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高橋篤史著『創価学会秘史』への所感

 先日、高橋氏の『創価学会秘史』を贈呈していただいた。一般の人が目にすることのない戦前の創価教育学会の機関誌『新教』(改題『教育改造』)、機関紙『価値創造』、戦後の創価学会の機関紙『価値創造』などの資料をもとに、「二年半以上」の時間をかけて、調査し、執筆した労作である。私もほぼ同じ資料をもとにして、『牧口常三郎全集』第9巻「後期教育学論集Ⅱ」、第10巻「宗教論集・書簡集」を編集した一員として、『創価学会秘史』について、ここに若干の所感を公表したい。
 かなり長期間にわたって調査した成果として、私もよく知らなかったことをいくつか教示していただき、感謝している。その一つは国立国会図書館蔵の『創価教育学体系』第一巻の発行日が「昭和五年十一月二十三日」に訂正されているということである。現存している初版本の日付が「昭和五年十一月十八日」になっているので、それ以外の日付がある初版本が存在しているとは思わなかったから、多少驚いた。高橋氏も「今日の創価学会はことのほか数字の巡り合わせを重視する神秘主義的なところがある」と揶揄しているが、1969年に出版言論問題で社会的批判を浴びた後、布教活動と選挙活動が中心であった創価学会の運動を多様化するために、宗教を基盤にした平和・教育・文化運動へと方針転換する過程で、創価学会の歴史についての関心が高まり、その中で、『創価教育学体系』の初版本の日付によって、「昭和五年十一月十八日」が創立記念日にされた。その日が偶々牧口常三郎の亡くなった日の14年前であることから、一層意義ある日であると多くの会員に受け取られたかもしれない。今回確認された国立国会図書館蔵の『創価教育学体系』は検閲制度との関連で、法的に正規の発行日であると考えられるが、だからといってそれなりに伝統のある創立記念日を移動させる必要はないだろう。そもそも創価教育学会の創立自体が組織実態のともなった事象ではなかったのであるから、多くの初版本の日付によって創立記念日に設定したという理由づけでも十分だろう。
 高橋氏は「数字の神秘主義」として「七つの鐘」の理論に言及し、その弊害として創価教育学会の第一回総会が「昭和12年」でなければならないが、実態としてはその前年の4月の総会が第一回総会であるとしているが、私個人も『全集』第9巻の編集作業の時に、『新教』の記事を読む限りは、昭和11年4月の総会を第一回総会としていいのではないかと主張したが、他の編集委員から「池田先生の七つの鐘という発言は重い」ということで、私は『全集』第9巻の「解題」では「教育者中心の総会」と表現したが、今では「七つの鐘」に合わせて、昭和11年4月の総会を無視して、昭和12年に第一回総会を探すという無駄な努力はあきらめたほうがいいと思っている。「七つの鐘」の理論は将来展望として意味があるのであり、過去の事実を確定するための主張ではないと解釈したほうがいいだろう。
 次に高橋氏は経済ジャーナリストとしてキャリアを積んできたために、帝国興信所(現在の帝国データバンク)の『帝国信用録』を調査して、戸田城聖の経済状況を考察し、戸田の経済状況の悪化が『創価教育学体系』の続巻の未発行、機関紙『教育改造』の1号のみの発行という事情を生み出したと推測している。1936年の戸田の経済状況の悪化は私も推測していたが、1936年版の『帝国信用録』には戸田の名前が記載されないほど悪化していたという情報は、その方面の知識がない私には有益な調査方法を教示していただいたと思っている。
 その他に、創価教育学会のメンバーについて、あまりよくわからなかった満州鏡泊学園の西津袈裟実や、野島辰次がファシズム信奉者であった経歴を持つこと、石澤泰治の戦死の状況が、軍部が思想犯を最前線に送り出し、戦死させることによって、事実上処刑していたという事例の一つであったことなどいくつか有益な情報があった。
