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牧口常三郎の宗教研究法(II)

「この論文は、1986年『東洋哲学研究所紀要』第2号に掲載された「牧口常三郎の宗教研究法」(後に1997年『牧口常三郎はカントを超えたか』(第三文明社)に収録)の後半部分としてほぼ同時期に執筆された論文である。上記論文では、牧口常三郎の宗教思想の発展を『創価教育学体系』、『創価教育学体系梗概』、機関雑誌『新教』に掲載された論文「科学と宗教との関係を論ず」、『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』などを資料にして歴史的に分析し、牧口の宗教思想の発展とその特徴を私なりに明らかにした。本論文においては、その分析を踏まえて、果たして牧口の宗教思想はどのような説得力があるのかを検討した。その検討過程で、創価学会にとって必ずしも受け入れやすくはない記述もあり、当時はそれをそのまま発表することは見送られた。その後、第2次宗門問題の発生と共に、牧口常三郎に関する研究については、他の思想家と同様に学問的に扱うことが教団的には容易になり、上記論文の要約と本論文の骨子を組み合わせて、1994年『東洋学術研究』第33巻第2号に「宗教の価値科学的研究の可能性とその意義」として発表された(『牧口常三郎はカントを超えたか』に収録)。「内村鑑三の日蓮論について」でも述べたが、『牧口常三郎はカントを超えたか』がまだ在庫があり、絶版になっていないため、この著作に収録された論文を電子媒体に掲載することに関しては、著作権法上の問題があり、そのためオリジナルの未発表の本論文を掲載することにする。本論文は上記論文を前提として書かれているために、分かりにくい箇所があると思われるが、お許し願いたい。」 (2012.1.29 付加)

第1章 牧口による日蓮仏法の正当化

 「牧口常三郎の宗教研究法(I)」において、牧口の宗教観の深化を、特に科学と宗教との関係を中心にして、歴史的にたどってみた。その結果、牧口の宗教思想には二つの特徴があることが分かった。
 一つは宗教を科学との類比において考察することである。その場合(a)対象領域に関して宗教と科学とは全体と部分の関係にあり、科学は自己の対象領域内部においては真理であるから、その範囲においては科学と矛盾する宗教は反科学的として否定されなければならない。(b)宗教の中でも、仏教内部においては、科学的真理の確定方法とパラレルな文証、理証、現証という仏法的真理の確定方法によって、合理的に唯一の正しい仏法を選択することができる。
 第二には宗教を価値という観点から考察することである。すなわち宗教の本質はそれを信仰する者に、価値、幸福を与えることにあり、有益性が宗教選択の基準である。しかもそれぞれの宗教の有益性を価値科学的に比較検討することによって、最も有益な宗教を選択できる。
 その上で日蓮仏法は、科学との類比においても、価値の比較においても、最高の宗教であると牧口は結論づけている。
 以下の論述において、この牧口の宗教思想と日蓮仏法の正当化の理論がもつ理論的諸問題を検討してみたい。議論の順序として、まず、牧口による日蓮仏法の価値論的解釈を検討し、引続き日蓮仏法が価値論的に最高であるという証明方法の諸問題について検討する(第2章)。次いで日蓮仏法を科学との類比において最高であるという証明(牧口はこの証明を価値論的証明と区別する意味で真理論的証明と呼んでいる)について検討する(第3章)。以上の検討によって、牧口が期待したような証明結果が生みだされるには理論的困難が多すぎることが示されるが、最後に、宗教の価値論的考察という牧口の思想の意義について若干論究したい(第4章)。

第2章 価値論的研究の諸問題(牧口の理論の厳格な解釈について)

 第1節 牧口による日蓮仏法の価値論的解釈

 牧口は宗教一般が価値を供給することにその存在意義を認めるのであるが、日蓮仏法も価値を供給する宗教であり、しかも最も有益であることを、『実験証明』において次のように説明している。日蓮仏法は第一には「無限なる時間空間及び精神物質両界にわたる因果の法則を証明し、利害善悪の根拠を示し、人生究極の目的を知らしめ、最大価値の生活法の原理を確立せしめる」という理論的特色を持ち、第二には「懺悔滅罪の法を授けて」、「過去の悪因を解消し、未来の善果を保証」し、第三に「謗法(正しい最上の法則を説き明かした法華経に反くこと)という根本的の大罪」が「法罰又は障魔という名称によって表される災害」としてあらわれるが、化他行により人を救うことによって、「毒を変じて薬となす如く、禍を転じて福となし」、「成仏(生死を超越した最大幸福の境涯)という無上最大の幸福に登」らしめるという価値的特色を持つ(8−64 第三文明社の『牧口常三郎全集』の巻数と頁数のみを示す)。この牧口の説明を簡単に述べると日蓮仏法は第一に人生における幸福、不幸に関する因果の法則を説き、第二にその仏法の信仰実践により、生活上に種々の現世利益が現れ、第三にさらに実践が深まると過去世の謗法の罪が現世にあらわれて種々の難を受けるが、それを乗越えると成仏という無上最大の幸福を得ることができるということになろう。
 そしてこの日蓮仏法が真理であるかどうかは、日蓮仏法を信じ、実践することを通じて、現世利益があらわれることによって証明されるか、または日蓮仏法を誹謗することを通じて生活上に災いがおこることによって証明されるかのいずれかであるという法罰論を牧口は主張した(8−81)。
 これらの牧口の主張によって日蓮仏法が最も有益であることの論拠は、表面的には現世利益と法罰に求められ、究極的には成仏=最大の幸福ということに求められている。この二つの論拠は牧口においては幸福、価値という概念によって連続的に考えられているが、ここにはいくつかの問題点があるため、両者を区別して考察しよう。

