「以下の論文は1995年『東洋哲学研究所紀要』第11号に掲載し、1997年『牧口常三郎はカントを超えたか』(第三文明社)に収録された論文を一部省略したものである。紙媒体で発表された論文を、電子媒体で発表することは、書籍が絶版となるまでは、著作権上の問題があり、これまで控えてきた。しかし授業の教材として使用してはいるのだが、微々たる数量しか販売できず、絶版になるまでにはまだ相当の年月がかかりそうなので、議論の必要上、論文の一部を省略して掲載する。私がこの論文を書いたのには、いくつかの理由がある。
私は高校生の頃に、創価学会の教学の任用試験を受けたときに、創価学会が古い末法理論を採用し、世界史年表にある仏滅年代と矛盾していることに気づき、日蓮仏法の教義的正しさに関しては疑問を持っていた。第1次宗門問題以降、私は日蓮正宗研究のために、東洋哲学研究所に所蔵されていた日蓮正宗の機関誌『大日蓮』を読破していたが、現在保存されているその個人的な記録メモに「1985年10月号 34回教師講習会 宗門大学、大乗非仏説、仏滅年代につき講義」とある。これは阿部日顕が、大乗非仏説、仏滅年代に関する現在の仏教学の定説と日蓮の議論との矛盾を自覚し、日蓮正宗の教師資格を持つ僧侶たちの前で、それに関するコメントを述べたことを示しているが、記事では詳しい内容は書かれていなかった。私は創価学会が仏教学の定説と矛盾することを主張し続けることに対して、それなりに不満を覚えていたので、日蓮正宗のほうが創価学会よりも先に教義的矛盾の解決に向うのではないかと期待したが、その後日蓮正宗が現在の仏教学の定説と整合的な教義を作ろうとした形跡はない。これは日蓮正宗にとっては、対処しきれない問題であることを示していると思われる。つまり日蓮正宗は現代の歴史学を受け入れている人々に対する教義的説得の試みを放棄したということを意味している。
これに対して創価学会は微々たる努力ではあるがそれなりに整合的な説明をしようと努力してきた。牧口常三郎は仏教学に関しては無知であったと思われるが、戸田城聖は仏教学的研究を、信仰にとっては無価値であると判断して「ロンドン仏教」の一言で無視することに決心した。彼が救済対象とした病気と経済苦に悩んでいる人々にとっては、仏教学的知識は無価値であり、彼がそのような判断をしたことは宗教運動のある段階においては、それなりに理由があることだと思われる。しかし、池田大作が55年体制の社会的矛盾を吸収する形で創価学会の急激な拡大に成功するととともに、知的な社会層をも教団に抱え込み、かれらにそれなりの整合的な教義を提示する必要が生じた。池田の『私の釈尊観』『私の仏教観』などの野崎勲、野崎至亮などの教団イデオロギー担当幹部との一連の対談集は、そのような試みの中にあり、そこでは『法華経』を釈尊が直接説いたということは最早主張されず、『法華経』編纂者こそが広い意味での「仏」であると主張されるようになった。しかしそのような創価学会の教義の現代化の試みは、第1次宗門問題以降、教義の解釈権、教導権が日蓮正宗にあることを認めさせられ、機関紙誌での池田の発言はあらかじめ日蓮正宗宗務院によって検閲されるという事態になってからは、困難になった。
そのような状況にあっても、創価学会が現代の学問的知識を受け入れている人々に対してもそれなりの説得力を持った教義解釈を提示すべきだと私は考えていたが、それを直接発表するのは創価学会のシンクタンクと見なされていた東洋哲学研究所の主任研究員の立場に当時あったのでさすがにまずいと考えて、私と同様なことを述べていた内村鑑三に代弁させる形で、問題提起したのが、この論文である。現在では第2次宗門問題以降、創価学会は日蓮正宗との関係を断ち、独自に教義を形成する自由を得、また私も東洋哲学研究所の公的な立場から離れて、一研究者、一信仰者として自己責任の下で、日蓮仏法の現代化に寄与したいと願い、それなりの発表をしているが、過去に紙媒体で発表し、必要と思われる論文は今後電子ファイルで公開して、皆さんの忌憚ないご意見をいただきたいと思っている。」 (2012.1.28 付加)
