1-43『宗全』2-45)という日蓮の御書の引用があり、また日蓮に対して敬語を使用している。この部分に後加記号が当然必要と思われるが、付加されていないのは、堀日亨が日蓮親撰を否定しているからであろうか。資料的には日興の教学思想の構成のためには使用できない。
 
2-2-3 『教化弘経七箇口決大事』

 『教化弘経七箇口決大事』(『宗全』2-39)については、写本は『宗全』では日山本が挙げられている(同)。しかし『富要』には収録されていない。内容的には法華経文上によって、法華本門宗と天台宗を含む他宗との相違の要点を七か条挙げたもので、日蓮=上行説であり、日興から日尊、日代への血脈相承を述べており、大石寺3世日目を除外している。『富要』に収録されなかったのは、編者堀日亨が日蓮―日興の口伝書とは認めなかったということだろう。ただし『富士年表』には1282年10月10日に日蓮がなくなる直前に日興に口伝したとある。この資料も使用不可である。
 
2-2-4 『御本尊七箇相承』

 『御本尊七箇相承』(『富要』1-31『宗全』2-41)については、写本は『宗全』では日山本が挙げられている(『宗全』2-44)。『富要』では年号と日蓮在御判に削除記号が付されている(『富要』1-33)。引用は不明であるが、日有より日格がAN177年に聞書したとされる文書に「本尊七箇・十四箇の大事の弘決之あり」(『富要』2-160)とあり、この時代には存在していたと思われる。(ただし、以下で述べる『本尊論資料』の『御本尊七箇大相承』を考え合わせると、どのような内容の「本尊七箇相承」が存在したのかは不明である。)
 内容的には、本尊を十界曼荼羅と規定し、そのうえで十界を日蓮の己心と解釈している。重要なのは本尊書写には「日蓮(在)御判」と書くことを明記し、さらに追加箇条で大石寺嫡々代々と書くことも明記し、その理由として歴代(大石寺住職)法主が日蓮の代理であることを明記している。日蓮正宗では最も重視される本尊相伝の書である。
 なお『本尊論資料』には日興門流の相伝書として『御本尊七箇大相承』が掲載されているが、そこでは相承の内容は七箇条であり、大石寺嫡々代々などの追加項目はない(『本尊論資料』 p.369)。この身延写本がいつ頃のものかは明記されていないが、他の相承書同様に、次々に後代の相伝継承者が付加していったことを推測させる資料である。その点ではこの『御本尊七箇相承』も使用できない。
 