 第2節 現世利益と法罰による正当化の理論的諸問題

 2−1 時間的範囲の問題

 まず表面的な論拠である現世利益と法罰による日蓮仏法の価値論的正当化に関わる理論的諸問題について検討してみよう。
   もし日蓮仏法が単純に「信仰者には必ず功徳があり、誹謗者には必ず法罰がある」(これを暫定的に基本命題と呼んでおこう)ということだけを述べていれば、この基本命題の真偽を事実において検証するのはそれほど困難ではない。日常生活上の事実としての信仰、誹謗という原因的行為と、功徳、法罰という主観的かもしれないが、日常生活上の実感として感受される結果とが、ある時間的範囲において継起的にまた恒常的に生起するならば、ヒュ−ム的な意味で両者に因果関係を認めてもかまわないであろう(これは自然科学的な説明を欠く疑似科学的な因果関係とされるのは仕方がない)。また両者がそのように生起しなければ、その基本命題は否定されるしかないであろう。
 しかし日蓮仏法の中には「信仰者にも過去世の謗法に原因を持つ三障四魔という法罰が生じる」「誹謗者でも未来世に地獄に堕ちることが決まっている者は、現世においては何ら法罰がない」という時間的範囲の問題に由来する例外規定命題がある(8−84)。つまり日蓮仏法が真理であるかどうかは、過去世、現世、未来世という三世の中で証明されるべき命題であって、現世だけの功徳や法罰によっては証明されないという理論的特徴を持つ。  したがってわれわれ人間にとって過去世の原因や未来世の結果を知ることができないがゆえに、日蓮仏法の真理性は厳密には検証も反証もできないのである。三世にわたる幸福、不幸の因果という例外規定命題によって、基本命題は、検証可能な事実命題から検証不可能な宗教的命題に変化したといえよう。
 牧口はこの例外規定命題が基本命題の性質を変化させることについて自覚しているとは思えない。彼は基本命題が事実上検証可能であり、その検証の三法則として「1、信仰が強いほど、周囲の関係者に現証の起こるのが早い。2、信仰者との因縁関係が多いほど、早く現証が起こる。3、関係者の過去世の謗法の程度によって、現証が起こることに関して遅速の差があり、現世において法罰のない者もある。」(8−84)ということを述べている。この第3項は例外規定命題であるが、他の2つの項が基本命題を検証する場合の条件を述べて、基本命題の性質を変化させるものではないのに対して、この第3項は基本命題が妥当しない事例を予め想定して、その理由を述べるという弁神論的機能を果たすものであり、基本命題を事実命題から宗教的命題に変化させるものである。