日本の代表的プロテスタントである内村鑑三の日蓮論としては『内村鑑三信仰著作全集』第六巻に収録されている『代表的日本人』(「内村a」と略記)の「日蓮聖人仏教の僧」が、一般に知られている。しかし、それとほぼ同時期の「国民之友」一八九四年九・十月号に掲載された「日蓮聖人を論ず」(「内村b」と略記)という論文のほうが、内容的には詳しい部分もあり、またキリスト教の諸改革者との比較も多く、内村が自分の学んだキリスト教史を基礎にして、日蓮論を展開していることがよくわかる。この二つの論文を検討することにより、内村の日蓮論の意義と諸問題について考察してみたい。
内村は日本人の宗教観、及び日本における仏教史を簡略に述べてから、日本史上最大の宗教改革者として日蓮の宗教的業績を論じている。
まず日蓮の宗教上の最大の課題である「仏教に多くの宗派が存在するのはなぜか、仏教の根本義は何か」という問題を指摘し、内村はこの日蓮の課題はドイツの宗教改革者ルターの課題と類似すると述べる。日蓮は『涅槃経』の「依法不依人」の言葉により、経典を根拠にして釈尊の教えを理解すべきだという結論に達したが、内村も日蓮の「聖法」(内村b、35)の重視に賛意を示し、日蓮の態度は「ルター、サボナローラ」と類似しているとする。(
日蓮も牧口常三郎も「師弟不二」ではなく「依法不依人」を重視していることは注目すべきことだろう。) (2012.1.28付加)
ただ「ルターは一冊の聖書」(内村a、117)でよかったが、日蓮は相互に矛盾する諸経典から最高の権威ある経典を選択するという問題に直面した。そして日蓮は『無量義経』の記述を根拠に天台大師智の「五時教判」を採用し、『法華経』を最高の経典であるとし、そこに仏教信仰の基礎を見いだした。
内村はこの日蓮の経典選択に関して、日蓮の時代には「高等批評(文献学的批判)はなかった」(同)のであり、『法華経』は仏陀死後の制作であり、『無量義経』は偽経であるということは知らなかったと指摘している。しかし内村は、日蓮は十三世紀の人であり、「彼の結論の不当さは、彼の時代と境遇と教育の結果」(内村b、36)であって、日蓮自身の責任ではないことを弁護する。内村は高等批評により日蓮を非難することは「十六世紀の神学の不完全を持ってルターを責めたり、十七世紀の科学の不合理を持ってガリレイを責めるようなもの」(同)であると述べる。
内村は日蓮の『立正安国論』を「経文に照らして自然的異変の意味を探る」「日本唯一の書」(同、44)であり、「サボナローラの『ハガイの注釈書』」(同)に匹敵する著作であるとする。気象学が存在しない時代において、地震、旱魃などの自然災害を、経典を根拠に宗教的に解釈する日蓮の論法は、科学が発達していない時代の「唯一の論法」(同、45)であり、その時代においては「日蓮は誤っていない」(同)とする。
このように日蓮の議論の方法論の時代的適切性を述べた後で、内村は『立正安国論』の「道徳的原因は自然的結果として現れる」(同)という思想を検討する。内村は「この観念は人類の本能であり、科学の進歩はこれを排除することができない」(同)のであり、目前の災害を、道徳的善悪の結果と考える傾向の根強さを指摘する。
そしてこれを別の観点から見れば、例えば「旱魃と洪水は、山林の伐採による」(同)のであり、「疫病と道徳」(同)とは一定の関係を持ち、「飢謹は非政の結果」(同)であることを考えれば、「災害の一部は人為を持って排除できる」(同)のであるから、日蓮の議論が全く誤っているというわけではないという。なるほど「地震、台風は道徳的に避けることができない」(同、46)が、道徳的に災害を減少することはできるのであり、他人が助けてくれないという恐怖は不幸、苦痛を増大させるのである。
災害と道徳の一般的関係を承認した後で、内村は「日蓮は詩人であるが、科学者ではない」(同)のであり「日蓮の道徳は仏教、法華経である」(同)から、「法華経流布の障害から災害が生じたと判断したのは彼の前提からの当然の帰結」(同)であるとする。したがって「法華経流布の障害から災害が生じた」という誤謬は、「彼の前提にあり、彼の論法にはない」(同)とする。
