須田晴夫 「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察(修正版)」へのコメント
須田氏のHPには、「『日蓮本仏論の考察――宮田論文への疑問』(アマゾン、ペーパーバック)2024年3月発刊」とあり、また「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察(修正版)」(以下「宮田論文への疑問」と略称)のファイルが掲載され、また「『日興門流と創価学会』(鳥影社)2018年9月発刊 (「宮田論文への疑問」を付論として収録)」とある。これらが、同一の論文を指示しているのかどうかは不明であるが、とりあえず私の見解に対する批判であるから、私が何らかの対応をする責任はあるだろう。それで「宮田論文への疑問」の検討を進めていたところ、須田氏はまた「『『創価学会教学要綱』の考察――仏教史の視点から』(アマゾン、ペーパーバック)2024年8月発刊 」(以下『『創価学会教学要綱』の考察』と略称)を発表した。
私は「宮田論文への疑問」の
「(4)日蓮本仏論
①日蓮本仏論はカルトの理由となるか
②日蓮自身による日蓮本仏論
③日蓮が末法の教主(本仏)である所以
④日蓮が釈迦仏を宣揚した理由
⑤曼荼羅本尊の相貌に表れる日蓮の真意
⑥天台大師が示す教主交代の思想
⑦仏教の東漸と西還――仏教交代の原理
⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想
⑨真偽未決の御書について
⑩日興門流による日蓮本仏論の継承」
についてのコメントを既に作成していたが、発表は差し控えていたところ、須田氏の『『創価学会教学要綱』の考察』を読むと、「宮田論文への疑問」と重なる部分が多く、しかも日蓮本仏論の位置づけが、両者において、異なっていることに気づいた。それで、単に「宮田論文への疑問」へのコメントを述べるだけでは不十分であり、『『創価学会教学要綱』の考察』の関連する記述も検討する必要が生じた。その箇所は「(1)日蓮は「釈迦仏の使いか」、(2)久遠実成の釈迦仏も迹仏、(4)日蓮が釈迦仏と法華経を宣揚した意味、(5)日蓮による下種仏法の確立、(6)日蓮滅後の日蓮教団――日興門流と他門流の相違、(7)日興門流の日蓮本仏論」である。
とりあえずは、「宮田論文への疑問」の議論に沿って、コメントを付け、さらにそれと関連する『『創価学会教学要綱』の考察』の議論を検討するという叙述様式を採用しよう。須田氏はさまざまな論点に関して、私の見解を批判しているが、話が散漫になることを避けるために、「(4)日蓮本仏論」の議論に絞って、気の付いたことをコメントしておこう。
1 【日寛の日蓮本仏論と異なる独自の本仏論を立てる須田氏】―「①日蓮本仏論はカルトの理由となるか」について
まず「①日蓮本仏論はカルトの理由となるか」において、須田氏は、
日蓮本仏論とは、基本的には釈迦仏を正像時代の本仏とし、日蓮を末法の本仏とする立場であるが、それは決して釈尊を貶めるものではない。万民を等しく救済しようとした釈尊の精神は、経典としては一切衆生の成仏を説いた法華経に体現されていると日蓮は洞察した。そして、その法華経の精神は、中国・日本においては天台大師、伝教大師に継承され、末法においては日蓮がそれを受け継いでいる――。日蓮が「顕仏未来記」で表明した「三国四師」とは、釈尊――天台――伝教――日蓮という系譜にこそ仏教の本流が流れ通っているとの宣言に他ならない。
根源の法を覚知した仏の悟りにおいては釈尊も日蓮も同一であり(おそらくは天台も伝教も)、それぞれの時代や社会状況に応じて説かれた教法の相違があるに過ぎないからである。日蓮仏法が仏教本来の思想を継承していることを世界に向けて明確に強調していくならば、SGIに対してカルトとの批判が生ずることはほとんどないであろう。
と述べている。
この須田氏の日蓮本仏論の定義が、唯一の日蓮本仏論の定義であるならば、私もそれほど大きな異論はない。しかし須田氏は日寛の日蓮本仏論の議論について言及しない。創価学会の日蓮本仏論は日蓮正宗の日蓮本仏論を変形して継承した(日蓮正宗においては日蓮本仏論は日蓮御影本尊論と一体となっていたが、創価学会は日蓮御影本尊論を継承しなかった)が、その日蓮本仏論を理論的に完成したのが、日寛であった。
日寛は『末法相応抄』で、「文底下種の本仏久遠元初の自受用身」=日蓮と、「応仏昇進の自受用」=「今日寿量の教主(久遠実成釈尊)」とを区別し、前者が後者より勝れていることを明言している(注1)。須田氏の議論には日寛の「文底下種の本仏久遠元初の自受用身」という日蓮本仏論が欠落している。私が日蓮本仏論というとき、日寛の議論を想定して述べているのであり、須田氏の日蓮本仏論は、日寛の日蓮本仏論とはかなり違うようだ。須田氏は日寛の日蓮本仏論を否定したうえで、自身の日蓮本仏論を述べているのだろうか。