 2−2 宗教的功徳の客観的規定に関する諸問題

 しかしながらここで基本命題の適用される時間的範囲を現世に限って、基本命題を検証することは可能かもしれない。もし現世において、日蓮仏法の信仰者には功徳を受けた者が多く、誹謗者には法罰を受けた者が多ければ、すなわち例外規定命題が適用されるべき事例が少なければ、基本命題が真理であることを厳密には証明することにはならなくても、基本命題に対する信頼度は高まるといえよう。牧口が日蓮仏法の実験証明ということを科学的態度をもって主張したのは、現世に限っての実験証明という意味で主張したものと考えられる。そうでなければ実験証明ということが意味をなさない。また牧口自身も功徳や法罰の事例の集積に積極的であったことは、機関紙「価値創造」にも見られる。戸田城聖が1955年の論文「宗教の正邪批判の方法」において、各宗教の与える現世利益という宗教現象を統計的に調査して、宗教の正邪を判定する宗教現象調査会の設置を提唱したのも、牧口と同じ考えであったからであろう(『戸田城聖全集』1−169)。)
   だが実験証明を現世に限ったとしても、その証明方法に関しては種々の理論的問題がある。その一つは功徳とか法罰ということを、理論負荷性を持たずに、規定しうるかということである。もし全ての人に妥当する幸福、不幸についての定義、あるいは価値基準が客観的に設定でき、しかもそれを数量的に測定できるというベンサム的な量的快楽主義が採用できるなら(国際連合開発計画の人間開発報告書で 報告される人間開発指数(HPI)もその一つの試みと見なすことができるかもしれない。しかしその指数も先進国と発展途上国では異なった基準が適用されるという問題もある)、幸福を示す数値の増加、減少ということが言え、この幸福値と宗教的信仰の相関関係を社会的に調査することによって、宗教の有益性調査が可能かもしれない。(例えば戸田は前記論文において病気と貧困からの解放ということを功徳のメルクマ−ルとすることを提案している。)だが幸福値が家柄、資産、学歴、収入、職業などの客観的な社会経済的属性によって規定できるということが社会的に承認されているわけではない。また宗教がそのような属性の中での上昇こそ幸福であると必ずしも主張しているわけでもない。むしろ宗教は社会経済的属性では規定できない人格的完成こそ幸福であると主張することが多い。したがって宗教的信仰と功徳、法罰との因果関係を客観的に規定するためには、幸福観、価値観の多様性ということが障害になってくる。画一的な幸福観、価値観を持つ社会であれば、幸福値の客観的な規定が可能であるかもしれないが、そうでない社会においては不可能であると言わざるをえない。(宗教と社会経済的属性との関係は、信仰と功徳という因果関係とは別に、宗教社会学上の一つのテ−マであることは、ウェ−バ−、ウィルソンが示している。池田大作、ウイルソン『社会と宗教』上−261参照)
 むしろ幸福、不幸というものが主観的なものであるということのほうが、より人間の生活実状に即しているのではないだろうか。幸福、不幸が主観的なものであるがゆえに、客観的状況がそれほど変化しなくても、宗教を通じて、物事の見方が変化することによって、幸福を感じるということが生じたり、あるいは宗教を通じてものごとの取組み方が積極的になり、客観的状況もそれなりによくなるということも生じたりする。それらが宗教的功徳であると主観的に解釈されるのはそのかぎりにおいては当然であろう。だがここで注意しなければならないのは、幸福、不幸の主観性が否定しえない事実であると思われるかぎり、その主観的見方を大きく規定する宗教から理論負荷性なしに、宗教的功徳、法罰ということをいうことができないということである。つまり宗教による功徳、法罰ということがあるはずだという理論的前提があって、はじめて生活上のよい出来事が功徳として解釈され、悪い出来事が法罰として解釈されるのである。しかもその場合、多分実際の生活においては、宗教者にとってもいくつかのよい出来事と悪い出来事とが生じていると思われるが、宗教を信じている者にとってはよい出来事は功徳として主観的に強く自覚されても、悪い出来事は必ずしも宗教的に解釈されるわけではなく、その原因は日常的な因果関係に求められることが多いと思われる。あるいは過去世の宗教的原因という解釈によって現世的な宗教的解釈を放棄するということもある。(この問題は鈴木広『都市的世界』303ー309参照)つまり宗教的功徳を実感させる方向に宗教は機能するのであって、宗教を信じていない者が同じ評価をするとはかぎらないのである。このような宗教的功徳の理論負荷性という問題がある程度解決されなければ、主観的幸福観をとったとしても、基本命題の実験照明ということには理論的困難がある。

2ー3 宗教社会学的調査結果から見た諸問題

 主観的幸福観につきまとう理論負荷性の問題を取り敢えず無視して、生活実感として宗教はどのように信仰者に受け取られているのかということは種々の社会調査によって報告されている。その社会調査から見れば基本命題はある程度真理として推測できるであろうか。
 創価学会員の意識調査についてはいくつかの調査結果が報告されている。その最も古い調査の一つは、1962年に鈴木広によって行われた福岡市の創価学会調査研究である。それによると信仰による功徳を体験したもの、期待するものは8割に達している(前掲書307)。さらに詳しく役員メンバーと無役メンバーとの受益感を見てみると、役員メンバーでは9割が受益感を持っているのに対して無役メンバーでは6割が受益感を持っている(同書 325)。この調査結果をどのように評価するかについてはさまざまな見解がありうるが、とりあえず、基本命題の前半の部分である「信仰するものには功徳がある」という命題に関しては、肯定的な調査結果であるといえるだろう。
 次ぎに基本命題の後半部分である「誹謗するものには法罰がおこる」ということに関しては調査報告がないので確かなことはわからないが、もしこの部分の命題が戸田城聖がいうように「邪宗を信仰するものは、その信仰が強い者ほど不幸になる」(戸田 169)という命題を派生命題として含意すると考えれば、そのことに関しては多くの否定的な調査報告がある。例えば西山茂は1972年の山形県での妙智会員調査の結果を「宗教的信念体系の受容とその影響」という論文で報告している。それによれば功徳の体験は会員全体の中では5割強持っており、持っていないのは5割弱であるから、先程の鈴木広の創価学会員調査と比較すると功徳の体験を持っているものは少ないようである。しかし活動的な会員の中では功徳の体験を持っているのは8割であり、非活動的な会員の中では3割である(前掲論文 58)。つまり新宗教一般の信者の受益感の調査結果として、熱心に活動する会員には、功徳の体験が多く感じられているということが報告されているのである。したがって戸田の主張するような派生命題は真理ではないということになろう。(この問題については池田、ウイルソン『社会と宗教』上 108ー115参照)
 もちろんこの問題は基本命題を現世にかぎって、しかも主観的幸福観を採用するという検証方法を採用するという暫定的な手続きにおいてのみ言えることであって、牧口が主張するように例外的規定命題を適用して、熱心な他の宗教の信者は未来世において地獄に墜ちるから現世においては法罰がないと主張することもできよう。だが現世における主観的幸福という基準を宗教的選択の基準にするかぎりは、「宗教を信仰すれば功徳がある」という一般的命題が日蓮仏法にも、他の新宗教にも程度の差はあれ、同様に適用されうるという調査結果が報告されているのであるから、日蓮仏法が最も有益であることを、現世利益に関する宗教社会学的調査結果によって証明することはできない。