内村は『立正安国論』の「国は法によって栄え、法は人によって立つ」、「正法に背けばその国に災難が起こる」という論法は、上に述べた自然災害と道徳との関係という意味では正しく、「イザヤ、エしミヤ、ルター、カント、ソクラテスも承認した」(同、47)と述べる。しかし内村は「正法が『法華経』と同意義というのは、日蓮の狭隘と無学と固執を示す」(同)ものであり、「キリスト教徒、プロテスタントと同様な偏見」(同、46)にたっていると述べる。
日蓮は『法華経』を根本にして、「日本における仏教改革」(同、54)を遂行し、その一部に成功した。内村は既に述べた経典中心主義の他に、日蓮の仏教改革を三点に見ている。第一に日蓮は「厭世的な仏教」(同、 55)を実用的に変えたのであり、第二に「インドの宗教である仏教を日本の仏教に変えた」(同)のであり、他派の仏教の始祖は、インド人、シナ人、朝鮮人である」(内村a、133)のに対して、日本人による宗派を開いた。第三に法然の浄土宗と同様に「僧侶仏教を平民仏教に変えた」(内村b、55)。以上のような日蓮による宗教改革に対して内村は、「わが国の宗教歴史における日蓮の功績は、けっして少なくはない」(同)と評価する。
しかしながら内村は同時に「日蓮の宗教改革が中途で終わったこと」(同)も指摘する。第一には、日蓮は日本を教化してから、朝鮮、中国、インドにまで弘通しようとしたが、今日の日蓮宗は他の仏教宗派と同様に日本の宗教で終わっている。第二には、日蓮は宗教的熱心の喚起には成功したが、倫理的教化には失敗した。日蓮は経典崇拝家であったため、『法華経』を賞賛する唱題が善行であるとしたが、それは誤謬である。唱題は念仏、アベマリアと同じように、それだけでは倫理的価値はない。日蓮は南無阿弥陀仏という迷信を南無妙法蓮華経という別の迷信に変えただけに過ぎず、それに対して例えば、マホメット、サボナローラの改革にはその宗教的事業に倫理的要素が含まれていたという。
以上のような日蓮の宗教改革の限界はあったけれども、内村は「経典崇拝は偶像崇拝に勝る」(同、 56)のであり、「依法不依人」という思想は「宗教的思惟上に非常の進歩である」ことを強調する。ちょうど、マホメットが天隕石の崇拝から『コーラン』に変え、ルターがマリア信仰から『バイブル』に変えたのど同様、日蓮は木石崇拝の仏法を去って、経典崇拝の仏法を作り出したのであり、その点では偉大な宗教改革者であるとする。
(省略)
内村の日蓮論の特徴の一つは、日蓮の生きた13世紀における日蓮の宗教的意義の評価と、内村の生きた19世紀における日蓮の宗教的意義の評価をある程度区別しているということである。
例えば日蓮が『法華経』を釈尊の最高の経典であると結論づけたことに対して近代仏教学から生じる異論に関して、内村は、日蓮の結論は、彼の時代と境遇と教育との結果であり、19世紀の仏教学の学問の水準で13世紀の日蓮の宗教的議論を判断してはならないことを述べる。
あるいは『立正安国論』で当時の天変地異の原因について宗教的に論究していることについて、経典によって、自然災害の原因を究明することは、その当時の唯一の論法であり、13世紀の学問の水準では、日蓮の『立正安国論』の議論は最も合理的な論究であったことを承認している。
あるいは日蓮の宗教改革が、宗教の倫理化や寛容の問題に関して不十分であったことに関して、内村は「日蓮は彼の時代に、彼の力量に応ずる改革を加えたり。今日は今日の改革を要す。明治の改革は文永の改革にあらず。19世紀の要する改革者と見なすがゆえに、日蓮に多くの欠点あり。されども13世紀の日本人として、余輩は彼に非常の敬慕の念を表す」(内村b、56)と、13世紀という時代の限界として述べている。