 私の自宅の本尊は、北海道から上京してきたときにいただいた細井日達筆の形木本尊、その後阿部日顕筆の特別形木本尊、そして現在の日寛の形木本尊と変わってきたが、その本尊は、歴代法主が戒壇本尊を書写した本尊であると教えられ、ある時期までそれを素朴に信じていた。大石寺には数多く参詣し、戒壇本尊にも何度も目通りしているが、奉安殿の御開扉のときには、本尊に関する教義的な疑問は全く持っていない時代であったので、自宅の本尊と戒壇本尊との異同などには無頓着であった。正本堂の御開扉のときには、あまりにも距離がありすぎて戒壇本尊に何が書いてあるかはほとんど読み取れなかったのが実情である。現在ではweb上で戒壇本尊の写真が公開され、戒壇本尊に何がどのように書かれているかが明確にされている。
 それを調べてみると、歴代法主による戒壇本尊の書写という説明にそれなりの疑問が生じてくる。戒壇本尊の讃文には「仏滅後二千二百二十余年」とあるのに対して形木本尊の讃文には「仏滅度後二千二百三十余年」とある。普通書写するならばわざわざ年号を変えて書写することはありえないと思うのだが、どうだろうか。
 また戒壇本尊には中央の日蓮の署名の下に花押が描かれているが、形木本尊には花押の代わりに「在御判」の文字が書かれている。これは、花押は本人しか使用してはならないという暗黙の前提があるから、説明がつく相違である。また戒壇本尊にはない大石寺住職の名前と花押が形木本尊には書かれている。これも書写した人の証明書であるから説明がつく。
ただ戒壇本尊には功徳、罰を説いた禍福讃文が欠如しているが、形木本尊には書かれている。書写ならば、手本とした本尊にない項目を書き加えるということは避けるべきであると思うのだが、どうだろうか。
 日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』には、「大石寺血脈の法主の略本尊」(p.200)の宗教的意義に関して、「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」(p.201)と述べられて、戒壇本尊を書写したとは明言されていず、戒壇本尊の内証を(あるいは相伝された深義の内証を)法主が書写したものであり、法主の認可があれば、「戒壇本尊の妙義に通ずる」として、戒壇本尊とその他の本尊との救済論的関係を保証する者としての法主の役割を強調しているだけである。
 戒壇本尊と伝統的に書写されてきた本尊との様式の相違については、説明がないのでどのように教義的に解釈されるのか不明であるが、法主の中でもこのことに疑問をもって、「仏滅度後二千二百二十余年」と書いたのが阿部日開であった。しかし彼はこの本尊が相伝書と異なるとして批判され、謝罪文を書かざるを得なかったという出来事があった。その実子阿部日顕は、父の不名誉を雪ごうとして、讃文はどちらでも構わないと主張しているが、その根拠は法主の内証によるとしているだけで、あたかも法主の内証次第では、相伝書だろうが、伝統法義であろうが、何でも変える権限を、法主が日蓮代理人としての資格において持っていると言わんばかりの主張をしている。(阿部2 p.48)
 ここで問題にすべきは、本尊書写は戒壇本尊を忠実にコピーするのではなく、別の指示に従ってしなければならないということであり、その指示には少なくとも法主であった阿部日開も従わざるをえなかったということである。その指示とは何かといえば、ここで問題にしている『御本尊七箇相承』である。
 そこでは図顕(滅度)讃文に関して「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)とあり、この図顕讃文は戒壇本尊の図顕讃文のコピーとは無関係に指示されている。
 なおこの図顕讃文の年号については『本尊論資料』には身延門流の相伝として日朝談日仁筆の『本尊相伝事』の「仏滅後二千二百二十余年等アソバシタルハ建治文永等ノ御本尊ニ爾カアソバシタル也。是ハ未再治御本尊ナル故也。サテ二千二百三十余年等アソバシタルハ弘安涅槃ノ時分ニ爾カアソバシタルナリ。故ニ身延今家ノ形木ノ本尊ニハ二千二百三十余年等アソバシタル也。」(『本尊論資料』 p.3)が記載されており、「二十余年」にすべきか「三十余年」にすべきかを論じている。同様なことは日朝の『大曼荼羅事』(同 p.33)でも論じられている。
 また日常門流では「二十余年」と書くことが伝統となっているが、『本尊論資料』には日常門流相伝書として日実の『仏滅度後等之事』に「弘安以前を取り合わせて二千二百二十余年也。さて弘安以後は三十余年とお書き也云々。別の御義之無し。」(同 p.432)とあり、「二十余年」と「三十余年」には教義的区別はないことを述べたうえで「二十余年」と書くことを継承している。あるいは同じ日実の『御本尊図給年号事』には「弘安年中の御本尊は随自意と習う也。よって三十余年と云えるは随自意の辺なり。」(同 p.445)とあり、随自意優位ならば「三十余年」と書くべきだということを暗示しながらも、別の資料である『首題五字五種妙行事』では「二十余年」と伝えることが血脈であるとしている(同 p.490)。
 このように「二十余年」か「三十余年」か、という問題は日蓮の図顕した本尊に二種類あることから、各門流でも議論されたのであり、『御本尊七箇相承』が戒壇本尊の「二十余年」を手本にしながら、それと異なる「三十余年」と書写すべきだとするなら、当然説明があってしかるべきだと思われ、この点でも『御本尊七箇相承』ならびに戒壇本尊の資料的価値は疑われる。
 次に日蓮の花押ではなく「在御判」と書くことについて「日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。 師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり、当位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり、又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」(『富要』1-32『宗全』2-42)とあり、日蓮花押の代わりに「(在)御判」と書くことを明示している。
 なお『本尊論資料』にはAN174の日朗門流の筆者不明の相伝書『御本尊相伝』があるが、そこには「問首題の下に必ず日蓮判と遊ばす義如何 答日向門徒には法華堂をば皆御影堂と習うなり。その故は首題の下に日蓮と遊ばしたるは妙法全く我が身なりといえる御心中なる旨なり。左右の脇士はまた日蓮聖人の脇士なり。諸堂みな御影堂なりと申す伝なり。また首題の下に御名を遊ばすは人法一体能弘所弘不二なることを顕すなり。真間流の人は大聖人の大の字を制して書くなり。定めて人法一体の意なり。その故は地湧の四大士と中央の首題と引き合わせて習うに、首題は空大なり、四菩薩は四大にて、その義通ずる故に空大妙法と聖人とは全く一体となれば、日蓮空聖人という意にて大聖人と書くなり。大は空の義の故なり。」(『本尊論資料』 p.314)とあり、後に日蓮正宗で主張される本尊の首題と日蓮を一体にして人法一体と解釈するという議論が既に日有の時代に日朗門流や真間門流には存在していたことを示している。日有自身には人法一体の議論はまだない。
 次に戒壇本尊にない法主の名前と花押を書くことについて『御本尊七箇相承』の後半の追加部分には、「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)と述べて、歴代の法主がそれぞれの時代の日蓮であり、日蓮の救済の秘儀を伝えるために、必要な存在であるということを主張している。
 しかもこの文には歴代の法主の備えるべき資質、資格などには一切言及していない。その意味でどんな人格を持とうが、法主である限りは、日蓮の代理人として、日蓮の救済の権能を継承する制度カリスマを主張しているのである(この点ではカトリックと同じ救済論を持っているが、カトリックの場合には日蓮正宗のような面授相承を主張せず、教皇に就任することによって自動的にイエス、ペテロから継承された聖職者カリスマが生じるとしている。日蓮正宗の場合には、聖職者カリスマは断絶の可能性があるが、カトリックの場合にはない)。
 以上述べたように日蓮正宗に由来する本尊は、戒壇本尊のコピーではなく、日蓮の代理人としての権限において、法主が書写した本尊であるということは明確である。この『御本尊七箇相承』の主張は、日蓮の救済の秘儀は、戒壇本尊ではなく、歴代の法主にあるということを明確にしている。
 創価学会は法主の血脈断絶という事態に対応して、法主僭称者である阿部日顕筆の本尊を会員に安置させ続けることは、信仰上問題があるとして、緊急避難的に、多くの会員にも教学学習上でなじみのある日寛筆の本尊に差し替えるようにし、私の自宅にもそれが安置されているわけだが、法主不在の下では当然法主の認可はない本尊であり、今後も永遠に法主不在の時代が続くのであるから、法主の存在を前提とした『御本尊七箇相承』や『日蓮正宗要義』の議論とは別の本尊の宗教的意義付けを必要としていると私は考えている。
 なお興風談所によって『日興上人御本尊集』が刊行され、現在では日興の書写した本尊を写真で見ることができるが、その中で『御本尊七箇相承』の記述とは合わない本尊もかなり見られる。特に初期の本尊には、「在(御)判」の代わりに「聖人」と書いた本尊も見られ、また讃文に関しても「仏滅度後」ではなく「仏滅後」や「如来滅後」と書いた本尊も多数見られる。このことは、日興は日蓮から直授されたとする『御本尊七箇相承』を守らずに本尊書写をしたということを意味しており、むしろこの『御本尊七箇相承』の資料的価値を疑わせるものである。
 なお菅原関道は「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」において、日興のみならず、日興門流の本尊の中には「日蓮聖人」「日蓮大聖人」とだけ記して、「在御判」がない本尊が少数ではあるが、存在することを述べている(菅原 p.342)。このことは『御本尊七箇相承』がまだ存在しなかったか、あるいは存在しても厳格には守られなかったかということを示している。
 東は『本尊論資料』に収録されている『御本尊七箇大相承』には日蓮本仏論が見られるから、本文七箇条は日時以降に成立し、附文の部分は稚児貫主である日鎮を擁護するために左京日教が書いたものと見なしている(東 p.53)。いずれにせよ、この資料を日興の思想解明のためには使用できない。
 
