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SGI各国のHPの教義紹介の差異について

1 前書き

 私は『日有の教学思想の諸問題』において、日蓮本仏論に関して、必ずしも創価学会が採用する必要がないことを、学問的理由と海外布教という2つの理由から述べた。学問的理由に関しては、上記論文、ならびに「漆畑正善論文『創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ』を検討する」、「日興の教学思想の諸問題(1)資料編」で論じているので、私の議論に何か問題点を感じた人は大学のメールアドレスへ連絡していただきたい。
 海外布教上の理由については、統一神霊協会の文鮮明とキリスト教の事例を出して暗示的に示したにすぎない。私は新潟短期大学に在職していたころ、東洋哲学研究所の研究員を兼務しており、SGIの広報から、東洋哲学研究所に、海外のSGI会員向けに、コンパクトな教義書を発行したいという趣旨の協力依頼があったので、何人かの研究員とともに、教学部のメンバーなどと一緒に『創価学会の理念と歴史』の作成準備に関わったことがある。その時代は、第一次宗門問題以後の日蓮正宗による教導という名の下の言論統制の時代であったから、細井日達から阿部日顕へと代替わりし、多少は統制が緩んだとはいえ、教義に関しては日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』を踏まえて書くように指示された。ただ作業としては、とりあえず、それぞれが担当した部分を学問的研究に基づいて書き、その原稿を執筆者の会議で検討し、最終的にそれと『日蓮正宗要義』の整合性を図るという手順で進み、それなりの原稿も蓄積された。その後第二次宗門問題が生じ、『創価学会の理念と歴史』が出版されることはなかったが、その原稿の一部は南山大学宗教文化研究所編『カトリックと創価学会』(第三文明社刊)の「創価学会の宗教的理念と宗教対話」という私の論文に使用させていただいている。(もちろん、この論文は第二次宗門問題以降の論文なので、日蓮正宗への教義的配慮は捨てられ、創価学会の教義的オリジナリティ、アイデンティティを主張する趣旨へと変更されている。)
 『創価学会の理念と歴史』の作成において、他に留意すべき点として、海外において日蓮本仏論を強調することは、SGIが仏教団体ではなく、仏教から派生した異端のカルト団体とみなされる可能性があるから、その表現に注意してほしいということであった。日本国内においては、日蓮正宗は700年の歴史があり、日蓮本仏論を主張してもカルト団体とは社会的に認定されないが、世界の仏教全体の中で、釈尊以外の歴史上の人物を釈尊より上位の仏として主張することは、他の仏教宗派から、さらには諸外国の仏教諸派が加盟する仏教協会からは仏教的主張とは見なされず、そのことが社会的にSGIを非仏教団体と認定する根拠となるだろう。大日如来や阿弥陀如来は歴史上の仏ではないから、それらを本仏とする仏教宗派はさほど問題されることもなく、またダライ・ラマが観音菩薩の化身であるという信仰は、まだ釈尊より下位の菩薩であるから許容範囲である。しかし日蓮は歴史上の人物であり、日蓮本仏論はその日蓮を釈尊より上位の仏として主張することであるから、海外のSGIの運動をカルト批判という脅威にさらす可能性がある。
 もちろん日蓮本仏論が日蓮自身の重要な主張であるならば、弾圧覚悟でその主張を維持することが、宗教的使命であると思うが、日蓮自身の真蹟遺文や信頼できる直弟子写本にも、そのような思想の形跡が見られないのであれば、そのような後代に派生したと思われる教義のために弾圧を受けるのは、世界広宣流布のためには障害にしかならない。
 私は南山大学宗教文化研究所と東洋哲学研究所との合同シンポジウムで上記論文を発表したとき、日蓮本仏論を採用せず、多くの学者と同様に、真筆遺文の趣旨にしたがって、日蓮を上行菩薩の再誕と位置付けたばかりではなく、日蓮自身の主張であっても、歴史学的、仏教学的には受け入れられていない、法華経=釈尊直説論、ならびに天台大師の説でもある五時教判論、ある時期から中国、日本で主張されてきた『周書異記』による仏滅年代を紀元前10世紀とする説、そこから派生する日蓮末法誕生説などを採用せず、歴史学、仏教学と整合性をもった創価学会の教義についての試論を述べた。
 その議論の骨子は、釈尊は衆生救済という慈悲心から仏教の救済理論を主張しだしたこと、その釈尊の主張にインスピレーションを受けて、大乗諸経典が釈尊滅後に編纂されたこと、その中でも特に『法華経』には一切衆生の成仏を認めるという平等思想が見られること、そして天台大師は『摩訶止観』において、有情(衆生)のみならず無情(感覚作用を持たない植物、無生物)にも成仏の可能性を見出し、それを一念三千論として展開したこと、日蓮はその一念三千論を理論的基礎にして、修行の方法として、多くの人にも実行可能な唱題行を含む三大秘法を提示したこと、日蓮死後、特に江戸時代の宗教統制によって、日蓮仏法も葬儀中心の仏法になったこと、牧口常三郎、戸田城聖が葬式仏教と化していた日蓮仏法を生命論という理論フレームで解釈しなおすことにより、人々が平等に成仏できることをそれなりに実感することができるように運動化したことである。(なお詳細に関しては上記『カトリックと創価学会』の私の論文を参照していただきたい。まだ絶版となっていないようだから、書店で注文すれば入手できると思われるし、アマゾンにも中古本が出品されている。著作権法上の理由で、上記論文をネット掲載することはできないので、論文骨子で許していただきたい。)
 このような議論は私の名前で発表されたとはいえ、多くの創価学会の人文系の研究者、ならびに仏教学についての知識を有する教学部のメンバーにも、それなりに共有されていた議論であると私は理解している。とはいえ、このような議論の共有はあくまでも、それなりの研究者の範囲において、それなりの研究程度においてであるという限定つきであることも確かである。創価学会、SGIには様々な文化的背景を持っている多様な人々が所属しているのであり、それぞれの日蓮仏法の関わり方も多様である。したがって日蓮仏法に関する教義理解も多様であり、私の上記のような議論が日本の創価学会の多数の会員に共有されているとは思っていないけれども、SGIの多数の会員には共有されているかもしれないとは思っている。それをチェックするために、とりあえずSGI各国のHPで日蓮仏法をどのように公式に説明しているかを調べてみようと思う。残念ながら、私の語学的能力の限界により、調べることができるのは、英語とドイツ語のHPだけに限られる。そのほかの語学能力があり、私と関心を共有して、調べていただける方がいれば、私の大学のメールアドレスまで連絡をいただければ、うれしく思います。
 とりあえず、SGIのHPの「Buddhism(仏教、仏法)」の「Overview(概観)」の「Origins of Buddhism(仏教の諸起源)」、ならびに「Life of Shakyamuni(釈尊の生涯)」「Lotus Sutra(法華経)」「Life of Nichiren(日蓮の生涯)」、さらにそれぞれの項目につけられている詳しい記述の英文を必要な範囲で引用し、それに対する私の試訳をつけ、さらにその内容にコメントを加えるという形で、議論を進めていく。さらに本仏論に関連するはずの「Buddhist Concepts(仏教の諸概念)」の「Who is a Buddha?(誰が仏か)」を検討する。それらの中には凡夫本仏論はみられるが、日蓮本仏論はない。もっとも日蓮本仏論が全くないというのは、不正確であり、HP下部の「SGI Resources(SGI教材集)」の「Dictionary of Buddhism(仏教辞典)」には「True Buddha(本仏)」という項目が収録されており、それについても検討する。
 順次、SGI各国のHPを見ていく予定であるが、私の印象ではそれぞれのHPの記述にはそれなりに相違点もあり、それぞれの国のSGIが自国の文化的社会的状況の中で、SGIのアイデンティティ、セールスポイントをどのように表現するか、工夫を凝らしているように思われる。決して日本の創価学会の教義的主張をおうむ返しに述べているわけではない。むしろ私は世界のSGIの基準からみれば、日本の創価学会の主張は、日本の仏教文化(その一つに日蓮正宗の教義的遺産がある)の伝統を背景にしたローカルルールに基づく、世界的普遍性を欠いた主張に過ぎないと思われる。日蓮仏法を世界に広めるということは、日本文化に基づいた日蓮仏法をそのまま世界に輸出することではなく、日蓮仏法の中で、世界の人々にとって有益であると思われる要素を取捨選択し、それを多様な文化の中においても、共通の普遍的な価値をもつものとして訴えていくことであり、SGI各国のHPの記述は、現段階におけるその努力の表れであると私は理解している。
 かって第一次宗門問題の時に、細井日達は「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」と述べて、創価学会の教義解釈を批判したが、それは細井日達が歴史学、仏教学に無知であったから、そのような発言をしたのだと私は理解している。私はむしろ「現代の歴史学、仏教学の学説に反した、学問的には誤っているとみなされる日蓮正宗の教義を世界広布することは、説得力という観点から見て、不可能である」と考える。池田は海外布教にあたって、常に海外では随方毘尼を強調し、日本の創価学会や日蓮正宗の伝統的な教義や儀礼にこだわる必要がないことを強調してきたが、それも日蓮正宗の教義が海外では説得力をもたないことをそれなりに感じていたからであると私は理解している。
 私が学生の頃、全共闘運動の中で、新左翼の学生と論争した時によく用いた論法が、「もしマルクスが現在生きていたら、『資本論』を書くだろうか、ケインズ以降の資本主義の延命策に対応した新しい理論が必要ではないか。」という問題提起であった。同様に仏教、とりわけSGIにとって重要な日蓮仏法に関しても、「もし日蓮が現在生きていたら、五時説、末法論、『立正安国論』を書くだろうか。歴史学、仏教学、自然科学と対応した、新しい仏教的救済理論が必要ではないか」という問題意識に基づいた教義構築に努力することが重要であり、少なくとも創価学会、SGIにはそれを担いうる人材がそれなりに存在していることを私は確信している。
 これに関連して、私は創価学会、SGIを批判して退会した人々が日蓮正宗に復帰することに関して、常々疑問に思っていた。創価学会、SGIにいろいろな欠点、問題があることは会員であれば誰でも少しは感じているだろう。そのうえで様々な理由によって未だに会員であり続けている人々も多いが、同様に様々な理由によって退会した人も多い。だから創価学会、SGIを退会するということにはそれなりに説明がつくことが多いが、多くの退会者は信仰生活とは無縁な生活を送っていると私は推測している。ところが一部の退会者は日蓮正宗に復帰している。たまたま私のところに友人の紹介によって『サヨナラ私の池田大作――女たちの決別』という本が送られてきて、その内容を見ると、それぞれの執筆者の創価学会時代、日蓮正宗復帰時代の信仰体験は載っていても、私が問題にしているような教義問題に関しては一言も言及されていない。池田が創価学会を変えたことが悪いと言っているようであるが、私は運動を変えるということは必ずしも悪とは限らない、むしろ新しい社会的文化的状況への適応として変化することはよいことが多いと思っている。彼女たちの信仰体験は、自分で体験したことであるから、それなりに尊重されるべきではあると思うが、教義と信仰の功徳体験とはほとんど無関係であるということは池田大作が国際宗教学会会長のブライアン・ウィルソン、オクスフォード大学教授との対談集『社会と宗教』においてはっきりと認めていることであるが、たぶんこの体験談を書いた人々はそのようなことには無関心なのであろうと思われる。私は宗教にとって教義はそれなりに重要であると考える一人であるが、日蓮正宗の教義がもはや何の学問的説得力もないことにまだ気づかないで、日蓮正宗の信仰に戻ったことを嬉々として語るそのメンタリティに、それはいまだ日蓮正宗の教義を批判的に総括できない創価学会の会員にも共有されているようだが、この人たちは私とは違う世界に生きているとしか思いようがない。
 私は日蓮の『開目抄』の「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」という言葉を大事にして生きてきた。日蓮自身はこのように述べているのに、日蓮の教義が現代において歴史学的、仏教学的に説得力を持たなくなったのはどうしてか、どうすれば日蓮の「我が義」を救い出せるのか、ということを自分の課題として研究をしてきた。出てきた方針は単純なものだった。1、学問的研究と矛盾した教義は捨てること、2、現代の人々に受け入れられるべきだと私が納得している価値観と両立する教義を選択して、それに説得力を持たせることであった。かって池田から「創価学会にはいろんな問題があるが、それは君たちが変えていけばいい。私も戸田先生のやったことで納得できないことは変えてきた。」という指導を受けて、私は盟友西口浩とともに将来の創価学会の改革をそれなりに考えていた時期があった。しかし西口が早世し、創価学会の本部職員で西口の遺志を継ぎそうな人が見当たらなかったので、私は組織的改革を諦めて、とりあえず自分だけでできる教義問題に解決を見出そうと努力してきた。私に残された日々もそれほど多くはないと思われるので、とりあえずの研究成果だけは残しておこうと思う。後進の学究が私を踏み台にして乗り越えていくことを期待しているし、またその予兆も少しは見えている。
 
  
  
 
 2 SOKA GAKKAI INTERNATIONAL のHPに見る日蓮仏法の説明
 
 2-1 Origins of Buddhism
 
 Buddhism originated in the Indian subcontinent around 2,500 years ago. Its teachings derive from Shakyamuni, also known as Gautama or Siddhartha, who dedicated his life to finding the means to liberate people from the universal sufferings of life and develop spiritual strength. His teachings were later compiled into sutras, and numerous schools of Buddhism sprang up as his teachings spread after his death.
 The Lotus Sutra is highly revered in the Mahayana tradition that reached East Asia. It emphasizes the bodhisattva ideal of helping others to come to a true understanding of life and clarifies that all people possess the life-state of Buddhahood. Nichiren, a 13th-century Japanese priest, found that the Lotus Sutra contained the fullest expression of Shakyamuni''s compassionate intention.
 
 仏教(仏法)の諸起源
 
 仏教はほぼ2500年前インド亜大陸に生じた。その教えは、ゴータマ(ガウタマ 訂正)、あるいはシッダルタ(シッダールタ 訂正)として知られる、釈迦牟尼(釈尊)から生まれ、彼は人々を人生(生命)の普遍的な苦しみから解放し、精神的強さを発展させる方法を見出すのに生涯を捧げた。彼の教えはのちに経典へと編纂され、彼の死後彼の教えが広まるとともに多くの仏教宗派が生じた。
 法華経は東アジアに到達した大乗仏教の伝統の中では非常に尊重されている。法華経は、人生(生命)の真の理解に到達するように他者を手助けする菩薩の理想を強調し、全ての人々が仏性という生命状態を所有していることを明らかにしている。日本の13世紀の僧侶である日蓮は、法華経が釈尊の慈悲心を最も十分に説明したものだということを発見した。
 
 コメント 
 
 ここでは釈尊が紀元前5世紀ころに亡くなったという仏教学の定説を採用して、日蓮の仏滅年代を採用していない。また経典は後世に編纂されたという仏教学の定説を述べて、法華経が釈尊によって直接説かれたという説も採用していない。また法華経は一切皆成を説いた思想書であるとみなされており、日蓮のように未来記、歴史的予言の書とはみなされていない。また釈尊よりも日蓮が上位であるという日蓮本仏論はここでは主張されていない(日蓮の教義上の位置づけは意図的に避けられている)。むしろSGIの宗教的アイデンティティを、釈尊、法華経、日蓮という系譜の中で位置づけていることが特徴的である。
 日本の創価学会のHPでは「会員サポート」の「教学基礎情報」の「法華経について」の「釈尊」の項目に釈尊について紹介しているが、そこでは釈尊がいつごろ活動した人物であるかは、意図的に言及されていない。SGIは歴史学の成果を受け入れて、紀元前5世紀ころの人物であることを認めているが、日本の創価学会は、歴史学の成果も、日蓮自身の歴史理解も、両方とも言及していない中途半端な状態にある。創価学会としては、歴史学の定説を正面切って否定することは、社会的に厳しいものがあるが、同時に日蓮自身の歴史認識が採用できないということを認めることも、会員の思想的動揺を考えると、それもできないということだろう。私は創価学会の欠点は日蓮を宗教的権威として利用することはあっても、その思想家としての現代的意義を宣揚できなかったということにあると思っている。日蓮のさまざまな思想の中で、現代には採用できないものと、宣揚すべきものとを取捨選択し、世界広布にふさわしい教義を構築するという責務を放棄している創価学会の現状に不満を感じているのは私一人ではあるまい。
 
 
 
 2-2 Life of Shakyamuni
 
 Buddhism originates in the teachings of Shakyamuni (Gautama Siddartha), who was born in what is now Nepal some 2,500 years ago.
 (...)
 For several years, he subjected himself to ascetic disciplines but found it impossible to reach emancipation through such self-mortification, and eventually rejected these practices. Then, near the city of Gaya, he seated himself under a pipal tree and entered meditation. There he attained an awakening, or enlightenment, to the true nature of life and all things. It was because of this enlightenment that he came to be called Buddha, or "Awakened One." After his awakening, Shakyamuni is said to have remained for a while beneath the tree, rejoicing in his emancipation yet troubled by the knowledge of how difficult it would be to communicate what he had realized to others. At length, however, he resolved to do so, so that the way to liberation from the sufferings of birth and death would be open to all people.
 According to tradition, Shakyamuni then traveled widely throughout the Indian subcontinent sharing his enlightened wisdom, promoting peace and teaching people how to unleash the great potential of their lives. His compassionate intention was to enable all people to attain the same awakened state of life that he had attained.
 It is thought that Shakyamuni died at age 80. Following his death, his teachings were recorded by his disciples in the form of sutras and spread throughout Asia, giving rise to a number of distinct schools of Buddhism, generally characterized by an emphasis on peace and compassion.
 