第3節 成仏=最高の幸福論の諸問題

 

 現世利益を比較するかぎりにおいては、諸宗教の優劣を決定できないにしても、牧口にはまだ次のように言うことができる。すなわち、幸福(利益、功徳)の概念内容を検討比較して、そこに序列をつけ、日蓮仏法が約束する成仏という功徳こそ、最高の幸福であるという牧口が主張した日蓮仏法の第3の特徴である。これは日蓮仏法が最も有益であることの究極的な論拠として提案しうると思われる。牧口は後に日蓮仏法に基づく生活を大善生活として提唱し、それ以外の生活より価値ある生活であると主張したのもこの論点と関係しているが、この問題については別の機会に論じたい。
 しかしここで問題は再び次のような形で生じる。すなわち第1に成仏ということは現世内の出来事なのか、それとも現世を越えた出来事なのかという問題であり、第2には現世内の出来事であるとした場合に、それは宗教的教義による理論負荷性が高い出来事なのか、それともある程度日常言語で理解できる出来事なのかという問題である。
 第1の問題については例えば「人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世にわたる、ゆるぎない成仏の境涯であって、真の幸福とはここに極まる」(『正しい宗教と信仰』 90)という言い方がされる。この命題の解釈についてはいくつかありうるが、三世にわたるけれども、現世でも成仏するというように解釈しておこう。すなわち成仏とは現世内の出来事であり、日蓮仏法は一生成仏、即身成仏という教義によって成仏を現世内の出来事であると主張している。そして日蓮の思想の中には成仏が事実的出来事であるということの一つの証拠として臨終の相を重視するという考えがある(大石寺版 御書全集 1404)。
 第2の問題は、現世の成仏=最高の幸福といってもはたしてそれは宗教的教義による理論負荷性が高いかどうかという問題である。既に述べたように幸福が主観的概念であるとしても、最高の幸福という概念についてある程度のコンセンサスがあれば問題はそれほど複雑ではない。どんな宗教的教義を持とうが、最高の幸福ということがどういうことであるのかについて社会的文化的一致があれば、そのよう最高の幸福を成仏と命名して、成仏こそが最高の幸福であると主張することはト−トロジ−ではあるが、独断的な主張ではなく、成仏という概念は宗教的教義による理論負荷性がないといえよう。そして成仏したかどうかの判断は宗教的教義とは関係なく、最高の幸福を実現したかどうかによって判断される。
 しかしながら現在までのところ最高の幸福について社会的文化的コンセンサスがあるとは言えるような状況にはなっていない。あるいは多くのひとが望む財産、地位、名誉、家族、健康などの欲求が全て満足する状態が最高の幸福かもしれないが、日蓮仏法が考える最高の幸福=成仏とはそのようなものではない。牧口自身は最高の幸福=成仏ということを述べているが、詳しくは説明していないので、創価学会教学部編『仏教哲学大辞典』を参考にすると、成仏とは「いかなる社会の困難にぶつかろうとも、ゆうゆうと乗越えて、あらゆる不幸な人々を救いきっていこうとつねに願う慈悲の心を持ち、社会に対してつねに価値創造して、どのような要因によっても、絶対にくずれない金剛不壊の幸福境涯を成仏という。これこそ人生の究極の目的である。」(3−941)とある。この日常言語による定義的説明を分析すると、成仏とは、社会的困難を克服する能力、慈悲、創造性、不屈の精神力といった精神的能力の獲得とその能力の実現状態ということになろう。成仏の概念内容とされるこれらの能力の獲得と実現状態が人間にとって最高の幸福であるという主張はすべての欲求の満足を最高の幸福と主張することと同じであるとは必ずしも言えないのであり、むしろ欲求の満足という幸福観と精神的完成という幸福観との差異として解釈されよう。
 最高の幸福とはどういうことであるのかということについて社会的文化的コンセンサスがない状況において、最高の幸福についてある定義を与えるということは、事実上最高の幸福についてのひとつのイデオロギ−を主張することである。一般には最高の幸福とはどういうことであるのかについてのひとつのイデオロギ−を提供するところにこそ宗教の本来的機能があると考えられている。つまり既成の価値観、幸福観を基準にして、宗教の救済理論から導き出される幸福観を考えるべきではなく、むしろ宗教独自の救済理論を提示することによって、既成の価値観を批判し、そして宗教的回心を経て、新しい価値観を形成させるような宗教の挑戦的機能を重視する考えである。そのような考えに立てば、成仏を最高の幸福であるとして、それを日常言語で表現しようとすることは、宗教的救済理論を宗教言語から翻訳して、人々に伝達しようとする努力であるとみることができる。しかしながら最高の幸福ということが存在するという理論的前提の上で、日蓮仏法こそこの最高の幸福を実現するがゆえに、最も有益であるという主張は、最高の幸福についてのコンセンサスがない以上、それほど大きな説得力を持たないと言えよう。
 結局、価値を基準にして宗教の優劣を科学的に比較するということは、その基準となるべき価値観が多様であることを前提とすれば、もともと原理的に不可能であると言えよう。牧口の価値科学による宗教の比較という試みは、基準となるべき価値観を固定して、その上で宗教の優劣を判定するものであり、この価値観の固定はひとつのイデオロギ−であるということを無視している。以上のように見てくると、牧口の価値論を基礎にした日蓮仏法の正当化の試みは、その試みを厳密に科学的命題として受取り、それを科学的に検証しようとするには、理論的諸問題が多すぎることがわかる。だが牧口による日蓮仏法の正当化の試みを、額面通り受取る必要もないかもしれない。その試みは日蓮仏法を広めるためのひとつの手段であり、人々が日蓮仏法の救済理論を知るためのひとつの体験の回路を設定するということに、より大きな目的があったと穏健的に解釈するほうがよいのかもしれないが、この問題に関しては第4章で論ずることにしよう。

