ここ数年、3年生の演習で牧口常三郎著、戸田城聖補訂の『価値論』の英訳本である『The Philosophy of Value 』を輪読してきた。このテキストを演習のテキストとして選択した理由は、英語文献であること、宗教哲学に関係する文献であることという演習の目標にかなうことがあるが、もう一つは原書が日本語であり、それを英訳したテキストを扱うことにより、日本語による哲学的表現が、英語においてどのように表現されるかを実例で学ぶということもある。大学院生であれば、Z.D.PhillipsやNancey Murphyなどの分析哲学系の宗教哲学を扱うが、学部3年生では、そこまで専門的な議論を紹介するのも困難であり、たぶん創価大学の学生であれば、多少の知識はあるだろう牧口常三郎の著作を扱うことにより、学生の学習意欲を引き出す意味もあり、牧口常三郎のテキストを選ぶことにした。
かなりまえになるがBethel博士の翻訳した『Education for Creative Living』を牧口常三郎の『創価教育学体系』の抄訳と思って、演習で使用したことがあり、ゼミ生に日本語テキストを参考にして、英文を日本語訳させたことがあるが、そのとき、ゼミ生から日本語テキストに該当する箇所がないことを指摘され、べセル博士のテキストは抄訳ではなく、牧口のテキストを基にしたべセル氏の著作であるということが判明したことがある。その後、べセル博士が『人生地理学』を翻訳した原稿チェックを依頼され、検討会を行ったことがあるが、そこにも日本語原文にない英文箇所を見出し、そのことを指摘したが、英語圏の読者に理解させるためには必要であるという翻訳者の意向を優先するという、出版のスポンサー側の決定があり、私ならびに私が所属する学問領域の翻訳ルールとは異なるので納得できなかったが、池田SGI会長の著作の日本語版と英語版では読者の文化的背景に配慮して内容が異なるように、そういう翻訳ルールもありかと、それ以上つっこむことはしなかった。
その後、できれば牧口常三郎の思想を、日本語原文に忠実に、英語圏の人々に伝えたいと思っていたが、あまり膨大な量では難しいし、牧口の思想をコンパクトにまとめたものが必要だと思った。その前後に三心堂出版社から稲生雅亮氏が編集した牧口常三郎の『創価教育学体系』のアンソロジー(抜粋)の監修を依頼され、その仕事をしているなかで、このアンソロジーを基にして、英訳することも検討してみた。ところが出版社が倒産するという事態が発生し、これも版権の問題などでうまくいきそうにないので、やめにした。
その後Brian Victoriaによる牧口常三郎の戦争責任に関する議論への対応をめぐって、Global Buddhismに掲載する反論原稿の検討会の過程で、牧口の主要著作を英語に翻訳するという計画も生じたが、費用の側面から中止となった。それで組織を頼りにしても牧口の翻訳事業はうまくいきそうにないと痛感したので、個人的作業として行うことにしたが、私の年齢、健康、能力の問題もあり、他の仕事もあるので、宿題にすることにしておいた。その前後、急にハーバード大学のライシャワー研究所に客員研究員として在外研究をすることになり、娘の学校の問題もあるので、夏休みを挟んで3ヶ月間行くことになり、そこで主に宗教哲学関係の資料と創価学会、日蓮関係の資料の検索をしていた。そこには牧口常三郎の資料として『Philosophy of Value』が収集されていることがわかった。
私は英語の外書講読の授業で、主に宗教社会学者によるSGIや創価学会研究の英語論文を扱うことが多いが、それは英語力の向上は当然のことながら、創価学会を客観的に考察することや、創価学会とSGIとの異同を考察することによって、多文化の中の信仰のアイデンティティということを考察することを目的としている。その中で気づいたことは多くの論文の中で牧口常三郎についてそれなりのスペースを割き、考察されているが、牧口の『Philosophy of Value』は引用されることなく、Bethel博士の『Education for Creative Living』が引用されているということである。これはまずいなと思っていたところ、たまたまあるゼミ生が卒業記念に古書店で入手したという牧口の『Philosophy of Value』をプレゼントしてくれた。