 釈尊の生涯
 
 仏教は約2500年前に現在のネパールで生まれた釈尊(ゴータマ・シッダルタ)の教えから生じている。
 (中略)
 数年間、彼は苦行に従事したが、そのような苦行を通じては解脱に到達することは不可能だとわかり、ついにはこれらの修行を捨てた。その後、ガヤ市の近くで、彼は菩提樹の下に座り、瞑想に入った。そこで彼は生命と万物との真の本性への覚醒、悟りを得た。この悟りゆえに、彼はブッダ、「覚者」と呼ばれるようになった。覚醒の後、釈尊はしばらくその木の下に留まり、解脱を楽しんでいたが、彼が悟ったことを他者に伝えることがどれほど難しいかを知って悩んでいたと言われる。しかしながらついに、彼は伝える決心をし、そして生死の苦しみからの解放の道が、すべての人に開かれることになった。
 言い伝えによれば、釈尊はその後インド亜大陸を広く旅をし、自分が悟った知恵を分け与え、平和を促進し、人々に自分たちの生命の持つ偉大な潜在的可能性をどのように開くかを教えた。彼の慈悲の真意は、彼が悟ったと同じ生命の悟りの状態をすべての人が獲得できるようにすることであった。
 釈尊は80歳で亡くなったと考えられている。彼の死後、彼の教えは彼の弟子たちによって、経典の形で記録され、アジア中に広まり、多くの仏教宗派を生み出したが、一般には平和と慈悲を強調するものと特徴づけられている。
 
 コメント 
 
 ここでは釈尊が悟ったのは「生命と万物との真の本性」であるという創価学会の生命論的解釈が主張され、仏教学上の、悟りの内容を四諦説に限定するか、さらに複雑な縁起説にまで広げるかなどの論争には介入しない。また釈尊の行ったことは、「自分が悟った知恵を分け与え(教育)、平和を促進し(平和)、人々に自分たちの生命の持つ偉大な潜在的可能性(人間革命)をどのように開くかを教えた」というように、創価学会の運動論に適合するように、説明されている。釈尊により、どのような教えが、いつの時期に解かれたかという天台、日蓮の五時教判論は主張されていない。
 しかしこの箇所では、すでに述べた個所とは異なり、経典に関しては、弟子たちにより「記録された(recorded)」と表現し、多くの学者たちが使用する「編纂された(compiled)」という用語を使用していないなど、経典が釈尊の直説を記録したものか、釈尊の思想によりインスピレーションを与えられた経典編纂者が作成したものかを、曖昧にしている。この曖昧性は、その他の記述においても散見される。日蓮は経典を釈尊の直説とみなし、そのような記述が日蓮遺文には満ち溢れているため、それらの文献に慣れ親しんでいるSGIの会員にとっては、経典と釈尊の言説とを区別することは、意識的に行わなければならないことであり、不注意な記述では経典を釈尊の直説として記述していることが多いようだ。
 また多くの仏教宗派に関して、日蓮の五重相対論を使用して批判的に述べることはせず、「平和と慈悲を強調するもの」という好意的な評価をしている。この背景にはSGIは世界では仏教界の少数派であり、多数派の他の仏教諸派を刺激しないように配慮していることがうかがわれる。
 
 2-2-1 The more detailed account of life of Skakyamuni
 
 (...)
 He eventually attained a state of awakening in which he became enlightened to the true nature of life itself. He was able to grasp the eternally enduring aspect of our existence within a cosmic network of interdependent phenomena. He also perceived an underlying law or dharma that guides the process of ceaseless change that is life. Ultimately, it was to this law, existing equally within himself, within all people and in the universal, that he was awakened.
 (...)
Consistent with his belief in human potential, he preached to people of all walks of life and social standing, to women as well as to men. From its very inception Buddhism was a universal teaching to which all people were equally welcomed. Shakyamuni shaped his teachings to make his message accessible to his audience; the sutras, or records of his teachings, make extensive use of parables and are frequently recorded in question-and-answer form. As SGI President Daisaku Ikeda has noted, "His life was completely untrammeled by dogma, and his interactions with his fellows stressed the importance of dialogue."
 Above all, all accounts record Shakyamuni as a profoundly compassionate human being, someone who lived out and embodied his ideals. In the words of Nichiren, "The purpose of the appearance in this world of Shakyamuni Buddha, the lord of teachings, lies in his behavior as a human being." His core purpose was to enable people to draw on their inner resources of wisdom, courage and compassion in meeting the inevitable challenges of life. Religion for Shakyamuni was a practical way of living, engaged with the struggle to transform the sufferings of individuals and societies, to enable all people to enjoy a life of limitless freedom and indestructible happiness.
 
 釈尊の生涯のより詳細な説明
 
 (前略)
 彼はついに生命自身の真の本性を悟った覚りの状態を得た。彼は相互依存的(縁起的)諸現象の宇宙的ネットワークの内部にあるわれわれの存在の永遠に持続する側面を把握することができた。彼はまた生命自体の不断の変化の過程を導く根本的な法則、ダルマを覚知した。究極的には、彼は、自分自身の内部に、すべての人々の内部に、そして宇宙に等しく存在するこの法を悟ったのである。
 (中略)
  人間の潜在的可能性への信念と整合するように、彼はすべての階層、身分の人々に対して、男女分け隔てなく説法した。初めから仏教はすべての人々が平等に歓迎される普遍的な教えであった。釈尊は彼の教えを、人々が彼のメッセージを理解しやすいような形で述べた。すなわち、経典、彼の教えの記録は、たとえ話をたくさん使用し、しばしば質問と回答という形式で記録されている。SGI会長池田大作が述べているように、「彼の生涯は、ドグマ(教義)によって完全に拘束されていず、彼の同朋との相互作用は対話の重要性を強調していた。」
 なによりも、すべての記述は、釈尊を透徹した慈悲の人であり、自分の理想を持ち続け、体現した人であると記録している。日蓮の言葉の中に、「教主、釈迦仏がこの世に出現した目的は、人間としての振る舞いの中にある。」とある。彼の核心的な目的は、人生の不可避的な諸困難に直面した場合に、知恵、勇気、慈悲という内的資質を人々が発揮できるようにすることであった。釈尊の宗教は、個人と社会の苦悩を変革し、無限の自由と壊れることのない幸福な生活をすべての人が楽しめることができるように戦うという実践的な生活様式である。

コメント 
 
 ここにおいても、釈尊の最初の悟りの内容が、仏教用語で語られることなく、創価学会の生命論的用語で説明されている。したがって創価学会がどのような仏教学的根拠によってこのような主張をしているのかは不明なままである。創価学会、SGIを含む大乗仏教諸派は、四諦説を小乗仏教として批判的に位置づけるが、釈尊が四諦説を最初に説いたというのは一般に受け入れられている学説であり(高校の倫理の教科書にもそのように記述されている)、釈尊の悟りが四諦説と無関係であったとは考えにくい。大乗仏教は釈尊の悟りではなく、釈尊死後の仏教の在り方を批判して、慈悲心を強調するところから発展してきたことを主張することのほうが、まだ整合的な説明になると思われるが、あたかも大乗仏教の主張が釈尊の悟りから直接生じたかのような記述は学問的な説得力があるとは思えない。
 また池田の言葉が引用されているが、池田が 'dogma'という用語をどのような意味で使用しているかは不明であるが(たぶん多くの日本人と同様に「独断的見解」という意味だろうとは思うが)、宗教において'dogma'という用語は一般的には「教義」という意味であり、必ずしも悪い意味で使用されるとは限らず、池田は仏教には教義はないと主張しているのであろうか。少なくともSGIが仏教の一つの源流として認めている日蓮にとっては、仏教は多様な教義に満ちており、その多様な教義の中で取捨選択を行っている。釈尊が対話を重視したことは確かであろうが、釈尊に'dogma'がなかったということにはどのような根拠があるのであろうか。あるいは中村元のような非宗教的ブッダ解釈を池田も共有しているのだろうか。池田の仏教解釈の特徴として、仏教をできるだけヒューマニズムと整合するように解釈するということがあるから、中村との共有性はありうることだとは思う。しかし私は、中村のブッダ解釈は日蓮を含む伝統的仏教のブッダ解釈(ブッダには宗教的主張があったという解釈)とは両立しない、革命的な解釈であると考えている。池田が日蓮仏法を継承する限りは、中村のような解釈をとることができない。どのような宗教的教義もそれを信奉しない人からは、独断的意見とされるのは、宗教的命題、形而上学的命題の必然的結果であるから、仏教に'dogma'がないという主張は哲学的には無理な主張だろう。
 また日蓮の言葉が引用されているが、この文章はどのようなメッセージを与えようとしているのであろうか。この文は四条金吾に与えられた手紙「崇峻天皇御書」の末尾の文章である「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。」の中にある文であるが、全体の文脈の中で、短気な四条金吾に対して、他者の恨みを買わないために、言動に注意して、他者を尊敬するように諭した文章であると私は解釈しているが、このSGIの文脈において、そのようなメッセージとして使用されているのであろうか。私にはこの文章が引用されている趣旨がよくわからない。
 釈尊はすべての人の成仏を法華経で説いたが、SGIは、そのメッセージを逆境における「知恵、勇気、慈悲」という人間の内的資質を発揮することとして説明していることは、成仏というわかりにくい宗教的用語を、わかりやすい日常的用語で説明するというSGIの運動の方向が示されている。この「知恵、勇気、慈悲」という資質は、後に述べる「Who is a Buddha?(誰が仏か)」の記述において、「愚かさ、怒り、貪欲」という仏教で「貪・瞋・癡」の三毒と伝統的に表記されてきた人間の悪い資質のアンチテーゼであることが暗示されている。私はこのようなSGIの解釈はあらゆる文化的、社会的状況の中でも維持されるべき普遍的な仏教的価値観の提示だと考える。しかしながら価値観の提示である以上、そのような人間の内的資質を大事だと認める人には共感されるが、慈悲は他者を甘やかし、独立心を失わせる資質であり、自己責任に基づく自由競争の原理に反すると考える人には受け入れられにくいのもやむをえないであろう。人によっては、たとえばニーチェのように、自由と慈悲ということは両立不可能な事柄であると考えることもあり得る。牧口常三郎は競争原理から協同原理への転換を『人生地理学』以降、一貫して説いたが、仏教の慈悲の強調は、それと整合的であり、その思想がSGIにも継承されている。
 
 2-3 The Lotus Sutra
 
 The Lotus Sutra is widely regarded as one of the most important and influential sutras, or sacred scriptures, of Buddhism. It is highly valued in the Mahayana tradition, which spread throughout East Asia.
 Its key message is that Buddhahood--a condition of absolute happiness, freedom from fear and from all illusions--is inherent in all life. The development of this inner life state enables all people to overcome their problems and live a fulfilled and active life, fully engaged with others and with society. Rather than stressing impermanence and the consequent need to eliminate earthly desires and attachments, the Lotus Sutra asserts the ultimate reality of the Buddha nature inherent in all life. It is therefore a teaching which profoundly affirms the realities of daily life, and which naturally encourages an active engagement with others and with the whole of human society.
 The Lotus Sutra is also unique among the teachings of Shakyamuni in that it makes the attainment of enlightenment a possibility open to all people, without distinction based on gender, race, social standing or education. In this way, it is seen to be a full expression of Shakyamuni's compassionate intention of opening the way to enlightenment to all people.
 Six Chinese translations are recorded as having been made of the Lotus Sutra (Skt Saddharma-pun-darika-sutra; Chin Miao-fa-lien-hua-ching; Jpn Myoho-renge-kyo). Among these, the fifth-century translation of Kumarajiva (344-413), the Lotus Sutra of the Wonderful Law, is considered to be particularly outstanding and is the basis of the teachings that spread in China and Japan.
 The Chinese Buddhist teacher T'ient'ai (538-597) divided the Lotus Sutra of the Wonderful Law into two parts: the first 14 chapters, which he called the theoretical teaching, and the latter 14 chapters, which he called the essential teaching. The theoretical teaching records the preaching of the historical Shakyamuni who is depicted as having first attained enlightenment during this lifetime in India. In the essential teaching, he discards his transient role as the historical Shakyamuni and reveals his true, eternally enlightened identity. The most important doctrine in the essential teaching, T'ient'ai says, is the revelation of this originally and eternally enlightened nature in the depths of Shakyamuni Buddha's life.
 Almost 2,000 years after Shakyamuni's death, Nichiren, a 13th-century Japanese priest, distilled the profound theory of the Lotus Sutra into a practice which could enable every individual to reveal their Buddhahood, or highest state of life, in the midst of day-to-day reality.
 The concluding words of the 16th chapter of the Lotus Sutra, recited daily by members of the SGI, encapsulate the Buddha's compassionate concern:
 "At all times I think to myself:
 How can I cause living beings
 to gain entry into the unsurpassed way
 and quickly acquire the body of a Buddha?"
 
 法華経
 
 法華経は、仏教の最も重要で影響力のある経典、聖なる教典の一つであると広く認められている。法華経は東アジア中に広がった大乗仏教の伝統の中で非常に尊重されている。
 その中心的なメッセージは、仏性、絶対的幸福、恐れやあらゆる幻想からの自由な状態、がすべての生命に本来的に内在しているということである。この内的生命状態の発展により、すべての人はその問題を克服し、充実した活動的な生活を送り、他者と社会とに十分に関わることができる。無常を強調することや、それにともなう世俗的な欲望や執着を除去する必要を強調することよりも、法華経はすべての生命に内在する仏性の究極的実在を主張する。それゆえ、法華経は日常生活の諸実在を深く肯定し、当然ながら、他者と人間社会全体との積極的なかかわりを推奨する教えである。
 法華経はまた次の点で釈尊の教えの中で独特である。すなわち、法華経は、成仏ということが、性別、人種、社会的位置、教育を基にした差別にかかわりなく、すべての人に開かれた可能性であるとしたことである。このようにして、法華経は、すべての人に悟りへの道を開こうとした釈尊の慈悲という意図を十分に表現したものである。
 法華経のサンスクリット語からの漢訳は6種類あると記録されている。その中で、5世紀の鳩摩羅什の訳である妙法蓮華経は、特に優れたものとされ、中国、日本に広まった教えの基礎である。
 中国仏教の天台大師は法華経を二つの部分に分けた。前半14章を、彼は理論的教え(迹門)と呼び、後半14章を、彼は本質的教え(本門)と呼んだ。理論的教えは、今世においてインドで初めて悟りを得たとして描写される歴史上の釈尊の教えを記録している。本質的教えでは、歴史上の釈尊という仮初めの在り方を捨て、真の永遠の悟った仏の在り方を明らかにする。天台が言うには、本質的な教えの中で最も重要な教義は、釈尊の生命の奥底にあるこの最初で永遠の悟りの性質(久遠本仏)の開示である。
 釈尊の死後、ほぼ2000年の頃、13世紀の日本の僧侶の日蓮は、法華経の深い理論からすべての個人が自分の仏性、すなわち最高の生命状態を、日々の現実の中で実現することを可能にする修行を抽出した。
 SGIの会員が毎日唱えている法華経第16章の結語は、仏の慈悲心を
 要約している。
 「いつでも私は念じている。
 どのようにして私はすべての生物に
 最高の道へと導きいれ、
 早く仏の身体を得させることができるのかを。」
 (毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身)
 
 
 コメント
 
 法華経が、諸行無常、煩悩滅尽=灰身滅智=入涅槃という伝統的な仏教の考えに反対して、仏種(=仏性)の内在を強調し、一切衆生の成仏を主張していることを明確に述べている。この一切衆生の成仏の主張が、平等という価値観を宗教的に根拠づけている。SGIはそのことを、「法華経は、成仏ということが、性別、人種、社会的位置、教育を基にした差別にかかわりなく、すべての人に開かれた可能性であるとした」と説明して、これらの基準により差別されている人々を支援する立場に立つことを宣言している。
 法華経の主要な主張を、迹門の二乗作仏(=十界互具)、本門の久遠実成の二つにまとめたのは、天台大師智顗の功績であるが、日蓮はさらに衆生救済という観点から、地涌菩薩の役割を強調した(この日蓮による地涌菩薩の意義の発見を強調したのは畏友菅野博史である)。智顗、妙楽大師湛然、伝教大師最澄は地涌菩薩にはそれほど注目していないが、日蓮はそこに注目することによって、一切衆生の成仏という救済のための宗教運動を展開する理論的根拠を示した。法華経には五種の修行が説かれ、天台宗は兼修を認めていたが、日蓮は上行所伝として、唱題、曼荼羅、戒壇の三大秘法を新しい修行法として提示した。(もっとも法華経で説かれる五種行をどの程度容認するかについては、日蓮自身にも、日蓮の弟子たちにも明確な基準はなかったのであるが)。SGIの文章では、日蓮の地涌菩薩の意義の発見ということの重要性を記述することが欠落しているが、これを欠いてしまえば、日蓮と法華経を、特別な意義を持って教義的に結びつけることができなくなる。 (友人に「釈尊の死後2000年頃」と記述してあることにコメントがないのは適切ではないのではないかと指摘された。釈尊の滅度年をほぼBC500年としたとしても、日蓮は釈尊死後1700年代に活躍したのであり、四捨五入すれば2000年も間違いではないが、このように記述する意図は日蓮自身が末法に生まれたと書いていることと整合性を持たせようとしたからであると思われる。私は創価学会のHPとは異なって、SGIのHPには正法・像法・末法の三時の議論はないから、これでもいいだろうと思っていたが、そのような指摘があったので、ここで注記しておく。2013.10.13付記)
 
