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日興の教学思想の諸問題(2)――思想編

目次
0 はじめに
1 本尊論
1-1 曼荼羅=本尊
1-1-1 正筆資料を基にした考察
1-1-1-1 日興書写曼荼羅の多様性
1-1-1-2 日蓮真蹟曼荼羅との比較
1-1-1-3 日蓮宗諸派の曼荼羅作成
1-1-1-4 曼荼羅の意義
1-1-2 信頼できる文献資料による考察
1-1-2-1 『富士一跡門徒存知事』の検討
1-1-2-2 曼荼羅のみを本尊とする御書とはどの御書か
1-1-2-3 曼荼羅と釈迦木像の安置様式について
1-1-2-4 日蓮本仏論と曼荼羅、日蓮御影安置の関係
1-1-2-5 他門流は曼荼羅を軽視したか

1-2 理論的に容認された本尊としての一尊四士
1-2-1 日興正筆に見られる議論
1-2-2 信頼できる資料による考察
1-2-2-1 『原殿御返事』の仏像に関する議論の考察
1-2-2-2 『富士一跡門徒存知事』の仏像に関する議論の考察
1-2-2-3 日蓮の持仏
1-2-2-4 『真間釈迦仏供養逐状』の仏像
1-2-2-5 日蓮在世中に造立されたその他の仏像
1-2-2-6 『富士一跡門徒存知事』に記載された日蓮滅後に造立された仏像
1-2-2-7 『富士一跡門徒存知事』の仏像造立記述の問題
1-2-2-8 日興の仏像不造立の意義
1-2-2-9 広宣流布の時に釈迦仏像を造立するという議論

1-3 儀礼上の本尊としての日蓮御影

2 本迹論
2-1 宗号問題
2-1-1 日興正筆による考察
2-1-2 信頼できる資料による考察
2-2 日蓮上行再誕説
2-2-1 日興正筆による議論
2-2-2 信頼できる文献による考察
2-3 修行論

3 その他の五一相対の議論
3-1 国祷
3-1-1 日興正筆による考察
3-1-2 信頼できる資料による検討
3-2 神社参詣問題
3-3 国家諌暁について

4 五一相対の今日的意味



0 初めに

 本論文は2006年に発表した『日興の教学思想の諸問題(1) 資料編』の続編である。既に発表以来8年を経て続編を発表するのだが、これほど遅れるとは思っていなかった。本論文は2年前の春休みにはほぼ完成していたのだが、たまたまその時期に、長い間かけて収集していた興風談所の『興風』のバックナンバーがある程度揃ったので、現在の日興研究の状況をチェックしようとして、読み進めていたところ、いくつかの日興に関する論文の議論を是非紹介しておく必要があると感じた。『興風』は発行部数が少ないためか、古書店のカタログに掲載されることも稀であり、たまたま掲載されて注文しても既に売却済みで入手できないという状態が長い間続いていた。日蓮研究者にとって意義のある論文もそれなりに多いが、入手困難という理由で、多くの人に共有されていないのは残念である。既に絶版になった号の論文はPDFファイルにして公開してくれると有難いが、とりあえずこの論文でいくつかの論文の紹介をしたい。
 その作業をしていた一昨年5月に高血圧に由来する右目眼底出血で失明状態になり、ほぼ平常の視野の状態になるまで1年かかってしまった。昨年の春から執筆作業を再開したが、春はアメリカの教育関係の出版社から教育学事典(Sage Publications. Encyclopedia of Educational Theory and Philosophy, ed. by D. C. Phillips, June 2014)に掲載する牧口常三郎の原稿の執筆を依頼され、アンドリュー・ゲバートの助力で、なんとか英文原稿を仕上げることで終わってしまった。夏はSGIの教学関係のチェックで終わってしまい、ようやくこの春休みに気合を入れて、本論文を仕上げることができた。
 私も65歳となり、腰痛、ひざ痛、肩こりと老化現象がすすみ、ある程度体力維持のための運動をしなければならず、整形外科医のアドバイスにより週3回プールで水中ウォーキング、水泳をしているが、それなりに疲れるので、パソコンに向かってもいつの間にか、うとうとしてしまい、なかなか執筆がはかどらない。それで引用文の入力に関しては、できるだけ既にネットに公開されているものは、それをコピペさせていただいた。日蓮の御書関係はSOKANETを、日興の文献はnb資料室の公開ファイルを使用させていただいた。公開されていない日興関係の資料については山中講一郎作成と聞いている私家版電子ファイルを使用させていただいた。これまで富士宗学要集の文献でnb資料室のHPに掲載されていない文書は自分で入力していたが、学生時代から世話になっている先輩の広野輝夫から山中作成のファイルをいただき、大変ありがたく使用させていただいている。多分著作権法上では問題ありなのだろうが、販売目的ではなく、研究促進という目的で作成したものであるから、ある程度研究者の間で使用されてもそれほど問題はないと考えている。最近話題のSTAP細胞をめぐる議論でも示されるように、学問的研究は、ネットに公開することによって、スピーディーに検証可能となる。文科系の学問においても、私は紙媒体という発表形式よりも、電子媒体、さらにはネットへの公開によって、大きく学問的研究が進むと考えている。
 ともあれこの論文で、私の創価学会研究の第1部日蓮正宗論は、残すところ三位日順に関する論文だけとなった。当初は創価学会研究4部作を出版することを考えていたが、1、ワープロで作成した文書をわざわざ紙媒体で発表するのは、資源と資金と人的エネルギーの無駄遣いである、2、ネットへの公開は読者に経済的負担をかけない、3、論文訂正などが容易に行えるという学問的メリットがある、4、読者による引用などの二次加工がしやすい、という理由から、出版はせずに、ネットでの公開にする。研究には時間と費用と労力が必要であるが、それらの大部分は私の創価大学教員としての職責によってある程度保証されている。私の研究費、給与のある程度の部分は、創価大学学生の学生納付金とともに私学助成金という形で国税が使用されている。国民の税金で支えられている私の研究を、HPへの公開という形で、国民に還元することは、私の義務でもあると考えている。読者が私の論文を使用してどのような議論をしても、私の論文の引用部分と、読者の主張部分とを区別して明示してあれば、使用に関しては何の問題もない。また読者からの指摘があれば、その都度論文を訂正する用意はあるが、訂正にはそれなりの検討時間が必要であるから、迅速にというわけにはいかないのは寛恕していただきたい。
 結果的に長文の論文になってしまったので、草稿をチェックしてくれた同僚の菅野博史のアドバイスにしたがって、読者の利便性のために最初に目次をつけ、簡単な内容を以下に示すことにした。なお引用が多くて、内容の把握に困難があると思われるが、引用は論拠を示すだけであり、議論の内容を理解するためには、引用部分は飛ばしてもかまわない。
 「1-1 曼荼羅=本尊論」では、日興が作成した本尊は曼荼羅のみであることを確認し、日興の初期の書写曼荼羅は複数の日蓮真蹟曼荼羅を精密にコピーしていることを示し、決して日蓮正宗の神話で語られる戒壇本尊の書写ではないことを示し、また日蓮の相承書であるとされる『御本尊七箇相承』の記述とも矛盾することを示し、日蓮から日興への曼荼羅書写方法の伝授がなかったことを示す。その傍証として日興以外の直弟子門下などの図顕した曼荼羅を検討し、日興が他の老僧の曼荼羅書写を知りながら、それを批判した箇所がないことを示す。次に本尊安置様式を検討し、日興門流ではある時期から、日蓮御影を前方に、曼荼羅を後方に安置する形態が常態化していることを示す。それに関連して、日蓮正宗では、日興が手紙の中で「仏」に供養を捧げたことを論拠にして、この「仏」とは「日蓮御影」のことであり、このことは日興が日蓮本仏論を持っていた証拠だと主張しているが、日興が曼荼羅を「仏」と表現している事例が一つあり、しかも手紙には「本尊」「曼荼羅」への言及が一切ないから、手紙の「仏」は曼荼羅を指す可能性が高く、日興が日蓮本仏論を持っていた証拠にはならないことを示す。次いで日蓮真蹟曼荼羅の形木印刷の問題を検討する。
  「1-2 理論的に容認された本尊としての一尊四士」では、日興が初期の『原殿御返事』で波木井実長に将来経済事情が許せば、一尊四士の仏像造立を容認したのに、結果的には日興周辺では仏像造立がなされなかったことの意味を検討する。次いで日興周辺では仏像造立はなされなかったが、他門流で一尊四士の造立がなされたことを「日興の義」を盗用したと批判しているが、その意味と批判の妥当性を検討する。その過程で中山門流の一塔両尊四士の造立の意味を検討する。日興の曼荼羅正意説は『富士一跡門徒存知事』本文で「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」と述べるほど、過激なものになっていき、一尊四士の造立は日蓮の義ではなく、日興の義と表現されるようになった。それでも日興は消極的ではあっても仏像造立を容認せざるをえなかった。だが日興門流には広宣流布の時に仏像を造立するという資料も残っている。大黒喜道は、日蓮が曼荼羅と仏像の二つの本尊を認めていたことに関して、日蓮は両者の関係を、順縁広布の本尊=仏像、逆縁広布の本尊=曼荼羅というように考えていたのではないかということを論証しようとしている。日興が曼荼羅正意説を採用したのは、逆縁広布の時代の本尊としてであり、将来の順縁広布の本尊として仏像造立の余地を『五人所破抄』『富士一跡門徒存知事』では述べなかったが、甥の日代、重須学頭三位日順には教示していた。
 「1-3 儀礼上の本尊としての日蓮御影」では、日興が宗教儀礼の中で重視した日蓮御影が信仰の対象となっていく過程で、日有は日蓮御影=因位の仏像という議論を展開し、大石寺には、本尊として曼荼羅と日蓮御影=久遠元初仏像との二つが認められるようになったが、近年は日蓮御影が本尊ではないという主張をするようになり、腹籠り本尊の議論を展開するが、これらはいずれも日興の時代にはなかった議論であることを示す。
 「2 本迹論」では日興が、弘安八年の日昭、日朗の申状の「天台沙門」の使用を取り上げて、本門を弘教した日蓮の弟子から転落したという批判を加えていることを検討する。次いで日興は日蓮=上行説を公言したが、他の老僧たちが日蓮=上行説をどのように扱っていたかを検討する。次に修行に関して日興は、法華経に基づく読誦行、書写行を末法相応の修行ではなく、唱題行のみが末法折伏の時代の修行だとして、他の日蓮門流の修行を批判している。しかし日興門流でも唱題行のみではなく、日蓮から継承した方便品、寿量品の二品読誦を行っており、唱題行のみという議論と整合していない。他の門流でもメインの修行は唱題行であることは同じなのだから、細かいところで日興門流と他の門流を差別化することにはあまり意味はないことを指摘する。
 「3 その他の五一相対の議論」では、国祷問題とそれに関連する神社参詣問題を検討する。日蓮は『立正安国論』で、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」と述べて、国主による邪法禁断が諸宗による祈祷よりも優先するという立場を鮮明に示している。ところが日昭、日朗は幕府の弾圧を避けるために、諸宗禁断のない状態で、他宗と共に国祷を行い、また日向は身延の大師講で自発的に国祷を行った。これは『立正安国論』に反する行為であると日興は批判したが、日向は『諌暁八幡抄』の八幡菩薩は「法華経の行者の頭に栖む」という議論を「法華経の行者が参詣すれば、諸神も神社に帰還する」というように解釈して、神社参詣を正当化した。ここには宗教的祈りが効果を持つためには、どのような条件が必要なのかについての、教義的論争がみられるが、そもそも宗教的祈りと、その効果に関して、因果関係が認められるのであろうか。個人の心理現象としては認められうるが、宗教社会学的には認めることはできないだろう。したがってこの論争も今日においては無意味な論争であることを指摘する。
 「4 五一相対の今日的意味」では日興と五老僧との見解の相違についての論争は、彼らが生きていた時代にはそれなりに意味を持っていたかもしれないが、その後の教団の運動の展開の中で、日興門流も日興の思想から変化し、日興によって批判された五老僧の系統の教団も、教団の基盤が固まるにつれて、日興と同じような主張へと変化していった。今日においては、過去の論争にとらわれ、正統論争をすることには何の意味もない。むしろ日蓮の思想が現代においていかなる意味において有効なのか、という問題が検討されなければ、現代の人々に日蓮の仏法を受容してもらうことはできない。それなくして日蓮が夢想した世界広宣流布もあり得ないことは確かであることを結論として述べる。
 
1 本尊論
1-1 曼荼羅=本尊
1-1-1 正筆資料を基にした考察
1-1-1-1 日興書写曼荼羅の多様性

 日興の正筆の文献のみを考察するならば、日興が本尊として自覚的に作成した本尊は曼荼羅のみである。日興は『弟子分本尊目録』(『本尊分与帳』)において「白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事 永仁六年(AN17)戊戌。」(『富要』8-5『宗全』2-112)と記述してから、本六の弟子五人に対して日蓮の御筆御本尊(=曼荼羅)を授与したことを述べた後で、「鎌倉の住人了性房日乗は日興第一の弟子なり聖人御遷化の後なる間日興書写し与ふる所件の如し」(『富要』8-6『宗全』2-112)と述べて、日興が書写した曼荼羅を授与したことを述べている。この記述は日興が日蓮の御筆御本尊と同様の宗教的意義を持つものとして曼荼羅を書写していることを明示している。
 なお日興が書写した曼荼羅は過半が興風談所により『日興上人御本尊集』に写真版、図版などで公開されている。文献資料により299幅の曼荼羅が挙げられているが、写真版、図版で確認されているのは、その半分強であり、学術的調査が困難である状況を反映している。日蓮正宗では尊重されてきたが資料的に問題がある『御本尊七箇相承』との相違に注目して検討してみると、『御本尊七箇相承』では「日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか」(『富要』1-32『宗全』2-42)と記述してあるが、「日蓮聖人」とだけあり、「御判」「御在判」がないものが最初期の曼荼羅に2幅(No.1, 8)あり、「日蓮聖人御判」とあるものが1幅(No.7)ある。また首題が大きすぎて「日蓮御判」を書くスペースがないため、右に「日蓮」と書いてある曼荼羅が2幅(No.58, 60)ある。その他に表装の時に切断されてしまい、「御判」の部分を確認できない曼荼羅は多数ある。
 次に図顕讃文(滅度讃文)について検討すると、『御本尊七箇相承』には「仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)とあるが、さすがに図顕讃文を省略した曼荼羅はないが、文言に関しては、「仏滅度後」と書かれている曼荼羅が大部分ではあるが、晩年に書かれた曼荼羅では「如来滅後」という表記も混在し、また「仏滅後」の表記も3幅ある(『日興上人御本尊集』p.40)
 次に禍福讃文に関しては、『御本尊七箇相承』には、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、経中の明文等心に任す可きか」(『富要』1-32『宗全』2-43)と記述してあるが、現存する最古の曼荼羅(No.1)には禍福讃文が何も表記されていないし、同様に禍福讃文がない曼荼羅は他に3幅(No. 120, 166, 190)ある。また「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」ではなく、それと同趣旨の「謗者開罪於無間・讃者積福於安明」と表記されている曼荼羅(No.24)もある。
 次に『御本尊七箇相承』には「十界互具の事義如何、示して云はく釈迦多宝は仏界なり」(『富要』1-31『宗全』2-41)とあり、曼荼羅の中央の首題の左右に「釈迦多宝」が表記されることは当然のこととしているようだが、その表記がない曼荼羅(No.13)が1幅ある(もっともNo.13の曼荼羅は写真版ではなく、図版しか掲載されていないので、日興筆かどうかは私にはよくわからないが、興風談所では日興筆と判断している)。
 このように『御本尊七箇相承』と日興書写曼荼羅とは無関係であることが示されるが、同時にいわゆる戒壇本尊と日興書写曼荼羅とも無関係であることも示される。戒壇本尊の図顕讃文には「二千二百三十余年」ではなく、「二千二百二十余年」と記されているが、日興書写曼荼羅でその年数が記されている本尊は一幅もない。なお大石寺歴代の書写曼荼羅でもほとんどが「二千二百三十余年」となっており、唯一の例外と思われるのが、阿部日開が昭和期の初めごろ、「二千二百二十余年」という讃文を書いたが、阿部日開はそのことを信徒に批判され、後に撤回している。

1-1-1-2 日蓮真蹟曼荼羅との比較

 菅原関道の「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」(『興風』第11号)によれば、日興書写曼荼羅は、その大きさにより、小さい曼荼羅は十界の列衆が省略された略式本尊であるが、大きい曼荼羅は十界の列衆がほぼ完備している円具本尊であると分類されている。
 さらに日興書写曼荼羅の相貌にはいくつかの変遷があるが、「相貌の特徴から推察できる日興上人が書写されたと思われる宗祖本尊」(同論文、p. 336)を、『日興上人御本尊集』と『日蓮聖人真蹟集成』第十巻「本尊集」とを比較して、次のように推定する。
 現存する日興書写の最古の曼荼羅である日興書写本尊No.1は宗祖本尊<No.104>を書写したと推定できる。その理由について菅原は「列衆が全同である上、日興上人の拝見を確かめられる上人の添書があり、授与者も『富士上野顕妙新五郎』と近隣であるため、同本尊を後年書写された可能性を指摘できるからである」(同論文、p. 371)と述べている。
 また日興書写本尊No.5は宗祖本尊<No.53,54>を書写したと推定できる。その理由について菅原は「現存する宗祖本尊の中で『天台智者大師』と記すのは<No.53,54>のみである。『竜樹・天親・天台・章安・妙楽・伝教』の六人を記載するのも右の二幅のみで、その上、『章安』はこの二幅にしか見られない。またこの<No.53,54>は共に首題の左に『天台・章安・妙楽・伝教』の四師を記していて、日興上人の当本尊No.5と同じである」(同)と述べている。
 また日興書写本尊No.6,7は宗祖本尊<No.60>を書写したと推定できる。その理由について菅原は「現存する宗祖本尊の内<No.60>は、宗祖の他の本尊には見られない『龍王女』が在座する唯一の例である。日興上人の『龍王女』の在座もこのNo.6と次のNo.7のみであり、他の列衆も<No.60>とNo.6,7は全同であるから、日興上人が宗祖の<No.60>を書写された本尊がNo.6,7である可能性は濃厚と言えよう。その上、次の日興上人の本尊No.7に関わることであるが、『不動』と『愛染』が通例の逆に記される宗祖本尊の二幅の内の一幅が<No.60>であるから、日興上人のNo.7が<No.60>を書写された本尊である可能性は高い。なお、No.6,7が書写された正応四、五年(AN10,11)は、日興上人は在富士上野であったと考えられるから、同地の大石寺を法燈・血縁上から継がれる日目上人授与の宗祖本尊<No.60>を、日興上人が常々拝見されたであろうとの推測は容易である。」(同論文、p. 372)と述べている。
 これらの日興書写本尊の相貌の多様性と日蓮御筆本尊との対応は、日蓮正宗の伝説のなかで主張される歴代法主は、戒壇本尊というただ一つの本尊を書写したということを説明できず、戒壇本尊の書写という伝説は歴史的事実としては否定される。
 すでに『日興の教学思想の諸問題(1)』の「(2)日興筆録の口伝類」の「(d)『御本尊七箇相承』」で「日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』には、『大石寺血脈の法主の略本尊』(p.200)の宗教的意義に関して、『万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである』(p.201)と述べられて、戒壇本尊を書写したとは明言されていず、戒壇本尊の内証を(あるいは相伝された深義の内証を)法主が書写したものであり、法主の認可があれば、『戒壇本尊の妙義に通ずる』として、戒壇本尊とその他の本尊との救済論的関係を保証する者としての法主の役割を強調しているだけである」と書いておいたが、これは『日蓮正宗要義』では、法主は戒壇本尊を物理的に書写しているのではなく、精神的に書写しているという議論が展開されていることを示すが、日興の初期の書写曼荼羅が日蓮の真蹟曼荼羅を物理的に厳密に書写していることに比べると、書写の意味がなくなっていることを示している。一体どこから戒壇本尊の書写という伝説が生じたのか、その伝説を喧伝したのは誰なのかが不明である。少なくとも私がこれまで考察してきた日興から日有までの資料には存在しない。

1-1-1-3 日蓮宗諸派の曼荼羅作成

 次に日興が書写した曼荼羅で現存する最古の曼荼羅No.1は「弘安十年(AN6)十月十三日」(日蓮の忌日)の書写年月日の表記があるが、日蓮の弟子たちの書いた曼荼羅で現存する最古の曼荼羅は上記菅原論文によれば、『御門下御本尊集』(残念ながらこの資料を私はまだ見聞していない)に収録されている弘安九年(AN5)八月十八日の表記のある日朗の曼荼羅である。もっともこの曼荼羅は日蓮のいわゆる「佐渡百幅の御本尊」の相貌を継承した略式本尊であり、その後の『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』に収録されている「弘安十年卯月(四月)八日」(仏生会)の表記のある日朗の曼荼羅(No. 23)以降の曼荼羅が弘安期の曼荼羅の相貌を継承しているのとは異質であるという。日朗の作成した曼荼羅は菅原によれば全部で22幅現存しており、中央首題の下に「日朗花押」があり、左に「南無日蓮聖人」とあり、禍福讃文、図顕讃文がないなど、日興作成の曼荼羅とは大きく様式が異なっている。
 ついでに私が見聞した『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』の曼荼羅をいくつか調べてみると、日朗門流では日朗の跡を継いだ妙本寺・池上本門寺3世日輪の曼荼羅は、中央首題の下に署名花押があり、右に「南無日蓮聖人」左に「南無日朗聖人」とあり、図顕讃文、禍福讃文ともにないなど日朗の曼荼羅作成様式を踏襲していると見てよいだろう。日朗の弟子で鎌倉本勝寺、越後本成寺の日印の曼荼羅は首題の下に署名花押があり、図顕讃文がない点は同様だが、禍福讃文が付加されている。日印の跡を継いだ日静の曼荼羅では禍福讃文が削除されているが、その他は概ね日印の曼荼羅と同じである。
 同じく日朗門流ではあるが、京都布教に成功した四条門流の開祖妙顕寺3世の日像の曼荼羅はその首題の書き方に特徴があり、「経」の字体が他の曼荼羅の様式とは大きく異なるという特徴があるが、左に「日朗聖人」を付加した以外は、日朗の曼荼羅とほぼ同様である。ただしNo. 37の曼荼羅は首題の下に小さく「日蓮聖人」「日朗聖人」と並べて書いてあり、書名花押がその左に書かれているが、これは例外的な事例であろう。日像の跡を継いだ妙顕寺4世大覚の曼荼羅は「経」の字体が通常に戻り、左に「日蓮聖人」以下歴代が書かれているが、日朗の曼荼羅と同様である。妙顕寺5世朗源の曼荼羅は「経」の字体が日像の曼荼羅の字体に復活したがその他は同様と見なしてよいだろう。妙顕寺6世日霽の曼荼羅は「経」の字体が通常に戻り、また歴代の記述が削除されているが、日朗の曼荼羅と同様である。日朗門流全体の曼荼羅の特徴は中央首題の下に署名花押を書き、右か左に「日蓮聖人」と書き、図顕讃文、禍福讃文を書かない(例外はあるが)ということであろう。
 次に中山門流では、冨木日常作成の曼荼羅が2幅あるが、No. 16の曼荼羅には図顕讃文がなく、No. 17の曼荼羅には「仏滅度後二千二百二十(余年)」とある。中央首題下には「日常花押」があり左に「南無法主大師」とあり、また禍福讃文がないなどの点では日朗作成の曼荼羅と様式が似ているが、図顕讃文がある点では様式が異なる。冨木日常の跡を継いだ中山2世日高の作成した曼荼羅は4幅収録されているが、禍福讃文がないことは同じであり、図顕讃文は「仏滅度後二千二百二十余年」で以後の中山の標準となっているが、「日高花押」の位置が前半の2幅は左に書かれているが、後半の2幅は中央下に書かれているという様式の変化が見られる。中山3世日祐の作成した曼荼羅は4幅収録されているが、最初の2幅は後期の日高の曼荼羅とほぼ同じだが、左に「南無日高聖人」が付加されている。なお日祐の後期の2幅からはそれが削除されている。なお日祐の曼荼羅3幅には、それまで中山門流の曼荼羅にはなかった禍福讃文が付加されている。中山4世日尊の作成した曼荼羅は3幅収録されているが、ここでは禍福讃文が削除されている。また左右に「南無法主大聖人」以下「南無日祐聖人」に至るまでの歴代が付加されている曼荼羅も1幅ある。次に鍋冠(なべかむり)日親作成の曼荼羅を見ると左右に「南無法主大師」「南無日常聖人」とある他は中山門流の様式を踏襲している。中山門流の曼荼羅を大まかに特徴付けると、中央首題の下に署名花押を書き、日蓮を「法主(大)聖人(大師)」と呼び、図顕讃文は「仏滅度後二千二百二十余年」であり、禍福讃文は不定であるということである。
 次に身延門流の曼荼羅を考察してみると、久遠寺2世とされる日向の作成した曼荼羅が1幅収録されているが、その様式は中央下に「日蓮聖人在御判」とあり、滅後讃文も「仏滅度後二千二百三十余年」であり、禍福讃文も「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」であり、署名花押も左にあるなど、日興の作成した曼荼羅と酷似する(なお堀日亨によると久遠寺の宝蔵には日向作成の「日蓮幽霊」の記述がある板曼荼羅が秘蔵されているということであるが、詳細は不明である)。身延3世日進の曼荼羅は収録されていないので分からないが、4世日善の曼荼羅は中央首題の下に「南無本門大士日蓮聖人」とあり、署名花押は左にある。その点では日興の曼荼羅に似ているが、図顕讃文は「仏滅度後二千二百余年」とあり、また禍福讃文がないなどの相違点もある。次いで5世日台の曼荼羅は中央首題の下に署名花押があり、左に「日蓮大聖人」とあり、図顕讃文、禍福讃文はない。全体的に日朗門流の曼荼羅に似ている。次いで6世日院の曼荼羅は左に「法主日蓮大聖人」と少し変化しただけで日台の曼荼羅と同様である。ところが7世日叡の曼荼羅になると様式が大きく変り、中央首題の下に「南無日蓮大聖人」と書き、その下に署名花押が書かれ、図顕讃文は「仏滅度後二千二百二十余年」と記入された。11世日朝の曼荼羅は『本尊論資料』に収録されているが、そこでは日叡と同様に首題の下に「南無日蓮大聖人」その下に署名花押があるが、図顕讃文は「仏滅度後二千二百三十余年」に変えられている。身延門流の曼荼羅は初期には日興の曼荼羅の影響が濃厚であったが、次第に中央首題下に「南無日蓮大聖人」その下に署名花押という様式に定着したが、図顕讃文は不定であり、禍福讃文はないというように特徴付けられるだろう。
 最後に日興門流の曼荼羅を見てみると、北山本門寺2世日妙の曼荼羅は中央首題の下に「日蓮聖人在御判」とあるが、図顕讃文、禍福讃文、署名花押ともに日興の曼荼羅の様式を踏襲している。西山本門寺3世日代の曼荼羅、佐渡妙宣寺2世日満の曼荼羅も日興の様式を踏襲している。日興門流の曼荼羅を特徴付ければ、中央首題の下に「日蓮(聖人)御判」と書き、書名花押は左に、歴代は書き込まず、図顕讃文は「仏滅度後二千二百三十余年」、禍福讃文も例外はあるが、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」で統一されている。
 ところで日興門流では曼荼羅に必ず禍福讃文があるが、他の門流の曼荼羅には禍福讃文がないほうが通例であるということは、何を意味するだろうか。それは日興門流では、信仰による功徳、罰ということが強調され、そのことに敏感になりやすいのに対して、他の門流では、信仰による功徳、罰は必ずしも強調されず、またそのことに鈍感になっていきやすいということだろう。もちろん曼荼羅に禍福讃文がなくても、日蓮の遺文には功徳、罰に言及した箇所は数多く存在するから、信者の信仰生活において、功徳、罰を強調することはいくらでも可能であるが、日常的に儀礼の対象となっている曼荼羅に禍福讃文があるかないかにより、信者への心理的影響はそれなりにあると思われる。私は信仰による功徳、罰にはそれほど重きを置かず、むしろ高校の漢文で学んだ「禍福は糾える縄のごとし」を人生の指針としてきたが(日蓮の『八風御書』にも「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心(おおむね)は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」とあり、利害に一喜一憂することがないように四条金吾を指導している)、私が見聞してきた創価学会員には、信仰による功徳、罰を重視している人もそれなりに多くいることも確かである。その一因に曼荼羅に禍福讃文があり、そのことを創価学会が強調してきたということも挙げられよう。
 日興は『弟子分本尊目録』に熱原の法難で斬首となった在家弟子に言及する中で、弾圧の中心者となった平左衛門入道(平頼綱)とその息子飯沼判官について「其後経十四年平入道判官父子、発謀反被誅畢。父子コレタタ事ニアラズ、法華現罰ヲ蒙レリ」(『富要』第8巻は抄録のため記載されていない。『興全』127,128『宗全』2-116)と述べて、熱原の法難の首謀者たちが現罰を受けたことを強調し、また熱原法難の犠牲者の30回忌追悼の曼荼羅(No.81)を書写し、その脇書きに「左衛門入道(頼綱)切法華衆頸之後経十四年企謀反間被誅畢、其子孫無跡形滅亡畢」と記している。鎌倉幕府の歴史は内部有力者の権力闘争の歴史でもあるから、日蓮の言う自界叛逆難の事例に事欠くことはないが、その一例に過ぎない平頼綱父子の事例だけを取り上げて、法華現罰と記述することに、著しい主観性、恣意性があると思われるが、同時にこの記述が日興の功徳、罰に関する信仰観を示しているとも言えよう。

1-1-1-4 曼荼羅の意義

 本尊の意義に関しては、「根本尊敬」「本有の尊形」などの語義や、「虚空会の儀式」などの様相の説明や、十界曼荼羅などの教義的意味などが後にはさまざまに展開されるが、日興の正筆の資料にはそのような記述はない。ただ単に曼荼羅を本尊とすることだけが述べられているだけで、そこにはどのような意義があるかは不明である。当然日蓮が晩年に展開した三大秘法の一つとしての意義は含まれると思われるが、そのことは言う必要もない自明なこととして何も説明しなかったのであろうか。また日興の正筆の資料には、日蓮から曼荼羅書写の方法を教示されたことを示す資料は何もない。
 『御本尊七箇相承』には、「本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ」(『富要』1-33『宗全』2-43)とあるが、日興の正筆には他の老僧たちが曼荼羅を作成することに対して、異議を唱えた箇所は見えない。日興周辺の著作、あるいは日興自身の著作と推定されている『富士一跡門徒存知事』には他の五老僧周辺の仏像作成の情報が記述されているので、当然曼荼羅作成の情報も収集されていたと思われるが、そのことに異議を申し立てている箇所はない。
 既に『本尊問答抄について』の5-4-6で述べておいたように、日興門流の日興の孫弟子の文献資料である京都の日尊門流の日大の『尊師実録』に「本尊書写事 尊(日尊)仰云大聖人御遷化之刻六人老僧面面ニ書写之給ヘリ然而無異議」(『富要』には記載なし『宗全』2-418)とあり、六老僧が曼荼羅を書写したことを当然視するような記述もある。
 また『御本尊七箇相承』には、「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)と述べて、「嫡々代々」の資格がある大石寺住持のみが日蓮の代理人として曼荼羅を書写する権限があると主張しているようであるが、日興の生前に新六の一人日仙が曼荼羅を書写しており、日興の死後は日興の主だった弟子たちは曼荼羅書写を始めており、『御本尊七箇相承』を尊重している様子はない。その時代にこの文書が存在しなかったということを推定させる一つの理由にはなる。
 菅原関道は上記論文において、日興が書写形態を採用し、日昭、日朗、日常が図顕形態を採用した理由として、第一に、日興は、本化上行菩薩の垂迹である日蓮と迹化薬王菩薩の垂迹である天台大師とを同列に配置することが教義的にできなかったこと、第二に、曼荼羅とりわけ首題には日蓮の魂魄がこもっているから、その下には自署ではなく、日蓮の名を記すことがふさわしいと考えたことを挙げている(上記菅原論文、p. 358)。また日朗が図顕讃文を記さなかった理由として、「宗祖に倣って自身の観心の本尊を図顕した日朗師は、未曽有であった本尊を初めて図顕し弘宣された宗祖への畏敬の念のため、敢えて図顕讃文を記さなかった」(同論文、p.356)と推測している。
 ただ上述したように身延門流では首題の下に「南無日蓮大聖人」、その下に署名花押を記入する図顕様式が存在しているから、そのような図顕様式でも、菅原の言う第一、第二の条件を満たせると思われる。私はそのような理由ではなく、単純に日蓮の曼荼羅をできるだけ忠実に書写、コピーすることによって、日蓮の曼荼羅と同等の宗教的功徳、罰が生じると日興が考えていたのだと理解している。菅原は、初期の日興の曼荼羅がいくつかの日蓮の曼荼羅を厳密に書写していることを論証しているが、日蓮の宗教的カリスマを、弟子たちに伝えるためには、自分の宗教的世界像やカリスマを示す図顕様式ではなく、日蓮の曼荼羅を忠実にコピーする書写様式が最も有効であると日興は信じていたのだろう。現代においては、日蓮の宗教的世界像をそのまま受容することが、時代的な世界像の相違によって、著しく困難になっているので、曼荼羅作成に関しても書写様式が最も有効であるとは一概に言えないだろう。現代の世界像に適合し、なおかつ日蓮の宗教的救済理論を、明確に示せるような曼荼羅の作成が急務なのではないだろうか。

1-1-2 信頼できる文献資料による考察
1-1-2-1 『富士一跡門徒存知事』の検討

 日興周辺で生前に作成された三位日順の『五人所破抄』並びに日澄の著作と主張されている『富士一跡門徒存知事』(注)を資料にして曼荼羅について考察してみると、『五人所破抄』には「倩聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提内未曾有の大漫荼羅なり」(『富要』2-5『宗全』2-83)と曼荼羅を本尊としたことを主張し、また後に論ずるが釈尊の一体像を本尊とすることを同時に非難している。
 (注)  山上弘道は「『富士一跡門徒存知事』について」(『興風』第19号)において、「聖人御書」についての注記などから、日蓮の近辺で事情を詳細に知りうる立場にいなければ、書けない内容を含むことから(同論文、p.28)、日興の著作と判断している(同論文、p.31)。また「可建本門寺在所事」の記述との整合性により、『二箇相承書』の存在を否定している。私には山上の議論は説得力があるように思われる。なお高橋粛道も『日蓮正宗史の研究』では、堀米日淳の日澄作日興追加説を否定し、全文日興作であるとしている(同書、p.186)。
 『富士一跡門徒存知事』では本尊について四箇条の記述がある。
「一、本尊の事四箇条。
 一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべし、とて既に立てたり。随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云。而る間・盛に堂舎を造り、或は一躰を安置し、或は普賢・文殊を脇士とす。仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を置く。  日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと。即ち御自筆の本尊是れなり。
  一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り。或は又沽却する族も有り。此くの如く軽賤する間・多分は失せ畢んぬ。  日興が云く、此の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず。正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り、弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし。
 一、日興弟子分の本尊に於ては、一一皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事、最も其の恐れ有りと雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も、子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も、弟子等之を捨つ。之に依つて或は以て交易し、或は以て他の為に盗まる。此くの如きの類い其れ数多なり。故に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。
 一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り。所謂日向・日頂・日春等なり。 日興の弟子分に於ては在家・出家の中に或は身命を捨て、或は疵を被り、若しは又在所を追放せられ、一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。  本尊人数等。又追放人等。頸切られ、死を致す人等 」(『富要』1-55,56『宗全』2-123-125)
 ここでの議論は曼荼羅のみを本尊とする立場を鮮明に示している。