 このようにいくつかの有益な新発見の情報があることは確かだが、同時に高橋氏は宗教や哲学・思想にはそれほど関心がないということも透けて見える。高橋氏は、戸田城聖とキリスト教との関連で、田中龍夫について言及している。しかし、田中龍夫は牧口常三郎の『創価教育学体系』第2巻「価値論」の中で、重要な個所で引用されている。それは「第3章 認識観」の中で、カントのカテゴリー論を論じている場面で、田中龍夫の『科學之革新と哲學及宗教』を引用していることだ。高橋氏が言及している「唯電史観」を展開しているのはこの著作であるが、この著作を牧口が引用していることにより、牧口はカントの『純粋理性批判』のカテゴリー論を全く読んでいないことが明白になる。牧口は『創価教育学体系』のさまざまな個所でプラトン、カント、プラグマティズムに言及しているが、その個所を丁寧に読むと、牧口が彼らの著作を全く読んでいなく、誰かの解説本(私はそれらが主に『改造』などの雑誌であると推測しているが)によって議論を組み立てていることが分かり、プロの哲学者から見れば、突っ込みどころ満載であるのだが、高橋氏はそういうことにも気づいていないようだ。私は高橋氏が『創価教育学体系』第2巻「価値論」を読んだかどうかを疑っている。創価教育学会を研究対象にするならば、この著作は必読書と思われるが、経済ジャーナリストの高橋氏にはそういった関心はないようだ。
 ついでに高橋氏に有益な情報をプレゼントしよう。現在の創価学会は戸田城聖の原水爆禁止の発言を重視しているが、戸田城聖補訂版『価値論』「第5章 価値の系統」「第6節 宗教と科学・道徳及び教育との関係」の中に、「例えば原子核の分裂と云う事は今の科学に於ては最高のものであるが、この原子核分裂の定理は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている」という、これに反すると思われる表現がある。牧口常三郎が原子爆弾についての情報を持っていたとは考えられないから、この部分は戦後補訂版を作成するときに、付け加えられた文であると推測できる。この文のルーツは何かを調べると、戸田城聖の「科学と宗教」という論文であることが分かる。私はかつて東洋哲学研究所の価値論研究会で、補訂版の作業をしていた小平芳平にどのようにして補訂版を作成したのか尋ねたことがあったが、彼の答えは、『価値創造』などに牧口が発表したものを付け加えて、「生活指導原理としての価値論」と関係ない部分を削除したということだった。だが、実際に調べてみると、戸田城聖の論文が、そのまま牧口の文章として付け加えられており、このことは補訂版についての書評を中外日報に書いた山内得立も指摘している。もし高橋氏が牧口の『価値論』に関心を持ち、補訂版との異同を調べれば、それなりに面白い情報を得られたであろうし、あるいはそれなりの思想的問題への関心があれば、私の所に取材に来た時に、ヒントをあげたかもしれないが、そういう質問もなかったので、そのことには特に言及しないままであった。
 もうひとつ高橋氏が宗教に関心がないということを示す事例が、高地虎雄に関する記述である。高橋氏は『信州昭和史の空白』における高地のインタビューの発言「日蓮正宗の信仰は、全然分からなかった。ただ教育改造に共鳴したのだった」を根拠に、高地は日蓮正宗の信仰を分からなかったとして、『新教』に掲載された高地の手記に言及しただけで、その内容を検討しようともしない。私は宗教に興味があるから、回心論の一事例として、高地の手記には興味を持ったし、その内容について、私の『牧口常三郎の宗教運動』の中でも紹介している。また、高地が創価教育学会から離れていった理由についても興味があり、それについては、多羅澤一郎『身代わりの聖書』を資料にして、私のHPで、高地が「唯一つあれ程熱中の精魂込めて打ち込んだはずの創価教育学会の真髄が平田勲検事の言うような『ご利益主義宗教集団』と批判された一語は痛烈な打撃を受けました。創価教育理論の編纂には全知全能で取り組んだはずなのに、時の潮流に流されていく学会の、その矛盾さに心痛めたあげく、九死に一生を果たせたキリストの愛に目覚めた(高地は1937年に召集され、日中戦争勃発と共に中国へ出征し、戦闘中地雷を踏んで瀕死の重傷を負ったが、婚約者からもらったポケット版の聖書を胸ポケットに入れていたために、破片を聖書が受け止めて、心臓直撃を避けることが出来たという体験をした)のが、自分の生きる道と悟る事ができました」と述べていることを根拠に、「教育改革よりも信仰による功徳を強調する宗教運動へ創価教育学会が傾斜していくことに違和感」を覚えたことが創価教育学会を離れた理由だと結論づけた。