 2-3-1 The more detailed account of the Lotus Sutra
 
 "A core theme of the sutra is the idea that all people equally and without exception possess 'Buddha nature.' The message of the Lotus Sutra is to encourage people's faith in their own Buddha nature, their own inherent capacity for wisdom, courage and compassion."
 The teachings of Shakyamuni, the historical founder of Buddhism, are recorded in an enormous body of texts, known as sutras. The manner in which the philosophy of Buddhism is presented within the sutras varies widely. This can be explained by a number of factors. During the some 50 years over which Shakyamuni shared his teachings with the people of his day, he traveled widely throughout India. Rather than expounding his philosophy in a systematic manner, his teaching mainly took the form of dialogue. Meeting with people from a wide range of backgrounds--from ministers of state to unlettered men and women--he sought to respond to their questions and doubts. Most of all, he sought to provide answers to the fundamental questions of human existence: Why is it that we are born and must meet the inevitable sufferings of illness, aging and death?
 The sutras were compiled in the years following the death of Shakyamuni; it is thought that the Lotus Sutra was compiled between the first and second century C.E. (...) Like many Mahayana sutras, the Lotus Sutra spread through the "northern transmission" to Central Asia, China, Korea and Japan. Originally entering China in the third century C.E., the Lotus Sutra is said to have been translated into several different versions of the Chinese, of which three complete versions are extant. The fifth-century translation of Kumarajiva (344-413 C.E.) is considered to be particularly outstanding; its philosophical clarity and literary beauty are thought to have played a role in the widespread veneration of this sutra throughout East Asia.
 The title of the Lotus Sutra in Kumarajiva's translation, Myoho-renge-kyo, contains the essence of the entire sutra, and it was on the basis of this realization that Nichiren (1222-1282 C.E.) established the invocation of Nam-myoho-renge-kyo as his core Buddhist practice.
 The Lotus Sutra is considered the sutra that fulfills the purpose for Shakyamuni's advent in the world, expressed in these words: "At the start I took a vow, hoping to make all persons equal to me, without any distinction between us." In other words, the purpose of Shakyamuni's advent was to enable all people to attain the same state of perfect enlightenment that caused him to be known as "Buddha," or "awakened one."
 The Lotus Sutra contains a number of concepts that were revolutionary both within the context of Buddhist teachings and within the broader social context of the time. Many of these are not stated explicitly but are implied or materialized in the dramatic and even fantastic-seeming events portrayed in the text. Much of the genius of later scholars of the sutra, such as T'ien-t'ai (538-597 C.E.), lay in their ability to extract and systematize these principles.
 A core theme of the sutra is the idea that all people equally and without exception possess the "Buddha nature." The message of the Lotus Sutra is to encourage people's faith in their own Buddha nature, their own inherent capacity for wisdom, courage and compassion. The universal capacity for enlightenment is demonstrated through the examples of people for whom this possibility had traditionally been denied, such as women and people who had committed evil deeds.
 In many sutras a number of Shakyamuni's senior disciples are condemned as people who have, through arrogant attachment to their intellectual abilities and their self-absorbed practice, "scorched the seeds of their own enlightenment." The profundity of Shakyamuni's teachings in the Lotus Sutra, however, awakens in them the spirit of humility and compassion. They realize that all people are inextricably interlinked in their quest for enlightenment, and that if we desire happiness ourselves, it is imperative that we work for the happiness of others.
 In this sutra, moreover, Shakyamuni demonstrates that he actually attained enlightenment in the infinite past, not in his current lifetime as had been assumed by his followers. This illustrates, through the concrete example of his own life, that attaining enlightenment does not mean to change into or become something one is not. Rather, it means to reveal the inherent, "natural" state that already exists within.
 As Daisaku Ikeda has written, the Lotus Sutra is ultimately a teaching of empowerment. It "teaches us that the inner determination of an individual can transform everything; it gives ultimate expression to the infinite potential and dignity inherent in each human life."
 
 法華経のより詳細な記述
 
 「法華経の核心的なテーマは、すべての人が平等に例外なく『仏性』を所有しているという思想である。法華経のメッセージは、自分自身の仏性、知恵、勇気、慈悲という自身に内在している能力を信じるように人々を励ますことである。」
 仏教の歴史的創始者である釈尊の教えは、経典として知られる膨大な量のテキストのなかに記録されている。仏教の哲学が経典の中で表現される仕方は非常に多様である。それにはいくつかの要因がある。釈尊が当時の人々と教えを共有した約50年の間、彼はインド中を幅広く旅した。自分の哲学を体系的に述べることよりも、彼の教えは主に多くの場合、対話という形式をとった。国家の大臣からも字の読めない男女に至るまでの、幅広い社会的背景を持った人々と会って、釈尊は彼らの質問や疑問に答えようとした。とりわけ、釈尊は、なぜ我々は生れ、そして、老病死という避けることのできない苦しみに合わなければならないのかという、人間の実存の根本問題に答えを提供しようとした。
 教典は釈尊の死後に編纂された。法華経は紀元後1世紀から2世紀の間に編纂されたと考えられている。(中略)多くの大乗経典と同様に法華経は『北伝』して、中央アジア、中国、朝鮮、日本へと伝わった。初めて3世紀に中国に伝えられ、いくつかの異なった翻訳がなされ、3つの完全な翻訳が現存している。5世紀の鳩摩羅什の翻訳は特に優れていると考えられており、その哲学的明晰性と文学的美しさは東アジア全体で法華経が幅広く尊重された理由と考えられている。
 鳩摩羅什の法華経の経典名である、妙法蓮華経は経典全体の本質を含んでおり、この悟りを基礎にして、日蓮は彼の核心的な仏法の実践として南無妙法蓮華経の唱題を確立した。
 法華経は釈尊のこの世への出現の目的を達成する経典とみなされ、それは「私はもともと、一切の人々をいかなる差別もなく、私と等しくするという誓いを立てた。」(我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異)という言葉に表現されている。言い換えれば、釈尊の出現の目的は、釈尊が「ブッダ」「悟った人」と呼ばれる原因となった完全な悟りと同じ状態に人々が至ることができるようにすることであった。
 法華経は仏教の教えの脈絡においても、当時のより広い社会的脈絡においても、いくつかの革命的な概念を含んでいる。これらの概念の多くは、あからさまには述べられていないが、法華経に描かれる、劇的なあるいは空想的に思われる出来事の中で暗示され、具体化されている。法華経の後世の研究者の才能の多くは、天台のように、これらの原理を抽出し、体系化するという彼らの能力にあった。
 法華経の核心的なテーマは、すべての人が平等に例外なく『仏性』を所有しているという思想である。法華経のメッセージは、自分自身の仏性、知恵、勇気、慈悲という自身に内在している能力を信じるように人々を励ますことである。悟りへの普遍的な能力は、女性や悪業を犯した人々のような、伝統的にその可能性を否定された人々の事例を通じて、示されている。
 多くの経典には、釈尊の高弟の多くは、自分の知的能力への傲慢な執着や自己中心的な修行のために、「悟りの種を炒った」人々として非難されている。しかしながら、法華経における釈尊の教えの深さは、彼らの中に、謙譲と慈悲の精神を生じさせている。高弟たちは、すべての人々が悟りの探求において密接に結びついており、もし我々が自分の幸福を願うのであれば、他者の幸福のために活動することが不可欠であるということを、悟った。
 さらにこの経典で、釈尊は、弟子たちが思っていたように今世で成仏したのではなく、実際には無限の過去に成仏したことを示す。このことは、彼自身の生命の具体的な事例を通じて、成仏することは、自分ではない別のものに、変化する、あるいはなるということを意味しないということを示している。むしろ、それは、すでに内心に存在する、内在的な「自然な」状態を明らかにすることを意味している。
 池田大作が書いているように、法華経は究極的には向上の教えである。法華経は「個人の内面的な決意がすべてのものを変えることができることを教えている。法華経はそれぞれの人間の生命に内在する無限の可能性と尊厳への究極的な表現を与えている。」
 
 
 コメント
 
 ここで「仏教の哲学が経典の中で表現される仕方は非常に多様である」理由として、1、50年という長期間、インド亜大陸を旅行しながら説法したこと、2、体系的に教義を説くよりも、相手に理解できるように説法したこと、3、経典が釈尊の死後に編纂されたことの3つを挙げている。しかし一番重要なのは3の問題であり、釈尊の死後、釈尊の思想を受け継いだ人々が、当時のインドの社会的状況、思想的状況と対峙する中で、釈尊の思想を多様に展開したことであり、もはや仏教は釈尊個人の思想とは直接には関係を持たず、釈尊の教えだとして伝承された思想から多様なインスピレーションを受けて、それぞれの経典編纂者が、釈尊の本当の教えであると確信することを、叙述したものが、現存の経典であるということである。 
 つまり釈尊個人の考えと、経典とを区別することが重要であり、例えば、「法華経によれば、釈尊は・・・と述べた」という記述をすべきであり、「釈尊は法華経で・・・と述べた」という記述は誤解を生じさせる。前者においては「釈尊」という言葉は、歴史上の人物を指す固有名詞ではなく、法華経が描く歴史観に立脚した釈尊(釈尊と呼ばれる架空の人物)を指す確定記述であることが示されるが(つまり歴史上の釈尊とは直接関係ない)、後者においては「釈尊」は固有名詞として機能しているから、本当に歴史上のある特定人物がそのようなことを述べたのか、論争する余地が生じる。そのような学問的論争に関わる用意がないなら、前者のような記述が無難であるだろう。
 次にここで日蓮の「南無妙法蓮華経」の唱題について言及しているが、なぜ他の仏教宗派のように「南無釈迦仏」という仏を信仰対象として口称するのではなく、「南無妙法蓮華経」という経典、あるいは法を信仰対象として口称するのかについての説明が必要であろう。すでに『本尊問答抄について』において論じたことでもあるが、法華経には経典を信仰対象とする記述と、釈尊を信仰対象とする記述との両方があり、また日蓮自身にも久遠実成釈尊像と曼荼羅との両方を本尊と認める記述があるが、一貫して口称するのは「南無妙法蓮華経」であったから、法を信仰対象とするのが日蓮の真意であり、また法の前での一切衆生の平等を主張する創価学会、SGIにとってふさわしい解釈であるという立場を明瞭に述べておくことが必要なのではないか。
 次に久遠実成の釈尊に関する説明で、その釈尊がもともと生命に内在していたという説明をしているが、これは法華経の説ではなく、日蓮の解釈である。法華経では久遠実成の釈尊がこの娑婆世界で永遠に衆生救済の活動をしていることは記述されているが、その久遠実成の釈尊が凡夫の生命の中に内在していることを主張したのは日蓮の『観心本尊抄』の革命的な解釈によるのであり、創価学会、SGIはこの日蓮の解釈を信じて、成仏のための修行をしているということを明確に述べる必要があるだろう。
 
 
 2-4 Life of Nichiren
 
 SGI members follow the teachings of Nichiren, a Buddhist monk who lived in 13th-century Japan. Nichiren was the son of a fisherman, born in 1222, a time rife with social unrest and natural disasters. The ordinary people, especially, suffered enormously. Nichiren wondered why the teachings of Buddhism had lost their power to enable people to lead happy, empowered lives. His intensive study of the Buddhist sutras convinced him that the Lotus Sutra contained the essence of the Buddha's enlightenment and that it held the key to transforming people's suffering and enabling society to flourish.
 The Lotus Sutra affirms that all people, regardless of gender, capacity or social standing, inherently possess the qualities of a Buddha, and are therefore equally worthy of the utmost respect.
 Based on his study of the sutra, Nichiren established the invocation (chant) of Nam-myoho-renge-kyo as a universal practice to enable people to manifest the Buddha nature inherent in their own lives and gain the strength and wisdom to challenge and overcome any adverse circumstances. Nichiren saw the Lotus Sutra as a vehicle for people's empowerment--stressing that everyone can attain enlightenment and enjoy happiness in this world. He first chanted Nam-myoho-renge-kyo on April 28, 1253, and later inscribed the mandala of the Gohonzon (the object of devotion to enable people to perceive the enlightened life state of the Buddha in graphic form).
 
 Persecution
 
 Nichiren was critical of the established schools of Buddhism that relied on state patronage and served the interests of the powerful while encouraging passivity in the suffering masses. He called the feudal authorities to task, insisting that the leaders bear responsibility for the suffering of the population and act to remedy it. His stance, that the state exists for the sake of the people, was revolutionary for its time.
 In 1260, in the wake of a series of devastating natural disasters, Nichiren wrote his most famous tract, the "Rissho Ankoku Ron" (On Establishing the Correct Teaching for the Peace of the Land). He presented this treatise to the highest political authorities of Japan and urged them to sponsor a public debate with representatives of other schools of Buddhism. The call for public debate--which Nichiren would repeat throughout his life--was ignored, and he was banished to the Izu Peninsula.
 The years that followed brought further banishment, and ultimately an attempt to execute him on the beach of Tatsunokuchi near Kamakura, seat of the military government. By his account, moments before the executioner's sword was to fall, a luminous object--perhaps a meteor--traversed the sky with such brilliance that the terrified officials called off the execution. Nichiren was banished to Sado Island where, amidst extreme deprivation, he continued to share his teachings and write treatises and letters.
 Following a pardon, Nichiren returned to Kamakura and then retreated to Mount Minobu, where he wrote copiously to clarify his interpretation of the Lotus Sutra and to encourage his individual followers--both men and women--who often wrote to him for advice. He also focused on training his successors.
 During this period, converts to Nichiren's teachings were harassed and attacked, and three were executed in 1279. The fact that these peasant followers remained steadfast in the face of persecution inspired in Nichiren the confidence that his teachings would be maintained and practiced after his own passing. Where he had to date inscribed Gohonzon for individual believers, he now inscribed a mandala explicitly dedicated to the happiness and enlightenment of all humankind. Nichiren died of old age three years later.
 Nichiren's legacy lies in his unrelenting struggle for people's happiness and the desire to transform society into one which respects the dignity and potential of each individual. Today, SGI members throughout the world chant to the Gohonzon he established and study his letters and treatises to deepen their understanding of how to apply Buddhism to the challenges of daily life.
 
 日蓮の生涯
 
 SGIの会員は、13世紀の日本の仏教僧である日蓮の教えに従っている。日蓮は、1222年に生まれた漁師の息子であり、その時代は社会不安と自然災害が満ち溢れていた。特に、普通の人々はひどく苦しんでいた。日蓮は、なぜ仏教の教えが人々を幸福で、より充実した生活を送ることを可能にする力を失ったのか、疑問に思った。仏教経典を熱心に研究して、日蓮は、法華経がブッダの悟りの本質を含み、法華経が人々の苦しみを変え、社会の繁栄を可能にする鍵となっていることを確信した。
 法華経は、すべての人が、性別、能力、社会的身分の差別なく、仏の性質を本来的に所有しており、それゆえ平等に究極的な尊敬に値することを主張している。
 法華経の研究に基づいて、日蓮は、南無妙法蓮華経という唱題が普遍的な修行であり、人々が自分自身の生命に内在している仏性を顕現し、逆境に挑戦し、克服する力と知恵を獲得することを可能にするものであることを、明確にした。日蓮は、法華経を人々の向上の手段とみなし、すべての人が悟りを得て、この世で幸福を楽しむことができると強調した。日蓮は、1253年4月28日に初めて南無妙法蓮華経を唱え、のちに御本尊となる曼荼羅(人々がブッダの悟りの生命状態を図形的に理解できるようにした信仰の対象)を図顕した。
 
 迫害
 
 日蓮は、国家の保護に安住して、権力者の利益に奉仕し、他方、苦しんでいる大衆に諦めを勧める既成仏教宗派を批判した。日蓮は封建権力を非難し、指導者は大衆の苦しみに責任があり、苦しみを変えるために行動すべきだと主張した。国家は国民のために存在するという日蓮の立場は、当時においては革命的であった。
 1260年、一連の壊滅的な自然災害の後で、日蓮は彼の最も有名な論文、『立正安国論』を書いた。彼はこの論文を日本の最高の政治権力者へ提出し、他の 仏教宗派の代表者との公開討論を支援するよう主張した。日蓮が生涯繰り返した、公開討論の要求は無視され、日蓮は伊豆半島に流罪となった。
 その後、さらなる流罪があり、ついには軍事政権の中心である鎌倉の近くの竜の口の海岸で日蓮を死刑にしようとした。日蓮の説明によると処刑者の剣が振り下ろされる直前に、光物(たぶん隕石)が非常に輝いて空を横切ったので、恐れた役人は処刑を中止した。日蓮は佐渡島に流罪になり、そこで極端な窮乏の中で、教えを広め続け、論文や手紙を書き続けた。
 赦免の後で、日蓮は鎌倉に戻り、それから身延山に隠棲し、そこで法華経の解釈を解明し、日蓮に助言をしばしば求めた、男女の、個々の信者を励ますために、膨大な量を書いた。彼はまた後継者を訓練することに集中した。
 この期間中に、日蓮の教えへの改宗者は、迫害され、攻撃され、1279年に3名が処刑された。これらの農民の信者が処刑の直前においても信仰を保っていたという事実は、日蓮に自分の教えが自分の死後も維持され実践されるという確信を生じさせた。日蓮は個々の信者への御本尊には日付を書き込んでいたが、こんどは全人類の幸福と悟りに明白に捧げられた曼荼羅を図顕した。日蓮は老齢のため3年後に亡くなった。
 日蓮の遺産は、人々の幸福のために断固として戦い、それぞれの個人の尊厳と可能性を尊重する社会へと変革するという熱意にある。今日、世界中のSGIの会員は、日蓮が作った御本尊へ唱題し、仏法を日常生活の諸困難へと適用する方法への理解を深めるために、日蓮の手紙や論文を研究している。
 