第3章 真理論的研究の諸問題

 第1節 三証の問題

 

 さて以上のように宗教を価値の観点から見て、なんらかの宗教を選択するということについての理論的諸問題を検討してみたが、次に科学と宗教との関係に関する牧口の考えについて若干検討してみたい。
 牧口は文証、理証、現証という仏法的真理確定の方法が科学的真理確定の方法と類似していることを主張して、仏法と科学との類似性を述べているが、ここにもいくつかの問題がある。
 まず文証に関して言えば、日蓮は仏教経典が仏となった釈尊の悟りを述べたものであるという前提の上で、天台大師智の五時教判を基礎に独自の五重の相対という教判をつくって自己の仏法を正当化していった。日蓮の仏教経典重視の姿勢=教相主義には当時の中古天台における恣意的な文献解釈の上で立てられた観心主義への批判という宗教思想史上の意義があり、日蓮の仏教的真理の確定のための努力の現れとして注目すべきであると思われる。
しかしながら今日の文献学的研究においては仏教経典が仏となった釈尊の言行録であるという日蓮の前提には否定的な見解が強い。もちろん大乗仏教経典が釈尊滅後の仏教徒によって創作されたという強い大乗非仏説は支持を失ってはいるが、釈尊の思想を様々な形において思想的に展開したという意味での大乗経典生成説は仏教学の定説になっている。ある経典が釈尊の根本思想を述べたものであるということを主張することには、いかなる意味と根拠があるのかということの説明なしには、そのような主張をすることが無意味になっている。
日蓮の考えでは、仏が説いたという権威があるから経典の権威が確立する(教主の重視)ということになるが、その前提をそのまま受容することができない現在の学問的状況において、文証という日蓮の真理確定のひとつの方法論をどのように考え、また適用するのかという問題を解決することなしに安易に文証を主張することはできない。ましてや法華経を末法に対する予言の書であるとして、その文々句々が日蓮の行動を予言しており、また日蓮はその予言を実証したとする解釈は、その予言をなしたのが仏である釈尊であるということが証明されないかぎり、仏からの宗教的カリスマの継承というようには解釈できないであろう。
 次に理証について言えば、もし文献の権威が保証されたとしても、その文献が内容的に整合的であることを、はじめから前提とするわけにはいかないという問題もある。特に宗教文献における神話や象徴的表現を日常言語による救済理論まで翻訳するにはさまざまな問題があり、そこにはさまざまな解釈の可能性が生ずるのが普通である。解釈の異なりによって全く異なった救済理論が生じた場合には、どのような理論の決定原理を働かすかということへの考察なしには理証ということも単純には言えないであろう。
 最後に現証について言えば、最も問題が複雑であるといえる。日蓮は「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書全集 468)と述べて、現証を最も重視し、具体的には祈雨の効果によって仏法の正邪を決定しようとした。しかし祈雨という宗教的行為の後で実際に降雨という出来事が生じたとしても、その出来事が仏法の正邪の現証であるということを言うためには、宗教的行為と降雨という出来事の間には因果関係があるということが一般的理論として受容されていなければ現証とは言えないという理論負荷性の問題を解決しておかなければならない。降雨は宗教的祈雨の儀礼とは無関係であるという立場をとれば、たとえその儀礼の後で雨が降っても、その儀礼の効果を証明するものとは言えないであろう。現在までのところ、宗教的理論と独立に、宗教の正邪を決定する現証があるとは一般に見なされていない。
 あるいは日蓮が重視した成仏の相に関して次のような三段論法を作り日蓮仏法を正当化することができるだろうか。
 大前提 死相がよいことが成仏の証拠である 
 小前提 題目を唱えれば、死相がよくなる
 結論  題目を唱えることは、成仏の原因である 
この場合小前提が生じても、結論が受容されるためには予め大前提が受容されていなければならない。しかし大前提自体は保証された命題ではない。もちろん日蓮仏法を信仰するものは死相がよく、それ以外のものは死相が悪いという命題が統計的に検証され、そこには宗教的因果性しか考えられないとしたら、日蓮仏法に関して特殊な因果命題が成立し、そのひとつの解釈として、大前提を含む上記の三段論法への信頼が高まるということは言えよう。だが現在までそのような統計的デ−タに関する報告は聞いていない。
 このような諸問題を考察した上で、日蓮の三証という思想は宗教的真理を決定するのに、 どのような意義と効果があるのかを説明してからでなければ、三証を単純に適用して日 蓮仏法が仏法的真理であると主張してもそれほど説得性がないと思われる。