この内村の時代的相違の自覚ということは、大きな問題を指摘している。われわれはともすれば過去の出来事や人物について、現代の視点から評価する傾向がある。しかしそれは過去の出来事を現代の文化的脈絡から解釈することであり、その出来事がその当時の文化的脈絡の中で持っていた意味を無視することになりやすい。
現代のわれわれは科学的技術が可能にしたさまざまな利便性の中で生活しており、科学的思考を基礎とする文化的共同体の中で生活している。そのような文化的共同体の中では宗教的思考は科学的思考が不得意とする領域における周辺的な文化として生き延びているのが実情である。しかし人類の歴史においては、宗教的思考が周辺的になった現代の文化がむしろ例外であり、宗教的思考が基礎となった文化的共同体の時代が圧倒的に長い。そのような文化的共同体においては宗教の果たす役割は、現代とは大きく異なっている。
したがって宗教的な事象を理解するためには、その事象が当時の文化的脈絡でどのような意味があったかをできるだけ明かにするという歴史的な研究が必要であり、そのうえでその宗教的事象が今日においても有意義な事象として解釈されるためには、どのような文化的脈絡におくべきかを検討するという哲学的な解釈学的研究が必要となるだろう。
内村の日蓮論は以上のような方法論を自覚的に明らかにしてはいないが、13世紀と19世紀の相違の強調により、ある程度そのような方法に従った記述をなしている。
日蓮は『法華経』が釈尊の教えの中で最高の経典であると主張したが、内村が指摘するように、今日においては、現存の『法華経』を釈尊が直接説いたということは否定され、紀元前後の大乗仏教交流の時期に編纂されたということが仏教学の定説になっている。それでは日蓮の主張は誤っているのであろうか。それに答えるには、真理基準の文化的依存性という哲学的議論を解決しなければならない。
ウィトゲンシュタインは『確実性について』の中で、「私の世界像は、私がその正しさを納得したから私のものになったわけではない。私が現にその正しさを確信しているという理由で、それが私の世界像であるわけでもない。これは伝統として受け継いだ背景であり、私が真と偽とを区別するのもこれに拠ってのことなのだ」(§95)と、真偽の判断基準が文化的共同体の持つ世界像に依存することを主張している。
哲学者の中には文化的共同体を超えた「永遠の真理」を主張する人もいる。しかし、そのような真理の見本と考えられた数学的真理に関しても、現在では多様な解釈を許し、例えば「ユークリッド幾何学」もユークリッドの時代に持っていたであろう「唯一の真なる幾何学」という意味を失っている。「永遠の真理」とはひとつの理念ではあっても、現実にわれわれがそのような真理を所有しているわけではないという相対主義的な見解が大多数の哲学者の見解となっている。そのうえで、なお人々は「真偽」という用語を使用するが、その使用はその人々が所属する文化的共同体が持つ常識的信念や大多数の学者たちが同意する学問的知識などを含む世界像に依存している。
したがって学問的知識のあり方が大きく異なっており、現代とは文化的共同性を共有しない鎌倉時代の文化的共同体において、日蓮の主張が誤りとされるかどうかは検討の余地がある。
『法華経』『無量義経』などの大乗経典は、今日においては、釈尊が直接説いたということは否定されているが、中国に於ても、日本においても、それらの経典を釈尊が説いたということは長い間不動の信念となっており、その意味では世界像の一部を形成していた。したがって、現在の人々が「『法華経』を釈尊が説いた。」と主張すれば、それは現代の仏教学の定説から偽とされるが、鎌倉時代の人々が「『法華経』を釈尊が説いた。」と主張すれば、それは当時の仏教研究の定説から真とされるだろう。
このように同一の文が、異なった状況で使用されれば、異なった言明となり、その真理値も異るということは、別の例でも示される。例えばストローソンがラッセルの記述理論を批判した「指示について」という論文をみてみよう。その中で、ソトローソンは、ルイ14世の時代には「現在のフランス王は賢い」という主張は真とされるが、ルイ15世の時代には「現在のフランス王は賢い」という主張は、偽とされ、20世紀では「現在のフランス王は賢い」という主張は、フランス王がいないから無意味とされると述べている(ストローソン、216)。
