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『御義口伝』『御講聞書』の成立過程への一考察。円明日澄『啓運抄』の「御義」の引用箇所を手掛かりにして

 どの日蓮宗各派の教学書にも、「五綱」もしくは「五義」の「教」に関する記述で『開目抄』に「五重の相対」があると書かれているようだが、私の見るところでは第五の「種脱相対」については、『開目抄』では論じられていないのだが、『開目抄』「五重の相対」説はいつごろから主張されたのか調べる過程で、延宝八年(1680)『観心本尊抄日常見聞』にはあるが、それ以前には見当たらないので、興風談所の「統合システム」に収録されている「日蓮門下」の資料を調べている過程で、円明日澄の『啓運抄』を調べることとなった。『啓運抄』は『御義口伝』の引用初出で知られるが、執行海秀の『御義口伝の研究』では『啓運抄』の2か所の引用があげられるのみで、詳細な引用研究はない。たまたま『啓運抄』の「御義」の引用箇所を調べたら、『御義口伝』の引用のみならず、『御講聞書』の引用も大量に出てきた。両者の引用の仕方に区別はなく、私は『御義口伝』と『御講聞書』の両者が混在している「プロト御義集」の存在を仮定した。以下に『啓運抄』の「御義」の引用箇所とそれに対応する『御義口伝』『御講聞書』の個所を対比させる。
 なお『啓運抄』の引用は、興風談所の「統合システム」に収録されている電子ファイルをダウンロードしたものを使用している。桐の利用方法に慣れないので、ページごとにコピペしてword文書にしたため、出典のページ番号は提示できないので、『啓運抄』の巻番号のみを最初に示し、次いで、『啓運抄』の「御義」の引用箇所を示し、次に対応する『御義口伝』『御講聞書』(『昭和定本』からの引用ページ番号は省略)の文章を示した。なお『啓運抄』の文章の中に『御義口伝』『御講聞書』の対応箇所と思われる部分の表題を(  )内に記載した。
 以下に私の所見を簡単に述べる。

1 現行の『御義口伝』『御講聞書』の成立は円明日澄の『啓運抄』(文亀三年(1503))以降であること。
『啓運抄』で「御義」を検索して、調べると、現行の『御義口伝』の引用のみならず、『御講聞書』の引用も多数見られる。したがって、『啓運抄』成立の頃には、「プロト御義集」のような資料が存在し、後に『御義口伝』と『御講聞書』に分離、成立した。現行の『御講聞書』は戸田妙顕寺所蔵の写本の成立が明応九年(1500)とされているが、『啓運抄』は延徳四年(1492)に草案が成立していたことが明示されており、現行の『御講聞書』とは別系統の資料によると思われる。

2 『啓運抄』で引用される「御義」の部分には、現行の『御義口伝』『御講聞書』に含まれていない文章がある。ほぼ一致する部分は下線で示し、対応する個所がない部分は波線
で表示する。この部分は『御義口伝』『御講聞書』作成の過程で、「プロト御義集」から削除された部分と考えられる。(HPでは下線、波線が表示できないので、申し訳ないが、ご自分で判断していただきたい。)

3 現行の『御義口伝』や『御講聞書』に全く対応箇所を見つけられない『啓運抄』の「御義」の個所もあった。「◆啓運抄巻の十四 方便品六」に1箇所。「◆啓運鈔巻の二十三 薬草喩品上」に1箇所。「◆啓運抄巻四十七/ 神力品全」に1箇所。

4 『啓運抄』の日澄の記述部分が、『御義口伝』の記述に組み入れられたと推測できる箇所もあった。「◆啓運鈔巻の二十二 信解品下/」に1箇所。

5 『御講聞書』には「根茎枝葉の事」が2箇所収録されているが、『啓運抄』の引用では両者が入り混じって引用されているので、元は一つの文章であったと推測できる。「◆啓運鈔巻の二十三 薬草喩品上」
また『御講聞書』の「等雨法雨の事」も2箇所収録されているが、『啓運抄』では1箇所に纏まって引用されているので、元は一つの文章であったと推測できる。「◆啓運鈔巻の二十三 薬草喩品上」

6 なお「当体蓮華抄」が「御義」として使用されている箇所があった。「◆啓運鈔巻三十 宝塔品上」。『啓運抄』では「当体蓮華抄」の名称は使用されていないので、「当体蓮華抄」が「プロト御義集」に含まれていた可能性がある。

7 『御義口伝』の「無量義経」「普賢経」の部分は、『啓運抄』の末尾の「◆啓運抄巻五十五/ 普賢品全」に収録されているが、『御義口伝』の「第一 無量義経徳行品第一の事」の記述については、『啓運抄』の記述が遥かに詳細である。「プロト御義集」から『御義口伝』への編集過程で、大幅な削除が生じたと思われる。

8『御義口伝』は品ごとに編集されているが、『御講聞書』にはどの品に収録すべきか判断できない個所が相当ある。ただ明確にどの品か判定できる個所もあるので、『御講聞書』がどのような編集意図で編集されたかは不明である。

友人から、『興風』にすでに発表済みの論文があると指摘され、調べてみると『興風』第32号(2020)に山上弘道氏の「円明日澄の著述を初出とする偽撰遺文について――『法華啓運抄』を中心として――」が掲載されていた。付箋が付いていたので、2年前に読んだことは確かだが、老化現象で記憶から全く抜けていた。山上論文への言及を欠いたのは先行研究への配慮不足で私のミスであり、山上氏にお詫びいたします。(2023.2.8付記)
◆啓運抄巻の一 首題見聞上

高祖の御義(御義口伝 南無妙法蓮華経)に云く、随縁不変一念寂照と云う〈本〉随縁〈迹〉不変は本迹なり。一念は題目の五字なり。されば本迹一念の題目なり。寂は不変なり。照は随縁なり。又(御義口伝 南無妙法蓮華経)云く、妙は法性、法は無明なり。無明と法性の体一なるを妙法と云うなり云々

御義口伝 南無妙法蓮華経
 御義口伝に云く、南無とは梵語なり。此には帰命と云ふ。帰命に於て人法之れ有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり。又云く、帰と云ふは迹門不変真如の理に帰するなり。命とは本門随縁真如の智に命くなり。帰命とは南無妙法蓮華経是れなり。釈に云く「随縁と不変と一念の寂照なり」。又帰とは我等が色法なり。命とは我等が心法なり。色心不二なるを一極と云ふなり。釈に云く「一極に帰せしむ、故に仏乗と云ふ」矣。又云く、南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり。梵漢共時に南無妙法蓮華経と云ふなり。又云く、梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云ふ。此れには妙法蓮華経と云ふなり。薩は妙なり。達磨は法なり。芬陀梨伽は蓮華なり。蘇多覧とは経なり。九字は九尊の仏体なり。九界即仏界の表示なり。妙とは法性なり。法とは無明なり。無明法性一体なるを妙法と云ふなり。蓮華とは因果の二法なり。是れ又因果一体なり。経とは一切衆生の言語音声を経と云ふなり。釈に云く「声仏事を為す、之れを名づけて経と為す」。或は三世常恒なるを経と云ふなり。法界は妙法なり、法界は蓮華なり、法界は経なり、蓮華とは八葉九尊の仏体なり。能く能く之れを思ふべし。已上。

◆啓運抄巻の二 首題見聞の下/

御義(御講聞書 妙法蓮華経序品第一の事)に云く、二十八品は影の如く、ひびきの如し。題目の五字は体の如く、音の如し。題目を唱え奉る音は十方世界にとつかずと云う所なし。我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる処なし。譬えば小音なれども、貝に入れて吹く時は遠くひびくが如く、手のをとははつかなれども、鼓を打つに遠くひびくが如し。一念三千の大事の法門は是れなり。又(御義口伝 譬喩品 第七 以譬喩得解の事)云く、五の鏡あり。妙の鏡には法界の不思議を浮かべたり。法の鏡には法界の体を浮かべたり。蓮の鏡は法界の果を浮かべたり。花の鏡は法界の因を浮かべたり。経の鏡には万法の言語を浮かべたり。又云く、妙鏡には華厳を浮かべ、法鏡には阿含を浮かべ、蓮の鏡には方等を浮かべ、花の鏡には般若を浮かべ、経の鏡には法華を浮かべるなり。又(同)云く、我等衆生の五体・五輪は妙法蓮華経と浮かび出たる間、宝塔品を以て鏡と習うなり。信謗の浮かび様は、能く能くこれを思うべし。自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是れなり云々。

御講聞書 一 妙法蓮華経序品第一の事
 玄旨の伝に云く「一切経の総要とは、妙法蓮華経の五字を謂ふなり」。又云く「一行一切行恒修此三昧云云。云ふ所の三昧とは、即ち法華の有相無相の二行なり。此の道理を以て法華経を読誦せん行者は、即ち法具の一心三観なり」云云。此の釈に一切経と云ふは、近くは華厳・阿含・方等・般若等なり。遠くは大通仏より已来の諸経なり。本門の意は寿量品を除きて其の外の一切経なり。総要とは天には日月、地には大王、人には神・眼目の如くなりと云ふ意をもって釈せり。此れ即ち妙法蓮華経の枝葉なり。一行とは妙法の一行に一切行を納めたり。法具とは題目の五字に万法を具足すと云ふ事なり。然る間三世十方の諸仏も、上行菩薩等も、大梵天王・帝釈・四王・十羅刹女・天照太神・八幡大菩薩・山王二十一社、其の外日本国中の小神大神等、此の経の行者を守護すべしと法華経の第五の巻に分明に説かれたり。影と身と音と響きとの如し。法華経二十八品は影の如く響きの如し。題目の五字は体の如く音の如くなり。題目を唱へ奉る音は十方世界にとづかずと云ふ処なし。我等が小音なれども題目の大音に入れて唱へ奉る間、一大三千界にいたらざる所なし。譬へば小音なれども貝に入れて吹く時遠く響くが如く、手の音わずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し。一念三千の大事の法門是れなり。かかる目出度き御経にて渡らせ給へるを、謗る人何ぞ無間に堕在せざらんや。法然・弘法等の大悪知識是れなり云云。

御義口伝 第七 以譬喩得解の事
 止観の五に云く「智とは譬に因るに斯の意徴有り」矣。
 御義口伝に云く、此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝ふるなり。総じて鏡像の譬とは、自浮自影の鏡の事なり。此の鏡とは一心の鏡なり。総じて鏡に付きて重々の相伝之れ有り。所詮 鏡の能徳とは万像を浮かぶるを本とせり。妙法蓮華経の五字は万像を浮かべて一法も残る物之れ無し。又云く、鏡に於て五鏡之れ有り。妙の鏡には法界の不思議を浮かべ、法の鏡には法界の体を浮かべ、蓮の鏡には法界の果を浮かべ、華の鏡には法界の因を浮かべ、経の鏡には万法の言語を浮かべたり。又云く、妙の鏡には華厳を浮かべ、法の鏡には阿含を浮かべ、蓮の鏡には方等を浮かべ、華の鏡には般若を浮かべ、経の鏡には法華を浮かぶるなり。順逆次第して意得べきなり。我等衆生の五体・五輪妙法蓮華経と浮かび出でたる間、宝塔品を以て鏡と習ふなり。信謗の浮かび様能く能く之れを案ずべし。自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是れなり云云。

◆啓運抄巻の六 序品見聞四/

高祖の御義(御義口伝 序品 第三 阿闍世王の事)に云く、日本国の一切衆生は阿闍世王なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。無量義経に云く、諸仏の国王と此の経の夫人と和合して共に此の菩薩の子を生ず云々。謗法の人人は母の胎内に処しながら法華経の怨敵たり。豈に未生怨にあらずや云々。其の上、日本国の当世は三類の強敵たり。世者名悪の四字に心を留めてこれを思うべし。今、日蓮等の類は此の重罪を脱れたり。謗法の人人が法華経を信じ、釈尊に帰し奉れば、何ぞ已前の殺父殺母の重罪は滅せざるや云々。権教に愛をなす母、方便と真実を明らめざる父をば殺害すべしと見えたり。文句の二に云く、貪愛の母と無明の父を害す。此の故に逆と称す。逆即順なり云々。自ら逆等の類は阿闍世王なり。其の故は南無妙法蓮華経の利剣を取って貪愛・無明の父母を害して釈尊の如く仏果を感得するなり。貪愛の母は勧持品の三類の中の第一の俗衆なり。無明の父とは第二・第三の邪智と説けり。

御義口伝 第三 阿闍世王の事

御義口伝に云く、日本国の一切衆生は阿闍世王なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。無量義経に云く「諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生む」矣。謗法の人、今母の胎内に処しながら法華の怨敵たり。豈に未生怨に非ずや。其の上日本国当世は三類の強敵なり。「世者名怨」の四字、心を留めて之れを案ずべし。日蓮等の類此の重罪を脱れたり。謗法の人々法華経を信じ釈尊に帰し奉らば、何ぞ已前の殺父殺母の重罪滅せざらんや。但し父母なりとも法華経不信の者ならば殺害すべきか。其の故は権教に愛を成す母、権教方便真実を明らめざる父をば殺害すべしと見えたり。仍って文句の二に云く「観解は貪愛の母無明の父、此れを害する故に逆と称す。逆即ち順なり。非道を行じて仏道に通達す」。観解とは末法当今は題目の観解なるべし。子として父母を殺害するは逆なり。然りと雖も法華経不信の父母を殺しては順となるなり。爰を以て逆即是順と釈せり。今日蓮等の類は阿闍世王なり。其の故は南無妙法蓮華経の剣を取りて貪愛無明の父母を害して教主釈尊の如く仏身を感得するなり。貪愛の母とは、勧持品三類の中、第一の俗衆なり。無明の父とは第三の僧なり云云。

◆啓運抄巻の七 別序上/

高祖の御義(御義口伝 序品 第四 仏所護念)に云く、唯我一人能為救護の護念は毎自作是念の念是れなり。日蓮、生年より三十二に至るまで南無妙法蓮華経を護念するなり云々。

御義口伝 第四 仏所護念の事
 文句の三に云く「仏所護念とは、無量義処は是れ仏証得したまふ所なり。是の故に如来の護念したまふ所なり。下の文に仏自住大乗と云へり。開示せんと欲すと雖も衆生の根鈍なれば、久しく斯の要を黙して務ぎて速やかに説き給はず。故に護念と云ふ」。記の三に云く「昔未だ説かず、故に之れを名づけて護と為す。法に約し機に約し皆護念する故に、乃至時機仍未だ発せず隠して説かざる故に護念と言ふ。乃至未説を以ての故に護し、未暢を以ての故に念ず。久黙と言ふは昔より今に至るなり。斯要等の意之れを思ひて知るべし」。
 御義口伝に云く、此の護念の体に於ては本迹二門、首題五字なり。此の護念に於て七種の護念之れ有り。一に時に約し、二に機に約し、三に人に約し、四に本迹に約し、五に色心に約し、六に法体に約し、七に信心に約すなり云云。今日蓮等の類、護念の体を弘むるなり。一に時に約すとは、仏法華経を四十余年の間未だ時至らざる故に護念し玉ふなり。二に機に約すとは「破法不信故墜於三悪道」の故に前四十余年の間に未だ之れを説かざるなり。三に人に約すとは、舎利弗に対して説かんが為なり。四に本迹に約すとは護を以て本と為し、念を以て迹と為す。五に色心に約するとは、護を以て色と為し、念を以て心と為す。六に法体に約すとは、本有常住なり一切衆生の慈悲心是れなり。七に信心に約すとは、信心を以て護念の本と為すなり。所詮 日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは併しながら護念の体を開くなり。護とは仏見なり、念とは仏知なり。此の知見の二字本迹両門なり。仏知を妙と云ふなり。仏見を法と云ふなり。此の知見の体を修行するを蓮華と云ふなり。因果の体なり。因果の言語は経なり。加之法華経の行者をば三世の諸仏護念し玉ふなり。普賢品に云く「一には諸仏に護念せらるること為」矣。護念とは妙法蓮華経なり。諸仏法華経の行者を護念し玉ふは妙法蓮華経を護念し玉ふなり。機法一同護念一体なり。記の三の釈に「法に約し機に約して皆護念したまふ故」と云ふは此の意なり。又文句の三に云く「仏所護念とは前の地動瑞を決定するなり」。地動は六番破惑を表するなり。妙法蓮華経を受持する者、六番破惑疑ひ無きなり。神力品に云く「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」。「仏は自ら大乗に住したまへり」とは是れなり。又一義に、仏の衆生を護念したまふ事は、護とは「唯我一人 能為救護」、念とは「毎自作是念」是れなり。普賢品に至りて「一者為諸仏護念」と説くなり。日蓮は生年三十二より南無妙法蓮華経を護念するなり。

◆啓運抄巻の八 〈別序の下〉/

高祖の御義(御義口伝 二十八品に一文充の大事 序品)に、無漏実相において、心に已に通達することを得たり〈已に得たる通達なり〉

御義口伝 二十八品に一文充の大事 序品
  十界なり 始覚
 無漏実相に於て 心に已に通達することを得たり〈すでにえたる通達なりと〉
  妙法 不変・随縁

 高祖の御義(御義口伝 序品 第五 下至阿鼻地獄)に云く、十界皆成の文なり。提婆が成仏は此の文に分明なり。天王仏は宝号を遂げるまでなり。下至阿鼻地獄は依報の成仏、天王仏は正報の成仏なり云々

御義口伝 第五 下至阿鼻地獄の事
 御義口伝に云く、十界皆成の文なり、提婆が成仏此の文にて分明なり。宝塔品の次に提婆が成仏を説く事は二箇の諫暁の分なり。提婆は此の文の時成仏せり。此の至の字は白毫の行く事なり。白毫の光明は南無妙法蓮華経なり。上至阿迦尼天は空諦、下至阿鼻地獄は仮諦、白毫の光は中道なり。之れに依りて十界同時の成仏なり。天王仏とは宝号を送るまでなり。去て依正の二報の成仏の時、此の品の下至阿鼻地獄の文は依報の成仏を説き、提婆達多の天王如来は正報の成仏を説く。

◆啓運抄巻の九 方便品見聞一/

御義(二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 方便品)に云く、妙法の方便、蓮華の方便なれば秘妙なり、清浄なり云々。高祖の御義(御義口伝 方便品 第一 方便品の事)に云く、大謗法の人たりと云へども、妙法蓮華経を持ち奉る処を妙法蓮華経方便品とは云うなり。今、末法に入っては正しく日蓮等の類の事なり。妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入れるを妙法蓮華経方便品とは云うなり。此れを即身成仏とも、本末究竟等とも説くなり。方便とは十界なり。又は無明なり。妙法蓮華経は十界の頂上なり。又は法性なり。煩悩即菩提・生死即涅槃是れなり云々。妙法蓮華経は九識なり。方便は八識已下なり。方とは十方なり。十方即十界なり。便とは十界を不思議と云う事なり云々。


御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 一 方便品
 御義口伝に云く、此の品には十如是を説く。此の十如是とは十界なり。此の方便とは十界三千なり。既に妙法蓮華経を頂く故に十方仏土中唯有一乗法なり。妙法の方便、蓮華の方便なれば秘妙なり、清浄なり。妙法の五字は九識、方便は八識已下なり。九識は悟りなり。八識已下は迷ひなり。妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟不二なり。森羅三千の諸法、此の妙法蓮華経の方便に非ずと云ふ事無きなり。品は義類同じきなり。義とは三千なり。類とは互具なり。同とは一念なり。此の一念三千を指して品と云ふなり。此の一念三千を三仏合点し玉へり。仍って品々に題せり。南無妙法蓮華経の信の一念より三千具足と聞こへたり云云。

御義口伝 第一 方便品の事
 文句の三に云く「方とは秘なり、便とは妙なり、妙に方に達する即ち是れ真の秘なり。内衣裏の無価の珠を点ずるに、王の頂上の唯一珠有ると二無く別無く、客作の人を指すに是れ長者の子と亦二無く別無し。此の如きの言は是れ秘是れ妙なり。経の、唯我知是相 十方仏亦然 止止不須説 我法妙難思の如し。故に秘を以て方を釈し、妙を以て便を釈す、正しく是れ今の品の意なり、故に方便品と言ふなり」矣。記の三に云く「第三に秘妙に約して釈すとは、妙を以ての故に即なり。前四時に通ぜしめんと欲する為に円を以て即と為し、三を不即と為す。故に更に不即に対して以て即を釈す」矣。
 御義口伝に云く、此の釈の中に一珠とは衣裏珠即頂上珠なり。客作の人と長者の子と全く不同之れ無し。所詮 謗法不信の人は体外の権にして、法用・能通の二種の方便なり。爰を以て無二無別に非ざるなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是れ秘妙方便にして体内なり。故に妙法蓮華経と題し次に方便品と云へり。妙楽の記の三の釈に、本疏の「即是真秘」の即を「以円為即」と消釈せり。即は円なれば法華経の別名なり。即とは凡夫即極・諸法実相の仏なり。円とは一念三千なり。即と円と言葉は替はれども妙の別名なり。一切衆生、実相の仏なれば妙なり、不思議なり。謗法の人今之れを知らざる故に之れを秘と云ふ。又云く、法界三千を秘妙とは云ふなり。秘とはきびしきなり、三千羅列なり。是れより外に不思議之れ無し。大謗法の人たりと云ふとも、妙法蓮華経を受持し奉る処を妙法蓮華経方便品とは云ふなり。今末法に入りて正しく日蓮等の類の事なり。妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るを妙法蓮華経方便品とは云ふなり。是れを即身成仏とも、如是本末究竟等とも説く。又方便とは十界の事なり、又は無明なり。妙法蓮華経は十界の頂上なり、又は法性なり。煩悩即菩提・生死即涅槃是れなり。以円為即とは一念三千なり。妙と即とは同じ物なり。一字の一念三千と云ふ事は円と妙とを云ふなり。円とは諸法実相なり。円とは釈に云く「円は円融円満に名づく」。円融は迹門、円満は本門なり。又止観の二法なり。又我等が色心の二法なり。一字の一念三千とは恵心流の秘蔵なり。口は一念なり、員は三千なり。一念三千とは不思議と云ふ事なり。此の妙は前三教未だ之れを説かざる故に秘と云ふなり。故に知んぬ、南無妙法蓮華経は一心の方便なり。妙法蓮華経は九識なり、十界は八識已下なり。心を留めて之れを案ずべし。方とは即十方、十方は即ち十界なり。便とは不思議と云ふ事なり云云。

高祖の御義(御義口伝 方便品 第二 諸仏智恵 甚深無量 其智恵門)に云く、竪は本門、横は迹門なり。根源とは、草木は上へ登る。迹門の意なり。源遠の源は水なり。水は下にくだる。本門の意なり。条茂とは迹門十四品なり。流長とは本門十四品なり。又(同)云く、一心の三智の体とは南無妙法蓮華経なり。