功徳と罰ということを前面に出し、宗教運動を展開することによって、入会するメンバーもいれば、そのことに対して違和感を覚え、離れていくメンバーもいる。人は様々な理由で宗教に関わり、またさまざまな理由で宗教から離れていく。一般に宗教社会学的調査の回心論では入信過程の調査分析は行なわれているが、退会過程の調査分析は、調査が困難なためほとんど行われていない。高橋氏は単に「そして皆去った」と一言で片づけているが、どのような理由で去ったかには全く関心を示さない。
 高橋氏が宗教に関心があるなら、もっと面白い情報を提供しよう。創価学会は日本国内のみならず、世界各国に広がっていることは高橋氏も知っていようが、そのさまざまな試行錯誤についての情報は持っていないと思われる。最近秋庭裕の『アメリカ創価学会<SGI-USA>の55年』、川端亮・稲場圭信の『アメリカ創価学会における異体同心』が相次いで出版され、SGI-USAのPhaseⅡについての情報を得ることができる。そこには日本の創価学会では考えられない指導部の運動方針への地域リーダーたちの公然たる批判、ならびに運動方針の変更という民主主義国アメリカならではの事態が紹介されている。これらの動向が将来の日本の創価学会の運動にどのような影響を与えるのかどうかは不確実であるが、それなりにジャーナリスト魂を揺さぶるテーマになると思われる。
 次に高橋氏の事実誤認を一つ指摘しておきたい。それは創価学会の理事長に一時的に在職していた矢島周平に関してである。実は、私も矢島周平は戦時中の弾圧において非転向を貫いたと思っていた。高橋氏も私と同じ認識で、非転向の矢島が、戸田が会長に就任した後で、理事長を辞職し、その後「前理事長待遇」で復帰したことを紹介し、「元教員の矢島は、組織拡大を軍隊式に進める戸田のやり方になじめず、活動から遠のいていたのではないか」と推測している。このことについて、高橋氏は、矢島の動静について、3つの聖教新聞の資料、その最後の資料は1953年6月1日付を挙げて、記述している。高橋氏が入手困難な聖教新聞の記事をどのようなルートで手に入れたかは不明であるが、高橋氏が言及していないもう一つの矢島に関する聖教新聞の記事がある。その日付は高橋氏が写真付きで挙げている資料の次号である1953年6月10・20合併号である。そこには「移動五幹部より挨拶」という見出しで、「矢島周平氏=元来信仰に入った時これは本物だと思った。然し心の底からわからなかった。戸田先生と一緒に牢に入ってから二年目あと一週間で出ることが出来るという時に退転してしまった。その後柏原、和泉氏等と共に学会再建に努力して来た。然し牢中の傷が五年六年と経つにつれて出て来て理事長の職にいることが耐えられなくなった。今回戸田先生の大慈悲の下に前理事長待遇として迎えられ、今後粉骨砕身努力します。どうぞご後援をお願いします」という記事が記載されている。もし高橋氏が一連の聖教新聞に目を通していたなら、次号のこの記事を見逃すことはないだろう。読んでいながらこの記事を無視したなら、それは意図的な隠蔽である。あるいは聖教新聞の記事を誰かに選択的に提示されて、このような記述をしたのであれば、その情報提供者によって嵌められたということになる。いずれにしても矢島の理事長辞任は戦時中の退転、転向という心の痛みに耐えかねてという理由であることが、この記事によって明白になった。