2-2-5 『上行所伝三大秘法口決』

 『上行所伝三大秘法口決』(『富要』1-45『宗全』2-46)については、『宗全』では要法寺日辰がAN279年に『産湯相承事』と同日に記録した写本をAN351年に日精が書写したものが挙げられている(『宗全』2-49)。『富要』でも同様である(『富要』1-47)。しかし同時に『宗全』はほぼ同じ内容の口伝書が八品派日隆の系統に「直受日弁」として伝えられたことも述べている(『宗全』2-50)。
 内容的には勝劣派に共通の日蓮=上行説に基づいて、法華経神力品の偈を解釈しているもので、特に日蓮正宗特有の内容があるわけではない。むしろ神力品強調は八品派日隆の特徴であるから、その系統の口伝書が日興門流に入ってきたと見るほうがよいだろう。
 
2-2-6 『本尊三度相伝』

 『本尊三度相伝』(『富要』1-35)については、『宗全』には収録されていないが、『富要』に日興の相伝書として挙げられている。『富要』では水口日源(1296-?)の写本が挙げられている。しかしその内容に関しては、初めの「一、本尊口伝」の部分は『本尊論資料』に収録されている、日朗門流池上本門寺・比企谷妙本寺4世日山(AN57-AN100)の『本尊五大口伝』(『本尊論資料』 p.286)とほぼ同じであり、次の「二度 本尊の聞書」の部分は、日朗門流の筆者不明の『本尊ノ聞書』(同 p.324)とほぼ同じであり、最後の「三度 本尊相伝」は日朗門流日学(?-?)の『本尊相伝』(同 p.319)とほぼ同じであり、これはさらに日興の弟子の三位日順の『本門心底抄』(『富要』2-31)ともほぼ同じである。
 『本門心底抄』では日蓮の口伝としては述べられていず、三位日順自身の解釈として述べられている。執行海秀は『本門心底抄』をもとに、『本尊三度相伝』『本尊相伝』が作成されたと見ている(執行1 p.60)。また『富要』では日興相伝、日蓮在御判に後加の記号が付されている(『富要』1-38)。この資料も使用不可である。
「追記 東佑介は『本尊三度相伝の真偽論』において、詳細な考察を加え、写本の筆者日源が水口日源ではなく、京都の日尊系日大の弟子本是院日源(?-1406)であり、『本尊三度相伝』は日大がAN68-85年に偽作したものであるとしている(東 2006-2 p. 23)。」(2009/3/22)
 
2-2-7 『御義口伝』

 『御義口伝』は『宗全』『富要』ともに掲載していないが、それは日蓮遺文の範疇として扱われているからである。写本は『富士年表』によれば、日隆門流に属する日経本(AN256)が最古である。引用は一致派日像門流の円明日澄(AN160-AN229)の『法華経啓運抄』(AN211)が最古とされている。日興筆録とされているが、大石寺には古い写本は残っていない。この資料も日興直筆を根拠として使用する第1段階の議論や、多くの研究者が日興筆と認める資料を根拠として使用する第2段階の議論としては使用不可である。

2-3 述作類

 この部類に属するのは『宗全』に収録されている『三時弘経次第』『神天上勘文』『引導秘訣』『安国論問答』『五重円記』である。さらに新たに『興全』の正編に収録されている『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』がある。
 
2-3-1 『三時弘経次第』

 『三時弘経次第』(『富要』1-49『宗全』2-52)については、『宗全』には写本などの出典を挙げていないが、(『興全』では後続の『神天上勘文』と一体の資料として、了玄日精(AN319-402)写本としている)、『富要』では筆者不明の写本によるとしている。『興全』には関連文献として『連陽房聞書』を挙げているので(『興全』 p.286)、日有の時代には存在していたと見られる。なお『富要』では日興正筆の『本門弘通事』が同趣旨の内容であるとして引用されている。この『本門弘通事』は後出の『安国論問答』に続く文章として、堀日亨の『詳伝』に収録され、また『興全』に収録されている。
 『三時弘経次第』は内容的には天台宗の戒壇=迹門、法華宗の戒壇=本門という台当相対した本迹勝劣、戒壇論を主張している。日興の直筆正本が残っていないので、第一段階においては使用できないが、第二段階においては使用して差し支えない資料と思われる。
 
2-3-2 『神天上勘文』

 『神天上勘文』(『宗全』2-54)については、写本は重須8世日耀のAN261年の写本に由来する了玄日精本が『宗全』では挙げられている。『富要』には掲載されていないが、編者堀日亨は日興の著作であるとは認めていないようだ。また同氏の『詳伝』でも著作類には含まれていない。『富士年表』には日耀写本を筆写した日辰本を根拠にAN18年日興が『神天上勘文』を著したとしている。
 『興全』では日蓮のことを「高祖」と書いていること (『興全』 p.260)、室町時代に偽作されたとされる鴨長明『歌林四季物語』が引用されていること(同 p.265)、また日蓮教団を「当宗」と書いていること(同 p.264)、日興の執筆年代が「正安元年正月」となっているが、正しくは「永仁七年正月」であることなどから(同 p.267)、資料的には問題があることを示唆している。私もこの指摘には同意している。
 
2-3-3 『引導秘訣』

 『引導秘訣』(『富要』1-267『宗全』2-63)については、『宗全』では了玄日精がAN384年に西山本門寺で古写本を筆者したものが最古の写本として挙げられている。『富要』では、西山本門寺に古写本がないこと、また日有の『化儀抄』の内容と矛盾することをあげ、日興の著作であることを否定し、筆者不明として扱われている(『富要』1-271)。ここでも日蓮を「高祖」「蓮祖」(『富要』1-269)と呼び、日興の確実な文献の呼称名とは異なっているので、資料的には使用不可である。
 