御義口伝 第二 諸仏智恵 甚深無量 其智恵門の事
 文句の三に云く「先づ実を歎じ、次に権を歎ず。実とは諸仏の智恵なり、三種の化他の権実に非ず、故に諸仏と云ふ。自行の実を顕はす、故に智恵と言ふ。此の智恵の体、即一心の三智なり」甚深無量とは即ち称歎の辞なり。仏の実智の竪に如理の底に徹することを明かす故に甚深と言ふ。横に法界の辺りを窮む、故に無量と言ふ。無量甚深にして竪に高く横に広し。譬へば根深ければ則ち条茂く源遠ければ則ち流れ長きが如し。実智既に然り、権智例して爾り云云。其智恵門とは即ち権智を歎ずるなり。蓋し是れ自行の道前の方便進趣の力有り故に名づけて門と為す。門より入りて道中に到る道中を実と称し、道前を権と謂ふなり。難解難入とは権を歎ずるの辞なり。不謀にして了し無方の大用あり。七種の方便測度すること能はず、十住に始めて解す。十地を入と為す初めと後とを挙ぐ、中間の難示難悟は知るべし。而るに別して声聞縁覚の所不能知を挙ぐることは執重きが故に、別して之れを破するのみ」。記の三に云く「竪高横広とは中に於て法・譬・合あり。此れを以て後を例す。今実を釈するに既に周く横竪を窮めたり。下に権を釈すに理応に深極なるべし。下に当に権を釈すべし。予め其の相を述す。故に云云と注す。「其智恵門」とは、其とは乃ち前の実果の因智を指す。若し智恵即門なれば門は是れ権なり、若し智恵の門なれば智即ち果なり。蓋し是等とは、此の中に須く十地を以て道前と為し、妙覚を道中と為し、証後を道後と為すべし。故に知んぬ、文の意は因の位に在り」。
 御義口伝に云く、此の本末の意分明なり。中に竪に高く横に広しとは、竪は本門なり、横は迹門なり。根とは草木なり、草木は上へ登る、此れは迹門の意なり。源とは本門なり、源は水なり、水は下へくだる、此れは本門の意なり。条茂とは迹門十四品なり。流長とは本門十四品なり。智恵とは一心の三智なり。門とは此の智恵に入る処の能入の門なり。三智の体とは南無妙法蓮華経なり。門とは信心の事なり。爰を以て第二の巻に「以信得入」と云ふ。入と門と之れ同じきなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るを智恵とは云ふなり。譬喩品に云く「唯有一門」。門に於て有門・空門・亦有亦空門・非有非空門あるなり。有門は生なり。空門は死なり。亦有亦空門は生死一念なり。非有非空門は生に非ず死に非ず。有門は題目の文字なり。空門は此の五字万法を具足して凝らざる義なり。亦有亦空門は五字に具足する本迹なり。非有非空門は一部の意なり。此の内証は法華已前の二乗の智恵の及ばざる所なり。文句の三に云く「七種の方便、測度する能はず」。今日蓮等の類は此の智恵に得入するなり。仍って偈頌に「除諸菩薩衆 信力堅固者」と云ふは、我等行者の事を説くなり云云。

◆啓運抄巻の十二 方便品開示悟入/

一大事因縁の事。高祖の御義(御義口伝 方便品  第三 唯以一大事因縁)に云く、一は空、大は中、事は仮なり。此の円融の三諦は妙法蓮華経是れなり。此の五字は日蓮出世の本懐なり。日蓮が弟子檀那となる人は衆生有此機感仏の人なり。夫れがために法華を弘めたるは、豈に承機而応にあらずや。又(同)云く、一は一念、大は三千なり。 
 五濁の事。御義(御義口伝  第四 五濁の事)に云く、日蓮等の類は此の五濁を離れるなり。我此土安穏なれば劫濁にあらざるなり。煩悩即菩提の妙旨なれば煩悩濁にあらざるなり。無作の仏身なれば衆生濁にあらざるなり。正直捨方便の行者なれば見濁にあらざるなり。五百塵点より無始本覚の三身なれば命濁にあらざるなり。所詮、南無妙法蓮華経を境となして起こす所の五濁なれば、日本国の一切衆生の五濁の正意なり。法華不信の者を以て五濁深重の者とは、経に云く、以五濁悪世〇終不求仏道云々。仏道とは法華経の別名なり。 

御義口伝 第三 唯以一大事因縁の事
 文句の四に云く「一は則ち一実相なり。五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず、故に一と言ふなり。其の性広博にして五三七九より博し、故に名づけて大と為す。諸仏出世の儀式なり、故に名づけて事と為す。衆生に此の機有りて仏を感ずる故に名づけて因と為す。仏機を承けて而も応ず故に名づけて縁となす。是れを出世の本意と為す」矣。
 御義口伝に云く、一とは法華経なり、大とは華厳なり、事とは中間の三味なり。法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云。又云く、一とは妙なり、大とは法なり、事とは蓮なり、因とは華なり、縁とは経なり云云。又云く、我等が頭は妙なり、喉は法なり、胸は蓮なり、胎は華なり、足は経なり。此の五尺の身は妙法蓮華経の五字なり。此の大事を釈迦如来四十余年の間隠密し玉ふなり。今経の時説き出だし玉ふ。此の大事を説かんが為に仏は出世し玉ふ。我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時即身成仏するなり。開とは信心の異名なり。信心を以て妙法を唱へ奉らば軈て開仏知見するなり。然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云ふなり。示す時に霊山浄土の住所と悟り、即身成仏と悟るを悟仏知見と云ふなり。悟る当体、直至道場なるを、入仏知見と云ふなり。然る間信心の開仏知見を以て正意とせり。入仏知見の入の字、迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云ふなり。本門の意は理即本覚と入るなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る程の者は宝塔に入るなり云云。又云く、開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり。知見とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法なり。色心因果なり。所詮 知見とは妙法なり。九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり。爰を以て之れを思ふに、仏とは九界の衆生の事なり。此の開覚顕はれて、今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が、妙法を示す示仏知見と云ふなり。師弟感応して受け取る時、如我等無異と悟るを悟仏知見と云ふなり。悟りて見れば法界三千の己々の当体法華経なり。此の内証に入るを入仏知見と云ふなり。秘すべし云云。又云く、四仏知見とは八相なり。開とは生の相なり。入とは死の相なり。中間の示悟は六相なり。下天・託胎等は示仏知見なり。出家・降魔・成道・転法輪等は悟仏知見なり。権教の意は生死を遠離する教なるが故に、四仏知見に非ざるなり。今経の時生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳と開覚するを、四仏知見と云ふなり。四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思し召し世に出現したまふなり。此の開仏知見の法華経を、法然は捨閉閣抛と云ひ、弘法大師は第三の劣戯論の法とののしれり。五仏道同の舌をきる者に非ずや。慈覚大師・智証等は悪子に剣を与へて我が親の頭をきらする者に非ずや云云。又云く、一とは中道、大とは空諦、事とは仮諦なり。此の円融三諦は何物ぞ、所謂 南無妙法蓮華経是れなり。此の五字は日蓮出世の本懐なり。之れを名づけて事と為す。日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は「衆生有此機感仏 故名為因」の人なり。夫れが為に法華経の極理を弘めたるは「承機而応 故名為縁」に非ずや。因は下種なり。縁は三五の宿縁に帰するなり。事の一念三千は日蓮が身に当りての大事なり。一とは一念、大とは三千なり。此の三千をときたるは事の因縁なり。事とは衆生世間、因とは五陰世間、縁とは国土世間なり。国土世間の縁とは、南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり。経に云く「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」とは是れなり云云。

御義口伝 第四 五濁の事
 文句の四に云く「劫濁は別の体無し。劫は是れ長時、刹那は是れ短時なり。但四濁に約して此の仮名を立つ。文に劫濁乱時と云ふは即ち此の義なり。衆生濁は別の体無し。見慢果報を攬る上に此の仮名を立つ。文に衆生垢重と云ふは即ち此の義なり。煩悩濁は五鈍使を指して体と為す、見濁は五利使を指して体と為す、命濁は連持色心を指して体と為す」。
 御義口伝に云く、日蓮等の類は此の五濁を離るるなり。「我此土安穏」なれば劫濁に非ず、実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず、煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず、五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。「正直捨方便 但説無上道」の行者なれば見濁に非ざるなり。所詮 南無妙法蓮華経を境として起こる所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり。されば文句四に云く「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり。瞋恚増劇にして刀兵起こり、貪欲増劇にして飢餓起こり、愚痴増劇にして疾疫起こり、三災起こるが故に煩悩倍隆んに諸見転熾んなり」。経に「如来現在 猶多怨嫉 況滅度後」と云ふ是れなり。法華経不信の者を以て五濁障重の者とす。経に云く「五濁の悪世には、但諸欲に楽著せるを以て、是の如き等の衆生、終に仏道を求めず」云云。仏道とは法華経の別名なり。天台云く「仏道とは別して今経を指す」(文句記巻第一上 T1719_.34.0156a20)。

◆啓運鈔巻の十三 方便品五/

高祖の御義(御義口伝 方便品 第五 比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信)に云く、在世にては五千人が仏の御座を立てり。今末法にては日本国の一切衆生は悉く日蓮が座を起てり。比丘増上慢とは道隆・良観等にあらずや。比丘尼とは鎌倉中の比丘尼等にあらずや。優婆塞とは最明寺、優婆夷は上下の女人にあらずや。今、日蓮等の類を誹謗して悪名を立つ。豈に不自見其過の者にあらずや。大謗法罪の人なり。しかりと雖も日蓮に遇ふ事は、是れ礼仏而退の義なり。
 又(同)云く、五千とは我等所具の五住の煩悩なり。今、法華経に値い奉る時き慢即法界と開して礼仏而退するを仏威徳故去とは云うなり。又(同)に云く、五千の慢人とは我等が五大なり。五大は即ち妙法蓮華経なり。

御義口伝 第五 比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信の事
 文句の四に云く「上慢と我慢と不信と四衆通じて有り。但出家の二衆は多く道を修し禅を得て、謬りて聖果と謂ひ偏に上慢を起こす。在俗は矜高にして多く我慢を起こす。女人は智浅くして多く邪僻を生ず。自ら其の過を見ずとは、三失心を覆ふ。疵を蔵して徳を揚げ自ら省ること能はず、是れ無慚の人なり。若し自ら過を見れば是れ有羞の僧なり」矣。記の四に云く「蔵疵等とは三失を釈せるなり。疵を蔵して徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省ること能はざるは我慢を釈し、無慚の人とは不信を釈す。若し自ら過を見るは此の三失無し、未だ果を証せずと雖も且く有羞と名づく」矣。
 御義口伝に云く、此の本末の釈の意は五千の上慢を釈するなり。委しくは本末を見るべきなり。比丘・比丘尼の二人は出家なり。共に増上慢と名づく。疵を蔵し徳を揚ぐるを以て本とせり。優婆塞は男なり。我慢を以て本とせり。優婆夷は女人なり。無慚を以て本とせり。此の四衆は今日本国に盛んなり。経には「其数有五千」と有れども、日本国に四十九億九万四千八百二十八人と見えたり。在世には五千人仏の座を立てり。今末法にては日本国の一切衆生悉く日蓮が所座を立てり。比丘・比丘尼増上慢とは道隆・良観等に非ずや。又鎌倉中の比丘尼等に非ずや。優婆塞とは最明寺、優婆夷とは上下の女人に非ずや。敢へて我が過を知るべからざるなり。今日蓮等の類を誹謗して悪名を立つ、豈に「不自見其過」の者に非ずや。大謗法の罪人なり。法華の御座を立つ事、疑ひ無き者なり。然りと雖も日蓮に値ふ事、是れ併しながら「礼仏而退」の義なり。此の「礼仏而退」は軽賤の義なり。全く信解の礼退に非ざるなり。此等の衆は「於戒有欠漏」の者なり。文句の四に云く「於戒有欠漏とは律義に失有るを欠と名づけ、定共・道共に失有るを漏と名づく」。此の五千の上慢とは我等所具の五住の煩悩なり。今法華経に値ひ奉る時、慢即法界と開きて「礼仏而退」するを「仏威徳故去」と云ふなり。仏とは我等所具の仏界なり。威徳とは南無妙法蓮華経なり。故去とは而去不去の意なり。普賢品の「作礼而去」之れを思ふべきなり。又云く、五千退座と云ふ事、法華の意は不退座なり。其の故は諸法実相・略開三顕一の開悟なり。さて其の時は、「我慢増上慢」とは慢即法界と開きて本有の慢機なり。「其数有五千」とは我等が五住の煩悩なり。若し又五住の煩悩無しと云はば法華の意を失ひたり。五住の煩悩有り乍ら本有常住ぞと云ふ時、「其数有五千」と説くなり。断惑に取り合はず、其の侭本有の妙法五住と見れば「不自見其過」と云ふなり。さて「於戒有欠漏」とは、小乗権教の対治衆病の戒法にては無きなり。是名持戒の妙法なり。故に欠漏の当体、其の侭、是名持戒の体なり。然るに欠漏を其の侭本有と談ずる故に「護惜其瑕疵」と説くなり。元より一乗の妙戒なれば「一塵含法界一念遍十方」する故に、「是小智已出」と云ふなり。糟糠とは塵々法々本覚の三身なり。故にすくなき福徳の当体も本覚無作の覚体なり。「不堪受是法」とは、略開の諸法実相の法体を聞いて其の侭開悟するなり。さて身子尊者、鈍根のために分別解説したまへと請ふ。広開三の法門をば「不堪受是法」と説けり。さて法華の実義に帰して見れば、妙法の法体は更に能受・所受を忘るるなり。不思議の妙法なり。本法の重を悟りて見る故、「此衆無枝葉」と云ふなり。かかる内証は、純一実相・実相外更無別法なれば、「唯有諸貞実」なり。所詮 貞実とは色心を妙法と開く事なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、唯有諸貞実と説くなり。諸とは諸法実相の仏なり。諸は十界なり。貞実は十界の色心を妙法と云ふなり。今経に限る故に唯と云ふなり。五千の上慢の外全く法華経之れ無し。五千の慢人とは我等が五大なり。五大即妙法蓮華経なり。五千の上慢は元品の無明なり、故に「礼仏而退」なり。此れは九識・八識・六識と下る分なり、流転門の談道なり。「仏威徳故去」とは還滅門なり。然れば威徳とは、南無妙法蓮華経なり。本迷本悟の全体なり。能く能く之れを案ずべし云云。

高祖の御義(御義口伝 方便品 第六 如我等無異 如我昔所願)に云く、已満足の已の字は、釈の意は諸法実相の文を指して已といへり。当家の義は南無妙法蓮華経を指して已満足と説きたりと意得べきなり。 又(同)云く、如我昔所願は本因、如我等無異は本果なり。 又(同)云く、已とは、建長五年三月二十八日に始めて唱え出せる処の題目を指して已とは意得べきなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事は疑なきなり。此れを思い遣る時は満足なり。満足とは成仏と云う事なり。/

御義口伝 第六 如我等無異 如我昔所願の事
 疏に云く「因を挙げて信を勧む」矣。
 御義口伝に云く、我とは釈尊、我実成仏久遠の仏なり。此の本門の釈尊は我等衆生の事なり。如我の我は十如是の末の七如是なり。九界の衆生は始の三如是なり。我等衆生は親なり。仏は子なり。父子一体にして本末究竟等なり。此の我等を寿量品にして無作の三身と説きたるなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱ふるは是れなり。爰を以て之れを思ふに、釈尊総別の二願とは我等衆生の為に立てる所の願なり。此の故に、南無妙法蓮華経と唱へ奉る日本国の一切衆生を、我成仏せしむと云ふ処の願、併しながら「如我昔所願」なり。終に引導して己身と和合するを、「今者已満足」と意得べきなり。「今者已満足」の已の字、すでにと読むなり。何れの処を指して已にとは説けるや。凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云へり。爾りと雖も当家の立義として、南無妙法蓮華経を指して「今者已満足」と説かれたりと意得べきなり。されば此の「如我等無異」の文肝要なり。「如我昔所願」は本因妙、「如我等無異」は本果妙なり。妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄に非ずや。釈には挙因勧信と、挙因即本果なり。今日蓮が唱ふる処の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。豈に「今者已満足」に非ずや。已とは建長五年四月二十八日に初めて唱へ出だす処の題目を指して、已と意得べきなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑ひ無きなり。此れを思ひ遣る時は満足なり。満足とは成仏と云ふ事なり。釈に云く「円は円融円満に名づけ、頓は頓極頓足に名づく」矣。之れを思ふべし云云。

◆啓運抄巻の十四 方便品六/

高祖の御義(御義口伝 二十八品に一文充の大事 方便品)に云く、是法住法位は真諦なり。迹門なり。世間相常住は俗諦なり。本門なり云々

御義口伝 二十八品に一文充の大事 方便品
  真諦   俗諦
 是の法は法位に住し 世間の相常住なり
  迹門   本門

 高祖の御義(御講聞書 一 我始坐道場 観樹亦経行の事 方便品)に云く、観樹亦経行の事。世尊は十二因縁の流転を観じて経行し給へり。末法の当今も一切衆生の法華経を謗じて流転すべき事を観じて、日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事は、又又かくのごとくなり云々。

御講聞書 一 我始坐道場 観樹亦経行の事(方便品)
 仰せに云く、此の文は教主釈尊三十成道の時を説き給へり。観樹の樹と云ふは、十二因縁の事なり。所詮 十二因縁を観じて経行すと説き給へり。十二因縁は法界の異名なり。又は法華経の異名なり。其の故は樹木は枝葉華菓あり。是れ即ち生住異滅の四相なり。大覚世尊十二因縁の流転を観じ経行し給へり。所詮 末法当今も、一切衆生の法華経を謗じて流転すべきを観じて、日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事、又々此の如くなり。法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。

高祖の御義(御講聞書 今我喜無畏の事 方便品)に云く、今、日蓮等の類も是のごとし。日蓮も生年三十二までは畏れ有りき。若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずしてや有らんずらんと云う畏れありき。今は此のをそれなし。既に末法当時に南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘める間をそれなし。終には一閻浮提に広宣流布せん事は一定なるべし。

御講聞書 一 今我喜無畏の事(方便品)
 仰せに云く、此の経文は権教を説き畢らせ給ひて法華経を説き給ふ時なれば、喜びてをそれなしと説き給へり。其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給へり。若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思し召す畏れ深くありと云ふ文なり。さて今は恐るべき事なく、時節来たりて説く間畏れなしと喜び給へり。今日蓮等の類も此の如し。日蓮も生年三十二までは畏れありき。若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして有らんずらんと畏れありき。今は即ち此の畏れ無く、既に末法当時南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間畏れなし。終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云。

高祖の御義(御義口伝 方便品 第八 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道の事)に云く、当来世とは末法なり。悪人とは法然・弘法・慈覚・智証等なり。仏とは日蓮等の類なり。一乗とは南無妙法蓮華経なり。不信の故には三悪道に堕つべきなり云々。
 
御義口伝 第八 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道の事
 御義口伝に云く、当来世とは、末法なり。悪人とは、法然・弘法・慈覚・智証等なり。仏とは日蓮等の類なり。一乗とは妙法蓮華経なり。不信の故に三悪道に堕すべきなり。

高祖の御義(御講聞書 浄飯王摩耶夫人成仏証文の事 方便品)に云く、浄飯・摩耶の成仏の証文の事。方便品の我始坐道場、寿量品の我実成仏已来の文是れなり。釈尊の成道の時、浄飯・摩耶も得道す。本迹二門の得道の文は是れなり。此の文は日蓮が己心中の大事なり。爾前の心は父母各別の談なり。しかる間成仏はこれ無し。今経の時は父子の天性を定め、父子一体と談ぜり。父母の成仏即ち子の成仏なり。子の成仏即ち父母の成仏なり。釈尊の我始坐道場の時、浄飯・摩耶も同時の成道なり。釈尊の我実成仏の時、浄飯・摩耶も同時の成道なり。此の法門は天台・伝教を除いて知る人は一人もこれあるべからず。日蓮等の類は堅く秘すべき法門なり。譬へば蓮華の華菓相離せざるがごとくなり。

御講聞書 一 浄飯王摩耶夫人成仏証文の事(方便品)
 仰せに云く、方便品に云く「我始め道場に坐し樹を観じ亦経行して」の文是れなり。又寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来」の文是れなり。教主釈尊の成道の時、浄飯も摩耶も得道するなり。本迹二門の得道の文是れなり云云。此の文は日蓮が己心の大事なり。我始と我実との文能く能く之れを案ずべし。其の故は爾前経の心は父子各別の談道なり。然る間成仏之れ無し。今の経の時、父子の天性を定め父子一体と談ぜり。父母の成仏は即ち子の成仏なり。子の成仏は即ち父母の成仏なり。釈尊の我始坐道場の時、浄飯王・摩耶夫人も同時に成道なり。釈尊の我実成仏の時、浄飯王・摩耶夫人同時なり。始本共に同時の成道なり。此の法門は天台・伝教等を除きて知る人一人も之れ有るべからず。末法に入りて日蓮等の類、堅く秘すべき法門なり。譬へば蓮華の華菓の相離れざるが如くなり。然れば法華経の行者は男女悉く世尊に非ずや。薬王品に云く「一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」。此れ則ち世尊の経文に非ずや。是れ真の仏子なれば法王の御子にして世尊第一に非ずや。

尋ねて云く、種熟脱の経文如何。 
 答う、方便品に云く、仏の種は縁より起こる。 
 尋ねて云く、末代の凡夫においての三益は如何。 
 答う、今身より仏身に至るまでと法華経を授ける師の教えを受けるは種なり。此の師の教えのごとく修行するは熟なり。これに因って浄土に生まれるは脱なり。しかれば即ち此の受持の師に背かば無間地獄は疑無きなり。此の師に随順せば、必ず師と倶に霊山に至るべきなり。経に云く、聞法信受随順不逆云々。又云く、随順是師学〇云々。又云く、常与師倶生云々。一法・一仏・一師に限りて種熟脱の三益はこれ在るべし。されば種熟脱の三益は一仏の始終に限ると云へり。成仏の一大事なり。傲りてしかも起請文無くばこれを許すべからず。秘すべし云々。口外すべからざるなり。
 澄私に云く、大聖人の御義(御義口伝なし御講聞書なし)なり。尤も深くこれを信じ奉るべし。

◆啓運鈔巻二十一 信解品上/

されば御義(御義口伝 信解品 第一 信解品の事)に云く、三世の諸仏の成道も信の一字より起こるなり。信の字は元品の無明を切る処の利剣なり。其の故は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり。解とは智恵の異名なり。信は価の如し。解は宝の如し。三世の諸仏の智恵をかふは信の一字なり。智恵とは南無妙法蓮華経なり。信は智恵の因にして名字即なり。信の外に解も無く、解の外に信なし。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今ま日蓮等の類は南無妙法蓮華経と信受領解する故に、無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり。信は智恵の種なり。不信は堕獄の種なり云々。又云く、信は不変真如の実相の一理と信ずるなり。解は随縁真如なり。自受用智なり云々。