 また高橋氏は、ある時期に矢島批判を始めた理由を「とうの昔に世を去り学会員のほとんどにとって記憶の埒外にあった矢島が、いきなり墓場から掘り返され、生け贄とされた。戦時中の思想弾圧でも退転しなかった矢島を事実に反してでも裏切り者とすることで、戸田は牧口の教えを守り抜いた唯一の弟子となり、さらにその戸田を守り抜いた唯一の弟子が池田であったことも強調される」と述べているが、戸田が「牧口の教えを守り抜いた唯一の弟子」であった理由は、何も「戦時中の思想弾圧でも退転しなかった」という理由ではなく、創価学会の宗教運動を大きく発展させた功績によるのであり、その点で矢島にどのような功績があったか疑わしい。高橋氏も述べているように、むしろ矢島は後に創価学会批判をして、運動の邪魔をしたことは明らかである。池田も「戸田を守り抜いた唯一の弟子」とされるのは、戸田の忠実な後継者であるという点ではなく創価学会の運動を世界に大きく展開したという功績によるのである。戸田の弟子であったという旧幹部がさまざまなことを述べているようであるが、彼らが創価学会を指導して、ここまで大きく運動を展開できたであろうか。
 次に高橋氏は創価学会が歴史を隠蔽、改竄していると非難しているが、必ずしもその非難は当たらない。「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか」を含む全集未収録の五論文は既に私のHPに2011年10月10日にupしてあるし、その経緯についても、高橋氏はその一部のみに言及しているが、記述しておいた。また長野県赤化教員関係者についてもその当時に調べた範囲で記述してある。また『新教』のその他の内容については、高橋氏が参考文献の「紀要論文」の中で挙げている塩原將行「『新教』・『教育改造』索引」(『創価教育』第5号、創価教育研究所、2012年)に索引という形で詳細に挙げられている。また特高警察と創価教育学会との関係については、高橋氏も指摘しているように、『年譜 牧口常三郎 戸田城聖』の中で記述している。これらの資料は一般向けではないが、研究者であれば、比較的入手が可能な資料である。高橋氏が『新教』のコピーを入手したのが「2014年秋」のようであるから、それ以前に重要な情報は公開されていたということになる。特高警察と創価教育学会との関係は決して隠蔽、改竄されていたわけではなく、必要な範囲で情報公開はされていたのである。創価学会には膨大な資料が収集されているが、公文書館ではないのだから、それをすべて公開する義務はないだろう。
 私は、人間の忠誠心については疑問を持っている。学生時代、私に発破を掛けていた福島源次郎は創価学会から離れ、私の学生部班長の面接を行った原島嵩は大量の資料を持ちだすという裏切り行為を行い、また池田会長の最側近であった中西治雄も離れていった。創価学会の公開されていない資料にアクセスできる職員が将来離れていくことも容易に予想できる。したがって、資料についての記憶の喪失はあっても、資料が存在する限り、資料の隠蔽などは不可能であると思っている。創価学会が自分たちの無謬性の神話から自己解放し、組織を運営しているのは不完全な人間であるから、誤りも生じうるということを認めてしまえば、不都合な資料が公開されたとしても、それは単に過去の試行錯誤の一事例として処理されるだけであろう。
 最後に高橋氏は戦時中の創価教育学会のメンバーが戦争協力的発言を繰り返し、戸田の出版事業においても戦意高揚のための記述が多数見られることを根拠にして、創価教育学会が反戦平和の団体ではなかったということを強調している。創価教育学会には多様な人々が様々な理由で入会しているから、彼らの発言も多様であり、それが戦争賛美であるということはありうることである。1970年代に入ってから、創価学会が運動方針を転換したときに、それ以前は、創価学会の主要な活動は布教活動であったから、牧口の獄中死は宗教的殉教であるとされていたが、その後の平和・文化・教育という運動方針に沿って、過去の歴史を見直しし、牧口の獄中死を単に宗教的な殉教と考えるのみならず、治安維持法違反という反政府活動として捉えなおすという作業を行った。高橋氏はその著書の中で、創価教育学会が治安維持法違反に問われたことについて、あるいは1941年の治安維持法の改正について何も言及していない。治安維持法との関係を無視して、創価教育学会の反戦行動を理解できるわけはないが、治安維持法の意義を知らない、あるいは軽視する人々が増えたことに、我々の世代との断絶を感じるだけである。高橋氏のような創価学会に批判的な人々や一部の創価学会員の誤解に、創価学会は、「創価教育学会が反戦平和を目的として活動していた」と主張しているということがある。創価学会は治安維持法による弾圧を単に宗教次元からのみ考察するのではなく、社会的次元から見直すことによって「創価教育学会は結果的に反戦平和運動を行った」と主張しているに過ぎない。