したがって日蓮の「『法華経』は釈尊の説いた教えの中で最高の経典である」という主張の中の「『法華経』は釈尊の説いた教え」という前半部分は、当時の文化的共同体の中では真と判断されたとみてよいだろう。問題は「『法華経』は・・・・最高の経典である」という後半部分が、真とされるかどうかである。
日蓮はそのことを論証するために二種類の議論をしている。一つは内村が紹介している議論であるが、『無量義経』の記述を根拠にして、主要な仏教経典の説かれた時期を五つに分け、『法華経』が最後の時期に説かれた経典であり、釈尊の真意を明らかにした経典であると主張する議論であり、この議論は天台大師智の五時説として知られた議論である。日蓮自身もこの議論を使用して弟子たちを教育したことが、『一代五時図』『一代聖教大意』などのテキストとして残っている。
もう一つは経典の内容自体の比較検討によるもので、『法華経』は一切衆生の成仏の可能性を最も明白に示しているから、最高の経典であるという『開目抄』などに見られる議論である。他の経典では成仏を拒否された悪人、女人、「二乗」という人々も、『法華経』では成仏が可能であると記述されている。智は『法華経』の記述を基礎にしてこの議論を「一念三千」論として展開したが、日蓮はその中の「十界互具」論を成仏の基礎理論と見なし、その理論が説かれているのは『法華経』だけであるから、『法華経』が最高の経典であると主張した。
この日蓮の二種類の議論は、当時の仏教研究の水準からどのように判断されるかはよく分からないが、日蓮自身は、自信を持っていた議論であり、その議論が当時の仏教者に対して説得力を持っていたから、ある程度の弟子を日蓮は獲得することができたといえよう。日蓮は自己の正しさを信じ、積極的に他の宗派の教義を批判し、そして公開の場での対論によって教義的正しさを示そうと努力した。この日蓮の公開の場での対論の要求に対して応答した仏教者がいなかったことは、当時の鎌倉仏教界の仏教学の水準では、日蓮の議論は否定できなかったことを示しており、その意味では当時の文化的共同体によって真理であることを消極的に承認されたと解釈することも可能であろう。
さてそれでは現代の仏教学の水準から日蓮の議論を見るならばどうなるだろうか。少なくとも第一の議論、すなわち五時説は経典が釈尊によって説かれたことを含意しているから、現在では無効な議論となっている。
だが仏教を釈尊が説いた教えに限定せず、釈尊から発した思想運動、宗教運動の歴史的展開の中で形成された教えとしてより広く解釈するならば、『法華経』を含む諸大乗経典も仏教の重要な経典である。そして、より普遍的な救済思想を明かにしている経典はより優れた経典であるという判断基準を示し、諸仏教経典の思想的特徴を明かにし、その判断基準に照らして、どの経典が最も優れた経典であるかを判断するという論証的作業は、それなりに合理的で有意味な作業であると思われる。そのような観点から日蓮の第二の議論を見るならば、『法華経』が普遍的救済を最も明かにしている経典の一つであることは承認されうるだろうし、場合によってはその点で最も優れた経典であることを承認される可能性もあるかもしれない。その意味では日蓮の第二の議論は有効性をもっている可能性がある。
『立正安国論』の議論は、@鎌倉時代の天変地異は、諸護国経典の記述から判断すると、世の人々が正しい宗教に背き、誤った宗教を信じているから、災難が起るのである、Aその誤った宗教とは当時流行していた法然の浄土信仰であり、正しい宗教とは伝統的法華、真言などの信仰(日蓮の真意は法華専修であった)である、Bそしてこの災難を逃れるためには、積極的な対策を採るべきであり、具体的には誤った宗教への保護を打ち切るべきだ、Cもしその対策を採らなければ、護国経典に記述してあるがまだ生じていない外国からの侵略と内乱という災難が生じるだろう、もしその対策を実行するならば、仏国土となり、平和で豊かな社会となるだろう、という理論的構成になっている。