 コメント
 ここで「苦しんでいる大衆に諦めを勧める既成仏教宗派を批判した」と書いてあるが、どのような宗派を念頭に置いているのか不明である。一般に「厭離穢土欣求浄土」を主張した浄土宗系の宗派を念頭においているとは思われるのだが、その宗派は既成仏教宗派ではない。鎌倉時代に既成仏教宗派とされるのは、奈良六宗、平安二宗であり、黒田俊雄のいう顕密体制に包摂される宗派であり、浄土宗系はそれに含まれない。日蓮の『立正安国論』は顕密体制を前提にしたうえで、それに反して、専修念仏を唱えた法然を批判するという論理構成をもっており、既成仏教宗派の立場に立っていることは明らかである。これらの既成仏教宗派が「諦めを勧めた」ということが学問的に立証できるとも思えない。その意味でここの記述は混乱していると言えよう。
 また浄土宗系が諦めを勧めたというのも一面的であり、むしろ武士は浄土宗の教えの「造悪無碍」(どんな悪を犯しても念仏を唱えれば救われる)に魅力を感じて、貴族の既得権益を侵害することを正当化したという側面もあった。日蓮の最初の敵対者であった念仏者東条景信が清澄寺の既得権益を無視して寺地を侵害した行動に典型的にそれが見て取れる。『立正安国論』では「苦しんでいる大衆に諦めを勧める」という理由ではどの宗派も批判されてはいない。むしろ熱心に祈ってもその効果がないということに批判点がある。
 次に日蓮は一貫して公場対決を要求したことは事実であるが、日本、中国において、仏教上の公場対決があったというのは日蓮の歴史認識の誤りである。日蓮が『撰時抄』で述べている桓武天皇が臨席した高雄山寺で、最澄が南都六宗と公場対決したということも日蓮の誤解である。信頼されている仁忠(最澄の高弟)の『叡山大師伝』には.南都の学僧と一緒に天台三大部の研究会をしたことは記述されているが、それは公場対決とは言えない。もっとも日蓮が別系統の資料によってこのように主張した可能性は否定できないが、歴史学者も天台宗の研究者も、公場対決ということを歴史的事実とは認めていない。そもそも国家が宗教の正当性を巡っての争いに関与すること自体が稀なことであり、日蓮の公場対決の要求は、国家権力を利用して、他宗派を弾圧しようとする試みであったと批判的に解釈される可能性もある。『立正安国論』の詳細な検討は後で行う。
 次に、ここでは暗示的に書かれているが、熱原の法難を機縁に特別な意義のある曼荼羅(=戒壇の板曼荼羅)が造立されたことを前提にした記述があるが、SGIもかっては日蓮正宗の教義を受け入れていたのであるから、その名残があることがここに示されているが、他の宗教教団が所有している聖遺物にまだこだわる理由は説明すべきであろう。私は日蓮が戒壇曼荼羅を作成したということを否定する一人であるが、そのことについては、現在準備中の「日興の教学思想の諸問題――思想編」で論じる予定である。
 
 
 
 
 2-4-1 The more detailed account of life of Nichiren
 
 "While Nichiren demonstrated a severely critical stance toward what he regarded as distortion or corruption of the core message of Buddhism, his letters of guidance and encouragement to his followers record a tender concern for people who were disregarded within medieval Japanese society."
 Nichiren (1222-1282), the priest who established the form of Buddhism practiced by the members of the SGI, is a unique figure in Japanese social and religious history. In a society where great emphasis has often been placed on keeping conflict hidden from sight, Nichiren was outspoken in his criticism of the established Buddhist sects and secular authorities. His chosen method of propagation was "shakubuku"--a sharp and relentless dialectic between different perspectives in quest of truth. The appraisal offered by Uchimura Kanzo, the renowned Japanese Christian thinker and writer, in his 1908 Representative Men of Japan, expresses the ambivalent reaction Nichiren continues to provoke: "Nichiren minus his combativity is our ideal religious man."
 While Nichiren demonstrated a severely critical stance toward what he regarded as distortion or corruption of the core message of Buddhism, his letters of guidance and encouragement to his followers record a tender concern for people who were disregarded within medieval Japanese society. For instance, he wrote many letters to female lay believers in which he showed a remarkable understanding of their sufferings and emphasized the Lotus Sutra's message that all people can become enlightened as they are, men and women.
 Nichiren's sympathy for the downtrodden in society is related to the circumstances of his birth. His father was a fisherman on the seacoast to the east of what is now Tokyo, and as such Nichiren identified himself as "the son of a chandala [untouchable caste] family." Life in feudal Japan was harsh and brutal, especially for the masses at the bottom of the strict social hierarchy. Experiencing firsthand the misery of the common people, Nichiren had from an early age been driven by a powerful desire to find a way of resolving the problem of human suffering.
 What we know of Nichiren's life and thought comes to us principally through his voluminous writings. In addition to major treatises on doctrinal issues, he penned many hundreds of letters addressed to his followers. Some of his most important writing was done under dire circumstances--in exile, for example, on a snow-blown island in northern Japan.
 
 Announcing the Teachings
 
 When Nichiren was 12, he began studying at a temple near his birthplace. There he was tutored in the teachings of the major schools of Buddhism of the time. And there he prayed with the earnest wish and vow to become, in his words, "the wisest man in Japan." In response to his prayer, Nichiren writes, he was bestowed with a "great jewel" of wisdom.
 SGI President Daisaku Ikeda has noted that the wisdom we are able to unleash from within is proportionate to our sense of responsibility. The young Nichiren was moved by a burning sense of responsibility to alleviate the enormous misery he saw about him, and it was this that enabled him to gain insight into the essential nature of human life and reality.
 Nichiren began an exhaustive study of the multitude of often contradictory teachings and sutras of Buddhism. From age 16 to 32, Nichiren traveled to Kamakura and Kyoto, visiting the major centers of Buddhism, studying the massive volume of sutras, treatises and commentaries. The conclusion he reached was that the heart of Shakyamuni's enlightenment is to be found in the Lotus Sutra and that the principle or law to which all Buddhas are enlightened is expressed in the phrase "Nam-myoho-renge-kyo," from the title, or daimoku, of that sutra.
 At the same time, he understood clearly that to promote faith in the Lotus Sutra as the exclusive vehicle for enlightenment would be to engage in public criticism of existing schools of Buddhism, many of which taught that access to the Buddha Land was only possible after death. While Nichiren advocated using Buddhist practice to challenge one's circumstances and develop inner strength, the traditional schools encouraged resignation and passivity. A strong counterreaction could be anticipated, and Nichiren writes of his own inner struggle over the question of whether or not to speak out.
 
 Persecution
 
 Deciding that to remain silent would be to lack compassion, on the 28th day of the fourth month (according to the lunar calendar) of 1253, Nichiren made a public declaration of his beliefs. As anticipated, his insistence on the sole efficacy of the Lotus Sutra--with its core tenet that all people are in fact Buddhas--in the present era of confusion and corruption was met with disbelief and hostility. The steward of the region, a devout follower of the Pure Land school, took steps to have Nichiren arrested. And from this point on, Nichiren's life would be a succession of harassment, persecution and abuse.
 One reason for this is that the authorities recognized Nichiren's uncompromising insistence on the equality of all people as a direct threat to the established power structure, which victimized the impoverished majority. The established schools of Buddhism had been incorporated into this structure, providing an effective means for the feudal authorities to strengthen and extend their power over the populace. Priests of these schools, who occupied a privileged position within the social hierarchy, were deeply implicated in this exploitative system and had no reason to challenge the status quo. This is a further reason why Nichiren was able to attract a significant following despite the risks that such allegiance would entail.
 The Lotus Sutra predicts that those who attempt to spread its teachings in the corrupt latter days will meet severe trials. Nichiren interpreted the persecutions that befell him as evidence that he was fulfilling his mission in life.
 In 1260, in the wake of a series of devastating natural disasters, Nichiren wrote his most famous tract, the Rissho ankoku ron (On Establishing the Correct Teaching for the Peace of the Land). In it, he developed the idea that only by reviving a spirit of reverence for the sanctity and perfectibility of human life through faith in the Lotus Sutra could a truly peaceful order be restored and further disaster forestalled. He presented this treatise to the highest political authorities of Japan and urged them to sponsor a public debate with representatives of other schools of Buddhism. The call for public debate--which Nichiren would repeat throughout his life--was ignored, and he was banished to the Izu Peninsula.
 The years that followed brought further banishment and the decisive crisis of his life--an attempt to execute him on the beach of Tatsunokuchi. By his account, moments before the executioner's sword was to fall, a luminous object--perhaps a meteor--traversed the sky with such brilliance that the terrified officials called off the execution. Nichiren was banished to Sado Island where, amidst extreme deprivation, he continued to make converts and write treatises and letters.
 In part because the predictions he had made in the Rissho ankoku ron had come true, after almost two and a half years on Sado, Nichiren was pardoned and returned to the political center of Kamakura. It is said he was offered a temple and official patronage if he would desist from his criticism of other schools of Buddhism, but he refused. Nichiren retreated to Mount Minobu, and there he wrote copiously and trained his successors.
 
 Transmission
 
 During this period, the priest Nikko, who had accompanied Nichiren throughout his tumultuous career and would inherit the teachings, was gaining converts in nearby Atsuhara village. The priests of a Tendai temple in the area, angered at this, began harassing the converts. Eventually, they instigated an attack by samurai against unarmed peasant converts and their arrest on false charges of theft. Twenty of the peasants were arrested and tortured, and three were executed in 1279.
 Where earlier persecutions had targeted Nichiren himself, this time it was the lay believers who were the victims. Despite their lack of an in-depth theoretical knowledge of their newly adopted faith, these peasant followers remained steadfast in the face of the ultimate threat. For Nichiren, this signaled a crucial turning point, inspiring his confidence that his teachings would be maintained and practiced after his own passing. Where he had to date inscribed sacred mandalas (Gohonzon) for individual believers, he now inscribed the mandala explicitly dedicated to the happiness and enlightenment of all humankind. This symbolized the establishment of Nichiren Buddhism as a universal faith. Nichiren died of old age three years later, his mission complete. Transmission of his teachings and the fulfillment of his vision of peace founded on respect for the sanctity of life is the central inspiration for SGI members worldwide.
 
 「日蓮は、仏教の核心的なメッセージの歪曲や堕落と彼がみなしたものに対しては厳しい批判的な立場を示したが、信者への指導や激励の手紙は中世日本社会の内部で軽視された人々に対する優しい配慮を記している。」
 日蓮(1222-1282)は、SGIの会員によって実践されている仏法様式を定めた僧侶であり、日本の社会的、宗教的歴史において独特な人物であった。争いを隠すことを大変重視した社会において、日蓮は既成仏教宗派や世俗的権力に対する批判において率直であった。彼の選んだ布教方法は「折伏」、真理の探究における鋭く容赦ない討論であった。著名な日本のキリスト教の思想家、著作家である内村鑑三によって、1908年の『代表的日本人』の中で与えられた賞賛は、日蓮が与え続けている、相反する反応を表現している。「その戦闘性がなくなった日蓮こそわれわれの理想的な宗教者である。」
 日蓮は、仏教の核心的なメッセージの歪曲や堕落と彼がみなしたものに対しては厳しい批判的な立場を示したが、信者への指導や激励の手紙は中世日本社会の内部で軽視された人々に対する優しい配慮を記している。たとえば、彼は女性の在家信者に多くの手紙を与えているが、そのなかで彼は、彼女たちの苦しみを驚くほど理解していることを示し、すべてのひとが、男であれ女であれ、あるがままに成仏できるという法華経のメッセージを強調している。
 社会の中で踏みにじられている人々への日蓮の共感は、彼の生まれた境遇と関係している。彼の父親は今日の東京の東にある海岸の漁師であった。そのことを日蓮は自分自身のことを「旋陀羅の家の子」としている。封建時代の日本の生活は厳しく、残酷であり、特に厳しい社会的身分制度の底辺にいる大衆にとってはそうだった。普通の人々の悲惨さを直接経験することによって、日蓮は幼少のころから、人間の苦しみの問題を解決する方法を見つけたいという強い欲求に駆られた。
 我々が日蓮の生涯や思想について知っていることは、主に彼の膨大な著作を通じてである。教義的問題に関する主要な論文に加えて、彼の信者たちに与えた何百もの手紙を書いた。彼の最も重要な著作のいくつかは、厳しい境遇、例えば、雪が吹きすさぶ北日本の島で書かれた。
 
 立宗宣言
 
 日蓮は12歳の時、生地の近くの寺院で勉学を始めた。そこで彼は当時の主要な仏教宗派の教えを教えられた。そこで彼は、その言葉によると、「日本第一の智者」になるという熱心な望みと誓願をともなって祈った。日蓮の祈りに応じて、日蓮が書いているところによると、彼は知恵の「大宝珠」を与えられた。
 池田大作SGI会長は、我々が内面から解放することのできる知恵は、我々の責任感に比例していると書いている。若い日蓮は、自分が周りで見た非常な悲惨さを軽減しようとする、燃えるような責任感に駆られ、この責任感のゆえに、彼は人間生命と現実との本質に対する洞察を得ることができた。
 日蓮は、しばしば膨大な量の矛盾している教義や仏教経典を幅広く研究し始めた。16歳から32歳まで、日蓮は鎌倉、京都を訪れ、仏教の主要な中心地を訪れ、大量の経典、論文、注釈書を研究した。彼が到達した結論は、釈尊の悟りの核心は法華経の中にあり、すべての仏が悟った原理、法は、法華経の経名、題目に由来する「南無妙法蓮華経」という句に表現されているということだった。
 同時に、彼は悟りのための専修として法華経の信仰を勧めることは、既存の仏教宗派の公然とした批判をすることでありことを明瞭に理解していた。それらの宗派の多くは、仏国土へ行くことは、死後にのみ可能であると教えていた。日蓮は、自分の境遇に挑戦し、内面の強さを発揮するために仏教の修行を使用することを提唱したが、伝統的宗派は諦めと受動性を強調した。強い反発が予想され、日蓮は、公言すべきかどうかという問題について葛藤していたことを書いている。
 
 迫害
 
 沈黙することは慈悲を欠くことだと決意して、旧暦の4月28日に、日蓮はかれの信念を公で宣言した。予期したように、混乱と堕落の現在の世においては、すべての人は事実上仏であるという核心的な信条を伴った、法華経のみが有効であるという彼の主張は、不信と敵意をもって迎えられた。浄土宗の熱心な信者であった地頭は、日蓮を逮捕するように手配した。この時から、日蓮の生涯は、いじめ、迫害、虐待の連続であった。
 迫害の一つの理由は、権力はすべての人々の平等性を日蓮が非妥協的に主張することは、貧しい大衆を犠牲にしてきた既成の権力構造への直接的脅威となると認めたからである。既成仏教宗派はこの構造に組み込まれ、封建的権力を強め、大衆へのその権力を拡大するための効果的な手段を提供していた。これらの宗派の僧侶たちは、社会的身分制度の内部で特権的な立場を占め、この搾取体制に深くかかわり、現状を変革する理由を持たなかった。これが、日蓮が、その信仰に伴うリスクにもかかわらず、それなりの信者を吸引することのできたもう一つの理由である。
 法華経は堕落した末法時代にその教えを広めようとする者は、厳しい試練に遭うことを予言している。日蓮は、自分に降りかかった迫害が、彼がこの世における使命を実行している証拠であると解釈した。
 1260年、一連の壊滅的な自然災害の後に、日蓮は彼の最も著名な論文、『立正安国論』を書いた。その中で、彼は、法華経の信仰を通じて人間生命の尊厳と完成可能性を尊重する精神を復活させることによってのみ、真の平和的な秩序が回復され、さらなる災害を予防できるという思想を展開した。彼はこの論文を日本の政治的最高権力者たちに提出し、彼らに他の仏教宗派の代表者たちとの公開討論を開催するように主張した。この公開討論の要求は、日蓮が生涯にわたって繰り返したことであるが、無視され、彼は伊豆半島に流罪となった。
 その後年月がたち、さらなる流罪と彼の生命の決定的な危機、竜の口の海岸で日蓮を処刑しようとする試みが、生じた。彼の説明によると、処刑執行人の剣が振り下ろされる直前に、光るもの、おそらく隕石が、非常に明るく空を横切って行ったので、恐れた役人たちは、処刑を中止した。日蓮は佐渡島に流罪になり、そこで、極端な窮乏のただなかで、彼は改宗させ、論文や手紙を書いた。
 彼が『立正安国論』でなした予言が現実となったこともあり、ほぼ2年半の佐渡滞在の後で、日蓮は赦免され、政治的中心都市である鎌倉に戻った。彼は、もし他の仏教宗派への批判をやめれば、寺院と公式の保護を提供するという申し出を受けたが、それを断ったと言われている。日蓮は身延山に隠棲し、そこで膨大な著作をし、後継者を訓練した。
 
 伝道
 
 この期間、僧侶日興は、日蓮の激動の生涯にわたって随行し、彼の教えを継承し、近くの熱原村で改宗者を獲得していた。その地の天台宗の僧侶たちは、これに怒り、改宗者たちを迫害し始めた。ついには、彼らは、侍による非武装の農民改宗者への攻撃をそそのかし、盗みという虚偽の罪状で逮捕させた。20人の農民が逮捕され、拷問され、3人が1279年に処刑された。
 それ以前の迫害は日蓮自身を狙ったものであるが、今回は、犠牲となったのが在家信者であった。新しく採用した信仰への深い理論的理解が欠けていたのにもかかわらず、これらの農民信者たちは最後の脅迫を眼前にしても不動のままであった。日蓮にとって、このことは大事な転換点を示し、彼の教えが彼の死後も維持され、実行されるという確信を生じさせた。彼は個々の信者のために図顕した聖なる曼荼羅(御本尊)に日付を記入していたが、いまや彼はすべての人の幸福と悟りに明白に捧げられた曼荼羅を図顕した。これは日蓮仏法が普遍的な信仰として確立されたことを象徴している。日蓮は老齢で3年後に亡くなったが、彼の使命は達成された。彼の教えの伝導と、生命の尊厳にたいする尊重に基づく平和という彼の思想の実現は、世界中のSGIの会員の中心的な望みである。
 
 
 コメント
 ここでまず内村鑑三の『代表的日本人』の記述が紹介されているが、この著作は私の「内村鑑三の日蓮論について」で論じているように、かなり微妙な問題提起を含んでおり、この文献を紹介することによって、そのような議論への導入を暗示しているとも思えないのだが、どのような意図でこの文献を言及したのか、よくわからない。しかも引用された「その戦闘性がなくなった日蓮こそわれわれの理想的な宗教者である。」という文章に、SGIが同意しているのかどうかもよくわからない。私には理想的な宗教者というモデルがないので、何とも言えないが、私が日蓮で最も好きなところは、議論を徹底的に突き詰めた後で、その結論に従うという思想家の側面であり、日蓮に付随する神秘的な要素は全く理解ができない。したがって私は日蓮の徹底的な論争をするという戦闘性、「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」という考えが大好きなのであるが、内村はどうなのだろうか。私の見るところ、内村自身もかなりユニテリアンとは厳しい論争をしているように思えるのだが、内村はそういう思想家としての自分を好ましく思っていなかったのだろうか。
 