1-1-2-2 曼荼羅のみを本尊とする御書とはどの御書か

 『富士一跡門徒存知事』の最初の条目は「絵像・木像の仏・菩薩」を本尊とはせず、「御自筆の本尊」すなわち曼荼羅を本尊とすべきことを主張している。その理由として「唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと」ということを挙げているが、「妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし」という文言はネット検索してもこの『富士一跡門徒存知事』しかヒットせず、日蓮のどの御書に明示しているのかは不明である。
 もっとも類似の文言はいくつかあり、ネット検索すると、『本尊問答抄』の冒頭の「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を本尊とすべし」という文言が出てくる。しかしこの「法華経の題目」を「妙法蓮華経の五字」と同じ意味で、交換可能な用語であるとすることに関しては、例えば日蓮宗の村田征昭が「法華経二十八品の題目」と解釈しているように、私の「本尊問答抄について」の4-2-8で述べているが、いくつもの教学的なハードルがあり、簡単には論じられない。
 あるいは『観心本尊抄』の「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る」という文言から総合的に解釈して、「妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし」と主張しているとするのかもしれない。
 しかし『観心本尊抄』の上記引用文の後には、「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等余仏小乗権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由之を申す」とあり、一尊四士の仏像を本尊とすることを容認しているようにも解釈できるので、『富士一跡門徒存知事』が『観心本尊抄』を念頭においているとは考えにくい。
 日尊が上行院に信徒から寄贈された十大弟子を脇士とする釈迦仏像を安置したときに、日尊の所へ、他の日興門流の人々が来て、非難したことについて、日尊の弟子日印が『日代上人ニ遣ス状』の中で、「爰に富士御門流ども出家在家人来つて難じて云はく、凡そ聖人(日蓮)御代も自ら道場に仏像造立の義無し、又故上人(日興)上野上人(日目)の御時も造立無きや、随つて本尊問答抄に云はく、天台の云はく道場の中に於いて好き高座を敷き法華経一部を安置せよ、亦未だ必ずしも須らく形像舎利併に余の経典を安くべからず唯法華経を置け文、同抄に云はく、又云はく法華の教主を本尊とするは法華の正意にはあらず云云、之れを以つて之れを思ふに形像を本尊と立て置くべからずと見えたり如何」(『富要』5-47『宗全』2-408)と述べているように、『本尊問答抄』を使用して非難している。もっともここでは「聖人(日蓮)御代も自ら道場に仏像造立の義無し」という誤った事実認識も含まれてはいるが、日興門流において、『本尊問答抄』が重視されていたことが示されている。
 結局文言としては正確ではないが、『富士一跡門徒存知事』は、『本尊問答抄』の冒頭の文言を念頭においていると解釈するしかできないようだ。『富士一跡門徒存知事』では「唯御書の意に任せて」と簡単に述べているだけだが、少なくとも主著の『観心本尊抄』では曼荼羅と一尊四士の二つの本尊形態が両論併記であり、また『本尊問答抄』で「云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや」と述べて、『富士一跡門徒存知事』で述べている「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと。即ち御自筆の本尊是れなり」を根拠付けているようにも解釈できるが、同時に『本尊問答抄』には、「然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」と述べて、仏像の開眼供養について言及しており、仏像をも本尊とすることを容認しているとも解釈できるのであり、『富士一跡門徒存知事』が「唯御書の意に任せて」と主張していることは、それほど御書に文献的根拠を持つわけではない。

1-1-2-3 曼荼羅と釈迦木像の安置様式について

 また『富士一跡門徒存知事』では「仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を置く」と述べて、曼荼羅の安置様式、安置箇所について言及している。この言及が上述の安置様式、安置箇所について非難しているのかどうかは、文面だけでは判断しにくいが、木像などの仏像を中心にして曼荼羅を軽視していることの文脈で述べているから、非難していると解釈できよう。
 日興が建立した寺院の本尊安置様式については不明な点が多いが、堀日亨の『富士日興上人詳伝』第5章の「一 大石寺創立」にはいくつかの間接資料を使って「開山上人始めに(1)十二間四面の六壷の間を建てて、その東南面が仏殿で東北面が居間、西北面が寺務所、西南面が集会所ありしと聞く。(中略)興上の白蓮坊内に大堂が建ち、さらに正面上壇に本尊堂が建ちしものならん」(『詳伝』下、p. 21)とある。六壷は私的使用の居間とその他の公用の部分とに分けられていたと堀は推測しているが、この仏殿に何が安置されていたのかは不明である。また後に建設された大堂は六壷の公用部分と同様の機能を果たしていたと思われるが、「本尊堂」が建立されると大堂内部の仏殿は移されたと推定される。
 日主(AN274-336)の天正年間(AN292-310)の境内図によれば、本尊堂は中心が「本堂」、西側に「御影堂」、東側に「天経」とある(同、p.22)。その後の日盈(AN313-357)の境内図には「大堂」だけが表記されて、「御影堂」「天経」が欠如しているが、堀は「御影堂・天堂を図せざるは、日鎮上人(AN188-246)代の焼失のゆえか、または略逸のためか不明なり」(同、p. 23)と述べている。(日鎮の時代は、天正時代や日主の時代の前なので、この記述には何らかの錯誤があると思われる。)
 また文政六年(AN542)の日量の『富士大石寺明細誌』によれば、
 「諸堂  本堂正南面檜皮葺、間口十四間奥行十三間、仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸。 右再建の大施主台徳院様御養女阿州守太至鎮の室御法謚敬台院殿妙法日詔大姉。 天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す、神躰は板本尊。 垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す、神躰は板本尊。」(『富要』 5-322)とあり、日主の境内図の「御影堂」と「本堂」が合体し、本堂の後部に板曼荼羅、前部に日蓮御影が安置され、その合体した本堂が昭和38年の「大石寺現在図全景」では「御影堂」と表記されている(『詳伝』下、p.31)。また『富士大石寺明細誌』には塔中寺院の本尊安置様式も書かれているが、「本堂」と同様に曼荼羅を後部に日蓮御影を前部に安置しているものが多い。
 日興は日蓮の十七回忌を期して、永仁六年(AN17)に大石寺から少し離れた重須に御影堂を建立して移り住んだ。御影堂の本尊安置様式は不明であるが、日蓮御影が安置されていたことだけは確実であるが、曼荼羅については不明である。またそのとき安置されていた御影が木像なのか、絵像なのか、現存しているのかどうかも不明である。ただ日蓮御影の内部に曼荼羅を入れる腹籠本尊については、最初仏とされる一体三寸の日蓮御影は小さすぎるので、内部に曼荼羅を入れるスペースがないようである。腹籠本尊の始まりは、6世日時のときに元中五年(AN107)に仏師越前法橋快恵によって作成された日蓮御影の内部構造によって、この御影からであろうと推測されている。日時の腹籠本尊が現存しているわけではないが、日時が日蓮本仏論を持っていたことから、東佑介は「富士大石寺における御影本尊論の形成と展開」(『法華仏教研究』第2号所収)でその可能性について言及している。
 なお『日興上人御本尊集』に収録されている曼荼羅で寺院用の曼荼羅であることを明示しているのは3幅、すなわちNo.65の「白蓮持仏堂安置也」(嘉元四年、AN25)、No.127の「左土国一ノ谷入道孫心□寺仏也」(この曼荼羅脇書きで日興が曼荼羅を「仏」と表現していることは後の議論で重要なので注記する)、No. 207の「大石持仏堂本尊日代闍梨」(元亨四年、AN43)だけである。No.65の曼荼羅は線香の煙で傷みが激しいから重須の白蓮持仏堂で実際に使用されたと思われるが(この「白蓮持仏堂」が大石寺の持仏堂だという見解もあるようだが、この曼荼羅が書写されたときには、重須に移住した後であるから、それはないだろうと思う)、その白蓮持仏堂に日蓮御影があったかは不明であり、また白蓮持仏堂と御影堂が同一なのか違うのかもよくわからない(御影堂は重須の本堂の役割を兼ねていたようであるから、日興の私的な使用のための持仏堂とは違うと私は考えているが、しかしNo. 207の「大石持仏堂」という表現はよく分からない。なお東佑介はブログ「西山本門寺所蔵『大石持佛堂本尊日代阿闍梨』本尊について」において、「日興書写本尊の脇書を見た時、<阿闍梨+日号> と記して <日号+阿闍梨> とは記さない。つまり、日興上人の筆によるのであれば「蔵人阿闍梨」「伊予阿闍梨」と記されるべきで「日代阿闍梨」との記述は大いに疑わしいのである」として、日代が大石寺あるいは重須から退出するときに持ち出した日興筆の曼荼羅に後世の日代門徒が加筆したと推測している。)。
 なお犀角独歩はHP『犀の角のように独り歩め』の「大石寺六壺安置の日興本尊も贋作か」というブログで「『日蓮正宗総本山大石寺』を見ると『六壺は、2祖日興上人の開創で、総本山発祥の霊場である。はじめ六壺にわかれていたところから、この名があると伝えられ、一壺を持仏道(堂)とした』(P17)」と紹介し、「その持仏堂には乾元4年(AN24)書写の日興本尊が安置されていたといい、それを模刻した板彫刻が、現在の六壺安置の板本尊である。この板本尊は、複数造られ、真光寺、妙光寺といった石山末寺にも安置された。この板本尊原本の紙幅写真を、わたしは見たことがない。日興の本尊を載せる『日興上人御本尊集』(興風談所)にも、その所載がない」と述べて、またHP『富士門流信徒の掲示板』のスレッド「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」の議論を参照するように述べている。そこでの議論をまとめると、「大石持仏堂」は大石寺の「六壷」の一室であったようで、そこの管理権は日代にあったが、日代が西山に去ってから、そのNo.207の日興書写曼荼羅「大石持仏堂本尊日代闍梨」は西山に移管され、その代わりに「乾元4年(AN24)(『富士年表』では「嘉元元年(AN22)に理由もなく訂正されている」)書写の日興本尊」が偽作されたと推定されている。
 さて『富士大石寺明細誌』の寺院の本尊安置様式の記述を参考にすれば、不明な点は多いが、江戸時代の本堂の安置様式、すなわち曼荼羅を後部に日蓮御影を前部に安置していた可能性はあるだろう。そうすれば『富士一跡門徒存知事』で非難されている「仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、」と似たような安置様式になるだろう。この文章の全体の趣旨は曼荼羅を仏像の背後に安置したり、廊に安置したりするのは、曼荼羅軽視だということのようであるが、もし日蓮御影を前に、曼荼羅を後ろに安置したら、それは曼荼羅軽視にならないのだろうか(戸田城聖が常在寺の日蓮御影を撤去させたエピソードはこの『富士一跡門徒存知事』を念頭に置いていたかどうかは不明である)。

1-1-2-4 日蓮本仏論と曼荼羅、日蓮御影安置の関係

 なお高橋粛道は『日蓮正宗史の研究』の「日興上人の本尊」において、「重須の御堂には曼荼羅と宗祖の御影像を安置し御給仕申し上げていたのである。これは日興上人の諸消息にも明らかである」(同書、p.192)と書いているが、私にはどの消息に明らかなのかがよくわからない。同じ著作の中の「百六箇抄の真偽」において、「明らかに興師は(日蓮を)上行の再誕と位置づけられていた。而るに上行菩薩は釈尊の使者として出現したのだが、日興上人はこの菩薩を使者ということに止まらず仏と拝していたのである。過去のインドならいざしらず、現時の末法の大導師は上行菩薩であり、その人こそ末法の仏と見たのである」(同書、p. 53)と述べて、その証拠として日興の書状の日蓮への呼称を検討する(この論証方法は堀日亨が『富士日興上人詳伝』で主張した方法である。)。私は「現時の末法の大導師は上行菩薩であり」という点では高橋に賛成するし、日蓮宗の多くの研究者も賛成するだろうが、「その人こそ末法の仏と見たのである」ということには単純には賛成していない(凡夫本仏論の一つの派生形態としての日蓮本仏論には賛成している)。
 高橋は『歴代法主全書』第1巻に収録された消息の用例から供養を捧げた対象に関する日興の多様な呼称を挙げるが、その中で「仏にまいらせ」「仏の御見参」、「仏の宝前」、「ほとけしょう人の御けんさん」という表現を、「はっきりと宗祖を『仏』と記している」(同書、p. 54)と解釈する。ところで先に引用した「日興上人の本尊」では「重須の御堂には曼荼羅と宗祖の御影像を安置し御給仕申し上げていたのである。これは日興上人の諸消息にも明らかである」と述べていたが、高橋が挙げる一連の消息では、どこにも「曼荼羅」「本尊」という表現は出てこない。それに類似した表現は「御経日蓮聖人」という言葉であるが、もし高橋がこの「御経日蓮聖人」という言葉を「御経」=「曼荼羅」、「日蓮聖人」=「日蓮御影」と解釈しているならば、同様に「ほとけしょう人」も「仏」=「曼荼羅」、「しょう人」=「日蓮御影」と解釈しても不思議はないであろう。日興が曼荼羅を仏と呼んでいた証拠は、日興書写曼荼羅のNo.127(写真、図版なし)の「左土国一ノ谷入道孫心□寺仏也」という曼荼羅の脇書きがある。また『日興上人御本尊集』の摸刻本尊No.11の日尊の摸刻本尊には多分日尊が記入したと思われる「此本尊者本山御内仏之模写也」という表現があり、日興の弟子である日尊は曼荼羅を「仏」と呼んでいたと思われる。日興が「仏」という用語をどのような文脈でどのような意味で使用していたかがまだよく研究されていない段階で、消息=手紙類という断片的な表現から日蓮本仏論の証拠を見出そうというのは私には不十分な論証だと思われる。
 ちなみに高橋は同じ「百六箇抄の真偽」において三位日順が日蓮本仏論を持っていた証拠として「上行菩薩が仏であることも理解していた。我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり(『表白』『富要』2-11)(別して)本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り(『誓文』2-28)然るに天竺の仏は迹仏なり、今日本国に顕れ玉うべき釈迦は本仏なり、彼の本仏の顕し玉ふ所なれば日本を中国と云ふなり(『日順雑集』『富要』2-113)」(同書、p.55)と文献的証拠を挙げる。しかし私は『表白』『日順雑集』で「本仏」という用語で指示されているのは「日蓮」のことではなく、むしろ『観心本尊抄』などで「久遠実成釈尊」の「仏像」が正法、像法時代には出現していなかったのに対して、末法日本において日蓮が曼荼羅の中で図顕したということを受けた表現と解釈できると思っているし、『誓文』の表現は、高橋は「別して」という表現を無視して引用したが、これは起請文の定型的な表現であり、有縁の神仏を勧請するために使用するもので、その前の部分の「当家一味の師檀の中に大事堪え難きこと・出来の時は本尊を勧請し奉りて各判形を加へ、偏頗を破劫せしめて宜しく衆議を成すべし、」と関連した表現であり、日蓮本仏論の証拠とは見なせない(このことについては「漆畑正善論文『創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ』を検討する」(6)で論じている。)

1-1-2-5 他門流は曼荼羅を軽視したか

 次に「一、上の如く一同に此の本尊を忽緒(軽視)し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り。或は又沽却(売却)する族も有り。此くの如く軽賤する間・多分は失せ畢んぬ」とあるが、これについては非常に疑問点がある。
 現存する日蓮筆の曼荼羅には日興門流以外の曼荼羅も多数保存されているが、これは他の門流でも日蓮の曼荼羅は大切にされてきたことを意味し、「一同に此の本尊を忽緒し奉る」という記述は正しくないだろう。また日興に比べるとはるかに数は少ないが、他の老僧たちも曼荼羅を書いて授与したことは明らかであるから、曼荼羅を軽視したという主張は不適切であろう。
 また「或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り」という事例が実際にあったかどうかは不明である。ただ私はそのような事例があったとしても、そのことが曼荼羅を軽視したことになるかどうかは、解釈の相違であると思っている。曼荼羅本尊を「本有の尊形」として理論的に説明しているなど、日蓮の孫弟子たちにも見られない本尊論を展開していることから、日蓮親撰とは見なせないが、日蓮の御書として室町時代から尊重された『日女御前御返事』には、「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねき後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く、彼こへまはり此へより・日女御前をかこみ・まほり給うべきなり」(『定』p.1376 『創』p. 1244)とあるが、ここには曼荼羅本尊が、死者が無事に三途の川を渡り霊山浄土へ行く護りとなるという趣旨が述べられており、そのことを強く信じた者が、自分の名前を記入された曼荼羅(常住本尊)を一緒に埋葬するように願ったとしても、それは一つの信仰の有り様であり、それが曼荼羅軽視になるとは思えない。そのような信仰の有り様が日興の時代にもあったかもしれないが、それは歴史学が明らかにしてくれるだろう。
 また「或は又沽却する族も有り」ということであるが、所有者が経済的に苦しくなれば、それなりの値段がつく曼荼羅を売却するのは、他の門流ばかりでなく、日興門流でもあったことだから、それを非難してもしかたがないだろう。熱原法難、大石寺建立に大功績のあった南条時光に授与された日蓮の曼荼羅本尊が現在では他門流の寺院に安置されているのは、南条氏の没落(南北朝時代には地頭職を失っている)により、売却されたと考えるしかないだろう。
 また後続の部分で、「是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし」とあるが、これは『観心本尊抄』の最後の部分を念頭に置いた表現であろうが、日興は広宣流布のときの国主(それは天皇、将軍、執権と状況によって変るようだが)を本化の四菩薩と位置づけているようで、これは国柱会の田中智学が天皇を転輪聖王と位置づけて広宣流布に重要な役割を果たすと見なしたことと同類の思想と見なされかねず、現代においても採用すべき思想かどうかは疑問の余地が残る。
 次に「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り。所謂日向・日頂・日春等なり」とあるが、この文意がよく分からない。ここでは日蓮自筆の曼荼羅を形木印刷したことを非難しているのだろうか、それとも「不信の輩に授与して軽賤する由」を非難しているのだろうか。
 この記述を根拠にして、日蓮の曼荼羅本尊を形木印刷することは教義的に禁止されているという説もある(高橋粛道『日興上人御述作拝考1』p.230)。しかしたまたまネット検索をしていたら、「平成20年7月1日発行 高照山 第247号」がヒットし、妙光寺住職尾林日至(広徳)日蓮正宗海外部長の「奉掲の御霊宝について」という記事を読んだところ、妙光寺の御霊宝虫払法要において、法道院の元什宝で、現在大石寺に保管されている日禅に授与した曼荼羅本尊(戒壇本尊のモデルとなったと一部では主張されている)の形木本尊が奉掲され、尾林によって紹介されているという記事があった。尾林は日蓮正宗の能化の立場にあり、当然日蓮正宗の教義については熟知しているはずであるが、日蓮の真蹟曼荼羅の形木本尊を非難している様子はない。このことから判断すると、高橋粛道の説は個人的見解であり、日蓮正宗の教義ではないようだ。つまり大石寺住持の印可問題を除外すれば、日蓮の真蹟曼荼羅本尊を形木本尊にすることは教義的には禁じられていないと言えよう。
 むしろ『富士一跡門徒存知事』で主張したいのは「不信の輩に授与して軽賤する由」を非難し、それに対して「日興の弟子分に於ては在家・出家の中に或は身命を捨て、或は疵を被り、若しは又在所を追放せられ、一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり」ということだろうが、「或は身命を捨て、或は疵を被り、若しは又在所を追放せられ」ということを経験した日興の弟子たちが(熱原の関係者はそれに該当する)どれほどいたかは不明であるが、現存の日興筆の曼荼羅授与者全員がそうであったとは思えず、かなりの弟子はそのような弾圧を受けることなく「一分信心の有る輩」として授与されたのであろうと推定できるが、それは日向等が授与した「不信の輩」とどれほど違うのであろうか。曼荼羅を欲しがる人が「不信の輩」であるというのは理解しがたいことであり、日興の弟子の場合は「一分信心の有る輩」と規定され、他の門流の弟子の場合は「不信の輩」と規定されているだけではないのだろうか。
 この時代にすでに形木印刷というコピー技術が存在し、曼荼羅本尊のコピーに関しても、日興のように一つ一つ手書きで書写するのと、日向、日頂、日春のように日蓮真蹟曼荼羅本尊を形木印刷という形式でコピーするのとどこに教義的差異が生じるのか私にはわからない。日向は曼荼羅を書いているが、その様式は日興書写の曼荼羅と酷似しており、日蓮から曼荼羅の書き方を直接教示されなかったことは明らかであるが、同様に、日頂、日春も教示を受けなかったと考えられる。かれらが自分たちの弟子の中で曼荼羅本尊を要望している者たちに曼荼羅本尊を授与する一つの方法として、日蓮の真蹟曼荼羅本尊を忠実に形木印刷したことは、日蓮から曼荼羅作成の教示を受けなかった者としては、日蓮に最も忠実な曼荼羅作成の方法であったとも解釈できる。これまで考察してきたように、曼荼羅を書写した日興も、曼荼羅を自分の観心の本尊として図顕したと推定される日朗などにしても、誰も日蓮から曼荼羅の作成方法を教示された者はいなかったのであるから、それぞれの日蓮の後継者たちが、自分が最も良い方法であると考える方法で、曼荼羅作成をしたという歴史的事実が存在するだけである。
 ちなみにいつごろ作成されたかは不明であるが、日興筆の曼荼羅で形木印刷されたものが、『日興上人御本尊集』に10幅記録されている。後代この『富士一跡門徒存知事』に違反して、形木印刷したものと思われる。そもそも形木印刷では駄目で、書写でなければいけない理由は、日興正筆の文献にも、信頼できる文献にも、何も書いていない。その場合日蓮真蹟の曼荼羅を形木印刷することを禁止する教義的理由はどこにも見出せない。

1-2 理論的に容認された本尊としての一尊四士
1-2-1 日興正筆に見られる議論

 日興の正筆資料『宗祖御遷化記録』には、「一、御所持佛教事  御遺言云 佛者釈迦立像墓所傍可立置云々。 経者私集最要文名注法花経同籠置墓所寺六人香花當番時可被見之。 自餘聖教者非沙汰之限云々。 仍任御遺言所記如件。 弘安五年十月十六日 執筆日興花押」(『富要』5-144『宗全』2-105)とあるから、日興が日蓮の持仏である釈尊像を「仏」と表現しているのは確実である。上述したように日興は曼荼羅をも「仏」と表現していた事例がある。
 なお『宗全』第2巻によれば、この『宗祖御遷化記録』は西山本門寺に正本が保存されているが、同様な事柄を扱っている池上本門寺正本『身延山久遠寺番帳事』『御遺物配分事』と池田本覚寺所蔵日位筆『御遺物配分事』がある。その内容が異なっていることから、日蓮正宗系の研究者は西山本門寺本を日興正筆と認め、池上本門寺本は偽筆と主張し、日蓮宗系の研究者は池上本門寺正本説を主張している。筆跡鑑定などをすれば、正筆か偽筆かぐらいは学問的に決定できると思われるのだが、まだ両者の見解は一致していない。現段階では西山本を正筆として考察を進めていく。
 仏像に関しては「墓所傍可立置」とあり、『注法華経』に関しては「同籠置墓所寺」とあるから、日蓮の墓所は土の中に骨壷を安置し、その上に墓石を置くという様式ではなく、「墓所寺」と呼ばれる「廟所」を建立し、その内部に骨壷を安置し、骨壷の横に釈尊像を安置し、『注法華経』ならびに「自餘聖教」をその廟所内部に保管し、閲覧できるようにせよという遺言であったと読解されている。そのような「廟所」を新たに建立したのか、それとも既存の建物を流用したのか、それとも大坊の一部を「廟所」として使用したのかは記録がないので分からない。あるいはこの読解が全くの誤りで、「墓所」と「墓所寺」は別物で、「墓所」は墓石、「墓所寺」は久遠寺を指し、廟所は存在しなかったという読解もあるのかもしれない。
 日蓮は10月8日に池上で本弟子六人を定めた後、13日に亡くなり、14日に入棺され、即日荼毘に付されたものと思われるが、16日に『宗祖御遷化記録』が執筆されている。鎌倉妙本寺のHPによると「霊宝塔には、日蓮上人の御真骨(頂骨5片)が納められている。」とあるから、遺骨の一部は分骨されたようであるが、大部分は身延に法縁・地縁のある日興が身延まで運んだようである。その後主要な弟子たちはそれぞれの活動拠点で善後策を講じた後で、翌年1月に百箇日法要を身延で営んだ。そのときに、日昭、日朗、日興、日持の合議で『墓所可守番帳事』(池上本門寺本では『身延山久遠寺番帳事』)が作られ、そこでは「正月 弁阿闍梨 二月 大国阿闍梨」(『宗全』2-106)とあるから、百か日法要の後、日昭、日朗は引き続いて身延で輪番を勤めたと思われる。
 この『宗祖御遷化記録』に記載された釈迦立像と注法花経は後に日朗、日昭により、身延から鎌倉に移管されたが、その時期、ならびに事情については不明なことが多い。
 HP『日蓮ノート』の「日蓮滅後の身延山・小考5 墓所輪番崩壊の時期は」には「一門の重鎮たる日昭・日朗の二名が、日蓮亡き後、順に輪番登山に身延を訪れる弟子達に師の遺品であり亡き師が偲ばれる釈迦立像と註法華経を一回も拝させない、ということをするとは思えない。であれば、二回目の月番である弘安7年1月に『註法華経』の移動、2月に『釈迦立像』の移動ということになるだろうか」とあり、これらを持ち出したのは翌年の輪番の時であるという見解を示している。確かに百箇日法要のすぐ後に、釈迦立像と注法花経を持ち出したとすれば、日蓮の遺言に背くことであり、他の門弟からも非難されるべきことになり、日興や冨木常忍の文書に何か非難めいたことがあってしかるべきであるが、それがないということは、百箇日法要の直後に持ち出すという非常識なことはしなかったと思われる。
 『宗祖御遷化記録』には日蓮の宗教的遺品として特に言及されているのが、釈迦立像と注法花経の二つであり、曼荼羅については何も言及されていない。日興は『宗祖御遷化記録』では日蓮の随身仏を「仏」と表現したが、「本尊」としては表現していないが、曼荼羅を「仏」と表現した箇所があることから、日興も初期には釈迦立像も本尊と容認していたのかもしれない。「墓所」がたんなる墓石ではなく、廟所という建造物であるならば、そこに日蓮の遺骨とともに安置するように日蓮が遺言したということはそれなりの重みをもつ。身延に墓参した弟子たちは、遺骨とともに、その横に安置されている釈尊像に手を合わせたであろうことは容易に想像できる。
 なお日興の甥である西山日代は、日尊の弟子日印が『日代上人ニ遣ス状』において「一、粗聞し食され候らん、当院(上行院、日尊の寺)仏像造立の事、故上人(日興)の御時誡め候の間の由、師匠にて候人(日尊)仰せられ候ひ畢ぬ、今は造立せられ候の間不審千万に候、此の仏像の事は去る暦応四年(AN60)に有る仁の方より安置候へとて寄進せしめ候ひ畢ぬ、教主は立像脇士は十大弟子にて御座候、仍つて大聖人御立義に相違の間疑ひ少からず候」(『富要』5-47『宗全』2-408)と述べて、日尊から日興は造仏を禁止していたと聞いていたのにもかかわらず、日尊が信者から寄進された十大弟子を脇士とする釈尊像を上行院に安置したので、日代にその可否を質問したことに対して、日代は『宗祖御遷化記録』の「御所持仏教の事 仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべし云云」を引用して、「此の事一躰の仏大聖の御本意ならば墓所の傍に棄て置かれんや」(『富要』5-51『宗全』2-235)と述べて、「墓所の傍に立て置くべし」という文言を「墓所の傍に棄て置」くことだと解釈している。日代は永仁五年(AN17)の生まれだから、日蓮滅後の初期の身延の墓所の状態を知っていたとも思えず、釈迦立像の安置状態を「墓所の傍に棄て置」くことだと解釈した根拠は分からない。日蓮が遺言でわざわざ釈迦立像を粗末に扱えと指示したとも考えられないので、日代の解釈には無理があるだろう。
 日蓮の遺言に見られる日蓮の遺志は、日蓮の墓所である身延山に、日蓮のシンボルである釈迦立像、注法花経を安置し、身延の墓所を日蓮信奉者たちの中心地として六老僧が団結して布教することにあったと思われる。しかし身延は武家政権の中心地であった鎌倉からは遠く、不便な山中にあった。日蓮がいればこそ、弟子たちはその不便さを克服して身延に参詣したが、日蓮亡き後、布教の利便性を考えるならば、身延を中心地にすることには無理があった。日蓮の一周忌は身延で行われたという記録はなく、日昭、日朗は池上で、日興は九月の輪番に引き続き、十月も身延に在山し、身延で別々に執行したと思われる。日興も池上に参集したという説もあるが、そのことに言及した古い資料はない。
 『美作房御返事』には「今年は聖人の御第三年に成らせ給い候いつるに、身労なのめ(斜め)に候はば何方へも参り合せ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつるに、 所労と申し、又一方ならざる御事と申し、何方にも参り合せ進らさず候いつる事、恐入り候上、歎き存じ候」(『富要』5-23『宗全』2-145)とあり、「何方へも参り合せ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつる」とあるから、日興は三回忌の段階で、身延で日蓮の法事を執行することを当然とは考えていないようで、池上に言及することなく、身延以外の場所でもよいからできれば他の老僧たちと一緒に法事をしたいという願望を示している。もし一周忌法要を一緒に行っていたら、そのような記述があると思われるが、全く言及されていないから、合同で一周忌法要を行ったとは思えない。むしろ一周忌法要を別々に行ったからせめて三回忌法要は一緒に行いたいという文意だと私は解釈している。この文中で「又一方ならざる御事と申し」とあり、誰のどのような出来事に言及しているのか不明であるが、一つは波木井氏に関する問題、もう一つは幕府に関する問題が候補には挙がる。
 『宗全』第1巻に収録されている『與伯耆阿闍梨御房書』は従来日興の身延離山の出来事に関する波木井実長の文書であると解釈されていたが、池田令道は「無年号文書・波木井日円状の系年について」(『興風』11号)において、この文書の波木井実長の花押の変化から従来想定されていた身延離山後の正応二年(AN8)の文書ではなく、それ以前の弘安七年(AN3)六月五日の文書であるとする(同論文、p.191)。そして『美作房御返事』の記事と関連させて、鎌倉の老僧たち(日昭、日朗)が波木井実長の不法を非難して、「地頭の不法ならん時は我も住ましき由、御遺言」(『富要』5-24『宗全』2-145)を盾にして、身延不参を主張したのに対して、波木井実長は、その老僧たちの主張を全く否定し、老僧たちを「かねてより憾みまいらせ」(『宗全』1-198)ていたと述べ、日円(実長)も老僧たちも日蓮の弟子であることは全く同じであり、「同朋」(『宗全』1-199)であるとまで主張し、日興が、両者を仲介しようとして、実長が不法とまでは言えないことを強調したうえで、身延の墓を捨てるのは、師匠日蓮を捨てることだとして実長を擁護しながらも、実長に老僧たちに謝罪するようアドバイスしたことをも実長は拒否したという内容だと解釈した。
 実長の不法の内容が具体的に書かれていないので、確かなことは何も言えないが、『與伯耆阿闍梨御房書』と『美作房御返事』の記述から想像できるストーリーを考えてみたい。実長と鎌倉の老僧たちの確執が生じたのは、この解釈によると百箇日法要から弘安七年六月の間のことである。その間には日蓮の一周忌法要があり、また日昭、日朗の注法花経、釈迦立像の移管問題がある。実長は百箇日法要と同様に一周忌法要も身延で行われることを期待していたであろうが、日昭、日朗は交通の便が良い池上(鎌倉と下総という二大拠点の中間、日蓮の死亡した場所)で執行したとされる。実長は鎌倉在勤のときに、日昭、日朗に対してそのことに不満を表明したであろうが、それに対して、日昭、日朗は日蓮が定めた六老僧の権威に逆らうことであるとして、実長の不法を主張し、さらに不法の地頭という口実で、実長が管理する身延という不便な地に日蓮のシンボルである注法花経、釈迦立像を日蓮の遺言通りに置いておくのではなく、多くの信徒にとって便利な鎌倉に移管しようとしたが、そのことでさらに実長とトラブルになり、日昭、日朗が日蓮亡き後の老僧としての指導権を発揮して強行したことに、実長は自分も老僧たちと同じ「同朋」(池田は実長の署名が「実長」から「日円」に、また花押の変化も同時期であることから実長が入道となったのは、弘安六年十二月十一日から弘安七年六月五日の間だと推定する。(同論文、p.197))だとして反発したというストーリーが想像される。
 池田は「弘安六年十二月十一日の時点では、まだ昭・朗二師の身延への不参、墓番の拒否は明確になっておらず、翌七年になって、日興上人と昭・朗二師との間でその件が明らかになったと指摘することができよう。もし昭・朗二師の登山があったとすれば、おそらくは墓番を務めるための登山ではなく、身延不参、御墓への訣別を告げるものではなかったか。また登山があったとすれば一体仏と註法華経が昭・朗二師の手に渡ったのはこの時ではなかったか、と私は考える」(同論文、p.200)と述べている。この池田の推定によれば、日昭、日朗の釈迦立像、注法花経移管に関して日興が了承しているということになる。『原殿御返事』では「其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ」(日興の表現、『富要』5-27『宗全』2-172)、「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏」(日向の表現、『富要』5-27『宗全』2-172)とあり、日興が日朗の釈迦立像移管に対して微妙に同意してないような記述になっていることとは整合しないように思われるが、どうだろうか。池田は弘安七年の登山の時に、日昭、日朗と日興が会談したというストーリーを描いて(同論文、p.212)、老僧の身延不参が話し合われたと推定しているが、その時に釈迦立像、注法花経移管が話し合われたかについては言及していない。ただ老僧の身延不参が釈迦立像、注法花経移管を暗黙に意図していることぐらいは日興にも分かっていたと思われるが、自分よりも先輩の日昭、日朗二人の意向には逆らうことができなかったということなのだろうか。
 日興は実長の「同朋」という不遜な言葉には問題があるが、不法とまでは言えないと判断し、日昭、日朗が墓を捨てる=注法花経、釈迦立像を移管したことを暗に非難し、せめて遺骨のある身延に墓参りするように日昭、日朗に伝えて欲しいと美作房に依頼している。このストーリーに基づけば、「又一方ならざる御事と申し」は実長と日昭、日朗の確執、老僧の身延不参、注法花経、釈迦立像の移管問題と推定できよう。なお『美作房御返事』の後、日興と日昭、日朗の間で、墓番制度の改革、日興の常住が確認され(同論文、p.228)、翌年には日興を中心として久遠寺に活気が戻ってきたことを実長は喜んでいる。
 もう一つの解釈はこの頃から鎌倉幕府の日蓮後継者たちへの弾圧が始まっており、日興はそのことについて言及しているという『日蓮教団全史』の議論である。池田はその可能性を否定しないが、『美作房御返事』の記述によれば、日興は鎌倉の政治状況については詳細な情報を持っていなかったから、それに言及している可能性は低いと考えている。またもしそのことを重大だと考えていたならば、弾圧の最中に身延に墓参してほしいと日昭、日朗に伝えて欲しいなどと、無慈悲なことを言うはずがないだろうと池田は述べている(同論文、p.224)。私も池田の見解に賛成する。
 そもそも輪番制度自体がいくら教団の団結を維持するためとはいえ、日蓮亡き後の教団の維持、発展という観点から見ると、かなり無理な制度であるともいえる。教団の中心的老僧たちが、往復を含めて一月半も自分の根拠地を離れるということが現実離れしていると思われる。その間に何か弾圧、あるいは信仰上のトラブルなどの事件が生じたら、対応ができなくなってしまう。特に日昭、日朗がいた鎌倉は日蓮を弾圧した平左衛門尉頼綱が幕府の身内人の筆頭として健在であり、安心して鎌倉を留守にして身延に出かけられる状況にはなっていなかった。大事なのは日蓮の仏法を広めることであり、墓所を守るため実質一月半も活動拠点を離れていることは無駄なことだと、日昭、日朗が合理的に考えたとしても不思議はないが、現在の日蓮宗の祖廟中心主義を日昭、日朗が採っていなかったことは明白であろう。