内村が指摘するように、仏教中心の当時の文化的状況の中で、災害の原因を研究するためには、仏教経典にその答えを求めると言うのは、当然の行為であり、その意味で、日蓮の@の議論は正しいとされるだろう。またB、Cの議論もそれに付随する議論であるから、正しい議論とされるだろう。
問題はAの議論の説得力であるが、日蓮の議論は浄土信仰と法然『選択集』の専修念仏とを同一視している。浄土信仰は法然以前から長い間続いており、『法華経』を賞賛した天台大師智も臨終に際しては『法華経』と『観無量寿経』を唱えさせたと妙楽大師湛然の『止観輔行伝口決』にある。法然の浄土信仰と従来の浄土信仰との相違は、称名念仏を唯一の正しい修行であり、他の修行は無価値であるとした法然の専修思想にあり、この専修思想は仏教の伝統的解釈からは誤りであるとすることができる。日蓮の議論は伝統的解釈に立った上で、法然を批判しているので、その意味では、法然の専修思想は誤っているという日蓮の議論はそれなりの説得力がある。
しかし当時鎌倉で流行していた浄土信仰が法然の『選択集』に教義的根拠を持っているという日蓮の議論は事態を正確に言い当てているかどうかは議論の余地がある。もし諸行兼修を認める浄土信仰が流行していたなら、それは伝統的解釈のもとでは非難する理由がないだろう。当時の鎌倉の浄土教団の指導者たちは法然の専修思想を放棄しており、その意味で、法然の専修思想と浄土信仰を同一視して、浄土信仰を批判する日蓮の議論は的外れであるとされたかもしれない。
あるいは『立正安国論』では表立っては主張されていないが、日蓮の折伏思想の根拠となる法華専修の思想も、法然の専修思想と同様に、仏教の伝統的解釈からは誤りであると判断されることもできるだろう。
このようにみてくるならば『立正安国論』のAの議論が当時の文化的共同体にどれほどの説得力を持っていたかは疑問の余地があるだろう。
さて今日においては鎌倉時代とは異なった文化的共同体の中にわれわれは生きており、自然現象である天体の異変や自然災害などは、人間の思想や意志とは無関係に生じるという、自然現象に関する自然科学的説明、すなわち唯物論的説明をわれわれの大部分は受け入れており、その意味では、自然災害の原因を誤った宗教に求める護国経典の記述に立脚した『立正安国論』の議論はそのままでは受け入れることはできないだろう。また現代の仏教学の定説では護国経典も中国で作成された部分も多いとされており、それらの経典を根拠とする議論自体にも問題があると言えよう。したがって『立正安国論』の議論を現代において受容するためには、ある程度の取捨選択を含む解釈作業が必要となるだろう。
例えば内村は誤った宗教を広い意味で解釈し、環境破壊や道徳的腐敗、悪政などを、自然災害を生じさせる悪い人為的原因となし、その意味では誤った思想が災害の原因であるという議論は正しいが、自分の宗教に対立する特定の宗教を災害の原因とする議論は誤っているとした。このような内村の解釈は『立正安国論』の現代的解釈の一つとしてそれなりの説得力を持つだろう。さらに内村の議論に加えて、そのような誤った思想に政治が動かされているならば、そのような政治を改革するための運動を展開することも、『立正安国論』の現代的解釈の一つとして可能であろう。
内村は日蓮による宗教改革を、@「依法不依人」という原理により宗教的聖典を根本とする宗教思想を確立した、A厭世的な仏教から実用的な仏教へ、Bインドの仏教から日本の仏教へ、C僧侶仏教から平民仏教へ、改革したという四点に見ている。
しかし内村は同時に日蓮の宗教改革の限界として特に宗教の倫理化に失敗したことを指摘する。唱題は宗教的救済の手段であるが、それだけでは人格的完成を実現することはできない。もし宗教の倫理的側面こそ最も重視されるべきであるならば、唱題は称名念仏やアベマリアと同様に、倫理的意味を持たないから迷信になると内村は指摘する。