御義口伝 第一 信解品の事
 記の六に云く「正法華には信楽品と名づく。其の義通ずと雖も楽は解に及ばず。今は領解を明かす、何を以てか楽と云はんや」矣。
 御義口伝に云く、法華一部二十八品の題号の中、信解の題号此の品に之れ有り。一念三千も信の一字より起こり、三世の諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字、元品の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり。解とは智恵の異名なり。信は価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智恵をかうは信の一字なり。智恵とは南無妙法蓮華経なり。信は智恵の因にして名字即なり。信の外に解無く、解の外に信無し。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と信受領納する故に「無上宝聚 不求自得」の大宝珠を得るなり。信は智恵の種なり。不信は堕獄の因なり。又云く、信は不変真如の理なり。其の故は、信は「知一切法皆是仏法」と体達して実相の一理と信ずるなり。解は随縁真如なり。自受用智を云ふなり。文句の九に云く「疑ひ無きを信と曰ひ、明了なるを解と曰ふ」矣。文句の六に云く「中根の人、譬喩を説くを聞いて、初めて疑惑を破して大乗の見道に入る。故に名づけて信と為す。進みて大乗の修道に入るが故に名づけて解と為す」矣。記の六に云く「大を以て之れに望むるに乃ち両字を分かちて以て二道に属す。疑を破る故に信なり、進みて入るを解と名づく。信は二道に通じ、解は唯修に在り。故に修道を解と名づくと云ふ」矣。

御義(御義口伝 信解品 第二 捨父逃逝の事)に云く、父に三あり。法華経と釈尊と日蓮是れなり。法華経・釈尊は一切衆生の父なり。此の父に背く故に備輪諸道するなり。今又日蓮は日本国の一切衆生の父なり。章安云く、為彼除悪即是彼親。退大の大とは南無妙法蓮華経なり。無明とは疑惑と謗法なり。自覆とは、法然・弘法・慈覚・智証・道隆・良観等の悪比丘は謗法の失を自(ほしいまま)に覆ふなり云々。

 第二 捨父逃逝の事
 文句の六に云く「捨父逃逝とは、大を退するを捨と為し、無明自ら覆ふを逃と曰ひ、生死に趣向するを逝と為す」矣。
 御義口伝に云く、父に於て三つ之れ有り。法華経・釈尊・日蓮是れなり。法華経は一切衆生の父なり。此の父に背く故に流転の凡夫となる。釈尊は一切衆生の父なり。此の仏に背く故に備に諸道を転るなり。今日蓮は日本国の一切衆生の父なり。章安大師云く「彼れが為に悪を除くは即ち是れ彼れが親なり」矣。退大の大は南無妙法蓮華経なり。無明とは疑惑謗法なり。自ら覆ふとは法然・弘法・慈覚・智証・道隆・良観等の悪比丘、謗法の失を恣に覆ひかくすなり。

宗義に約して云はば、寿量品の「倶出霊鷲山」の倶は不変なり。一念なり。出は随縁なり。三千なりと高祖の御義(御義口伝 寿量品 第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山の事)に有るも、今の心に似たり。
 
御義口伝 第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山の事
 御義口伝に云く、「霊山一会厳然未散」の文なり。時とは感応末法の時なり。我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり。霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づるなり。秘すべし秘すべし。本門事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし給ふなり。されば倶とは不変真如の理なり。出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり。出とは三千なり云云。又云く、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕はす文なり。其の故は、時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所を説くなり云云。

◆啓運鈔巻の二十二 信解品下/

高祖処々の仰せの御義(御義口伝 普賢品 第六 此人不久 当詣道場の事)は此の意あるなり。例えば五千の上慢は五住の煩悩を表すなんど云うは、千の字には取り合わず。只だ五の字計りを以て五住の煩悩と云うなり。一切の所表の法門をばかくのごとく意得べきなり。

第六 此人不久 当詣道場の事
 御義口伝に云く、此の人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去りて彼しこに行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住所を云ふなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所は山谷曠野皆寂光土なり。此れを道場と云ふなり。「此の因易むること無きが故に直至と云ふ」の釈、之れを思ふべし。此の品の時最上第一の相伝あり。釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り玉ふなり。八字とは「当に起ちて遠く迎へて、当に仏を敬ふが如くすべし」の文なり。此の文に迄りて経は終るなり。当の字は未来なり。「当起遠迎」とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬ふべしと云ふ経文なり。法師品には「此の経巻に於て敬ひ視ること仏の如くす」と云へり。八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の「諸仏智恵」、終りは「当起遠迎当如敬仏」の八字なり。但此の八字を以て法華一部の要路とせり。されば文句の十に云く「当起遠迎当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述するなり」矣。法華一部は信の一字を以て本とせり云云。尋ねて云く、今の法華経に於て序品には首めに如の字を置き、終りの普賢品には去の字を置く。羅什三蔵の心地何なる表事の法門ぞや。答へて云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は、実相は理なり。久遠は事なり。理は空の義なり。空は如の義なり。之れに依りて如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名づく。即ち空の義なり」矣。久遠は事なり。其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。去は久遠に当たるなり。去は開の義、如は合の義なり。開は分別の心なり。合は無分別の意なり。此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに如の字を顕はしたるは生仏不二の義なり。迹門は不二の分なり。不変真如なる故なり。此の如是我聞の如をば不変真如の如と習ふなり。空仮中の三諦には、如は空、是は中、我聞は仮諦。迹門は空を面と為す。故に不二の上の而二なり。然る間而二の義を顕はす時、同聞衆を別に列ぬるなり。さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり。仍って去の字を置くなり。作礼而去の去は随縁真如の如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。「而二不二、常同常別、古今法爾」の釈、之れを思ふべし。此の去の字は彼の五千起去の去と習ふなり。其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云ふ義なり。如去の二字は生死の二法なり。伝教云く「去は無来の如来、無去の円去等」云云。如の字は一切法是れ心の義、去の字は只心是れ一切法の義なり。一切法是れ心は迹門の不変真如なり。只心是れ一切法は本門の随縁真如なり。然る間法界を一心に縮むるは如の義なり。法界に開くは去の義なり。三諦・三観の口決相承と意同じ云云。一義に云く、如は実なり、去は相なり。実は心王、相は心数なり。又諸法は去なり、実相は如なり。今経一部の始終、諸法実相の四字に習ふとは是れなり。釈に云く「今経は何を以て体と為るや。諸法実相を以て体と為す」矣。今一重立ち入りて日蓮が修行に配当せば、如とは如説修行の如なり。其の故は結要五字の付属を宣べ玉ふ時、宝塔品に事起こり、「声徹下方」し、「近令有在遠令有在」と云ひて、有在の二字を以て本化・迹化の付属を宣ぶるなり。仍って本門の密序と習ふなり。さて二仏並座し、分身の諸仏集まりて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕はし、釈尊十種の神力を現じて四句に結び、上行菩薩に付属し玉ふ。其の付属とは妙法の首題なり。総別の付属、塔中・塔外、之れを思ふべし。之れに依りて涌出・寿量に事顕はれ、神力・属累に事竟るなり。此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有りて、五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと、経文に親り之れ在り。夫れとは神力品に云く「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑」云云。此の文明白なり。仍って此の文をば仏の回向の文と習ふなり。去る間、此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり。此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去りて妙覚極果の膚を瑩く事を顕はす故に、さて去の字を終りに結ぶなり。仍って上に受持仏語と説けり。煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照らされて一心一念遍於法界と観達せらる。然る間、還りて己心の仏を礼す。故に作礼而去とは説き玉ふなり。「彼々三千互遍亦爾」の釈、之れを思ふべし。秘すべし秘すべし。唯授一人の相承なり。口外すべからず。然れば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。

 「無上宝聚」の事。高祖は二十八品に一文の大事を撰びたまふ。此の品には此の二句を出し玉ふなり(御義口伝 二十八品に一文充の大事 信解品)。御義(御講聞書 無上宝聚 不求自得の事 信解品)に云く、一には、釈尊の因行果得の万行万善を宝聚と云ふ。二には、南無妙法蓮華経なり。四大声聞は任運に自得するなり。此実我子。我実其父の故なり。自我得仏来の自と得とこれに同じ。所詮、此の妙法蓮華経を自(みづから)より得たり。自とは釈尊なり。釈尊が即ち我が一心一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり。日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり。

 御義口伝 二十八品に一文充の大事 信解品
  一念三千
 無上の宝珠 求めざるに自ら得たり〈ほしひままにえたり〉
  題目

 御講聞書 一 無上宝聚 不求自得の事 (信解品)
 仰せに云く、此の無上宝聚に於て、一には釈尊の因行果徳の万行万善の骨髄を宝聚と云ふなり、二には妙法蓮華経の事なり。不求とは、中根の四大声聞は此の如き宝聚を任運自在に得たり。「此実我子 我実其父」の故なり。総じては一切衆生の事なり。自得と云ふは、自は十界の事なり。此れは自我得仏来の自と同じ事なり。得も又同じ事なり。末法に入りては自得とは日蓮等の類なり。自とは法華経の行者、得とは題目なり。得の一字には師弟を含みたり。与ふると得るとの義を含めり。不求とは、仏法に入るには修行覚道の辛労あり。釈迦如来は往来娑婆八千反の御辛労にして求め給ふ功徳なり。さて今の釈迦牟尼仏と成り給へり。法華経の行者は求めずして此の功徳を受得せり。仍って自得とは説かれたり。此の自の字は一念なり、得は三千なり。又自は三千、得は一念なり。又自は自なり、得は他なり。総じて自得の二字に法界を尽せり。所詮 此の妙法蓮華経を自より得たり。自とは釈尊なり。釈尊は即ち我が一心なり。一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり。日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり云云。

又(御義口伝 信解品 第五 無上宝聚 不求自得の事)云く、無上に重々あり。外道の法に対すれば三蔵は無上、外道の法は有上なり。三蔵は有上、通教は無上なり。通教は有上、別教は無上なり。別教は有上、円教は無上なり。又爾前の円教は有上、法華の円は無上なり。又迹門の円は有上、本門の円は無上なり。又迹門の十三品は有上、方便の一品は無上なり。又本門十三品は有上、一品二半は無上なり。又天台所弘の止観は無上、玄文の二部は有上なり。今ま日蓮等の類の意は、無上とは南無妙法蓮華経なり。無上の中の極無上なり。此の妙法の無上を指して無上宝聚と説くなり。宝聚とは、三世の諸仏の万行万善諸波羅密の宝聚たる南無妙法蓮華経なり。此の無上の宝聚を辛労もなく行功もなく一言に受得するは信心なり。不求自得とは云うなり。自の字は十界なり。十界各々得るなり。諸法実相是れなり。しかる間、此の一文は妙覚の釈尊は我等衆生の骨肉なり云々。

御義口伝 第五 無上宝聚 不求自得の事 
 御義口伝に云く、無上に重々の子細あり。外道の法に対すれば三蔵教は無上、外道の法は有上なり。又三蔵教は有上、通教は無上。通教は有上、別教は無上。別教は有上、円教は無上。又爾前の円教は有上、法華の円は無上。又迹門の円は有上、本門の円は無上。又迹門十三品は有上、方便品は無上。又本門十三品は有上、一品二半は無上。又天台大師所弘の止観は無上、玄文二部は有上なり。今日蓮等の類の心は、無上とは南無妙法蓮華経、無上の中の極無上なり。此の妙法を指して無上宝聚と説き玉ふなり。宝聚とは、三世の諸仏の万行万善の諸波羅蜜の宝を聚めたる南無妙法蓮華経なり。此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受け取るは信心なり。不求自得とは是れなり。自の字は十界なり。十界各得るなり。諸法実相是れなり。然る間此の文の妙覚の釈尊は我等衆生の骨肉なり。能く能く之れを案ずべし云云。

高祖の御義(御義口伝 信解品 第六 世尊大恩の事)に云く、大恩とは南無妙法蓮華経なり。大恩を題目なりと云う事は、次下に以希有事と説けり。希有の事とは題目なり。此の大恩の妙法蓮華経を四十余年の間秘し玉ふて、後八箇年に大恩を開きたまふなり。法王啓運。運とは大恩の妙法蓮華経なり。今ま日蓮等の類が南無妙法蓮華経を唱え奉りて、日本国の一切衆生を助けんと思うは、豈に世尊大恩にあらずや。

御義口伝 第六 世尊大恩の事
 御義口伝に云く、世尊とは釈尊、大恩とは南無妙法蓮華経なり。釈尊の大恩を報ぜんと思はば法華経を受持すべき者なり。是れ即ち釈尊の御恩を報じ奉るなり。大恩を題目と云ふ事は次下に「以希有事」と説けり。希有の事とは題目なり。此の大恩の妙法蓮華経を四十余年の間秘し給ひて後、八箇年に大恩を開き玉ふなり。文句の一に云く「法王運を啓く」矣。運とは大恩の妙法蓮華経なり云云。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉りて日本国の一切衆生を助けんと思ふ。豈に世尊の大恩に非ずや。章安大師十種の恩を挙げたりしなり。第一には慈悲逗物の恩、第二には最初下種の恩、第三には中間随逐の恩、第四には隠徳示拙の恩、第五には鹿苑施小の恩、第六には恥小慕大の恩、第七には領知家業の恩、第八には父子決定の恩、第九には快得安穏の恩、第十には還用利他の恩なり。此の十恩は即ち衣座室の三軌なり云云。記の六に云く「宿萌稍割けて尚未だ敷栄せず。長遠の恩何に由りてか報ずべき」矣。又云く「注家は但物として施を天地に答へず、子として生まることを父母に謝せず、感報斯に亡ずるを以てと云へり」矣。輔正記の六に云く「物は施を天地に答へずとは、謂く物は天地に由りて生ずと雖も而も天地の沢を報ずと云はず。子も亦之の如し」矣。記の六に云く「況や復只我をして報亡せしむるに縁りて、斯の恩報じきをや」矣。輔正記に云く「只縁令我報亡とは、意に云く、只如来の声聞をして等しく亡報の理を得しむるに縁るなり。理は謂く一大涅槃なり」矣。
 御義口伝に云く、此の如く重々の所釈之れ有りと雖も、所詮 南無妙法蓮華経の下種なり。下種の故に如影随形し玉ふなり。今日蓮も此の如きなり。妙法蓮華経を日本国の一切衆生等に授与するは、豈に釈尊の十恩に非ずや。十恩は即ち衣座室の三軌なりとは、第一第二第三は「大慈為室」の御恩なり。第四第五第六第七は「柔和忍辱衣」の恩なり。第八第九第十は「諸法空為座」の恩なり。第六の恥小慕大の恩を、記の六に云く「故に頓の後に於て便ち小化を垂れ、弾斥淘汰し槌砧鍛錬す」矣

章安、十恩を立て玉ふ。疏に云く、一には、仏は始めて慈悲を建て、六道の苦を抜き四聖の楽を与へ、普く十法界をして四弘の中に入れしめたまふ。此れ如来室の恩なり。記に云く、初めの一は是れ通じて遍被せしむるの恩なり。〇通被せしめるは是れ四弘の始めなり。「始建」とは云へども、実には無始無終の慈悲なり。第二は、疏に云く、曽て我れに大乗を教へり。下種の恩なり。記に云く、初め自行の真を以て我れをして修習せしむ。教を禀けてより後、大を退して輪迴せしかども、慈悲は離れずして処処に与抜したまひき。如影随形の利益は実に大恩なり。第三に、今日外道の家に在りて其の宜しきを伺いたまふ。華厳の時なり。第四に鹿苑の初めに五戒・十善を以てし、第五には四諦・十二因縁を説けり。第六に方等にして弾呵して恥小慕大せしむ。第七に般若において家業を知らしむ。第八に法華において親族を聚めて、父子を定め家業を付し畢んぬ。九と十と身意泰然なり。「以仏道声。令一切聞。天人摩梵。普於中。応受供養」の恩なり云々。室衣坐の三恩なり云々(御義口伝 信解品 第六 世尊大恩の事に類似)

◆啓運鈔巻の二十三 薬草喩品上 

御義(御講聞書 薬草喩品の事)に云く、薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり。妙法を頂上にいただく草なれば薬にあらずと云う事なし。草は中根の声聞なれども、総じては一切衆生なり。譬えば土器に薬をかけたるが如し。我等衆生の父母果縛の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり。煩悩即菩提・生死即涅槃是れなり。此の分を教えるを喩と云うなり。提婆・竜女の畜生・人間も、天帝・羅漢・菩薩も悉く薬草の仏にあらずと云う事なし。末法当今の法華の行者、日蓮等の類ひは、薬草にして日本国の一切衆生の薬王なり云々。 

御講聞書 一 薬草喩品の事 (薬草喩品)
 仰せに云く、薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり。妙法を頂上にいただきたる草なれば薬に非ずと云ふ事なし。草は中根の声聞なれども、総じては一切衆生なり。譬へば土器に薬をかけたるが如し。我等衆生、父母果縛の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり。煩悩即菩提・生死即涅槃は是れなり云云。此の分を教ふるを喩とは申すなり。釈に云く「喩とは暁訓なり」矣。提婆・竜女の畜生人間も、天帝・羅漢・菩薩等も、悉く薬草の仏に非ずと云ふ事なし。末法当今の法華の行者の日蓮等の類、薬草にして日本国の一切衆生の薬王なり云云。

「皆悉到於。一切智地」の事。御義(御講聞書 皆悉到於 一切智地の事 薬草喩品)に云く、一切智地と云うは法華経なり。譬えば三千世界の土地・草木・人畜等は皆大地に備わりたるが如く、八万法蔵・十二部経は悉く法華に帰入せしむるなり。皆悉の二字には善人も悪人も迷も悟も一切衆生の悪業も善業も、其の外の薬師・大日・弥陀、並びに地蔵・観音、横に十方、竪に三世のありとあらゆる諸仏の功徳・菩薩の行徳、総じて十界の衆生の善悪の業作等を皆悉と説けり。是れを法華経に帰入せしむるを一切智地の法華と申すなり。されば文句の七に云く、地とは実相なり。究竟して二にあらず。故に一と名づく。其の性広博なり。故に名づけて切となす。寂にしてしかも常に照す。故に名づけて智となす。無住の本より一切の法を立つ。故に名づけて地となす。此れは円教の実説なり。凡そ所説あらば皆衆生をして此の智地に到らしめるなり。一をば究竟と云ひ、切をば広博と釈すなり。諸法は切なり。実相は一なり。一は妙なり。切は法なり。無住之本は妙の徳、立一切法は法の徳なり。一とは一念、切とは三千なり。一心より松よ桜よと起こるは切なり。是れは心法に約する義なり。色法にては手足等は切なり。一身なれば一なり。所詮、色心の二法は一切智地にして南無妙法蓮華経なり。今ま末法に入りて一切智地を弘通するは日蓮等の類是れなり。此の一切智地の四字に法華経一部八巻の文々句々を収めたり。三智に約すれば三諦一諦の空智なり。迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり。

御講聞書 一 皆悉到於 一切智地の事 (薬草喩品)
 仰せに云く、一切智地と云ふは法華経なり。譬へば三千大千世界の土地草木人畜等、皆大地に備はりたるが如く、八万法蔵十二部経、悉く法華に帰入せしむるなり。皆悉の二字をば、善人も悪人も、迷も悟も、一切衆生の悪業も善業も、其の外薬師・大日・弥陀並びに地蔵・観音、横に十方、竪に三世、有りとある諸仏の具徳、諸菩薩の行徳、総じて十界の衆生の善悪業作等を皆悉と説けり。是れを法華経に帰入せしむるを、一切智地の法華経と申すなり。されば文句の七に云く「皆悉到於一切智地とは、地とは実相なり。究竟して二に非ず、故に一と名づくるなり。其の性広博なり、故に名づけて切と為す。寂而常照なり、故に名づけて智と為す。無住の本より一切法を立す、故に名づけて地と為す。此れ円教の実説なり。凡そ所説有るは皆衆生をして此の智地に到らしむ」云云。此の釈は「一切智地」の四字を委しく判ぜり。一をば究竟と云ひ、切をば広博と釈し、智をば「寂而常照」と云ひ、地をば「無住之本」と判ぜり。然るに「凡有所説」は約教を指し、「皆令衆生」は機縁を納めるなり。十界の衆生を指して切と云ひ、凡有所説を指して「究竟非二 故名一也」と云へり。一とは三千大千世界・十方法界を云ふなり。其の上に人畜等あるは地なり。記の七に云く「切は衆に訓ず」矣。仍って一切の二字に法界を尽くせり。諸法は切なり、実相は一なり。所詮 法界実相の妙体、照而常寂の一理にして、十界三千一法性に非ずと云ふ事無し。是れを一と説くなり。さて三千の諸法は己々に本分なれば切の義なり。然らば一は妙、切は法なり。妙法の二字、一切の二字なり。無住之本は妙の徳、立一切法は法の徳なり。一切智地とは南無妙法蓮華経是れなり。一切智地即一念三千なり。今末法に入りて一切智地を弘通するは日蓮等の類是れなり。然るに一とは一念なり、切とは三千なり。一心より松よ桜よと起こるは切なり。是れは心法に約する義なり。色法にては手足等は切なり。一身なるは一なり。所詮 色心の二法、一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。(追加あり)

 根茎枝葉の事。御義(御講聞書 根茎枝葉の事 (薬草喩品))に云く、法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し。是名持戒は戒なり。法華経の文に任せて修行するは定なり。題目を唱え奉るは恵なり。又(御講聞書 一 根茎枝葉の事 (薬草喩品))根は心法なり。茎は頭より足に至るまでなり。枝は手足なり。葉は毛なり。一切衆生は此の四を具足せずと云う事なし。是れ又信戒定恵の体にして三学倶伝名曰妙法なり。法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず。枯槁の衆生なるべし云々。/

御講聞書 一 根茎枝葉の事 (薬草喩品)
 仰せに云く、此の文をば釈には信戒定恵と云云。此の釈の心は、草木は此の根茎枝葉を以て増長と云ふなり。仏法修行するも又是の如し。所詮 我等衆生、法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し。法華経の文の如く、是名持戒の戒体を本として「正直捨方便 但説無上道」の如くなるは戒なり。法華経の文相にまかせて法華三昧を修するは定なり。題目を唱へ奉るは恵なり。所謂 法界悉く生住異滅するは信、己々本分は戒、三世不改なるは定なり。各々の徳義を顕はしたるは恵なり。是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり。是れ即ち真如実相の振舞ひなり。所謂 戒定恵の三学、妙法蓮華経なり。此れを信ずるを根と云ふなり。釈に云く「三学倶に伝ふるを名づけて妙法と曰ふ」云云。

御講聞書 一 根茎枝葉の事 (薬草喩品)
 仰せに云く、此れは我等が一身なり。根とは心法なり、茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり。此の四を根茎枝葉と説けり。法界三千此の四を具足せずと云ふ事なし。是れ即ち信戒定恵の体にして、実相一理の南無妙法蓮華経の体なり。法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず。枯槁の衆生なるべし云云。