 創価教育学会が治安維持法違反の嫌疑を受けたのは、皇大神宮大麻を会員に焼却させたという組織的行為による。今日において「天照皇大神宮」と書かれている「神宮大麻」は多くの神社で「小」は800円で販売されている。それを購入し、処分するのは個人の自由であり、罪に問われることはない。しかし戦前においては、明治40年に制定された刑法第74条に「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス 神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ」とあり、神宮大麻の焼却は「不敬罪」に該当し、懲役刑に相当した。  
 ところが、1941年に治安維持法が改正され、従来は「第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的卜テシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス」と規定され、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スル」結社を取り締まるという立法趣旨だったのが、この改正で「第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ牢有期懲役ニ処ス」というように立法目的が変更され、「神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項」が追加され、従来は不敬罪に過ぎなかった罪が、治安維持法違反にも該当するようになった。なぜこのような治安維持法の改正が必要だったのか、この改正と戦争遂行政策との関連を考慮に入れれば、創価教育学会が治安維持法違反で弾圧されたことを根拠に、創価教育学会は結果として反戦平和運動をしたと、創価学会が主張する論理が透けて見えるだろう。
 創価教育学会が反戦平和運動をしたと言うのは虚偽であるという主張は何も高橋氏が初めてではないし、日本国内でそう言われているだけでもない。創価学会は1970年の運動方針の変更以後、海外布教を積極的に展開していったが、その際アジア各国では、「創価学会は日本の宗教であり、戦争中日本は我々を弾圧した、そんな国の宗教など信じる気になれない」という戦前、戦中の日本の負の遺産に直面しなければならなかった。その時に、「実は、創価学会の前身の創価教育学会の指導者であった牧口常三郎は軍部の戦争遂行政策を支えていた宗教政策に反対して、獄中で亡くなりました。私たちも、あなたたちと同様に、ともに日本の軍部政権の被害者なのです」と訴えることにより、日本という国家の負の遺産を、牧口の殉教という正の遺産によって切り抜けるということが可能であった。このアドバンテージは日本の他の宗教にはない強みであった。
 ところがブライアン・ヴィクトリアという、禅宗の戦争協力問題を研究していた、オーストラリアの大学で教鞭をとっていた仏教学者が、日本山妙法寺の藤井日達の戦時中の戦争協力行為と並べて、牧口常三郎も戦争協力者であったという議論を展開し始めた。この問題は平和・文化・教育を看板にして運動を進めていたSGIにとっては、極めて重要な問題提起であり、それに対する対策として東洋哲学研究所の英語版のThe Journal of Oriental Studies(以下TJOSと略称する) の2000年の特別号を発行し、私が「Introduction:Ideas and Influence of Tsunesaburo Makiguchi」の中で、牧口への弾圧と政府の戦争遂行政策との関連について述べておいた。それは日本の治安維持法関連についての知識が不十分な英語圏の人々への解説として述べたものであるが、日本語版はないので、私のそこでの議論は日本語圏では知られていない。