2-3-4 『安国論問答』

 『安国論問答』(『宗全』2-68)については、『宗全』には日興正本によることが明記されている(『宗全』2-78)。しかし『富要』に収録されていない。その理由は多分堀日亨の『詳伝』で、『安国論問答』の初めに「聖人注之坐」とあること、また日向の『金綱集』にもほぼ同様の内容が記載されていることから、両者が日蓮の抄録から転写されたものと解釈して、日興自身の著作とは認めていないことによると思われる(『詳伝』 p.412)。
 『興全』には写真版が掲載してある。『興全』によれば日興直筆の外題として「安国論問答並申状」とあるが(『興全』 p.3)、後欠のため申状の部分は現存しない。また『興全』は日蓮の注釈の部分と日興の記述の部分との区別が不明確なため、「私云」が日蓮の意見なのか、日興の意見なのか不明であるとしている(同 p.9)。
 また内容的には日蓮の『災難興起由来』『災難対治抄』とほぼ同様な趣旨の部分があり、日興独自の著作と認めるには問題があるが、日蓮の著作には書かれていない部分もあるので、日興の著作と見ることが妥当と私には思われる。
 なお大黒喜道も「『日興上人全集』正編編纂補遺」において、「全体としては宗祖の抄録・記述を日興上人が書写し、さらに自らの記述を多少加えた上で編纂されて、本書は出来上がった」(大黒 p.298)としている。
 
2-3-5 『五重円記』

 『五重円記』(『宗全』2-88)については、『宗全』では要法寺系の嘉伝日悦のAN420年の写本が挙げられている。奥書によれば岡宮光長寺の日興正本を光長寺日賀が書写したものを、日悦が書写したとある。しかし岡宮光長寺は日興に破門された日法が開いた寺院であり、そこに日興の正本が存在したというのは疑問が残る。また『富要』には収録されていない。また『詳伝』にも日興の著作類の中には含まれていない。『興全』では資料的評価をつけずに、続編に収録している(『興全』 p.268)。
 内容的には中古天台本覚思想の五重(権・迹・本・観心・元意)の円の思想に対して、上行所伝の本因妙の思想を元意の円とするもので、四重興廃よりも発達した形の中古天台本覚思想が日興の活躍していた時期に成立していたかどうかは疑問の余地があり、日興のものとしては使用不可である。
 
2-3-6 『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』

 これらの資料については『興全』に述べているように日興筆の『安国論問答』に続く一連の日興筆の文献であり(『興全』 p.29)、『興全』には写真版が掲載されている。『仏法相承血脈譜等雑録』は『安国論問答』の内容に直接関係するメモであり、『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』は『興全』の見解では、『立正安国論』に関係するメモであるとされる(『興全』 p.20, p.23 )。 『禅天魔所以事』『律国賊事』はそれぞれの表題に関する資料メモである。『本門弘通事』には「迹門 比叡山」「本門 富士山 蓮華山 大日山」(『興全』 p.28)とあり、日興が富士戒壇説を持っていたことの傍証とみなされている。
 
2-4 日興の講述類

 この部類に含まれるのは、重須学頭日澄作、日興印可とされる『富士門徒存知事』と、三位日順作、日興印可とされる『五人所破抄』である。
 
2-4-1 『富士一跡門徒存知事』

 『富士一跡門徒存知事』(『富要』1-51『宗全』2-118)については、『宗全』ではAN141年に日算(AN77-?)が書写した写本を、重須僧日誉が日郷系の宮崎県の寺院でAN240年に書写したものが挙げられている。引用の初出は不明である。
 本書が重須学頭日澄の作であるとするのは、日澄の弟子で重須学頭を継いだ三位日順の『日順阿闍梨血脈』に、日澄が日興の命により「数帖自宗所依の肝要を抽んず」(『富要』2-23『宗全』2-336)とあり、しかも日澄は五一の相対について「深く此の意を得るも筆墨に能えずして空しく去りぬ」(『富要』2-23『宗全』2-337)とあり、日澄の書が未完であったことが述べられていることによる。
 『富士一跡門徒存知事』は本文と追加との部分に分かれ、本文は日澄の作であり、追加の部分は日興の作であるというのが、日蓮正宗の主張である(堀米日淳 p.1136)。執行は「比較的日興の思想を伝えるものと思われる」(執行1  p.100)として、著者の問題はあるにせよ、使用可能な資料と判断している。私も第二段階の資料としては使用可能であると判断している。
 「追記 なお高橋粛道『日蓮正宗史の研究』では、堀米日淳の日澄作日興追加説が否定され、全文日興作であるとされる。その根拠は多岐にわたっているが、私が注目しているのは、日道『御伝土代』の「日興上人御遺告」の中の「右以条々鎌倉方五人并ニ天目等之誤多しと雖ども先十七ヶ条を以てこれを難破す、十七の仲に此ノ五の条等第一ノ大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云」という箇所について「この十七箇条の御遺告こそ『富士一跡門徒存知事』であると思われる」(p. 186)と高橋が述べていることである。堀日亨は追加八箇条全体を一箇条と見て、本文とあわせて『富士一跡門徒存知事』を十五箇条であると判断したようであるが、高橋はそれを全体で十七箇条に整理し(p. 181の表)、日道が『御伝土代』を書くときに参照した「日興上人御遺告」十七箇条は『富士一跡門徒存知事』であると指摘した。私もだいぶ前にそうではないかと思い、『富士一跡門徒存知事』の条数を検討したことがあるが、その数え方は高橋とは異なっている。高橋の分類に関して、それなりに疑問点も生じる。まず第一に高橋の表に示された分類は『富士一跡門徒存知事』の条項の順番とは大きく異なっている。次に「9 天目」となっているが、『富士一跡門徒存知事』では天目は追加八箇条に表れるだけである。高橋は堀日亨に従って追加八箇条全体を一箇条と見なしながらも、その一部分で言及されているに過ぎない天目について別に一箇条と判断しているが、そこに恣意性はないだろうか。さらに『富士一跡門徒存知事』では本尊について四箇条が記述されているが、高橋はそれを「7 仏像造立と曼荼羅 8 本尊の軽賎と軽重」の二箇条にまとめているが、これも恣意的な統合ではないのか。私がかって試みた数え方を示そう。『富士一跡門徒存知事』の条項を文字通りに順番に数えていくと、「1 六老僧選定 2 国家諌暁 3 神社不参 4 修行方法 5 受戒 6 墓所不参 7 日興の本六選定 8 日蓮御影 9 御書 10 釈尊本尊と曼荼羅本尊 11 曼荼羅の軽賎 12 日興の交名付加 13 形木曼荼羅 14 本門寺 15 王城 16 日興収録の文献 17 奏聞状」となり本文だけで十七箇条になる。ただこの数え方では天目についての言及がなくなる。『御伝土代』の「日興上人御遺告」では「一、大聖人ノ御書ハ和字たるべき事 一、鎌倉五人ノ天台沙門ハ謂レなき事  一、一部五種ノ行ハ時過たる事 一、一躰仏ノ事 一、天目房ノ方便品読ム可からずと立ルハ大謗法ノ事、倩ラ天目一途の邪義を案ずるに専ら地涌千界の正法に背く者なり。右以条々鎌倉方五人并ニ天目等之誤多しと雖ども先十七ヶ条を以てこれを難破す、十七の仲に此ノ五の条等第一ノ大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云」とあるから、天目の条項が十七箇条に含まれていると読めるのだが、実際には追加八箇条のごく一部に含まれるだけだから、「日興上人御遺告」を『富士一跡門徒存知事』であると判断することは私には躊躇される。しかし4の書写行の禁止とか、15の王城遷都などの大胆な主張が日興以外の弟子にできるとも思えないので、『富士一跡門徒存知事』が日興の著作であるとまでは主張しないが、日興の思想をよく示している文献であると判断している。(2012/2/20)」
 