「解脱相」等の事。疏に云く、所謂より下は双べて一相一味を釈す。衆生の心性は即ち是れ性得の解脱・遠離・寂滅の三種の相なり。記に云く、此の性の三徳は三相ありと雖も、只だ是れ一相なり。此の三相をば記に「理徳の相」と釈せり。理徳の言に心あるなり。衆生の心性の体は法体なり。此の心性の体に解脱・遠離・寂滅の三の徳用ありと云う事なり。されば徳用の方は三なれども、実の心性性徳の法体は二無く三無き者なれば「只是一相」とは釈すなり。一相に即して三相なり。三相に即して一相なり。実には一相も無きなりと得意すべきなり。此の一相と云うは、仏の心性とも云はずして衆生の心性と云へり。同じ事ながら、仏の心性は「仏果已満」と云いて修徳なる故に、性徳の手本は衆生なり。
高祖の御義(不明?)に「衆生は父の如く、諸仏は子の如し」と判じたまうは此の心なり。「衆生本有明静之体。諸仏修徳止観之用」(?)と云へり。

 御儀(御講聞書 等雨法雨の事 (薬草喩品))に云く、等しく法の雨(あめ)を雨(ふ)らす。〔等しく法の雨(あめ)雨(ふ)る〕。右の点は、仏は慈悲平等に法雨をふらすと云うなり。能雨の人に約するなり。左の点は妙法の法体に約すなり。本来より平等にふる実相平等の法雨なり。所弘の体に約するなり云々。御義(御講聞書 等雨法雨 薬草喩品)に云く、今ま末法に入って日蓮等の類の弘通する題目は等雨法雨の法体なり。方便品には本末究竟等・如我等無異、譬喩には等一大車。此の等の字は宝塔品の如是如是と同じなり。所詮、等とは南無妙法蓮華経なり。法の雨をふらすとは、今身より仏身に至るまで持つや否やと云う受持の言語なり。御義(御講聞書 等雨法雨の事 薬草喩品)に云く、ふらすと云うは上より下へふるを云うなり。従果向因の儀なり。妙法の雨は九識本法の法体なり。しかるを一仏現前して説き出すを法の雨をふらすと云うなり。仏に約すれば第十の仏界より九界へふらすなり。識分に約すれば九識より八識へふりくだるなり。今、日蓮等の類が南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを法の雨をふらすと云うなり。

 一 等雨法雨の事 (薬草喩品)
 仰せに云く、等とは平等の事なり。善人・悪人・二乗・闡提・正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜しまず平等にふらすと云ふ事なり。されば法の雨を雨すと云ふ時は、大覚世尊ふらしてに成り玉へり。さて法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず。されば諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬へたり。妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕はれんと釈せり。常住なり、実相の法雨は三世常恒にして隠顕更に無きなり。所詮 等の字は、ひとしくとよむ時は釈迦如来の平等の慈悲なり。さて、ひとしきとよむ時は平等大恵の妙法蓮華経なり。等しく法の雨をふらすとは能弘につけたり。等しき法の雨ふりたりと読む時は所弘の法なり。所詮 法と云ふは十界の諸法なり。雨とは十界の言語音声の振舞ひなり。ふるとは自在にして、地獄は熾燃猛火、乃至仏界の上の所作の音声を等雨法雨とは説けり。此の等雨法雨の法体は南無妙法蓮華経なり。今末法に入り日蓮等の類の弘通する題目は等雨法雨の法体なり。此の法雨、地獄の衆生・餓鬼の衆生等に至るまで、同時にふりたる法雨なり。日本国の一切衆生の為に付属し給ふ法雨は題目の五字なり。所謂 日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是れなり云云。方便品には本末究竟等と云へり。譬喩品には等一大車と云へり。此の等の字を重ねて説かれたり。或は「如我等無異」と云へり。此の等の字は宝塔品の如是如是と同じなり。所詮 等とは南無妙法蓮華経なり。法雨をふらすとは、今身より仏身に至るまで持つや否やと云ふ受持の言語なり云云。
 一 等雨法雨の事 (薬草喩品)
 仰せに云く、此の時は妙法実相の法雨は十界三千、下は地獄、上は非想非非想まで、横に十方、竪に三世に亘りて妙法の功徳とふるを等とは云ふなり。さて雨るとは、一切衆生の色心妙法蓮華経と三世常住にふるなり云云。一義に云く、此の妙法の雨は九識本法の法体なり。然るに一仏現前して説き出だす所の妙法なれば、法の雨をふらすと云ふなり。其の故は、ふらすと云ふは上より下へふるを云ふなり。仍って従果向因の義なり。仏に約すれば、第十の仏果より九界へふらす法体にては、ふる処もふらす処も真如の一理なり。識分にては、八識へふり下りたるなり。然れば今日蓮等の類、南無妙法蓮華経を日本国の一切衆生の頂上にふらすを、法の雨をふらすと云ふなり云云。(統合されていたか)

◆啓運鈔巻二十五 授記品全

御義(御講聞書 如従飢国来 忽遇大王膳の事 授記品)に云く、法華已前の人は餓鬼界の衆生なり。飢国と説けり。忽遇の忽は速疾頓成の義なり。末法に入って謗法の人は餓鬼界の衆生なり。南無妙法蓮華経に値ひ奉るは併ら大王膳なり。忽遇の遇の字は肝要なり。成仏は難にあらず。此の経に遇うをかたしとするなり

御講聞書 一 如従飢国来 忽遇大王膳の事
 仰せに云く、此の文は中根の四大声聞法華に来たれる事、譬へばうゑたる国より来たりて大王のそなへに値ふが如くの歓喜なりと云へり。然れば此の文の如くならば、法華已前の人は餓鬼界の衆生なり。既に飢国来と説けり。大王膳とは醍醐味なり。中根の声聞、法華に来たりて一乗醍醐の法味を得て、忽ちに法王の位に備はりたり。忽の字は爾前の迂廻道の機に対して忽と云ふなり。速疾頓成の義を忽と云ふなり。仮令外用の八相を唱ふる事は、所化をして仏道に進めんが為なり。所詮 末法に入りては謗法の人々は餓鬼界の衆生なり。此の経に値ひ奉り南無妙法蓮華経に値ひ奉る事は併しながら大王膳たり。忽遇の遇の字肝要たり。釈に云く「成仏の難きには非ず、此の経に値ふをかたしとす」(?)と云へり。不軽品に云く「復遇常不軽」云云。厳王品に云く「生値仏法」云云。大王膳に値ひたり。最も以て南無妙法蓮華経を信受し奉るべきなり。此の経文の如くならば、法華より外の一切衆生はいかに高貴の人なりとも餓鬼道の衆生なり。十羅刹女は餓鬼界の羅刹なれども、法華経を受持し奉る故に、餓鬼に即する一念三千なり。法華へ来たらずんば何れも餓鬼飢饉の苦しみなるべし。所詮 必ず中根の声聞領解の言に、我が身を餓鬼に類する事は、餓鬼は法界に食ありと云へども食する事を得ざるなり。諸法実相の一味の醍醐の妙法あれども、終に開覚に能はざる間、四十余年食にうへたり云云。一義に云く、序品・方便より諸法実相の甘露顕れて、南無妙法蓮華経あれども、広略二重の譬説段まで悟らざれば、餓鬼の満々とある食事をくらはざるが如し。所詮 日本国の一切衆生は餓鬼界の衆生なり。大王膳とは所謂 南無妙法蓮華経是れなり。遇の字には人法を納めたり。仍って末に「如飢須教食」と云へり。うゑたれ共、大王の教を待ちて醍醐を食するが如しと云へり。今南無妙法蓮華経あれ共、今身より仏身に至るまでの受持を受けずんば、成仏は有るべからざるなり。教とは爾前無得道 法華成仏の事なり。此の教を受けずんば、法華経を読誦すとも、大王の膳に登る事有るべからざるなり。醍醐は題目の五字なり云云。

◆啓運鈔巻二十六 化城喩品全/

 除諸如来。方便説〇。 
 疏に云く、除諸如来。方便説(化城喩品)とは、疑を断ずるなり。三は是れ方便の説なり。其れ実には三無きなり。高祖の御義(御講聞書 浄飯王摩耶夫人成仏証文の事(方便品)?)に、此の文は釈尊の父母成仏の文と云々。彼のごとし。 

 一 浄飯王摩耶夫人成仏証文の事(方便品)
 仰せに云く、方便品に云く「我始め道場に坐し樹を観じ亦経行して」の文是れなり。又寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来」の文是れなり。教主釈尊の成道の時、浄飯も摩耶も得道するなり。本迹二門の得道の文是れなり云云。此の文は日蓮が己心の大事なり。我始と我実との文能く能く之れを案ずべし。其の故は爾前経の心は父子各別の談道なり。然る間成仏之れ無し。今の経の時、父子の天性を定め父子一体と談ぜり。父母の成仏は即ち子の成仏なり。子の成仏は即ち父母の成仏なり。釈尊の我始坐道場の時、浄飯王・摩耶夫人も同時に成道なり。釈尊の我実成仏の時、浄飯王・摩耶夫人同時なり。始本共に同時の成道なり。此の法門は天台・伝教等を除きて知る人一人も之れ有るべからず。末法に入りて日蓮等の類、堅く秘すべき法門なり。譬へば蓮華の華菓の相離れざるが如くなり。

「諸母涕泣。而随送之」の事。高祖の御義(御義口伝 化城喩品 第三 諸母涕泣の事
)に云く、母とは元品の無明なり。此の無明より起こる処の惑障を諸と云うなり。流転の時は無明の母とつれて出るなり。無明の母とは禅・念仏・真言の人人なり。而随送之とは謗釈を指(さ)すなり。しかりと雖も終に法華経の広宣流布が顕われて、天下一同に法華経の行者とならるべきなり。随至道場。咸欲親近。是れなり。

御義口伝 第三 諸母涕泣の事
 御義口伝に云く、諸母とは諸は十六人の母と云ふ事なり。実義には、母とは元品の無明なり。此の無明より惑障を起こすを諸母とも云ふなり。流転の時は、無明の母とつれて出で、還滅の時は無明の母を殺すなり。無明の母とは念仏・禅・真言等の人々なり。「而随送之」とは謗人を指すなり。然りと雖も終に法華経の広宣流布顕はれて、天下一同に法華経の行者と成るべきなり。「随至道場 還欲親近」是れなり。

 「其祖転輪聖王」の事。御義(御義口伝 化城喩品 第四 其祖転輪聖王の事)に云く、本地身の仏とは此の文を習うなり。祖とは方便品の相性体の三如是なり。此の三如是は三世諸仏の父母なり。今日、日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱え奉れば、三世諸仏の父母にして其祖転輪聖王なり云々。

御義口伝 第四 其祖転輪聖王の事
 御義口伝に云く、本地身の仏とは此の文を習ふなり。祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是を祖と云ふなり。此の三如是より外に転輪聖王之れ無きなり。転輪とは生住異滅なり、聖王とは心法なり。此の三如是は三世の諸仏の父母なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、三世の諸仏の父母にして其祖、転輪聖王なり。金・銀・銅・鉄とは、金は生、銀は白骨にして死なり。銅は老の相、鉄は病なり。此れ即ち開示悟入の四仏知見なり。三世常恒に生死生死とめぐるを転輪聖王と云ふなり。此の転輪聖王の出現の時の輪宝とは、我等が吐く所の言語音声なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経なり。爰を以て平等大恵とは云ふなり。

御義(御講聞書 本有止観と云ふ事)に云く、本有の止観とは大通を習うなり。大通は止なり。智勝は観なり。 

御講聞書 一 本有止観と云ふ事
 仰せに云く、本有の止観と云ふは、大通を以て習ふなり。久遠実成道の仏と大通智勝仏〈止観〉と釈尊との三仏を、次の如く仏法僧の三宝と習ふなり。此の故に大通は本有の止観なれば、即ち三世の諸仏の師範と定めたり。仍って大通仏を法と習ふ。此の法は妙法蓮華経是れなり。仍って証文に云く「大通智勝仏 十劫坐道場」の文是れなり。十劫は即ち十界なり云云。(追加あり)

◆啓運鈔巻二十七 五百品全/

高祖の御義(御講聞書 貧人見此珠 其心大歓喜の事 五百弟子授記品)に云く、末法に入って此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。見宝塔と云うと見此珠とは同じ事なり。此珠とは我が一心なり。一念三千なり。此の経に値い奉る時き一念三千と開するを珠を見るとは云うなり。珠は体、中にある財は用なり。一心三千の財を具足せり。此珠を諸法実相と説き、大白牛車・宝塔とも皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。末法に入って未曽有の大曼陀羅こそ一念三千の宝珠なればなり。

 一 貧人見此珠 其心大歓喜の事 (五百弟子授記品)
 仰せに云く、此の珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。総じては一切衆生なり。所詮 末法に入りて、此の珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱へ奉る者は心大歓喜せり。されば見宝塔と云ふ見と、此の珠とは同じ事なり。所詮 此の珠とは我等衆生の一心なり、一念三千なり。此の経に値ひ奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云ふなり。此の珠は広く一切衆生の心法なり。此珠は体中にある財用なり。一心に三千具足の財を具足せり。此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車、三草二木、五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。此の経文、色心の実相歓喜を説けり。「見此珠」の見は色法なり。其心大と云ふは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云ふなり。所詮 此の珠と云ふは我等衆生の心法なり。仍って一念三千の宝珠なり。所謂 妙法蓮華経なり。今末法に入りて此の珠を顕はす事は日蓮等の類なり。所謂 未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ。見の字は、日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり。然りと雖も「其心大歓喜」と云ふ時は、日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり。所詮 煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する「其心大歓喜」なり。されば我等衆生、五百塵点の下種の珠を失ひて五道六道に輪廻し貧人となる。近くは三千塵点の下種を捨て備輪諸道せり。之れに依りて貧人と成る。今此珠を釈尊に値ひ奉り見付け得て本の如く取り得たり。此の故に心大歓喜せり。末法当今に於て、妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり。是れ併しながら末法の要法たる題目なり云云。

 我今従仏聞。授記荘厳事。及転次受決。身心遍歓喜。 
 御義(御義口伝 五百弟子授記品 第三 身心遍歓喜の事)に云く、身とは生死即涅槃なり。心とは煩悩即菩提なり。遍は十界同時なり。歓喜とは十界同時の歓喜なり。三世の諸仏の歓喜も納まるなり。今ま日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我即歓喜とて釈尊歓喜し玉ふなり。御義(御講聞書 無明悪酒の事 ?)に云く、無明の悪酒に酔うは弘法・慈覚・智証・法然等なり。無明の悪酒と云うは悪鬼入其身是れなり。悪鬼と悪酒と同じ事なり。悪鬼の鬼は第六天の魔王なり。悪酒の酒の無明なり。無明即魔王・魔王即無明なり。其の身とは日本国の謗法の一切衆生なり。入と呑とは同じき事なり。此の悪鬼が入る人は阿鼻に入るなり。法華の行者は仏知見の道に入り、無上道に入ることを得るなり。(御義口伝 二十八品に一文充の大事 五百弟子品)貧人は此の珠を見て其の心は大に歓喜す。

御義口伝 第三 身心遍歓喜の事
 御義口伝に云く、身とは生死即涅槃なり、心とは煩悩即菩提なり、遍とは十界同時なり、歓喜とは法界同時の歓喜なり。此の歓喜の内には三世諸仏の歓喜納まるなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、「我則歓喜」とて釈尊歓喜し給ふなり。歓喜とは善悪共に歓喜するなり。十界同時なり。深く之れを思ふべし云云。

御講聞書 一 無明悪酒の事 (?)
 仰せに云く、無明の悪酒に酔ふと云ふ事は、弘法・慈覚・智証・法然等の人々なり。無明の悪酒と云ふ証文は、勧持品に云く「悪鬼入其身」是れなり。悪鬼と悪酒とは同じ事なり。悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり、悪酒は無明なり。無明即魔王、魔王即無明なり。其身の身とは日本国の謗法の一切衆生なり。入ると呑むとは同じ事なり。此の悪鬼入る人は阿鼻に入る。さて法華経の行者は「入仏知見道故」(方便品)と見えて仏道に入る、「得入無上道」とも説けり。相構へ相構へて無明の悪酒を恐るべきなり云云。

御義口伝 二十八品に一文充の大事
 五百品
 日本国一切衆生 題目御本尊  心法色法 煩悩即菩提・生死即涅槃
 貧なる人、此の珠を見て 其の心大いに歓喜す

◆啓運鈔巻二十八 人記品全

 高祖の御義(御義口伝 人記品 第二 山海恵自在通王仏の事)に云く、山海の山とは煩悩即菩提。海とは生死即涅槃。山とは迹門。海とは本門。恵とは妙法の五字なり云々。(御義口伝 二十八品に一文充の大事 授学無学人記品第九)仏法に安住して以て無上道を求む

第二 山海恵自在通王仏の事
 御義口伝に云く、山とは煩悩即菩提なり、海とは生死即涅槃なり。恵とは我等が吐く所の言語なり、自在とは無障碍なり。通王とは十界互具・百界千如・一念三千なり。又云く、山とは迹門の意なり、海とは本門の意なり。恵とは妙法の五字なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は山海恵自在通王仏なり。全く外に非ざるなり。我等行者の外に阿難之れ無きなり。阿難とは歓喜なり、一念三千の開覚なり云云。

御義口伝 二十八品に一文充の大事 授学無学人記品第九
仏法に安住して〈安住しても〉 以て無上道を求む〈もとめたり〉

◆啓運鈔巻二十九 法師品全

御義(御講聞書 若有悪人 以不善心等の事 法師品)に云く、悪人とは在世には提婆・瞿伽利等なり。滅後にては弘法・慈覚・智証・善導・法然等なり云々。

一 若有悪人 以不善心等の事 (法師品)
 仰せに云く、悪人とは在世にては提婆・瞿伽利等なり。不善心とは悪心を以て仏を罵詈し奉る事を説くなり。滅後には悪人とは弘法・慈覚・智証・善導・法然等是れなり。不善心とは謗言なり。此の謗言を書写したる十住心等選択集等の謗法の書共なり。末法に入りて善人とは日蓮等の類なり。善心とは法華弘通の信心なり。所謂 南無妙法蓮華経是れなり云云。

高祖の御義(御義口伝 二十八品に一文充の大事 法師品)に云く、自在所欲生。 

御義口伝 二十八品に一文充の大事 法師品
     寂光
 当に知るべし、是の如き人は 生ぜんと欲する所に自在なり

高祖の御義(御義口伝 法師品 第八 欲捨諸懈怠 応当聴此経の事)に云く、諸とは四十余年の方便の経教なり。悉皆懈怠の経なり。此の経とは法華経の題目なり。今ま日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱え奉るは是れ即ち精進なり。応当聴此経とは是れなり。日蓮に応じて此の経を聞くべしと云へり。

御義口伝 第八 欲捨諸懈怠 応当聴此経の事
 御義口伝に云く、諸懈怠とは四十余年の方便の経教なり。悉く皆懈怠の経なり。此の経とは題目なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是れ即ち精進なり。「応当聴此経」は是れなり。応に日蓮に此の経を聞くべしと云へり云云。

 「及清信士女」の事。御義(御義口伝 法師品 第十一 及清信士女 供養於法師の事
)に云く、「法師」とは日蓮等の類なり。此れは諸天善神等の男女と顕われて法華の行者を供養すべしと云う文なり。 
 「若人欲加悪」の事。御義(御義口伝 法師品 第十二 若人欲加悪 刀杖及瓦石 則遣変化人 為之作衛護の事)に云く、変化人と等は竜口の守護の八幡大菩薩なり。日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱え奉る者を守護すべしと云う経文なり。
 
御義口伝 第十一 及清信士女 供養於法師の事
 御義口伝に云く、士女とは男女なり。法師とは日蓮等の類なり。清信とは法華経に信心の者なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是れなり云云。此れ諸天善神等男女と顕はれて法華経の行者を供養すべしと云ふ経文なり。

御義口伝 第十二 若人欲加悪 刀杖及瓦石 則遣変化人 為之作衛護の事
 御義口伝に云く、変化人とは竜口の守護八幡大菩薩なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者を守護すべしと云ふ経文なり。
 
 「若親近法師」の事。御義(御義口伝 法師品  第十三 若親近法師 速得菩薩道の事
)に云く、親近とは信受の異名なり。法師とは日蓮等の類なり。菩薩とは仏果を得る下地なり。今ま日蓮等の類の南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。/
 随順是師学。得見恒沙仏。 
 御義(御義口伝 法師品 第十六 得見恒沙仏の事)に云く、見恒沙仏とは見宝塔と云う事なり。恒沙仏とは多宝の事なり。多とは法界なり。宝とは一念三千の開悟なり。法界を多宝仏と見るを見恒沙仏と云うなり。此の故に法師品の次に宝塔品は来たるなり。解行証の法師の乗物は宝塔なり。日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱へ奉るは妙解・妙行・妙証、不思議の解了・不思議の行・不思議の証明なり。真実の一念三千の開悟なり。恒沙仏とは一一文々皆金色の仏体なり。見の字、これを思うべし。仏見と云う事なり。得見恒沙仏の見は正報、見宝塔の見は依報なり。

御義口伝 第十三 若親近法師 速得菩薩道の事
 御義口伝に云く、親近とは信受の異名なり。法師とは日蓮等の類なり。菩薩とは仏果を得る下地なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の事なり。

御義口伝 第十六 得見恒沙仏の事
 御義口伝に云く、「見恒沙仏」とは見宝塔と云ふ事なり。恒沙仏とは多宝の事なり。多宝の多とは法界なり。宝とは一念三千の開悟なり。法界を多宝仏と見るを「見恒沙仏」と云ふなり。故に法師品の次に宝塔品は来るなり。解行証の法師の乗り物、宝塔なり云云。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは、妙解・妙行・妙証の不思議の解、不思議の行、不思議の証得なり。真実一念三千の開悟なり云云。此の恒沙と云ふは、悪を滅し善を生ずる河なり。恒沙仏とは一々の文々、皆金色の仏体なり。見の字之れを思ふべし。仏見と云ふ事なり。随順とは仏知見なり。得見の見の字と見宝塔の見とは依正二報なり。「得見恒沙」の見は正報なり。見宝塔の見は依報なり云云。

御義(御講聞書 妙法蓮華経五字の蔵の事)に云く、妙法の蔵の中には一念三千の宝珠あり。玄の一に、秘密の奥蔵を発(ひら)く。法師品に、是法華経蔵。三世の諸仏は此の五字の蔵の中より華厳乃至般若等の宝を取り出して種々説法し玉へり。しかのみならず論師・人師等の疏釈も悉く此の五字の中より取り出して一切衆生に与え玉へり。又は金剛不壊の袋なり。上行菩薩は此の袋を其の侭日本国の衆生に与へ玉へり。信心を以て此の財宝を受け取るべきなり。

御講聞書 一 妙法蓮華経五字の蔵の事
 仰せに云く、此の意は妙法の五字の中には一念三千の宝珠あり。五字を蔵と定む。天台大師玄義の一に判ぜり。所謂「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり」云云。法華経の第四に云く「是法華経蔵」云云。妙〈華厳〉法〈阿含〉蓮〈方等〉華〈般若〉経〈涅槃〉。又云く「妙〈涅槃〉法〈般若〉蓮〈方等〉華〈阿含〉経〈華厳〉」已上。妙法蓮華経の五字には十界三千の宝珠あり。三世の諸仏は此の五字の蔵の中より、或は華厳の宝を取り出だし、或は阿含・方等・般若の宝を取り出だし、種々説法し玉へり。加之論師・人師等の疏釈も悉く此の五字の中より取り出だして一切衆生に与へ玉へり。此等は皆五字の中より取り出だし給へども、妙法蓮華経の袋をば持ち玉はず。所詮 五字は上行菩薩の付属にして、更に迹化の菩薩・諸論師いろはざる題目なり。仍って上行所伝の南無妙法蓮華経は蔵なり。金剛不壊の袋なり。此の袋をそのまま日本国の一切衆生に与へ玉へり。信心を以て此の財宝を受け取るべきなり。今末法に入りては日蓮等の類、受け取る所の如意宝珠なり云云。