1-2-2 信頼できる資料による考察
1-2-2-1 『原殿御返事』の仏像に関する議論の考察

 現存する日興正筆には仏像についての言及は他にないようであるが、信頼できる資料にはそれなりに多くの言及がある。よく使用されるのが、日興が身延離山するときの書簡である『原殿御返事』(要法寺日辰の『祖師伝』に引用されている)である。そこでは「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば、最前には破し給うべきと強いて申して候いしを、軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として、其の跡に帰依し進らせて候甲斐に重んじ進らせたる高名と存知候は、聖人や入り替わらせ給いて候いけん、いやしくも諂曲せず、只経文の如く聖人の仰せの様に諫め進らせる者かなと自讃してこそ存知候え。」(『富要』5-27『宗全』2-172)とある。
 現代語訳がネットに公開されているので使用させていただくと、「日蓮大聖人の御出世の本懐である南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠実成の如来の画像は、一人・二人は書き奉ったことはあるけれども、いまだ釈尊の木造は、誰も造ってはいないのに、波木井入道殿が『微力ながら釈尊の木像をその形の通りに造立したい』と思い立たれたのを、何の使いみちもないのに(宮田注 「用途」を「費用、お金」の意味で日興は使用することが多いので、ここは「お金もないのに」の意味だと思われる)、民部日向が『大国阿闍梨日朗が奪い去った大聖人随身の一体仏の代わりに、それと同じような一体仏を造られたらよかろう』と教えたので、波木井実長は固くその考えにとらわれてしまった(宮田注 「教訓し参らせ給いて」の主語が明示されていないが、「給いて」と「教訓」した動作主に対して、筆者の日興が謙譲語を使用しているので、「教訓」したのは日向と考えるこの解釈は妥当と思われる)。それに対し日興は『せめて亡き大聖人が安置されていた仏であるならまだしもである。それにつけても上行菩薩等の脇士も無く、始成正覚の仏にすぎなかった。その上、その立像仏はすでに大国阿闍梨日朗が持ち去ってしまっている。それなのに何のいわれがあって、それを写した始成正覚・無常の仏像が欲しいと思われるのか。本来あるべき仏像を造立することが、あなたの力ではかなわないのなら、御子孫の中で造立する人が出てこられるまでは大聖人が文字にしたためられた御本尊を御安置すべきである。どうして、大聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造をいちばん先に破るのか』と強く申し上げたのを『自分が(=日興が実長を)軽んじている』と思われたのであろう。日興は、このように申し上げたことこそ、大聖人の御弟子として、その跡を継がせていただいている立場の上から、波木井殿を甲斐国の重鎮として重んじて申し上げた、誉れある行為であったと自負していることは、大聖人が我が身に入り替わっておられるのであろうか。仮にもへつらい曲げることなく、ただ経文の通り、大聖人の仰せられた通りに、諌めることができたものだと、自らほめてこそいるのである。」(HP『創価学会研究室(赤鬼のブログ)』の「原殿御返事第2章」)となる。
 長文で一部分文意のよく分からないところもあるが、ここでは「聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像・・・木像」とあり、「聖人御出世の本懐」が「南無妙法蓮華経」に係るのか(それなら曼荼羅本尊を指す)、それとも「教主釈尊久遠実成の如来」あるいはその「画像、木像」を指すのか、古文の読みとしては多様でありうるが、後の箇所に、「聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主の木像」とあるので、多くの研究者はここでの話題となっている「教主の木像」を指すと読解しているようであり、私もそれに従っておく。
 HP『日蓮ノート』の「観心本尊抄一考 6」の「原殿御返事一尊四士」では「内容については、『未来の造仏によせて現在の造仏を制止、日興が正とする曼荼羅本尊安置を教示したもの』との解釈がある。その当否はともかく、当該文は日興の自説である曼荼羅正本尊説を含ませながらも、波木井一族の経済的環境が整えば、身延山の寺に『一尊四士』が造立されることを可としたもの、といえるだろう。このように将来、波木井氏の子孫の中に財力有る人物が出た時の一尊四士造立を可としたということは、身延山に見られるように地頭等の有力檀越が法華経信仰に立脚して寺院を外護、周辺環境が安定して経済的条件が整えば一尊四士の造立は成されるという認識を、一弟子(本弟子)六人が共有していたことが背景にあると考えられるのではないだろうか」と解釈しているが、多分この見解が多くの研究者の解釈であろうと私も推測している。ただ確認しておきたいことはここで「日興の自説である曼荼羅正本尊説を含ませながらも」と述べているように、一尊四士は日蓮が『観心本尊抄』で述べていることだから理論的に否定は出来ないが、日興にとって当面は、本尊はあくまでも曼荼羅であるべきであったということである。

1-2-2-2 『富士一跡門徒存知事』の仏像に関する議論の考察

 次にこの『原殿御返事』と密接な関係があると思われる『富士一跡門徒存知事』を見てみよう。すでに1-1-2で論じたように「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」とここで主張しているが、同時に、「追加八箇条」において、「伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う。彼の菩薩の像は宝冠形なり」などと述べて、四菩薩を釈尊像に添加すれば、それを日興の義として認めるとしている。

1-2-2-3 日蓮の持仏

 ここで日蓮の生前から『富士一跡門徒存知事』に記述されている頃までの仏像造立の諸例を検討してみよう。日蓮の持仏についてはその由来についてはさまざまな伝説があるが、『船守弥三郎許御書』には「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる」とあるが、この御書に関しては、真蹟、古写本もないようで、信頼性に欠けるようだ。信頼できる最も早い由来の言及は三位日順の『五人所破抄』であろう。そこには「又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云」(『富要』2-5『宗全』2-83)とあり、伊豆流罪のときに彫刻されたものであるが、この文面では「刻み」の主語が明示されていないので、日蓮が刻んだのか、あるいは刻むことを命じたのか、あるいは伝説が述べるように海中から引き上げられたのか、それとも地頭の伊東氏が仏師に命じて刻んで日蓮に提供したのか、よく分からない。「刻み」に敬語を使用していないので、彫刻自体には日蓮は関与せず、他者から寄贈されたと読んだほうがいいのかもしれない。もっとも「随身せり」にも敬語が使用されていないので、最終的にはよく分からないとしか言いようがない。あるいは同じ三位日順の『法華観心本尊抄見聞』には、「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時には墓側に置けと云云」(『富要』2-92)とあるから、ここでは日蓮が彫刻したように書いてあるが、日興の信頼できる文献には日蓮が彫刻したことは何も言及されていないから、この日順の記述を信頼してよいかどうかも分からない。
 日蓮の持仏の由来は不明な点が多いが、その行く末に関しても不明なことが多い。本圀寺のHPに「大本山本圀寺歴世第九十七世・立正大学法華経文化研究所長・文学博士 伊藤瑞叡」の名前で「本圀寺の現在と未来への展望」という文章が掲載されている。そこではまず、日朗から日印に継承されたことについて、「日印上人は諸宗を権実論をもって催破し勝利を得て宗門の危機を救いました。人も知る世に云ふ文保二年(一三一八)(AN37)の鎌倉殿中問答であります。日朗上人はこの法勲を嘉賞せられて、日印上人に、大聖人より弘安五年十月三日に授与されていたところの、伊豆海中出現の御持仏の立像の釈尊、大聖人御自筆の立正安国論、伊豆・龍口・佐渡の法難赦免状三通と共に、正嫡付法の譲状を譲与されたと伝説せられます」と述べる(もっともこの継承により、日印が持仏を鎌倉の本勝寺に安置したのか、越後三条の本成寺に移管したのかは不明である。『宗全』に日印から日静への譲状が掲載されているが、その年号は日印が亡くなった嘉暦三年(AN47)であり、そのときにはまだ寺名は本圀寺ではなく本勝寺であるのに、文言に「本圀寺」が使用されているので、この譲状に関しては疑問が生じる)。
 そして日印から日静に継承され、本圀寺に移管されたことについて、「貞和四年(AN67)五月十五日、日静上人は光明天皇より正嫡付法の綸旨を賜り三位僧都に任ぜられました。静師は名門上杉の出身であり足利幕府の外戚に当ります。正嫡的伝の綸旨はこれを書き写しますと、左の如くです。
 六条本圀寺は日蓮正嫡の道場と為て、殊に閻浮第一の釈迦仏を安ず、今日供養の旨、聞食し訖んぬ、弥々法華の功力を抽て、宜しく四海太平の精誠を致さるべし者、天気、此くの如し、之れを悉すに状を以てす  貞和四年五月十五日」と述べる。
 この綸旨によると、「殊に閻浮第一の釈迦仏を安ず」とあるから、日印に与えられた日蓮の持仏は日静により京都本圀寺に移転されたようである。なお本圀寺のwikipedeaによると寺宝に「立像釈迦像」はあるが、重要文化財には指定されていないようだ。
 しかしながら日静から越後本成寺を譲られた日陣は日静から本圀寺を譲られた日伝と争い、京都に本禅寺を建立したが、本禅寺の寺伝によると「1548年(AN267)、日蓮聖人随身仏立像尊像が献納されたという」とある。この年は天文法華の乱によって京都追放となった日蓮宗の寺院が京都帰還を許された年であり、この寺伝が信頼できるかどうかは不明である。なお本禅寺のwikipedeaには日蓮の随身仏が安置されていることは書かれているが、これも文化財指定はないようだ。
 さらに話を複雑にしているのは、日朗門流の日晴の『当門徒継図次第』には、日輪の伝記に「朗師御入滅の後摩訶一日印比企谷を成敗すべしと存し、門徒を我が任(意)に成し玉ふ、然りと雖も朗師御譲状明白の間、自余の八人の老僧は平賀日伝を始め奉り、朗師の御代の如く本寺と仰ぎ玉ふ、日印比企谷の章疏等其外の重宝共を取り、一躰四半の立像の釈迦並に御赦免状、高祖より日朗えの御譲状、悉く盗取り登り玉ふとて越後の国の能の浦にて悉く失ひ給ふ、今都鄙に安置申立像は彼を真似て造申す也」(『宗全』18-67)という記述があることに由来する。これによると日蓮の持仏は日印によって越後本成寺に移管され、さらに京都に移送中、糸魚川市能生近海で沈んだというのだ。これは日印と対立した日輪系の日晴の記述であり、しかも日晴は文亀元年(AN220)に無くなっているから、年代的にも隔たりがありすぎて、この記述の信頼性には疑問も生じる。
 この三説のいずれが正しいのか、それともいずれも誤っているのかは、学術的調査により明確にすることは可能だとは思うが、信仰上の理由で調査ができないのであれば、伝説として放置する以外にないだろう。

1-2-2-4 『真間釈迦仏供養逐状』の仏像

 次に日蓮の生前に弟子たちによる仏像造立を考察すると、冨木常忍の造立した釈迦仏像があると推定されている。文永七年に系年されている『真間釈迦仏供養逐状』は真蹟が存在しないが、冨木常忍の『常修院本尊聖教事』の「御自筆皮籠」の「御消息の分」に、「一通 真間釈迦仏御供養の事 弘法寺被納」(『宗全』1-186)とあることから、信頼できる文献と一般に見なされている。HP『日蓮ノート』の「釈迦仏・法華経・日蓮・曼荼羅 2」というブログには「当書は富木氏が釈迦仏像を造立したことを讃嘆する書状で、伊予房(日頂)により開眼供養を行うべきことを指示、日蓮自らが釈迦仏像に参拝して結縁したいこと、仏像造立の功徳は『福きたり命ながく、後生は霊山』であることを教示している。尚、この仏像については、富木氏の所領とする堂宇に安置するために作られたようだ。」とあるが、これが一般的な見解であるようだ。
 『真間釈迦仏供養逐状』の本文は以下のようである。「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、『欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来』は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。 九月二十六日 日蓮花押 進上 富木殿御返事」
 これの一般的な解釈はHP「赤鬼のブログ」では「釈迦仏を御造立になったとの事、無始曠劫より今日まで、いまだ一度も顕れたことのない己心の一念三千の仏を、いま造立し顕現されたのである。急ぎ参って拝し法華経方便品第二に『衆生をして仏知見を聞かしめんと欲す』といわれ、如来寿量品第十六に『然るに我、実に成仏してより已来、無量無辺』と宣べられたその釈尊の造立顕現である。ただし、この仏の御開眼の事はすみやかに伊予房におこなわせなさい。伊予房に法華経一部を御仏の御六根に読み入れ参らせて、生身の教主釈尊となし奉ってお迎え申し上げ奉安しなさい。それはあなた御自身ならびに御子息でなければどうかと思われる。御所領の堂の事については大進の阿闍梨が承知している。かえすがえすもこの御仏を拝し奉り、成仏得脱を願うべきである。いつか大黒を供養されたことがあったが、そののちより世間のわずらわしきことはありませんが、このたびの功徳は大海の潮が満つるように、また月が満つるように、また福が来たり、命も永らえて後生は霊山に生まれることは間違いないと思いなさい。」とある。
 だがこの文章にはよく分からないところがある。それは、文脈上、「自身並に子にあらずばいかんがと存じ候」という文が、何を意味しているのか不明瞭であるということである。「自身」は冨木常忍を、「子」は日頂のことを指していると思われるが、日蓮が不安に感じていることに関して、冨木常忍もしくは日頂がやってくれれば安心だということを述べているようだが、それはどのようなことなのだろうか。日蓮正宗ではこの『真間釈迦仏供養逐状』において、日蓮が出家僧である伊予房日頂に開眼供養を命じたことから、開眼供養は法主ならびにその委託を受けた僧侶の専権事項であり、在家者が開眼供養することはできないと主張しているようであるが、この「自身並に子にあらずばいかんがと存じ候」という文は日頂の開眼供養を述べた後に、配置されており、冨木常忍や日頂以外ではだめだが、この二人ならばどちらでも構わないという趣旨のように思われるのだが、どうだろうか。もしそのような解釈が許容されるのであれば、日蓮は開眼供養を在家者にも容認していたということになるだろう。
 またここで「御所領の堂」に言及してあるが、真間山弘法寺のHPには「建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。」とあり、多分弘法寺のことであると思われる。
 この『真間釈迦仏供養逐状』で言及された仏像は冨木常忍、日頂に関わる仏像であるから、真間弘法寺、若宮法華寺(冨木常忍の寺)、中山本妙寺(大田乗明の寺)の記録を調べると、冨木常忍の『常修院本尊聖教事』には「釈迦立像並四菩薩 入御厨子」(『宗全』1-183)「真間釈迦仏御供養事 弘法寺被納」(『宗全』1-186)とあり、『真間釈迦仏供養逐状』が真間弘法寺に移管されたことを述べるが、若宮法華寺の一尊四士の開眼供養に関しては何も言及していない。ここから推測するに『真間釈迦仏供養逐状』がわざわざ真間弘法寺に移管されたということは、『常修院本尊聖教事』が書かれた時に、真間弘法寺に日蓮の指示によって開眼供養された仏像が安置されていた可能性を示していると思われる。
 次に中山3世の日祐の『本尊聖教録』には、法華寺分の本尊聖教録として「釈迦立像並四菩薩 入御厨子」(『宗全』1-406)が述べられ、本妙寺分として「釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養厨子御入」(『宗全』1-407)「打物題目、釈迦多宝二尊像並四菩薩像 各一体」(『宗全』1-407)「釈迦像 一体 元神宮寺」(『宗全』1-407)が述べられている。
 高橋粛道の『日蓮正宗史の研究』の「宗祖在世に一尊四士は造立されたか」という論文で、「この本尊が『大聖人御供養』というのは全くの虚偽と思われ、帥日高が嘉元(AN22-25)年間に造立したものであろう」(同書、p. 71)と述べているが、どうであろうか。同じ論文で高橋は「伊予日頂は真間に一体仏を造立した」と述べているが、その論拠は『富士一跡門徒存知事』の追加八箇条の「伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う。彼の菩薩の像は宝冠形なり」という記述である。この文章には真間弘法寺の仏像を日頂が造立したかどうかについては言及がなく、四菩薩の造立に言及しているのみであるので、高橋がどうして真間釈迦仏を日頂が造立したとしたのかその理由が分からない。もっとも高橋は付記で「『富士一跡門徒存知事』の『伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏』の文は、真間に日常の一体仏が安置されていたと考えられる。よって、真間の一体仏は宗祖認可の一体仏で、宗祖滅後日常が四士を添えたと推考されなくもない」(同書、p. 75)と別様の解釈の可能性を示唆している。つまり『富士一跡門徒存知事』の追加八箇条で言及される真間弘法寺の一体仏は『真間釈迦仏供養逐状』で言及された仏像であり、それへの四菩薩の添加は日頂ではなく、冨木日常であるという可能性を容認している。
 日祐の『本尊聖教録』の「八 御真筆」の「御消息」の記述はほぼ冨木常忍の『常修院本尊聖教事』と同じだが、『真間釈迦仏供養逐状』の記述は抜けている(『宗全』1-409)。これは日祐の時代には『真間釈迦仏供養逐状』は真間弘法寺に移管されて本妙寺・法華寺には残されていなかったことを示している。なお「十三 御書」(写本)の中に「真間仏供養御書」(『宗全』1-417)が記載されているので、写本が残されていたと推定できる(なお興味深いことにはここには「三世諸仏総勘文 一巻」(『宗全』1-416)も記載されている)。また「聖教等所所令預置事」の中に「小塔一、釈迦多宝四菩薩 入厨子、真間御堂」(『宗全』1-433)とあるが、この「小塔一」とは「題目を書いた多宝塔」のことであると思われ、一塔両尊四士の仏像が真間弘法寺にあったことを記録しているが、それが『真間釈迦仏供養逐状』と関係していることは何も述べていない。
 結局日祐の『本尊聖教録』の中で、日蓮との係わり合いを示す仏像は本妙寺分の「釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養厨子御入」だけであり、真間弘法寺の仏像についてはその係わり合いを示していないことから、日蓮在世時に造立した仏像は真間弘法寺に安置され、日蓮死後かどうかは不明であるが、四菩薩が添加され、冨木常忍が『常修院本尊聖教事』(AN18)を書き置くまでは真間弘法寺に安置され続け、その後日祐が『本尊聖教録』(AN63)を書いたときまでには、本妙寺に移管され、真間弘法寺には一塔両尊四士が新たに造立され、安置されたと推定するのが素直な読解であると思われるが、どうであろうか。
 なお日祐の「大聖人御供養」は日頂に開眼供養することを日蓮が指示したことを意味しているというのが普通の解釈であろうが、この記述を厳密に解釈して、冨木常忍が造立した仏像を日蓮が開眼供養したと解釈するならば、『真間釈迦仏供養逐状』の「自身並に子にあらずばいかんがと存じ候」の文意は大きく変わるだろう。つまりこれは開眼供養の動作主について言及しているのではなく、日蓮が開眼供養するために、その仏像を中山から鎌倉、もしくは身延へ移動する責任者について言及しているとも解釈できる。私自身はこのような解釈を採用するわけではないが、「自身並に子にあらずばいかんがと存じ候」の文意が不明瞭であるから、多様な解釈の余地が生まれる。
 なお真間山弘法寺のHPの「境内案内」には「真間山弘法寺『本殿』(ほんでん)には、日蓮聖人御遺文『真間釈迦仏御供養逐状(おいじょう)』と『四菩薩造立鈔』にも示されてる、高名な一尊四士霊像が安置されている。釈尊像は法華経の久遠実成仏として生身(しょうじん)像の信仰あつく、本化地湧の四大菩薩を副(そ)えたことで末法の教化救済仏として拝まれてきた。共に発願主は富木常忍公。御開眼は宗祖の御下命で日頂上人が修された。 我国最初の一尊四士造像であり、当初の四大天王像を随伴する点も貴重」とある。『四菩薩造立鈔』は文献的には問題があるが、真間山弘法寺の一尊四士が『真間釈迦仏供養逐状』の仏像だとすれば、それはある時期から本妙寺から真間山弘法寺に再び移管されたと思われるが、そもそもこの記述ははたして信頼できるのであろうか。もし『真間釈迦仏供養逐状』に関連した仏像であるならば、文化財に指定されて当然だと思われるが、弘法寺のwikipediaの「文化財」の項目には記述されていないから、文化財指定もされていないようだ。また中山法華経寺のHPにもこれに関する仏像の記述はないようであるから、行方不明ということになろうか。

1-2-2-5 日蓮在世中に造立されたその他の仏像

 建治二年の『四条金吾釈迦仏供養事』には「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云、開眼の事・・・此の経の中に得具五眼とは一には肉眼・二には天眼・三には慧眼・四には法眼・五には仏眼なり、此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候、・・・されば画像木像の仏の開眼供養は法華経天台宗にかぎるべし・・・此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ、優填大王の木像と影顕王の木像と一分もたがうべからず、梵帝日月四天等必定して影の身に随うが如く貴辺をばまほらせ給うべし」とあるから、四条金吾が仏像一体を造立したのは確実であるが、その大きさ、立像か、坐像かは不明であり、また開眼供養に関しても言及はされていても「法華経天台宗にかぎるべし」と一般論を述べているだけで、具体的なことは何も述べていない。
 弘安二年の『日眼女造立釈迦仏供養事』には、「御守書てまいらせ候三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫今一貫云云。・・・釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、・・・文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべしと申す文なり。・・・今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし、二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし」と述べて、仏像一体三寸の造立を賞賛している。
 建治二年の『光日房御書』には「母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば」とあるから、光日房が仏像を安置していたことは伺えるが、この仏像が新たに造立されたのか、それとも以前からあったのかは不明である。以上の三体は日蓮の信頼できる文献によりその存在は確認できるが、その他の仏像の造立は不明である。

1-2-2-6 『富士一跡門徒存知事』に記載された日蓮滅後に造立された仏像

 日蓮滅後に造立された仏像については、明確な資料が残っているものもあれば、経緯が不明なものもある。そこで『富士一跡門徒存知事』の追加八箇条を手がかりに考察してみよう。
 「一、追加八箇条。
近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条条の事。
一、寂仙房日澄、始め盗み取つて己が義と為す。彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり。仍つて甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり。御遷化の後民部阿闍梨を師と為す(帰依僧なり)。 
一、去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す。爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る。此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。
一、去る永仁年中越後国に摩訶一と云う者有り天台宗の学匠なり日興が義を盗み取つて盛んに越後国に弘通するの由之を聞く。
一、去る正安年中以来・浄法房天目と云う者有り(聖人に値い奉る)。日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す。又祖師の添加を蔑如す。
一、弁阿闍梨の弟子・少輔房日高、去る嘉元年中以来、日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。
一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う。彼の菩薩の像は宝冠形なり。
一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う。彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す。又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり。
一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り(寂日房向背の弟子なり)。日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す。是れ又四脇士を造り副う。彼の菩薩の像は身皆金色・剃髪の比丘形なり。又、神詣を留むるの由、之を聞く。
一、諸方に聖人の御書之を読む由の事。
此の書札の抄・別状有り。之を見るべし」(『富要』1-58,59『宗全』2-127,128)
 ここでは正安二年(AN19)に日向が下山光長の新堂の一体仏を開眼供養したことが記されている。それを機に日澄が日向のもとを離れて日興に帰伏したとする。
 次に日印が永仁年間(AN12-17)に日興の義を盗用して越後で弘通していたことを述べているが、これは日印の『奉造立供養本尊日記』(『宗全』1-318,319)に一尊四士の造立を永仁六年(AN17)比丘尼浄法の援助によって遂行したことを記述しているから、このことを指していると思われる。
 次に正安年間(AN18-21)に天目が「日興の義」を盗用して、鎌倉で弘通したとあるが、日印の項では「日興の義」は一尊四士の造立を意味していると思われるが、ここでも一尊四士の造立を意味しているのか、それとも本迹勝劣のことを意味しているのか、よく分からない。また「祖師の添加を蔑如す」とあるが、日興の通例の日蓮に対する呼称は本文で多用される「聖人」が多いので、「祖師」という呼称は異例であり、この部分の添加は後代かもしれない。また「祖師の添加」とは多分「方便品の読誦」のことを意味すると思われるが、そうするとここの文で「日興が義」ということは本迹勝劣のことである可能性が高くなる。高橋粛道は『日蓮正宗史の研究』の「宗祖在世に一尊四士は造立されたか」において「天目の場合も正安年中に造立したと記録され」(同書、p.71)と述べて、『円極実義抄』の三大秘法の本尊=一尊四士説を結びつけている。しかし『円極実義抄』は本迹勝劣が主題となっており、一尊四士も三大秘法との関連で述べられているだけであり、一尊四士の造立について言及しているわけではない。天目の開いた寺院として伝承のある品川の天妙国寺にはHPによると一尊四士は安置されていない。私には高橋の解釈を裏付ける証拠は見つけられない。
 次に中山2世日高が嘉元年間(AN22-25)に「日興の義」を盗用したとあるが、これも一尊四士の造立とは明言されていない。若宮法華寺、中山本妙寺の仏像に関しては、上述したが、若宮法華寺の一尊四士は冨木常忍の造立であり、中山本妙寺の一尊四士は真間弘法寺の一尊四士を移管したものと推定でき、一塔両尊四士については日祐の『一期所修善根記録』の「本妙寺本尊釈迦多宝等造立事」(『宗全』1-445)に建武二年(AN54)の造立とあるから、日高が造立したと高橋が推測している一尊四士は存在しない。したがってこの日高に関する記述も一尊四士の造立に関するものではない可能性が高い。あるいは日祐の『一期所修善根記録』に記録される真間弘法寺の一塔両尊四士(『宗全』1-433)の造立が日高によるのかもしれない。しかしこれは一尊四士という「日興の義」にあてはまらない、一塔両尊四士という中山門流の独特な仏像造立様式である。
 次に日頂に関する記述は釈迦像の造立に関しては、日頂が造立したとは述べず、四菩薩の添加についてだけ言及している。しかも時期に関しては「去る年月」としか述べず、他の箇所が元号を記述しており、しかも四菩薩の形まで言及しているのに比べれば、非常に曖昧である。これは年月を明示すれば都合が悪いことがあるのか、それとも年月が分からないほど古い出来事であったのか、という疑いを生じさせる。
 次に日向が四菩薩を添加したことを言及している。いつ、どこの寺院の釈迦像に四菩薩を添加したのかは言及されていないので、不明であるが、四菩薩の形については具体的に述べている。あるいは波木井氏の援助により身延山久遠寺に造立したのかもしれないが、よく分からない。
 次に日伝の四菩薩添加を述べている。日伝の活動拠点であった小室妙法寺のHPによれば、日伝造立の四菩薩は現存していないようだ。

1-2-2-7 『富士一跡門徒存知事』の仏像造立記述の問題

 次に『富士一跡門徒存知事』に記述されていないが、日興が亡くなる前までに造立された仏像を、他の資料によって考察してみよう。冨木常忍の永仁七年(AN17)の『常修院本尊聖教事』の記述によれば、「釈迦立像並四菩薩」が造立年月は不明ながら若宮法華寺に安置されていた。この仏像は既に言及した真間弘法寺の仏像とは別のものと推測できる。同年の冨木常忍の『置文』によれば、「当寺並本尊聖教者奉申付帥殿(日高)候、弘法寺者申付兵部阿闍梨(日揚)」(『宗全』1-189)とあり、冨木常忍は若宮法華寺と真間弘法寺の両寺を管理しており、『真間釈迦仏供養逐状』で言及された仏像は真間弘法寺に、それとは別に若宮法華寺に一尊四士を造立したと思われる。
 問題なのはなぜこの若宮法華寺の一尊四士が『富士一跡門徒存知事』で言及されていないのかということである。高橋粛道は『日蓮正宗史の研究』の「宗祖在世に一尊四士は造立されたか」において、「『追加文』は像の形式まで記すほど正確なものであるが、記載漏れや、調査漏れがあるのは致し方ないところで、日常の造像が記載されていないことをもって法華寺の一尊四士が在世に存在したとは、けっして断定できるものではない。むしろ交通不便な昔において、これだけの情報を把握したことが不思議なくらいである。おそらく中山は、日興門流が知らない時期に一尊四士の造立があって日常の名が漏れたのであろう。そうすると日常の造立は、日興上人が正式に『日興の義』として四士を添えよと示された原殿書の正応元年(AN7)十二月十六日以降となり、摩訶一日印が永仁年間(AN12-17)に造像した事実が記載されているから、調査は永仁年間から始まったとして、これ以前の正応五年(AN11)までの五年間に造像されたと推定されるのである」(同書、p.74)と述べている。
 私はこの高橋の記述にはいくつかの点で納得できない。まず『富士一跡門徒存知事』には日澄に関して「(寂仙房)去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已つて自義と為し候処に正安二年(AN19)民部阿闍梨(日向)彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す。爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る。此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり」(『富要』1-58『宗全』2-127)と追加文で記述する。
 しかしまた三位日順の『日順雑集』には「日興上人寂仙房(日澄)に向ひ本迹の一念三千有るべき様を御意あり、寂仙房云く然らば一念三千には之無し二念六千なるべしと申さる、其の時日目已下の老僧達は学匠(日澄)に向つてなまじひに御法門(を日興が)仰せ出されたりと皆思しめされ、上人(日興)・下野阿闍梨(日秀)を召して殿(日澄)は愚癡々々として物に通はれ候、其にて休み候はんとて富城殿の許に行いて、爰に御書の拝見申し度き由を云うべし、所望して御書を書て上れと御定あり、仰の如く(日澄は)行きて此の御抄を写し参られさてこそ寂仙房弥帰伏申されて候へ、彼の御書に云く彼は迹門の一念三千・是は本門の一念三千・彼は理なり此は事なり、天地はるかに異なり、御臨終の時は御意に懸けらるべし云云、此の御書をば破迹顕本抄と名づくべし、日順云くもとは無名なり云云」(『富要』2-99)ということが記述されている。
 このエピソードがどれほど信頼できるかは不明であるが、日興と日澄の本迹論争は『富士一跡門徒存知事』によれば、永仁年間(AN12-17)のことであり、三位日順の『日順雑集』によれば、日澄はその論争の後、冨木常忍の中山に移動し、御書、特に『治病大小権実違目』の本迹勝劣の議論を読んで、納得し、『富士一跡門徒存知事』によれば、正安二年(AN19)に日興に帰伏したとされるのである。日澄による御書の写本もいくつか残っており、中山に正本がある『法華取要抄』の日澄写本や、『興風』第14号の菅原関道の「保田妙本寺所蔵の『日蓮遺文等抄録』について」で、中山に正本がある御書を記載している『日蓮遺文等抄録』が日澄写本であると指摘されていることから、実際に日澄が中山を訪問したと考えられる。日澄が冨木常忍のところに永仁年間(AN12-17)から正安二年(AN19)の間に訪れたということが確認できるならば、日澄は中山(若宮法華寺)に一尊四士があったかどうかぐらいは分かるだろう。高橋は冨木常忍の造仏が「調査は永仁年間から始まったとして、これ以前の正応五年(AN11)までの五年間に造像されたと推定されるのである。」と述べているが、永仁七年(AN17)の『常修院本尊聖教事』に若宮法華寺の「釈迦立像並四菩薩」が記載されているのに、その前後に中山に行った日澄が一尊四士について情報を持っていなかったとは考えられない。
 ここから推測できることは『富士一跡門徒存知事』に冨木常忍の若宮法華寺における一尊四士の造立についての記述がないのは、情報漏れや記載漏れではなく、意図的に記載しなかったということだろう。その理由は冨木常忍が一尊四士を造立したのは「日興の義」を盗用したからではなく、『観心本尊抄』を読んで、独自に一尊四士の造立をしたからで、もしその冨木常忍の造立を『富士一跡門徒存知事』で「日興の義」を盗用したと記述すれば、中山門流から猛烈な抗議が生ずることが予測されたからであろう。さらに中山門流では「日興の義」にもなかった一塔両尊四士の造立も行っている。これは曼荼羅本尊の具象化と考えられるが、このような発想は日興にもなかったのであり、その意味では中山門流の仏像造立は「日興の義」とは無関係に生じたと考えるほうがよいだろう。
 高橋は『富士一跡門徒存知事』が歴史的事実を述べているという大前提で議論を組み立てているが、私は『富士一跡門徒存知事』は日興の独自の思想を表現している資料であると思うが、執筆が全て日興かどうかは確認できず、また記述されていることについても、日興門流のバイアスがかかっている可能性があると見なして、慎重な考察をしている。摩訶一日印の越後本成寺での一尊四士の造立に関して、「日興が義を盗み取つて盛んに越後国に弘通するの由之を聞く」とあり、伝聞であることを示している。日印が「日興の義」をいつ、どこで、誰から教えられたことを明示することなく、単に一尊四士を造立したのは「日興の義」を盗用したのだと主張しているに過ぎない。
 そもそも「日興の義」としての一尊四士の造立について、多くの研究者は、一尊四士は『観心本尊抄』で述べられた本尊造立形式だから、日興独自の議論ではないとしている。しかしHP『法蔵』の「日精上人問題」の「日俊・日寛・日東各上人の評価」で「四脇士を造り副うるは是れ五人の義に非ず興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり(第26世日寛上人『末法相応抄』)四菩薩添加は、第2祖日興上人にとって『且く之を許す義』だと仰せである。その上で『是れ正義と謂うには非ざるなり』と仰せなのである」と述べて、日寛の『末法相応抄』の解釈を根拠として、「日興が義」という表現は日興が正しいと思っている議論ではなく、「一機の為に且く之を許す義なり」つまり造仏を希望する信徒に対して仕方なく許容する議論だと解釈している。
 しかし私は「『本尊問答抄』について(4)」の「5-2日興の曼荼羅正意説」で述べたように、「日興が義」とは単なる一尊四士造立説だけではなく、より強硬な一尊四士同時造立説であったと解釈している。仏像の造立は仏師に依頼してそれなりに費用がかかることだから、経済事情によっては一挙に一尊四士五体を同時に造立することは困難であるだろう。場合によっては釈迦仏造立を先行させ、四菩薩は後に造立するという選択肢もありえたろう。寺院の本尊であればそれなりの大きさ、格式が要求されるから、ますます同時造立は難しく、何世代もかけて寺院の仏像を造立した事例も多い。『原殿御返事』では、波木井実長が一体仏を造立しようとしたとき、一体仏だけで済まそうとしたかどうかは不明であるが、日興はとりあえずそれを許可して、さらに四菩薩を添加するように教示したのではなく、四菩薩も同時に造立する経済的余裕ができるまで、造立を延期するよう教示した。この一尊四士五体の同時造立説は『観心本尊抄』でも主張されていなかったことであり、日興の独自の解釈である。だから日興はこの同時造立説を「日興が義」と言わざるを得なかったのである。日蓮は『真間釈迦仏供養逐状』で「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや」と述べて、「久遠実成釈尊」とは表現していないが、「無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏」と述べて、四菩薩の脇士がない一体仏を久遠実成釈尊と見做していたと考えられる。ここではまだ四菩薩添加の議論を日蓮はしていないが、後の『観心本尊抄』では四菩薩添加を以って久遠実像釈尊の仏像としている。日蓮はその他の釈尊の一体仏の造立に対して、四菩薩添加を勧告することなく、素直に称賛している。四条金吾の妻日限女が造立したのは一体三寸という小さな仏像であるが、『観心本尊抄』で言及しているのは天皇などの援助で建立する寺院の仏像であるから四菩薩添加の議論をしていると思われるが、一体三寸の小さな仏像でも日蓮は久遠実成釈尊の仏像であると称賛したと思われる。だから日蓮は必ずしも一尊四士にこだわったわけでもないだろうと私は推定している。
 真間弘法寺の仏像について言えば、始めに『真間釈迦仏供養逐状』で言及された仏像が造立され、日蓮死後かどうかは不明であるが、冨木常忍の援助によって四菩薩が添加されたのであり、経済事情が関係して釈迦仏先行造立があったのかもしれない。日興の四菩薩添加不可欠説=同時造立説に影響されて、四菩薩を添加したという『富士一跡門徒存知事』の主張は、一方的な主張に過ぎないだろう。
 さてここで六老僧の仏像造立についての記録、伝承を考察してみよう。日昭に関しては、『譲与本尊聖教事』に「釈迦多宝像 泥仏木像」(『宗全』1-11)という記述があるから、一体は泥仏すなわち、粘土で型取りしたものを素焼した仏像であり、一体は木像である。作成方法が異なるから同時に造立したとは思えないし、また四菩薩への言及もないから、多分釈迦一体仏を造立した後で、多宝仏を造立して、それでよしとしたのであろうと推測される。日昭には一尊四士の仏像造立の考えはなかったと思われる。
 次に日朗の仏像造立を考察してみると、鎌倉の拠点妙本寺には身延から移管した日蓮の持仏が安置されていたと思われるが、もう一つの重要拠点である池上本門寺に関してはよく分からないが、池上本門寺HPによれば仏殿の本尊に関して、焼失前の「旧一尊四士四天の尊像は、伝運慶作、日蓮聖人御開眼であったという」とあり、伝承としては一尊四士の本尊を安置していたようである。三長三本と称されるもう一つの平賀本土寺の本尊についてはよく分からないが、ネット検索すると『日本歴史地名大系』を出典として「本尊は大曼荼羅」という記述があった。そのほかの出典には、本尊に関する記述がなかったので、仏像の造立があったかについては不明である。日朗の弟子摩訶一日印が越後本成寺に一尊四士を造立したことはすでに述べたが、日朗門流では一尊四士の造立が意識されていたと見なしてよいだろう。
 日興門流については、後で考察するとして、日向門流では、日向が波木井実長の希望を入れて身延久遠寺に釈迦一体像を造立したと思われるが、その記録はない。ただ下山光長の新堂に一体仏を造立したことは『富士一跡門徒存知事』にある。さらに四菩薩を添加したことが記述されているが、どこの寺院の造立かについては記述がされていない。下山氏に関連した本国寺をネット検索しても一尊四士に関する伝承は記載されていない。日向が関係した寺院である藻原寺に関しては寺尾英智の『中世日蓮宗における造像活動について』がPDF形式でネット公開されているので、それを参照していただきたいが、中山3世日祐の『一期所修善根記録』に「上総国藻原堂釈迦多宝二尊供養暦応三年(AN59)」(『宗全』1-448)とあり、その後の諸記録によって、まず釈迦・多宝の二仏が造立され、その後四菩薩が造立され、最後に中尊の題目宝塔が造立され、一塔両尊四士が完成して、諸仏を仏堂に安置して、入仏供養をしたことが述べられているが、これらの仏像造立は数世代にもわたる長期的な事業であったことが記録されているという。藻原寺は日向門流の本寺ということになっているが、中山門流との関係も深いようで、一尊四士ではなく、一塔両尊四士の仏像形式になっている。
 日頂に関しては『富士一跡門徒存知事』に真間弘法寺に四菩薩造立が記されているが、真間弘法寺が実質的には冨木常忍に管理されていたことを考慮に入れると、四菩薩造立も冨木常忍の意志によるものかと推測される。日持に関係した静岡法蓮寺には仏像造立に関する伝承はないようで、不明である。
 以上のように日蓮死後に造立された仏像は、釈迦一体仏、釈迦多宝(日昭)、一尊四士、一塔両尊四士が文献資料に見えるが、『富士一跡門徒存知事』の本文で言及される「普賢・文殊」を脇士とした仏像の造立は確認できない。
 なお「『本尊問答抄』について」の5-4-5で紹介したが、日蓮宗蓮城寺のHPの「本門の本尊」の項には「一塔両尊四士といって、真ん中の宝塔には、南無妙法蓮華経と書かれ、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が一つの蓮台に乗っていて、右に上行、無辺行のそれぞれの菩薩が、また左に浄行、安立行のぞれぞれの菩薩が奉安される形式です。また、これには文殊・普賢・四天王・不動・愛染の諸尊も添えられる場合があります。(中略)その前の中心線上に日蓮大聖人の御尊像と法華経八巻を乗せた経机が奉られています。もちろん、大聖人の御尊像は御本尊でないのは言うまでもありません。本化上行菩薩応現の大聖人の教えを通して御本尊を観なければならないということです」とある。ここには文殊・普賢を添加することもあるが、それは四菩薩を添加した後でさらに添加するということであり、文字曼荼羅を具象化するという意義があるものと思われる。