2-4-2 『五人所破抄』

 『五人所破抄』(『富要』2-1『宗全』2-78)については、写本は日興の甥の西山日代の写本が残っている。日代本の末尾に「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」が他筆で書かれていることが『宗全』で述べられている(『宗全』2-87)。『富要』ではこの加筆部分が三位日順の筆であると述べられている(『富要』2-8)。
 そして日順の『日順阿闍梨血脈』において、「汝先師の蹤跡を追ふて将に五一の相違を注せよと云云、忝くも厳訓を受けてに紙上に勒し粗ぼ高覧に及ぶ、」(『富要』2-24『宗全』2-337)とあり、日興の命によって五一の相対に関する著書を書き、日興に読んでもらって内容を印可されたとあることから、この著書が『五人所破抄』であると日蓮正宗は主張している。
 宮崎英修は作者を日代としているが、執行は「日順の草案を日代が清書したものではないかと思う」(執行1 p.100)と述べて、日興の教学思想を解明するために使用可能であると判断しているが、私も同意見である。
 
2-5 日興の消息類

 『興全』には正編に89編、続編に5編の手紙を収録している。この中で特に重要なのは、日興の身延登住の事情を記した『美作房御返事』、身延離山の事情を記した『原殿御返事』『与波木井実長書』、師弟関係を強調した『報佐渡国講衆書』である。
 
2-5-1 『美作房御返事』

 『美作房御返事』(『宗全』2-145)については、『宗全』によれば正本はなく、AN279年の要法寺日辰の『祖師伝』に出典を明示せずに、全文引用されている。引用の初出も不明である。日蓮滅後の身延の状況を記述した唯一の資料であるが、古い写本なども無いのが気にかかることである。しかしこの書簡を疑問視する研究者はいないのであり、第二段階の資料として使用するには問題はないと思われる。
 
2-5-2 『原殿御返事』

 『原殿御返事』(『宗全』2-170)については、『宗全』によれば正本はなく、要法寺日辰の『祖師伝』に出典を明示せずに、全文引用されている。ただし引用に関しては、身延11世行学日朝(AN141-AN219)の『立像等事』に抄録があり(『本尊論資料』 p.113)、また中山久成日親(AN126-AN207)のAN189年の『伝燈抄』に長文の引用がある(『宗全』18-22)。この資料についても疑義が提出されていないので、第二段階の資料として使用可能である。
 
2-5-3『与波木井実長書』

 『与波木井実長書』(『宗全』2-169)については、『宗全』によれば、正本が大石寺にあるということであるが(同 2-170)、堀日亨の『身延離山史』では正本の存在を否定している(『身延離山史』 p.143)。『本尊論資料』には身延日朝の『立像等事』に全文引用がある(『本尊論資料』 p.114)。
 堀日亨は『身延離山史』の中で、「偽文書にはあらざるが、但しこの状の骨子奈辺にあるや、愚推に能わず、必ず首尾の文または引文の中間にも断章ありしものと思わるる、それらが整束して始めて本状の意義が判明するであろう」(『身延離山史』 p.144)と述べて、日興のものであっても、不完全な文書であるから、使用には注意すべきであるとしている。
 現在の日蓮正宗の立場では、高橋粛道の『日興聖人御述作拝考1』によれば、真偽未決とされている(高橋 p.52)。私は堀日亨の考察を妥当と考えているので、第二段階の資料としては使用可能であると思われる。
 
2-5-4 『報佐渡国講衆書』

 『報佐渡国講衆書』(『宗全』2-177)については日興正本があり、『興全』には日興正筆の写真版が掲載されている。日蓮から続く本弟子六人の師弟の関係を重視し、それを成仏の条件としているようにも解釈でき、また六人以外の日蓮の弟子たちが日蓮の直弟子であることを名乗ること謗法として非難している。この日興の師弟関係の重視は、後述の日興の『本尊分与帳』との内容的関連を示している。
「追記 小林正博の「大石寺蔵日興写本の研究」(『東洋哲学研究所紀要』第24号、2008)によれば、『興全』の写真版の筆跡鑑定により、ひらかなのいくつかの字体(変体かな)の使用が他の日興の標準的な字体(変体かな)の使用とは大きく相違していることを指摘し、この文献が日興のものであることを否定している(前掲論文 p. 20-21)。私には小林の議論は説得力があるように思われるのだが、学究諸氏の検討をお願いしたい。疑義が示された以上この文献を第一段階の資料として使用することはできない。」(2009/2/26)