◆啓運鈔巻三十 宝塔品上/

 御義(当体蓮華抄)に云く、衆生は無量の諸仏を納めたるいみじき塔婆なり。世間の塔は衆生は此の理を知らぬ間、自身は慥かに諸仏の塔婆にてあるぞと教えたる能詮なり。是れを利根の者は吾が身をまねたる世界の塔婆にてありけりと見る。是れを開悟とは云うなり。〇衆生の心はかかるぞと説きたるを法華経とは云うなり。されば法華経を説かれし時き多宝の塔は実に無かりしを、衆生の当体は此の多宝の塔の如くなるぞと教へん料に仏は出し玉へる者なり。されば人を殺すはをそろしき罪なり。しかるに一切衆生は皆な塔婆なり。〇我が心は仏の塔婆なりけりと信解する功徳は、百千の塔を造立する功徳も及ぶべからず云々。

当体蓮華抄
 されば衆生は無量の諸仏を納めたるいみじき塔婆なり。世間の塔は衆生の此の理をしらぬ間、自身は慥かに諸仏の塔婆にてあるぞと教へたる能詮なり。是れを利根の者は吾が身をまねたる法界の塔婆にてありけると知る、是れを開悟すとは云ふなり。此の胸の間なる八葉の蓮華を蓮華といふ、上なる九体の尊を妙法と云ふなり。天台の事相とは是の如く習ふなり。是れ最大秘法の法門なり。衆生の心はかかるぞと説きたるを法華経とは云ふなり。法華経を説かれし時、多宝の塔実に無かりしを、衆生の当体は此の多宝の塔の如くなるぞと教へん料に仏出だし給へる者なり。されば人を殺すはをそろしき罪なり。然るに一切衆生は皆塔婆なり。
況や我心は仏の塔婆なりけりと信解する功徳は、百千の堂塔を造立する功徳も及ふべからず。時に衆生の悪を造るは尤も僻事也云云。妙法蓮華経の体ならずと云ふことなし。

◆啓運鈔巻三十三  提婆品中/

高祖の御義(御義口伝 提婆達多品 第一 提婆達多の事)に云く、阿私仙人とは妙法の別名なり。阿とは無の義なり。私無き法とは妙法なり。文句の七に云く「私し無き法雨を以て衆生にそそぐ」と云へり。

御義口伝 第一 提婆達多の事
文句の八に云く「本地は清涼にして迹に天熱を示す」矣。
 御義口伝に云く、提婆とは本地は文殊なり。本地清涼と云ふなり。迹には提婆と云ふなり。天熱を示す是れなり。清涼は水なり。此れは生死即涅槃なり。天熱は火なり。是れは煩悩即菩提なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは煩悩即菩提・生死即涅槃なり。提婆は妙法蓮華経の別名なり。過去の時に阿私仙人なり。阿私仙人とは妙法の異名なり。阿とは無の義なり。無私の法とは妙法なり。文句の八に云く「無私の法を以て衆生に灑ぐ」(?)と云へり。阿私仙人とは法界三千の別名なり。故に私無きなり。一念三千之れを思ふべし云云。

◆啓運鈔巻三十四 提婆品下/

高祖の御義(御義口伝 提婆品 第六 年始八歳の事)に云く、智恵利根より能至菩提までは法華に帰入の上なり云々。

 高祖の御義(御義口伝 提婆品 第六 年始八歳の事)に云く、八歳とは竜女が一心なり。八とは三千なり。歳(たま)を八(ひらく)とは開仏知見の所表なり云々。一(たたけば)八(ひらく)云々。

 第六 年始八歳の事
 御義口伝に云く、八歳とは八巻なり。提婆は地獄界なり。竜女は仏界なり。然る間十界互具・百界千如・一念三千なり。又云く、八歳とは法華経八巻なり。我等八苦の煩悩なり。総じて法華経の成仏は八歳なりと心得べし。八苦は即ち八巻なり。八苦八巻即ち八歳の竜女と顕はるるなり。一義に云く、八歳の事はたまをひらくと読むなり。歳とは竜女の一心なり。八とは三千なり。三千とは法華の八巻なり。仍って八歳とは開仏知見の所表なり。「智恵利根」より「能至菩提」まで法華に帰入するなり。此の中に、「心念口演」とは口業なり。「志意和雅」とは意業なり。「悉能受持 深入禅定」とは身業なり。三業即三徳なれば三諦法性なり。又云く、心念とは一念なり。口演とは三千なり。「悉能受持」とは竜女法華経受持の文なり。歳とは如意宝珠なり、妙法なり。八とは色心を妙法と開くなり。

又(御義口伝 提婆品 第七 言論未訖の事)云く、言論未訖の事。此の文は無明即法性の明文なり。其の故は智積難問の言未だ訖らざるの時、竜女は三行半の偈を以て答えるなり。難問の意は別教の意なり。無明なり。智積を元品の無明と云う事は不信此女の不信の二字なり。不信とは疑惑なり。疑惑を根本無明と云うなり。竜女の答えるは円教の心にして法性なり。竜女を法性の女人と云う事は我闡大乗教の文是れなり。仍て無明に即する法性、法性に即する無明なり。今ま日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱へ奉るは言論未訖なり。時とは上の事の末へ、末の事の始めなり。時とは無明法性同時の時なり。南無妙法蓮華経と唱え奉る時なり。

御義(御義口伝 提婆品 第七 言論未訖の事)に云く、竜女の二字は父子同時の成仏なり。父の成仏は序品にあり。有八竜王の文是れなり。女めの成仏は此の品にあり。しかりと雖も父子同時の成仏なり。序品は一経の序なるが故なり云々。又(同)云く、又聞成菩提とは、竜女が智積を責めたるなり。唯だ我が成仏をば仏御存知あるべしとて唯仏当証知といへり。又(同)云く、竜女成仏は帝王持経の先祖たり。人王の始めは神武天王なり。此れは地神五代萱葺不合尊の御子なり。此の不合尊は豊玉姫の子なり。此の豊玉姫は娑竭羅竜王の女なり。八歳の竜女のあねなり。しかる間、先祖は法華の行者なり。甚だこれを秘せ云々。

御義口伝 第七 言論未訖の事
 御義口伝に云く、此の文は無明即法性の明文なり。其の故は智積難問の言未だ訖らざるに、竜女三行半の偈を以て答ふるなり。難問の意は別教の意なり、無明なり。竜女の答は円教の意なり、法性なり。智積は元品の無明なり。竜女は法性の女人なり。仍って無明に即する法性、法性に即する無明なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは「言論未訖」なり。時とは上の事の末、末の事の始なり。時とは無明法性同時の時なり。南無妙法蓮華経と唱へ奉る時なり。智積菩薩を元品の無明と云ふ事は、「不信此女」の不信の二字なり。不信とは疑惑なり。疑惑を根本無明と云ふなり。竜女を法性と云ふ事は我闡大乗教の文なり。竜女とは、竜は父なり。女は八歳の娘なり。竜女の二字は父子同時の成仏なり。其の故は時竜王女の文是れなり。既に竜王の女と云ふ間、竜王は父なり。女とは八歳の子なり。されば女の成仏は此の品にあり。父の竜の成仏は序品に之れ在り。有八竜王の文是れなり。然りと雖も父子同時の成仏なり。序品は一経の序なる故なり。「又聞成菩提」とは竜女が智積を責めたる言なり。されば唯我が成仏をば仏御存知あるべしとて、「又聞成菩提 唯仏当証知」と云へり。苦の衆生とは別して女人の事なり。此の三行半の偈は一念三千の法門なり。「遍照於十方」とは十界なり。殊には此の八歳の竜女の成仏は、帝王持経の先祖たり。人王の始は神武天皇なり。神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり。此の葺不合尊は豊玉姫の子なり。此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり。八歳の竜女の姉なり。然る間先祖は法華経の行者なり。甚深甚深云云。されば此の提婆の一品は一天の腰刀なり。無明煩悩の敵を切り、生死愛着の縄を切る秘法なり。漢高三尺の剣も一字の智剣に及ばざるなり。妙の一字の智剣を以て生死煩悩の縄を切るなり。提婆は火炎を顕はし、竜女は大蛇を示し、文殊は智剣を顕はすなり。仍って不動明王の尊形と口伝せり。提婆は我等が煩悩即菩提を顕はすなり。竜女は生死即涅槃を顕はすなり。文殊をば此には妙徳と翻ずるなり。煩悩生死具足して当品の能化なり。

(御義口伝 提婆品 第八 有一宝珠の事)云く、竜女が手に持ちたる時は性徳の宝珠なり。仏が受け取り給う時は修徳の宝珠なり。中にあるは修性不二なり。又(同)云く、観我成仏とは、舎利弗は竜女が成仏と思うか。僻事なり。我が成仏ぞと観ぜよと責めたるなり。変じて男子と成る。已上。

御義口伝 第八 有一宝珠の事
 文句の八に云く「一とは珠を献じて円解を得ることを表はす」矣。
 御義口伝に云く、一とは妙法蓮華経なり。宝とは妙法の用なり。珠とは妙法の体なり。妙の故に心法なり。法の故に色法なり。色法は珠なり。心法は宝なり。妙法とは色心不二なり。一念三千を所表して竜女宝珠を奉るなり。釈に表得円解と云ふは一念三千なり。竜女が手に持てる時は性得の宝珠なり。仏受け取り給ふ時は修得の宝珠なり。中に有るは修性不二なり。甚疾とは頓極・頓速・頓証の法門なり。「則為疾得 無上仏道」なり。神力とは神は心法なり。「観我成仏」とは、舎利弗の竜女が成仏と思ふは僻事なり。我が成仏ぞと観ぜよと責めたるなり。観に六即の観之れ有り。爰元の観は名字即の観と心得べきなり。其の故は、南無妙法蓮華経と聞ける処を「一念に道場に坐して成仏虚しからざるなり」と云へり。変成男子とは竜女も本地南無妙法蓮華経なり。其の意経文に分明なり。

◆啓運抄巻三十五/ 勧持品全// 妙法蓮華経勧持品第十三。

「心不実故」の事。高祖の御義(御義口伝 勧持品 第三 心不実故の事)に云く、心不実故とは、法華最第一の経文を第三と読み、最在其上を最在其下と読み、法華経の一念三千を華厳・大日経にありと云ひ、法華の即身成仏を大日経に取り入る。此等は皆以て心不実故なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は心実なるなり。御義(御義口伝 勧持品 第五 作師子吼の事)に云く、作師子吼と云うは○、師とは師匠の授ける処の妙法、子とは弟子の受ける所の妙法、吼とは師弟共に唱える音声なり。作ををこすと読むなり。末法にして南無妙法蓮華経ををこすなり。 

御義口伝 第三 心不実故の事
 御義口伝に云く、「心不実故」とは法華最第一の経文を第三と読み、「最為其上」の経文を最為其下と読みて、法華経の一念三千を華厳大日等に之れ有りと、法華の即身成仏を大日経に取り入るるは、此等は皆「心不実故」なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は心実なるべし云云。

御義口伝 第五 作師子吼の事
 御義口伝に云く、師子吼とは仏の説法なり。説法とは法華、別しては南無妙法蓮華経なり。師とは師匠授くる処の妙法、子とは弟子受くる処の妙法、吼とは師弟共に唱ふる所の音声なり。作とはをこすと読むなり。末代にして南無妙法蓮華経を作すなり。
 
◆啓運抄巻三十八 涌出品上//

御義(御講聞書 天台云く是我弟子応弘我法の事 涌出品)に云く、我法とは南無妙法蓮華経なり。権教乃至始覚等は随他意なれば他の法なり。此の題目の五字は五百塵点已来証得の法体なれば我法といへり。〇又(御講聞書 日蓮門家の大事の事 涌出品)云く、止善男子の止の字は正しく日蓮門家の大事なり。秘すべし秘すべし。総じて止の一字は門家の明鏡の中の明鏡なり。口外は詮無し。上行菩薩を除いては総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり。〇又(御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 勧発品)云く、父とは日蓮なり。子とは日蓮が弟子檀那なり。世界は日本国なり。益とは受持成仏なり。法とは上行所伝の題目なり。


御講聞書 一 天台云く是我弟子応弘我法の事 (涌出品)
 仰せに云く、我が弟子とは上行菩薩なり。我が法とは南無妙法蓮華経なり。権教乃至始覚等は随他意なれば他の法なり。さて此の題目の五字は、五百塵点より已来証得し玉へる法体なり。故に我が法と釈せり。天台云く「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり。三世の如来の証得したまへる所とは是れなり」。

御講聞書 一 日蓮門家の大事の事 (涌出品)
 仰せに云く、此の門家の大事は涌出品の前三後三の釈なり。此の釈無くんば、本化・迹化の不同、像法付属・末法付属、迹門・本門等の起尽之れ有るべからず。既に「止善男子」の止の一字は日蓮門家の大事なり。秘すべし秘すべし。総じて止の一字は正しく日蓮門家の明鏡の中の明鏡なり。秘すべし秘すべし。口外も詮無し。上行菩薩等を除きては、総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり云云。

御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 一 勧発品
 御義口伝に云く、此の品は再演法華なり。本迹二門の極理、此の品に至極するなり。慈覚大師云く、十界の衆生は発心修行と釈し玉ふは此の品の事なり。所詮 此の品と序品とは生死の二法なり。序品は我等衆生の生なり。此の品は一切衆生の死なり。生死一念なるを妙法蓮華経と云ふなり。品々に於て、初めの題号は生の方、終りの方は死の方なり。此の法華経は生死生死と転たり。生の故に始めに如是我聞と置く。如は生の義なり。死の故に終りに作礼而去と結びたり。去は死の義なり。作礼の言は生死の間に成しと成す処の我等衆生の所作なり。此の所作とは妙法蓮華経なり。礼とは不乱の義なり。法界妙法なれば不乱なり。天台大師云く「体の字は礼に訓ず、礼は法なり。各々其の親を親とし各々其の子を子とす。出世の法体、亦復是の如し」矣。体とは妙法蓮華経の事なり。先づ体玄義を釈するなり。体とは十界の異体なり。是れを法華経の体とせり。此等を作礼而去とは説かれたり。法界の千草万木・地獄餓鬼等、何の界も諸法実相の作礼に非ずと云ふ事なし。是れ即ち普賢菩薩なり。普とは法界、賢とは作礼而去なり。此れ即ち妙法蓮華経なり。爰を以て品々の初めにも五字を題し、終りにも五字を以て結し、前後中間南無妙法蓮華経の七字なり。末法弘通の要法は唯此の一段に之れ有るなり。此等の心を失ひて要法に結ばずんば、末法弘通の法には不足の者なり。剰へ日蓮が本意を失ふべし。日蓮が弟子檀那、別の才覚無益なり。妙楽の釈に云く「子、父の法を弘むるに世界の益有り」。子とは地涌の菩薩なり。父とは釈尊なり。世界とは日本国なり。益とは成仏なり。法とは南無妙法蓮華経なり。今又以て此の如し。父とは日蓮なり。子とは日蓮が弟子檀那なり。世界とは日本国なり。益とは受持成仏なり。法とは上行所伝の題目なり。六老僧の所望に依りて、老期たりと雖も、日蓮が本意の一揚を護義せしめ畢んぬ。是れ併しながら私に最要文を集めて談誦せしむる所なり。然る間、法華の諸要文書き付け畢んぬ。此の意は、或は陰文取義、或は陰義取文、或は文義共顕、或は文義共陰の講談なり。委しくは注法華経を拝見すべきなり。然りと雖も文義深遠の間、愚昧及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈に此の注法華経に過ぎんや。

◆啓運抄巻三十九/ 涌出品下//

御義(御義口伝 涌出品一箇の大事)に云く、下方とは理なり。此の理の住処より顕わに出づるを事と云うなり。又(同)云く、此の菩薩は本法所持の人たり。本法とは南無妙法蓮華経なり。此の題目は必ず地涌の菩薩の所持の物にして、迹化の菩薩の所持にはあらざるなり。此の本法の体より用を出だして、あるいは止観と弘め、一念三千と云ふ。総じて論師人師の所釈等も此の妙法の用を弘めたまふなり。又(同)云く、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。又(御講聞書 不染世間法 如蓮華在水 従地而涌出の事 涌出品)云く、不染世間法。如蓮華在水とは、国王大臣より所領を給わり、官位を給ふとも、其れには染せられず。謗法供養を受けざるを以て不染世間法と云うなり。又(同)云く、蓮華は水を離れて生長せず。水とは南無妙法蓮華経是れなり。本化の菩薩は蓮華の如く過去久遠より以来た本法所持の菩薩なり。
 私に云く、不染世間法は所譬なり。法なり。如蓮華在水は能譬なり。しかるを今の御義(前文)は不染世間法の句をば去って如蓮華在水の一句を以て法譬の意を判じ玉ふなり。又(同)云く、水とは我等行者の信心なり。蓮華は本因本果の妙法なり。信心の水に妙法蓮華は生長せり。
 私に云く、上の御義(前文)は法体を水に譬へ、行者を蓮華に譬えり。次の御義(前文)は行者の信を水に譬へ、法体を蓮華に譬えたり。「法雖可軌○通之在人」の意なり。かくの如く水と華と互に譬へらるる事は、人法一体なれば自在の義を設け玉ふなり。又(御講聞書 願仏為未来 演説令開解の事 涌出品)云く、演説令開解と云うは、本門の心は十界本有と開きて始覚のきづなを解(とき)たり。大衆の疑を開き解(とか)しめ玉へと云う事なり。此の開解を寿量品にして汝等当信解と誡め玉へり。開解したまはずんば大衆は皆疑惑を生じ、疑を生ぜば三悪道へ堕つべしと既に弥勒菩薩は申されたり。此の時は寿量品が顕われずんば則ち当堕悪道すべきなり。寿量品の法門の大切なるは是れなり。(順序 編集)

御義口伝 涌出品一箇の大事
 御義口伝に云く、涌出の一品は悉く本化の菩薩の事なり。本化の菩薩の所作は南無妙法蓮華経なり。此れを唱と云ふなり。導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり。末法の導師とは本化に限ると云ふを師と云ふなり。此の四大菩薩の事を釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表はす。上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表はす。有る時には一人に此の四義を具す。二死の表に出づるを上行と名づく。断常の際を踰ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆるが故に浄行と名づく。道樹徳円なるが故に安立行と曰ふなり」矣。又云く、火は物を焼くを以て行とし、水は物を浄むるを以て行とし、風は塵垢を払ふを以て行とし、大地は草木を長ずるを以て行とするなり。四大菩薩の利益とは是れなり。四大菩薩の行は不同なりと雖も倶に妙法蓮華経の修行なり。此の四菩薩は下方に住する故に、釈に「法性の淵底、玄宗の極地」と云ふ。下方を以て住処とす。下方とは真理なり。輔正記に云く「下方とは生公の云く、住して理に在るなり」云云。此の理の住処より顕はれ出づるを事と云ふなり。又云く、千草万木地涌の菩薩に非ずと云ふ事なし。されば地涌の菩薩を本地と云へり。本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり。此の菩薩は本法所持の人なり。本法とは南無妙法蓮華経なり。此の題目は必ず地涌の所持の物にして、迹化の菩薩の所持に非ず。此の本法の体より用を出だして止観と弘め一念三千と云ふ。総じて大師人師の所釈も此の妙法の用を弘め玉ふなり。此の本法を受持するは信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。無疑曰信の釈、之れを思ふべし云云。

御講聞書 一 不染世間法 如蓮華在水 従地而涌出の事 (涌出品)
 仰せに云く、世間法とは全く貪欲等に染せられず、譬へば蓮華の水の中より生ずれども淤泥にそまざるが如し。此の蓮華と云ふは地涌の菩薩に譬へたり。地とは法性の大地なり。所詮 法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し。但唯一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり。世間の法とは、国王大臣より所領を給はり官位を給ふとも、夫れには染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり。所詮 蓮華は水をはなれて生長せず。水とは南無妙法蓮華経是れなり。本化の菩薩は蓮華の如く、過去久遠より已来本法所持の菩薩なり。蓮華在水とは是れなり。所詮此の水とは我等行者の信心なり。蓮華は本因本果の妙法なり。信心の水に妙法蓮華は生長せり。地とは我等衆生の心地なり。涌出とは広宣流布の時、一閻浮提の一切衆生、法華経の行者となるべきを涌出とは云ふなり云云。

御講聞書 一 願仏為未来 演説令開解の事 (涌出品)
 仰せに云く、此の文は弥勒菩薩等、末法当今の為に「我従久遠来教化是等衆」の言を「演説令開解」せしめ給へ、と請じ奉る経文なり。此の請文に依りて寿量品は顕はれたり。五百塵点久遠の法門是れなり。開解とは、教主釈尊の御内証に此の分ををさえ玉ふを、願はくは開かしめ玉へ、同じく一会の大衆の疑ひをも解かしめ玉へ、と請ずるなり。此の開解の語を寿量品にして「汝等当信解」と誡め玉へり。若し開解し玉はずんば「大衆皆法華経」に於て疑惑を生ずべしと見給へり。疑ひを生ぜば三悪道に堕つべしと、既に弥勒菩薩申されたり。此の時寿量品顕はれずんば「即当堕悪道」すべきなり。寿量品の法門大切なるは是れなり。さて此の開解の開に於て二あり。迹門の意は諸法を実相の一理と会したり。さては諸法を実相と開きて見れば、十界悉く妙法実相の一理なりと開くを「開仏智見」と説けり。さて本門の意は十界本有と開きて始覚のきづなを解きたり。此の重を開解と申されたり。仍って演説の二字は釈尊、開解の両字は大衆なり。此の演説とは寿量品の久遠の事なり。終に釈尊、寿量品を説かせ玉ひて一切大衆の疑惑を破り給へり云云。

 又(御講聞書 日蓮門家の大事の事 涌出品)云く、日蓮門家の大事とは、涌出品の前三後三の釈なり。此の釈無くんば本化・迹化の不同、像法付属・末法付属、迹門・本門等の起尽もこれあるべからず。又(御講聞書 日蓮が弟子臆病にては叶ふべからざる事 涌出品)云く、日蓮が門家は憶病にて叶うべからずと云う事は、問答対論の時は爾前迹門の釈尊をもこれを用うべからず。此れは憶病にて釈尊を用いまじきかなんど思ふべき故なり。釈尊をさへ用うべからず。況や其れ已下の等覚の菩薩をや。増して謗法の人々においてをや。所詮、南無妙法蓮華経の大音声を出して諸経諸宗を対治すべし。巧於難問答。其心無所畏とは是れなり。 
 昼夜常精進(御義口伝 二十八品に一文充の大事 涌出品)。仏道を求むるが為めの故なり〈仏道を求(もと)めたつことは故(もとより)となり〉