しかし宗教と倫理との関係は多様である。一方においては、宗教にとっては宗教的救済こそ最も重視すべきであり、その救済のための修行が、ある場合には社会的倫理に反することもやむをえないという考えもある。たとえばある宗教において、世俗的生活を離れて、瞑想、あるいは苦行などの修行に専念することが、宗教的救済に至る唯一の手段であるとされれば、熱心な信仰者は、家族の一員としての義務(扶養)、社会集団の一員としての義務(兵役、労働、納税等)を放棄し、修行に専念するだろう。その場合には宗教的救済は社会的倫理上の義務と矛盾することになるが、そのような宗教的生活への専念を推奨する宗教も多い。日蓮も『報恩抄』で「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからず、いとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず、是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず」と述べて、宗教的生活と社会的倫理との矛盾が存在することを認めている。
他方においては、宗教的救済のための修行が何らかの形で社会的倫理を含むということも多い。仏教で説く在家信者の宗教的戒律である「五戒」には、殺人、盗み、不倫、虚言の禁止と言う倫理的義務を含んでおり、他の宗教でも同様の内容の倫理的義務を含んでいる宗教的戒律も多い。また宗教的救済の完成状態が何らかの倫理的な人格的完成を含むこともある。日蓮は『観心本尊抄』で「尭舜等の聖人の如きは万人に於て偏頗無し、人界の仏界の一分なり」と述べて、仏という宗教的救済の完成者は、「万人に於て偏頗無し」という倫理的要素を身につけていることを述べている。
このように宗教と倫理との関係は多様であり、日蓮の宗教的教えに倫理的要素がなかったわけではない。しかし宗教においては、倫理的要素も宗教的信仰を基盤にして考えられていることは、当然のことであり、若し信教の自由が抑圧され、自己の宗教的信仰を維持していくのが困難な社会的状況にある場合は、倫理的要素の実現よりも、宗教的信仰の持続がより強調されるのも当然であろう。鎌倉新仏教の中で、日蓮ほど宗教的弾圧を受けた仏法者はいなかったのであり、そのような状況の中では、日蓮の仏法を信じること自体が社会的迫害を覚悟しなければならず、日蓮の弟子たちも絶えずその中で信仰を続けていた。したがって倫理的実践が日蓮の教えにあっても、それを実現する社会的状況になかったことも留意する必要があるだろう。
その意味で日蓮の宗教改革が倫理化に失敗したという内村の指摘は、事実に関しては正しい指摘であるが、日本の宗教全体が倫理化に失敗しており、特に日蓮仏法だけの欠点ではないこと、また宗教の倫理化にはそれなりの社会的状況が必要であり、宗教的寛容がない社会においては、少数派の宗教はその信仰を維持すること自体が困難であるから、それだけ倫理化が困難であること、などが同時に述べられる必要があるだろう。そのうえで現代において日蓮仏法をどのように倫理化するかという問題は、日蓮の問題ではなく、現代において日蓮仏法を信じている人々の課題として提起されるべきであろう。
日蓮の宗教的特徴として、自分の宗教的解釈のみが正しく、他の解釈は誤っており、誤った宗教を批判し、正しい宗教を主張することは、信仰者として当然の姿であるといういわゆる折伏的態度がある。
内村は「確信欠乏して吾人に気骨なし。寛容欠乏して吾人に雅量なし。二者は真理の両面なり。完全なる宗教は両面の発達にあり。真理は宇宙大なり、われ一人のおおうべきにあらず、されども、われも宇宙の一部分なり、われの立つ所はわれの有なり、他人をしてこれを侵さしむべからず。これ寛容の哲理なり。僧日蓮はこの理を解せざりしがごとし。」(内村b、54)と述べて、日蓮に寛容の精神が欠如していることを非難している。