 立宗宣言
 
 次に立宗宣言では、日蓮の神秘的な側面を示すエピソードが紹介されている。たしかに「清澄寺大衆中」には「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ、」とあり、また真筆はないが、内容的には信頼できると思われる「破良観等御書」には、「予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし、」とあるように、虚空蔵菩薩への祈願の過程で、何らかの神秘的な出来事があったことが暗示されている。文化的には低く見られていた関東出身で、しかも貴族の出身でもない12歳の子供(日蓮の出自についての最古の言及である「法華本門宗要抄」の「権頭」は農民であれば名主層のサブリーダーと推測されるが、荘園業務を行うためにある程度の修学が必要であり、その手段として清澄寺で日蓮は沙弥として修学したと推定される。)が、学費の工面の見通しもないのに、「日本第一の智者」になりたいという希望を持つことが、世間知らずの、極めて異常な願いであるとも思われるのだが、その願いに対応して、「生身の虚空蔵菩薩」が「明星の如くなる大宝珠」を授けて、その珠を「右の袖」で受け取ったという具体的な記述がなされている。この文章をわたしはどのように理解すればよいのだろうか。私のいる世界には「生身の虚空蔵菩薩」はその存在を許容されていないのだが、現在でもなんらかの神仏に出会ったという神秘体験をお持ちの方がいるのだろうか。さらに「明星の如くなる大宝珠」は何らかの出来事の比喩なのだろうか。日蓮の聖遺物のなかには、「明星の如くなる大宝珠」は現存していないようだし、そのような聖遺物が存在していたという記述も知らない。日興筆の「御遷化記録」にもないから、そのような珠は現実にはなく、なんらかの比喩的表現であると解釈するのが一般的であろうと思われるが、それではいったい何が起こったのだろうか。
 SGIの記述では、池田の文章を引用して、話題を「宝珠」から「知恵」に変えて、「宝珠」には言及することがない。もっとも日蓮の『観心本尊抄』でも、「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の(一念三千の)珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、」とあり、ここでは文脈から「珠」は一念三千の法理の比喩的表現であるから、「清澄寺大衆中」の記述も、なんらかの知恵、法理の比喩的表現であると解釈していいのかもしれない。だが逆にもしそうだとすると、私には何らかの知恵、法理を獲得したことを、「清澄寺大衆中」のように神秘的に表現する日蓮のメンタリティが理解できない。それは自分の行為を神秘化するだけの話で、大川隆法の霊言と似たような機能を果たすに過ぎないと思われる。もっとも鎌倉時代には、祈りを通じて何らかの知恵を得た時には、そのように表現することがよくあることなのかもしれないが、そのへんの宗教事情には無知なので、どなたかに教授していただければありがたい。
 私は創価学会の活動の中で、毎日3時間の唱題を1年間続けたことも、10時間唱題をしたこともあるが、戸田城聖が得たような虚空会の儀式のような神秘体験は何も起こらなかった(創価学会の会員で戸田城聖の神秘体験と似たような体験をした人がいることも見聞していない。)。もちろん唱題しながら、思索を続けていると、ふと今まで気づかなかったヒントが浮かんできたり、問題点を整理できたりということはあるが、それは神秘体験とは考えない。私にとって唱題とは、思索を集中させる手段のような機能を果たしている。このような散文的な信仰をしている私には、日蓮の神秘体験に関する表現は謎を突き付けている。もっとも私にできることは、フッサール現象学譲りの「エポケー(判断停止)」というものでしかないが、いつか分かりたいとは思っている。 
 次に、「それらの宗派の多くは、仏国土へ行くことは、死後にのみ可能であると教えていた。日蓮は、自分の境遇に挑戦し、内面の強さを発揮するために仏教の修行を使用することを提唱したが、伝統的宗派は諦めと受動性を強調した。」とあるが、この記述は、日蓮のどのテキストを根拠にして述べたものか、私にはわからない。日蓮の初期の思想については私の「『守護国家論』について」で論じておいたが、日蓮は初期においては、唱題行は「不堕三悪道」の功徳しかないという天台宗と整合的な立場を採用していたのであり、その意味では「仏国土へ行くことは、死後にのみ可能である」という伝統的な立場を維持していた。(浄土宗関係では、阿弥陀仏の極楽浄土には三悪道の衆生がいないから「不堕三悪道」は極楽往生の保証ともなるという教示を受けた。2013.11.13付記)三世の生命を信じているなら、今世ではなく来世に成仏を期待するということも、「不堕三悪道」それなりに賢い選択であるかもしれず、それを「諦めと受動性」と評価していいのだろうか。平安時代の最高権力者藤原道長は、今世では阿弥陀仏の極楽世界への往生を願い、最終的に56億7000万年後の未来仏である弥勒菩薩の下生の時に成仏のための修行をしようと構想していたと考えられている。道長はそのために法成寺を造営し、経筒を埋納した。これは生命の長遠を前提にした積極的な対応であったと評価されるべきではないか。「伝統的宗派は諦めと受動性を強調した」と評価するのは、何を根拠にしているのか私には分からない。伝統宗派には、伝統宗派なりの教義があり、その教義に基づいて成仏のための修行をしているのであり、それを別の宗派の観点から一方的に評価することは、公平さを欠く行為であり、不毛な論争にしかならない。
 
 迫害
 
 次に立宗宣言の日付については、三月という資料と、四月という資料とが併存しており、学問的には決着が困難な状態である。それは牧口常三郎の入信が、昭和3年という資料と、4年という資料の両方があり、決着困難な状態と似たようなものである。とりあえず教団的には決定することが、儀礼にとっては重要であるから、このように記述していることには問題がないが、新しい資料が発見され、訂正される可能性を排除してはならないだろう。
 またこの時期には日蓮は「すべての人は事実上仏であるという核心的な信条を伴った」ものとして法華経を評価していなかった。法華経は「すべての人は可能的に仏である」ということを認めていたが、「事実上」仏であるということは認めていない。また日蓮自身も『観心本尊抄』では凡夫に「無始の古仏」が内在していることは認めたが、それは「可能的に」無始の古仏であるという意味であり、「事実上」無始の古仏であると主張しているのではない。「すべての人は事実上仏である」という主張は、日蓮死後に作成された『諸法実相抄』の「されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」という凡夫本仏論を根拠にして主張できることであるから、日蓮の初期思想に含まれてはいない。(『諸法実相抄』については後の「true Buddha」の箇所でさらに議論する。)日蓮にも、また日蓮仏法にも思想的な発展があったのであり、その時期を混同しては正確な記述とはならない。
 次に迫害の理由として「迫害の一つの理由は、権力はすべての人々の平等性を日蓮が非妥協的に主張することは、貧しい大衆を犠牲にしてきた既成の権力構造への直接的脅威となると認めたからである。」と述べているが、これは何を根拠にして述べているのだろうか。
 鎌倉幕府が日蓮を弾圧した理由は、日蓮が法華専修を主張し、他の宗派、特に幕府要人が信仰していた、浄土宗、禅宗を禁止するよう主張したという宗教的理由であり、それは貞永式目の「一、悪口咎の事  右、闘殺の基(もとひ)は悪口より起る。その重き者は流罪に処せされ、その軽き者は召し籠めらるべきなり。」に該当する犯罪であるとみなされたのであり、私は幕府の処分は幕府の立場に立てばそれなりに正当なものであったと思っている。日蓮には自己の宗教的正当性を主張する理由はあったのだが、その主張が「悪口」の罪に該当しないように配慮する義務が社会的には存在したのである。現在でいえば、名誉棄損、あるいは脅迫の罪で訴えられても仕方のないことであったと思われる。
 またこの前後の記述は、日蓮をあたかも社会体制の変革者であるかのように描写しているが、それは正確ではない。「既成仏教宗派はこの構造に組み込まれ、封建的権力を強め、大衆へのその権力を拡大するための効果的な手段を提供していた。これらの宗派の僧侶たちは、社会的身分制度の内部で特権的な立場を占め、この搾取体制に深くかかわり、現状を変革する理由を持たなかった。」という記述は正しいと思うが、日蓮がこのような支配構造を変えようとしたわけでもないだろう。
 日蓮の在家の信者の多くは武士階級に所属し、搾取する側の人間であり、出家の弟子もやはり同じ階級の出自であるとされておる。出家の弟子たちが日蓮に帰依する前は、寺院の供僧として働くことにより収入を得ていた宗教官僚であり、日蓮に帰依してからは、信者からの寄付によって生活を支えていた。このような日蓮の出家の弟子たちの生活状態に搾取という社会構造の問題を導入して一体どんな議論をしようとしているのだろうか。
 佐藤弘夫であれば、熱原の法難を、一向一揆と同様な、新宗教をイデオロギー的基盤とした農民の権力者への抵抗運動であると評価するであろうが、熱原の法難は主体が名主クラス以下の農民を中心にした事件であるが、彼らは日蓮の出家、在家の弟子の中では少数派であった。今谷明が言うように、京都の町衆に日蓮信奉者が増えた社会状況では、法華一揆が税金の減免を要求したことに典型的に表れているように、既成の社会体制への変革運動と位置付けることも可能であろうが、日蓮の『立正安国論』の議論に、それを見出すのは不可能である。日興門流以外では、農民中心の熱原の法難を無視していたことも、所属階級の問題もあったと思われる。日蓮の弟子たちが日蓮に帰依したのは決して社会構造の問題ではなく、純粋に宗教的理由であったと私は理解しているが、不必要、不正確な記述をすることによって、日蓮の宗教的主張の意義を不明確にすることは差し控えるべきであると思う。
 次に「法華経は堕落した末法時代にその教えを広めようとする者は、厳しい試練に遭うことを予言している。日蓮は、自分に降りかかった迫害が、彼がこの世における使命を実行している証拠であると解釈した。」という記述があるが、これにも問題がある。この記述は法華経勧持品の記述によるものであるが、法華経にはこれと全く違う安楽行品の記述もあり、日蓮はかなり強引に安楽行品を否定し、勧持品を採用した。これについては、日蓮の『開目抄』の問題点を扱う論文の中で議論する予定であるが、私にはそれほど説得力があるとも思えない。迫害を前提とした宗教運動をSGIはするつもりなのかと言えば、たぶんそれはないだろう。迫害は社会的摩擦の一面を示すのであり、そのような摩擦が多ければそれは社会的にカルトと断定されてもやむを得ない。むしろSGIは社会貢献を謳って活動をするつもりであろうから、迫害の記述にも工夫が必要である。
 次に『立正安国論』に関する記述であるが、「その中で、彼は、法華経の信仰を通じて人間生命の尊厳と完成可能性を尊重する精神を復活させることによってのみ、真の平和的な秩序が回復され、さらなる災害を予防できるという思想を展開した。」と記述してあるが、いったい『立正安国論』のどのような文章を根拠にして、このような主張をしているのか、私にはわからない。私は『立正安国論』は現在の文化的背景の中で、文字通りに読むと、極めて誤解を与えかねない著作であると思っている。私の「内村鑑三の日蓮論について」の中でも述べたが、日蓮は鎌倉時代の文化的背景の中で、『立正安国論』を書いている。鎌倉時代であれば、自然災害が為政者、あるいは人々の宗教心のあり方によって生じるという護国経典の記述によって議論を組み立てている『立正安国論』にある程度の説得力があったかもしれないが、自然科学的研究が進んだ現在において、そのような主張にはまったく説得力はない。しかも日蓮は自然災害の原因を、諸天善神が国を去り、悪鬼が国に満ちているからであるという議論をし、その宗教的原因を特に法然の『選択集』に求め、法然が専修念仏を主張し、法華・涅槃の伝統的な聖道門を捨てるように主張し、人々がそれを信じるようになったからだという議論をしている。この議論は多分現在ではほとんどの人に対して説得力を持たないだろう。鎌倉時代にあっても、鎌倉で念仏を広めていた僧侶たちは、確かに法然の弟子たちではあったが、彼らは法然の専修の主張を撤回し、兼修を認めていたから、日蓮が法然の『選択集』を根拠に念仏禁止を要求するのは、不当な論理であり、念仏信仰者が悪口の罪で訴えても当然であったと思われる。日蓮は為政者に謗法禁断を要求しているが、これは権力によって、特定宗教を抑圧することを要求しているのであり、現在の思想・信条の自由を認める文化的背景の中では、まったく支持を得られない主張であるし、鎌倉時代においても、よほどの理由がなければ、特定宗教の抑圧は起こらなかった。日蓮は最後に法華・涅槃の信仰を勧めて、為政者が謗法を放置しておくと、外国からの侵略、内乱が生じるという予言をし、もし正法に帰依すれば、自然災害もなくなるだろうという議論で締めくくっている。
 多分「その中で、彼は、法華経の信仰を通じて人間生命の尊厳と完成可能性を尊重する精神を復活させることによってのみ、真の平和的な秩序が回復され、さらなる災害を予防できるという思想を展開した。」という記述は、この『立正安国論』の結論部分である、主人(日蓮)の言葉「広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかな各悪教の綱に懸つて鎮に謗教の網に纒る、此の朦霧の迷彼の盛焔の底に沈む豈愁えざらんや豈苦まざらんや、汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し。」によると思われるのだが、「法華経の信仰を通じて」、「真の平和的な秩序が回復され、さらなる災害を予防できるという思想を展開した。」ということは言えても、「人間生命の尊厳と完成可能性を尊重する精神を復活させることによってのみ」ということは、何も言及されていない。つまり『立正安国論』では「法華経の信仰」が「人間生命の尊厳と完成可能性を尊重する精神を復活させること」とどのような関係にあるかは不明なままになっている。
 私は『立正安国論』は現代の文化的背景の中では、取扱いに注意しなければいけない文献であると思っているが、SGIの記述では、『立正安国論』の議論の危険性を無視して、自分たちの独自の解釈を主張しており、そこには文献からの論理的根拠が全く示されていない。現在の日蓮系のいくつかの教団では『立正安国論』の記述を文字通りに解釈して、自然災害が、誤った宗教(その中に創価学会も含まれる)によるのだと主張している。もちろんこのような議論に説得力を感じる人はそれほど多いとは思えないが、日蓮が『立正安国論』を重視していたことは歴史的事実であるから、日蓮仏法信奉者にとってはどのように判断してよいかという問題を提起していることには変わりがない。私は『立正安国論』をどのように解釈すべきか、その中の議論のどの部分を採用し、どの部分を捨てるのかということを明確にしないで、『立正安国論』を権威的に利用することは、日蓮仏法に対する疑問、誤解を放置する知的怠慢であると思っている。(大黒喜道は「『立正安国論』の世界とその取り扱いについて」(『興風』第12号)で、領主による法華信仰が領民支配のイデオロギーとして利用された事例を指摘し、『立正安国論』で主張される順縁広宣流布の思想の危険性を指摘している。その他にもこの論考には私と共通する問題意識が示されており、興味深い。2013.8.23付記)。
 
 伝道
 
 ここでは「それ以前の迫害は日蓮自身を狙ったものであるが、今回は、犠牲となったのが在家信者であった。」と記述してあるが、これは必ずしも正確ではない。日蓮の竜の口の法難に続いて、鎌倉在住の出家の弟子、在家信者への逮捕、拘置、さらに所領没収などの迫害が大規模に起こった。この弾圧により日蓮教団はかなりの被害を受け、特に鎌倉を活動拠点としていた日昭、日朗に対しては、幕府の弾圧の脅威を思い知らせたと思われる。日興の在家信者は鎌倉在住のものは少なかったようであるから、このときの弾圧からは免れることができたようであり、日興自身も竜の口の法難以後は、日蓮の佐渡流罪に同行したと考えられているから、日蓮不在の鎌倉の在家信者への弾圧について、直接見聞することはなかったようである。日興は師匠日蓮の弾圧に対して毅然たる態度で立ち向かった姿を見聞し、日昭、日朗は在家信者たちの逆境、退転の姿を見聞した。この文永8年の弾圧が日蓮の弟子たちに与えた心理的影響の差異が、その後の弾圧に対する対応の差異へとつながっていったと思われる。この問題は、その後で論じられている戒壇本尊の問題とともに「日興の教学思想の諸問題――思想編」で扱う。
 
 
 
 2-5 Who is a Buddha? (SGI)
 
 "The Lotus Sutra explains that Buddhahood is already present in all life. It teaches absolute equality and emphasizes that even within the life of a person apparently 」dominated by evil, there exists the unpolished jewel of the Buddha nature. No one else gives it to us or judges whether we 'deserve' it."
 
 Who is a Buddha?To many, the image conjured up by the word Buddha is of an otherworldly being, calmly remote from the matters of this world. Through meditation he has attained state of "nirvana" which will enable him to escape this world and its constant sufferings--the fruit of human delusion and desire.
 
 However, this image does not reflect the truth about the life of Shakyamuni, the founder of Buddhism who lived in India around 2,500 years ago. He was a deeply compassionate man who rejected the extremes of both asceticism and attachment, who was constantly interacting with others and wanted all people to share the truth he had discovered.
 
 The literal meaning of Buddha is "enlightened one." Enlightenment is a fully awakened state of vast wisdom through which reality in all its complexity can be fully understood and enjoyed. Any human being who is awakened to the fundamental truth about life can be called a Buddha.
 
 However, many schools of Buddhism have taught that enlightenment is only accessible after an arduous process undertaken over unimaginably long periods of time--over many lifetimes, in fact. In dramatic contrast, what is considered Shakyamuni's ultimate teaching, the Lotus Sutra, explains that Buddhahood is already present in all life. It teaches absolute equality and emphasizes that even within the life of a person apparently dominated by evil, there exists the unpolished jewel of the Buddha nature. No one else gives it to us or judges whether we "deserve" it.
 