 第2節 全体と部分のアナロジ−の問題

 

 次に対象領域に関して、宗教と科学は全体と部分の関係にあり、科学と矛盾する宗教は否定されなければならないという牧口の考えを検討してみよう。牧口は科学と仏法とは部分と全体の関係にあると考えるが、はたしてこの考えは適切であろうか。
 科学の中でも、その典型となっている物理学、化学においては、現象を物理的因果関連に還元して考察するという方法論的唯物論があるが、この方法論的唯物論は容易に世界観的唯物論になりやすい。例えばデカルトは人間以外の存在者に関しては全て物質原理を適用し、動物機械論を主張したが、その考えと自然が生命原理に満ちているとするロマン主義の考えとは、世界観としては両立しない。宗教が科学を部分であるとみなそうとしても、科学のほうでは必ずしもそのことに甘んじたりはしない。むしろ科学も宗教もそれぞれ自己のもつ世界観を唯一のものとして互いに主張しあうことのほうが多い。そのような場合に科学と矛盾しない宗教とは、科学が得意とする領域に関しては沈黙を守り、科学が語らない、もしくは語ることのできない領域に関して発言する宗教であるかもしれない。もしそうであるならば、科学と宗教の関係は全体と部分という関係ではなく、集合と補集合という関係にあり、科学の領域は拡大しているが、宗教の領域は縮小しているということになるのかもしれない。いずれにせよ科学には固有の世界観が内在するということを認めるならば、全体と部分という関係で宗教と科学を調停させるには困難があるだろう。

第4章 生活世界の現象学を基礎にした宗教の解釈(牧口の理論の穏健な解釈について)