御講聞書 一 日蓮門家の大事の事 (涌出品)
 仰せに云く、此の門家の大事は涌出品の前三後三の釈なり。此の釈無くんば、本化・迹化の不同、像法付属・末法付属、迹門・本門等の起尽之れ有るべからず。既に「止善男子」の止の一字は日蓮門家の大事なり。秘すべし秘すべし。総じて止の一字は正しく日蓮門家の明鏡の中の明鏡なり。秘すべし秘すべし。口外も詮無し。上行菩薩等を除きては、総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり云云。

御講聞書 一 日蓮が弟子臆病にては叶ふべからざる事 (涌出品)
 仰せに云く、此の意は問答対論の時は、爾前迹門の釈尊をも用ゐるべからざるなり。此れは臆病にては釈尊を用ゐまじきかなんど思ふべき故なり。釈尊をさへ用ゐるべからず、何に況や其れ以下の等覚の菩薩をや。況して謗法の人々に於てをや。所謂 南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし。「巧於難問答 其心無所畏」とは是れなり云云。

御義口伝 二十八品に一文充の大事 涌出品
 昼夜に常に精進す 仏道を求めんが為の故に〈仏道を求めたることもとよりなり〉
 此の文は、一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。所謂 南無妙法蓮華経は精進行なり。

 ◆啓運抄巻之四十 寿量品上 

 高祖の御義(御義口伝 寿量品 第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事)に云く、今日蓮等の類の意は、如来とは総じては一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作三身とは末法の法華の行者なり。

御義口伝 第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事
 文句の九に云く「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。別して本地三仏の別号なり。寿量とは詮量なり。十方三世の二仏・三仏・本仏・迹仏の功徳を詮量するなり。今は本地の三仏の功徳を詮量する故に如来寿量品と言ふ」矣。
 御義口伝に云く、此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付属是れなり。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是れなり。六即の配立の時は、此の品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時は名字即なり。其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり。此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障を伏するを相似即と云ふなり。化他に出づるを分真即と云ふなり。無作三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云ふなり。総じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得べきなり。無作三身の所作は何物ぞと云ふ時、南無妙法蓮華経なり云云。

高祖の御義(御義口伝 寿量品 第三 我実成仏已来 無量無辺等の事)に云く、我れ実とに成仏して已にも来にも無量なり無辺なり。百界千如一念三千なりと説かれたり。是れ即ち事の一念三千なり。已とは過去なり。来とは未来なり云々。

御義口伝 第三 我実成仏已来 無量無辺等の事
 御義口伝に云く、我とは釈尊久遠実成道なりと云ふ事を説かれたり。然りと雖も当品の意は、我とは法界の衆生なり。十界己々を指して我と云ふなり。実とは無作三身の仏なりと定めたり。此れを実と云ふなり。成とは能成・所成なり。成は開く義なり。法界無作の三身の仏なりと開きたり。仏とは此れを覚知するを云ふなり。已とは過去なり。来とは未来なり。已来の言の中に現在は有るなり。我実と成けたる仏にして、已も来も無量なり、無辺なり。百界千如・一念三千と説かれたり。百千の二字は、百は百界、千は千如なり。此れ即ち事の一念三千なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は寿量品の本主なり。総じて迹化の菩薩、此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり。彼れは迹表本裏、此れは本面迹裏なり。然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍って下種を以て末法の詮と為す云云。

 ◆啓運抄巻四十一 寿量品中//

御義(御義口伝 寿量品 第五 若仏久住於世 薄徳之人 不種善根 貧窮下賤 貪著五欲 入於憶想 妄見網中の事)に云く、妄とは権教妄語の経教なり。見とは法華最第一の一を第三と等見る邪見なり。網中とは謗法不信の家なり。今ま日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、かかる妄見網中を離れたる者なり。

御義口伝 第五 若仏久住於世 薄徳之人 不種善根 貧窮下賤 貪著五欲 入於憶想 妄見網中の事
 御義口伝に云く、此の経文は仏世に久住し玉はば、薄徳の人は善根を殖うるべからず。然る間「妄見網中」と説かれたり。所詮 此の薄徳とは在世に漏れたる衆生、今滅後日本国に生まれたり。所謂 念仏・禅・真言等の謗法なり。「不種善根」とは、善根は題目なり。不種とは未だ持たざる者なり。憶想とは捨閉閣抛、第三の劣等、此の如き憶想なり。妄とは権教妄語の経教なり。見は邪見なり。法華最第一の一を第三と見るが邪見なり。網中とは謗法不信の家なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、かかる妄見の経、網中の家を離れたる者なり云云。

◆啓運抄巻四十二 寿量品下

御義(御義口伝 寿量品 第八 擣?和合 与子令服の事)に云く、法華の行者の南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、謗法の供養を受けざるは貪欲の病を治すなり。罵れども忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり。是人於仏道〇疑と成仏を知るは愚癡の病を治すなり。今ま日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る大良薬の本意なり云々。

御義口伝 第八 擣?和合 与子令服の事
 御義口伝に云く、此の経文は空仮中の三諦、戒定恵の三学なり。色香美味の良薬なり。擣は空諦なり。?は仮諦なり。和合は中道なり。与は授与なり。子は法華の行者なり。服すると云ふは受持の義なり。是れを「此大良薬 色香美味 皆悉具足」と説かれたり。皆悉の二字は万行万善諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり。色香等とは「一色一香無非中道」にして草木成仏なり。されば題目の五字に一法として具足せずと云ふ事なし。若し服する者は「速除苦悩」なり。されば妙法の大良薬を服する者は貪・瞋・痴の三毒の煩悩の病患を除くなり。法華の行者南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり。法華の行者罵詈せらるるも忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり。法華経の行者、「是人於仏道 決定無有疑」と成仏を知るは愚痴の煩悩を治するなり。されば大良薬は末法の成仏の甘露なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大良薬の本主なり。

御義(御義口伝 寿量品 第十一 自我得仏来の事)に云く、自我得仏来とは、一句三身の習いの文と云うなり。我は法身、仏は報身、来は応身なり云々。

第十一 自我得仏来の事
 御義口伝に云く、一句三身の習ひの文と云ふなり。自とは九界なり。我とは仏界なり。此の十界は本有無作の三身にして来たる仏なりと云へり。自も我も得たる仏来たれり。十界本有の明文なり。我は法身、仏は報身、来は応身なり。此の三身、無始無終の古仏にして自得なり。「無上宝聚 不求自得」之れを思ふべし。然れば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは「自我得仏来」の行者なり云云。

「放逸」の事。御義(御義口伝 寿量品 第十七 放逸著五欲 堕於悪道中の事)に云く、放逸とは謗法の名なり云々。

御義口伝 第十七 放逸著五欲 堕於悪道中の事
 御義口伝に云く、放逸とは謗法の名なり。入阿鼻獄疑ひ無き者なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は此の経文を免離せり云云。

高祖の御義(御講聞書 蓮華の事 ?)に云く、本因本果と云うは一念三千なり。本有の因・本有の果なり。今始めたる因果にあらざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。本有の因と云うは下種の題目なり。本有の果とは成仏なり。因と云うは信心領納の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因のまま成道なりと云いて本果とは云うなり。日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とせり。本因なくしては本果はあるべからず。仍て本因は恵の因にして名字即の位なり。本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住所なり。神力品に云く「若山谷曠野」と等説いて「即是道場」と見えたり。あに法華の行者の住処は生処・得道・転法輪・入涅槃の三世の諸仏の四処道場にあらずや。

御講聞書 一 蓮華の事 ?
 蓮華とは本因本果なり。此の本因本果と云ふは一念三千なり。本有の因、本有の果なり。今始めたる因果に非ざるなり。五百塵点の法門とは此の事を説かれたり。本因の因と云ふは下種の題目なり。本果の果とは成仏なり。因と云ふは信心領納の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因の侭成仏なりと云ふを本果と云ふなり。日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり。本因なくしては本果は有るべからず。仍って本因とは恵の因にして名字即の位なり。本果は果にして究竟即の位なり。究竟即とは九識本覚の異名なり。九識本法の都とは法華の行者の住処なり。神力品に云く「若しは山谷曠野」等と説けり。「即ち是れ道場」と見えたり。豈に法華の行者の住処は生処・得道・転法輪・入涅槃の三世諸仏の四処道場に非ざらんや云云。

 御義(御義口伝 寿量品 十四 時第我及衆僧 倶出霊鷲山の事)に云く、時我及衆僧。倶出霊鷲山とは、霊山一会儼然未散の文なり。時とは感応末法の時なり。我とは釈尊なり。及びとは菩薩なり。聖衆を衆僧と云うなり。倶とは十界なり。霊鷲山とは寂光なり。時に我れも及び衆も僧も倶に出(いづ)る霊鷲山なり。これを秘すべし。本門の事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕わし出すなり。されば倶とは不変真如の理なり。出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり。出とは三千なり。又云く、時とは本時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕わす文なり。其の故は、時とは末法第五の時を云うなり。我とは釈尊。及は菩薩。衆僧は二乗。倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊なり。今ま日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云々。又(御義口伝 寿量品 第十五 衆生見劫尽○而衆見焼尽の事)云く、我此土安穏は国土世間。衆生所遊楽は衆生世間。宝樹多華菓は五陰世間。此れ即ち一念三千の明文なり云々。宝樹を五陰と云う。これを思うべし。又(御義口伝 寿量品 第十六 我亦為世父の事)云く、主師親において仏に約し経に約して成すなり。仏に約すとは、迹門の仏の三徳は今此三界の文なり。本門の仏の三徳は、主の徳は我此土安穏の文なり。師の恩とは常説法教化の文なり。親の恩とは我亦為世父の文なり。経に約せば、諸経中王は主の徳。能救一切衆生は師の徳。一切衆生之父は父の徳なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の師なり。無間地獄の苦を救ふ故なり。涅槃経に云く、一切衆生の異の苦を受けるは悉く是れ如来一人の苦なり。(諌暁八幡抄)日蓮云く、一切衆生の異の苦を受けるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。又(御義口伝 寿量品 第十八 行道不行道の事)云く、行道不行道とは十界なり。行道は四聖、不行道は六道なり。行道は修羅・人天、不行道は三悪道なり。今、末法に入っては法華の行者は行道なり。謗法者は不行道なり。道とは法華経なり。今ま日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは行道なり。唱えざる者は不行道なり。又(御義口伝 寿量品 第十九 毎自作是念の事)云く、毎自作是念とは、毎とは三世なり。自とは別しては釈尊、総じては十界なり。是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり。実(まことに)成(ひらけ)たりとは無作と開けたるなり。又(御義口伝 寿量品 第二十四 此の寿量品の所化の国土と修行との事)云く、寿量品の所化と国土と修行との事。所化とは日本国の一切衆生なり。国土とは日本国なり。総じては南閻浮提なり。修行とは無疑曰信の信心の事なり。授与の人は本化地涌の菩薩なり。又(御義口伝 寿量品 第二十五 建立御本尊等の事)云く、御本尊の依文とは、如来秘密神通之力の文なり。戒定恵の三学、寿量品の事の三大秘法是れなり。日蓮は慥かに霊山において面授口決するなり。本尊とは法華行者の一身の当体なり云々。
 私に云く、三学に約せば、戒壇は戒なり。題目は定。本尊は恵か。又(御義口伝 寿量品 第二十六 寿量品の対告衆の事)云く、寿量品の対告衆は弥勒菩薩なり。是れ末法の法華の行者なり。弥勒をば慈氏と云うは法華の行者をさすなり。章安大師は為彼除悪即是親と。是れ豈に弥勒菩薩にあらずや。

御義口伝 第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山の事
 御義口伝に云く、「霊山一会厳然未散」の文なり。時とは感応末法の時なり。我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり。霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づるなり。秘すべし秘すべし。本門事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし給ふなり。されば倶とは不変真如の理なり。出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり。出とは三千なり云云。又云く、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕はす文なり。其の故は、時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所を説くなり云云。

御義口伝 第十五 衆生見劫尽○而衆見焼尽の事
 御義口伝に云く、本門寿量の一念三千を頌する文なり。「大火所焼時」とは実義には煩悩の大火なり。「我此土安穏」とは国土世間なり。「衆生所遊楽」とは衆生世間なり。「宝樹多華菓」とは五陰世間なり。是れ即ち一念三千を分明に説かれたり。又云く、上の件の文は十界なり。大火とは地獄界なり。天鼓とは畜生界なり。人と天とは人天の二界なり。天と人と常に充満するなり。「雨曼陀羅華」とは声聞界なり。園林とは縁覚界なり。菩薩界とは及の一字なり。仏界とは散仏なり。修羅・餓鬼界とは「憂怖諸苦悩 如是悉充満」の句に摂するなり。此等を「是諸罪衆生」と説かれたり。然りと雖も此の寿量品の説顕はれては、「則皆見我身」とて一念三千なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は是れなり云云。

御義口伝 第十六 我亦為世父の事
 御義口伝に云く、我とは釈尊、一切衆生の父なり。主師親に於て仏に約し経に約す。仏に約すとは、迹門の仏の三徳は今此三界の文是れなり。本門の仏の主師親の三徳は、主の徳は「我此土安穏」の文なり。師の徳は「常説法教化」の文なり。親の徳は此の「我亦為世父」の文是れなり。妙楽大師は、寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し玉へり。経に約せば、「諸経中王」は主の徳なり。「能救一切衆生」は師の徳なり。「又如大梵天王一切衆生之父」の文は父の徳なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦」云云。日蓮が云く、一切衆生の異の苦を受くるは、悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。

御義口伝 第十八 行道不行道の事
 御義口伝に云く、十界の衆生の事を説くなり。行道は四聖、不行道は六道なり。又云く、行道は修羅・人天、不行道は三悪道なり。所詮 末法に入りては法華の行者は行道なり。謗法の者は不行道なり。道とは法華経なり。天台の云く「仏道とは別して今経を指す」矣。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは行道なり。唱へざるは不行道なり云云。

御義口伝 第十九 毎自作是念の事
 御義口伝に云く、毎とは三世なり。自とは別しては釈尊、総じては十界なり。是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり。作とは、此の作は有作の作に非ず、無作本有の作なり云云。広く十界本有に約して云はば、自とは万法己々の当体なり。是念とは地獄呵責の音、其の外一切衆生の念々、皆是れ自受用報身の智なり。是れを念と云ふなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る念は大慈悲の念なり云云。

 第二十四 此の寿量品の所化の国土と修行との事
 御義口伝に云く、当品流布の国土とは日本国なり。総じては南閻浮提なり。所化とは日本国の一切衆生なり。修行とは無疑曰信の信心の事なり。授与の人とは本化地涌の菩薩なり云云。

第二十五 建立御本尊等の事
 御義口伝に云く、此の本尊の依文とは「如来秘密神通之力」の文なり。戒定恵の三学、寿量品の事の三大秘法是れなり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

第二十六 寿量品の対告衆の事
 御義口伝に云く、経文は弥勒菩薩なり。然りと雖も滅後を本とする故に日本国の一切衆生なり。中にも日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是れなり。弥勒とは末法法華の行者の事なり。弥勒をば慈氏と云ふ。法華の行者を指すなり。章安大師の云く「彼れが為に悪を除くは即ち是れ彼れが親なり」矣。是れ豈に弥勒菩薩に非ずや云云。

◆啓運抄巻四十三 分別功徳品全

御義(御義口伝 分別功徳品 第一 其有衆生 聞仏寿命 長遠如是 乃至能生 一念信解 所得功徳 無有限量の事)に云く、一念信解の信の一字は一切の智恵を受得する所の因種なり。信の一字は名字即の位なり。信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。一念とは無作本有の一念なり。又(御義口伝 分別功徳品 第二 是則能信受 如是諸人等 頂受此経典の事)云く、頂受此経典とは、法華経を頭に頂くと云う明文なり。三世十方の諸仏は妙法蓮華経を受けて成道し玉うなり。寿量品の題号に妙法蓮華経と題して、次に如来と題したり。秘すべし秘すべし。今、日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱へ奉るは此の故なり。又(御義口伝 随喜功徳品 第一 妙法蓮華経随喜功徳の事)云く、信心は随喜なり。随喜は信心なり。 

御義口伝 第一 其有衆生 聞仏寿命 長遠如是 乃至能生 一念信解 所得功徳 無有限量の事
 御義口伝に云く、「一念信解」の信の一字は一切智恵を受得する処の因種なり。信の一字は名字即の位なり。仍って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり。解とは事顕本を解するなり。此の事理の顕本を一念に信解するなり。一念とは無作本有の一念なり。此の如く信解する人の功徳は、限量有る事有るべからざるなり。信の処に解あり。解の処に信あり。然りと雖も信を以て成仏を決定するなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是れなり云云。

 第二 是則能信受 如是諸人等 頂受此経典の事
 御義口伝に云く、法華経を頭に頂くと云ふ明文なり。「如是諸人等」の文は広く一切衆生に亘るなり。然れば三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頭に受けて成仏し玉ふ。仍って上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して次に如来と題したり。秘すべし云云。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは此の故なり云云。

御義口伝 第一 妙法蓮華経随喜功徳の事
 御義口伝に云く、随とは事理に随順するを云ふなり。喜とは自他共に喜ぶ事なり。事とは五百塵点の事顕本に随順するなり。理とは理顕本に随ふなり。所詮 寿量品の内証に随順するを随とは云ふなり。然るに自他共に智恵と慈悲有るを喜とは云ふなり。所詮 今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、必ず無作三身の仏に成るを喜とは云ふなり。然る間、随とは法に約し、喜とは人に約するなり。人とは五百塵点の古仏たる釈尊、法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり。是れに随ひ喜ぶを随喜とは云ふなり。総じて随とは信の異名なり云云。唯信心の事を随と云ふなり。されば二の巻に「此の経に随順す 己が智分に非ず」と説かれたり。

◆啓運抄巻之四十四  随喜功徳品全

 御義(御義口伝 随喜功徳品 第二 口気無臭穢 優鉢華之香 常従其口出の事)に云く、口気無臭穢とは、口気とは題目なり。臭穢無しとは、弥陀等の権教方便無得道の経教を受けざるなり。優鉢花之香とは法華経なり。末法の今は題目なり。方便品の如優曇鉢花の事を一念三千と云へり。常とは三世常住なり。其口とは法花行者の口なり。出とは南無妙法蓮華経なり。今ま日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱え奉るは常従其口出なり云々。又(御講聞書 見仏聞法 信受教誨の事 (随喜功徳品))云く、見仏聞法。信受教誨とは、末代に入っては仏を見るは寿量品の釈尊、法を聞くは南無妙法蓮華経、教誨とは日蓮等の類が教化する処の諸宗無得道の教化なり。信受するは法華の行者なり。寿量の顕本の眼顕われては、見仏は無作三身なり。聞法は万法己々の音声なり。見聞とは色法なり。信受は心法なり。色心二法に備わりたる南無妙法蓮華経なり。

御義口伝 第二 口気無臭穢 優鉢華之香 常従其口出の事
 御義口伝に云く、口気とは題目なり。無臭穢とは弥陀等の権教方便無得道教を交へざるなり。「優鉢華之香」とは法華経なり。末法の今は題目なり。方便品に「如優曇鉢華」の事を一念三千と云へり。之れを案ずべし。常とは三世常住なり。其口とは法華の行者の口なり。出とは南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは「常従其口出」なり云云。

御講聞書 一 見仏聞法 信受教誨の事 (随喜功徳品)
 仰せに云く、此の経文は一念随喜の人は五十の功徳を備ふべし。然る間「見仏聞法」の功徳を具足せり。此の五十展転の五十人の功徳を随喜功徳品に説かれたり。仍って世々生々の間「見仏聞法」の功徳を備へたり。所詮 末法に入りて仏を見るとは寿量品の釈尊、法を聞くとは南無妙法蓮華経なり。教誨とは日蓮等の類、教化する所の諸宗無得道の教誡なり。信受するは法華経の行者なり。所詮 寿量開顕の眼顕はれては、此の見仏は無作の三身なり。聞法は万法己々の音声なり。「信受教誨」は本有随縁真如の振舞ひなり。是れ即ち色心の二法なり。見聞とは色法なり。信受は信心領納なれば心法なり。所謂 色心の二法に備へたる南無妙法蓮華経是れなり云云。

◆啓運抄巻四十五 法師功徳品全//

 御義(御義口伝 法師功徳品 第一 法師功徳の事)に云く、妙法蓮華経の法の師となりて功徳(をヽいなるさいはい)あり。功なる徳いとは即身成仏なり。六根清浄なり。又悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云うなり。又(御義口伝 法師功徳品 第二 六根清浄の事)云く、眼の功徳とは不信の者は堕獄、信者は成仏と見るを云うなり。法華経を持ち奉る処が眼の功徳なり。眼とは法華経なり。此方等経是諸仏眼矣。今日蓮等の類が南無妙法蓮華経と唱え奉る者の眼の功徳を説くなり。耳鼻舌も又かくのごとし云々。

御義口伝 第一 法師功徳の事
 御義口伝に云く、法師とは五種法師なり。功徳とは六根清浄の果報なり。所詮 今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大なる徳有るなり。功は幸と云ふ事なり。又悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり。又六根清浄なり。法華経を説文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり云云。

御義口伝 第二 六根清浄の事
 御義口伝に云く、眼の功徳とは、法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るを以て、眼の功徳とするなり。法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり。眼とは法華経なり。此の大乗経典は諸仏の眼目なり、と。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は眼の功徳を得るなり云云。耳鼻舌身意、又々此の如きなり云云。

◆啓運抄巻四十六/ 不軽品全//

 御義(御義口伝 不軽品 第五 我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏の事)に云く、二十四字は略法華経なり。又(御義口伝 不軽品 第七 乃至遠見の事)云く、凡有所見の見は内証所具の仏性を見るなり。此れは理なり。乃至遠見の見は四衆と云う間だ事なり。上は心法を見る。今は色法を見る。色法は本門の四一、心法は迹門の四一なり。遠の一字は寿量の久遠なり。又(御義口伝 不軽品 第八 心不浄者の事)云く、謗法の者は色心共に不浄なり。心法不浄の文は今ま此の心不浄者なり。身の不浄は譬喩品に云く、身常嗅処。垢穢不浄云々。今ま日蓮等の類の南無妙法蓮華経と唱え奉るは色心共に清浄なり。身浄は法師功徳品に云く、若持法華経。其身甚清浄。心清浄とは提婆品に云く、浄心信敬。浄とは法華経の信心なり。不浄とは謗法なり。又(御義口伝 不軽品 第九 言是無智比丘の事)云く、是無智比丘とは、末法に入って日蓮等の類の南無妙法蓮華経と唱え奉らん者は無智の比丘と謗られん事は経文明鏡なり。無智を以て法華経の機と定めたり。又(御義口伝 不軽品 第十五 於如来滅後等の事)云く、法華一部は一往は在世の為なり。再往は悉く末法の為なり。品々の法門は題目の用なり。体の妙法が末法の用たらば、何ぞ用の品々は別ならんや。此の法門は秘すべし秘すべし。天台云く、如提綱維無目而不動等の釈は此の心なり。妙楽云く、略挙経題。此等を意得ざる者は末法の弘法に足らざる者なり。又(御義口伝 不軽品 第二十 我本行菩薩道の文礼拝住処の事)云く、我本行菩薩の菩薩は不軽菩薩なり。此れを礼拝の住所と云うなり。又(御義口伝 不軽品 第二十一 生老病死の礼拝住処の事)云く、煩悩即菩提・生死即涅槃と教える当体を礼拝と云うなり。左右の両手を開く時は煩悩・生死・菩提・涅槃・上慢・不軽各別なり。礼拝する時は両手を合せるなり。煩悩即菩提・生死即涅槃。上慢所具の仏性も一種の妙法なりと礼拝するなり。又(御義口伝 不軽品  第二十二 法性礼拝住処の事)云く、法性を礼拝の住所と云う事は、不軽菩薩は真如仏性の南無妙法蓮華経の二十四字に足を立てて、無明の上慢の四衆の蘊在衆生の仏性を礼拝するなり。