2-6 要文、記録類、申状その他

 この部類には要文類として、『詳伝』によれば、『開目抄要文』、『内外見聞双紙』、『内外要文』『法門要文』などがある。
 記録類として(以下の表記は『興全』により、( )内で『宗全』の表記を記す)、『宗祖御遷化記録』『墓所可守番帳事』(『身延墓番帳』)『御遺物配分事』『弟子分本尊目録』 (『本尊分与帳』)がある。
 申状類として、『実相寺衆徒愁状』『実相寺住僧等申状』『滝泉寺申状』『四十九院申状』『申状』(正応二年、嘉暦二年、元徳二年)がある。
 その他として、『遺誡置文二十六箇条』(『日興遺誡置文』)『定大石寺番帳事』『日興跡条々事』(『日興跡條條事』)『日興置状(日代八通遺状)』(『日代譲状並置状八通』)『日興付属状』(『日代等付属状』)『日興覚書』(『与日代書)『与日目日華書』『与日妙書』『佐渡国法華衆等本尊聖教等事』『定補師弟並別当職事』『日盛本尊相伝証文』(『与了性房日乗書』)『日興置文』『日興譲状』『本門寺棟札』などがある。
 
2-6-1 要文類

 『開目抄要文』『内外見聞双紙』『内外要文』『法門要文』」などは、『詳伝』によれば日興の正筆が存在している。しかし日興独自の思想を述べたものではないので、公開の必要はないとしている(『詳伝』 p.411)。『興全』はこれらの一部も収録しており、写真版で『諸宗要文』『内外見聞双紙』『法門要文』『玄義集要文』が収録されている。
 
2-6-2 記録類

 『興全』に写真版で収録されている『宗祖御遷化記録』(『興全』p111『宗全』2-101)『墓所可守番帳事』(『興全』p.117『宗全』2-106)は一連の文書であり、継ぎ目に四人の本弟子の加判がある。『宗祖御遷化記録』の最後の部分に「御所持仏教事」があり、釈迦立像と注法華経の扱いについての遺言が書かれている。
なお『墓所可守番帳事』と同種の池上本門寺蔵『久遠寺輪番帳』があるが、『興全』は「筆致・花押ともに日興上人筆とは認めがたい」(『興全』 p.117)としている。私もこの判断に従う。
 『御遺物配分事』(『興全』 p.119『宗全』2-107)は、後半部分については日興正本が池上本門寺にあり、前半部分は日蓮の弟子日位写本がある。しかし『興全』は「後半の御筆は花押といい書風といい、日興上人のものとは認めがたい。内容的にも疑問があり、全体的に問題が多い」(『興全』 p.119)としている。私もこの判断に従う。
 『弟子分本尊目録』(『本尊分与帳』)(『興全』p.121『宗全』2-112)は『興全』に写真版が掲載されている。
 
 2-6-3 申状類

 『実相寺衆徒愁状』(『興全』 p.93)『実相寺住僧等申状』(『興全』 p.109)は『興全』に写真版が掲載されている。
 『滝泉寺申状』(『創』 p.849、『定』 p.1677)は『詳伝』によれば、前半部分は日蓮の真蹟であり、後半部分は日興の正筆である(『詳伝』 p.75)。なお興風談所の菅原関道は、字体の比較研究により、後半の部分は日興ではなく、富木常忍であるという見解を発表したが、比較された字体に関しては、その見解に説得力があると思われる(興風談所御書システムのHPの平成17年2月コラム「『滝泉寺申状』の異筆は誰か」)。
 『四十九院申状』(『興全』 p.315『宗全』2-93)には日精写本がある。『原殿御返事』にこの申状についての言及がある(『興全』 p.358『宗全』2-175)。したがって第二段階の資料としては使用可能である。
 『申状』(『興全』 p.318『宗全』2-93)については、正応二年、嘉暦二年、元徳二年のものが、3通挙げられているが、いずれも上代の古写本はない。うち正応、元徳の2通は幕府への申状で、嘉暦の1通は朝廷への申状である。いずれも伝教大師弘通の天台宗を迹門とし、日蓮弘通の本門とを区別している。
 なお『五人所破抄』には上で挙げた嘉暦年間の朝廷への申状が引用されている(『富要』2-2『宗全』2-80)。また『門徒存知事』には2つの幕府への申状に共通する文言がほぼ引用されている(『富要』1-51『宗全』2-119)。また日道の『御伝土代』には元徳年間の申状が引用されている(『富要』5-9『宗全』2-251)。したがって第二段階の資料としては使用可能である。
 
2-6-4 その他
 
2-6-4-1 『遺誡置文二十六箇条』(『日興遺誡置文』)

 『遺誡置文二十六箇条』(『興全』 p.282『宗全』2-131)については、『宗全』によればAN255年保田妙本寺日我写本がある(『宗全』2-133)。『詳伝』でも古写本が存在しない理由を訝っている(『詳伝』 p.433)。
 またAN52年の日道の『御伝土代』の日興伝には『遺誡置文二十六箇条』については全く言及されていない。AN51年の「日興御遺告」に関しては詳しい記述があるのに(『富要』5-9『宗全』2-251)、翌年亡くなる前に定めたとされる『遺誡置文二十六箇条』に言及していないのは不思議である。また古い引用に関しても知られていない。内容的に問題があるとは思えないが、文献考証を基礎とした議論をする場合には、使用を差し控えるしかないだろう。
「追記 東佑介は『日興門流文書とその真偽論』において、『遺誡置文二十六箇条』の記述内容を検討し、この資料の中で御書の真偽問題について言及しているが、日興在世中には、日興門流所蔵の御書に関して他門流から真偽論を提起された形跡はないこと、また本迹一致を説く偽書の存在について言及しているが、それは『法華本門宗要抄』を指す可能性が強いこと、神社参詣を厳禁することが、大石寺日有の『化儀抄』とは異なること、年号使用の異常なこと、日道『御伝土代』の「日興上人御遺告」との整合性などの理由により、日興撰述であることを否定している(東 2007-2 p. 2-8)。その上で日興門流諸派の中で偽作した可能性が高いのは重須であるとし、日有が『化儀抄』を講義した時期には、重須も神社不参を主張したと推定できることを根拠に、偽作の時期を『化儀抄』成立の時期から日我写本成立の間としている(同、p. 21-22)。この議論は大石寺が主張する日時写本の存在を否定した上で成立する議論であるが、大石寺が日時写本を公開していないので、私にも判断しかねる。」(2009/3/22)
 