ところがヴィクトリアはSGI側の予防策に気づくことなくJournal of Global Buddhism vol. 2(2001)にEngaged Buddhism: A Skeleton in the Closet? という牧口批判の論文を発表した。これに対して、私はJournal of Global Buddhism vol. 3(2002) にCritical Comments on Brian Victoria's "Engaged Buddhism: Skeleton in the Closet?"という反論を掲載した。その論文は日本語訳がないので、以下にその反論の日本語訳を掲載して、高橋氏に対する反論としたい。
 
 ブライアン=ヴィクトリアの「行動する仏教:知られたくない秘密」への批判的批評
 
 要旨
 「行動する仏教:知られたくない秘密」の中で、ブライアン=ダイゼン=ヴィクトリアは、とりわけ、創価教育学会(創価学会ならびに創価学会インターナショナルの前身)の創立者である牧口常三郎が日本の侵略戦争の熱心な支持者であったと主張している。この反論において、宮田幸一は、ヴィクトリアの主張はきわめて恣意的な引用に基づいており、日本の天皇制ファシズムとその基礎となる思想構造に関連した重要な解釈問題を無視していると論じている。宮田は、ヴィクトリアの論文の重要な欠点を分析する中で、戦争遂行への反対者を特に狙った法の下で、牧口の逮捕投獄されたことの意義を論じている。
 
 ブライアン=ダイゼン=ヴィクトリアの最近の論文を読んで、私はその内容には非常に問題が多いと思い、長年牧口常三郎の思想を研究してきた者として、反論せざるを得ないと感じた。
 牧口常三郎に関しては、日本語では多くの研究や論文が存在するが、日本語の読めない研究者には、牧口の思想や行動に関しては限られた情報しか存在しない。このギャップを埋めるための手助けとして、昨年私は「The Journal of Oriental Studies」の2000年特別号で「牧口常三郎の思想と影響」という題で、ささやかな英文の論文集を編集した。この反論において、私は、牧口常三郎の思想と行動に光を当てようとして、この論文集に言及する。
 私の第一の論点に入ろう:ヴィクトリアは牧口の1903年の『人生地理学』からの一節(そこでは牧口はロシアが不凍港を求めて拡張政策を採用していると述べている)を引用している。ヴィクトリアは、この世界認識は日本政府の世界認識と同じであり、その認識が日露戦争、さらには朝鮮半島の併合、満州国という傀儡国家の樹立を正当化するために使用されたと主張している。牧口への暗黙の批判を含んでいるヴィクトリアの主張は、世界情勢の分析とそれに対する政策とを短絡的に結び付けている。牧口は単に、ロシアの拡張政策の地政学的動機について、その当時一般的に受け入れられていた見解を述べているだけであり、その見解は単に日本政府だけではなく、日本が日英同盟を結んだ英国政府も共有していたものだった。私は寡聞にして、ロシアは脅威ではないという見解を支持して、この常識的な見解を否定する政治地理学者を知らない。もしヴィクトリアの議論を敷衍すると、牧口のみならず、すべての政治地理学者は日本の侵略の共犯であるという論理的結論になるだろう。
 『人生地理学』のほかの箇所で、牧口は、西洋諸国が植民地経営に多くの苦難をかかえていることを指摘し、特に植民地獲得に伴う経済的負担という観点から、植民地獲得の価値について疑問を呈している。もしヴィクトリアが『人生地理学』を注意深く読めば、かれは牧口の思想と当時の膨張主義者の見解とを同一視することはないだろう。
 第二に、ヴィクトリアは、牧口が国家は市民生活に重要な役割を果たしていることを指摘した一節を『郷土科研究』から引用している。このことから、ヴィクトリアは、日本が戦争に近づくにつれ、牧口は教育が「国家への奉仕」のためになされるべきだという見解を採用したという結論を導いている。(ヴィクトリアは牧口がこの部分を1933年の改訂版で付加したと述べている。しかし、これは1912年の初版にもあるから誤りである。)『人生地理学』の出版以来、牧口は一貫して三つのレベル、郷土、国家、世界のレベルにおけるアイデンティティの形成を強調していた。