御義口伝 第五 我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏の事
 御義口伝に云く、此の二十四字と妙法の五字は替はれども其の意は之れ同じ。二十四字は略法華経なり。

御義口伝 第七 乃至遠見の事
 御義口伝に云く、上の凡有所見の見は内証所具の仏性を見るなり。此れは理なり。遠見の見は四衆と云ふ間、事なり。仍って上は心法を見る。今は色法を見る。色法は本門の開悟、四一開会なり。心法を見るは迹門の意、又四一開会なり。遠の一字は寿量品の久遠なり。故に「故往礼拝」と云へり云云。

御義口伝 第八 心不浄者の事
 御義口伝に云く、謗法の者は色心二法共に不浄なり。先づ心不浄の文は今の此の「心不浄者」なり。又身不浄の文は譬喩品に「身常臭処垢穢不浄」と云へり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は色心共に清浄なり。身浄は法師功徳品に云く「若持法華経其身甚清浄」の文なり。心浄とは提婆品に云く「浄心信敬」云云。浄とは法華経の信心なり。不浄とは謗法なり云云。

御義口伝 第九 言是無智比丘の事
 御義口伝に云く、此の文は法華経の明文なり。上慢の四衆、不軽菩薩を無智の比丘と罵詈せり。凡有所見の菩薩を無智と云ふ事、第六天の魔王の所為なり。末法に入りて日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は無智の比丘と謗ぜられん事、経文の明鏡なり。無智を以て法華経の機と定めたり。

御義口伝 第十五 於如来滅後等の事
 御義口伝に云く、不軽菩薩の修行は此の如くなり。仏の滅後に五種の妙法蓮華経を修行すべしと見えたり。正しく是故より下二十五字は、末法日蓮等の類の事なるべし。既に是の故にとをさへて「於如来滅後」と説かれたり。流通の品なる故なり。総じて流通とは未来当今の為なり。法華経一部は一往は在世の為なり。再往は末法当今の為なり。其の故は、妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり。品々の法門は題目の用なり。体の妙法末法の為たらば、何ぞ用の品々別ならんや。此の法門、秘すべし秘すべし。天台の「綱維を提ぐるに目として動かざること無きが如し」等と釈するは此の意なり。妙楽大師は「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」矣。此等を心得ざる者は末法の弘通に足らざる者なり。

御義口伝 第二十 我本行菩薩道の文礼拝住処の事
 御義口伝に云く、我とは本因妙の時を指すなり。「本行菩薩道」の文は不軽菩薩なり。此れを礼拝の住処と指すなり云云。

御義口伝 第二十一 生老病死の礼拝住処の事
 御義口伝に云く、一切衆生生老病死を厭離せず、無常遷滅の当体に迷ふに依りて後世菩提を覚知せざるなり。此れを示す時、煩悩即菩提・生死即涅槃と教ふる当体を礼拝と云ふなり。左右の両の手を開く時は、煩悩・生死・上慢・菩提・涅槃・不軽各別なり。礼拝する時、両の手を合はするは煩悩即菩提・生死即涅槃なり。上慢の四衆の所具の仏性も、不軽所具の仏性も、一種の妙法なりと礼拝するなり云云。

御義口伝 第二十二 法性礼拝住処の事
 御義口伝に云く、不軽菩薩、法性真如の三因仏性たる南無妙法蓮華経の二十四字に足を立て、無明上慢の四衆を拝するは、「蘊在衆生」の仏性を礼拝するなり云云。

 ◆啓運抄巻四十七/ 神力品全//

御義(御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 神力品)に云く、凡夫は体の神力、三世の諸仏は用の神力なり。神は心、力は色なり。力は法、神は妙なり

御義口伝 一 神力品
 御義口伝に云く、十種の神力を現じて上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付属したまふ。此の神力とは十界三千の衆生の神力なり。凡夫は体の神力、三世の諸仏は用の神力なり。神とは心法、力とは色法なり。力は法、神は妙なり。妙法の神力なれば十界悉く神力なり。蓮華の神力なれば十界清浄の神力なり。総じて三世の諸仏の神力とは此の品に尽くせり。釈尊出世の神力の本意も此の品の神力なり。所謂 妙法蓮華経の神力なり。十界皆成と談ずるより外の諸仏の神力は之れ有るべからず。一切の法門、神力に非ずと云ふ事なし云云。

御義(御講聞書? 法華経極理の事? 神力品)(御義口伝? 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事?)に云く、総じて一経を結すとは、題目の総号(?)に一経を結すと云う事なり云々。

御講聞書 一 法華経極理の事 (神力品)
 仰せに云く、迹門には二乗作仏、本門には久遠実成、此れをさして極理と云ふなり。但し是れも未だ極理にたらず。迹門にして極理の文は「諸仏智恵 甚深無量」の文是れなり。其の故は、此の文を受けて文句の三に云く「竪に如理の底に徹し、横に法界の辺を窮む」と釈せり。さて本門の極理と云ふは「如来秘密神通之力」の文是れなり。所詮 日蓮が意に云く、法華経の極理とは南無妙法蓮華経是れなり。一切の功徳法門、釈尊の因行果徳の二法、三世十方の諸仏の修因感果、法華経の文々句々の功徳を取り聚めて、此の南無妙法蓮華経と成し給へり。爰を以て釈に云く「総じて一経を結するに唯四のみ。其の枢柄を撮りて之れを授与す」云云。上行菩薩に授与し給ふ題目の外に法華経の極理は之れ無きなり云云。

御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事
 疏の十に云く「総じて一経を結するに唯四のみ。其の枢柄を撮りて之れを授与す」矣。
 御義口伝に云く、一経とは本迹二十八品なり。唯四とは名用体宗の四なり。枢柄とは唯題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。之れとは妙法蓮華経なり云云。此の釈分明なり。今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり、心なり。二十八品は用なり。二十八品は助行なり。題目は正行なり。正行に助行を摂すべきなり云云。

御義(御義口伝 普賢品 第六 此人不久 当詣道場の事)に云く、於我滅度後○無有疑。此の文をば仏廻向の文と習うなり。

御義口伝 第六 此人不久 当詣道場の事
 御義口伝に云く、此の人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去りて彼しこに行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住所を云ふなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所は山谷曠野皆寂光土なり。此れを道場と云ふなり。「此の因易むること無きが故に直至と云ふ」の釈、之れを思ふべし。此の品の時最上第一の相伝あり。釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り玉ふなり。八字とは「当に起ちて遠く迎へて、当に仏を敬ふが如くすべし」の文なり。此の文に迄りて経は終るなり。当の字は未来なり。「当起遠迎」とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬ふべしと云ふ経文なり。法師品には「此の経巻に於て敬ひ視ること仏の如くす」と云へり。八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の「諸仏智恵」、終りは「当起遠迎当如敬仏」の八字なり。但此の八字を以て法華一部の要路とせり。されば文句の十に云く「当起遠迎当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述するなり」矣。法華一部は信の一字を以て本とせり云云。尋ねて云く、今の法華経に於て序品には首めに如の字を置き、終りの普賢品には去の字を置く。羅什三蔵の心地何なる表事の法門ぞや。答へて云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は、実相は理なり。久遠は事なり。理は空の義なり。空は如の義なり。之れに依りて如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名づく。即ち空の義なり」矣。久遠は事なり。其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。去は久遠に当たるなり。去は開の義、如は合の義なり。開は分別の心なり。合は無分別の意なり。此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに如の字を顕はしたるは生仏不二の義なり。迹門は不二の分なり。不変真如なる故なり。此の如是我聞の如をば不変真如の如と習ふなり。空仮中の三諦には、如は空、是は中、我聞は仮諦。迹門は空を面と為す。故に不二の上の而二なり。然る間而二の義を顕はす時、同聞衆を別に列ぬるなり。さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり。仍って去の字を置くなり。作礼而去の去は随縁真如の如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。「而二不二、常同常別、古今法爾」の釈、之れを思ふべし。此の去の字は彼の五千起去の去と習ふなり。其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云ふ義なり。如去の二字は生死の二法なり。伝教云く「去は無来の如来、無去の円去等」云云。如の字は一切法是れ心の義、去の字は只心是れ一切法の義なり。一切法是れ心は迹門の不変真如なり。只心是れ一切法は本門の随縁真如なり。然る間法界を一心に縮むるは如の義なり。法界に開くは去の義なり。三諦・三観の口決相承と意同じ云云。一義に云く、如は実なり、去は相なり。実は心王、相は心数なり。又諸法は去なり、実相は如なり。今経一部の始終、諸法実相の四字に習ふとは是れなり。釈に云く「今経は何を以て体と為るや。諸法実相を以て体と為す」矣。今一重立ち入りて日蓮が修行に配当せば、如とは如説修行の如なり。其の故は結要五字の付属を宣べ玉ふ時、宝塔品に事起こり、「声徹下方」し、「近令有在遠令有在」と云ひて、有在の二字を以て本化・迹化の付属を宣ぶるなり。仍って本門の密序と習ふなり。さて二仏並座し、分身の諸仏集まりて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕はし、釈尊十種の神力を現じて四句に結び、上行菩薩に付属し玉ふ。其の付属とは妙法の首題なり。総別の付属、塔中・塔外、之れを思ふべし。之れに依りて涌出・寿量に事顕はれ、神力・属累に事竟るなり。此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有りて、五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと、経文に親り之れ在り。夫れとは神力品に云く「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑」云云。此の文明白なり。仍って此の文をば仏の回向の文と習ふなり。去る間、此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり。此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去りて妙覚極果の膚を瑩く事を顕はす故に、さて去の字を終りに結ぶなり。仍って上に受持仏語と説けり。煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照らされて一心一念遍於法界と観達せらる。然る間、還りて己心の仏を礼す。故に作礼而去とは説き玉ふなり。「彼々三千互遍亦爾」の釈、之れを思ふべし。秘すべし秘すべし。唯授一人の相承なり。口外すべからず。然れば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。

 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事。疏の十に云く、総結一経○而授与之。御義口伝(御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事)に云く、一経とは本迹の二十八品なり。唯四と云うは名用体宗の四なり。樞柄とは題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。授与と云うは南無妙法蓮華経なり。此の釈の意は分明なり。今、日蓮弘通の南無妙法蓮華経は体なり。心なり。二十八品は用なり。二十八品は助行なり。題目は正行なり。正行に助行を摂すべきなり云々。

御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事
 疏の十に云く「総じて一経を結するに唯四のみ。其の枢柄を撮りて之れを授与す」矣。
 御義口伝に云く、一経とは本迹二十八品なり。唯四とは名用体宗の四なり。枢柄とは唯題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。之れとは妙法蓮華経なり云云。此の釈分明なり。今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり、心なり。二十八品は用なり。二十八品は助行なり。題目は正行なり。正行に助行を摂すべきなり云云。

 御義(御義口伝 神力品 第一 妙法蓮華経如来神力の事)に云く、妙法蓮華経を上行菩薩に付属するの事は、宝塔品の時に事起こり、寿量品の時き事顕われ、神力・属累の時き事極まるなり。又(同)云く、妙法の五字は如来の神(たましい)力(ちから)なり。寿量品の神通之力とこれ同じ。又(同)云く、妙法蓮華経は如来の神(かみ)との力の品と云う事なり。此の神とは山王七社等なり。又(御義口伝 神力品 第七 斯人行世間 能滅衆生闇の事)云く、斯人行世間とは、此の人は上行菩薩なり。世間と云うは日本国なり。衆生闇とは謗法の大重闇なり。能滅の体とは南無妙法蓮華経なり。今、日蓮等の類是れなり。又(御義口伝 神力品 第八 畢竟住一乗○是人於仏道 決定無有疑の事)云く、畢竟住一乗等は、畢竟とは広宣流布なり。住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住すべきなり。是人とは名字即の凡夫なり。仏道とは究竟即なり。是の人は仏道において決定として疑あること無し。 

御義口伝 第一 妙法蓮華経如来神力の事
 文句の十に云く「神は不測に名づけ、力は幹用に名づく。不測は即ち天然の体深く、幹用は則ち転変の力大なり。此の中深法を付属せんが為に十種の大力を現ず。故に神力品と名づく」矣。
 御義口伝に云く、此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり。既に此の品の時上行菩薩に付属し玉ふ故なり。総じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属したまふ事は、宝塔品の時事起こり、寿量品の時事顕はれ、神力・属累の時事竟るなり。如来とは上の寿量品の如来なり。神力とは十種の神力なり。所詮 妙法蓮華経の五字は神と力となり。神力とは上の寿量品の時の「如来秘密神通之力」の文と同じきなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る処の題目なり。此の十種の神力は在世・滅後に亘るなり。然りと雖も十種共に滅後に限ると心得べきなり。又云く、妙法蓮華経如来と神との力の品と心得べきなり云云。如来とは一切衆生なり。寿量品の如し。仍って釈にも如来とは上に釈し畢んぬと云へり。此の神とは山王七社等なり。此の旨之れを案ずべきなり云云。

御義口伝 第七 斯人行世間 能滅衆生闇の事
 御義口伝に云く、斯人とは上行菩薩なり。世間とは大日本国なり。衆生闇とは謗法の大重病なり。能滅の体は南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類、是れなり云云。

御義口伝 第八 畢竟住一乗○是人於仏道 決定無有疑の事
 御義口伝に云く、畢竟とは広宣流布なり。住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住すべき者なり。是人とは名字即の凡夫なり。仏道とは究竟即なり。疑とは根本疑惑の無明を指すなり。末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏すべしと定むるなり云云。

◆啓運抄巻四十八/ 嘱累品全//

爾時釈迦牟尼仏。従法座起。  立像の釈迦是れなり。虚空に住立して付属し玉ふなり。此の品は尚を虚空会なり。御義(御義口伝 属累品 第一 従法座起の事)に云く、従法座起とは、塔中の座を立ちたまふは塔外の儀式なり云々

御義口伝 第一 従法座起の事
 御義口伝に云く、起とは塔中の座を起ちて塔外の儀式なり。三摩の付属有るなり。三摩の付属とは身口意の三業・三諦・三観と付属し玉ふ事なり云云。

余深法中。示教利喜○。  御義(御義口伝 二十八品に一文充の大事 属累品)に、如来の智恵を信ずる者には当に為に此の法華経を演説すべし。

御義口伝 二十八品に一文充の大事 属累品
 如来の智恵を信ずる者には当に此の法華経を演説すべし 〈演説するに〉

御義(御義口伝 属累品 第三 如世尊勅 当具奉行の事)に云く、如世尊勅。当具奉行とは、諸菩薩等の誓言の文なり。諸天善神等を日蓮等の類が諌暁するは、此の文に依るなり云々。

御義口伝 第三 如世尊勅 当具奉行の事
 御義口伝に云く、諸菩薩等の誓言の文なり。諸天善神・菩薩等を日蓮等の類の諫暁するは此の文に依るなり云云。

◆啓運抄巻四十九 薬王品全//

御義(御講聞書 諸河無鹹の事 ?)に云く、諸経に一念三千の法門無きは、諸河にしほの味無きが如し。死人のごとし。法華経に一念三千の法門あるは、うしほの大海にあるが如し。生きたる人の如し。

御講聞書 一 諸河無鹹の事 (?)
 仰せに云く、此の無鹹の事をば諸教無得道に譬へたり。大海のしをはやきをば法華経の成仏得道に譬へたり。又諸経に一念三千の法門無きは諸河にうしをの味はひ無きが如く、死人の如し。法華経に一念三千の法門有るは、うしをの大海にあるが如く生きたる人の如し。法華経を浅く信ずるはあはのうしをの如し、深く信ずるは海水の如し。あはは消えやすし、海水は消えざるなり。如説修行最も以て大切なり。然りと雖も諸経の大河の極深なるも、大海のあはのしをの味をば具足せず。権経の仏は、法華経の理即の凡夫には百千万倍劣るなり云云。

御義(御義口伝 薬王品 第三 離一切苦 一切病痛 能解一切 生死之縛の事)に云く、離の字をあきらむと読むなり。本来本有の苦悩・病痛とあきらめたり。自受用の智恵なり。

御義口伝 第三 離一切苦 一切病痛 能解一切 生死之縛の事
 御義口伝に云く、法華の心は煩悩即菩提・生死即涅槃なり。離解の二字は此の説相に背くなり。然るに離の字をば明とよむなり。本門寿量の恵眼開けて見れば、本来本有の病痛苦悩なりと明きらめたり。仍って自受用報身の智恵なり。解とは我等が生死は今始まりたる生死に非ず、本来本有の生死なり。始覚の思縛解くるなり云云。離解の二字は南無妙法蓮華経なり云云。

御義(御義口伝 薬王品 第二 十喩の事)に云く、十喩は十界なり。土山の下に地獄を含めり。江河に餓鬼・畜生を摂せり。日月の下に修羅を納めり。凡夫人とは人間なり。羅漢・支仏もあり。菩薩為第一。如仏為諸法王は菩薩・仏なり云々

御義口伝 第二 十喩の事
 御義口伝に云く、十喩とは十界なり。此の山の下に地獄界を含めり。川流・江河に餓鬼・畜生を摂せり。日月の下に修羅を収めたり。凡夫人とは人間なり。声聞とは四向四果の阿羅漢なり。縁覚とは「辟支仏中」と説かれたり。菩薩は「菩薩為第一」と云へり。仏界は「如仏為諸法王」と見えたり。此の十界を十喩と挙げて教相を分別して、さて妙法蓮華経の於一仏乗より分別説三する時、此の如く挙げたり。仍って一念三千の法門なり。一念三千は抜苦与楽なり。

◆啓運抄巻五十 妙音品全//

御義(御義口伝 妙音品 第二 肉髻白毫の事)に云く、肉髻は随縁真如の智なり。白毫は不変真如の理なり。我等衆生の始めは亦色なり。肉髻なり。随縁真如の智なり。しかして後の白首は白毫なり。不変真如の理なり。これを秘すべし。

 第二 肉髻白毫の事
 御義口伝に云く、此の二つの相好は孝順師長より起これり。法華経を持ち奉るを以て一切の孝養の最頂とせり。又云く、此の白毫とは父の淫なり。肉髻とは母の淫なり。赤白二渧今経に来たりて肉髻白毫と顕はれたり。又云く、肉髻は随縁真如の智なり。白毫は不変真如の理なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは此等の相好を具足するなり。我等が生の始めは赤色肉髻なり。死後の白骨は白毫相なり。生の始めの赤色は随縁真如の智なり。死後の白骨は不変真如の理なり。秘すべし秘すべし云云。

御義(御義口伝 二十八品に一文充の大事 妙音品)に云く、身、動揺せずしてしかして三昧に入る。久遠を悟るを身不動揺と云うなり。惑障を尽くさずして寂光に入るを三昧と云うなり。所謂る南無妙法蓮華経云々。

御義口伝 二十八品に一文充の大事 妙音品
  久遠  寂光土
 身動揺せずして 三昧に入る
 此の文は、即ち久遠を悟るを身不動揺と云ふなり。惑障を尽くさずして寂光に入るを三昧とは云ふなり。所謂 南無妙法蓮華経の三昧なり云云。

御義(御義口伝 普賢品 第三 八万四千天女の事)に云く、八万四千七宝鉢とは〇我等が八万四千の塵労なり。南無妙法蓮華経と唱え奉る処で八万四千の法門と顕われるなり。法華経の文字は開結二経合して八万四千なり。鉢とは器なり。妙法の法水(?)を受持するを鉢と意得べきなり。

御義口伝 第三 八万四千天女の事
 御義口伝に云く、八万四千の塵労門なり。是れ即ち煩悩即菩提・生死即涅槃なり。七宝の冠とは頭上の七穴なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は是れなり云云。

◆啓運抄巻五十二/ 普門品下//

御義(御義口伝 普門品 第三 念々勿生疑の事)に云く、一の念は六凡、一の念は四聖なり。又前念後念なり。又三世常住の念念なり。

御義口伝 第三 念々勿生疑の事
 御義口伝に云く、念々とは一の念は六凡なり。一の念は四聖なり。六凡四聖の利益を施すなり。疑心を生ずること勿れ云云。又云く、念々とは前念後念なり。又云く、妙法を念ずるに疑ひを生ずべからず云云。又三世常住の念々なり。之れに依りて上の文に是故衆生念と。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉りて「念々勿生疑」の信心に住すべきなり。煩悩即菩提・生死即涅槃、疑ひ有るべからざるなり云云。

◆啓運抄巻五十三 陀羅尼品全

御義(御義口伝 陀羅尼品 第二 安爾曼爾の事)に云く、安爾は止なり。曼爾は観なり。此の安爾曼爾より止観の二法を釈し出したり。此の呪は薬王菩薩の呪なり。薬王は天台大師なり。安爾は心なり。妙なり。曼爾は色なり。法なり。色心妙法と呪ふ時に即身成仏するなり

御義口伝 第二 安爾曼爾の事
 御義口伝に云く、安爾とは止なり。曼爾とは観なり。此の安爾曼爾より止観の二法を釈し出だせり。仍って此の呪は薬王菩薩の呪なり。薬王菩薩は天台の本地なり。安爾は我等が心法なり、妙なり。曼爾は我等が色法なり、法なり。色心妙法と呪する時は即身成仏なり云云。

御義(御義口伝 陀羅尼品 第三 鬼子母神の事)に云く、鬼〈父・五識〉子〈十女・六識〉母〈訶利帝・八識〉神〈母・九識〉。流転門〈悪鬼〉。還滅門〈善鬼〉。三宝荒神とは十羅刹女なり。又(御義口伝 陀羅尼品 第五 皐諦女の事)云く、皐諦女は本地文殊なり。九悪一善なり。御義の心は増長の本地は勇施、広目の本地は薬王なりと見えたり。御義(御講聞書 妙法蓮華経陀羅尼の事(陀羅尼品))に云く、五字は体なり。陀羅尼は用なり。五字は我等が色心なり。陀羅尼は我等が色心の作用なり。 