このテキストの日本語原文は『創価教育学体系』第2巻をベースに、戸田城聖が後期の牧口の宗教的価値論に関する論述を適宜補うことで完成したものである。私は戸田の手が入っているということで、牧口のオリジナルではないと考えていたので、これを英文にするのは気が進まなかった。かなり前のことになるが、東洋哲学研究所で開催された牧口価値論研究会にこの補訂版に関わった小平芳平氏が講師として出席した折に、この補訂版のことが話題になり、戸田の指示の下で、牧口の後期の著述から抜き出したものを加えただけで、勝手に付け加えたものはないと話していたことを記憶しているが、それをそのまま信用するわけにも行かないだろうと考えていた。
それでもとりあえず、英文テキストを入手したので、ゼミの教材として、研究してみることにした。その過程でわかったことは、べセル博士の翻訳に比べれば、Translation Division Overseas Bureau(海外局翻訳部)によって翻訳され、1964年に出版されたこの英訳本は原著にほぼ忠実な翻訳であるという長所がある。しかも小平氏の講演以後私なりに進めた後期の牧口の思想研究によれば、戸田城聖が補訂した部分のオリジナルテキストを牧口の著作の中に大部分見出すことができ、その意味ではこの著作は牧口自身の著作と言ってもよいだろうと考えるようになった。そうなると私の評価も大きく変わり、牧口の『創価教育学体系』以後の思想をコンパクトに表現したものとして、英訳する価値のある著作となった。しかも他の著作とは異なって、一往ベースとなる英訳もあるので、英語力にいまいち自信がない私でも、翻訳作業がはかどるかもしれないという期待もある。
しかしながら、詳しく読んでいくと、哲学的に重要な言葉についての訳語が統一されていないため、 思想書として英訳本を読もうとすると、理解困難な箇所が少なくない。たとえば「実在」は、一般的に哲学で使用される’reality’と翻訳されている箇所もあれば、’substance’(哲学では通常は「実体」の訳語とされる)と翻訳されている箇所もある。しかも’substance’は「物」の訳語としても使用されている。また「物」には’thing’、’substance’、’existence’の三種類の訳語が使われ、’existence’はまた「物」「存在」「生活」の訳語としても使用されているという不統一の問題がある。そこにはできるだけ同じ訳語を使わずに、異なった訳語による表現を使用するという文学的な美意識が反映していると思われる。
哲学においては微妙な概念の相違を示すために、ほぼ同じような意味に使用されている言葉をわざわざ概念的に区別して使用するということが必要になる。(そのもっと有名な例はフレーゲの’Sinn’「意義」と’Bedeutung’「意味=指示対象」の区別だろう。)そのため同じ概念を示す言葉を首尾一貫して使用するということが哲学における言語使用のルールとして定着している。少なくともこの英訳本はこの哲学書の翻訳ルールを遵守しているとはいえない。そのため英訳本を理解することが困難となっていると思われる。
もうひとつは、これは翻訳者の責任ばかりではないが、牧口が哲学的概念を不正確に使用しているということがある。牧口自身が哲学的にはある意味で混乱している表現を使用している箇所を、哲学に詳しくない翻訳者が何とか翻訳しようとすれば、一層の混乱は避けがたい。そういう箇所の翻訳に関しては、私自身もどうすべきか、悩んでいるが、とりあえず、牧口自身の表現をできるだけ忠実に翻訳し、その上で訳者注をつけて、問題点を解説するという手法をとりたい。
さらに戸田城聖補訂版は宗教的価値論を示すことを目的にしており、教育学的価値論を目的とした牧口とは著述の目的が異なっている。そのためいくつかの箇所において『創価教育学体系』第2巻の記述とは異なっているが、その部分に関しては重要な変更であれば、訳者注で説明するが、多少の違いを逐一表記することは煩わしいので、補訂版にしたがって翻訳することにした。
英訳本を基礎に哲学的翻訳のルールに従った試訳を一部分ではあるが以下に示したい。重要であると思われる用語については、基礎的な用語も含め、できるだけ統一的な訳語を当て、訳語集にまとめている。なお続きは私のホームページに順次発表する予定である。私の翻訳にも重要な誤りがあると思われるが、読者の中で気がついた方は、私に連絡していただければ幸いである。メールアドレス miyata@soak.ac.jp 。見にくいのを覚悟して、html形式で表現しているのは、訂正が容易に行われることを意図しており、さまざまな理由でこの仕事を私が完成できなくても、誰かが引き継いでくれることを願ってのことである。