しかし既に述べたように、日蓮の他宗批判は、単なる一人よがりの思いこみではなく、それなりの文献的根拠をもって主張したことである。日蓮は自己の教義解釈が正しいことを一方的に主張するだけではなく、その正しさを公共の場で証明するために、積極的に公開の場での対論を要求した。
法然が『選択集』で称名念仏の専修を主張したとき、当時の有力な仏教指導者はそれに対する反論を公にし、朝廷に訴え、専修念仏停止を要求した。日蓮が法華専修を主張し、それが誤りであると考えるならば、鎌倉仏教界の指導者たちも、それに対する反論を公にし、幕府に対して専修法華の禁止を要求するのが、当時の慣例にしたがった対応であると考えられる。その意味で日蓮の公開の場での対論要求に積極的に対応すべきであると思われるが、私的な対論においてしばしば敗北していたために、鎌倉仏教界の指導者たちは公開の場での対論を避けて、幕府の要人を陰で動かし、日蓮を謀反の嫌疑で刑事裁判で処罰するという対応をした。
そのような対応に対して日蓮は『開目抄』で「種々の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじ」と述べて、いかなる権力による弾圧があろうとも、教義的論争に敗れないかぎり、自分の主張を撤回することはないと宣言している。ここにおいては日蓮は「智者に我義やぶられずば用いじ」と述べることによって、逆に「智者に我義がやぶられる」可能性があることを排除していないことも示されている。
宗教的な論争を権力によって決着をつけようとした鎌倉仏教界の指導者たちの態度と比べると、三証、すなわち文証(文献的証拠)、理証(理論的整合性)、現証(現実の証拠)にわたる客観的な証拠を重んじ、公開の場での対論という対等の立場に立った議論によって決着をつけようとした日蓮の態度は、宗教的真理に関して合理的な基準を提出し、理性的な教義選択を行おうとしたと見ることができる。
内村自身も無教会主義の運動を続ける中で、キリスト教の諸派とさまざまな論争をしてきたが、その論争という行為は、自己の解釈の正当性を他人に説得する行為でもある。もし真理がさまざまであるから、自分の真理と他人の真理とが異なっていてもかまわないということを前提にするなら、論争ということも意味をなさない。その意味で日蓮が自分の教義解釈を正当であると主張すること自体は、宗教的寛容の問題と直接関係することではない。
したがって宗教的寛容の問題は、宗教的論争の問題とは別の次元の問題として考えるべきであろう。しばしば宗教的論争が権力を発動しての一方的な宗教的迫害をもたらしたことがあるが、そのようなことを防止するための宗教的寛容ならば、信教の自由の保障という問題として考えるべき問題である。
しかしそれとは別の問題として宗教的寛容の問題が提起されうる。それは宗教的真理も他の真理と同様に文化的共同体の真理基準によって規定されるという問題である。ある文化的共同体で真理とされた宗教的真理が、他の文化的共同体においても同様に承認されはしないという問題である。
日蓮自身は当時の日本の文化的共同体の真理基準に照らして自己の解釈の正しさを主張し、他の解釈が誤っているという折伏を主張したが、他方では、仏法に無知な国では、相手の宗教を容認しつつ、仏法の意義を説く「摂受」という対話的方法をも認め、またその対話の結果、仏法の根本意義さえ変えなければ、教義や儀礼はその国に適切な形に変更することを認める「随方毘尼」ということも認めた。これは異なった文化的共同体においては、宗教的真理の主張の仕方が変ることを予想している。その意味では日蓮が非寛容であったという内村の見解は必ずしも妥当ではない。
内村鑑三a 『代表的日本人』『内村鑑三信仰著作全集(6)』(教文館)所収
内村鑑三b 「日蓮聖人を論ず」 丸山照雄編『近代日蓮論』(朝日選書)所収
ウィトゲンシュタイン 『確実性について』『ウィトゲンシュタイン全集(9)』(大修館)所収
ストローソン 「指示について」坂本百大編『現代哲学基本論文集』(勁草書房)所収