1-2-2-8 日興の仏像不造立の意義

 日興が本尊として久遠実成釈尊の仏像を本尊として認め、それを明示するために脇士として四菩薩を添加するように教示したことは明らかであるが、そのうえで日興生前には大石寺にも、重須にも一尊四士の仏像が造立されなかったということの意義を考えてみたい。『原殿御返事』では波木井実長に経済的に将来余裕が出来たら、一尊四士を造立することを教示していた日興ではあるが、日興の関係していた寺院に一尊四士が実際には造立されなかった理由を探ってみるのは無駄ではあるまい。
 考えられる理由の一つは経済的事情であろう。大石寺の檀那の南条氏、重須の檀那の石川氏の経済的事情については私にはよく分からないが、地頭クラスの武士で、しかも鎌倉幕府から要注意人物と見なされていただろう両者が、それほど経済的に余裕があったとは思えない。しかし日興は長命であったから、仏像造立が重要なことだと両者が教示されていれば、長期間の貯蓄によって仏像造立は可能であったと思われる。しかし結局仏像造立がなされなかったのは、日興が積極的には重須にも、大石寺にも一尊四士の仏像造立をしようとしなかったからだと思われる。
 三位日順の『五人所破抄』には「次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云」(『富要』2-5『宗全』2-83)とあり、仏像造立を希望する信徒には一尊四士の造立をしぶしぶであっても許容しているのは、一尊四士を教義的に否定することは困難であったからであろう。
 それに比べると『富士一跡門徒存知事』本文で「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと。即ち御自筆の本尊是れなり」(『富要』1-55『宗全』2-124)と述べているのは、『五人所破抄』よりも仏像造立否定の強い主張となっている。一尊四士の造立容認の議論は追加八箇条の日頂の真間弘法寺の事例に言及して「日興が義を盗み取つて四脇士を副う」と述べている。『五人所破抄』では希望するものには容認していたが、その議論は「日興の義」であるとは限定されていなかったのに、『富士一跡門徒存知事』では「日興の義」というように限定されている。
 『観心本尊抄』には「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等余仏小乗権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由之を申す」とあり、末法に「本門寿量品の本尊(=久遠実成釈尊)並びに四大菩薩」を造立することを示唆していることは明らかであるのに、一尊四士の造立を「日興の義」とすることは、1、『観心本尊抄』の議論を無視する、2、日寛の『末法相応抄』に「興師一機の為に且く之を許す義なり、故に日興が義と言う、是れ正義と謂うには非ざるなり」(『六巻抄』、p.188)とあるように、「正義」=日興の本来の教義としては、仏像造立は認められないということを示す、3、『観心本尊抄』では言及されていなかった一尊四士同時造立を「日興の義」として主張する、などのいくつかの解釈の余地がある。
 『富士一跡門徒存知事』では「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」と断定してしまったために、一尊四士を「日蓮の義」=「聖人御立の法門」と主張するわけにはいかなかったので、苦し紛れに「日興の義」と言わざるを得なかったということを含意する1の解釈もありうるが、それならばむしろ積極的に一切の一尊四士の造立を認めないという議論をすれば済む話だから、「日興の義」として一尊四士の造立を容認する論理的必然性が分からない。
 日興の「正義」としては一尊四士の造立が認められないという2の議論は日蓮の『観心本尊抄』や日興の『原殿御返事』の議論に反していると一般に見なされるであろう。「日興の義」が日興自身の見解かどうかは、『富士一跡門徒存知事』の著者が明確になっていない段階では、不明のままであるが、もし2であるとすれば、日興自身の見解が『原殿御返事』の仏像造立に関する考えから変化したと見なすしかない。3であれば『観心本尊抄』では一尊四士を同時に造立せよとは必ずしも主張していないと解釈できれば、一尊四士の造立説=「日蓮の義」、『原殿御返事』の一尊四士同時造立説=「日興の義」と整合的に理解できる可能性がある。どのように解釈しても日興は一尊四士の造立を教義的に否定することはできなかったということは明白である。
 日興が教義的には否定することが困難だと思いながらも、仏像造立をできるだけ抑制しようとしたことの理由は一体何であったろうか。『富士一跡門徒存知事』には「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」とあるが、どの御書のことかは自明ではないことは既に述べた。可能性としては『本尊問答抄』ではないかと述べたが、同じ『富士一跡門徒存知事』には後に十大部と称される日蓮の著作の名称が挙げられているが、その一つに『本尊問答抄』があり、重要視されていることが伺われる。
 私が『本尊問答抄』ではないかと推測する根拠は日道または日時の『御伝土代』(注)の「日興上人御遺告、元徳四年(AN51)正月十二日日道之を記す」には、「一 大聖人の御書は和字たるべき事 一 鎌倉五人の天台沙門は謂れ無き事 一 一部五種の行は時過たる事 一 一躰仏の事 一 天目房の方便品読む可らずと立るは大謗法の事 倩ら天目一途の邪義を案ずるに専ら地涌千界の正法に背く者なり。 右以条々鎌倉方五人併に天目等之誤多しと雖も先十七ケ条を以てこれを難破す、十七の中に此の五の条等第一の大事なり何ぞ此を難破しこれを退治せん云云」(『富要』5-9,10『宗全』2-251,252)とあり、「一体仏」批判の重要性を述べているが、さらに次のように詳しく述べてある。
 (注)『興風』第16号の池田令道の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」において、池田は作者が従来主張されていた大石寺4世日道ではなく、6世日時であると論証している(同論文、p.452)。残念ながら私は古文書の筆跡鑑定能力は全くないから、この論証が妥当かどうかの判断はできないが、この論文を読んだ限りでは、それなりに説得力がありそうだ。さらに多くの研究者の検討を待ちたい。
 「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。 小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同じきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。 仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何ぞ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。本尊問答抄に云く。」(『富要』5-12『宗全』2-251,252)
 この議論の中で「御書に云く」の部分は『治病大小権実違目』の「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり」という本迹勝劣の部分を指しているが、その議論を受けて一体仏ではなく四菩薩添加を主張することは『観心本尊抄』にもある議論である。その意味では一体仏批判には引用文の末尾の「本尊問答抄に云く」は全く意味のない言及なのである。
 『本尊問答抄』で上述の議論と関係のある部分を引用すれば次のようになる。
 「問うて云く日本国に十宗あり所謂・倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」
 見ても分かるように『本尊問答抄』には一体仏と四菩薩添加を比較した議論はどこにもなく、あるのは法勝仏劣の議論である。一見一体仏批判にとっては無意味と思われる『本尊問答抄』について言及しているのはなぜだろうか。それは日興の「御遺告」として一体仏批判=四菩薩添加を強調すれば、多くの研究者のように、日興は一尊四士を本尊として積極的に認めていると解釈される可能性があるが、ここで『本尊問答抄』によってそれが消極的であることを示そうとしているのだと私は解釈している。
 日興門流以外で『本尊問答抄』がどのように重視されたのかは分からないが、少なくとも仏像造立を抑制する議論として使用された形跡はないようだ。日興門流が一体仏を批判するのみならず、一尊四士の造立にも消極的であったのは、仏像よりも法華経の題目を本尊とすることを明示している唯一の日蓮の著作である『本尊問答抄』による以外はなかったろう。上述の1-1-2-2で日尊の弟子日印の『日代上人ニ遣ス状』の引用で示したように、日興門流では造仏批判に『本尊問答抄』が使用されていたことがそれを示している。
 そして消極的である理由として『五人所破抄』では「次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし」(『富要』2-5『宗全』2-83)と述べて、仏像に執着する者に対して、やむを得ず許容するだけであり、曼荼羅こそが本尊であるということを主張する。
 なお池田令道は『富士門流の信仰と化儀』の「第七章 富士門流の本尊観」の「II. 未断惑の上行菩薩」において、日有の『連陽房雑々聞書』の「上行等ノ四菩薩ノ体ハ中間ノ五字ナリ、此ノ五字ノ脇士ニ釈迦多宝ト遊ハシタル富体ヲ知ラズシテ上行等ノ四菩薩ヲ釈迦多宝ノ脇士ト沙汰スルハ、中間ノ妙法蓮華経ノ堂体ヲ上行菩薩ト知ラザレバコソ、軈テ我即身成仏ヲ知ラザル重デ侯ヘト御伝コレ有リ云云。」(『富要』2-140『歴法』1-374)を解説して、「この聞書を拝して、まず了解しうることは、日有上人の時代には報恩抄のこの御文をめぐって、上行菩薩を釈尊の弟子とみるか、それを越えて上行菩薩=妙法蓮華経の当体とみるかにより、他門と当家との異義が生じ、それがただちに双方の本尊観の相違にもなっていたという事実であります。前者をとれば、一尊四士(釈迦如来と四菩薩を奉安する本尊形式)、両尊四士(釈迦如来・多宝如来と四菩薩を奉安する本尊形式)などの造仏本尊となり、後者をとれば曼茶羅本尊を正意とすることになります。
 本仏論においても、前者は教相文上の立場におりますから釈尊本仏になり、後者は、観心文底の立場から上行本仏となり、それがすなわち日蓮本仏を導き出す根本思想になっているのであります。 ところで、日有上人の薫陶を受けた左京日教師は、この報恩抄の当該部分の読みについて次のように述べられています。 『然るに報恩抄の事は釈迦多宝を上行等の四菩薩の脇士とあそばすを日向日頂御書を片仮名又は漢字に書きなすより御文言をも書き失へり当宗に闇かりけるか、三箇の法門を悪く取なして宝塔の中の釈迦多宝、上行等の菩薩を脇士とすべしと書けり、ノとヲとの仮名一つの違い致し御書かなまじりなるを片かなにす私語を備へたり、他門徒の御書には在世の釈迦を本尊とすると思ひて書きなせるか、本門三箇の秘法は寿量品の文底に秘し沈め給へり』(『富要』2-313) この日教師の指摘は、本文の日有上人の説とほぼ同じであります。日向、日頂は『ノ』を『ヲ』に改め、次下の『なるべし』を『為』の字に書き改めて『すべし』と読ませた、これ偏えに釈尊を本尊とするために、上行菩薩をあくまでも釈尊の脇士にしなければならないという考え方から生じたところの誤りである、というものでしょう。
 『ノ』の字を『ヲ』の字に書き改めたか、あるいは『ヲ』の字を単に書き加えたかして、上行菩薩をあくまでも釈尊の脇士に位置づけ、釈尊本仏を強固ならしめようとした、というのが日教師の指摘です。 報恩抄の大聖人真筆が数カ所に、しかも断片でしか伝わらない現在(三大秘法を説かれた当該部分の真筆はありません)では、この部分の読みを明確に決定付けることは出来ませんが、さりとて日教師の指摘を何等根拠の無いものとして葬り去ることも到底できません。
 それというのも、富士門流には、四世の日道上人、五世の日行上人と同時代人であった下之坊日舜師による報恩抄の古写本が伝えられ、その写本には、『所謂宝塔の中の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の脇士となるべし』と明記されているからであります。この写本は、康安二年(1362)二月七日の奥付けをもつものですが、康安二年といえば、日興上人が入滅されてまだ三十年足らずのことでもあり、この報恩抄の御文の読みは、或いは日興上人の付された訓点を伝えたものではないかとも推測し得るからであります。少しうがち過ぎた見方かも知れませんが、奥付けの書写年月日「二月七日」が日興上人の祥月命日に当たっていることも、日興門流の報恩抄の読みを後世に伝える意図が日舜師にあったのではないか、との推測を私に与えるのです。
  事実、この写本には、『民部阿闍梨日影に之を授与す、応永九年卯月十一日、日時花押』という授与書が付されており、六世日時上人より八世日影上人へ、この御書が相伝されているのであります。上代では、この報恩抄の古写本は貫首から貫首へと相伝されるべきものであったのでしょう。 冒頭の日有上人の聞書に『御伝コレ有リ』と仰せられたのも、まず間違いなく、舜帥本の読み及びその解説の『御伝』であるでしょうから、富十門流の上代では一貫して報恩抄のこの部分は『上行等の脇士となるべし』と訓じられ、『文底の上行』という法門が伝えられていたことが分かるのであります。」と述べて、四菩薩添加は、四菩薩=首題であることを理解していない誤った解釈であるとして、曼荼羅のみを本尊とすることを主張している。
 しかし山上弘道は『興風』第15号の「日蓮大聖人の思想(五)」において、『撰時抄』と類似した『観心本尊抄』の「此時地涌千界出現、本門教主釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」の読みに関して、「本文の読みについて、京都府要法寺蔵、日興写本『観心本尊抄』の富谷日震による対校表(『大崎学報』二八巻五一頁)によれば、日興上人により『為脇士』の『為』の字に『ナリテ』とルビが振られており『本門ノ教主釈尊ノ脇士トナリテ』と読んでいるようである。」(同論文、p.134)と述べられている。私には富谷日震による対校表がどれほど信頼がおけるか分からないが、少なくとも日興のルビとされる読みは、四世の日道上人、五世の日行上人と同時代人であった下之坊日舜の読みとは違っていることが示されている。もしこのルビが信頼できるものであるならば、日有の上行=妙法五字の首題という議論は日興の思想とは全く相違するということになる。日有の議論は全く一尊四士を容認しない議論となっているが、私にはその思想は日興の思想と大きな相違があると思われる。

1-2-2-9 広宣流布の時に釈迦仏像を造立するという議論

 ところがこのような仏像造立に関して消極的な主張とは別の積極的な資料もある。仏像造立に関する日興門流の資料を探せば、まず三位日順の『本門心底抄』には「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず」(『富要』2-34『宗全』2-346)がある。しかしこの日順の『本門心底抄』の仏像造立に関する文については既に堀日亨が『富要』で頭註をつけて「仏像安置と云々、順師未だ興師の真意を演暢せず。後人此文に滞ることなかれ」(『富要』2-34)と述べて、仏像造立は日興の真意ではないと批判しているが、その批判の妥当性については疑問符がつく。
 日尊の弟子日印が『日代上人ニ遣ス状』のなかで、「所詮伝説に云はく大聖人(日蓮)御記文に帝王御崇敬有りて本門寺造立以前には遺弟等曽て仏像造立すべからず云云、故上人(日興)も同前云云、実義何様に候や生替の身にて候へば先例存知し難く候」(『富要』5-48『宗全』2-410)と日興門流の伝説を「帝王御崇敬有りて本門寺造立以前には遺弟等曽て仏像造立すべからず」と述べて、この見解が正しいのか、日興の甥の西山日代に尋ねている。
 この質問への返答である、日代の『宰相阿闍梨(日郷)御返事』(注)には、「抑も御尋に付き所存注し申すべしと雖も両聖人御本意御書等顕然に候の間、末学の自立了見中々に存じ候、此くの如きの事御遷化以後定めて出来すべく候の間、兼日の御置文御遺誡等明白の処、門徒一同に御違背候の間、大聖(日蓮)御法立の次第、故上人(日興)御真筆等棄て置かるゝ事返す返す無念の事に候、但し御弘通の趣き今の如くんば所存同じ申し候、中に仏像造立のこと本門寺建立の時なり、未だ勅裁なし、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめたまうべきの由御本意なり、ご本尊の図はそのためなり、只今造立過無くんば私の戒壇建立せらるべく候か、若し然らば三中(『宗全』「井」園城寺)の戒壇尚以て勅裁無し六角の当院(上行院の仏像安置)甚た謂れ無き者なり」(『富要』5-50、『宗全』2-234)と述べて、日蓮、日興の意向によって、国主が帰依する広宣流布のとき、本門寺戒壇に曼荼羅本尊の図に従って仏像を造立せよと述べている。
 (注) 『日興門流上代事典』にはこの書状の宛先の「葦名阿闍梨」について「日尹は早くから日尊の門に投じ、はじめ日印と称し、後年ゆえあって日尹と改めて、律師に任ぜられている。宰相阿闍梨の号を賜り、別に葦名阿闍梨の称がある」(同書、p.318)とあるから、『宗全』が宰相阿闍梨を日郷としたのは誤りで、日辰の『祖師伝』が日印としている方が正しい。
 同様な説は日尊の弟子である日大の『尊師実録』にも「一、久成の釈迦造立有無の事。日興上人の仰に云はく末法は濁乱なり三類の強敵之れ有り、爾らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶ふべからず、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべき云云、尊(日尊)の仰に云はく大聖人の御代二箇所之れを造立し給へり、一箇所は下総の国市河真間富木の五郎入道常忍みそ木を給て造立す、一所は越後の国内善の浄妙比丘尼造立して之有り云云、御在生に二箇所なり、又身延沢の仏像等は聖人没後に様々の異義之れ有り記文別紙に之れ有り云云、惣じて三箇所之れ有り此れ等は略本尊なり、但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云、予が門弟相構えて上行等の四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随つて之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり」(『富要』5-49『宗全』2-419,420)とある。日興は広宣流布の時までは仏像造立を禁止したが、日尊は、日蓮の時代の真間釈迦仏造立の事例などを挙げて、一尊四士の仏像を略本尊として資金の調達ができれば造立して、広宣流布を待つように日大に訓示した。
 なおここで日尊が一尊四士を略本尊としているのは、日印の『日代上人ニ遣ス状』の中で他の富士門流の非難に日尊が「答へて云はく妙法の首題は十方三世の仏陀、釈迦多宝の本尊為るの間形像を立て置くべからざる事勿論なり、観心本尊抄、報恩抄の如きは閻浮提第一の本門本尊の躰為らく宝塔の内の妙法蓮華経の左右には釈迦多宝、宝塔外に上行等四菩薩乃至一切大衆悉く造立する由見えたり此れ等如何、又四教果成の仏の中に円教果成の仏は虚空為座の塔中の釈迦、就中大聖人の三ケの大事の一分なり、故に宝塔末座立像は高祖の御本懐に非ず、爰本には疑難来るべし、一向に仏像造立有るべからざるの難実に一辺の義なり、 所詮料足微少の間宝塔を造立する能はず、其れまでとて先づ四菩薩計り造り副えられ大曼荼羅の脇に立て奉り候ひ畢ぬ云云、縦ひ遅速の不同有れども御書の如く造立せしめんこと決定なり」(『富要』5-47,48『宗全』2-409)と述べて、『観心本尊抄』『報恩抄』の仏像造立の指示に従って、「宝塔の内の妙法蓮華経の左右には釈迦多宝、宝塔外に上行等四菩薩乃至一切大衆悉く造立する」ことが本来の仏像本尊であるが、「所詮料足微少の間宝塔を造立する能はず」という経済的事情のために、「其れまでとて先づ四菩薩計り造り副えられ大曼荼羅の脇に立て奉り候ひ畢ぬ」というように、一尊四士を造立して、曼荼羅の横に安置するようにということを述べている。ここでは日尊は曼荼羅の具象化を仏像制作において目指すべきだと述べている。
 この日尊の仏像造立に対して、日印は同書状で「今仏像造立摂受の行然るべからざるか、観心本尊抄撰時抄の如くんば西海侵逼難の時、始上一人より下万民に至るまで妙法五字の首題を唱へ奉りて高祖上人に帰伏し奉り候はんと見へて候へば、其の時御本懐を遂げられて本門の本尊を立つべし」(『富要』5-48『宗全』2-409)と述べて、『観心本尊抄』『撰時抄』の趣旨は、蒙古侵略によって日本一国が日蓮の教えを受け入れるようになってはじめて、仏像を造立すべきということであり、それまでは仏像造立は不可であるとしている。
 このような見解を日印が日尊に告げたところ、日尊は「師匠にて候人(日尊)、壮年の古へは四方に鞭を挙げて謗法を呵責し、老躰の今は主師親の本門の本尊を造立し見奉り度き望念にて候へば」(『富要』5-48)『宗全』2-409,410)という状態にあり、「此くの如き御義(仏像造立)只山林巌窟に隠居するに非ず、摂受の行と申しながらもさのみくるしかるまじきか、相構へ相構へ遺弟等身命の及ばん限りは弘通候へ摂受の行有るべからず」(『富要』5-48)『宗全』2-410)と述べて、仏像造立は摂受の行であるとは言っても、折伏行をやめて山林修行をするという摂受の行ではないのだから、折伏の行を続けるならば、仏像造立という摂受の行は「さのみくるしかるまじき」、大きな違反ではないとして、「又大聖人の御代には冨木禅門の造る所の仏像、日眼女造る所の二躰三寸の釈尊皆以つて御開眼供養候ひ畢ぬ云云」(『富要』5-48)『宗全』2-410)と日蓮の時代の仏像造立の事例を取り上げて、仏像造立を正当化している。これに対して日印は冨木常忍、日眼女の仏像造立は在家の行為であり、出家は仏像造立すべきではないと考えるが、先例はどうかと、日代の意見を求めて書状を書いた事情を述べている。
 これらの資料は広宣流布のときには曼荼羅を基にして釈迦仏像を造立するように述べているが、その具体的な形態は単に一尊四士(日尊の言う略本尊)なのか、それとも曼荼羅を具象化した一塔両尊四士のような形態なのか、さらに四天王、迹化の菩薩、声聞、縁覚の四聖を含むのか、さらに十界の衆生を含み(日尊は広宣流布の本尊をそのようなものとして構想していた)、さらに日蓮御影を添加するのか、詳細は分からない。この資料が当面の仏像造立を抑制するために、口実として広宣流布まで延期するように指示したのか、それとも広宣流布の時には仏像造立を積極的に行うように指示したのかは不明であるが、少なくともこれ等資料に書かれていることを根拠にして、広宣流布の時に釈迦仏像造立を主張したとすれば、それを否定できる理由は『富士一跡門徒存知事』の造仏禁止理論しかないが、そこでも「日興の義」として一尊四士の造立は容認されているのだから、日興が釈迦仏像造立を理論的には否定できなかったことは確実であると思われる。
 日尊は日興が広宣流布の時までは造仏禁止したと理解しながらも、日蓮の時代の造仏の事例を引いて、資金ができれば、一尊四士を略本尊として造立し、広宣流布を待つべきだと主張した。このきっかけとなった信徒から寄贈された十大弟子を脇士とする釈迦立像に関しては、日辰の『祖師伝』に「日尊後日に十大弟子を除きて二尊四大菩薩を造立するなり」(『富要』5-49,50)とあるから、釈迦多宝の二尊と四菩薩を造立したようではあるが、この記述を確証する他の資料はない。
 日興門流における確実な最初の仏像造立は日尊の弟子日大が『日大直兼台当問答記』の貞治三年(AN83)の問答記録において、「日大尋ねて云く、去去年(AN81)本門の釈迦を造立す云云。印契は教主脇士等合掌をもって皆造立す云云」(『宗全』2-431)と記してあることから一尊四士を造立したとしてよいだろう。日辰の『祖師伝』には日大の一尊四士の造立に関しての記事はないが、日辰は「謹て日代の返牒を案ずるに云はく、大聖人法立の次第、故上人(日興)の御真筆棄て置かるゝ事無念の事なりとは、代公(日代)御遷化記録を指すか、故上人の日興御真筆なればなり、日尊立像等を除き以つて久成釈尊を立て玉ふが故に記録に背かざるなり、又云はく仏像造立の事、本門寺建立の時なり文、然るを日尊本門寺建立の時に先つて仏像を造立し玉ふ是れ一箇条の相違なり、過罪に属すべきや不やの論は観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦像供養抄、骨目抄(『木絵二像開眼事』)唱法華題目抄等を以つて之れを決すべきか、若し日尊実録日大自筆無んば自門他門皆日尊已に立像釈迦並に十大弟子を造立しぬと謂ふべし、故に日尊の末弟深心に当に実録を信ずべき者なり」(『富要』5-51)と述べて、四菩薩を脇士とする久遠実成釈尊の造立は日尊の時代の出来事であると理解し、日尊が広宣流布の前に仏像造立をしたのは、日興の指示に背くことであるが、それが「過罪に属すべきや不や」という議論は『観心本尊抄』などの議論を踏まえて検討すべきであると述べ、日辰は日興の指示には反するが、日蓮の教えに反するとまでは言えないという立場を採っている。
 これらの資料は日興門流において、日興から教示を受けた三位日順、西山日代が、ともに広宣流布の時に、国主の力によって、曼荼羅を設計図とする仏像を建立するという見解を示しているので、軽視することはできない。この広宣流布の時には仏像を建立するという思想は、日蓮正宗では、日興がその当時の仏像建立を抑制するために便宜的に使用した口実であり、日興自身の本意ですらないとみなされていたが、最近興風談所の大黒喜道は、この広宣流布の時に仏像を建立するという思想は、日蓮自身の思想であったということを論証しようとしている。大黒は『佐渡日蓮研究』第3号の「佐渡の日蓮聖人(下)――大曼荼羅本尊のこと――」の「三、大曼荼羅本尊と釈迦仏像本尊」の中で、『観心本尊抄』の記述から、「日蓮聖人は『法華経』の神力品で釈尊から『本尊』を付属された地涌の菩薩が、末法の初めに出現して造立するその『本尊』の形態としては、大曼荼羅本尊と一尊四士の釈迦仏像本尊の二つを想定していたと判断されます。しかも、この両本尊は基本的にイコールで結ぶことのできる同じもので、同じ価値を持った本尊形態であると聖人は考えられていたことになります。」(同論文、p.92)と二種類の本尊の等価値を認め、そのうえでなぜ二つの本尊を容認したのかということを検討する。
 歴史的順番としては、日蓮は伊東流罪以後に釈迦立像一体の前に法華経を安置するという本尊形態を採用し、身延期でもそれが継承されたと想定されるが、竜口法難の直後から、曼荼羅本尊を図顕し始めたのだが、大黒は、その理由として『観心本尊抄』の記述により、①妙法五字の受持による成仏、②その結果としての久遠本時の浄土である法華経に記述される霊鷲山の虚空会への参詣という宗教体験、③さらに『開目抄』の記述により、「法華経常不軽品の『其罪畢已』の四文字に示される受難による罪障消滅という因行を等しくする不軽菩薩との一体化に基づいた『順縁から逆縁へという信仰世界の転換』」(同、p.94)により、これを「決定的な契機として大曼荼羅本尊は創顕されていった」(同)と推測する。その意味で大黒は、大曼荼羅本尊は「逆縁毒鼓義に基づいた下種の本尊」であると主張する。
 大黒は釈迦仏像本尊の意義として『法華行者値難事』『法華取要抄』『報恩抄』の三大秘法に関する記述の「本門の本尊」は一尊四士の釈迦仏像を指すと解釈し、本門の戒壇建立という順縁広布の時には、一尊四士の釈迦仏像を本尊とするというのが日蓮の意向であったと主張する。そして大黒は「基本的な大枠として、《大曼荼羅本尊=逆縁》と《釈迦仏像本尊=順縁》とが、あたかも手の表と裏のような関係を持ちながら、時には大曼荼羅が表になり、時には釈迦仏像本尊が表に出るという揺れを示しながら、最後まで共存していきます。」(同、p.96)と述べる。
 さらに大黒は文永十二年三月十日の『曽谷入道殿許御書』が「《釈尊・順縁・脱益・在世》対《不軽・逆縁・下種・末法》という図式」(同、p.100)を示しており、「要法の付属をうけた地涌の菩薩が末法に出現して『一大秘法』を弘通する」(同、p.101)とあるが、この「一大秘法」という特殊な用語は、この文脈において、「妙法蓮華経の五字の要法」を指し、またその相貌に言及していることから「大曼荼羅本尊の異称」であると断定し、「この御書の書き始めと通称・万年救護本尊とは、ほとんど同時期の作業となりますので、書中に見える『一大秘法』という特殊用語は、単に大曼荼羅本尊一般を漠然と示す語というよりは、通称・万年救護本尊を直接指し示した言葉であると受け取る方が、自然ではないかと思います。」(同、p.102-3)と主張する。さらにこの時期、突然逆縁を旗印とする大曼荼羅本尊が強調された理由として、順縁の広宣流布の担い手と考えられた「隣国の賢王」である蒙古の軍隊が文永の役で簡単に退却したため、日蓮が大いに失望し、「その結果として順縁の広宣流布に対する志向が一挙に減退すると共に、その反作用として逆縁、および逆縁毒鼓の下種益の本尊としての大曼荼羅本尊が、大きくクローズアップされたという現象であったろうと思います。」(同、p.103-4)と推定している。
 その上で大黒は『本尊問答抄』の「大曼荼羅本尊正意」の宣言について「それまでの順縁世界の釈迦仏像本尊と逆縁世界の大曼荼羅本尊の両義を併せ持ちながら、どちらかと言えば、みずからの出発点である『立正安国論』が立脚する順縁世界に建立される釈迦仏像本尊に重きが置かれがちであった状況を一転させて、大曼荼羅本尊こそ末法の本尊と定め直して、逆縁世界への指向を永続的なものにしていこうという聖人の強い決断の表れだと思います。」(同、p.111)と述べて、さらに弘安初期に日蓮の花押が大きく変化したことも関連付けている。私は順縁、逆縁と本尊形態の関係については、全く考えていなかったので、この大黒の議論は非常にエキサイティングであった。
 このような大黒の議論を踏まえると、日興が曼荼羅本尊正意説を主張したのは、末法逆縁世界の布教のための下種の本尊としてみるならば、日蓮の意思にかなっているが、国主の正法守護という将来の順縁世界の広宣流布の時に三大秘法成就の本尊として、釈迦仏像本尊の余地を残しておくという議論が、少なくとも『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』では明確にされていないのは、日蓮の意思を誤解していたのかもしれない。特に『五人所破抄』では、「次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云」(『富要』2-5『宗全』2-83)を日興の言葉として伝えているが、富士戒壇論という独自の見解を持った日興が、戒壇建立との関連で釈迦仏像本尊に言及していないのは、あまりにも曼荼羅本尊に執着しすぎ、釈迦仏像造立に消極的な日興の偏向であるとされても仕方がないだろう。
 もし三位日順の『本門心底抄』や日代の『宰相阿闍梨御返事』の記述がなければ、三大秘法成就の時の本尊が釈迦仏像本尊であるという日蓮の意思を日興が全く理解していなかったということにされてしまう可能性がある。しかしこの記述が残っていることにより、戒壇の本尊は日蓮、日興ともに釈迦仏像本尊であると考えていたということになり、そうすると現在の日蓮正宗で主張される本門戒壇の本尊としての板曼荼羅という議論はそもそも日蓮、日興の念頭にはなかったということになるだろう。本門戒壇の本尊としての板曼荼羅という議論は、既に歴史的事実としては様々な疑問が提出されているが、教義的にも問題を抱えていると言えよう。
 もっとも大黒喜道が『興風』第15号の「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(二)」で「『摧邪立正抄』には『日興上人独り彼の山を卜して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ、是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり』(『富要』2-43『宗全』2-355)と戒壇安置は曼荼羅本尊であると理解できる一文もあり、この両義の関係がどのようにあるのかは説明されていない」(同論文、p.15)と指摘しているように、日順の広宣流布の本尊に関しては曼荼羅本尊安置の見解もあるので、釈迦仏像本尊安置のみが日順の意見であると単純には言えないだろう。しかし日順は「本門の大漫荼羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて」と述べているが、現存する日興の申状に「本門の大漫荼羅を安置し奉つて」という文言があるものは見当たらない。日順が現存する申状以外の日興の申状を見聞したのか、単に自分の意見を付け加えただけなのかも分からない。ただ日興が申状に戒壇本尊の安置様式まで言及していたとすれば、それなりに重要なことであるから、『五人所破抄』等の他の文献にも言及があってしかるべきことであると思われるから、この部分は日順の個人的な付加であると見なした方がよいであろう。