 As with gold hidden in a dirty bag, or lotus flowers emerging from a muddy pond, we have first to believe our Buddha nature is there, then awaken and develop or "polish" it. In Nichiren Buddhism this can be done through devotion to the law contained in the Lotus Sutra and the chanting of the phrase "Nam-myoho-renge-kyo."
 
 But Buddhahood is not a static condition or a state in which one can rest complacently. Rather, it is a dynamic experience and a journey of continual development and discovery.
 
 When we continually reinforce the Buddhahood in our lives, we come to be ruled less and less by selfishness (or greed), anger and foolishness--what Buddhism terms the three poisons. As we fuse our lives with the enlightened life-state of the Buddha, we can tap the potential within us and change ourselves in a fundamental way.
 
 As this inner state of Buddhahood is strengthened, we also develop a fortitude which enables us to ride even the wildest storms. If we are enlightened to the true, unchanging nature of life, we can joyfully surf the waves of difficulty which wash against us in life, creating something of value out of any situation. In this way our "true self" blossoms, and we find vast reserves of courage, compassion, wisdom and energy or life-force inside us. We find ourselves becoming more active and feeling deep inner freedom. And as we experience a growing sense of oneness with the universe, the isolation and alienation that cause so much suffering evaporate. We lessen our attachment to our smaller egotistical self, to difference, and become aware instead of the interconnectedness of all life. Gradually we find our lives opening up to those of others, desiring their happiness as much as our own.
 
 However, while it is easy to believe that we all possess the lower life-states outlined in Buddhist teachings (hell, hunger, animality, anger and so on), believing that we possess Buddhahood is much more difficult. But the struggle to develop and constantly strengthen this state within our lives is well worthwhile.
 
 For, in the words of SGI President Daisaku Ikeda, "[Buddhahood] is the joy of joys. Birth, old age, illness and death are no longer suffering, but part of the joy of living. The light of wisdom illuminates the entire universe, casting back the innate darkness of life. The life-space of the Buddha becomes united and fused with the universe. The self becomes the cosmos, and in a single instant the life-flow stretches out to encompass all that is past and all that is future. In each moment of the present, the eternal life-force of the cosmos pours forth as a gigantic fountain of energy."
 
 誰が仏なのか。
 
 「法華経は、仏性が全ての生命に既に存在していると説明する。法華経は絶対的平等性を教え、表面的には悪に支配されているような人の生命の内部にさえ、仏性というまだ磨かれていない宝玉が存在することを強調する。他の誰かがその仏性を与えるわけでもないし、我々が仏性に「値する」かどうかを判断するわけでもない。」
 誰が仏なのか。多くの人にとって、ブッダという言葉によって呼び起されるイメージは、別世界の存在、この世の事柄からは、静かに離れている存在である。禅定を通じて、ブッダは「涅槃」の状態を獲得し、それによりブッダはこの世とそのたえざる苦しみ、それは人間の妄想と煩悩の結果であるのだが、を離れることができた。
 しかしながらこのイメージは、約2500年前にインドで生まれた仏教の創始者の釈尊の生涯についての真理を反映していない。釈尊は深い慈悲心をもった人で、苦行と快楽の両極端を拒否し、常に他者と交わり、自分の発見した真理をすべての人と共有しようとした。
 ブッダの字義的な意味は、「悟りを得た人」である。悟りは、広大な知恵に十分に目覚めている状態であり、その知恵を通じて、実在はそのすべての複雑性において十分に理解され、享受されうるのである。根本的な真理に目覚めている人は、誰であれ、ブッダと呼ばれうる。
 しかしながら、多くの仏教宗派は、悟りは想像できない長期間の、事実上多くの輪廻の中の、厳しい修行の後でのみ近づきうると教えてきた。釈尊の究極な教えとみなされている法華経は、それとは劇的な対比をなして、仏性は既にすべての生命に存在すると説明している。法華経は絶対的平等性を教え、表面的には悪に支配されているような人の生命の内部にさえ、仏性というまだ磨かれていない宝玉が存在することを強調する。他の誰かがその仏性を与えるわけでもないし、我々が仏性に「値する」かどうかを判断するわけでもない。
 汚れた袋の中に隠された黄金や、泥の池の中から生じる蓮華のように、我々は、まず我々の仏性が存在することを信じ、それからその仏性に目覚め、展開し、「磨か」ねばならない。
 日蓮仏法においては、このことは、法華経の中に含まれる法への信仰、「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えることを通じて、可能となる。
 しかし仏性は、人が独りよがりで安住できる静的な状態ではない。むしろ、仏性は、動的な経験であり、連続的な発展と発見の旅である。
 我々が我々の生命の仏性を連続的に強めていけば、我々は、ますます利己性(貪欲)、怒り、愚かさ、仏教が三毒と名付けるもの、によって支配されなくなる。我々は自分の生命とブッダの悟りを得た生命状態とを融合させれば、我々は我々の内部にある可能性を開発し、根本的な仕方で自分自身を変えることができる。
 仏性という内的状態が強化されるにつれて、我々はまた最も凶暴な嵐さえも克服できることを可能にする不屈の意志を発展させる。もし我々が生命の真の不変の本性を悟れば、我々は人生において我々に襲い掛かる困難という波を喜んで乗り越え、どんな状況からも何らかの価値を生み出すことができる。このようにして、我々の「本当の自分」が開花し、我々自身の内部に、勇気、慈悲、知恵、エネルギー、あるいは生命力が、莫大に内在していることを発見する。我々は自分自身がより積極的になり、深い内的な自由を感じるようになる。そして宇宙との一体感を経験するならば、多くの苦しみをもたらす孤独や疎外は消失する。我々は、我々自身のより小さな、自己中心的な自我、他者との相違への執着を少なくし、その代わりに、すべての生命が相互に結びついていることに気付くようになる。徐々に、我々は、自分の生命が他者の生命に開かれ、彼らの幸福を自分自身の幸福と同じように望むようになる。
 しかしながら、我々全員が、仏教の教えで概説されている下級の生命状態(地獄、餓鬼、畜生、修羅など)を所有していることを信じることは容易であるが、我々が仏性を所有していることを信じることははるかに困難である。しかし我々の生命に内在するこの状態を発展させ、常に強めるよう努力することは、十分に価値のあることである。
 というのは、池田大作SGI会長の言葉に、「仏性とは歓喜の中の歓喜である。生老病死はもはや苦しみではなく、生活の喜びの一部である。知恵の光は宇宙全体を照らし、生命の生まれつきの闇をも照らす。ブッダの生命空間は宇宙と結合し、融合する。自我は宇宙となり、一瞬にして、生命の流れは広がり、すべての過去と未来を包括する。現在のそれぞれの瞬間において、宇宙の永遠の生命力が巨大なエネルギーの泉としてあふれ出てくる。」とある。
 
 
 コメント
 
 ここでは「根本的な真理に目覚めている人は、誰であれ、ブッダと呼ばれうる。」と述べて、「ブッダ」が歴史上の特定の個人を指示する固有名詞ではなく、ある属性をもった人物の集合を指す一般名詞であることを主張している。しかもその属性に関して、通常四諦説を根拠にした「この世の事柄からは、静かに離れている存在」という属性であることを否定し、むしろ「釈尊は深い慈悲心をもった人で、苦行と快楽の両極端を拒否し、常に他者と交わり、自分の発見した真理をすべての人と共有しようとした」という慈悲的行為という属性を強調している。
 この主張は北伝仏教に共通の立場であるが、さらに法華経とその他の仏教宗派との差別化を「しかしながら、多くの仏教宗派は、悟りは想像できない長期間の、事実上多くの輪廻の中の、厳しい修行の後でのみ近づきうると教えてきた。釈尊の究極な教えとみなされている法華経は、それとは劇的な対比をなして、仏性は既にすべての生命に存在すると説明している。」と述べる。しかしこの記述は他の仏教宗派は歴劫修行を主張し、法華経は速疾頓成を主張しているという誤解を与える。法華経の二乗作仏の記述においては、長遠の修行の後で成仏することを保証しているのであって、速疾頓成を主張しているのではない。鳩摩羅什の翻訳には存在しなかった提婆達多品には竜女の即身成仏が記述されており、湛然、最澄、日蓮は即身成仏を主張しているが、法華経の主張の主眼点は、即身成仏ではなく一切皆成であり、修行の長短は全体の論旨には無関係である。
 また「我々が我々の生命の仏性を連続的に強めていけば、我々は、ますます利己性(貪欲)、怒り、愚かさ、仏教が三毒と名付けるもの、によって支配されなくなる。我々は自分の生命とブッダの悟りを得た生命状態とを融合させれば、我々は我々の内部にある可能性を開発し、根本的な仕方で自分自身を変えることができる。」と述べて、SGIの修行が、三毒からの解放を結果的に生じさせるものであることを主張し、何らかの人格向上に資するものであることを述べている。これは日蓮が「波木井三郎殿御返事」で「而るに貴辺は武士の家の仁昼夜殺生の悪人なり、家を捨てずして此所に至つて何なる術を以てか三悪道を脱る可きか、能く能く思案有る可きか、法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり、」と述べていることと微妙にずれていると思われるが、法華経、日蓮が容認した悪人成仏の思想は、造悪無碍の思想に堕落する危険があるが、SGIは造悪無碍の思想を容認しない立場をとることを主張している。
 最後の部分の池田の、自我と宇宙生命との一体感という神秘的思想に関しては、私には体験的に理解できなかったことであることは言っておく必要があるだろう。このような神秘思想を含まなくてもSGIの宗教的アイデンティティは確保されると私は思っているのだが。
 
 
 2-6 Dictionary of Buddhism
 
 true Buddha [本仏] (Jpn hombutsu )
 A Buddha in his true identity, in contrast to his transient or provisional identity. This term is applied in two specific ways:
  (1) To Shakyamuni Buddha as he describes himself in the "Life Span" (sixteenth) chapter of the Lotus Sutra; that is, as having attained Buddhahood in the remote past, countless kalpas ago. In that chapter, Shakyamuni states: "In all the worlds the heavenly and human beings and asuras all believe that the present Shakyamuni Buddha, after leaving the palace of the Shakyas, seated himself in the place of meditation not far from the city of Gayaand there attained supreme perfect enlightenment. But good men, it has been immeasurable, boundless hundreds, thousands, ten thousands, millions of nayutas of kalpas since I in fact attained Buddhahood." With this statement, Shakyamuni redefines his identity as a Buddha who originally attained his enlightenment in the remarkably remote past. From the standpoint of the philosophy of the Lotus Sutra, the Shakyamuni who is thought to have attained enlightenment in the current life under the bodhi tree in India is a "provisional Buddha," or a Buddha in his transient identity. In this provisional identity, Shakyamuni is seen as a temporary manifestation of the true Buddha who employed various temporary, expedient teachings to prepare people to understand his true identity and true teaching and thereby lead them to enlightenment.
 
 From the perspective of the content of the Lotus Sutra, the true Buddha corresponds to the Shakyamuni depicted in the essential teaching (latter half) of the Lotus Sutra, while the Buddha in his transient identity is the Shakyamuni of the theoretical teaching (first half) of the sutra.
  (2) As a reference to Nichiren (1222-1282), applied to him traditionally by those in the lineage of his disciple Nikko. In The Profound Meaning of the Lotus Sutra, T'ient'ai (538-597) refers to the true cause and the true effect as the first two of the ten mystic principles of the essential teaching of the Lotus Sutra based on the revelation of Shakyamuni's original attainment of enlightenment in the remote past. He associates the true cause with the sentence in the "Life Span" chapter, "Originally I practiced the bodhisattva way, and the life that I acquired then has yet to come to an end," and the true effect with the sentence, "Since I attained Buddhahood, an extremely long period of time has passed." In the remote past, Shakyamuni practiced the bodhisattva way (the true cause) and attained Buddhahood (the true effect). Shakyamuni never specifically reveals, however, what teaching he originally practiced, the original cause or seed of his Buddhahood.
 
 Regarding this, Nichiren states: "The doctrine of the sowing of the seed and its maturing and harvesting is the very heart and core of the Lotus Sutra. All the Buddhas of the three existences and the ten directions have invariably attained Buddhahood through the seeds represented by the five characters of Myoho-renge-kyo" (1015). From this perspective, Nichiren is regarded as the teacher of the true cause, and Shakyamuni as the teacher of the true effect. This is because in the Lotus Sutra Shakyamuni revealed his eternal Buddhahood, the effect of his original bodhisattva practice. He did not, however, reveal the true cause or the nature of the specific practice by which he attained it. Nichiren, on the other hand, revealed the teaching and practice of Nam-myoho-renge-kyo, which he identified as the true cause that enables all people to attain Buddhahood. This viewpoint identifies Nichiren as the true Buddha.
 
 Nichiren explains the passage of the Lotus Sutra cited above, "It has been immeasurable, boundless hundreds, thousands, ten thousands, millions of nayutas of kalpas since I in fact attained Buddhahood," in The Record of the Orally Transmitted Teachings. He says, "'I in fact' is explaining that Shakyamuni in fact attained Buddhahood in the inconceivably remote past. The meaning of this chapter, however, is that 'I' represents the living beings of the phenomenal world. 'I' here refers to each and every being in the Ten Worlds. 'In fact' establishes that 'I' is a Buddha eternally endowed with the three bodies. This is what is being called a 'fact.' 'Attained' refers both to the one who attains and to what is attained. 'Attain' means to open or reveal. It is to reveal that the beings of the phenomenal world are Buddhas eternally endowed with the three bodies. 'Buddhahood' means being enlightened to this." Here Nichiren is saying that every being is essentially "a Buddha eternally endowed with the three bodies," a true Buddha. In this sense, "true Buddha" refers to the Buddha nature eternally inherent in the lives of all living beings. In The True Aspect of All Phenomena, Nichiren states, "A common mortal is an entity of the three bodies, and a true Buddha. A Buddha is a function of the three bodies, and a provisional Buddha" (384). See also Buddha of beginningless time; Buddha of limitless joy; true cause.
 
 本仏
 その真の在り方における仏、一時的、仮初めの在り方と対置される。この言葉は二つの特定の仕方で使用される。
 (1)
法華経「寿量品」第十六において記述される釈迦仏に使用される場合。すなわち、はるか昔の、数えることのできないほどの劫において成仏した仏として。この章で、釈尊は次のように述べている。「すべての世界で、天界、人界の衆生、および阿修羅は、皆、現在の釈迦仏は、釈迦族の王宮を去って、ガヤ市から遠くない、座って禅定を行う場所で、最高の完全な悟りを得たと信じている。しかし、善い男たちよ、私が実際に成仏してから、計り知れないほどの、際限のない百、千、万、億、那由多の劫が過ぎている。」(一切世間 天人及 阿修羅 皆謂今釈迦牟尼仏 出釈氏宮 去伽耶城 不遠坐於 道場得 阿耨多羅 三藐三菩提 然善男子 我実成仏已来 無量無辺 百千万億 那由多劫)この言葉により、釈尊は、はるか遠い過去においてもともとの悟りを得た仏としての自分の在り方を再定義している。法華経の哲学という観点から見れば、インドの菩提樹の下で、今生において悟りを得たと思われていた釈尊は、仮初めの仏(迹仏)、一時的な在り方の仏である。この仮初めの在り方においては、釈尊は真の仏(本仏)の一時的な現れとして見られ、本仏は、人々に自分の真の在り方と真の教えを理解させ、それにより人々を悟りに導くよう準備させるために、様々な一時的な、方便の教えを使用したのである。
 法華経の内容の観点からは、本仏は法華経の本門(後半)の教えで記述される釈尊に対応し、迹仏は法華経の迹門(前半)の教えの釈尊である。
 (2)
日蓮に使用した場合、伝統的には日興門流の人々によって、日蓮に使用される。『法華玄義』において、天台は、釈尊がはるか昔にもともと悟りを得ていたということを啓示したことに基づいて、法華経の本門の十妙(十の優れた原理)の最初の二つとして本因、本果に言及している。天台は本因を「寿量品」の次の文、「もともと私は菩薩道を修行した、そしてその時に得た寿命はまだ尽きていない。」(我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽)と結びつけ、本果を「私が成仏して以来、非常に長い時間が過ぎている。」(我成仏已来 甚大久遠)を結びつけている。はるかな昔、釈尊は菩薩道(本因)を修行し、成仏(本果)を得た。しかしながら、釈尊は、どんな教えをもともと修行したのか、かれの成仏の真の原因、種を、特に明らかにしなかった。
 この点に関して、日蓮は「種を植えて、育て、刈り取るという教義は、法華経のまさに中心、核心である。三世十方の諸仏は常に妙法蓮華経の五字によって表現される種を通じて常に成仏したのである。」と述べている。この点から見れば、日蓮は本因の教師として見られ、釈尊は本果の教師として見られる。これゆえに法華経において、釈尊は彼の永遠の仏性を、彼のもともとの菩薩の修行の結果を、示したのである。しかしながら、釈尊は彼が成仏した本因、特殊な修行の本性を示さなかった。それに対して、日蓮は、南無妙法蓮華経の教えと修行を示したのであり、それを日蓮は、すべての人々が成仏できる本因として特定したのである。このような見方により、日蓮が本仏とされる。
 日蓮は上で引用した「私が実際に成仏してから、計り知れないほどの、際限のない百、千、万、億の那由多の劫が過ぎている。」(我実成仏已来 無量無辺 百千万億 那由多劫)という法華経の文を『御義口伝』で説明している。日蓮は次のように述べている。「『我実』は、釈尊が実際には考えることのできないほどのはるか昔に成仏したということを説明している。しかしながら、寿量品の意味は、『我』は現象世界の衆生を表わすということである。『我』は十界のそれぞれの衆生のことを言及している。『実』は、『我』が永遠に三身を与えられた仏であるということを確定している。これが『実』と呼ばれているものである。『成』は成仏する人と悟られるものをともに示している。『成』とは開くこと、示すことである。それは、現象世界の衆生が、永遠に三身を与えられた仏であるということを指している。『仏性』はこのことを悟った人を意味する。」(我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり 然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり 十界己己を指して我と云うなり 実とは無作三身の仏なりと定めたり 此れを実と云うなり 成とは能成所成なり 成は開く義なり 法界無作の三身の仏なりと開きたり 仏とは此れを覚知するを云うなり)
ここで日蓮はすべての衆生が本質的に「永遠に三身を与えられた仏」(無作三身)であることを述べている。この意味で、「本仏」はすべての衆生の生命に永遠に内在している仏性を指す。『諸法実相抄』において、日蓮は「凡夫こそ三身の本体であり、本仏である。仏は三身の機能(用)であり、迹仏である。」(凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり)と述べている。参照、無始の仏、無限の歓喜の仏、本因。