この脈絡においては、世界的な帝国主義競争を背景にして、牧口は国家の独立を特に重視した。これにはほとんど問題がないだろう。日本は西洋列強の侵略の中で、独立を維持したわずかなアジア諸国のひとつであり、牧口は植民地化された国民の悲惨な状況をよく理解していた。人々を支配すること自体が本質的に悪であるという現代の見解に基づいて、牧口に問題があったとすれば、それは日本自身が植民地を獲得した後で、そのことについて充分発言せず、植民地化された人々の独立問題について論及せず、ただ経済的負担を理由にして帝国主義が最良の政策ではないと主張したに過ぎなかったことである。この点について私はヴィクトリア氏に、TJOSの「牧口常三郎の国家観」を参照していただきたい。そこで私は、帝国主義的(軍事的かつ経済的)競争は、牧口が人道的競争と呼んだ協同意識に取って代わられるべきだという牧口の見解について論じている。
 さらに、ヴィクトリアは、牧口が教育を国家への奉仕の手段であると見なしたと判断するに当たって、教育の目標は実は子供の幸福であるべきだという1930年の『創価教育学体系』の牧口の議論を完全に無視している。創価教育学会の短命の機関紙「価値創造」の1942年3月号で、牧口は、重要なイデオロギー的考えである滅私奉公を批判している。彼は、滅私奉公は普通の人には実行できない空論であると強調した。それどころか、彼は、自他共に幸福になるよう努力するのが当然であると強調した。1942年5月に牧口は価値創造の発刊停止を命じられた。牧口は国家が国民生活において果たすべき役割は大きいことを強調したが、そのことは、国民が国家政策を無批判的に受け入れるように教育すべきだという超国家主義的な教育観とは全く異なる。この点に関して、私は、ヴィクトリア氏にTJOSの熊谷一乗氏の「創価教育学と近代の日本教育」を参照していただきたい。そこで熊谷氏は牧口の教育哲学と国家主義的教育体制とを比較している。
 第三に天皇制の問題がある。牧口が『郷土科研究』において忠君と愛国が同義であると述べた箇所を引用して、ヴィクトリアは牧口の見解は軍部政府と同じであると暗に主張している。しかしながら、これは1889年の明治憲法に関連した解釈問題を全く無視したあまりにもいい加減な主張である。明治憲法はその前文で天皇の至高の権限を認め、第3条で天皇の神聖性を、第4条で天皇の国家の総覧権を認め、国家と天皇制が不可分であるとしている。もし天皇の至高の権限を強調すれば、天皇は絶対君主と見なされる。もしその代わりに憲法の役割を天皇の至高の権限への制約と考えれば、天皇は立憲君主となる。前者の考えは軍部政権によって支持された天皇制ファシズムに代表され、後者の考えは美濃部達吉の天皇機関説に対応する。大正デモクラシー以来1935年の美濃部の説への弾圧に至るまでは、後者の考えが憲法学者や国会議員の支配的な考えであった。忠君愛国は両者において共通であり、牧口のその思想のみを根拠として、牧口を軍部の天皇制ファシズムと同一視することによって、ヴィクトリアは牧口の立憲君主制思想を述べた文献を無視しようとしている。牧口は、その最初の著書以来、天皇を立憲君主と見なしており、天皇の権力を絶対視する動きに対して批判的であった。
 ヴィクトリアは、また特別警察の牧口への尋問調書を、牧口が天皇の神格化を認めていた証拠として引用している。ここでもこの主張は重要な箇所の歪曲から生じている。ヴィクトリアは牧口が天皇への「祈願」について述べた箇所を引用している。しかしながら、彼は私が下線をつけた箇所を意図的に除外することにより、恣意的な引用をしているのだ。
 「天皇陛下の美徳はその文武の官僚を通じて、国民の安全と幸福の中に示されている。もし何らかの欠点があれば、国民は国会や他の機関を通じて天皇へ請願できるのであります。この点において、天皇陛下以外に、誰にわれわれは祈願をすべきでしょうか。」
 「祈願」と「請願」はこの文脈において同じ意味を持つことは明白である。通常は宗教的文脈で使用されるが、この文脈では特殊な意味を込めて「祈願」という言葉を使用したことを、牧口が天皇崇拝を支持していたことを主張するために、ヴィクトリアが悪用したのは、自分の主張を文献的に証明しようとするまじめな学者の取るべき態度ではない。きっとヴィクトリアは尋問調書を調べる中で、牧口の次のような発言を目にしたことであろう。