1-3 儀礼上の本尊としての日蓮御影

 本尊といえば、ややもすれば本仏=久遠実成釈尊や本法=曼荼羅を想定するが、寺院には多くの堂塔が建立され、それぞれに礼拝対象として仏菩薩諸神を勧請、安置し、礼拝儀礼をなすのが通例である。日興門流では古くから日蓮御影が造立され、その御影に弟子檀那からの供養を捧げ、また回忌法要などを行ったことが日興の書簡に数多く見られる。宗教的儀礼の中心的シンボルとして日蓮御影が使用されていたことは明らかであるから、日蓮への教義的位置づけとは別に、日蓮御影が礼拝対象として扱われていたことは明らかである。教義的に日蓮御影が久遠元初仏像か、上行菩薩像かという位置づけは、それなりに検討しなければならないことではあるが、宗教学的には日蓮御影が本尊として信仰対象となっていたことは明らかである。
 日蓮御影は、日興門流ばかりでなく、どの門流でも木像、絵像として作成され、それが寺宝として寺院管理者から次の継承者に置文、譲状などで守護するよう厳命されていた。日蓮系教団ばかりでなく、鎌倉新仏教と総称される諸教団の創唱者たちは「祖師」と呼ばれ、祖師信仰という宗教伝統が生み出された。浄土系教団では祖師の御影のほかに阿弥陀仏の木像、銅像、絵像が作成され、日蓮系教団でも、日興門流以外は、久遠実成釈尊が造立されていたので、祖師信仰による祖師の神格化には限界があった。
 しかし日興門流には日興の曼荼羅正意説による仏像造立の抑制ということがあったために、木像、絵像としては日蓮御影しかなかった。したがって教義的に久遠実成釈尊よりも根本的な仏を想定した場合、その仏が抽象的な仏として想定されたり、あるいはその仏の具象化として、なんらかの仏像が造立されるということもありえたであろうが、その教義が因勝果劣という教義であった場合、日蓮がその因位の仏であり、御影が因位の仏像であるという解釈が生じるのは容易である。
 私は日有には日蓮御影を因位の仏像とする思想があったと解釈しているが、しかし仏像造立は、『富士一跡門徒存知事』で「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」とあるように、たとえ日蓮御影であっても、それが仏像として位置づけられ、造立されると曼荼羅正意説からは逸脱すると思われる。日興は『申状』などで日蓮を上行菩薩として位置づけていたことは明らかであるから、少なくとも日蓮御影は教義上では上行菩薩像として位置づけられるはずであるが、『富士一跡門徒存知事』では、「聖人御影像の事。 或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。 爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり」(『富要』1-53,54『宗全』2-121)とわざわざ項目を本尊の議論からは別立して、御影のことについて言及しているが、そこでは教義的位置づけに関しては何も述べていない。ここで述べていないということは、日蓮御影を本尊として位置づけると、その教義的位置づけが問題となり、「絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」という議論と不整合になるから、わざと述べなかったと解釈するしかないだろう。もっとも日蓮宗でも一尊四士、あるいは一塔両尊四士を造立してさらに日蓮御影像を造立するということはありふれたことであるから、日蓮の宗教的位置づけと日蓮御影像の宗教的位置づけとは別問題であると解釈することもできるから、『富士一跡門徒存知事』では、日蓮御影の宗教的位置づけはしていないと素朴に解釈することも出来る。
 日蓮正宗では堀日亨の『富士日興上人詳伝』での日興の書簡に「ほとけ」という呼称があるから日蓮御影を「仏」と呼称しているという解釈を継承して、日興に日蓮本仏論があった証拠だと主張しているが、日蓮御影を「仏」と呼んでいたのか、それとも曼荼羅を「仏」と呼んでいたのかは不明であり、決定的な証拠とみなすことはできないだろう。上述したように日興の書写曼荼羅に曼荼羅を仏と表記している事例が少なくとも一つある。もし日蓮御影を日興が仏像だと見なしていたら、『富士一跡門徒存知事』の「絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず」は全否定されてしまうことになるだろう。また日興は理論的には一尊四士を久遠実成仏の仏像として消極的ではあれ、容認していたことは確かであるから、日蓮御影を仏像として解釈していたら、二種類の仏像を容認していたことになり、ますます曼荼羅正意説から乖離してしまうことになるだろう。
 大石寺の江戸時代の文献には弘安二年に戒壇本尊を日法が作成した際に、日蓮御影を三体作成し、その一体が現在大石寺奉安堂に安置されている一体三寸の最初仏、もう一体が現在北山本門寺の御影堂に安置されている生御影であり、もう一体は不詳(一説によれば保田妙本寺の御影であるという)である。しかしこの文献に記述されていることが歴史的事実を反映しているとは見なされてはいない。北山本門寺のHPには「当山第一の御霊宝は、御影堂に安置して御座います、六老僧日法上人の彫刻の生御影尊像で六老僧日朗上人が、当山に登られたときこの、御影を拝し『我が師は、いずれにおわすかと思いしに当寺におわせしか』と御影の肩に抱きついて泣かれしと伝えられております」とあるが、北山本門寺の重要文化財には記載されていない。
 『原殿御返事』に「改心の御状をあそばして御影の御宝前に進らせ給えと申し候」(『富要』5-27『宗全』2-173)と波木井実長に日興が訓戒したことを記述しているから、日興が住山していた時代に、身延には御影が作成されていたことは明らかであり、また『日順雑集』に「身延山には日蓮聖人九年・其後日興上人六年御座有り、聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」(『富要』2-95)とあり、また『尊師実録』には、「弘安七年甲申五月十二日甲州身延山へ登山。同年十月十三日大聖人の第三回御仏事に相当するの日、始めて日興上人に対面、御影堂に出仕」(『富要』5-40『宗全』2-411)とあることから、日蓮の滅後から三回忌までの間に、日興が日蓮の住坊を御影堂に改築したと推定できよう。ただその御影堂に安置されていた御影が木像だったのか、絵像だったのかは不明である。その後日興が身延を去り、上野大石へ移動したときに、その身延の御影堂に安置されていた御影がどうなったかは不明である。御影を作成する費用を日興が負担していれば、所有権は日興にあるが、もし波木井氏が負担していれば、その所有権は波木井氏にある。大石寺には一体三寸の木像の御影が最初仏として保存されているが、そのような小さい御影が、身延の御影堂安置の御影であったとは考えられないし、北山、保田の御影にも身延に安置していたという伝承はないようだ。
 興風談所の坂井法曄は『興風』第11号の「重須本門寺と大石寺」において、大石寺には日蓮御影を安置した御堂があり、身延における日蓮の御廟での香華当番ができなくなった代わりに、御堂での日蓮御影への香華供養を当番制で行っていたと述べている(同論文、p. 99)。ところでこの大石寺の御堂は大石寺の東坊地にあり、それの管理権は、日目から日郷に譲られ、その後日郷の後継者と、西坊地を日目から継承した日道の後継者の間で係争が生じ、御堂にあった御影は、日郷門下により小泉久遠寺に移管され、さらに保田妙本寺に移管された。日道の後継者たちは御影の返還を小泉久遠寺に要求したが、うまくいかなかったようで、最終的には日時が現在大石寺御影堂に安置されている御影を新たに造立した。現在保田妙本寺に現存している御影がかって大石寺に安置されていた御影なのであろうか。
 日興は日蓮の十七回忌を期して、大石寺から重須に移住し、また花押も変更した。三位日順の『法華本門見聞』には「文保第二の天(AN37)・初月八日の候之を始め畢る、但し朝た大坊(日興)に奉つて之を承り夕べ御影堂に於て私に之を説く者なり」(『富要』2-124)とあり、講義を御影堂で行ったことが見える。この重須の御影堂の御影がどのような由来を持ち、現存する北山本門寺の生御影とどのような関係を持っているのかはわからない。
日蓮正宗の中では日有が明確に日蓮御影=因位の仏像という見解を示して以来、御影を人本尊とする見解が主流であったが、戦後になって御影は人本尊ではなく、曼荼羅が人法一箇の本尊であるという見解が強くなり、その証拠として御影には腹籠り本尊=曼荼羅が内蔵されており、形の上では御影を拝んでいても、教義的には曼荼羅を拝んでいることになるとしているようだ。
 例えば池田令道は『富士門流の信仰と化儀』の「第七章 富士門流の本尊観」の「I. 人法本尊について」で「御影は内奥に曼茶羅を納めており、御影そのものが人法一箇の本尊を顕わしております。朝夕拝している曼茶羅本尊も、中央に『南無妙法蓮華経 日蓮在御判』と大書されておりますように、単なる法本尊ではなく、日蓮大聖人の所持された南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇の本尊を顕したものと拝するのが至当であります。」と述べている。
 しかし腹籠り本尊については東佑介がHP『what an endless road』の中の「『御影本尊論』を読む」の中で、「『富士学報』39-p30には『腹篭りの御本尊(中略)上代にはなかった化儀と思われる』という指摘があるが、日時師の時代に造立された御影には頚部の内側に施主や願主の名が見えるので、腹篭り本尊の化儀は日時師の時代からあったというべきである。」と指摘している。日興門流で最も古いといわれる北山本門寺や保田妙本寺の御影に腹籠り本尊を入れるスペースがあるかどうかは分からないが、現在まで言及がないということは、多分腹籠り本尊という考えが、日興にはなかったということであろう。
 なお池田令道は前掲書で「これは余談ですが、昭和58年に『末寺の御影を撤去して、曼茶羅本尊一幅の奉安形式にしなさい』という院達が宗務院より出されて、宗内僧侶の耳目を驚かせたことがあります。いまもって、その真意が奈辺にあるのか分かりませんが、当時御影を安置していた古刹の住職がたいへん悩まれていたことだけが私の記憶に残っております。あるいは、創価学会の圧力に屈して出された院達だったのかも知れません。 これはもちろん日顕師や宗務院が、富士の立義に全くの無知であったことから引き起こされた珍事ともいうべきものですが、富士門流の伝燈がこんなつまらないことで瓦解してしまっては、御先師に申し訳が立たなくなりますので、私たちはこれからも大いに非を打ち鳴らしていかなければならないと思います。」と述べて、日蓮御影への信仰が重要であることを強調している。

2 本迹論
2-1 宗号問題
2-1-1 日興正筆による考察

 永仁六年(AN17)の『弟子分本尊目録』には、「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子。爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各々依捧申状免破却難了。具見彼状文」(『富要』8-6『宗全』2-112)とある。五老僧の申状は具体的には引用されていないが、住坊が破却される危険があったときに、天台宗の作法に従って祈祷をし、また申状を提出することにより、破却を免れたとあることから、弘安八年(AN4)の日昭、日朗の申状を念頭においたものとされる。日昭の申状は4月に提出され、日朗の申状は何月かの記載はないが、この弘安八年には、幕府身内人筆頭であり、日蓮を弾圧した平頼綱が、執権貞時の外祖父で幕府御家人筆頭の安達泰盛を11月に滅ぼすという大事件が生じている。二人の申状はこの事件以前に提出されたと思われるが、平頼綱の権力が強まっている状況の中で、申状提出を余儀なくされたと思われる。
 日昭の弘安八年の申状には「天台沙門 日昭謹言上」(『宗全』1-7)とあり、天台宗に所属していることを明示し、また日蓮についても「酌天台之余流」(『宗全』1-8)と天台宗の系譜に所属することを示し、「奉為副将安全構法華道場致長日勤行」(『宗全』1-9)とあるから、副将(=執権?)のために道場(寺院)で長期間国祷をしたことを述べている。また日朗の同年の申状にも「天台沙門 日朗謹言上」(『宗全』1-21)と天台宗に所属することを明示し、また「鎮奉祈国家」(『宗全』1-22)と述べて、国祷をしたことを示している。日興は「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子」と述べているから、「天台沙門」と所属を明示することは、日蓮の弟子であることを否定するものだと非難しているものと解釈されている。
 HP『日蓮ノート』の「日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による『天台沙門』との名乗りについて2」の「天台沙門との名乗りは」で、「日蓮が『立正安国論』を最明寺入道時頼に進呈した時、『天台沙門』と称したこと。日蓮は終生、『従来とは異なる自らが創案した独自の宗名』を名乗ることはなかったこと。日蓮が『独自の宗名』を弟子・檀越に示した真蹟・真蹟曽存遺文は見当たらないこと。弘安8年は日蓮亡き後、わずか3年弱であること。鎌倉後期から南北朝期、日蓮孫弟子の活動する頃になって『法華宗』との名乗りが一般的となったこと」を理由にして、「これらを勘案すれば弘安8年頃、日昭・日朗らが武家に対する時の宗派の名乗りとして『天台宗』『天台沙門』と称したのは日蓮在世からの継続性もあり、至極当然のことであったいえよう。日蓮法華信奉者以外の人々が彼らを見る時、その宗派は『天台宗』と認識したことだろうし、『専持法華』『是一非諸』『題目勝念仏劣』『謗法断罪』という彼らの主張と行動の過激さからすれば『天台宗の異端』『天台宗を母胎とする異質な集団・日蓮党』程度のものであったことだろう」と述べている。
 私も日昭、日朗の立場に立てば、宗号を明示しなければならない場合には、日蓮一派の正式宗号はないのだから、公式名称の「天台宗」に所属するとしか言えないだろうとは思う。
 しかし『日蓮ノート』の「日蓮と日昭 2」にはある時期から日蓮が「天台沙門」「根本大師門人」という立場から、「本朝沙門」「扶桑沙門」「釈子」という立場を明示するようになり、また曼荼羅にも「釈子日目」「釈子日昭」「釈子日家」と書いたものがあるなどから、「日蓮の法華勧奨の展開、度重なる受難と宗教的新境地の開拓とともに、天台沙門・根本大師門人から本朝沙門へ、続いて扶桑沙門から釈子日蓮へと至ったのではないか。この『釈子』には、身命に及ぶ受難を経て法華経最第一を証明した法華経の行者であること、自らも教主釈尊に導かれ包まれた仏弟子であること、そして次なる蒙古襲来を前にして釈尊に直参する正統の仏教者として国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟等、これらを包摂した万感の思いが込められているのではないだろうか。この、日蓮の自己規定たる『釈子』を、彼は一人だけのものとはせず、弟子にも冠している」と宗号を使用しない自己規定をしたことを重要視している。しかも曼荼羅に「釈子日昭伝之」と日昭にだけ特別な記述があることを根拠にして、「『日蓮が法門』を継承し、未来に伝えるべき導師として日昭に重きを置いた表現ではないかと考えるのだ」とまで高く日昭を評価している。
しかしそれだけ高く評価している日昭が申状で「本朝沙門」「扶桑沙門」「釈子」を使用せず、「天台沙門」に逆戻りしていることをどのように評価しているのだろうか。ちなみに日興は3通の申状で「日蓮聖人弟子日興」を使用している。もし申状に所属宗派の正式名称を記載する必要があるなら、日昭、日朗が「天台沙門」を使用したことを正当化できるが、もしそれが不必要であるならば、「天台沙門」と称することは、鎌倉幕府に対する妥協的な姿勢を示し、「国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟」を失っていると思われる。
 このような「天台沙門」の宗号使用は日興から見れば、「改聖人御姓名号天台弟子」というように批判すべきことだと判断されたと思われる。なお堀日亨は日興の申状について『詳伝』の第6章「国家諌暁」で『日興跡条々事』の「弘安八年より元徳四年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依つて此の如く書き置く所なり」(『富要』5-188『』宗全2-134)を引用して、弘安八年が日蓮滅後の最初の申状の提出であることを述べるが(『詳伝』下、p.154)、『日興跡条々事』の資料的価値が低いことを考慮に入れれば、全幅の信頼を置くことはできないが、日昭、日朗の申状の時期と符合するので、可能性としてはありえたと思われる。正応二年(AN8)の日興の申状の写本が要法寺にあるが、そこには「重申」とあるので、それ以前に申状を提出したことが明らかであるから、弘安八年に最初に申状を提出した蓋然性は高くなる。そうすると日興は弘安八年の申状でも「日蓮聖人弟子日興」を使用した蓋然性が高くなり「国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟」に関して、日興と日昭、日朗との相違が目に付く。
 日興は自分が布教、開拓した熱原法難で在家の弟子3人を斬首され、二十人前後が所払いという処分を受けるという体験をしたのに対して、日昭は日蓮が弾圧を受けて不在のときの鎌倉のまとめ役としての役割からか、弾圧を受けるような行動を控えていたようであり、日朗は竜口法難で土牢に収監されるという弾圧を受けたが、竜口法難自体は日蓮が引き起こした法難であり、日朗が主体的に引き起こした法難ではなかった。日蓮なきあと鎌倉在住の四条金吾や池上兄弟などが中心となった在家信者たちが竜口法難と同様な法難の危険性が生じたときに、日蓮亡き後の信仰と教団を維持できるかどうかを日昭、日朗が危惧して、「天台沙門」の宗号を使用することにより妥協的な態度をとり、日興が非難するように法難を避けたとしても、それが非難されるべきことかどうかは、長期的な視点に立てば私には分からない。創唱者が殉教しても教団を維持、発展させた事例として、キリスト教などが挙げられるが、創唱者が殉教することにより消滅した教団だって、例えばイエスに洗礼を与えたヨハネの教団のように歴史には数多くあり、「国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟」を教団指導者が持つべきかどうかは私には分からない。日興自身は「国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟」を持っていたであろうと推測するが、日興亡き後には日興教団だって歴史の過程の中で教団の維持を自己目的化するようになったことはさまざまな資料から明白である。
 例えば江戸時代初期の寛永七年(AN349)に、法華宗内少数派であった受不施義を主張する身延日暹と多数派であった不受不施義を主張する池上日樹の論争で、幕府の宗教統制に沿った身延日暹が幕府によって勝者と判定され、不受不施派の寺院を改宗させ、僧侶は追放、還俗させ、信徒は改宗させるという事件が起ったが、その後日興門流の富士五山に対して受不施義を承認するように要求されたときの記録に次のようにある。
 「一、富士の諸寺其此の住持衆は西山日悟、大石日樹(就)、重須日賢、小泉日珍、堀の内は日遵なり、会所上野堀之内(妙蓮寺)(云云)。 談合の趣き国主は受、庶民は不受の決帰なり、寛文五年(AN384)乙巳九月七日に御朱印頂戴の時前方の詮議は八月十七八日の比なり、受不受の義先代の定判の通り申し上げ、国主は受、雑人は不受と義定するなり、之に依つて公議奉行へ一札を以つて此の旨言上し則御朱印成就するなり、御奉行は加賀爪甲斐守殿井上河内守殿両寺社奉行なり、法華宗は甲斐殿支配なりき」(『富要』8-414)。
国主の布施については、謗法不信の者からの布施を受けないという不受布施義の伝統法義の除外規定とするという受不施義の立場に変更することを、大石寺を含む富士五山が申し合わせて、弾圧を避けたことが明記されている。
 池田令道は『富士門流の信仰と化儀』の「三章 富士門流の平等観」の「III. 不受不施思想と『公界ノ大道』」において、この辺の事情を踏まえて、「徳川幕府は、不受不施派を禁制宗教にして徹底的に弾圧しましたが、それについて富士門流も幕府からは相当に目を付けられていた存在のようです。事実、当時は大石寺と不受不施派を同一視する向きもありましたし、幕府の政策に対して大石寺もそれほど同調していないようでした。」と述べているが、『富要』第8巻には、その70年後のことについても記述してあり、そこでは「日因記、祖滅四百五十年頃か、正本雪山文庫に在り。其後寛文五巳年(AN384)又受不施論有り諸寺公儀に証文を出す。 一、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは格別にて御座候、仍つて件の如し。 寛文五年巳八月廿一日 本門寺、妙蓮寺、大石寺。 御奉行所。」(『富要』8-420)とあり、幕府の御朱印=所領安堵は「供養」にあたることを認めさせられている。

 また日蓮死後の幕府の日蓮遺弟たちへの対応については不明なことも多いが、幕府のお膝元である鎌倉を中心に活動していた日昭、日朗へは弾圧を続けたが、それ以外の地域を本拠としている弟子たちには特に激しい弾圧を加えた様子はない。日興が身延や上野、重須を拠点にして、過激な内容の申状を提出しても、鎌倉で過激な活動をせず、幕府の政権運営に影響がなければ、幕府はそれを無視し続けただろうと推測できる。
 そもそも日蓮が台密を批判したことは資料的に裏づけできるが、天台宗自体を念仏、禅、真言、律と同様に否定すべき批判対象とした確実な資料の存在を私は知らない。日蓮が天台宗の改革派なのか、天台宗とは別の独立した宗派を作ろうとしたのかはよく分からない。六老僧の制定は、この六老僧を中心にして新しい宗派を創設せよという意志表示なのか、それとも天台宗を、法華信仰を根本とした宗派に再生させようとしたのか、日蓮の意志に関して明示的なものは何もない。身延期の建治二年の『四条金吾釈迦仏供養事』において、「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」、「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり。天台大師のさとり也。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」と鎌倉在住の四条金吾に教示し、四条金吾の師僧役は日昭、日朗が担当していたと考えられるから、日昭、日朗が、日蓮を天台宗の体制内改革派だと認識していたとしても、それが誤解であるとは思われない。
 HP『日蓮ノート』の「日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による『天台沙門』との名乗りについて 4」の「日蓮の教説の裾野の広さ」において、「導師自らが比叡山時代の阿闍梨号を名乗り、天台沙門と内外に称し、天台の再興を願う言動であれば、彼が率いる一団は天台系の一門である。その導師が日蓮であった。日蓮はかような活動を鎌倉を中心に展開し、弟子は師説を継承した。後に日蓮の対天台観の変化があっても、身延と鎌倉、下総、安房という師との距離が隔たったものであれば、書簡による新たなる説の浸透には限界もあり、従来説も同居したと思われる。また、これ以降の日蓮の説示にも『天台的なもの』は多分に残されていたから、そこには様々な理解が生まれたのではないだろうか」と述べられ、また「小教団並列の日蓮一門」において、「日蓮最後の約8年は台密批判が行われたものの、各地の門流形成過程における『天台宗勢力・寺院・僧侶・信徒との関わり方』によって、その認識・対応に違いが生じたようだ。同じ日蓮法華という概念で括られる東国の教団でありながら、師説への教理的理解(本尊の人・法、法華経迹門・本門等)も含めて対天台宗の見方は一弟子六人各位とそれぞれが受け持った地域ごとに、結果として異なるものがあったのではないか。師日蓮は存命中に、門弟間に存していた対天台宗の認識の異なりと教理面における解釈の相違を是正したようではなく、師滅後はそれがそのまま各門流の結集軸になると共に、日蓮法華一門は小教団並列のような有り様となった。」また「日蓮の教説は門弟をして異解を生じさせる幅の広いものであったが、師滅後の一弟子六人は見解の相違を話し合うことはなかったし、門流の組織と思想の原型を作った地でそれぞれが独自の道を歩むのみであった。」と述べられている。
 つまりHPの筆者は日蓮が天台宗との関係を曖昧なままにし、弟子たちの見解を統一させることもしなかったので、日昭、日朗が「天台沙門」と名乗っても、問題はないという見解のようである。私も宗号問題に関しては、日興教団が、日蓮系諸教団との差別化を図るために、象徴的に言及しているだけであり、日興の批判の要点は、日昭、日朗は、日蓮が上行菩薩であるということを明言しない、また日蓮がその生涯において決してしなかった国主の帰依=邪宗禁断がない国祷をしたという点にあると考えている。

2-1-2 信頼できる資料による考察

 日昭、日朗が申状を提出した弘安八年の前年の弘安七年十月に日興が書いた『美作房御返事』には「抑も代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、安国論の事御沙汰何様なる可く候らん。鎌倉には定めて御さはぐり(詮議)候らめども、是れ(日興)は参りて此の度の御世間承はらず候に、当今も身の術無きまゝはたら(働)かず候へば仰せを蒙る事も候はず、万事暗々と覚え候」(『富要』5-23,24『宗全』2-145)とある。和文の特徴として主語が明示されないため、読解が微妙な箇所もあるが、北条時宗が四月に没して執権は子の貞時となったので、「安国論の事御沙汰」の主語が鎌倉幕府と読解すれば、鎌倉幕府が『立正安国論』をどのように扱うかを日興が期待と不安を混在させながら、気にかけていると読解できよう。もしそのように読解できるなら、幕府がなんらかの対応をするだろうと日興が気にかける前提として、誰かが幕府に対して『立正安国論』を提出したと想定できるが、それは鎌倉の日蓮教団の中心者であった日昭、日朗以外には考えられないだろう。あるいは「安国論の事御沙汰」の主語を鎌倉幕府以外に想定すれば、日昭、日朗の鎌倉の老僧が想定され、その場合は老僧たちが『立正安国論』をどうするつもりか日興が気にかけているという読解になるだろう。次の「鎌倉には定めて御さはぐり(詮議)候らめども」も主語が明示されていないので、「鎌倉幕府は」と読解するか、「鎌倉の老僧たちは」と読解するかによって、意味が変るが、いずれにしても鎌倉で何らかの『立正安国論』をめぐっての動きがあったことを示唆していることは確実であろう。「是れは参りて此の度の御世間承はらず候に、当今いろうも身の術無きまゝはたら(働)かず候へば仰せを蒙る事も候はず、万事暗々と覚え候」の部分に関しては、「当方は(鎌倉に)参上して、このたびの世間(の動き)を承知することもないので、現在もどうすることも出来ないままに(鎌倉幕府あるいは鎌倉の老僧たちに)働きかけることもしないので、(鎌倉幕府あるいは鎌倉の老僧たちから)尋ねられることもなく、すべてにどうなっているのかと不安に思っています」とでも読解できるだろうか。いずれにしても鎌倉の動きに関して日興が関与できないもどかしさを感じていると思われる。
もし貞時への代替わりに際して日昭、日朗が、『立正安国論』を提出したとすれば、『立正安国論』に関する鎌倉の老僧たちの幕府に対する何らかの働きかけは、逆効果であったようである。幕府は『立正安国論』が求める「念仏禁断」(あるいは諸宗禁断)を拒否するのみならず、逆に『立正安国論』では無効とされていた「万祈を修する」ことになる国祷を鎌倉の日蓮教団の寺院、道場に要求し、それに従わなければ寺院、道場を棄却すると脅かしをかけたことが既に引用した『弟子分本尊目録』の記述から推定できる。あるいは日昭、日朗は主体的には何もしなかったが、幕府の方から一方的に日蓮の弟子たちの影響力を削ごうとして、そのような脅かしをかけたのかもしれない。いずれにしても日昭、日朗はその要求に屈し、天台宗の作法に従って国祷をし、「申状」でそのことを幕府に報告すると同時に、「妙法蓮華経簡要」(『宗全』1-7)(日昭)「妙法蓮華経五字」(『宗全』1-21) (日朗)の文言を使用して、日蓮の法華経解釈の独自性を示すとともに、その教えを受け入れるよう懇請している。両者の申状には日興、日頂の申状にはある『立正安国論』の副進の文言がないので、『立正安国論』の提出はこの申状提出前に既に終わっていることを暗示していると思われるが、あるいは幕府を刺激することを避けて『立正安国論』を副進しなかったのであろうか。
 三位日順の『五人所破抄』に弘安八年の日昭、日朗の申状、並びに日向、日頂の申状が引用されているが、日向、日頂の申状として引用されているのは『宗全』第1巻に所収の正応四年(AN10)の日頂の申状であり、日向の申状については分からない。同内容の申状を別々に提出したとは考えられないから、日向の申状を日順は入手できなかったので、日向、日頂の申状として、日頂の申状を代表させたものだろうか。ちなみに『宗全』所収の日向の申状は「嘉暦四年(AN48)」(『宗全』1-38)であるが、日向は正和三年(AN33)に千葉県藻原で亡くなっているとされるので、この申状の信頼性に疑問が生じる。また内容的にも「日蓮聖人遺弟日向」(『宗全』1-36)と署名しており、日興の申状と同じ形式なのも疑問の余地がある。もっとも「遺弟日向重進覧之」(『宗全』1-37)とあるので、この申状以前に別の申状があったことを前提としている。いずれにせよ日向の申状については不明であるとしか言いようがない。
 『五人所破抄』では日興の申状を引用した後で、「本と迹と既に水火を隔て時と機と亦天地の如し、何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや」(『富要』2-2『宗全』2-80)と述べて、「天台の末弟」と称することが、本迹の勝劣を無視し、日蓮が「地涌の菩薩」であることを否定するものだという議論を展開している。
 『富士一跡門徒存知事』では「五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍つて公所に捧ぐる状に云く『「天台沙門』と云云。又云く『先師日蓮聖人・天台の余流を汲む』と云云。又云く『桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す』云云。  日興が云く、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり。今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せ畢んぬ。此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」(『富要』1-51,52『宗全』2-119)と述べて、日昭、日朗、日頂の申状を引用しているが、日持、日向の申状の引用はない。『五人所破抄』と同様に、「天台沙門」という自称は法華経の本迹勝劣を無視しているという批判を展開している。
 また日道あるいは日時の『御伝土代』でも「日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり、本門迹門の付嘱すでに異なり、下方他方弘通何ぞ同からんや、すでに天台沙門と号す全く地涌千界の眷属にあらず」(『富要』5-11『宗全』2-254)と「天台沙門」という名称の使用は地湧の菩薩である日蓮の眷属、弟子であることを否定していることになるのだという同様の批判をしている。だが私は「天台沙門」という宗号の使用と日蓮=上行再誕説の主張とは別問題であり、日興門流の宗号使用問題を根拠にした他の門流への非難は不当に強すぎると思われる。
 日興は『弟子分本尊目録』などで「天台沙門」と名乗ることは日蓮の弟子であることを否定することになるという議論を展開しているが、日昭、日朗の申状には「先師日蓮」(『宗全』1-8,22)という文言を両者とも使用し、日蓮の弟子であることを表明している。また単なる法華経のみならず「妙法蓮華経簡要」(日昭)「妙法蓮華経五字」(日朗)という文言を使用することにより、天台宗との相違を明確に述べることはしないが、日蓮の法華経が天台宗の法華経とは異なることを暗示している。日昭、日朗にとっては権実判により念仏、禅、律、真言を批判して法華一乗を強調することが鎌倉においてはさしあたり重要であり、法華経の本迹の相違についてややこしい議論をすること、あるいは本迹勝劣を明確にして天台宗を敵に回すことは不要であると考えたのかもしれない。天台宗を法華信仰に純化できれば、あとは末法理論を論拠にして、末法に叶った修行として、妙法蓮華経の五字の修行の適切性を訴えることはそれほど困難でもなく、また敵対的に行う必要もないだろう。
 関東の日蓮教団と仙波の天台本覚思想教団との大きな相違は、法華経の開会の思想は、爾前の修行を許容しない(専修、日蓮教団の立場)か、許容する(兼修、仙波の天台教団の立場)か、という専修、兼修についての権実教判に関する解釈の相違が大きな論争点であったことは、『ジャクリーン・ストーン『Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism (本覚と中世日本仏教の変容)』について』の第3部第7章の紹介で述べておいた。つまり天台教団と日蓮教団との教義的論争は本迹勝劣をめぐる議論ではなく、実質的には権実勝劣(法華専修)か、一致(諸行兼修)かという議論であった。だから日蓮の生前、あるいは亡くなってからも、本迹勝劣は日蓮教団を拡大するためにはどちらかというと不必要な議論であった。本迹勝劣の議論は日蓮教団内部で他の門流とどのような差別化をするのかという議論の側面が大きかったと思われる。

2-2 日蓮上行再誕説
2-2-1 日興正筆による議論

 日興が日蓮=上行菩薩の再誕であるということを示した正筆の文献が残っているのかどうかは分からないが、嘉暦二年(AN46)の朝廷への申状(『宗全』によれば古い時代の写本はないようである)で「日蓮聖人は末代の代を迎へて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の再誕なり」(『富要』8-335『宗全』2-98)とあり、この申状の文言は三位日順の『五人所破抄』でも引用されているから、多くの研究者はこの申状が日興親撰であることを認めているようだ。したがって日興が日蓮=上行菩薩再誕説を持っていたことを疑う研究者はいないと思われる。
 それでは他の老僧たちは日蓮が上行菩薩の再誕であることを認識していたのであろうか。これについては確実な文献資料がないようなので明確なことは言えないが、いくつかの資料についてはそれなりの信頼を得ていると思われる。日昭の『経釈秘抄要文』に関しては、『宗全』にも写本がどの年代まで遡れるのか明示はされていないが、内容的には後代に本迹論争で扱われる問題もなく、また日蓮七回忌の報恩のため作成されたという経緯に関しても疑問点もないので、日昭親撰と認められているようだ。「法主聖人」(『宗全』1-7)という用語に関しても、冨木常忍の作成した曼荼羅には「法主大師」があり、日興の書簡類にも「法主聖人」の用語があるので、問題とならないだろう。この『経釈秘抄要文』には「文殊観音地蔵等迹化他方菩薩此世界又今時分之非導師、本化上行等菩薩末法相応導師而此土他土共利益之云事」(『宗全』1-5)とあり、末法の導師は上行菩薩であるとしている。ここでは日蓮が上行菩薩であるという明示はないが、本迹の相違については明確にされており、日蓮七回忌の報恩のために作成された著作という事情を考慮すれば、日蓮=末法の導師=上行再誕ということを暗示していると見なすこともできよう。
 日朗の『本迹見聞』には「今家聖人本化上行菩薩之化身也」(『宗全』1-15)とあるが、「迹門所説実相常住理体、本門寿量品全同、是故処処解釈、本迹雖殊不思議一釈、或即迹而本、即本而迹釈」(『宗全』1-16)などの後代の本迹論争で使用された用語もあり、日朗の親撰と見なすことには疑問もあり、望月歓厚も『日蓮宗学説史』で偽撰説を紹介し、「その所論大に可見」(同書、p.30)と偽撰説に賛成している。日朗がなくなる年の元応二年(AN39)に京都の日像に与えた『玄旨本尊添状』(『宗全』には出典が明示されていない)には、「上行化身日蓮」(『宗全』1-34)とあり、日朗は日蓮=上行菩薩再誕説を採用していたようだ。状況証拠的には日朗の弟子摩訶一日印が越後本成寺に一尊四士を造立したが、永仁六年(AN17)の日印の『奉造立供養本尊日記』には一尊四士の本尊は「正像二千年月氏漢土未造立、末法二百余年本朝未崇重、待時、待機、待国而已、然而法主聖人依付属所弘通也」(『宗全』1-319)とあり、日蓮が(久遠実成釈尊から)付属を受けて、この一尊四士の本尊を弘通するという趣旨を述べている。末法に久遠実成釈尊から付属を受けて妙法を弘通するのは上行等の本化四菩薩であると『観心本尊抄』にあるから、日印が日蓮を上行再誕と考えていたと推測でき、その考えは師匠日朗とも共有していたと見なしてもよいだろう。
 日昭、日朗は「天台沙門」の宗号を使用したが、日蓮=上行再誕説を持っていなかったわけではなく、鎌倉幕府の弾圧を避けるために緊急避難的に「天台沙門」を使用したと考えるべきだろう。興風談所の菅原関道は『興風』第7号の「『日興上人御遺告』を拝す(一) 『天台沙門』と号せらる申状は大謗法の事」のなかで、日昭、日朗、日頂、日高について「皆、大聖人を『上行菩薩ノ再誕』と拝称してしかるべき素地をもっているのに、その表出がないのである。あるいはこのことをもって、幕府や既成教団の武力を背景にした堅固な言論統制の様を思うべきであろうか」(同論文、p. 52)と述べているが、これらの日蓮の弟子たちは弾圧を警戒して、日興のようには日蓮=上行再誕を明確には表現できなかったということだろう。