 コメント
 
 ここでは日蓮本仏論に関して、日興門流の伝承であることが述べられているが、その説を信奉しているのかどうかについては、言明しない。またその説明も、日蓮正宗で通常行われる『本因妙抄』『百六箇抄』を引用せず、種熟脱の議論で説明し、日蓮を下種(本因修行)の教主としている。日蓮を本仏とする根拠として「これゆえに法華経において、釈尊は彼の永遠の仏性を、彼のもともとの菩薩の修行の結果を、示したのである。しかしながら、釈尊は彼が成仏した本因、特殊な修行の本性を示さなかった。それに対して、日蓮は、南無妙法蓮華経の教えと修行を示したのであり、それを日蓮は、すべての人々が成仏できる本因として特定したのである。このような見方により、日蓮が本仏とされる。」と記述している。
 しかしこの議論には、日蓮自身は、例えば『法華取要抄』で「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」と述べているように、あくまでも上行菩薩として久遠実成釈尊から伝授された教えであるという立場をとっていることを無視している。たしかに人々に南無妙法蓮華経を教えたのは日蓮ではあるが、日蓮自身は法華経の地涌菩薩の神話を使用して南無妙法蓮華経を教義的に正当化していたのである。この上行所伝という議論を無視してしまえば日蓮教学は法華経との関係をなくしてしまう。つまり日蓮は上行所伝としてではなく、日蓮の己心の悟りとして、南無妙法蓮華経を悟ったのだという立場である。日蓮正宗の解釈は後者であるようだが、日蓮の真蹟遺文の議論にはまったくそのような議論は存在しない。宗教である限りは、日蓮正宗がどのような本仏論を採用しようが、それは信仰の問題として尊重されるべきであるが、日蓮本仏論を日蓮自身が持っていたという議論をするならば、それは学問的に検証する必要がある。少なくとも日蓮正宗が、そのことの立証に成功したとは、多くの歴史学、仏教学の学者には認められていない。
 次にここでは本仏論の議論を展開するにあたって、『御義口伝』の引用によって、「『本仏』はすべての衆生の生命に永遠に内在している仏性を指す。」と述べて、日蓮本仏論ではなく、凡夫本仏論へと議論を展開する。そして「『諸法実相抄』において、日蓮は「凡夫こそ三身の本体であり、本仏である。仏は三身の機能(用)であり、迹仏である。」(凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり)と述べている。」と記述して、日蓮遺文の中で最も明確に凡夫本仏論を主張している『諸法実相抄』を引用して議論を締めくくる。
 『御義口伝』が日蓮の親選とはみなせないことは、私の「漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する」の中で論じているので参照してほしいが、『諸法実相抄』については、池田令道が『諸法実相抄』の最古の写本である日朝写本と現行テキストとの異同を検討し、偽書の可能性が強いことを『興風』第21号で論証し、さらにジッリォ・エマヌエーレ・ダヴィデが日朝写本、ならびに江戸期の2種類の版本を比較検討し、「『実相抄』は集成と時代によって大きく変化し、現在に知られる形勢に至ったということが確認できる」(「『諸法実相抄』の研究」「印度学仏教学研究第61巻第1号」)と述べているように、現行テキストを日蓮自身のものと認めることはできない。私個人は日蓮仏法を日蓮個人の思想に制限する意図は全く持たないから、創価学会、SGIが表現に注意すれば、これらのテキストをなんらかの教義的説明に使用することについてはそれほど問題を感じてはいない。
 しかしながら『諸法実相抄』のこの部分の引用に関して、日蓮正宗の教導下にあった時代の創価学会は、例えば、『日蓮大聖人御書講義』第三〇巻下に「もとより妙法の当体として体の三身を具現されているのは久遠元初自受用身であられる日蓮大聖人であり、ここで仰せの『凡夫』とは別して日蓮大聖人のことである」と注釈をつけているように、総別の二義を使用して、事実上凡夫本仏論を否定して、日蓮本仏論に議論を集約する。御書講義では『御義口伝』の文章を引用して、この解釈を正当化しようとしているが、テキストの成立順序から言えば、『諸法実相抄』の日朝写本が円明日澄の『法華経啓運抄』での『御義口伝』引用よりも100年ほど早いから、後でできたテキストにより古いテキストには書かれていないことを読解するという誤りを犯している。テキストには書いていないことを、テキストの趣旨を曲げて解釈するという方法論は、日蓮正宗独特の文底読み、日寛の依義判文と呼ばれる解釈方法であるが、少なくともこの方法が学問的説得力を持ちえないことは、現在の学問研究者の共通理解であるだろう。SGIが、旧来の創価学会とは異なり、日蓮正宗の説得力のない解釈方法を採用しないという立場には敬意を表したい。

 
 

Gohonzon (2013.10.12追加)

 

"Nichiren's contribution was to establish a clear mirror, the Gohonzon, which perfectly reflects the state of Buddhahood inherent in life, and which could thus enable all people, regardless of their circumstances or ability, to draw out and manifest this Buddha nature. Nichiren's use of script rather than images reflects his commitment that this 'mirror' be universal, free of the connotations of race and gender inherent in depictions of specific personages."

 

For most people, the word "Buddha" conjures up the image of a statue of an Asian male seated in meditation. It may seem contradictory for a religion that is otherwise considered relatively abstract to give such a central place to images of this kind.

 

These images, however, are generally not worshipped by Buddhists in the same sense that the Biblical "heathens" are said to have worshipped their idols. Rather, they are symbolic depictions of the sublime qualities possessed by Buddhas and bodhisattvas to which practitioners aspire. Ideally, they function as a kind of mirror to aid practitioners in perceiving the profound dignity of their own lives and in manifesting that dignity in their actions.

 

For Buddhist practitioners, this is the core challenge, to perceive the life condition of Buddhahood in their own life. In the Buddhism of Nichiren (1222--1282) and the tradition from which it draws, this is called the practice of "observing the mind." The difficulty of achieving this is such that practitioners had traditionally to devote their lives exclusively to meditative practice. Nichiren's contribution was to establish a clear mirror, the Gohonzon, which perfectly reflects the state of Buddhahood inherent in life, and which could thus enable all people, regardless of their circumstances or ability, to draw out and manifest this Buddha nature.

 

The Gohonzon (lit. "object of devotion") is a scroll containing Chinese and Sanskrit script. Nichiren's use of script rather than images reflects his commitment that this "mirror" be universal, free of the connotations of race and gender inherent in depictions of specific personages. On the scroll are arranged the names of figures from the Buddhist canonthat collectively symbolize the various potentialities of life. Down its center is inscribed "Nam-myoho-renge-kyo Nichiren," in bold Chinese characters.

 

Myoho-renge-kyo is the Japanese version of the title of Shakyamuni's Lotus Sutra (Skt Saddharma-pundarika-sutra). For the tradition within which Nichiren is situated, this sutra is regarded as Shakyamuni's most essential teaching. Nichiren regarded Myoho-renge-kyo itself as the fundamental Law or principle of the universe--of life--to which Shakyamuni was enlightened, the "essence" of Buddhahood. He writes, "Shakyamuni's practices and the virtues he consequently attained are all contained in the five characters of Myoho-renge-kyo."

 

Nichiren's name below Nam-myoho-renge-kyo on the Gohonzon expresses his conviction that the state of Buddhahood is not an abstract concept but is manifest in the life and behavior of human beings living in the real world.

 

Nichiren inscribed Gohonzons for his individual followers, and believers today enshrine a printed transcription of the Gohonzon in their homes. The practice of Nichiren Buddhism is to chant Nam-myoho-renge-kyo, facing the Gohonzon, thereby harmonizing your life with--or calling forth from within--the Buddha nature which it reflects. "Nam," meaning devotion, signifies this intent of summoning or harmonizing with.

 

The Buddhist view of life is a profoundly holistic one that sees no essential separation between our lives and the life of the universe. When we draw forth the power of wisdom and compassion through prayer, we are drawing forth and directing the same universal wisdom and creative compassion that manifests in everything from the intelligent bonding of molecules to the symbiotic evolution of species, to the decay and formation of galaxies.Ultimately it is belief in their own potential that enables human beings to develop and to advance in the face of difficulties. The Gohonzon is an embodiment of a belief in the unlimited potential of life. The practice associated with it is an expression and actualization of this belief.

 

As a "mirror," the Gohonzon could be said to perform a dual function. While it reflects and awakens us to the limitless richness and potential of our inner life, it also, in provoking introspection, helps us confront the bare reality of our life at that moment in time.Regardless of our religious beliefs, the success of any effort to guide our life toward fulfillment and value depends largely on an ability to honestly and courageously look within--to both confront the demons of our shadow and to seek out within our own lives those qualities with which we have invested our saints and idols. It seems that now, more than ever, our collective survival depends on our ability to carry this out.

 

 

 

御本尊

 

「日蓮の貢献は明らかな鏡である御本尊、生命に内在する仏の状態を完全に映し、さらに、すべての人々の境遇や能力にかかわりなく、この仏性をすべての人々が引き出し、顕現することを可能にする御本尊を、図顕したことにあった。日蓮が絵像ではなく文字を使用したことは、この「鏡」は、特定の容姿を描くことにつきまとう人種や性別という意味合いを離れた、普遍的なものであるべきだという日蓮の信念を反映している。」

多くの人々にとって、「仏」という言葉は、瞑想しているアジア人の男性の像のイメージを思い出させる。この種の像に中心的役割を与えることは、それがなければ、かなり抽象的とみなされる宗教にとっては矛盾したものとなるだろう。

しかしながらこれらの像は、聖書で「異教徒」が偶像を崇拝していたと言われているのと同じ意味で一般に崇拝されているのではない。むしろ像は、修行者が目指す仏や菩薩によって所有されている崇高な諸性質の象徴的な表現なのである。理想的には、これらの像は、修行者が自分自身の生命の深い尊厳を自覚し、自分の行為においてその尊厳を顕現するのに役立つための一種の鏡の役割を果たしている。

仏教の修行者にとっては、自分の生命にある仏の生命状態を覚知することは核心的な目標である。日蓮仏法や、日蓮仏法が生じた伝統において、このことは「観心」の修行と呼ばれている。この修行を完成することの困難は非常に大きいので、修行者は伝統的にその生活を専ら瞑想的修行に費やさなければならなかった。日蓮の貢献は明らかな鏡である御本尊、生命に内在する仏の状態を完全に映し、さらに、すべての人々の境遇や能力にかかわりなく、この仏性をすべての人々が引き出し、顕現することを可能にする御本尊を、図顕したことにあった。

御本尊、(字義的には「信仰の対象」)は漢字とサンスクリット文字を含んだ掛け軸である。日蓮が絵像ではなく文字を使用したことは、この「鏡」は、特定の容姿を描くことにつきまとう人種や性別という意味合いを離れた、普遍的なものであるべきだという日蓮の信念を反映している。掛け軸には、全体で生命の様々な可能性を象徴する仏教の聖人表から採用された衆生の名前が配列されている。中央の上から下には「南無妙法蓮華経日蓮」が太字の漢字で記入されている。

妙法蓮華経は釈尊の法華経の題名の日本語表記(正しくは漢字表記)である。日蓮が置かれた伝統にとって、この経典は釈尊の最も重要な経典とみなされている。日蓮は、妙法蓮華経を、釈尊が悟った仏性の本質、宇宙と生命の根本的な法、原理とみなした。日蓮は「釈尊の修行と、その結果彼が得た美徳はすべて妙法蓮華経の五字に含まれている。(釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す)」(『観心本尊抄』)と書いている。

御本尊の南無妙法蓮華経の下の日蓮の名前は、仏の状態は抽象的概念ではなく現実の世界に生きている生命の、人間の振る舞いの中に顕現しているという日蓮の確信を表現している。

日蓮は御本尊を個々の信者に書き与え、そして信者たちは現在御本尊の印刷された転写物を家庭に安置している。日蓮仏法の修行は御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱題し、それにより自分の生命と御本尊が映し出す仏性との調和あるいは顕現を実現することである。「南無」は信ずることを意味し、この顕現あるいは調和の意図を表わしている。

仏教の生命観は徹底的に全体的な見方であり、自己の生命と宇宙の生命との間に本質的区別を認めない。われわれが祈りにより、知恵や慈悲の力を引き出すとき、われわれは同じ宇宙的知恵や創造的慈悲を引き出し、導くのである。その知恵と慈悲は分子の理解可能な結合から種の共生的な進化に、さらに、宇宙の崩壊と生成にいたるまですべてのなかに顕れている。究極的には、われわれの潜在的可能性への信念こそ、困難に直面しても、人類が発展し、進んでいくことを可能にするものなのである。御本尊は生命の無限の可能性への信仰を具現化したものである。御本尊と結びついた修行はこの信念の表現であり、実現化である。

「鏡」として御本尊は二つの機能を果たすと言ってよいだろう。御本尊は我々の生命の無限の豊かさと可能性を映し、われわれに気付かせるが、御本尊は、また内省を起こさせることにより、今この時にある生命の生(なま)の現実に直面させる。我々の宗教的信念にかかわらず、われわれの生命を充実と価値へと導くあらゆる努力の成功は、主に、われわれの内面を正直に勇敢に見る能力次第である。われわれの闇にある悪魔を直視し、われわれの生命内部にわれわれが聖人や偶像に帰するような特質を見出す能力次第である。これまで以上に、現在では、われわれ全体の生存はこのことを遂行するわれわれの能力次第である。

 

コメント

 

「日蓮の生涯」の中で伝統的に戒壇本尊と言われるものへの暗示的言及があったので、本尊の項目でどのような説明があるかについて、調べようとして驚いた。ここには戒壇本尊への言及は全くなく、本尊を信仰者の心の中の仏性を映し、顕現する鏡として位置付けている。この議論は創価学会の HPにある「会員サポート」の「信心の基本」の「御本尊は仏の生命」という記述とは矛盾する。その議論の矛盾を明確に指摘したのは、第2次宗門問題の発生後まもなく出版された松戸行雄の『人間主義の「日蓮本仏論を求めて」』

私個人は松戸の基本的な主張には賛同しているが、議論の組み立てに関しては、疑問を持っている。それは、松戸は御書に関するテキストクリティークを放棄しているために、日蓮が本尊に関してどのような見解を持っていたかということを学問的に明らかにしていないからである。私は本尊を鏡と考えることも、仏の当体(=生命)と考えることも日蓮の念頭にあったかどうかについて、疑問に思っている。

試みにSokanetの御書検索で、「鏡」を調べると、「問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」(『観心本尊抄』)とあるように、この文献では二か所に「鏡」が使用されるが、前者の「鏡」は通常の何かを映す鏡の意味で使用され、後者の「鏡」は、判断基準としての経典などを「鏡」に譬えて表現している。日蓮の真蹟御書では、「鏡」は上述の用法に限定される。

成仏の修行に関連して「鏡」を使用するのは、一例をあげると、「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(『一生成仏抄』)などの文章である。

その他に『蓮盛抄』、『当体義抄』、『三世諸仏総勘文教相廃立』、『御義口伝』などで修行との関連で「鏡」が使用されるが、これらの文献はいずれも日蓮親撰であるとは学問的には認められていない。つまり日蓮が鏡の比喩を使用して、曼荼羅本尊、修行を説明したということは確定的には言えないのである。しかも日蓮が本尊として、曼荼羅と久遠実成釈尊の両方を本尊として認めていたということを鏡の比喩では説明されることでもない。蓋然性としては、日蓮逝去後に弟子たちが曼荼羅本尊を説明するために、天台宗で使用されていた鏡の比喩を使用して、これらの御書を作成したと考えるほうがよいと思われる。

ちなみに小林正博の「『御書』の文献学的基礎資料」(1996年『東洋哲学研究所紀要』第12号より、上述のテキストの初出年代を表記すれば、『一生成仏抄』(日朝録外、1500頃)、『蓮盛抄』(三宝寺録外、 1583)、『当体義抄』(日向(または日進?)『金綱集』1314?)、『三世諸仏総勘文教相廃立』(中山日祐『本尊聖教録』1344)、『御義口伝』元亀本1571) とされている。(なお小林論文の後に、興風談所により中山日全の『法華問答正義抄』が復刻され、『金綱集』を日進作としていることにより、日向原本を日進が追記したものと考えられている。)

次に松戸が『実体論の神話』と批判する「本尊=仏の当体(=生命)」という議論を検討してみよう。

松戸の議論に対しては、日蓮正宗からさまざまな批判がされているが、「法義研鑚委員 阿部美道  松戸行雄の誤れる本尊観を破す(下)」において、本尊=象徴論に関しては、「(松戸は)『御本尊は大聖人開顕の人法一箇の体だけでなく、我々凡夫の仏界湧(ママ)現の先取り、我々の本質を映す鏡でもある』(同一五二頁)(と述べている。)すなわち、南無妙法蓮華経は衆生本有の妙理であり、それが日蓮という具体的な人間に現れたのが人法体一の御本尊であるから、大聖人の己心の仏界を顕したのが御本尊だと言っても、大聖人も我々も同じ凡夫だから、結論的には、御本尊は単なる我々の仏界を映し出す鏡・シンボルに過ぎないとの主張である。」と松戸の議論を要約し、この考えに対して、「これは、法体論と成仏論とを混同した、全くの邪論である。法体の南無妙法蓮華経を、単なる理法身(衆生本有の妙理)としかとらえないところから来る迷論である。」と述べて批判する。