 第1節 基盤としての生活世界 

 宗教と科学とが異なった世界観を持ち、競合的関係にあるとしても、その世界観を受容するのは人間であり、宗教的世界観を持った人間と、科学的世界観を持った人間とは全く理解しえないのであろうか。この問題に関しては後期フッサ−ルの生活世界の現象学の理論がひとつの説明を与えてくれるだろう。
   フッサ−ルは『危機書』において、学問的思索の基盤として、前学問的な生活世界の存在を前提としていることを明示し、その生活世界が身体の知覚機能と運動機能を通じて与えられる物体性を持った世界であり、また身体との関係性を持った人間−自我が住みついている世界であり、それらの人間−自我が相互に生きている「われわれの世界」であり、その中でさまざまな行為を遂行している世界であると規定している(前掲書 第28節)。学問的行為は、その範囲と確実性とが不完全な前学問的知識を、完全な知識に転ずることを目標としているが、それが可能なのも前学問的知識が生活世界に関する知識として予め与えられているからである。したがって科学的世界観といっても、生活世界に関する前学問的知識を特殊な方向に洗練した知識であって、その洗練の過程が知的にたどれるかぎりにおいては、生活世界に関する知識しか持たない人間でも、可能的には理解可能な知識である。
 フッサ−ルは生活世界があらゆる人間の行為の基盤となっていることを一般的に明示し、 特に学問的知識と生活世界に関する前学問的知識との関係については論述しているが、 宗教的世界観と生活世界との関係については主題的には述べていない。この問題に取組んだのが現象学的社会学者アルフレッド・シュッツであるが、彼はフッサ−ルの生活世界の思想を受継ぎ、それをさらにさまざまな側面から分析しているが、生活世界がフッサ−ルが強調したように自然的、社会的環境であるだけではなく、文化的環境でもあることを強調した(『現象学的社会学』 30)。フッサ−ルは生活世界に関する前学問的知識はある意味で普遍的であると想定していたようであるが、シュッツは生活世界に関する知識が文化的に影響されていることを強調することによって、ある文化的共同体にとって自明とされる生活世界に関する知識も、文化的共同体の成員でないよそものにとっては、自明であるとは言えないことを強調した(同書 44)。このようなフッサ−ルとシュッツとの生活世界に対する思想的差異はあっても、ある文化的共同体においては、生活世界に関する知識があらゆる知的行為の前提になることでは一致している。
 ところがシュッツがウイリアム・ジェ−ムズの影響を受けて、現実には各々独立した固有の存在様式を持つ多くの「下位世界」があり、生活世界も至高の現実という形容はされているが、多くの下位世界のひとつにされてしまい、科学の世界、宗教の世界、狂気の世界などと並ぶ世界であるという多元的現実論を主張することによって、フッサ−ルが考えたようなあらゆる精神的行為の基盤という性格を失ってしまった(前掲書 267)。さまざまな知識を理解するための基盤としての生活世界に関する前学問的知識というフッサ−ルの思想は否定され、生活世界に関する知識から他の世界への移行には、特殊なショックが必要であり、そのショックを経験すれば、異なった世界に移行できるとシュッツは考えた。そのショックの例として、夢の世界に飛躍するための入眠というショック、生活世界に対する情緒的な関わりを無関心な思弁的態度におきかえる科学者の決心、宗教的経験などをあげている(同 270)。そして異なった世界の意味領域を相互に理解可能にする変換公式がないことを強調している(同 271)。このようなシュッツの多元的現実という理論に立脚すれば、宗教的世界観を持った人間と科学的世界観を持った人間との相互理解の可能性は閉ざされている。
 このようなシュッツの多元的現実の理論は、理解ということを厳密に考えて、相互の変換公式がなければ、異なった世界の理解ということはありえないという前提に立っていると思われる。それに対してフッサ−ルが、生活世界があらゆる精神的行為の基盤であるという場合には、理解や知識をそれほど厳密には考えてはいない。シュッツが異なった世界に飛躍するために必要な精神的出来事としてあげているショックについてのいくつかの例は日常生活においてしばしば経験される出来事である。そのような日常的出来事を媒介にして受容される世界が相互に理解不可能であるというのはかなり過激な見解であろう。(シュッツとフッサ−ルとの差異については望月哲也「聖俗世界への解釈視角」参照)

 第2節 生活世界における宗教の機能 

 それでは後期フッサ−ルの生活世界論を認めた上で宗教的世界観をどのように理解すればよいのであろうか。シュッツの生活世界の位置付けに関する考えには賛成できないが、生活世界の内実に関する分析には有用なものが多いのでそれを参考にしながら考えてみよう。生活世界に関する前学問的知識はシュッが分析するように、まとまりを欠き、部分的にのみ明瞭であり、常にある程度の矛盾を含んでいるが、それはそのような知識が、さまざまな行為に必要な範囲において獲得されるからであり、真理や確実性を求めるわけではないからである(前掲書 33)。そのような知識の中にはこの世界が自然的存在であるとともに社会的存在であるということも含まれており、しかも自然や社会には秩序があるということも含まれている。この秩序の本質については通常の仕方では知ることはできず、その意味では超越的であるが、人々は類比的把握によって知ろうとし、そのような知識(宗教的世界観)は一度社会文化的に形成されると自明な知識に含まれてしまう。そのような知識は日常生活を不安にさせるような現象に対処する方法を教えてくれる実践的な意味をもっている(前掲書 258−266)。シュッツはこのような生活世界の中から生みだされた宗教について「このレベルにおいては、聖なる世界と俗なる世界は密接に関わり合っている。」(同 266)と述べている。
 フッサ−ルもシュッツも生活世界が行為の世界であることに関しては意見が一致している。科学も宗教も生活世界における機能を考察すれば、このような行為の問題と切離すことはできない。どちらも自然的、社会的秩序の本質に関する知識を得ようとしており、その知識はまた人間の生活の安定、向上という実践的な目標と関係している。ただその知識を得るための方法論ならびに世界観に関しては大きく異なっているとはいえ、全く理解不可能なものではない。理解できなければその知識は知識としては伝承されないからである。そして生活世界の中には科学的知識によって対処したほうが有効であるとされる分野もあれば、確実に有効な方法が未発見のため類比的把握による知識である(それだけ確実性は低いが)宗教的知識に依存するしかない分野もある。多くの場合、人々はその実践的な関心と見込みの上でさまざまな対処方法を適当に使い分けている。このような考えに立てば、宗教的世界観は科学的世界観と同等の目的(=確実な真理の探求)を持った行為の上で形成されたとはいえないであろう。確実性に関しては証明できないが、自然や社会の秩序の本質に関して人間に有益な知識を与えることにその生活世界での機能があったと思われる。もちろんその宗教的世界観において自然や社会の秩序に関する説明があまりにも一般に信頼されている科学的世界観と矛盾する場合には、その宗教的世界観に対する信頼度が低くなることは明らかであり、その意味では宗教的世界観の世界描写的機能を無視することはできない。しかし宗教的世界観の重要な機能はシュッツの見解を利用すれば日常生活を不安にさせる現象に対処する方法を与えることであるから、むしろ激励とか慰めとか共感といった言語行為として機能していると考えるほうが適切であろう。