2-2-2 信頼できる文献による考察

 三位日順の『五人所破抄』の日興の申状の引用に関しては、その最初の部分から「中ん就く」の前までの部分に関しては現存する3通の申状にはない文言を引用しているので、その当時は3通以外の申状の写本があったものと思われる。その部分には「日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」(『富要』2-2『宗全』2-80)とあり、日蓮=上行菩薩再誕説を明示している。
 三位日順は『五人所破抄』において、「本と迹と既に水火を隔て時と機と亦天地の如し、何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや」(『富要』2-2『宗全』2-80)と述べて、地湧の菩薩である日蓮を天台の末弟と呼ぶことを批判しているが、これは天台沙門の宗号使用が日蓮=上行再誕説と矛盾するという批判だと考えられるが、三位日順も日昭、日朗が日蓮=上行再誕説を持っていたことは否定せず、天台沙門の宗号使用がふさわしくないと批判していると解釈できよう。
 『富士一跡門徒存知事』では「五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍つて公所に捧ぐる状に云く『天台沙門』と云云。又云く『先師日蓮聖人・天台の余流を汲む』と云云。又云く『桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す』云云。 日興が云く、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり。今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せ畢んぬ。此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」(『富要』1-52『宗全』2-119)と述べて、日昭、日朗、日頂の申状の文言を引用して、五老僧が「日蓮聖人の法門は天台宗なり」と表明したと批判している。既に述べたように申状には「妙法蓮華経簡要」(日昭)「妙法蓮華経五字」(日朗)の文言によって日蓮の法華経解釈の独自性も示しているから、この批判は日興門流からの一方的な批判に過ぎない。幕府の弾圧を避けるために緊急避難として提出した申状の文言にこだわり、日蓮の教えが本門に基づいていることを示す文言を無視することは一面的な批判と見なされるかもしれない。
 日興門流では日蓮=上行菩薩再誕説が公言されていたが、他の門流では幕府の弾圧を警戒して公言されていなかったというのが実情であったと思われる。

2-3 修行論

 末法に相応しい修行がどのようなものであるかについて、日興正筆には資料が残っていない。信頼できるテキストでは『富士一跡門徒存知事』には、「一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す、仍て在々所々に法華三昧又は一日経を行ず。日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず。之に依て日興と五人と堅く以て不和也」(『富要』1-52『宗全』2-119)とあり、法華経で五種の行として記述されている書写行を天台宗的に儀式化した如法経、一日経、ならびに『摩訶止観』の四種三昧の一つである法華三昧を五老僧が容認し、日興は末法の修行ではないとして禁止したことを述べている。同様なことは『五人所破抄』にも「又五人一同に云く、如法一日の両経は共に以て法華の真文也。書写読誦に於ても相違有るべからず云云。日興が云く、如法一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古平等摂受の修行也。今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部を専とせず。但五字の題目を唱へ三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か。此れ則ち勧持不軽の明文、上行弘通の現証也。何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや。但し四悉の廃立二門の取捨、宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ云云」(『富要』2-5,6『宗全』2-83,84)とあり、書写行や法華経全体を読誦する一部読誦を不必要な修行とし、但五字の題目を唱えることを末法相応の修行であるとしている。
 HP『日蓮ノート』の「一弟子による一日経・如法経・法華三昧について」で、「『地引御書』により日蓮は終生、一日経を行う意思であったと理解でき、師匠亡き後、他の弟子を批判する材料として一日経を挙げて『末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず』と決めつけるのは師日蓮の意思からは隔たったものであり、他の一弟子を批判するようでいて、その矢は師匠に向くものではないか。師滅後に一弟子が一日経をなしたのは、師の『行い』と『意志』のとおりであり、法華三昧は師の『行い』と『意志』への認識・理解からなされたものと考えられるのである。」と述べて、日興門流の修行論を批判している。私は日蓮が一日経・如法経・法華三昧を禁止したとは考えないが、その修行を末法相応の修行として容認したとも考えない。末法相応の修行はやはり唱題行のみであり、その他の修行は禁止されたわけではないが、積極的に勧奨されたわけでもないと考えている。だから『富士一跡門徒存知事』の「此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず」には賛成するが、「又謗法の代には行ずべからず」という排除の論理には賛成しない。
 さらに日興門流では唱題行のみが末法相応の修行であるとは言いながら、『月水御書』で日蓮が「但し御不審の事・法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出 しても・あそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉・薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候」と法華経読誦の方法を教示していることに基づき、方便品・寿量品の二品読誦を行っていた。『月水御書』では法華経全体を読誦することも禁止されてはいない。この二品読誦と唱題行との関係はここでは不明である。
 また初期の『唱法華題目抄』には「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」とあり、唱題行を根本としながらも、能力があれば、法華経の読誦も容認していた。
 日蓮が三大秘法を語る場合、法華経読誦は挙げられず、五字の修行=唱題行が挙げられるのみであるが、それにより二品読誦、一部読誦が禁止されたわけではないだろう。日興門流では二品読誦が継承されたが、やがて本迹論争の過程で、迹門である方便品を読誦することにどういう宗教的意義があるかについて論争が生じ、天目が日興門流に対して、本門重視ならば、方便品読誦を禁止するように要求したのに対して、『五人所破抄』において、五老僧ではない天目の議論を取り上げて、「天目の云く、巳前の六人の談は皆以て嘲哢すべきの義なり但し富山宜しと雖も亦過失有り迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違せり信受すべきに足らず、若し所破の為と云わば弥陀経をも誦すべけんや云云。
日興が云く、聖人の炳誡の如くんば沙汰の限りに非ずと雖も慢幢を倒さんが為に粗一端を示さん、先ず本迹の 相違は汝慥に自発するや去る正安二年の比天日当所に来つて問答を遂ぐるの刻み日興が立義・一一証伏し畢んぬ、若し正見を存せば尤も帰敬を成すべきの処に還つて方便読誦の難を致す誠に是れ無慚無愧の甚しきなり、夫れ狂言綺語の歌仙を取つて自作に備うる卿相すら尚短才の耻辱と為す、況や終窮究竟の本門を盗み己が徳と称する逆人争か無間の大苦を免れんや、照覧冥に在り慎まずんばあるべからず。
 次に方便品の疑難に至つては汝未だ法門の立破を弁ぜず恣に祖師の添加を蔑加す重科一に非ず罪業上の如し、若し知らんと欲せば以前の如く富山に詣で尤も習学の為宮仕を致す可きなり、抑彼等が為に教訓するに非ず正見に任せて二義を立つ、一には所破の為二には文証を借るなり、初に所破の為とは純一無雑の序分には且く権乗の得果を挙げ廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明す、此れを以て之を思うに方便称読の元意は只是れ牒破の一段 なり、若し所破の為と云わば念仏をも申す可きか等の愚難は誠に四重の興廃に迷い未だ三時の弘経を知らず重畳の狂難鳴呼の至極なり、夫れ諸宗破失の基は天台・伝教の助言にして全く先聖の正意に非ず何ぞ所破の為に読まざるべけんや、経釈の明鏡既に日月の如し天目の暗者邪雲に覆わるる故なり、次に迹の文証を借りて本の実相を顕すなり、此等の深義は聖人の高意にして浅智のおよぶ所に非ず(正機には将に之を伝うべし)云云」(『富要』2-7,8『宗全』2-85,86)と述べて反論している。この反論には、天目が本門重視を知ったのは日興の教示によること、そして天目がその教示を忠実に守り、迹門である方便品読誦を否定したとき、日興は「正見に任せて二義を立つ、一には所破の為二には文証を借るなり」と反論したことが述べられている。しかし日興の反論は日蓮のテキストを使っての反論ではない。つまり日興が言う本門を基盤とした修行方法について、日蓮が書いたものが何もないから、つまり本門重視と方便品読誦との関係を明示したテキストが存在しなかったから、日興は自分で理屈を考案せざるをえなかったのである。しかもその理屈が日興の弟子たちにも納得できるものではなかったから、日興死後に方便品読誦論争が日興門流の中で生じてしまった。
 天目は方便品読誦を否定することが本門重視の修行だとして、まだ寿量品読誦を否定するところまでは行かなかった。しかし理論的には末法相応の修行ということを文字通りに受け入れれば、唱題行のみがその修行に当たり、寿量品の読誦も不必要だという議論が出てきてもおかしくはない。『五人所破抄』では「今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部を専とせず。但五字の題目を唱へ三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か」(『富要』2-5『宗全』2-84)と述べて、五老僧の容認した修行方法である法華経一部読誦を批判しているが、なぜ日興門流で行われている二品読誦も同様に批判されていないのか。「但五字の題目を唱へ」と言いながら、その理論的不徹底さがみられるのは、ある根拠で批判を行うならば、その根拠は、他派であろうと、自派であろうと、同様に適応されるという議論の基礎を無視しているからだと思われる。議論は誰が言ったかということは重要なことではなく、どのようなことをどのような根拠で述べているかが問題になるのであり、末法相応の修行が唱題行であるならば、それ以外の修行にどのような宗教的意義があるのか、それを理論的に日蓮のテキストを基礎にして論じていかなければならない。もし日蓮のテキストに根拠がなければ、それは論者の独自の見解とすべきで、その見解は日蓮とは無縁でも、それなりの意義があるかもしれない。日興は、本門重視の教義、末法相応の修行とは無関係に、あくまでも日蓮が生前実行していた方便品、寿量品の二品読誦を守ろうとして、理屈を考案したと考えてよいだろう。私は合理主義者であるから、法華経一部読誦あるいは方便品寿量品の二品読誦と唱題一遍が成仏に関して同等の宗教的価値を持つなら、時間の節約のために、法華経一部読誦、二品読誦を捨て、唱題行に専念するが、日蓮はそのような考えに対して、どのような見解を持つのか、尋ねてみたいものだ。

3 その他の五一相対の議論
3-1 国祷
3-1-1 日興正筆による考察

 国祷問題は本来本迹論争とは別の問題であるが、天台宗では王法一体の思想の下で諸宗と共存した国祷が当然視されていたが、日蓮は天台宗に所属しながらも、法勝王劣の思想の下、正法の信奉=邪法(=法然の専修念仏)禁断がなければ、諸宗と共存した国祷は無効であると『立正安国論』で主張した。日蓮の邪法禁断という思想は、『立正安国論』では天台宗の法然批判と同様に、専修批判に的を絞り、兼修容認の立場をとっている。しかし日蓮の宗教活動の展開の過程で、邪法は法然の専修念仏から、天台宗も含んだ念仏信仰一般への批判、幕府が優遇した新来の禅宗批判、ライバルの忍性の律宗批判、空海系の真言宗批判、台密の真言批判へと拡大され、日蓮が容認している既成宗教は、天台宗の法華信仰のみであった。だから『立正安国論』の提出時では、法然系の専修念仏を禁断すれば、日蓮は国祷を行ったかもしれないが、邪法が拡大されてしまえば、法華信仰以外のすべての宗派が禁断されなければ、国祷を行う条件がそろわないことになる。だから邪法禁断がない状態で国主の依頼による国祷を行えば、それは天台宗と同じ考えに基づくことになり、あくまでも邪法禁断を求めて国祷を拒否すれば、日蓮の立場を堅持することになるという議論が成立する。
 何度も引用したように『弟子分本尊目録』には、「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子。爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各々依捧申状免破却難了。具見彼状文」とあり、幕府の弾圧を背景にした国祷の要求に、日昭、日朗の鎌倉の老僧が、教団維持を目的として、妥協的に応じたことを、日興が非難した文献であるとみなされている。
 日興がモデルとする教団指導者は、弾圧に対して非妥協的に戦う日蓮である。日興は長い間駿河の蒲原の天台宗の四十九院の供僧を勤め、日蓮の佐渡流罪においても、その身分のまま佐渡に同行したと考えられる。日蓮が身延入山の後は、自身の俗縁、法縁がある駿河、甲斐で積極的な布教を行い、天台宗の寺院である四十九院、ならびに同じく天台宗の近隣の寺院である岩本実相寺、熱原龍泉寺の僧侶で日興の縁で日蓮の弟子となる者が増加した。このことに危惧を抱いた駿河を支配していた北条氏が日蓮系の僧侶を天台宗の寺院から追放するという事件が相次ぎ、それが熱原法難につながっていったのであるが、その時日興は日蓮の指導の下非妥協的な戦いを行い、農民3人が斬首され、二十人近くが所払いとなり、日蓮系の僧侶も寺院追放という結果となった。この熱原法難は日興にとって重要な意味を持つ事件であり、事件後30回忌にあたる年の徳治3年(AN27)に「駿河富士下方熱原郷住人神四郎号法華衆、為平左衛門尉被切頸三人内也左衛門入道切法華衆頸之後十四年企謀反間被害誅畢、其子孫無跡形滅亡畢」という脇書きのある曼荼羅(No.81)を書写している。
 このような権力との非妥協的な戦いを経験した日興にとっては、日蓮滅後の鎌倉の老僧である日昭、日朗の妥協的な態度には、全く同意できなかったことは当然であった。しかし日蓮死後の不安的な教団維持という目的のための、国祷は同意できないにしてもやむを得ない側面もあった。幕府は日蓮死後、鎌倉の教団には圧力をかけたが、甲斐、駿河の日興教団に圧力をかけた資料は見当たらない。
 私は教団維持のための緊急避難として、教義上容認できないことを行ったからといって、ただちにそのことを非難するわけではない。宗教には教義という精神的要素も必要であるが、それを信奉する教団メンバーという身体的要素も必要だからだ。信奉するメンバーがいなくなることによって、歴史から消えてしまった宗教など数多くあるのだから、緊急避難的手段自体を非難するわけではないが、その緊急避難的手段を、その必要が無くなってからも採用することに関しては、教義的説明が必要になると思う。
 だからHP『日蓮ノート』の「日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による『天台沙門』との名乗りについて 2」の「天台沙門との名乗りは」において、「日昭・日朗らが『祈国』『天長地久の御願を祈』ったのは、鎌倉の住坊破壊を予期させる幕府との駆け引きを背景とした現実的対応として、第三次蒙古襲来が起きて亡国という事態が現実化する前に日本国の仏教者として務めを果たしたということであり、そこには、ひとまずは弾圧を回避して鎌倉と周辺の法華衆組織と信奉者を守るとの思いもあったことだろう」と述べていることについては、半分は支持するが、半分は支持しない。半分支持する理由は、緊急避難として教団維持を図ったという点であり、半分支持しないという理由は「第三次蒙古襲来が起きて亡国という事態が現実化する前に日本国の仏教者として務めを果たした」という点である。つまりHPの筆者は、たとえ一国に邪宗が充満していても、その邪宗を禁断することなく、一国の安泰を祈るのが、仏教者の責務であるという考えのようであるが、これは『立正安国論』の議論とは整合しないと思われる。日蓮は生涯にわたって、邪宗を禁断しなければ、国祷をしないという姿勢を貫いたが、HPの筆者によれば、それは「日本国の仏教者としての責務」に反した行為ということになりそうだ。
 私は『立正安国論』の災害が邪宗によって生じるという議論を支持していないが、HPの筆者も多分同様と思われるし、現代の日蓮信奉者の多くも私と同様な意見だと思っている。ただHPの筆者は「日本国の仏教者としての責務」ということを述べているが、仏教者には国籍は関係ないだろうと思う。日蓮は、自分が末法において日本の主師親の三徳を持つ救済者であるという自覚を持っていたが、同時に日本が邪宗の信奉から脱することができないなら、隣国の聖王(蒙古)によって治罰されることも必要であると考えていた。つまり亡国は日蓮にとっては正法流布のために望ましい状況であり、邪宗とともに国祷をすることは、正法流布のためにならないと考えていたということは明白だと思う。
 日興門流には、日道あるいは日時筆の『三師御伝土代』に「冨山(日興)仰に云く、大聖(日蓮)は法光寺禅門(北条時宗)、西の御門の東郷入道屋形の跡(鶴岡八幡宮の東)に坊作って帰依せんとの給ふ、諸宗の首を切り諸堂を焼き払へ、念仏者等と相祈りせんとて山中(身延)え入り給ふぞかし、長日謹行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化、天地雲泥の相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながら誤つて天台沙門というや」(『富要』5-8『宗全』2-250)とあるように、日蓮が鎌倉幕府の寺院建立=祈願所認定という懐柔策を蹴って、身延入山したというエピソードが伝承されているが、他の門流にこのエピソードは伝承されていないようだ。つまり邪宗とともに国祷するということは日蓮にとっては全く容認できなかったことであり、百歩譲って、緊急避難として容認したとしても、「日本国の仏教者としての責務」として正当化されるという考えはなかった。

3-1-2 信頼できる資料による検討

 弘安8年の日昭、日朗の国祷は幕府の弾圧を避ける緊急避難的手段として、容認されたとしても、そのような理由のない国祷についてはどうだろうか。『原殿御返事』には、「今年の大師講にも、敬白の所願に天長地久御願円満左右大臣文部百官各願成就と(日向は)の給い候いしを、此の祈は当時は致すべからずと(日興は)再三申し候いしに、(日向は)争でか国恩を知り給わず候べきとて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき」(『富要』5-27『宗全』2-172)とあるように、日向は天台大師講において、緊急避難ではなく、自発的に国祷をしたことに対して、日興は、今の時期(国主の帰依がない時期)には国祷をしてはいけないと静止したところ、日向は「国恩」に報ずるためだとして反論し、日興はその後の大師講の行事の一部である問答講を退席したとある。その前文に神天上の法門に関連して、「民部阿闍梨(日向)に問わせ給い候いける程に、御返事申され候ける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一遍にて候えども、白蓮阿闍梨(日興)外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべしと(日向が)申され候いける」(『富要』5-26『宗全』2-171)とあり、『立正安国論』の解釈についても日向と日興は相違することを述べている。
 神社参詣の問題は次の項で議論するとして、当面の国祷の問題について議論するならば、日向の反論はHP『日蓮ノート』の筆者の「日本国の仏教者としての責務」という議論と同様だと考えてよいだろう。
 なぜ日興は頑なに『立正安国論』の神天上の法門を支持し、国主の帰依なき国祷を禁止したのだろうか。それは『立正安国論』の「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」ということを信じていたのだろうと推定される。国難を救うためには、祈祷よりも邪宗を禁断することが最優先であり、それなしには、たとえ日蓮や日蓮の弟子たちが国祷をしたとしても、それは正しい祈祷にならないから、当然祈祷の効果もないと日興が考えていたと思われる。
 日興が『立正安国論』の神天上の法門を信じ、邪宗が蔓延している日本に災害が生じることに敏感になっていることは、日興の手紙類によって示すことができる。『歴代法主全書』第1巻に収録されている日興書簡を見ると、『21 坊主(日目)御返事』(『宗全』2-152)には「鎌倉よりの天変事」「夜中の変は童部の談に、月と星とすまふ(相撲)とり候なんと申候しども」「西山ちにもゆる星みへ候」などと天変について気にしていることを述べている。また『41 与了性御房(日乗)書』(『宗全』2-157)にも「鎌倉中の災難」について言及がある。
 さらに京都留学中の日盛に宛てた『48 民部公御房(日盛)御返事』には「今度山門奏状書写給候條恐悦無極候べく候。正和三年(AN33)六月八日御状、同十八日到来、委細拝見候了。自何事異国寄来候由事驚存候。貴状先師宝前読上候了。此大事上に神輿神木南山座主改替之由亡国期来候カ、猶々委細に可注給候」とあり、日盛の手紙で、蒙古が襲来するかもしれないという情報に接し、その手紙を日蓮御影の前で日興が読み上げたこと、それにより「亡国」が到来するかもしれないという期待を述べ、『立正安国論』の他国侵逼難が実現することを期待している。この日興の態度には亡国は正法流布のためには望ましいことであるという考えが反映されている。ちなみにこの年は日蓮の33回忌にあたる年であるが、その年に至るまで日興は『立正安国論』の予言を信じていたことが示されている。
 また同じく日盛に宛てた手紙である『50 民部公御房御返事』には「御文くはしくみまいらせ候ぬ。なによりもかまくら中の大怪おとろきおほへ候、御状聖人の御宝前によみ上まいらせ候ぬ。」と鎌倉で生じた大きな事件について報告した日盛の手紙を日蓮御影の前で読み上げたことを述べている。同様に『52 与民部公御房書』にも「鎌倉中災難承候了、猶々聞食事者可仰候。」とある。また『85 小三郎殿御返事』(『宗全』2-189)にも「何事よりも山門南都蜂起事、国土のわづらひ、おもひやられて候。又疫病の事井中(重須周辺)にも興隆してみえ候。可被建正法にハ怨をなされ、可被失悪法にをハ弥被渇仰之間、天地のいかり、国土の災難一切衆生上下万人のなげき、この御代にあひあたり候事をこそ嘆申候へ」と述べて、邪宗のために国土に災難が充満していることを嘆いている。日興には『立正安国論』で記述された災害がまだ継続していると思われたようだ。たとえ日昭、日朗、日向が国祷しても、邪宗が盛んな間は、決して災難を打ち払うことはできないという日興の考えも推測することができる。
 また日尊の弟子日印の『日代上人ニ遣ス状』には「観心本尊抄撰時抄の如くんば西海侵逼難の時、始上一人より下万民に至るまで妙法五字の首題を唱へ奉りて高祖上人に帰伏し奉り候はんと見へて候へば、其の時御本懐を遂げられて本門の本尊を立つべし」(『富要』5-48『宗全』2-409)とあり、蒙古の日本占領によって、一国全体が日蓮に帰依して広宣流布ができるという思想も日興門流に継承されていたことが分かる。
 また日興正本の『安国論問答』が大石寺に保管されているが、その中には「疑云、於国中令流布撰択集之間謗法之故守護善神依捨此国天下之災難国中充満云云。然者無此書已前国土災難無之否、 答云、彼時又有災難。 問其義如何。撰択已前平家合戦(元暦年中後二条)壽永(兵乱)養和(兵乱)治承(頼朝合戦)保元新院本院合戦平治(後白河二条天皇)(右衛門督信頼興左馬頭義朝兵乱)如此国災何撰択可依乎。 答云、八十二代隠岐法皇法然房撰択を帰依せしに依てほろひ給ける事は承伏歟。然者已前の災難も皆仏法のとかによりて起れり。 問、其仏法者如何。 答、日蓮聖人代に所申安国論中諸宗の人々謗法故也、就中真言慈覚等也。 問、仏法無りし已前に日本唐土に起し災難は如何。 答、破五常無礼之仁出来必国土災難有之、所謂殷紂周幽等是也。 難云、今世災難不知依破五常起何必依撰択乎。 答云、仁王経云、大王未来世中諸小国王四部弟子○諸悪比丘○横作法制不依仏戒七難必起。金光明経云、其国富有種々災禍。涅槃経云、憎悪無上大涅槃経等云云。是当撰択集也。 難云、仏法已前於国有災難何謗法者故乎、 答云、仏法已前以五常治国遠以仏誓治国破礼儀者破仏説五戒也。(中略)
問云、以何術速可止此災難乎、 答云、還可治謗法者若不爾者雖尽無量祈請不可止此国災難歟、 問云、如何可対治乎、 答云、其治方涅槃経説云、仏言唯除一人餘一切施○誹謗正法造是重業○涅槃経云、今以無上正法付属諸王大臣宰相比丘尼○毀正法者王者大臣四部之衆応当苦治尚無有罪已上。 問云、汝以僧徒身顕僧失豈非罪業乎、 答云、涅槃経若善比丘見壊法者置不呵責駈遣挙処当知是人仏法中怨若能駈遣呵責挙処是我弟子真声聞也已上。謗法者不呵責者難遁仏法中怨罪科者也」(『宗全』2-68-71)とある。
 『立正安国論』では、法然の『選択集』によって災難が生じるとあるが、ここでは、『選択集』以前の災難の原因は、また仏法伝来以前の災難の原因は何かという『立正安国論』にはなかった議論が展開されており、また『守護国家論』で明確にされた『涅槃経』の国王付属の議論を持ち出し、国家権力の発動によって謗法を禁断することが唯一の災難対策だという議論を展開している。したがって国王の帰依=邪宗禁断がない国祷は災難対策にはならないという立場を日蓮、日興が維持していることは明らかである。
 この日興の国祷に対する考えは日興門流ではそれなりに継承されたようで、日興滅後の貞和四年(AN67)に三位日順が書いた『摧邪立正抄』には、京都開教に成功し、後醍醐天皇から法華弘通の勅許をもらった日像の弟子の日学と日興の弟子の日仙の弟子である日寿との論争が記録されているが、その中で日像門流が国祷を是とすることに対して、日興門流が非とすることに関して、「次に大聖(日蓮)の御時祈り無き道理は公家武家の院宣御教書無きを以つて所望有りしかども叶はざる間・祈り無きなりと云云、所詮日寿は祈祷すべからずと定め・日学は祈祷すべしと云ふ、両人の諍論に付いて大聖の素意を尋ぬるに論(『立正安国論』)には彼の万祈を脩せんより此の一凶を禁ぜんには如かずと云ふ云云、万祈とは諸宗の祈祷なり・一凶とは謗法の凶徒なり、又謗法の諸宗を挙げて若し此れを対治する無くんば他国の為めに此の国を破せらるべしと云云、而るに今・禅・律・念仏は貴賤頭を低れ真言・天台は鎮へに国家を護る、是の故に刀・疾・飢苦の三災・境に入り村南・村北に哭する声止まず、自界叛逆して九重余り有り・関東関西に闘戦絶ゆることなし、是れ偏に諸宗の祈祷還つて国敵と成る人民の損亡の現証之に在り、加之・前代超過・未然の大事・他方怨賊の蜂起必定なりと公家に奏し・武家に訴ふること世以て隠れなく人皆之れを知る、日学の白状の如くんば一天より院宣を下されて祈祷を致すと、然るに国土の災難・日に随つて倍増し自他の反逆年を逐ふて興起す、日蔵(日像)の祈祷敢て威験無し謗法の現証・已に眼前に在り何ぞ自科を出して徒に具徳に備へんや」(『富要』2-42,43『宗全』2-354)と述べて、『立正安国論』の邪宗禁断最優先の立場を堅守し、日像の院宣による国祷も効果がないと、批判している。
 もし日蓮信奉者で邪宗禁断のない国祷が有効であると考えているならば、その教義的根拠を示してもらいたいが、それは多分次項の神社参詣の所で論ずる善神来還の議論しかないと思われる。