2-6-4-2 『定大石寺番帳事』

 『定大石寺番帳事』(『興全』 p.339『宗全』2-129)については『宗全』によればAN279年要法寺日辰の写本がある(『宗全』2-130)。しかし内容的には『弟子分本尊目録』(『本尊分与帳』)で弘安年間に日興に離反したと記述されている越後阿闍梨日弁を当番にしているなど不審な点がある。
 堀日亨の『詳伝』では参考史料の扱いであり、日弁の問題ともども要検討としている(『詳伝』 p.363)。同年の日郷正筆の『日興上人御遷化次第』には越後公日弁は挙げられていない(『宗全』2-270)。『興全』も堀日亨の見解を引用して、内容を疑問視している(『興全』 p.339)。資料としては使用不可と考えられる。
 
2-6-4-3 『日興跡条々事』(『日興跡條條事』)

 『日興跡条々事』(『興全』 p.130『宗全』2-134)については、『興全』には写真版が掲載され、「本状には置状・譲状としては年号のないことや全体の筆使いから、日興上人筆には疑義が提出されている」(『興全』 p.130)という注が付けられている。
 『宗全』の堀日亨の注に「おおよそ四字は後人故意にこれを欠損す。授与以下に他筆をもって「相伝之可奉懸本門寺」の九字を加う」(『宗全』2-134)とあることから、いろいろの文献的問題が生じていた。
 しかし堀米日淳は堀日亨の他筆という見解を否定して、日興自身の加筆であるとした(堀米 p.1462)。高橋粛道によれば、『日興跡条々事』には、走り書きの案文と清書の本文の二つがあるが(高橋 p.413)、いずれも公開されていないので、高橋も後述する山口範道も原資料を直接見ていないが、堀日亨の本文と案文との二通の模写本が存在しており、その模写本を山口範道が古文書鑑定したことが述べられている(高橋 p.412)。
 問題は本文と案文にそれぞれ、どのような文章が書かれているのか、その案文、本文ともに日興筆であると判定できる根拠があるのかということである。
 『興全』の写真版は『宗全』に掲載された資料ではなく、堀日亨によって欠損、加筆されたとする資料が掲載されている。東佑介の考察によれば、堀が『宗全』に掲載したのは案文であり(東 p.57)、案文には「御下文」が書かれていたが、本文は写真版にあるように四文字分が空欄になっている。また案文にはなかった「可奉懸本門寺」が本文に加わった(東 p.58)。
 東佑介は日興正本が大石寺にありながら、日付だけに限っても3種類の異本が存在することから、日興正本の存在を疑っている(東 p.65)。さらに東は写真版の花押を他の日興の花押と比較して、日興筆を疑っている(東 p.66)。また東は、山口範道が『日蓮正宗史の基礎的研究』の中で、『日興跡条々事』の署名・花押として挙げているもの(山口 p.223)は、写真版(『興全』 p.492)とは異なり、花押部分だけ見れば『日興跡条々事』の写本(山口 p.217)と酷似していることを指摘している(東 p.67)。この写本は高橋粛道が述べている堀日亨の臨写本と思われる(高橋 p.412)。日蓮正宗内で古文書鑑定に関して最も優れているとされる山口範道でも原資料を鑑定できないという状況が存在していることに私は問題があると考えている。
 さて私の見る限りでは、『興全』の『日興跡条々事』の写真版は墨痕がかすれて見える箇所がかなり見られ、山口範道が『日興跡条々事』の署名・花押として挙げているもの(山口 p.223)は確かに写真版とは異なって見える。しかし写真版の基となった正本にかすれて見える部分が確かに書かれているならば、日興の花押でないとは言えないと思う。正本の開示が問題を決着させるしかないだろう。
 これとは別に写真版の欠損部分が墨で消されているのではなく、空欄になっていることに私は不思議さを感じている。案文を基にして、正本を書くときになぜわざわざ空欄を作らなければならないのか、私にはわからない。大石寺が資料の公開を拒否している限りは、与えられた写真版で判断するしかないが、『興全』の注に従って、日興の資料としては使用を差し控えるのが妥当であると思われる。
 
2-6-4-4 『佐渡国法華衆等本尊聖教之事』『定補師弟並別当職事』

 『佐渡国法華衆等本尊聖教之事』(『興全』 p.132『宗全』2-142)と『定補師弟並別当職事』(『興全』 p.133『宗全』2-142)の2通の日満への譲状については、『宗全』によれば佐渡妙宣寺に正本があるとのことであり(『宗全』2-143)、『富要』でも「此の二通の日満への置状は開山上人譲り状中の整美なるものなり、文態、事項、筆格無双なり」(『富要』8-145)と高く評価している。
 しかしこの二つの日満譲状については『興全』には写真版が掲載されているが、年号使用の問題を指摘して、「本状を上人のものと断定することは躊躇される」(『興全』 p.132)としている。筆跡などで日興筆と判断できればそれで十分だと私は考えていたが、写真版ではその判断ができないのであろうか。疑義がある以上、日興の資料としては差し控えるしかない。
「追記 東佑介は『日興門流文書とその真偽論』の中で、『定補師弟並別当職事』の署名の「興」の筆跡鑑定を根拠に、日興筆であることを否定している(東 2007-2 p. 12-13)。この鑑定に対して他の研究者がどう判断するのか、注目したい。」(2009/3/22)
 
2-6-4-5 『日盛本尊相伝証文』(『与了性房日乗書』)

 『日盛本尊相伝証文』(『興全』 p.135『宗全』2-141)については、『宗全』では古写本によるとしか書いていない。『興全』では正編に収録されており、正本大石寺蔵とあるが、写真版はない。『詳伝』には日興正本が大石寺にあるとしている(『詳伝』 p.496)。
 ただし本文に「六人判形可有之」とあるが、その六人を本六の弟子と考えると、AN51年の『日盛本尊相伝証文』より前に(『富士年表』AN48年)本六の一人日秀は亡くなっている。その点で疑問は生ずるが、堀日亨が正本の存在を明言しているから、信用してもよいのではないかと思われる。大黒は前記論文においてこの資料に関しては日興御筆写真がないため、校訂に関して諸問題が生じたことを述べている(大黒 p.308)。
 