 「天皇陛下は凡夫であり、皇太子として学習院へ通い、天皇学を学んだ。天皇も間違いを犯す。明治の初期には山岡鉄舟は明治天皇をいさめ、その誤りをたびたび正したと言われている」
 これらの発言は牧口が明らかに天皇の神格化を拒否していることを示している。ヴィクトリアは「上官の命令は天皇の命令である」という軍隊の兵士教育に言及し、牧口もこの見解を支持していると主張している。実際には、しかしながら、牧口は「天皇の命令も間違っているかもしれない」と言っているのであり、天皇の絶対的権威を否定しているのである。この論点は次の論点、すなわち牧口の軍事政権の宗教政策への批判と彼の反戦活動との関係という問題を考察する場合に重要になる。この点に関して私はヴィクトリア氏にTJOSの佐藤弘夫氏の「近代日本の日蓮思想:二つの観点」を参照してもらいたい。そこで氏は宗教的歴史的観点から牧口と天皇制との関係を論じている。
 私の第四の論点は、軍部政権の宗教政策を批判したために牧口が弾圧されたことの意義に関するものである。これは、ヴィクトリアが自分の議論を展開するために引用したロバート・キサラの議論にも当てはまる。われわれは、牧口が創価教育学会のメンバーに伊勢神宮の大麻(神札)を燃やすよう指導したために、政府から弾圧されたとき、それは宗教に関連した法によってではなく、治安維持法によってであったということを想起すべきである。治安維持法は1925年に普通選挙法と交換に枢密院より要求され、新たに選挙権を持った大衆が天皇制を批判することがないようにするためであった。本来は社会主義者、共産主義者、無政府主義者などの反体制派を弾圧するためであった。しかし昭和初期の共産党の弾圧によって明らかに政治的性格を持った反体制活動をほぼ解体した後、軍部政府は次に戦争政策の遂行への障害として、自由主義者と宗教運動を標的とした。1935年に美濃部達吉の自由主義的な天皇機関説を完全に弾圧することにより、軍部はいまや天皇の権威に守られて、自分たちの政策に対していかなる反対も許さなくなった。
 次に彼らは宗教運動を標的とした。宗教はその崇拝の対象としての神仏を、その世界観の中では天皇よりもはるかに上位の位置にあるとしているために、宗教集団は天皇の権威を軽視する傾向があった。1936年には、神話的な神の下での世直しを主張していた神道系の新宗教、大本教を弾圧した。宗教運動をより体系的に弾圧するために、軍部政府は1941年に治安維持法を改正し、伊勢神宮に不敬を働いた宗教集団も罰することができるようにした。このことは軍部政府が天皇の権威を否定する宗教運動を、国民を戦争政策に動員するための最後の障害として見なしていたことを示している。このような政治的社会的背景の下で、牧口は軍部政権の宗教政策を批判したのである。彼が治安維持法によって逮捕されたことは政権が彼の行為を戦争遂行への障害と見なしたことを示している。このように、牧口は直接的には宗教政策に関して天皇制ファシズムの軍国主義的イデオロギーに反対したのであり、この反対が軍事政権の戦争遂行への障害となったために、彼が間接的な反戦活動のために弾圧されたことは明らかである。私はヴィクトリア氏にTJOSの私の序論を参照していただきたい。そこで私は牧口の戦時中の迫害の歴史的背景と意義について述べておいた。
 私は四つの論点でヴィクトリア氏の見解に反論した。私には、牧口常三郎が戦争遂行に協力したということを証明するために、ヴィクトリアがあらかじめ持っていた結論に合致するように、その結論を支持するように思われる牧口の著作の箇所を恣意的に引用して、自分の議論を組み立てているとしか思われない。私は彼が日本語で10巻に及ぶ牧口のすべての著作を研究した上でこの結論に達したとは思えない。学問的研究の上では、たとえ批判的なものであろうとも、それを受け入れる余地は大いにあるが、学問的研究を装った偏向的な主張に対しては、断固たる反論をしなければならない。

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