3-2 神社参詣問題

 日興正筆には神社参詣を禁止した文献は現存していないようだが、信頼できる文献にはそれなりに言及されている。『原殿御返事』には「御札委細拝見仕り候い畢んぬ。抑此の事の根源は、去ぬる十一月の頃南部弥三郎殿(『宗全』『興全』「三郎」、『祖師伝』「孫三郎」『歴法』「弥三郎」、『興全』の注には「波木井実長(南部六郎入道)の次男で弥三郎実氏と想定される」とある)此の御経を聴かんが為入堂候の処に、此の殿(弥三郎が)入道(波木井実長)の仰せと候いて、念仏無間地獄の由聴かしめ奉り給うべく候、此の国に守護の善神無しと云う事云わる可らずと承り候いし。是こそ存外の次第に覚え候え、入堂殿御心替わらせ給い候かとはつど推せられ候。
 殊にいたく此の国をば念仏真言禅律の大謗法の故大小守護の善神捨て去る間、その後の祠(ほくち)には大鬼神入り替わりて、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代(実質的には北条時頼、形式的には長時、政村、時宗)に仰せ含ませられ候い畢んぬ、此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候え、国の為世の為一切衆生の為の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として大慈悲を以つて身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば、弥三郎殿(『歴法』「弥三郎」、『興全』「孫三郎」)念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ、守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審未だ晴れず候。
 其の故は鎌倉に御坐し候御弟子(日昭、日朗)は諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候、身延山の御弟子(日興)は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらるるの条、日蓮阿闍梨は入滅候誰に値てか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め給うべき事候。師匠は入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是れなり。
私にても候わず、三代披露し給い候と申して候いしかども、尚お(弥三郎が)心中不明に候いて御帰り候い畢んぬ、是と申し候は、此の殿(実長)三島の社に参詣渡らせ給うべしと承り候いし間、夜半に出で候いて、越後房(日弁、『興全』は「越前坊」の誤りかと推定)を以つて、いかに此の法門安国論の正意日蓮聖人の大願をば破し給うべき、御存知ばし渡らせおわしまさず候かと申して、永く留め進らせし事を入道殿(実長)聞こし食され候いて、民部阿闍梨(日向)に問わせ給い候いける程に、御返事申され候ける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一遍にて候えども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべしと申され候いけるに依つて入道殿深く此の旨を御信仰の間、日興参入して問答申すの処に、案の如く少しも違わず、民部阿闍梨の教えなりと仰せ候いしを、白蓮此の事は、はや天魔の所為なりと存知候いて少しも恐れ進らせず、いかに謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神の、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、師敵対七逆罪に候わずや、加様にだに候に、彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候わば其の科日興遁れ難く覚え候。」(HP『nb資料室』、出典は『歴代法主全集』第1巻か、『富要』5-25,26『宗全』2-170,171)とある。
 日興が『立正安国論』の善神捨国、天上帰還、悪鬼入社を主張したのに対して、波木井実長は日昭、日朗、日向の見解である「法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし」という議論を根拠に、神社参詣を日興の反対を押し切って強行したというエピソードが記述されている。日興は「永く留め進らせし事」と述べて、神社参詣を日興が実長に禁止し続けてきたことは述べても、日蓮によって禁止されていたとは主張していない。日蓮の真蹟遺文の中に神社参詣について具体的に禁止した箇所はないようだ。ないということは日蓮在世には神社参詣がなかったのか、それとも日蓮は、神社参詣は邪宗参詣とは違うから、それほど重要視していなかったのかは不明である。ただ日蓮が晩年まで『立正安国論』を重視していたから、神社には諸天善神はもういないという考えを維持していたと思われる。もちろん例えば四条金吾が、主君江間氏が鶴岡八幡宮寺に参詣するときに、従者として随行するということまで禁止したとも思われない。
 ただ日蓮には『立正安国論』とは異なった善神思想も見え、日昭、日朗、日向はそれを根拠に「法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし」という議論をしている。HP『日蓮ノート』の「一弟子(日昭・日朗・日向)の神社参詣について」の「日蓮の行いと教え」で、「弘安3年(1280)12月の『諌暁八幡抄』(真蹟)では、八幡大菩薩(善神)は垂迹であり本地は釈尊であるとして、八幡大菩薩は正直の頂である法華経の行者に栖み、そこには諸天の守護もあることを教示している」と述べて、その論拠として、次のような『諌暁八幡抄』の引用をしている。
 「遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡を恃み奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまって体をあなづる。子に向いて親をのるがごとし。本地は釈迦如来にして、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生まれては正直の頂にすみ給ふ。諸の権化の人々の本地は法華経の一実相なれども、垂迹の門は無量なり」(『定』、p.1848)
 「今八幡大菩薩は本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。法華経の第五に云く、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、文。経文の如くば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等、昼夜に守護すべしと見えたり」(『定』、p.1849)
 多分問題はこの引用の「其の所に栖み給ふべし」という文言にある「其の所」とはどこかということである。文脈では、「賢人の頂」=「法華経の行者」「天」「宝殿」の三つが候補に挙がる。「賢人の頂」であるならば、何の問題もない。また「天」であっても問題はないだろう。「宝殿」であったならば、既に焼失している「宝殿」に栖むということになる。この『諌暁八幡抄』の全体の文脈の中では「正直の人」が強調されているから、特定の場所ではなく「賢人の頂」に栖む=「法華経の行者」を守護するということが日蓮の主張であって、八幡大菩薩が焼失した神社に帰還するという意味はないと思われるが、どうだろうか。
 私は日蓮が、善神が法華経の行者の頂に来会するという考えを持っていたことは認めるが、それが日昭、日朗、日向の主張とは同じではないと考えている。日蓮は『諌暁八幡抄』では神社参詣のことは何も言及していない。神社に行かなくても法華経の行者の頂に来会すると述べているのである。しかも法華経の行者の条件として「正直」という条件が付けられている。日蓮の定めた六老僧だからといって、直ちに六老僧が法華経の行者になるわけではない。師匠日蓮の教えを「正直」に実践してこそ、法華経の行者になれるのである。これは釈尊が『スッタニパータ』で「生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」(『ブッダのことば スッタニパータ』、p.34)という原理と同じである。このような観点から日昭、日朗、日向が正直に日蓮の教えを実行しているか検証してみると、少なくとも国祷に関しては、緊急避難とはいえ、日蓮の教えに反した行為を行っていたことは明らかである。もちろん私は日蓮原理主義者ではないから、日昭、日朗が緊急避難として国祷を行ったことはやむを得ないと考えている。しかしその必要がなかった身延の大師講において日向が国祷を行ったのは、日蓮のどんなテキスト、行為にも根拠を見出すことはできないと思っている。
 私は宗教的祈りに関して、ウィトゲンシュタインやフィリップスと同様に「状況への反応」(私の「宗教的言語の多様な使用について」の「2-4-5 反応としての宗教的儀礼」を参照されたい)という見解を採用しているから、日蓮、日興のように、宗教的祈りが功徳、罰と結び付けて理解されるべきだという考えは持っていないのだが、日昭、日朗、日向は宗教的祈りと功徳、罰との関係をどのように理解していたのだろうか。日昭、日朗、日向は、国祷が本当に災害防止に関して有効だと信じて国祷を行ったのであろうか、それとも、日昭、日朗は幕府の弾圧を避けるための、アリバイ作りとして行い、その効果は期待していなかったのであろうか。日向の場合は「国恩」を報ずるという天台宗の伝統に従っただけで、特にその効果を期待していなかったのであろうか。日昭、日朗、日向には祈祷の効果に関しての議論は残っていないので、何とも判断できないが、日興は日蓮と同様に祈祷の効果を信じていたことは既にいくつかの資料で示しておいた。
 日蓮、日興は邪宗禁断という条件がそろわなければ、国祷の効果はないと考えていたようだが、他方では、「よき師、よき法、よき檀那」という三つの条件がそろえば、個人的願いに関しては、祈祷の効果があるとみなしていた。この個人的祈祷に関しては、少なくとも神社参詣という条件はない。
 HP『日蓮ノート』の「一弟子(日昭・日朗・日向)の神社参詣について」の「神天上と諸神来会」では、「結論としては『立正安国論』以降、特に文永8年の法難での八幡社頭諌言や『諌暁八幡抄』の教示に至る展開を踏まえれば、弟子や檀越が神社に参詣することは師説に対する理解からであった、といえると思う」と述べて、竜口法難で日蓮が鶴岡八幡宮寺を通りかかった時に、八幡菩薩に対して法華経の行者を守護しないことを諌暁したことを根拠に神社参詣を正当化している。
 『種々御振舞御書』の八幡社頭諌言のエピソードは「十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに・わかみやこうぢにうちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か和気清丸が頚を刎られんとせし時は長一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給いき、今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか、其の上・釈迦仏・法華経を説き給いしかば多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、各各・法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよと・せめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし、さるにては日蓮が申すまでもなし・いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞと・たかだかと申す、さて最後には日蓮・今夜・頚切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ」と紹介されている。ここでは日蓮が主体的に鶴岡八幡宮寺に参詣したわけではなく、処刑のための途中にあったので、日蓮が八幡菩薩に諫言したということが述べられているだけだ。
 また『諌暁八幡抄』の議論では、法華経の行者を八幡菩薩が守護することを述べているだけで、その八幡菩薩の守護の行為を発動させる条件は「正直」しかない。わざわざ八幡菩薩が勧請されている神社に参詣して、八幡菩薩の守護を願わなければならないと述べているわけではない。しかも八幡社頭諌言は日蓮がわざわざ鶴岡八幡宮寺に参詣して行ったことでもない。竜口の刑場に連行される途中に、鎌倉武士の面前で行った日蓮の八幡社頭諌言は鎌倉武士に対する最も効果的な宗教的パフォーマンスとして遂行されたと考えるべきであろう。日蓮は、八幡菩薩はすでに鶴岡八幡宮寺には不在であり、天上したと信じていたが、多くの鎌倉武士は鶴岡八幡宮寺に臨在していると信じていた。日蓮は八幡社頭諌言を天上にいる八幡菩薩に対して行ったのであろうが、鎌倉武士は鶴岡八幡宮寺に臨在している八幡菩薩に対して諌暁したと考えたであろう。この八幡社頭諌言は日蓮と八幡菩薩との宗教的(上下)関係を鎌倉武士に印象づけるには最も効果的であったと言えよう。鎌倉武士は、日蓮は自分たちが信奉している八幡菩薩を叱責しているというように受け取ったと思われる。だから八幡社頭諌言を日蓮の神社参詣の事例とみなすのは困難である。
 日蓮は『諌暁八幡抄』で「去ぬる文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして南無妙法蓮華経と申す大科に国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて一国の謗法の者どもに・わらわせ給いしは・あに八幡大菩薩の大科にあらずや」と述べて、八幡菩薩を非難しているが、ここでは『種々御振舞御書』の八幡社頭諌言のエピソードは記載されていない。しかも鶴岡八幡宮寺へ引きずり出したのは幕府が嘲笑する為であったとある。日蓮が主体的に参詣したわけではないことは明らかであろう。
 池田令道は『富士門流の信仰と化儀』(現在はPDFファイルで公開されている)の「第四章 富士門流の謗法観」の「Ⅰ 神天上法門について」の最後の部分で、『諌暁八幡抄』の末尾が「末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各々我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」で結ばれていることに関して、「諌暁八幡抄における不軽菩薩の登場は、まさしく本末有善の衆生=逆縁の世界=日本国と規定するためであつたと言えましょう。そして、大聖人は本抄において「日本国の一切衆生」の尊崇を集めていた八幡神がすでに「宝殿をやきて天にのぼ」られたことを宣言し、わずかに行者の正直の頭に宿ることを認められたのでした。ここに富士門流の社参を禁ぜられ淵源をみることができましょう。」と述べて、神社には八幡菩薩が帰還しないという見解を示している。
 しかし鎌倉武士と同様に日蓮の弟子で神天上の法門を軽視した人々は神社に善神が臨在しているとみなし、そのための理論づけとして『諌暁八幡抄』を利用したということはありうる。日向の議論がその事例であるが、『諌暁八幡抄』が神社参詣を根拠づけているというのは、論理的飛躍であることには変わりがない。しかし神社信仰を念仏信仰などの邪宗と考える根拠がなければ、必ずしも神社参詣が謗法行為になるわけではない。『諌暁八幡抄』は神社参詣を許可するわけではないが、禁止するわけでもないからだ。ただ『立正安国論』では善神が社殿を捨てて天上したということを述べているだけでなく、その跡に悪鬼が住んでいるということまで主張しているから、法華経の行者が神社参詣すれば、悪鬼が退散するという議論を必要とするが、そのことを明示した日蓮のテキストはさすがにないようだ。だからHP『日蓮ノート』の「神社に参詣することは師説に対する理解からであった」という部分については、「師説に対する不十分ではあるがそれなりの理解からであった」ということになろう。日蓮が神社参詣を明示的に許容した資料もなければ、論理的に許容する資料もないし、悪鬼が神社に臨在しているという議論を否定する資料がないのだから、十分な理解とは言えないだろう。
 なお中條曉秀は『日蓮宗上代教学の研究』において、永仁六年(AN17)の日興作とされる『本門寺棟札』の「本化垂迹天照太神宮」の記述に基づいて、「捨国を主張する日興自身も、永仁六年の先に見た棟札を認めていることからすると、すでにそのころは化導方針も寛容になっていたのではなかろうかとも考えられる」(同書、p.91)と述べているが、これにはいくつかの問題点がある。まず『本門寺棟札』は筆跡からして日興親撰ではないというのが研究者の多数意見であると思われることが第1点である。第2点は「本化垂迹天照太神宮」の造営は、神社参詣を認めたわけではなく、神社には悪鬼しかいないから、善神の住処として新たに正直な法華経の行者が参詣する「本化垂迹天照太神宮」を造立するという趣旨である。中條には既存の神社が善神の住処であるという鎌倉武士と同様な思い込みがあるから、この文言を、神社参詣を容認したというように解釈したと思われるが、善神を信奉するということと、既存の神社に参詣するということとは別の事柄である。
 既に引用した文政六年(AN542)の日量の『富士大石寺明細誌』によれば、「垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す、神躰は板本尊」とあり、勧請された天照八幡は伊勢神宮や鶴岡八幡宮寺とは無縁で、しかも神体は板本尊(板曼荼羅)とされている。もちろんこの資料は江戸時代のものであるから、日興の時代とは大きく違うが、日興門流では、神社参詣ではなく、自派の寺院に垂迹堂を建立して、善神に法味を捧げ、その守護を願ったと解釈する方が、教義的にも、歴史的にも整合的であると思われる。
 なお高橋粛道は『日蓮正宗史の研究』の「三堂棟札」において、三位日順の『五人所破抄』に「又五人一同に云く、富士の立義の体為らく啻に法門の異類に擬するのみに匪ず剰え神無の別途を構う、既に以て道を失う誰人か之を信ぜんや。 日興が云く、我が朝は是れ神明和光の塵・仏陀利生の境なり、然りと雖も今末法に入つて二百余年・御帰依の法は爾前迹門なり誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師の勘うる所なり、何ぞ善神・聖人の誓願に背き 新に悪鬼乱入の社壇に詣でんや、但し本門流宣の代、垂迹還住の時は尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云」(『富要』2-5『宗全』2-83)と述べていることから、日興生存中には垂迹堂はなかったと判断している(同書、p.169)。そして『日順雑集』に「本門寺・貞和三年(AN66)丁亥十月十三日造営なり 願主 日妙 日順 日済等 大施主石河式部太輔源実忠 大施主南条太郎兵衛平高光 大施主秋山式部太夫源宗信 大工本門寺大工兵衛目末信」(『富要』2-127,128)とあることから、高橋は「日妙を初めとする重須大衆は国主の帰依を得る前に、日興上人の構想に反して自山に三堂を建立したようである。(中略)石山も日妙が加筆した棟札の影響を受けてか垂迹堂が早い時期に建立されたようである」(同書、p.170)と推測する。高橋は「早い時期」と述べているだけで、その時期を明確にしていないが、日有の『化儀抄』に「日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり内には本尊を懸けらる、是れは本門寺の朽木書と云云、今の義にならず、天下一同の法花経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云、大隅の八幡宮の石の文に昔は霊山に在りて法花経を説き、今は正宮の中に有て大菩薩と現すと八幡の御自筆有り、釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云、所詮朽木書とは手本と云ふ意なり」(『富要』1-74)を引用して、日有は三位日順の『五人所破抄』と同様に広宣流布の時に、垂迹堂を建立すべきだという議論をしているとするから、「早い時期」は日有以降かと高橋は推論しているのかもしれない。すると日有はAN201に亡くなっているから、AN66から見ても百五十年ほど経過しており、「早い時期」とは言えないだろう。堀日亨の『富士日興上人詳伝』には日主(AN274-336)の天正年間(AN292-310)の境内図を掲載しているが、それによれば、本尊堂は中心が「本堂」、西側に「御影堂」、東側に「天経」とある(同、p.22)が、この「天経」が垂迹堂であると思われる。
 HP『日蓮宗法明教会』の「神天上について」には「『立正安国論』では、『正法である法華経信仰が廃れると諸天が正法の法味を味わえなくなり、また謗法・悪行の者が増加すると善神があきれ果てて、守護することを止め、去ってしまう(取意)』そして『善神聖人、国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道、災を成し難を致す。』(立正安国論20頁)と戒告していますが、【法華経が広宣流布されるまでは、すなわち一国同帰・国立戒壇建立されるまでは、神社には悪鬼・魔神が住む】とまでは言っていないですね。」とあり、ついで「日本は上行菩薩垂迹の国であり、法華有縁、妙法広布の基となる国と受け止められていた日蓮聖人は、蒙古に完全に蹂躙占領されてしまうとは考えてなかった事でしょうが、強く誡告する為めに、『一国謗法に因って亡国する』旨の文は処処にあります。強く警告する為めに『いまのままではこうなるぞ』と最悪の結果を示す場合があります。『立正安国論』も誡告的な書ですから、善神捨国を強調しています。一国同帰にならない中は、善神が完全にいなくなってしまうと日蓮聖人が考えていたと思い込んでしまうことは、一方的な理解解釈だと私は考えています。」と述べている。次いで『諌暁八幡抄』や『種々御振舞御書』の記述を基にして「当時、真言宗の僧が別当をしていた鎌倉八幡宮に向かって、早々に法華経守護の約束を果たせよと強く請求しています。」と述べて、その意義を「これも、広宣流布しないうちでも、法華経の行者あれば諸天善神は来臨擁護すると云う面を示されている文ですね」と解説している。そのうえで「また日蓮聖人の教えを信受してお題目を唱える者達が徐々に増加してくれば、諸天善神は法華経の法味を得られるわけですから、還帰し擁護する道理です。」と述べる。さらに『三沢抄』の記述を基に、「この文からは『仏は主、神は従』という決まりに背かなければ氏神に参詣しても良しと考えられていたことが判ります。」という解釈も示している。そして結論として「さて現在に至っては、日蓮聖人滅後すでに7百30余年が過ぎ、聖人の教えに基づき読経唱題する者は格段に増加しています。したがって、諸天善神も妙法の法味を十分味わえるようになっています。ですから諸天善神は当然、還帰し、法味納受していると思います。釈尊や法華経を誹ったり、日蓮聖人の教えに背いた教義を盲信しながらお題目を唱える者たちの拠点ではない所の、氏神とか古来からの由緒ある神社ならば、妙法正信の者が参拝唱題すれば祭神はその場に来臨してくれるだろうと思っています。」と述べている。
 神社参詣を正当化するための議論を総動員していると思われるが、私には、「日本は上行菩薩垂迹の国であり、法華有縁、妙法広布の基となる国と受け止められていた日蓮聖人は、蒙古に完全に蹂躙占領されてしまうとは考えてなかった事でしょうが」と述べていることに関して、本当に日蓮は蒙古に占領されてしまうと考えていなかったのかという点に、疑問を持っている。「日本は上行菩薩垂迹の国であり、法華有縁、妙法広布の基となる国」だから順縁広布の可能性を持っており、日蓮はそれを実現させるために様々な努力をしたが、結局第三の国諌においても国主は日蓮の諫言を受け入れることなく、日蓮の自力による順縁広布の望みは潰えた。日蓮にとって、隣国の聖人が日本国の国主を治罰することによって、国主の改心を望むしかなかったが、それも弘安の役で潰えた時に、日蓮がどれほど落胆したかは、『冨木入道殿御返事』に弘安の役に関して京都の思円(叡尊)の祈祷により蒙古が退散したという噂を取り上げ、「秋風に纔の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず」と述べて、負け惜しみ的なことを述べて、有効な反論ができず、弟子たちにこのことに関する議論を禁止していることに表れている。日蓮にとって、邪宗の国祷により、隣国の聖王である蒙古が敗れるということは、彼の神天上の法門からしてありうべきことではなかった=説明がつかないことであったから、門下に対してこのことで議論することを禁止したのである。川添昭二も「(日蓮は)自らこの弁証(説明)の不毛性を知っていたからであろう」(『日蓮と鎌倉文化』、p.167)と述べて、弟子たちに説明できなかったと解釈している。弘安の役以後の病気がちで余命の少ないことを自覚した日蓮が構想しえた広宣流布のヴィジョンは、逆縁世界での地道な信仰の継続と、将来の順縁広布の期待(日興は異国来襲を期待していた)しかなかった。日蓮が蒙古による日本占領を期待していた資料には事欠かないが、弘安の役での日蓮の落胆ぶりからは、その実現可能性を強く思っていたと推測できると思う。
 私は現代の文化の中で生きているから、未来に対するある種の科学的予想(気候温暖化、核廃棄物の処理問題など)を信頼しているが、宗教的教義に由来する未来の予言などは全く信じていない。しかし科学が存在せず宗教が支配的な中世鎌倉時代の文化の中で、「日蓮聖人は、蒙古に完全に蹂躙占領されてしまうとは考えてなかった事でしょう」とどのような根拠で言えるのだろうか。佐渡流罪中に守護代の本間氏に日蓮が自界叛逆難を予言したときに、日蓮はそれを警告の意味で言っただけで、その実現可能性を信じていなかったのだろうか。あるいは第三の国諌のときに、蒙古が今年中に攻めてくると日蓮が予言したとき、その実現可能性を信じていなかったのだろうか。日蓮の予言は、単なる警告ではなく、日蓮自身がその実現可能性を深く信じていた予言なのである。
 だから『立正安国論』の神天上の法門は日蓮にとって最後まで維持されるべき教義であり、すでに述べたように『諌暁八幡抄』の議論は、善神が正直な法華経の行者を守護することを強調しているだけで、善神が既存の神社に帰還するということを含意してはいない。だから日興は善神が帰還すべき垂迹堂を建立することを主張したのである。
 またHP『日蓮宗法明教会』には、「さて現在に至っては、日蓮聖人滅後すでに7百30余年が過ぎ、聖人の教えに基づき読経唱題する者は格段に増加しています。したがって、諸天善神も妙法の法味を十分味わえるようになっています。」という他の人には見られない議論を展開している。確かに日蓮の議論にこの議論を根拠づける資料がないわけではないが、それでも日蓮亡き後の、弘安八年に日昭、日朗が国祷した時には、まだ十分に諸天善神は法味を受けてはいなかったであろうと思われるし、この議論では一体いつごろから善神がそれなりの法味を受けて既存の神社に帰還したと推定しているのか、不明である。HPには日像の石清水八幡宮のエピソードが述べられているが、その時にはそれほど日蓮信奉者も多くなかったから、法味を十分には受けていなかったと思われるのだが、どうだろうか。
 問題は捨国した善神はどこに存在し、正直な法華経の行者に応答して、どこに来会するのか、ということを、日蓮のテキストを基にして、どのようなことを言えるのかということである。日昭、日朗、日向、日像は、既存の神社に帰還すると考え、日興は広宣流布の時に新しい住処に帰還すると考えた。両者の違いは明白であるが、日蓮のテキストには、どちらかを決定する明白なテキストはない。残るところは、日蓮のテキストの議論と、両者の議論との論理的整合性をめぐる理論ゲームしかない。そして現代の日蓮信奉者の多くは、日蓮の予言の効力を信じていないと思われるから、この議論は実質的には無意味な論争となるしかないだろう。

3-3 国家諌暁について

 国家諌暁自体は日蓮の幕府への働きかけに関わるもので、本迹論争とは本来無縁である。しかしその時に提出する申状の文言には本迹問題が生じており、それについては、宗号問題、日蓮=上行再誕説の公言問題、国祷問題、神社参詣問題で既に論じてきた。
日興が日蓮の国家諌暁を継承して、幕府、朝廷に申状を提出したことは、申状の正本は残っていないが、日興書写本尊の脇書きに「上奏」の文言があるから、歴史的事実であるとされている。写本が残っている申状で最も古いのは、正応二年(AN8)正月の幕府への申状であり、下記のようである。
 「日蓮聖人の弟子日興を重ねて申す。
早く真言、念仏、禅、律等の邪法興行の僧徒を破却して妙法蓮華経の首題を崇敬せられ天下泰平国土安穏異国降伏の祈に資せんことを請ふの状。 副へ進ず、一巻 立正安国論文応元年之を勘ふ。 一巻 文永八年の申状。(中略)爰に諸経の説相を勘へ見るに妙法蓮華経の首題は一乗の肝要諸仏の本懐なり之を以て正法となす、真言念仏禅律等は爾前の権説専ら聖旨に背くなり之を以て邪法となすなり、(中略)聖人独り歎いて夜を明し思うて日を渉る、此の瑞相を鑒みて国土安全の為に去る文応年中立正安国論を作り上覧に備ふと雖も御裁断を相待たずして聖人入滅し巳る。今国体を見るに併せて彼の勘文に符合す争か之を賞せられざらんや、(中略)抑も伝教大師弘むる所の法華は猶以て迹門なり、先師聖人弘むる所の法華は併ら以て本門なり、浅深炳焉たり之を採択する処用捨宜く顕然たるべし、所詮邪法興行の僧徒に召し合せられて問答を遂げ法の邪正を糾明せられて邪法を破却し正法を崇敬せられば彼の異賊滅亡し此の国土興復せんのみ、仍つて重て言上すること件の如し。 正応二年正月月日」(『富要』8-332,333『宗全』2-95,96)
 「重申」とあるから正応二年以前に幕府に日興は申状を提出していたと推定される。ここでは『立正安国論』と「文永八年の申状」を副進している。この「文永八年の申状」は『興全』の注記には『一昨日御書』であるとされている。この『一昨日御書』は竜口法難の当日の日付となっており、幕府身内人の筆頭であった平頼綱に宛てた諌暁の書であるから、『立正安国論』とともに副進するのにふさわしい文書である。
 この申状では「妙法蓮華経の首題は一乗の肝要諸仏の本懐なり之を以て正法となす」と述べて、単に法華経を正法とするのではなく、妙法蓮華経の首題を正法とするということを鮮明に示している。後段ではさらに「抑も伝教大師弘むる所の法華は猶以て迹門なり、先師聖人弘むる所の法華は併ら以て本門なり、」と述べて、台当相違を鮮明に示し、日蓮=本門、天台宗=迹門の相違を強調している。もっともこの申状では天台宗を邪法にはまだ入れていない。
 そして「今国体を見るに併せて彼の勘文(『立正安国論』)に符合す」と述べて、『立正安国論』の予言通りの災難が来ていることを主張する。そして「所詮邪法興行の僧徒に召し合せられて問答を遂げ法の邪正を糾明せられて邪法を破却し正法を崇敬せられば彼の異賊滅亡し此の国土興復せんのみ」と述べて、公場対決のうえで、邪法を捨て、日蓮の正法に帰依すれば安国になることを主張している。この申状には日蓮の『立正安国論』の系譜をストレートに継承している日興の姿勢が明確に示されている。
 次の申状は嘉暦二年(AN46)の朝廷への申状である。その申状には次のようにある。
 「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興誠惶誠恐庭中に言上す。 殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ且つは第五百歳の金言に依り永くし法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。 副へ進ず、一巻、立正安国論文応元年の勘文並に三時弘経の図等。 (中略)今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり、正像巳に過ぎぬ何ぞ爾前迹門を以つて強ちに御帰依有るべけんや、料り知んぬ讒侫叡聞を隔て邪義正法を妨ぐ如来得道の昔尚魔障有り何に況んや末代をや、然るに聖主御字の今や時機巳に又至れり弘通の期幾日ぞや、中ん就く天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末代の代を迎へて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の最誕なり、経文に載する所解釈に炳焉なる者なり。(中略)速に爾前迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐にして天下泰平ならん、日興誠惶誠恐謹んで言す。 喜暦二年八月日」(『富要』8-334,335『宗全』2-97,98)
文中に「庭中言上」とあるから朝廷の記録所などへの申状であることがわかる。この申状では「爾前迹門を停止」「爾前迹門の邪教」とあるから、天台宗も邪教として禁断することを要求している。正応二年(AN8)の申状では、伝教=迹門、聖人(日蓮)=本門という対比であったのが、喜暦二年(AN46)の申状では、天台伝教=像法=薬王、日蓮=末法=上行という対比をして、迹門である天台宗は、末法不相応の邪教であるという理論を展開している。日蓮の信頼できるテキストに、台密を非難した箇所はあっても、天台宗が邪教であるという議論はないと思われるが、日興が本迹相対の議論を展開する中で、過激化していった様子が見える。
 副進された「三時弘経の図」は『興全』の注記によれば、江戸時代の日精写本がある『三時弘経次第』であるという。そこには次のようにある。
 「 一仏法流布の次第
一正法千年流布 小乗 権大乗 一像法千年流布 法華 迹門 一末法万年流布 法華 本門 今ま末法に入つて本門を立てゝ国土を治む可き次第。 桓武天皇と伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てゝ像法を利益し国土を護持する事之を図す。 迹門の寺 付属の弟子は 薬王菩薩 伝教大師。 比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。
 今ま日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てゝ末法を利益し国土を治む可き之を図す。 本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。 富士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代」(『富要』1-49『宗全』2-52,53)
 正法、像法、末法相応の教を明示し、迹門=薬王=伝教=比叡山=始成の釈迦仏=像法、本門=上行=日蓮=富士山=久成の釈迦仏=末法という対比が明示されている。内容的に喜暦二年の申状の本迹相対の議論に対応している。また日興正筆の『本門弘通事』には「迹門比叡山 日枝山 吾山 御社 本門富士山 蓮花山 大日山」(『興全』、p.28)という文言が残されており、迹門=比叡山、本門=富士山という対比が示されている。
 第三の申状は元徳二年(AN49)の以下のような申状である。
 「日蓮聖人の弟子日興重ねて言上。 早く爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立てられば天下泰平国土安全たらんと欲する事。 副へ進ず、先師申状等。 一巻、立正安国論文応元年の勘文。 一通、文永五年の申状。 一通、同八年の申状。 一つ、所造の書籍等。
右度々具に言上し畢んぬ、抑も謗法を対治し正法を弘通するは治国の秘術聖代の佳例なり、所謂漢土には則ち陳隋の皇帝天台大師十師の邪義を破し乱国を治す、倭国には亦桓武天皇伝教大師六宗の謗法を止めて異賊を退く、凡そ内に付け外に付け悪を捨て善を持つは如来の金言明王の善政なり」(『富要』8-333,334『宗全』2-99,100)
 ここでは『涅槃経』の国王付属の理論を適用して、国王が公場対決の上で正法を護持した実例として「漢土には則ち陳隋の皇帝天台大師十師の邪義を破し乱国を治す、倭国には亦桓武天皇伝教大師六宗の謗法を止めて異賊を退く」ということを述べる。私の錆びついた記憶では日蓮の公場対決の議論に「乱国を治す」「異賊を退く」ということまで述べていたか、はっきりしないので、どなたかに教示していただきたい。これらの公場対決は日蓮がその歴史的事実を主張したものであるが、現在の歴史学では、そのような事実は認定されていない。
 日興は朝廷、幕府に申状を提出したが、その具体的な状況は知られていない。日蓮の場合は、北条時頼の直属の身内人であった宿屋禅門を通じて『立正安国論』を提出し、時頼がそれを読んだかどうかは不明であるが、とりあえず本人には渡ったと考えてもよいだろう。ところが、日興の申状の扱いに関しては何もわからない。正応二年(AN8)の申状に関しては、執権貞時は実権がなく、身内人筆頭の平頼綱が、そのライバルである御家人筆頭で貞時の外祖父である安達泰盛を弘安八年(AN4)に滅ぼして、幕府の実権を握っていたから、日興の申状が貞時に渡った可能性はないだろう。
 嘉暦二年(AN46)の朝廷への申状に関しても、誰を通じて朝廷に申状を提出したのか、全く不明である。つまり日興には幕府にも朝廷にも強力な人脈がなく、申状は何らかの役所に提出されたとしても、まともに受理されたとは思えない。日興が日目に与えた元亨四年(AN43)のNo.216の曼荼羅の脇書きには「最前上奏之仁卿阿闍梨日目」とあり、また正慶元年(AN51)のNo.282の曼荼羅には「最前(『富要』「初」)上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之、一中一弟子也」とあり、日興が最初に朝廷に申状を提出したときは、日目が代理を務めたことが明らかであるが、日目が京都にどのような人脈を持っていたのか不明である。日目の弟子で後に日興の弟子となった日尊は日興門流の中では延慶元年(AN27)京都に法華堂を創設したとされ、京都布教に功績があったが、その人脈を利用したものだろうか。なお元亨二年(AN41)のNO.188の曼荼羅の脇書きに「花山院中納言家侍遠藤左衛門」とあるから、摂関家に次ぐ家格である清華家の一つである花山院家の家臣に日興の曼荼羅が与えられているから、全く人脈がなかったわけではないだろうが、詳細は不明である。
 なお正応三年(AN9)の日華の弟子である日仙に与えたNo.4の曼荼羅の脇書きには右に「日仙百貫房者賜聖人異名也日興上奏代也」とあり、左に「僧日仙授与之」とあるから、日興が身延から富士上野にきたばかりの時期に、朝廷への上奏の代理を日仙がしたようにも解釈できるが、多分正応三年の段階の脇書きは左の脇書きのみで、右の脇書きは日仙が秋山氏とともに讃岐に移住するときに、日興が追加で記入したものと思われる。日仙は讃岐と富士の間を何回か往復したと思われるから、その途中に日興の代理で朝廷への上奏をしたのであろう。
 日興の幕府、朝廷への国家諌暁は成功せず、両者から何の反応も得られなかったようであるが、日興門流には、日蓮が弘安五年に日興あるいは日目を代理人として朝廷に国家諌暁を遂行し、それに園城寺の碩学が対応して、朝廷から下文を頂いたという伝説がある。堀日亨の『富士日興上人詳伝』には「熱原等の法難二たび歳を越してやや終息したりといえども、二十有余年の直接間接の諌暁ついに鎌倉政府を動かすことあたわざれば、このこと天聴を煩わすの止むを得ざるあるのみとして、最後の一大事を興上に付して、日目を代官とし、弘安四年に上京して申状を朝廷に奏せしむ。同五年さらに日目に命じて天意を奉伺す。皇帝これを伝奏に命じて、園城寺の碩学に批判せしむ。答旨大いに申状および三時弘教の図の付文を時宜に適せりと称賛す。ここにおいて、皇帝大いに蓮祖の誠忠を嘉し、『朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん。』との下文を賜る。まことに一宗の美目たり。当時、これを趙璧摩尼珠と珍重して、興上滅後、上野六老に巡守せしめしが、目師滅後、幾何もなく日代系の仁において申状の案および下文をも紛失したるがごとく、その空き箱を保存するのみ。惜しいかな、興門の大瑕瑾、一宗の大恨事なり」(『詳伝』上、p.160,161)とある。
 この堀日亨の記述の出典は文献資料としての価値が疑われている『日興跡条々事』の案文に「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す」(『富要』8-17、『詳伝』上、p.161)とあり、『興全』に写真版で掲載されている『日興跡条々事』の正文には「弘安五年御下文」の部分は四字程度が書き込める空欄になっている(『興全』、p.482)。堀日亨は『日興跡条々事』の案文を日興正筆だとみなしたから、このような記述になったのだが、正文で「弘安五年御下文」が空白になっていることについては、説明がない。また日興門流の記録として重要視される、日道あるいは日時の『三師御伝土代』にも、このような重大事件について記述がないことについて、何の説明もしない。
 堀日亨は『日興跡条々事』の案文の「弘安五年御下文」を、また正慶二年(AN52)に日興が亡くなって間もなくに作成されたとする『日興上人御遺跡の事』にある「御下し文」と同一視し、「弘安五年御下文」と「園城寺申状」とを一連の文書と見做している。『日興上人御遺跡の事』には「日蓮聖人御影並に御下し文園城寺申状。 上野六人老僧の方巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし、此の条日興上の仰に依って支配し奉る事此の如し、此の旨に背き異義を成し失たらん輩は永く大謗法たるべきなり、誡めの状件の如し。 正慶二年(AN52)癸酉二月十三日 日善在り判。日仙在り判。日目在り判」(『富要』8-18『宗全』2-202,203)とあり、日蓮御影、下文、園城寺申状を日興門流の三個の重宝として、守護するよう申し合わせたことが記されている。堀日亨は「誡めの状、祖滅五十二年、富士の長老日目日仙日善三師の置文にして正本二通総本山にあり入文は『為失』と『失ならん』との異のみ、但し日善の筆か」(『富要』8-18)と注記している。『日興上人御遺跡の事』が日善の正筆であるならば、少なくとも日興滅後まもなくの時期に、「下文、園城寺申状」が大石寺にあったということは蓋然性が高くなるが、この『日興上人御遺跡の事』の大石寺蔵の正本二通の公開、筆跡鑑定が待たれる。ただこの「下文」と『日興跡条々事』の案文の「弘安五年御下文」とが同一であるということは分からない。もし「弘安五年御下文」が存在していたならば、日興が朝廷に提出した申状にそのことが言及されているのが当然だと思われるが、一言もない。だから、「下文、園城寺申状」は『日興跡条々事』の案文の「弘安五年御下文」とは無関係で、日興が朝廷から与えられたものかもしれないという推測も成り立つ。しかしこの推測も『三師御伝土代』や日興門流の権威を高めるために必死になっていた三位日順の『摧邪立正抄』での後醍醐天皇から綸旨を得た日像門流との論争で引用されることがないなどの状況証拠から成立しないと思われる。私は堀日亨が『日興上人御遺跡の事』を日善正筆ではないかと推測していることを疑問視している。いずれにしても古文書の公開と研究がなければ、学問的には承認できない。
 また下文の内容として「朕若し法華を持たば富士の麓を尋ぬべし」とあるが、この文言は要法寺日辰が永禄元年(AN277)に富士諸山との通用を求めて大石寺13世の日院に宛てた書状が出典であり(『富要』8-330)、資料的価値はないとみなすしかないだろう。
 なおこの三個の重宝に関しては 延文元年(AN75)の『日助置文』があり、「日蓮上人の御影並に御下し文、又薗城寺申状の事。 此の三の重宝は故上(日興)の御遺言に依り上野老僧日目、日仙、日善三人大石寺に於て三十日を十日番に守護し奉る処、 日目は古上の置状に違背し日仙は天目一同の義なり、仍て日善一人許さるべき由衆檀評定し了ぬ、其後日善の計ひとして上野の惣領南条五郎左衛門尉(時長)に之を預け置き畢ぬ、其の預り状歴然なり、之に依て日蓮聖人御影像計り之を取り了ぬ、絶工の重宝は時長取り籠めて之を出さず、今国方沙汰に及び残らず之を取り本門寺の重宝たるべきなり、仍て存知の為に置き状件の如し。  延文元年(AN75)十月七日  日助在り判」(『富要』8-167,168『宗全』2-288)とあり、日蓮御影は日善、日助が管理したが、御下文、園城寺申状は南条時長が管理したことを伝えている。堀日亨は「日助は日代の俗姪にして東光寺の祖なり、此の写本の一紙片西山に在りと雖も未だ研究せられたる事なし、文章に於ても史実に於いても、但し前半は史実にして日目違背より下は研鑽を要すべき事なり、曾て之を諸書に発表したりしも今故に之を掲ぐ」(『富要』8-167)と注記している。この『日助置文』に関しては、日助正筆は存在せず、写本のみが存在しているとのことであるが、どれほどの歴史的資料としての価値を持つのであろうか。
 日興門流では日蓮、日興の国家諌暁の行動を継承して、幕府、朝廷に申状を提出することが盛んに行われたが、幕府や朝廷から何らかの応答を得たということに関しては、非常に不確かなことしか残っていない。
 高橋粛道は『日蓮正宗史の研究』の「要法寺開山日尊上人」において、堀日亨の『富士日興上人詳伝』を引用しながら、「『(日目)茶毘の後、日郷は遺骨を奉じて富士に帰り、日尊は滞洛(たいらく)して先師の懐を暢べる』(詳伝四五六)ために後醍醐天皇へ上奏を遂げたのである。富谷の日宗年表によれば、建武元年春のことである。この功によって尊師は六角油小路に土地と、紫の小袖とを賜い、二位法印に賞叙されたという。尊師はここに法華堂=上行院(要法寺の基源・ただし富谷は法華堂を勘当中の建立とし、延慶元年説)を建て、子弟檀越の教化につとめたのである。」(同書、p.317)と述べている。日尊が後醍醐天皇から、寺地と紫衣を賜い、法印の僧位が与えられたというが、これが事実であれば、日興門流で確認できる最初の国家諌暁の成功と言えるかもしれない。しかしこの出来事は、日尊の弟子日大が書いた『尊師実録』の『日尊上人御一期図』にもなく、また『日尊上人仰云』の「滅後弘通興隆事」の中にも記されていない。また日尊が上奏を遂げたとする建武元年(AN53)は日像が後醍醐天皇から綸旨を得た年でもあり、もし日尊が寺地と紫衣を与えられたのであるならば、三位日順の『摧邪立正抄』に言及があってしかるべきであると思われるが、それもない。日辰の『祖師伝』には『百六箇抄』の末文の引用の中に「玉野太夫(日尊)法印」「法印日尊」の記述はあるが、寺地と紫衣のことは記述されていない。また『祖師伝』には日尊の申状が記載されており、年月は記載されてないが、「今日尊、師命を禀け争てか天下の乱悪を悲まざらんや、且つ仏法中怨の難を顧みて九牛が一毛を勒すと雖も未だ奏達せず、年齢已に鳩杖に及び旦暮の間を期し難し」(『富要』5-46『宗全』2-291)とあるから、晩年になるまで天奏に成功していないことがわかる。これらのことから、僧位は不明であるが、寺地と紫衣に関しては歴史的事実ではないであろう。
 日目の後醍醐天皇への国家諌暁に日尊とともに同行した日郷は、京都に日目の墓地を買い増し、また日目の遺志を継いで国家諌暁を行った。その申状には「日蓮聖人の遺弟日郷誠惶誠恐謹んで言す。 (中略)早く爾前迹門の謗法を対治して法華本門の正法を建立せられば天下静謐海内安全ならんと請ふの状。(中略)高祖日蓮より已来祖師日興日目に至るまで公家に奏すれども許容せられず、武家に訴れば罪料に処せらる、然して後元弘の時武威破れ建武の年帝徳滅ぶ、良に知んぬ正法は国を治め謗法は国を乱す者なることを、(中略)望み請ふらくは速に爾前迹門を対治し法華本門を建立せられば天下は羲豊の風に靡き地上は唐虞の雨に沢はん。 康永四年(AN64)三月 日、駿河の国富士山の隠侶日郷誠惶誠恐謹んで言す。」(『富要』8-371,372『宗全』2-278,279)とある。
 しかも写本には「(端裏書)九十八代光明院の詔勅、康永四乙酉貞和元と改む 三月十五日、日郷へ。 教法流布の次第を検へ捨劣得勝の諌?を録して万機照々の上聞に備へらる、盍ぞ一心冥々の下情を恤まざらんや、然れば則ち仏法の為め王法の為め弥よ積功累徳の修行を励み須く緇素貴賤の帰依を期すべきの由、天気候ふ所なり仍て執達件の如し。 康永四年乙酉三月十五日、頭の左中弁宗光奉る」(『富要』8-372,373)という光明天皇の綸旨も記載されている。しかし同時に嵯峨天皇筆の法華経十巻を賜ったと『富士年表』にあるが、『富要』にはその記事は見えない。
 この日郷の国家諌暁に関しては、日向妙円寺日穏の『日叡一期記』(AN168)にも記載され、日郷の弟子薩摩阿闍梨日叡が、同行した状況を次のように伝えている。「貞和元年(AN64)乙酉二月、九日日郷上人奏聞の為に富士を立ちて御上洛あり日叡一人供奉し給ふ、同年三月十四日京都寺社菅領上椙伊豆守へ御奏聞状を進覧し給ふ、貞和五年(AN68)已丑日郷上人御在京有つて奏聞有るべく、其の次の霜月十五日京都にて日目上人御仏事と云云、日叡筑紫より上洛有れと仰せ下さる、日郷相違無く上洛在つて奏聞を遂げらる」(『富要』8-373)
 これらの記録により日郷は康永四年(貞和元年)(AN64)の三月十四日に寺社管領上杉氏に申状を提出し、翌日光明天皇の綸旨を頂いたという具体的な事例が示される。これ以降も日郷門流の国家諌暁には具体的な状況が分かるものがあり、その中には、妙本寺11世日要が申状を提出する際に、尼崎の八品派に便宜を図ってもらったことなどが記されている。これについては佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』のp.27-32に詳しい記述がある。日郷の場合は3月14日に申状を提出し、翌15日に綸旨が発給されるというスムーズな経過を辿ったが、これは当然予めその段取りが定められていたからであり、それまでの根回し、下交渉にはそれなりの時間、労力、費用がかかったことが推測される。寺院にとっては天皇の綸旨を賜るということは名誉なことであり、寺格の向上、在地領主の横暴からの保護につながることであるから、ある程度の献上金を必要とした。多分日興はそのようなことはしなかったであろうから、朝廷、幕府からは何の沙汰もなかったが、日像が後醍醐天皇から綸旨を得てからは、各門流が天皇の勅願寺、幕府の祈願所となることを目指して猛烈な運動をするようになり、国家諌暁とは名ばかりの、綸旨獲得を狙った申状提出が流行し、日郷はそのような事情を踏まえて申状を提出したと思われる。日郷の申状には「速に爾前迹門を対治し法華本門を建立せられば」という文言はあるが、朝廷が「爾前迹門」を禁じたことはなかった。
 堀日亨は『富要』第8巻の「国諌」において「大聖人の弘教は慈念の迸しるところ急速なる国家救済にあるが故に便宜に従つて寸時も逆化の手を緩めず、清澄に在る時は其の周囲に鎌倉に在る時は其の大衆に毒鼓を撃ち、遂に時の執権北条家に他教徒と対論を要請せられたるより、此れが国法に触れたりとして流刑死刑に及んだのであるが、三諫の後官憲稍其の為国護法の誠意を認めたるも所志貫徹は覚束無きを以つて遂に政都を去り山籠以来更に帝王に諫状を作り(園城寺申状)門弟子をして献覧に供へられた、巳来大法広布の暁までは代々の後継法主此の鴻旨を奉体し身命財を拠つて、時宜の国諫を為すを宗規とす、然りといへども乱世に在りては其主権の所すら判然せず悪吏間を距て容易に願書の受理すら行はれず、此を以て公家武家共に其目途を成すまでには巨額の資材を以て運動し必死の覚悟を以つて猛進せざるべからず、他門にして日像の三黜三陟の如く日什奏聞記及び穆記に示す如く日親の文献に在るが如く国難にして効験甚だ薄く、自他にして日郷日要の如く準備に大苦労を為して所得少く、況や戦国時代は上下自他共に疲弊の極に達し国諫の大望よりも大金を費して不入の訴訟を成功せざるべからず、徳川偃武の後は巧妙綿密なる政策に拘束せられて僧分は手も足も使へぬ事となつて知らず知らず国諫を閑却するに至り、遂に堅樹日好の如き爆弾漢を生ずるに至ると雖も如何ともする能はず、徒に官の為す所に放任す、時なるかな幕末内憂外患天変地夭興盛にして諫め易きの好時機を迎へて始めて数箇の諫聖出でゝ宗意を有司に暢達するを得たれども、遂に素願は望み遠し、殊に明治の聖代民権大に伸張して諸願達成せられざる無きも、此の一願に於いて成就の望少き事戦国幕政時代に加上す、此を以つて上御一人の聖意を動かす事の容易ならぬに加へて下億兆の輿論を改善せざるべからざるの苦難を凌がざるべからず、幸か不幸か諫状の急策暫く絶望に帰す」(『富要』8-328)と述べて、「公家武家共に其目途を成すまでには巨額の資材を以て運動し」と、国家諌暁に多額の費用がかかることを述べている。
 日像が京都に建立した妙顕寺のHPには「続いて建武元年四月十四日には、『妙顕寺を勅願寺となす。殊に一乗圓頓の宗旨を弘め、四海泰平の精祈をこらすべし』との御綸旨を戴き、帝都に妙法を弘める大法城が打建てられ、四海に流布する大道が開かれて、宗祖の御遺命を見事に達成されました。たちまちに妙法の光は都の内外を明るくし、お題目の風は北陸、畿南、西国等に吹き渡りました」とあり、後醍醐天皇の綸旨が重要文化財として指定されている。この綸旨はこれまで弾圧にさらされてきた日蓮系法華宗が京都布教を公認され、天皇の勅願寺となるという重要な出来事であった。この出来事は、天目とともに日興の方便品読誦を批判したほどの本迹勝劣論者の日法が日像に対して『報日像御房書』で「殊ニ一乗ヲ弘ム可キ綸旨ノ趣、六月十一日到来、謹テ拝見仕候畢、抑日蓮聖人之御本懐上聞ニ達セ令メ候條、実以テ悦為ル極リ無ク存候、此旨当宗ノ人々ニ披露セ令ム可ク候、何様参上ヲ企テ申談ス可ク候、」(『宗全』1-147)と述べているように、天台与同の日像とは対立するはずの本迹勝劣派の日法が、「抑日蓮聖人之御本懐上聞ニ達セ令メ候」と喜ぶほどの快挙と見做された。
 しかし邪宗禁断もなく、単に天皇の勅願寺となり、「一乗圓頓の宗旨」を弘める許可を得たということは、果たして日蓮の目的であったのだろうか。日蓮だって第三の国諌のとき、幕府から国祷をするなら、寺院を建立、寄進しようという申し出を受けたのであるが、日蓮は邪宗禁断がないかぎり国祷はしないとして、鎌倉を去り身延に入山したのではなかったか。確かに室町時代に京都で日蓮系法華宗が大きく拡大したのに、日像が得た綸旨の効果は絶大であったと評価することはできるから、教団拡大の戦術としては非常に有効であったということは認めるべきであろう。だが綸旨には「一乗圓頓の宗旨」とだけあり、「妙法」とは規定されていず、「一乗圓頓の宗旨」は天台宗の宗旨でもあるから、日蓮系法華宗の一宗独立が認定されたわけでもない。もちろん日蓮の孫弟子である日像に一乗圓頓=法華経流布を許可したのであるから、日像の考える法華経=妙法を流布することを朝廷が容認したことは明らかであるが、天台宗の力を恐れていた朝廷が、天台宗から非難されることのないように、玉虫色の文言を使用したわけであり、そのような文言の綸旨しかもらえなかったというのが、当時の日蓮系法華宗の限界であった。
 しかし日蓮系法華宗の歴史をたどってみれば、確かに日蓮と同様に邪宗禁断を要求した国家諌暁を実行した日蓮信奉者は少数ではあってもそれなりにいたが、誰もそれには成功しなかった。国家権力を担う人々にとっては、その国家に有力な宗教が複数ある場合に、どれか一つを選び、残りの宗教勢力を敵にするということは社会の安定という点からも好ましくない選択であり、とうてい受け入れがたい要求なのであるが、日蓮はそれを要求したのである。日興は日蓮の遺志を継承して邪宗診断を要求して国家諌暁を継続したが、それは日興が神天上の法門を信じて、邪宗が繁栄している限りは、いかなる国祷も無効だという信念がなければ、日蓮と同様な国家諌暁をするという単なる日興の自己満足に過ぎないだろう。日興死後に鎌倉幕府が倒れ、やがて南北朝、室町幕府になり、中央集権的支配力が弱体化すると、どの寺院も地元の有力な武士の保護を求めるようになり、大石寺も寄進者の南条氏が地頭職を失い、興津氏が地頭職を持つようになると、日郷系(小泉久遠寺)と日道系(大石寺)両者が興津氏の安堵状を得るために、それなりの費用を支出している記録があるが、堀日亨も先の引用の中で、「況や戦国時代は上下自他共に疲弊の極に達し国諫の大望よりも大金を費して不入の訴訟を成功せざるべからず」と述べている。ここまで寺院が弱体化すると、寺院側では有力な武士や貴族、あるいは富裕な有徳人の子弟を寺院トップにスカウトして何とか寺院を維持、発展させようと努力しなければならなくなる。貧しくなった大石寺が裕福であった要法寺から寺院トップを受け入れることによって、江戸時代に再興がかなったことを見れば、国家諌暁などに何の意味があるのか疑問を覚えざるを得ない。