 第3節 牧口の価値論的研究の穏健な解釈について

 

以上のように生活世界における宗教の機能について考えると、牧口の価値論的研究に関しても、第2章とは異なった解釈が可能である。牧口は宗教が教義的真理を説くだけでは生活の上ではなんの意味もなく、また人々はそのような宗教には関心をもたないと考え、宗教の本質は幸福を祈願する人々に価値を供給することにあると主張したが、この考えは上記の生活世界における宗教の機能に関する考察の結論と一致する。
 牧口の生活世界の重視は科学的世界観を支える基盤として日常世界の真理を強調するという考えにも明白に認められる(5−235 拙稿「牧口真理論の研究」47参照)。また牧口にとっては宗教とは所与のものではなく、選択されるべきものであり、その選択基準が宗教を受容する前にあったということも重要なことである。牧口は『創価教育学体系梗概』において、さまざまな宗教遍歴をしたが、科学および哲学の趣味にあわなかったから他の宗教には入信しなかったと述べている(8−405)。選択基準としての科学と哲学の趣味、その中には生活に無益な宗教は無用であるという日常生活の重視という考えがあったのである。
 それでは牧口の価値科学による宗教の比較検討という考えはいかなる意味をもつのであろうか。文字通りとれば、日蓮仏法に期待した通りの功徳の結果がなければ、日蓮仏法は価値科学的には無益であるとして否定するという態度が牧口になければ、牧口の価値科学の主張は誠実な主張であるとは言えない。だが牧口自身に日蓮仏法が功徳を提供するものであるという不動の信念がある場合に、もし功徳がなかったら、日蓮仏法を捨てるかという問題提起をすることにはあまり意味がないだろう。法罰論を主張することに関しては日蓮正宗内部においても反対論があったことは知られているが、それをあえて押しきって主張するには、よほどの確信があったのと、布教的な観点から、法罰論を必要とし、それを教学的に、あるいは哲学的に位置付けたと考えるほうが適切であろう(牧口に布教的な観点があったことは、当時の幹部矢島周平が証言している。『牧口常三郎』 477)。
 このように考えれば牧口の価値論的研究を科学的言明であると厳密に解釈して、その命題が科学的に検証しうるかどうかを考察することにはあまり意味がないことになろう。むしろある宗教を信仰することによる生活上の功徳を体験し、伝達するためのひとつの布教手段として主張したと穏健に解釈すべきであろう。そう考えれば、そのような信仰を受容しようとしない人々に対して、法罰論を主張することによって布教することが、目的の達成に対して有効かどうかを検討する必要があろう。牧口の時代は日蓮仏法を信仰しているものはほんのわずかであったから、法罰論という過激な布教方法を採用する理由があったが、今日においても同じ方法を採用すべき理由があるとは思えないし、また現実にもそのような布教方法がとられていないのは、それ相応の理由があると思われる。

 この論文は1987年3月30日におこなわれた東洋哲学研究所第3回学術大会で口頭発表したものに加筆訂正したものである。

使用文献

 『牧口常三郎全集』第三文明社(巻数と頁数だけあげた)
 『戸田城聖全集』聖教新聞社
   『日蓮大聖人御書全集』大石寺版
   アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学』紀伊国屋書店
 池田大作、ウイルソン『社会と宗教』講談社
 鈴木広『都市的世界』誠信書房 
 聖教新聞社編『牧口常三郎』
 創価学会教学部『仏教哲学大辞典』
 西山茂「宗教的信念体系の受容とその影響」『東京教育大学文学部紀要 社会学論集』23収録
   日蓮正宗宗務院教学部『正しい宗教と信仰』
   フッサ−ル『ヨ−ロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央公論社
 宮田幸一「牧口真理論の研究」『東洋学術研究』25−2
     「牧口常三郎の宗教研究法(I)」『東洋哲学研究所紀要』第2号
 望月哲也「聖俗世界への解釈視角」宗教社会学研究会編『宗教・その日常性と非日常性』雄山閣出版収録

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