2-6-4-6 『日興置状(日代八通遺状)』(『日代譲状並置状八通』) 『日興付属状』(『日代等付属状』)『日興覚書』(『与日代書』)『与日目日華書』『与日妙書』『日興譲状』

 『日興置状(日代八通遺状)』(『興全』 p.325 宗全』2-135)は『宗全』によれば西山本門寺に正本の臨写本があるということであるが(『宗全』2-139)、『詳伝』によれば、西山本門寺にはなかったということであり、偽作と推定している(『詳伝』 p.361)。『興全』も資料的価値を疑い、続編に収録している(『興全』 p.325)。
 『日興付属状』(『興全』 p.334『宗全』2-139)については、『宗全』によれば、単に古写本によるとのことであるが(『宗全』2-141)、『富要』によれば、後世の偽託であるとしている(『富要』8-143)。『興全』も同様の判断をしている(『興全』 p.334)。
 『日興覚書』(『興全』 p.335『宗全』2-140) 『与日目日華書』(『興全』 p.336『宗全』2-143) 『与日妙書』(『興全』 p.337『宗全』2-141) 『日興譲状』(『興全』 p.338)の諸譲状についても、前述の『日興付属状』と同様に判断されている。
 
2-6-4-7 『本門寺棟札』

 『本門寺棟札』(『興全』 p.137『宗全』2-111)については、『宗全』によれば正本が重須北山本門寺にある(『宗全』2-111)。『富要』にも『三堂棟札』として日興直筆と判断されている(『富要』8-142)。『興全』では「日興上人の常の書体とは異なるように判断される」(『興全』 p.137)としている。この資料も使用を控えることが無難であろう。

略記一覧
姓のみを記した略記は下記の文献一覧を参照のこと
『興全』 日興上人全集編纂委員会編 『日興上人全集』
『宗全』 立正大学日蓮教学研究所編 『日蓮宗宗学全書』 巻数と頁数のみを付けた
『詳伝』 堀日亨 『富士日興上人詳伝』
『創』  創価学会版『日蓮大聖人御書全集』
『定』  立正大学宗学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』
『富士年表』 富士年表増補改訂出版委員会編『日蓮正宗富士年表』 
『富要』 堀日亨編 『富士宗学要集』 巻数と頁数のみを付けた
『本尊論資料』 身延山短期大学出版部編『本尊論資料』改訂版
 
文献一覧
東佑介 『大石寺教学の研究』 平楽寺書店 2004
東佑介 2006-1 『二箇相承の真偽論』 非売品(2009/3/22)
東佑介 2006-2 『本尊三度相伝の真偽論』 非売品(2009/3/22)
東佑介 2007-1 『産湯相承事の真偽論』 非売品(2009/3/22)
東佑介 2007-2 『日興門流文書とその真偽論』 非売品(2009/3/22)
阿部信雄(日顕) 「立正大学図書館長宮崎英修氏の妄説誹謗を排す」『大日蓮』昭和51年11月号(阿部1)
阿部信雄(日顕) 『大日蓮』昭和56年9月号(阿部2)
今谷明 『室町の王権』 中公新書 1990
大黒喜道 「『日興上人全集』正編編纂補遺」 『興風』第11号
金子弁浄編 『創価学会批判』日蓮宗宗務院1955
小林正博 「大石寺蔵日興写本の研究」(『東洋哲学研究所紀要』第24号、2008(2009/3/22)
執行海秀 『日蓮宗教学史』平楽寺書店 1952
執行海秀 『興門教学の研究』(執行1と略記) 海秀舎 1984
菅原関道 「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」『興風』第11号
創価学会教学部編 『教学の基礎』 創価学会 2002
創価学会教学部編 『折伏教典』 創価学会 1964 改訂四版
創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会批判を破す』 鳳書店 1962
高橋粛道 『日興上人御述作拝考1』 仏書刊行会 1983
高橋粛道 『日蓮正宗史の研究』 妙道寺事務所  2002
日有(南条日住記) 『有師化儀抄』 (『富要』第1巻所収)
日興上人御本尊集編纂委員会編 『日興上人御本尊集』 興風談所 1995
日興上人全集編纂委員会編 『日興上人全集』 興風談所 1995
日蓮正宗宗務院 『日蓮正宗要義』 1978
富士年表増補改訂出版委員会編 『日蓮正宗富士年表』 富士学林 1989
堀日亨編 『富士宗学要集』第一巻 創価学会 1974
堀日亨編 『富士宗学要集』第二巻 創価学会 1975
堀日亨編 『富士宗学要集』第四巻 創価学会 1978
堀日亨編 『富士宗学要集』第五巻 創価学会 1978
堀日亨  『富士日興上人詳伝』 創価学会 1963
堀日亨  『身延離山史』 大日蓮社 1937 
堀米日淳 『日淳上人全集』下巻 日蓮正宗仏書刊行会 1982 改訂分冊
身延山短期大学出版部編 『本尊論資料』新訂版 臨川書店 1978
宮崎英修 「富士戒壇論について」仏教史学会編 『仏教の歴史と文化』(同朋舎 1980)所収
望月歓厚 『日蓮宗学説史』平楽寺書店 1968
山口範道 『日蓮正宗史の基礎的研究』 山喜房仏書林 1993 
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗学全書』第二巻 山喜房仏書林1983 第二版
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗学全書』第四巻 山喜房仏書林 1968 第三版
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗学全書』第十八巻 山喜房仏書林 1968 第三版
Pdfファイル 池田令道『富士門流の信仰と化儀』
HP『富士門流信徒の掲示板』

筆者後記
 本論文は既に印刷された後に、その記述に関して誤解を受ける可能性がある不適切な表現があることを学兄、友人諸氏から指摘され、よく読みなおすと私の論文全体の趣旨に関して誤解を与えかねない箇所が目に付き、追加説明的な文書を別紙印刷で添付しようとも考えたが、全面的に書き改めたほうがよいだろうと判断し、人文学会の諸先生たちのご理解をいただき、稿を改めさせていただいた。私の配慮の至らなさを反省するとともに、ご迷惑をおかけした関係諸氏にお詫びを申し上げる次第である。

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