4 五一相対の今日的意味

 望月歓厚の『日蓮宗学説史』は日蓮宗各派の教義を歴史的に辿った包括的な研究書であるが、発行が昭和43年(1968)と古く、現在の研究水準から見ると不十分な点が多く、また資料の扱いもそれほど厳密ではない。しかも執行海秀の解説によると、大正14年(1925)から昭和21年(1946)に立正大学で行った講義ノートを底本として出版されたものであるから、その研究の古さは否めない。しかし執行が解説で「従来、日興教学については、一致派からは宗祖の教学とは異質なものと見做され、また一方、興門の立場からは、後世における興門教学の本源をなすものとされていた。ところで本書ではかかる説を斥け、日興教学を文献的立場から、第一教学と第二教学に分かち、後世の興門教学の源流を探ると共に、日興教学の本義を解明することに努められている。そしてその結果、日興の教学はなお像末相対の台当判を出でないのであって、後世にいう如き在末判は見られないと結論づけられている。」(同書 p.988)と述べているように、文献学的な研究によって、日興の思想と後世の日蓮本仏論を中心とする日興門流の思想とは別であることを示した意義は失われない。執行は明言していないが、台当相違を主張する日興の第一教学は台当相対を明言しない当時の五老僧を批判の対象としているが、その五老僧の系統を継承している現在の日蓮宗は台当相対を受け入れているから、日興の第一教学は現在の日蓮宗の立場となりうる可能性があるが、日興の系統を継承した日蓮正宗は、その日興の第一教学の思想からさらに変化して、在末相対の日蓮本仏論を主張する別の第二教学を採用してしまったことを指摘している。
 執行海秀の『日蓮宗学説史』は、出版年は『日蓮宗学説史』より古く昭和27年(1952)の出版ではあるが、自序で「本書に於てはそれら教学の変遷を各門流全般に亘って史的に考察し、その間に思想の系列と展開を明らかにせんと務めたのであって、然も特定の信念に基く派別観念に依りて、濫りに教学の当否、正潤を論するものではなく、飽くまで客観的態度を持した積りである。」(同書、p.1)と述べているように、宗派性は薄い研究態度をとっている。日興の教学に関して、「文献批判並に思想的研究の立場から日興の教学を考察すれば、それは後世、興門教学として成立したる伝統教学とは異なるものがあって、伝統の興門教学の如きは、果たして日興教学の本義なりや否や、甚だ疑わざるを得ない。而してこのことは、日興の直弟門下の教学を研究することに依って、一層明らかにされることと思うが、これは章を改めて論述することにしよう」(同書、p.24)と述べて、望月歓厚と同様に、日興教学と伝統的興門教学とを区別し、日興の教学を明らかにするために、日興の直弟子の教学を検討することが必要だとしているが、この研究方法は多くの学者が採用する方法であろうし、私も採用している方法である。
 日興と日昭、日朗らとの対立に関しても「関東派(日昭、日朗)が摂受的で、然も社会順応的な寛容主義をとったのに対し、日興は折伏主義に立脚し、厳粛なる正法護持を主張した。従って前者は教団護持の為に、台家に付順して本迹を明らかにしなかった憾みがある。然るに日興は飽くまで正法護持の立場から、台当本迹の相違を明らかにして、宗義の確立に意を用いたものと見られる。この点から言えば、宗祖教学の正義、われに在りとの日興の自負もまた許されるべきであろう」(同書、p.24)と述べて、興門教学とは区別された日興の教学は、台当相対、本迹相対を明確にした点で日蓮教学の正当を継承していると評価している。
 日興は台当相対を明確にするために、日蓮=上行説を主張したが、日昭、日朗は幕府の厳しい支配下にある鎌倉を拠点としていたために、そのことを公言しなかったのであろうし、同じく延暦寺の支配が厳しかった京都布教を実行していた日朗の弟子、日像も、やはり天台宗を敵にすることは避けたであろう。
 後に三位日順は『摧邪立正抄』で次のように日像門流を批判している。
 「次に富士の義(日興門流)に云はく・日蓮聖人は上行菩薩にて御座す、大宮方(日像門流)には迹化の菩薩と申すは僻見なりと云云。
 尋ねて云はく・自ら是れ本化とも迹化とも其の定め無きに但問付するか、然して其の義を答ふべし、抑も聖人は上行菩薩と申す事は何の御書に見たるや委細其の証拠を引くべし、富士の義に云はく・抑今末法には本門の妙法蓮華経を弘むべし、彼の要の一法をば普賢文殊観音薬王等の大菩薩にも付嘱せず、但地涌の上行等を召して之れを付嘱し玉ふ、今日蓮聖人は妙法の五字を一切の順逆に授け玉へり・豈に上行に非ずや、故に金吾抄(『大田金吾御書(曽谷入道等許御書)』)に云はく・而るに予地涌の一分に非ざるも兼ねて此の事を知り地涌の大士に先つて粗ぼ五字を示す云云、或る抄(『本尊問答抄』)に云はく日蓮は其の人には候はねどもと侍る・是れ等こそ証拠にて候へ。
 反詰して云はく・是れこそ上行にて御坐さざる証拠にて候へ、地涌の一分に非ず・其の人には候はねども候こそ、地涌にて無き証拠にて候へ、所引の次下の文に例せば西王母の先相の青鳥・客人の来るに?鵲の如し、上行菩薩の出で給ふべき先相に・日蓮上人出世せさせ給ひたりとこそ見へたれ、
 次に要の一法は地涌に付嘱して迹化他方に付嘱せずと云ふ事は是れ一往の義なり、再往の実義は一切に付嘱し玉へり、故に観心本尊抄に云はく・地涌の菩薩を以つて首と為し迹化他方乃至梵釈四天等に此の経を嘱累す・猶此の抄の前後を見て能く能く勘ふべし、御抄を相伝せざる富士方は片端を見て邪見を発す堕罪疑ひなきかな、地涌の菩薩出で玉はざる証文・処処之れ多けれども、先づは観心本尊抄に云はく、当に知るべし此の四菩薩は折伏を現する時は賢王と成りて愚王を誡責し・摂受を行ふ時は聖僧と成りて正法を弘持せん。
 富士の義に云はく・末法には一向本化の菩薩出現すべし、正像には迹化の菩薩出現し玉ふべし、而るに日蓮聖人地涌に非ずんば何れの人を化身とは定むべきや疑ひ有り如何、答へて云はく・争てか私に何れの人を化身とは定むべけん、但し観心抄を見るに・其の文分明なり、四依に四類あり・小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現し・大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現し・三に迹門の四依は多分は像法一千年・小分は末法の初なり、是等の文は末法に迹化出つべしと見たり如何、両方の問答・東西水火なり」(『富要』2-47,48『宗全』2-359,360)
 日像門流は日蓮=上行説をさまざな文献資料を使って否定し、日興門流の日蓮=上行説への反論をしていることが示されているが、日像の系統を引く現在の日蓮宗各派で日蓮=上行説を否定する宗派はないだろう。
 日蓮の後継者たちの教団の勢力が弱体であった時代は、弾圧を避けるために、日蓮=上行説も公言せず、鎌倉武士が当然と考える神社参詣も禁止せず、また天台宗の宗号も使用し、天台宗の儀礼の宗教的意義を否定することもなかったが、やがて南北朝、室町時代に入ると、商業関係者に日蓮信奉者が増加し、その援助を期待した後醍醐天皇が日蓮系法華宗の弘通を公認した綸旨を発給し、さらに勅願寺に認定し、また室町幕府も日蓮系の寺院を祈願所に認定したことなどにより、日蓮系教団が社会的に認知され、また上流の武家や公家の出身者を教団トップに迎え入れるという顕密教団と同様な方法で社会的ステータスを確保すると、教団の自立、一円支配という意思が教団の主流をなし、もはや天台宗に遠慮したりせずに、法華宗の宗号を使用し、日蓮=上行説を公言し、神社参詣を含めたかどうかは不明であるが、宗教的一円支配を強めるために不施義(=他宗の寺院への供養、参詣を禁止する)を採用するようになった。日興と直弟子の論争で残っているのは、本尊問題が主要であるが、これは本迹論争とは無関係である。本門の教主である久遠実成釈尊像を本尊とすることが本門に反しているとはさすがの日興も主張できまい。修行に関しても、どちらも唱題行が中心であることは同じであり、読誦行、書写行などは一部の修行者の特殊な修行として残されただけで、メインの相違ではないだろう。
 国祷に関しては、日興門流でも、日興、日目の十三回忌(AN64)を期して、建武新政の時に日目に従って(日目はその途上で亡くなる)後醍醐天皇への国家諌暁を行ったとされる日郷が、再度天奏を企て、後に日向門徒を形成する弟子の薩摩阿闍梨日叡を伴い、京都で日叡に日蓮自筆曼荼羅を授与し、まず寺社管領上杉氏に申状の取次を依頼し、翌日北朝の光明天皇より綸旨(並びに嵯峨帝宸翰の法華経10巻?)を拝領したと記されている。ほぼ同時期に日郷とともに日目に従って京都布教をしていた日尊が亡くなり、日尊の弟子の日大が京都に法華堂を創設することにより、後の日尊門流の分派のきっかけになるなどいろいろな出来事が重なっている。他門流でも日朗、日印所縁の鎌倉本勝寺が日静により京都に移設され本圀寺が建立されるなど大きな出来事が生じている。それぞれの門流が日像の後醍醐天皇の綸旨獲得に刺激されて、門流ごとに綸旨獲得、天皇の勅願寺、幕府の祈願所への認定獲得競争を行っていたと推測できる。その過程では邪宗禁断を訴えても、それが受け入れられることはありえないから、邪宗禁断抜きの国祷を行うという条件で、それらの業績を獲得できたであろうと思われる。
 また佐藤博信の『中世東国日蓮宗寺院の研究』によると、日郷系の妙本寺は室町時代には鎌倉府の祈願寺になっていた(同書、p.31)とのことであるから、当然鎌倉公方、関東管領への国祷を行ったであろう。日興は単に国主帰依だけではなく、さらに厳しい邪宗禁断を国祷の条件にしたが、日興門流でも、邪宗禁断なしに日像と同様に、緩やかな国主帰依(勅願寺、祈願所認定)により、国祷を行ったと推定する根拠はある。また京都の日尊門流では法印などの僧位を授与されているから、ある程度の国祷は行っていたと推定される。
 要法寺日辰の『祖師伝』には日尊の弟子の日大の系統である住本寺について、「日大の弟子日源一条猪熊に於いて法華堂を建立し本実成寺と号す、其の後二条堀河に移って寺を立て住本寺と号す西は是堀河なり、東は是油小路なり、東山慈勝院(義政)の母を勝鬘院(日野重子)と号す院の御局を高倉の局と号す、勝鬘院より住本寺に書を与ふ其の文に云はく一条猪熊の寺地細川上総介違乱申すに付いて替地を二条堀河に下さる取意、勝鬘院の御自筆なり高参と書かるゝなり、将軍普広院(義教)の妻勝鬘院難産なり、諸薬諸僧祈療を成すと雖も未だ産門に向はず、諸宗の中に誰か修験の行者なる、或は云はく法華宗の中に住本寺の日広は行法第一なりと之に依つて祈祷を請ふ、日広云はく当宗法度に受法無きには祈祷を作さずと、故に勝鬘院の代授法す、日広之れを祈り即東山慈勝院誕生し玉ふ、慈勝院殿御息浄徳院(義尚)御逝去の時日法位牌を奉る、位牌の銘に云はく妙法蓮華経浄徳院殿一品相府悦山大居士と、是の故に住本寺に於いて三将軍の位牌を立つ、謂く普広院慈勝院浄徳院なり、将軍御他界の時は一部経を書いて相国寺に贈る、相国寺の僧梵桂の請取の書状住本寺に在り」(『富要』5-52,53)とあり、義教、義政、義尚の三代将軍と関係があったこと、将軍が亡くなった時には、法華経一部を書写して、献上したことを記している。
 大石寺、北山本門寺の場合は、国家諌暁の努力も実を結ぶことなく、天皇の綸旨や、勅願寺、祈願所認定はなかったようであるから、国祷はなかったかもしれない。しかし日興門流の伝説には、日蓮が晩年朝廷に諌暁し、それが園城寺申状として残っており、また天皇より「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」という下文を拝領したという話があり、その二つの文書と日蓮御影を大石寺の三箇の重宝として弟子たちに守護するよう日興が定めたという置文まであるというが、状況証拠的にはそれは歴史的事実ではありえない話であるが、そのような伝説が生じた背景には、大石寺のライバルである日郷が光明天皇の綸旨を獲得したという出来事に刺激されたのかもしれない。
 大黒喜道は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(二)」において、日興の本迹相対には、「宗祖教学の非常に大きな特徴である化導の始終、つまり種熟脱の三益に対する言及はほとんど見られず、それゆえ宗祖が『観心本尊抄』に説かれた『彼れは脱・此れは種』という対比を取り上げて、釈尊を相対化するという作業も当然行われていない。上行・日蓮の選び取りはあくまでも像末二時の相対に基づく天台・伝教との比較にとどまり、たとえば宗祖が釈尊との対比の中で示した摂受・折伏の立て分けなども、『五人所破事』では五老僧および天台家の一部読誦か五字題目かという修行の当否を論ずる中で用いられているのみである。 そして、このように日興師が釈尊の相対化に論究していないという事実は、その本尊観にも如実に反映していると判断される。つまり、多少の揺らぎを見せながらも、宗祖図顕の十界曼荼羅本尊と共に釈尊および上行等の一尊四士像が末法適時の本尊として許容されている理由は、まさしくこの釈尊の非相対化にあると言える。また宗祖御影像を明確な形では本尊と定義せず、その造立目的を宗祖の相貌を後人に伝えるためとするのも、全く同じ理由によるものと考えられる。ただ、この御影像に関しては、素朴な始祖信仰という力添えを得て、その後次第に本尊格へと昇華していったものと想定される。」(同論文、p.7,8)と述べて、日興の本迹論は像末相対の台当相違を論ずるものであり、後の日蓮正宗の日蓮本仏論を基本とする種脱相対ではなかったと望月歓厚、執行海秀と同様な主張している。
 歴史の長い流れの中で見てみると、日興の曼荼羅本尊正意説も、大石寺の日蓮本仏論による日蓮御影=久遠元初仏像の安置によって、ないがしろにされ、結局本尊論に関して日興の正統を継承する宗派は、ほぼ常住本尊、日蓮御影を授与されなかった、戦後急速に拡大した創価学会や顕正会のような日蓮正宗系の在家教団だけのようである。日興と五老僧の論争はその時代にはそれなりの意味があったが、教団の発展とともに、教団を取り巻く状況が変わり、教団の主張も変化すると、もはや有意味な論争とは言えなくなってしまう。
 日蓮正宗、創価学会は日興が日蓮の正義を継承し、その日興の教えを、日蓮正宗、創価学会が継承していると主張してきたが、私は、まず日興の思想とはどんなものかということを確実な資料を基にして解明するという作業をした。ついで日興の思想は、日蓮の確実な思想と思われるものと、どのような関係があるのか、ということを解明しようとした。そのような作業によって解明されたことは、本尊論に関しては、日興は初期の『原殿御返事』の頃には、一尊四士の同時造立を容認していたが、やがて末法折伏の世には釈迦仏像を本尊とするのではなく、曼荼羅のみを本尊とするという意見に変化していった。そして釈迦仏像は国主帰依の広宣流布の時に造立するということを三位日順や西山日代に教示していた。日蓮の『観心本尊抄』では釈迦仏像と曼荼羅の両方が本尊として認められていたが、『本尊問答抄』では、曼荼羅本尊を強調して、釈迦仏像を本尊とすることに否定的であると解釈されるような文言もある。大黒喜道は、日蓮は二種類の本尊を認めたが、逆縁広布の時代には曼荼羅を、順縁広布の時代には釈迦仏像を本尊とするように考えていたのではないかと推論したが、もしこの推論が成立すれば、日興が逆縁広布の折伏の時代には曼荼羅を本尊とするようにと主張したことは、日蓮の真意の一部分に基づくかもしれない。しかし『富士一跡門徒存知事』などで、国主帰依の時の本門寺建立に言及しながらも、その時の本尊が曼荼羅ではなく、仏像であるということを明言していないのは日興の曼荼羅偏向と批判されてもやむを得ないだろう。日興の思想を解明し、それと日蓮の思想とを関係づけるという理論的作業はここで終わる。
 だが問題は何も解決されていない。なぜならそれでは現在何を本尊にすればよいのかということがここから論理的に導き出されるわけではないからだ。日蓮、日興の思想にあくまでも従うという原理主義を採用するならば、もし現在がまだ逆縁広布の時代だと判断すれば、曼荼羅本尊を主張するだろうし、もし現在が順縁広布の時代であると判断すれば、釈迦仏像本尊を許容するだろう。しかしそもそもなぜ仏教、日蓮仏法において本尊が必要なのか、本尊とは信仰にとってどのような働きをするのかという、宗教哲学的、場合によっては宗教社会学的問題を提出した場合、日蓮、日興に、その答えがあるだろうか。日蓮は、中世日本仏教という宗教伝統の中で、自分の思想を形成してきた。日蓮が生きた時代には、仏教にとって仏像、曼荼羅という本尊は当然必要な文化伝統として継承されてきた。釈尊が亡くなって、ギリシャ文化と融合するまで、仏像本尊など仏教には存在しなかったという歴史的事実に関して日蓮は知りえなかった。しかし歴史学的研究がある程度進んだ我々の文化においては、本尊がない仏教の時代を知っている。しかも本尊という偶像崇拝を禁止する世界宗教としてイスラム教が世界人口のそれなりの部分を占めていることも分かっている。もし日蓮仏法をイスラム圏に弘めようとするならば、なぜ本尊が必要なのかを、なんらかの形で説明しなければならないだろう。これは日蓮、日興の時代には存在しなかった問題であり、日蓮、日興に答えを求めても無駄である。
 世界広宣流布ということを目標にする場合には、もはや日蓮、日興の思想だけでは不十分であり、また現代の文化の中で、中世武家社会に生きていた日蓮、日興が持っていた思想で受容できないものもそれなりに多い。日蓮、日興は天変地異が邪宗を原因として起こるという思想を持っていたが、現在の文化の中では、宗教と自然現象との間には、直接的な因果関係はないというのが支配的な見解である。日蓮は仏法の正邪を判定するために、祈雨という宗教的儀礼の有効性で決着をつけようとした。現在の日蓮信奉者は、さまざまな宗派に分かれているが、そのいずれが正しいかを、日蓮と同じように、なんらかの祈祷競争を行い、それの結果によって判断しようと考える者はいないだろう。それは現在の日蓮信奉者にとっても、現在の支配的文化を受け入れて、その文化が許容する範囲で日蓮仏法を信仰するしかないからだ。
 あるいは日蓮は『涅槃経』の国王付属の思想を受け入れ、『立正安国論』でも有徳王の事例を引用して、国主による強権発動によって、邪宗を禁止するという思想があり、日興もその思想を継承している。そこに至る過程で公場対決という合理的プロセスを含んでいるが、日蓮は天台大師、伝教大師の時代に国王臨席のもとで公場対決があったという誤った歴史認識を持って、それを幕府に要求した。寺社の顕密体制を一つの柱とする中世日本社会で、その体制を破壊するようなことを、もう一つの柱に過ぎない武家政権ができようはずもなく、権力をめぐる社会学的考察ができれば、日蓮だってそのようなことが社会の不安定化をもたらすということぐらいは分かってもよいはずだとは思うが、誤った歴史認識に基づく信仰によって、強硬に公場対決の要求、国主による邪宗禁断の要求へと進んでしまった。現在でも思想、信条、信仰の自由が十分に認められている社会はそれほど多くはないが、先進国といわれる国家群では思想の自由が最も大事な市民の権利であるという共通認識はあるだろう。その共通認識から見れば、やはり日蓮、日興の国王付属の思想は受け入れがたいものがある。
 さらに日興には富士戒壇論がある。私は『三大秘法抄』を日蓮親撰とは思っていないが、日蓮が延暦寺の大乗戒壇を高く評価し、それをモデルに本門の戒壇を建立すべきだと考えていたと推測している。日蓮はその本門の戒壇の建立場所は何も考えていなかったと推定できるが、日興は富士山麓をいくつかの理由によって戒壇建立の場所とした。『富士一跡門徒存知事』には「五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直ちに寺塔を立てたもう。所謂大唐の天台山・本朝の比叡山是れなり。而るに彼の本門寺に於ては先師・何れの国・何れの所とも之を定め置かれず、と。 爰に日興云く、凡そ勝地を選んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河国・富士山は、是れ日本第一の名山なり。最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由、奏聞し畢んぬ。広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」(『富要』1-56,57『宗全』2-125)と述べ、富士山が日本一の名山であるから、そのに建立すべきだと天皇に奏聞したことを述べる。しかし天台山も比叡山も名山であったかは疑問の余地があるから、日興の主張は恣意的である。
 さらに『富士一跡門徒存知事』には「一、王城の事。 右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中仏法は王法と本源躰一なり。居処随つて相離るべからざるか。仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり」(『富要』1-57『宗全』2-125)と富士山麓に遷都することを主張している。私が大学生の時、初めてこの箇所を読んだとき、日興の思考方法に非常に違和感を覚えた記憶がある。富士山麓は確かに土地は広大だが、水が不足し、しかも地震、噴火の危険性が高いから、首都機能を移転するには不適切であると思われるが、日興はそういうことは一切考慮せず、宗教的理由からのみ、遷都を主張している。日興の正統を継承していると自負する日蓮正宗でもさすがに富士山麓への遷都を主張してはいないようだ。
 これらの議論が示すことは、日蓮、日興の思想であっても、現代の文化において受け入れがたいことは、拒否しなければならないということである。その意味で、日蓮、日興原理主義は、文化的世界像の相違により、思想としては説得力を失わざるを得ない。我々日蓮信奉者は、現在の文化的、社会的状況の中で、世界広宣流布をどのようなものとして構想し、そのために何をしなければならないかを、宗教哲学、ならびに宗教社会学の知見を参考にしながら、検討しなければならないと、私は考えている。その中で日蓮系教団が様々な理由で互いに正統争いをしているようであるが、その争いが人類救済を目標とする世界広宣流布にとって意味のあるものであれば、大いに論争すべきであるが、過去の様々な対立を引きずっているだけで、世界広宣流布にとって意味がないものであれば、そんな論争に関わるのは、時間とエネルギーの浪費に過ぎない。私には少なくとも日興の五一相対の議論は今日的意味を失っていると思われる。

使用テキスト

 日蓮の御書関係はSOKANETからコピペした。日興の文献でnb資料室に掲載されているものはそれを利用した。それ以外の日興関係資料は山中講一郎作成とされる私家版電子ファイルを使用させていただいた。

略称
『興全』日興上人全集編纂委員会編『日興上人全集』興風談所 1995
『宗全』立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗学全書』山喜房仏書林巻数と頁数のみを付けた
『詳伝』堀日亨『富士日興上人詳伝』上下 聖教文庫版
『創』創価学会版『日蓮大聖人御書全集』
『定』立正大学宗学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』
『富士年表』『日蓮正宗富士年表』富士学林、1981
『富要』堀日亨編『富士宗学要集』巻数と頁数のみを付けた
『歴法』『日蓮正宗歴代法主全書』大石寺、1972-

著作
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、18984
『日興上人御本尊集』興風談所、1996
『日興門流上代事典』大黒喜道編著 興風談所、2000
『日蓮正宗要義』日蓮正宗宗務院、1978
『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』同刊行会、1986
『本尊論資料』改訂版 身延山短期大学出版部編 臨川書店、1998

川添昭二『日蓮と鎌倉文化』平楽寺書店、2002
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』思文閣出版、2007
佐藤博信『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003
執行海秀『日蓮宗学説史』平楽寺書店、1988、第10刷
高橋粛道『日興上人御述作拝考1』仏書刊行会、1983
高橋粛道『日蓮正宗史の研究』妙道寺事務所、2002
中條曉秀『日蓮宗上代教学の研究』平楽寺書店、1996
日寛『六巻抄』創価学会、1960
望月歓厚『日蓮宗学説史』平楽寺書店、1968

論文
東佑介「富士大石寺における御影本尊論の形成と展開」『法華仏教研究』第2号 2010
池田令道「無年号文書・波木井日円状の系年について」『興風』第11号 1997
大黒喜道「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼荼羅本尊のこと―」『佐渡日蓮研究』第3号 2010
大黒喜道「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(二)」『興風』第15号 2003
坂井法曄「重須本門寺と大石寺」『興風』第11号 1997
菅原関道「『日興上人御遺告』を拝す(一)『天台沙門』と号せらる申状は大謗法の事」『興風』第7号 1991
菅原関道「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」『興風』第11号 1997
菅原関道「保田妙本寺所蔵の『日蓮遺文等抄録』について」『興風』第14号 2002
山上弘道「日蓮大聖人の思想(五)」『興風』第15号 2003
山上弘道「『富士一跡門徒存知事』について」『興風』第19号 2007

PDFファイル
池田令道『富士門流の信仰と化儀』
寺尾英智『中世日蓮宗における造像活動について』

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