そのうえで松戸のような本尊=象徴論に対して「松戸が主張するこのような邪義に対して、かつて日達上人は、次のように破折を加えられている。『我々は、御本尊の明鏡に向うとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、何で成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、勝手に自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人は何のために御本尊を御図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人の御当体として遺(のこ)されたのでありましょうか』(大日蓮三九三号一七頁)」と述べて、本尊が単なる「凡夫理体の仏性」ではなく「御本尊はあくまで大聖人の御当体であり、久遠元初自受用報身・事の一念三千人法一箇の南無妙法蓮華経である」という本尊=仏の当体(=「仏の生命」)という議論を主張する。

日蓮正宗では、松戸の議論が日蓮の本尊論とは違うことを、『曽谷殿御返事』『立正観抄』『総勘文抄』『当体義抄』などを使用して批判する。これらの御書はいずれも日蓮親撰とはまだ学問的には容認されていない御書であり、松戸の議論も、日蓮正宗の議論も、宗教的な(あるいは宗学的)意味はあっても、日蓮思想の解明という学問的観点から見れば無意味な議論でしかない。

ちなみに小林の初出年代考察によれば、『曽谷殿御返事』(日朝録外 1500頃) 、『立正観抄』(日進写本 1330)となっている。細井日達は「もし、勝手に自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人は何のために御本尊を御図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人の御当体として遺(のこ)されたのでありましょうか」と述べているが、曼荼羅本尊を拝むことが、「勝手に自分自身を拝んで成仏するという」ことになるか、それとも「仏の当体」を拝んでいるのかどうかは不明であるが、同時に「大聖人は何のために御本尊を御図顕なさったのか。」ということも日蓮の真蹟遺文を検討すると不明な点も多い。ましてや「戒壇の御本尊を、大聖人の御当体として遺(のこ)されたのでありましょうか」ということは歴史的事実としては怪しげなことである。

また修行、成仏論で重視される「境智」という用語をSokaneで検索すると、この議論とは関係のない文脈で『開目抄』で1か所使用されているほかは、『当体義抄』『立正観抄』『御義口伝』『百六箇抄』『本因妙抄』『曽谷殿御返事』『四条金吾殿御返事』『阿仏房御書』『十八円満抄』という日蓮親選とは学問的には認められていない御書ばかりである。ちなみに初出年代を示せば、『四条金吾殿御返事』 (日朝録外>1500頃)、『阿仏房御書』(平賀本録内目録 1448)、『十八円満抄』(他受用御書 1580)となっている。

ちなみに日興門流で本尊の意義を詳論した最も初期の文献は三位日順の『本門心底抄』であると思われるが、そこには上述の疑問視されている御書類は全く引用されておらず、日蓮本仏論もない。そこでは「伏して惟るに正像稍過き已て末法太だ今に有り、権迹倶に停止して本門宜しく信受すべし、所謂る従地涌出の下方の大士・神力別付の上行応化の日蓮聖人・宣示顕説の妙法蓮華経の五字是れなり。」と述べて、日蓮が上行菩薩であることを主張し、「経題の流布は仏駄の嘱累・所図の本尊は聖人の己証なり、貴賤上下悉く本尊を礼し利鈍男女同じく経題を唱へ、無始の罪障消滅して即身成仏決定するなり。」と曼荼羅が日蓮の己証であることを認めているが、日蓮自身の位置づけは上行菩薩であるから、曼荼羅が本仏の当体という議論は全くない。

次いで「又云はく・仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり、朝には低頭合掌し・夕には端坐思惟し・謹んで末法弘通の大御本尊の功徳を勘ふるに、竪に十界互具現前し・横に三諦相続明白なり、所以は何ん・中央に安し奉る経題は円融の空諦なり所謂森羅の万法を以つて妙法五字に摂す、敢て闕滅せずと雖ども而も其の体を亡泯する故に・是れ仮に円融の空体を証するなり、総体所顕の十界を互具の仮体と号するなり、所以に釈迦多宝・十方分身諸仏の所在は仏界なり、上行無辺行浄行案(安)立行等の四大士は本化の菩薩界なり、普賢文殊弥勒薬王等の諸の薩埵は迹化の菩薩界なり、迦葉阿難身子目蓮等の尊者は緑覚声聞の二乗界なり、梵王帝釈日月星宿魔王四天等は即ち天界なり、転輪聖王阿闍世王等は又人界なり、阿修羅大竜王等は次の如く修羅畜生の二界なり、鬼子母神十羅刹女等は餓鬼界の大将なり、極悪の提婆達多は地獄界の手本なり、唯不動愛染の二尊は十界収納不定なり、天照太神八幡大菩薩等の諸神は現相に就いて鬼神に摂す、加之・竜樹天親天台伝教等は正像二千年の高祖大師なり、遍ねく之れを勧請して載せざることなし此れ則ち善悪凡聖・大小権実皆悉く具足し擣簁和合の本門至極の大漫荼羅の故なればなり。貴いかな・上仏界より下地獄に至るまで一界互に九界を具すれば則百界となる。百界に皆十如有り呼ばはつて百界千如と云ふ、三世間を加ふれば束ねて三千の法門を開す、故に是れを仮に十界互具と号するなり、委細は解釈の如し、止観を披ひて見るべし、但し彼の止観は己心に於いて之れを観する故に理なり迹門なり・今の本尊は紙上に顕はして之れを拝する故に事なり・本門なり。円融の空諦・互具の仮諦・二法宛然として無二無別なるが故に仮りに相続の申請と名るなり、釈に云はく・即仮法を指すに即空・即中・空中二諦にして而も無二なり、又云はく・妙とは言語道断・心行所滅の妙空妙心妙智なり、法とは十界十如・因果不二の法仮、法色、法境なり、蓮華とは当体・譬喩の二義なり、経とは聖教の都名なり、当に知るべし・妙は空・法は仮なる当体を中道実相の蓮華経と証し、十界三諦の顕本を広宣流布の漫荼羅と号するなり。」と述べて、三諦論、十界互具論を使用して曼荼羅の説明をしているが、後の日蓮正宗で強調される「南無妙法蓮華経」と「日蓮」を一体に見て、人法一箇の議論を展開するということも全くない。

この日順の議論では「但し彼の止観は己心に於いて之れを観する故に理なり迹門なり・今の本尊は紙上に顕はして之れを拝する故に事なり・本門なり。」と述べて、天台大師の一念三千の理法を、文字で表現し、礼拝修行の対境としたということが天台宗と日蓮仏法との相違であることを強調している。つまり曼荼羅が本仏日蓮の当体であるという議論ではなく、曼荼羅は十界互具、一念三千という理法を具体化したものであり、「釈迦多宝・十方分身諸仏の所在は仏界なり」と述べて、曼荼羅の中で仏界を示しているのは極一部であると主張しているのである。

また境智冥合という議論について、日順は「然れば則ち貴賤上下・悉く本尊を礼し、利鈍男女同く首題を唱ふれば、是人於仏道決定無有疑の経文実に依怙有り、仏語仰いで信受すべし、亦た所札の本尊を境と定め、能礼の色心を智と為す、境既に智を発し智必ず境を起す、譬へば明鏡と色像との如し・鏡像円融し・凾大と蓋大と凾蓋相応するが如し、故に本尊の明鏡に向つて色心を浮ぶること明了なり凾大の妙境に応じて蓋大の妙智を感じ、境智冥合するを即身成仏と名く、理慧相離するを所迷の衆生と号するなり、復た我等十界互具の当体を移して本尊の十界互具の高貴を顕はすが故に、色心を境と為し、本尊を智と称する一義の筋之れ有るべし、所詮境智不二にして尊題互に顕し、色心融即して横堅(竪)無礙なり、堅く一途を守つて疎かに偏屈すること勿れ、当時利益の本尊経題甚深の事・大(要)斯の如し、願くば門徒の法器を撰して密に面授相伝すべし若し外人他見に及はば還つて誹謗の邪難を加へん、努め努め偏執の族に対して心底を披露すべからざるなり。」と述べて、曼荼羅に唱題して「是人於仏道決定無有疑」という法華経の経文を信じることが大事であり、「堅く一途を守つて疎かに偏屈すること勿れ」と述べて、境智の議論は多義的であり、日蓮の御書とは無関係な付随的な議論であることを暗示している。

 

私が創価学会の中で学んできたことの中で、「御本尊は単なる紙ではなく仏である」ということがあった。教義的には『観心本尊抄』の草木成仏の原理により、非生物も仏となりうることを説明され(ちなみに本尊論を草木成仏の議論と関連させたのは、日蓮の独創であり、智顗や湛然にはそのような議論はないようだ。)、創価学会の HPでも紹介されている「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(『経王殿御返事』真蹟はないが多くの人に日蓮親撰として信頼されていると思われる)により、本仏日蓮の生命が込められたものが曼荼羅本尊だと説明され、さらに日寛の『文底秘沈抄』にある、 「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず。妙楽大師の謂えること有り『仮使発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し、』」により、仏の当体である曼荼羅本尊を正境として縁する=唱題すると功徳も生じるし、最終的には境智冥合により自分の生命の中の仏界も湧現することができると説明され、それなりに納得もしていた。

しかしながら非生物である草木が仏になる(=修行もなしで成仏できる)という神秘思想は全く理解できず、日蓮が魂を込めたから、曼荼羅本尊が仏の当体となるという神秘思想も理解できなかった。この議論は、キリスト教のカトリック派、東方教会派の、ミサに使用するパンと葡萄酒がイエスの肉と血に変化するという実体変化の議論を思い出させる。松戸が専門とするプロテスタント諸派の中には、その見解を否定して、実体変化はなく、象徴的な意味しかないという解釈もある。そのような文化的背景のもとで松戸が象徴論を主張するのはよく理解できるし、私自身も似たような文化的背景を持っている。

私はプラグマティストだから、唱題して、功徳があれば、理論はそれなりに有効であるという立場を採用しているし、唱題行の中でセルフコントロールを行うこともできるようになり、その意味では私にとっては、唱題行は有益な修行となっている。そして唱題行をするときには、いつも曼荼羅本尊を対境にしていたのだが、その曼荼羅本尊もいくつか変わった。私にとっては本尊の変更は、その中に含まれる阿部日顕の曼荼羅本尊も含めて、唱題行とその有益性にとっては何の変化ももたらさなかった。結論として言えることは、日興門流の様式に沿った曼荼羅本尊であれば、唱題行には充分であったということである。私は、他の日蓮宗各派の曼荼羅を唱題行の対境として拝んだことはないので、何とも言えないが、見学で幾つかの日蓮宗の歴史的寺院を参詣して、多分レプリカであると思われるが、日蓮筆の曼荼羅本尊を見たことがある。これと似た曼荼羅が自宅に安置されていても、違和感なく十分唱題行を行なえるだろうという感想を持った。それは曼荼羅の中心にある妙法蓮華経により十界の衆生が照らされているというイメージが同じであるからで、それ以外の要素についてはあまり気にしていないからでもある。私の考えでは、曼荼羅本尊が仏の当体=生命であるかどうかは理解を超えた形而上学的命題であり、それゆえプラグマティックにはどうでもいい議論であり、唯一重要なのは、妙法蓮華経が十界の衆生を照らす=十界互具という思想を曼荼羅本尊が示すということだけである。その意味で私は松戸の本尊=象徴論を支持しているのだが、それと日蓮が曼荼羅にどのような意義を込めていたかどうかという問題とは無関係であると思っている。

振り返ってみれば、私に本尊がシンボルでいいのではないかと示唆したのは、私が大学院生の頃、教学部にいた野崎至亮であった。また第2次宗門問題の時には、学生時代からの友人である本部職員が「成仏するためには本尊が絶対必要だという議論は避けてほしい。海外ではさまざまな事情で本尊を授与されることなく、内得信仰のまま亡くなった SGI会員もいる。熱心に信仰していた人が本尊を授与されなかったというだけで成仏できなかったとは、遺族には言えない。」という話をしていた。本尊が仏の生命で、それに縁しなければ成仏できないという議論が持つ宗教運動上のデメリットを彼に示唆されて、一層本尊をシンボルとみなすようになった。

ちなみに曼荼羅の様式に関しては、私は日蓮の曼荼羅に書かれた禍福の讃文の予言は宗教社会学的には真理とは言えないと思っているし、図顕(滅度)讃文は歴史的事実に反すると思っている。その意味で私は日蓮の主張は誤っていると思っているから、曼荼羅からはその記述を除外すべきだと思っている。また日蓮の曼荼羅は日蓮が中世日本という文化的社会的環境の中で生きてきた宗教的世界を反映しているが、それとは異なった文化的社会的環境に生きている人間は自分たちの宗教的世界を表現する別の様式の曼荼羅を作成すべきだという考えを持っている。戦前の国家神道を強制されて迫害された人々が、その中には牧口常三郎も含まれるが、曼荼羅の中に国家神道のシンボルである天照大神が勧請されていることを積極的に容認するであろうか。

次にHPの細かい議論を見ていくと、「御本尊、(字義的には「信仰の対象」)は漢字とサンスクリット文字を含んだ掛け軸である。日蓮が絵像ではなく文字を使用したことは、この『鏡』は、特定の容姿を描くことにつきまとう人種や性別という意味合いを離れた、普遍的なものであるべきだという日蓮の信念を反映している。」と述べて、本尊=文字曼荼羅に限定して議論を進めているが、これは創価学会、 SGIの本尊思想であり、日蓮個人の本尊思想とも、日蓮正宗の本尊思想とも異なっている。日蓮個人は久遠実成釈尊像をも本尊として容認していたし、日蓮正宗では久遠元初仏としての日蓮御影像をも本尊として容認していた。この記述は日蓮が空海のようにサンスクリットで書かれた文字(種字)曼荼羅や平安時代に作成されていた絵曼荼羅でなく、主に漢字で書かれた文字曼荼羅を作成したことの説明である。

ちなみに三位日順は先に引用した『本門心底抄』で「問ふて云はく・至心に敬礼して本尊を拝見するに皆以て漢字なり、何ぞ不動愛染に限つて新たに西天の梵字を用ふるや、答へて云はく、異説有りと雖も且く一義を述べん、不動愛染の自体梵字に於いて利益有るべし、故に漢字を略して梵字を載す、例せば陀羅尼品の呪の如し、梵音を聞いて益を得べし、故に直に梵語を説いて漢語に飜せず之に准じて知るべし。」と述べて、日蓮の明確な教示はないが、個人的見解としてサンスクリットの文字に呪術的効果があるとみなしている。

次に気になる個所は「仏教の生命観は徹底的に全体的な見方であり、自己の生命と宇宙の生命との間に本質的区別を認めない。われわれが祈りにより、知恵や慈悲の力を引き出すとき、われわれは同じ宇宙的知恵や創造的慈悲を引き出し、導くのである。その知恵と慈悲は分子の理解可能な結合から種の共生的な進化に、さらに、宇宙の崩壊と生成にいたるまですべてのなかに顕れている。」と述べて、宇宙生命を仮定し、そこには慈悲や知恵という善い特質が含まれているという議論である。修行可能な有情(衆生)を正報とし、修行できない無情を依報として、衆生、正報が成仏という悟りの状態にあるときは、依報も同様な状態となるという依正不二による依報の成仏という思想は、インド仏教にも内在し、中国仏教で命名され、日本仏教に継承されたことは確かであろうが、依正不二による依報の成仏という状態は正報の悟りの状態において可能であり、それ以外の状態では成立しないのであり、悟りの状態にない衆生にとっては、宇宙生命に慈悲や知恵という善い特質が含まれているということはわからないのである。分子結合や生物進化、宇宙の生成と崩壊という現象は、自然科学的な研究成果であり、仏教の悟りとは無関係である。自然科学においては、分子結合に知的な意味を含ませることもないし、生物進化に慈悲に関連する共生という議論を絡ませることもない。ドーキンスならこのような記述を、目的論、あるいは知的製作者を前提としたデザイン理論として批判するであろう。悟りの状態にないわれわれには、宇宙生命が知恵と慈悲を含んでいるかはわからないし、さまざまな自然災害を見ると、そこに慈悲があるとは思われない。

次に「究極的には、われわれの潜在的可能性への信念こそ、困難に直面しても、人類が発展し、進んでいくことを可能にするものなのである。御本尊は生命の無限の可能性への信仰を具現化したものである。」という記述があるが、戦後の創価学会も同様な無限の可能性ということを強調するが、これは近代特有の進歩という思想と重なっていると思われる。人類はより良い方向へと変化しているという信念は現在においてもはたして受け入れられているのだろうか。人類の生活向上をもたらす経済発展が、人口増加、資源の枯渇と環境汚染をもたらすという議論はそれなりに主張されているし、経済成長に努力してきた我々の世代が、後代の子孫からはたして尊敬を得ることができるだろうか。はっきりわかっていることは膨大な国債を残し、自分たちの世代の生活向上には狂奔したが、次世代のことについてはほとんど配慮しなかった世代として評価されるだろうということだけである。

現在の子供世代で、親の世代より豊かな生活ができると期待している人々は社会調査では大幅に減少している。つまりアメリカンドリームと通底する「無限の可能性」ということを信じない人々の増加、また生活向上のための経済発展を否定的にみる人々の増加という社会的な意識変化があるとしたら、はたして世界の人々に対してSGIが、「無限の可能性」という牧歌的な、ある意味で無責任なメッセージを発していいのであろうか。

私は日本中世の日有が『化儀抄』で「下種を本とす、その種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終って脱するところを終わりと云ふなり、脱し終れば種にかへるゆえに迹に実体なきなり、妙楽大師、雖脱在現上の如し云々」と述べて、成仏を実体のない議論としていることに賛成するものでもないが、近代の進歩思想の延長で成仏を解釈することにも疑問を感じている。