御義口伝 第三 鬼子母神の事
 御義口伝に云く、鬼とは父なり。子とは十羅刹女なり。母とは伽利帝母なり。逆次に次第する時は、神とは九識なり。母とは八識へ出づる無明なり。子とは七識六識なり。鬼とは五識なり。流転門の時は悪鬼なり。還滅門の時は善鬼なり。仍って十界互具・百界千如の一念三千を鬼子母神・十羅刹女と云ふなり。三宝荒神とは十羅刹女の事なり。所謂 飢渇神・貪欲神・障碍神なり。今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり。荒神とは法華不信の人なり。法華経の行者の前にては守護神なり云云。

御義口伝 第五 皐諦女の事
 御義口伝に云く、皐諦女は本地は文殊菩薩なり。山海何なる処にても法華経の行者を守護すべしと云ふ経文なり。九悪一善とて皐諦女をば一善と定めたり。十悪の煩悩の時は偸盗に皐諦女は当たれり。逆次に次第するなり云云。

御講聞書 一 妙法蓮華経陀羅尼の事(陀羅尼品)
 仰せに云く、妙法蓮華経陀羅尼とは正直捨方便 但説無上道なり。五字は体なり、陀羅尼は用なり。妙法の五字は我等が色心なり、陀羅尼は色心の作用なり。所詮 陀羅尼とは呪なり。妙法蓮華経を以て煩悩即菩提・生死即涅槃と呪ひたるなり。日蓮等の類、南無妙法蓮華経を受持するを以て呪とは云ふなり。「若有能持 即持仏身」とまじないたるなり。釈に云く「陀羅尼とは諸仏の密号」と判ぜり。所詮 法華折伏破権門理の義、遮悪持善の義なり云云。

 ◆啓運抄巻五十四 厳王品全

〈題号の事〉妙法蓮華経妙荘厳王本事品第二十七。 
 御義(御義口伝 厳王品 第一 妙荘厳王の事)に云く、妙〈空〉荘厳〈仮〉王〈中〉

御義口伝 第一 妙荘厳王の事
 文句の十に云く「妙荘厳とは妙法の功徳をもって諸根を荘厳するなり」矣。
 御義口伝に云く、妙とは妙法の功徳なり。諸根とは六根なり。此の妙法の功徳を以て六根を荘厳すべき名なり。所詮 妙とは空諦なり。荘厳とは仮諦なり。王とは中道なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は悉く妙荘厳王なり云云。

御義(御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 厳王品)に云く、沙羅樹王とは梵語なり。此れには熾盛光と云ふ。一切衆生は皆是れ熾盛光なり。此の熾盛光より出生したる一切衆生なり。此の故に十界衆生の父なり。熾盛光とはあるいは大黒天神とも云い、あるいは土宮神とも云うなり。しかれども父母交会の一念なり。法華経の意は自受用智なり。忽然火起。焚焼舎宅とは是れなり。煩悩一念の火が起こりて迷悟不二の舎宅を焼くなり。邪見とは此れなり。此れを邪見即正と照らすは南無妙法蓮華経の智恵なり。所詮六凡は父なり。四聖は子なり。子は正見、六凡は邪見の故に、六道の衆生は皆是れ我が父母是れなり云々。

御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 一 厳王品
 御義口伝に云く、此の品は二子の教化に依りて、父の妙荘厳王邪見を翻し、正見に住し沙羅樹王仏と成るなり。沙羅樹王とは梵語なり。此れには熾盛光と云ふ。一切衆生は皆是れ熾盛光より出生したる一切衆生なり。此の故に十界の衆生の父なり。熾盛光とは或は大黒天神とも云ひ、或は土宮神とも云ふなり。然れども父母交会の一念なり。法華の心にては自受用智なり。忽然火起焚焼舎宅とは是れなり。煩悩の一念の火起こりて迷悟不二の舎宅を焼くなり。邪見とは是れなり。此の邪見を邪見即正と照らしたるは南無妙法蓮華経の智恵なり。所謂 六凡は父なり、四聖は子なり。四聖は正見、六凡は邪見、故に六道の衆生は皆是れ我が父母とは是れなり云云。

◆啓運抄巻五十五/ 普賢品全

御義(御義口伝 普賢品 第一 普賢菩薩の事)に云く、普とは諸法実相、迹門の不変真如の理なり。賢と智恵の義なり。本門の随縁真如の智なり。しかる間、経末に来て本迹二門を恋法し玉へり。
   
御義口伝 第一 普賢菩薩の事
 文句の十に云く「勧発とは恋法の辞なり」矣。
 御義口伝に云く、勧発とは勧は化他、発は自行なり。普とは諸法実相、迹門の不変真如の理なり。賢とは智恵の義、本門の随縁真如の智なり。然る間経末に来たりて本迹二門を恋法し玉へり。所詮 今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は普賢菩薩の守護なり云云。

御義(御義口伝 普賢品 第四 是人命終 為千仏授手の事)に云く、謗法の人には獄卒が迎えに来る。法華の行者には千仏が来迎したまふる云々。

御義口伝 第四 是人命終 為千仏授手の事
 御義口伝に云く、法華不信の人は命終の時地獄に堕在すべし。経に云く「若人不信 毀謗此経 即断一切 世間仏種 其人命終 入阿鼻獄」矣。法華経の行者は命終して成仏すべし。「是人命終 為千仏授手」の文是れなり。千仏とは千如の法門なり。謗法の人は獄卒来迎し、法華経の行者は千仏来迎し玉ふべし。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は千仏の来迎疑ひ無き者なり云云。

御義(御義口伝 普賢品 第六 此人不久 当詣道場の事)に云く、此の品に最第一の相伝あり。釈尊八ヶ年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり。八字とは当起遠迎。当如敬仏の文なり。此の文までにて経は終るなり。当起遠迎とは経を指す。仏の如く法華経を敬うべしと云う経文なり。法師品に云く、於此経巻。敬視如仏といへり。八年の御説法の口ち開きは南無妙法蓮華経方便品諸仏智恵と云へり。終りには当起遠迎○仏の八字なり。但だ此の八字を以て法華一部の要路とせり。されば文句の十に云く、其の信者の功徳を結することを述す。法華経一部は信の一字を以て本とせり云々。

御義口伝 第六 此人不久 当詣道場の事
 御義口伝に云く、此の人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去りて彼しこに行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住所を云ふなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所は山谷曠野皆寂光土なり。此れを道場と云ふなり。「此の因易むること無きが故に直至と云ふ」の釈、之れを思ふべし。此の品の時最上第一の相伝あり。釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り玉ふなり。八字とは「当に起ちて遠く迎へて、当に仏を敬ふが如くすべし」の文なり。此の文に迄りて経は終るなり。当の字は未来なり。「当起遠迎」とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬ふべしと云ふ経文なり。法師品には「此の経巻に於て敬ひ視ること仏の如くす」と云へり。八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の「諸仏智恵」、終りは「当起遠迎当如敬仏」の八字なり。但此の八字を以て法華一部の要路とせり。されば文句の十に云く「当起遠迎当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述するなり」矣。法華一部は信の一字を以て本とせり云云。尋ねて云く、今の法華経に於て序品には首めに如の字を置き、終りの普賢品には去の字を置く。羅什三蔵の心地何なる表事の法門ぞや。答へて云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は、実相は理なり。久遠は事なり。理は空の義なり。空は如の義なり。之れに依りて如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名づく。即ち空の義なり」矣。久遠は事なり。其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。去は久遠に当たるなり。去は開の義、如は合の義なり。開は分別の心なり。合は無分別の意なり。此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに如の字を顕はしたるは生仏不二の義なり。迹門は不二の分なり。不変真如なる故なり。此の如是我聞の如をば不変真如の如と習ふなり。空仮中の三諦には、如は空、是は中、我聞は仮諦。迹門は空を面と為す。故に不二の上の而二なり。然る間而二の義を顕はす時、同聞衆を別に列ぬるなり。さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり。仍って去の字を置くなり。作礼而去の去は随縁真如の如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。「而二不二、常同常別、古今法爾」の釈、之れを思ふべし。此の去の字は彼の五千起去の去と習ふなり。其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云ふ義なり。如去の二字は生死の二法なり。伝教云く「去は無来の如来、無去の円去等」云云。如の字は一切法是れ心の義、去の字は只心是れ一切法の義なり。一切法是れ心は迹門の不変真如なり。只心是れ一切法は本門の随縁真如なり。然る間法界を一心に縮むるは如の義なり。法界に開くは去の義なり。三諦・三観の口決相承と意同じ云云。一義に云く、如は実なり、去は相なり。実は心王、相は心数なり。又諸法は去なり、実相は如なり。今経一部の始終、諸法実相の四字に習ふとは是れなり。釈に云く「今経は何を以て体と為るや。諸法実相を以て体と為す」矣。今一重立ち入りて日蓮が修行に配当せば、如とは如説修行の如なり。其の故は結要五字の付属を宣べ玉ふ時、宝塔品に事起こり、「声徹下方」し、「近令有在遠令有在」と云ひて、有在の二字を以て本化・迹化の付属を宣ぶるなり。仍って本門の密序と習ふなり。さて二仏並座し、分身の諸仏集まりて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕はし、釈尊十種の神力を現じて四句に結び、上行菩薩に付属し玉ふ。其の付属とは妙法の首題なり。総別の付属、塔中・塔外、之れを思ふべし。之れに依りて涌出・寿量に事顕はれ、神力・属累に事竟るなり。此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有りて、五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと、経文に親り之れ在り。夫れとは神力品に云く「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑」云云。此の文明白なり。仍って此の文をば仏の回向の文と習ふなり。去る間、此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり。此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去りて妙覚極果の膚を瑩く事を顕はす故に、さて去の字を終りに結ぶなり。仍って上に受持仏語と説けり。煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照らされて一心一念遍於法界と観達せらる。然る間、還りて己心の仏を礼す。故に作礼而去とは説き玉ふなり。「彼々三千互遍亦爾」の釈、之れを思ふべし。秘すべし秘すべし。唯授一人の相承なり。口外すべからず。然れば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。

 又(御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 勧発品)云く、品品毎に初めにも五字を題し、終りにも五字を以て結せり。前後中間は南無妙法蓮華経の七字なり。末法弘通の要法は唯だ此の一段に在り。若し此の意を失して要法に結せずんば末法の弘法に足らざる者なり。剰へ日蓮が本意を失すべきなり。日蓮が弟子檀那に別の才学は無益なり。
 私に云く〈澄〉、御義(前文)は当家の学者の尤も心に深くすべき事なり。一切の法門の落居は但だ題目の五字に落居する。是れ高祖の御本意と深く此の義を守るべきなり。甚深なり。甚深なり。
 又(御義口伝 普賢品 第六 此人不久 当詣道場の事)云く、羅什の心地は何なる法門を表して初めに如の字ををき、終りに去の字ををくぞと云うに、今経の法体は実相と久遠との二義を以て正体となす。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は実相は理なり。理は空なり。空は如なり。迹門の心なり。さて久遠は事なり。本門寿量の事円三千是れなり。仍て去は久遠に当たるなり。如は合の義、去は開の義なり。合は無分別の意、開は分別の意なり。合は仏界、開は衆生なり。序品の首めに合の字を顕わしたるは生仏不二の義なり。迹門は不二なり。不変真如なる故なり。迹門は空を面となす。不二の上の而二なる間、同聞衆を列するなり。さて普賢品の終りに開の字を顕わしたるは生仏而二の義なり。本門は而二なり。随縁真如なる故なり。本門は事を面となす。而二の上の不二なり云々。又(同)云く、如-一切法是心-法界統一心-三諦-実-実相-心王。去-只心是一切法-一心開法界-三観-相-諸法-心数。又(同)云く、今一重立ち入りて日蓮が修行に配当せば、如とは如説修行の如なり。○此の如の心地に妙法の五字を受持して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、忽に無明煩悩の病悉く去って妙覚極果の膚を瑩(みがく)事を顕わす故に、去の字を終りに結するなり。仍て上に受持仏語と説けり云々。

御義口伝 二十八品悉く南無妙法蓮華経の事 一 勧発品
 御義口伝に云く、此の品は再演法華なり。本迹二門の極理、此の品に至極するなり。慈覚大師云く、十界の衆生は発心修行と釈し玉ふは此の品の事なり。所詮 此の品と序品とは生死の二法なり。序品は我等衆生の生なり。此の品は一切衆生の死なり。生死一念なるを妙法蓮華経と云ふなり。品々に於て、初めの題号は生の方、終りの方は死の方なり。此の法華経は生死生死と転たり。生の故に始めに如是我聞と置く。如は生の義なり。死の故に終りに作礼而去と結びたり。去は死の義なり。作礼の言は生死の間に成しと成す処の我等衆生の所作なり。此の所作とは妙法蓮華経なり。礼とは不乱の義なり。法界妙法なれば不乱なり。天台大師云く「体の字は礼に訓ず、礼は法なり。各々其の親を親とし各々其の子を子とす。出世の法体、亦復是の如し」矣。体とは妙法蓮華経の事なり。先づ体玄義を釈するなり。体とは十界の異体なり。是れを法華経の体とせり。此等を作礼而去とは説かれたり。法界の千草万木・地獄餓鬼等、何の界も諸法実相の作礼に非ずと云ふ事なし。是れ即ち普賢菩薩なり。普とは法界、賢とは作礼而去なり。此れ即ち妙法蓮華経なり。爰を以て品々の初めにも五字を題し、終りにも五字を以て結し、前後中間南無妙法蓮華経の七字なり。末法弘通の要法は唯此の一段に之れ有るなり。此等の心を失ひて要法に結ばずんば、末法弘通の法には不足の者なり。剰へ日蓮が本意を失ふべし。日蓮が弟子檀那、別の才覚無益なり。妙楽の釈に云く「子、父の法を弘むるに世界の益有り」。子とは地涌の菩薩なり。父とは釈尊なり。世界とは日本国なり。益とは成仏なり。法とは南無妙法蓮華経なり。今又以て此の如し。父とは日蓮なり。子とは日蓮が弟子檀那なり。世界とは日本国なり。益とは受持成仏なり。法とは上行所伝の題目なり。六老僧の所望に依りて、老期たりと雖も、日蓮が本意の一揚を護義せしめ畢んぬ。是れ併しながら私に最要文を集めて談誦せしむる所なり。然る間、法華の諸要文書き付け畢んぬ。此の意は、或は陰文取義、或は陰義取文、或は文義共顕、或は文義共陰の講談なり。委しくは注法華経を拝見すべきなり。然りと雖も文義深遠の間、愚昧及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈に此の注法華経に過ぎんや。

御義口伝 第六 此人不久 当詣道場の事
 御義口伝に云く、此の人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去りて彼しこに行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住所を云ふなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所は山谷曠野皆寂光土なり。此れを道場と云ふなり。「此の因易むること無きが故に直至と云ふ」の釈、之れを思ふべし。此の品の時最上第一の相伝あり。釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り玉ふなり。八字とは「当に起ちて遠く迎へて、当に仏を敬ふが如くすべし」の文なり。此の文に迄りて経は終るなり。当の字は未来なり。「当起遠迎」とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬ふべしと云ふ経文なり。法師品には「此の経巻に於て敬ひ視ること仏の如くす」と云へり。八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の「諸仏智恵」、終りは「当起遠迎当如敬仏」の八字なり。但此の八字を以て法華一部の要路とせり。されば文句の十に云く「当起遠迎当如敬仏よりは其の信者の功徳を結することを述するなり」矣。法華一部は信の一字を以て本とせり云云。尋ねて云く、今の法華経に於て序品には首めに如の字を置き、終りの普賢品には去の字を置く。羅什三蔵の心地何なる表事の法門ぞや。答へて云く、今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり。始めの如の字は実相を表し、終りの去の字は久遠を表するなり。其の故は、実相は理なり。久遠は事なり。理は空の義なり。空は如の義なり。之れに依りて如をば理空に相配するなり。釈に云く「如は不異に名づく。即ち空の義なり」矣。久遠は事なり。其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり。去は久遠に当たるなり。去は開の義、如は合の義なり。開は分別の心なり。合は無分別の意なり。此の開合を生仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに如の字を顕はしたるは生仏不二の義なり。迹門は不二の分なり。不変真如なる故なり。此の如是我聞の如をば不変真如の如と習ふなり。空仮中の三諦には、如は空、是は中、我聞は仮諦。迹門は空を面と為す。故に不二の上の而二なり。然る間而二の義を顕はす時、同聞衆を別に列ぬるなり。さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり。仍って去の字を置くなり。作礼而去の去は随縁真如の如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。「而二不二、常同常別、古今法爾」の釈、之れを思ふべし。此の去の字は彼の五千起去の去と習ふなり。其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間、五住の煩悩が己心の仏を礼して去ると云ふ義なり。如去の二字は生死の二法なり。伝教云く「去は無来の如来、無去の円去等」云云。如の字は一切法是れ心の義、去の字は只心是れ一切法の義なり。一切法是れ心は迹門の不変真如なり。只心是れ一切法は本門の随縁真如なり。然る間法界を一心に縮むるは如の義なり。法界に開くは去の義なり。三諦・三観の口決相承と意同じ云云。一義に云く、如は実なり、去は相なり。実は心王、相は心数なり。又諸法は去なり、実相は如なり。今経一部の始終、諸法実相の四字に習ふとは是れなり。釈に云く「今経は何を以て体と為るや。諸法実相を以て体と為す」矣。今一重立ち入りて日蓮が修行に配当せば、如とは如説修行の如なり。其の故は結要五字の付属を宣べ玉ふ時、宝塔品に事起こり、「声徹下方」し、「近令有在遠令有在」と云ひて、有在の二字を以て本化・迹化の付属を宣ぶるなり。仍って本門の密序と習ふなり。さて二仏並座し、分身の諸仏集まりて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕はし、釈尊十種の神力を現じて四句に結び、上行菩薩に付属し玉ふ。其の付属とは妙法の首題なり。総別の付属、塔中・塔外、之れを思ふべし。之れに依りて涌出・寿量に事顕はれ、神力・属累に事竟るなり。此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有りて、五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと、経文に親り之れ在り。夫れとは神力品に云く「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑」云云。此の文明白なり。仍って此の文をば仏の回向の文と習ふなり。去る間、此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり。此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、忽ち無明煩悩の病を悉く去りて妙覚極果の膚を瑩く事を顕はす故に、さて去の字を終りに結ぶなり。仍って上に受持仏語と説けり。煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照らされて一心一念遍於法界と観達せらる。然る間、還りて己心の仏を礼す。故に作礼而去とは説き玉ふなり。「彼々三千互遍亦爾」の釈、之れを思ふべし。秘すべし秘すべし。唯授一人の相承なり。口外すべからず。然れば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり云云。

無量義経・普賢経の事。御義(御義口伝 無量義経 第一 無量義経徳行品第一の事)に云く、無量義の三字は迹門・本門・観心なり。無とは迹門なり。無は空なり。断無の無にあらず。円融の空を無と云うなり。空は理なり。迹門は理円なり。不変真如なり。是れは無の義なり。量とは本門なり。事円の三千、随縁己々の当体真如なれば、三千森羅の数量を改めざる故に量と云うなり。義とは観心なり。文義の二は教観なり。文は教なり。義は観なり。仍て義の字を観心と云うなり。所説の文字を心地に義(ことはる)観と云うなり。かくのごとく無量義の三字を迹門・本門・観心に配当する事は、今の経の妙法蓮華経の題と無量義の題と序正の一体不二の意なり。又(御義口伝 無量義経 第四 処の一字の事)云く、処の一字は法華経なり。無の字には蔵通を摂し、量の字に別教を摂し、義の字に円教を摂す。此の爾前の四教は所生なり。又(御義口伝 無量義経 第五 無量義処の事)云く、法華経八巻は処なり。無量義経は無量義なり。無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり。法華経は於一仏乗と説いて、法華の為の序分と成るなり。爰を以て隔別三諦は無得道、円融三諦は得道と定める故に、四十余年。未顕真実と破し玉へり。
 私に云く、無量義と題するは隔歴の三諦なり。処の字はこれ無き故なり。法華は一仏乗と説き顕わして三諦は一諦に円融する。是れ処の義なり。仍て三諦円融する分を明かさざる故に未顕真実の分域なるべしと云うか。又(御義口伝 無量義経 第六 無量義処の事)云く、無量義処とは一念三千なり。処は一念なり。無量義は三千なり。十界各々無量に義(ことはり)居たり。此の当体は其のまま実相の一理より外はこれ無くして諸法実相と説かれたり。其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云うなり。
 私に云く、諸法は無量義、実は処と云うか。此れは無量義経にも処の字ををく心なり。
 普賢経の六念の事。御義(御義口伝 普賢経 第三 六念の事)に云く、念仏とは唯我一人の導師なり。念法とは滅後の題目の五字なり。念僧とは末法にては凡夫僧なり。念戒とは是名持戒なり。念施とは一切衆生に題目を与施するなり。念天とは諸天昼夜。常為法故。而衛護之の意なり。末法当今は日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり。仏に約せば釈尊を、恵日大聖尊。法に約せば法華経をば、又如日天子。末法の導師をば、如日月光明

御義口伝 第一 無量義経徳行品第一の事
 御義口伝に云く、無量義の三字を本迹観心に配する事、初めの無の字は迹門なり。其の故は理円を面とし不変真如の旨を談ず。迹門は無常の摂属なり。常住を談ぜず、但し「是法住法位 世間相常住」と明かせども、是れは理常住にして事常住に非ず。理常住の相を談ずるなり。空は無の義なり。但し此の無は断無の無に非ず。相即の上の空なる処を無と云ひ空と云ふなり。円の上にて是れを沙汰するなり。本門の事常住、無作の三身に対して迹門を無常と云ふなり。守護章には「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏」云云。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は無作の三身、覚前の実仏なり云云。

御義口伝 第四 処の一字の事
 御義口伝に云く、処の一字は法華経なり。三蔵教と通教とは無の字に摂し、別教は量の字に摂し、円教は義の字に摂するなり。此の爾前の四教を所生と定め、さて序分の此の経を能生と定めたり。能生を且く処と云ひ、所生を無量義と定めたり。仍って権教に相対して無量義処を沙汰するなり云云。

御義口伝 第五 無量義処の事
 御義口伝に云く、法華経八巻は処なり。無量義経は無量義なり。無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり。法華経に「於一仏乗 分別説三」と説いて法華の為の序分と成るなり。爰を以て隔別の三諦は無得道、円融の三諦は得道と定むる故に、「四十余年 未顕真実」と破し玉へり云云。

第六 無量義処の事
 御義口伝に云く、無量義処とは一念三千なり。十界各々無量に義処たり。此の当体其の侭、実相の一理より外は之れ無くして諸法実相と説かれたり。其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云ふなり。処は一念、無量義は三千なり。我等衆生、朝夕吐く所の言語も依正二法共に無量に義たり。此れを妙法蓮華経とは云ふなり。然る間、法華の為の序分開経なり云云。

第三 六念の事
 念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天。
 御義口伝に云く、念仏とは唯我一人の導師なり。念法とは滅後は題目の五字なり。念僧とは末法にては凡夫僧なり。念戒とは「是名持戒」なり。念施とは一切衆生に題目を授与するなり。念天とは「諸天昼夜 常為法故 而衛護之」の意なり。末法当今の行者の上なり。之れを思ふべきなり云云。