さて、『『創価学会教学要綱』の考察』では、須田氏は上述のような「宮田論文への疑問」における日蓮本仏論とは異なった議論を展開している。須田氏は「(1)日蓮は「釈迦仏の使いか」の中で、「日興門流は日蓮を上行菩薩とするにとどまらず、日蓮を上行とするのは化導のための方便(外用)であって、日蓮の内証は釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)であるとする」(12頁)と述べて、「釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)」という議論を展開している。どうやら須田氏の本音は日蓮=「釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)」という議論であり、「宮田論文への疑問」での「「日蓮本仏論とは、基本的には釈迦仏を正像時代の本仏とし、日蓮を末法の本仏とする立場であるが、それは決して釈尊を貶めるものではない」という議論は、カルト批判を避けるための方便の議論であったようだ。日蓮=「釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)」という議論は、須田氏はどう考えているのか分からないが、少なくとも釈尊を仏として崇拝している上座部仏教においては、異端の議論として、批判を受けるであろう。
また『『創価学会教学要綱』の考察』の「(2)久遠実成の釈迦仏も迹仏」においても、「日蓮その人を南無妙法蓮華経と一体の根源仏と位置づけることが必然の帰結となる。久遠実成の釈迦仏も衆生の機根に応じて出現した迹仏(応仏)であり、諸仏能生の師である南無妙法蓮華経如来に対しては劣位にあるという勝劣を説くのが日蓮の元意であり、日興門流の根本教義である」(18頁)と述べて、釈尊が日蓮に対して劣位にあることを明言している。
また須田氏は「宮田論文への疑問」では、「あらゆる仏の教えにも正法・像法・末法という時の区分があるということは仏教一般の通規である」と述べているが、上座部仏教の伝統では、「末法」という時代区分は想定されておらず、『法華経』にも時代区分としての「正法・像法・末法」という三時説はないと考えられている。上座部仏教から見れば、「釈迦仏を正像時代の本仏とし、日蓮を末法の本仏とする立場」である日蓮本仏論すらも受け入れがたい異説と見なされ、上座部仏教の影響力の強いタイやミャンマーでは、日蓮本仏論についての説明の工夫が必要となろう。
(注1)『末法相応抄』には、「問う又云く「本尊抄八に云く其の本尊の体たらく本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士には上行等の四菩薩乃至正像に未だ寿量品の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか云云、此の仏像の言は釈迦多宝を作るべしと云う事分明なり」云云、此の義如何、
答う其の本尊の体たらくとは正しく事の一念三千の本尊の体たらくを釈するなり、故に是れ一幅の大曼荼羅即法本尊なり、而も此の法本尊の全体を以て即寿量品の仏と名づけ亦此の仏像と云うなり、寿量品の仏とは即ち是れ文底下種の本仏久遠元初の自受用身なり、既に是れ自受用身の故に亦仏像と云うなり、自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人の故に出現と云うなり、故に山家大師・秘密荘厳論に云く「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形仏」云云、全く此の釈の意なり之を思い見るべし、又仏像の言未だ必ずしも木絵に限らず亦生身を以て仏像と名づくるなり、即ち文句の第九の如し、若し必ず木絵と言わば出現の言恐らくは便ならず、前後の文・本化出現云云、之を思い合わすべし云云」(『六巻抄』173-174)と述べており、『観心本尊抄』の「寿量(品)の仏」とは「文底下種の本仏久遠元初の自受用身」であり、それは「蓮祖聖人」のことであるとしている。
しかも、日寛は同じく『末法相応抄』で、日蓮を「文底下種の本仏久遠元初の自受用身」とし、釈尊を「応仏昇進の自受用」として、「答う久遠元初の自受用身とは本因名字の報身にして色相荘厳の仏身に非ず但名字凡身の当体なり、今日寿量の教主は応仏昇進の自受用身にして久遠元初の自受用に非ず即ち是れ色相荘厳の仏身なり、謂く界内の仏は身皆金色の応仏に非ざる莫し、三蔵は劣応・通教は勝応・別教は他受用亦勝応と名づく・法華迹門は応即法身なり、寿量品に至りて始成の三身を破し久成の三身を顕わす故に通名三身と云う、而も自受用を以て正意と為す故に正在報身と云うなり、既に三蔵の応仏次第に昇進して自受用を顕わす故に応仏昇進の自受用と名づくるなり、故に三位日順の詮要抄に云く「応仏昇進の自受用身とは今日の釈尊・三蔵の教主次第に昇進して寿量品に至りて自受用を成ずる故なり」云云」(『六巻抄』181)と述べて、両者の比較をしている。ここで言及されている「三位日順の詮要抄」とは三位日順の著作とされる『本因妙口決』のことであるが、その元となる『本因妙抄』では「二十四番勝劣」として「彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千・一心三観、これは久遠元初の自受用報身の無作本有の妙法を直ちに唱う」(2226、以下御書の引用は『日蓮大聖人御書全集[新版]』のページ番号のみを記す)と述べて、日蓮本仏と釈尊本仏との勝劣に言及しているのである。
2 【主師親三徳具備と本仏義を混同する須田氏】―「②日蓮自身による日蓮本仏論」について
須田氏は「宮田論文への疑問」で、「むしろ、日蓮の真蹟や直弟子写本がある御書において日蓮本仏義を明確にうかがうことのできる文はいくつも挙げることができる。まず、日蓮が自身を主師親の三徳を具える存在であると宣言している文が真蹟遺文に複数存在する」と述べて、主師親の三徳具備が日蓮本仏義の論拠になると考えているようだ。
そして、『撰時抄』の「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり、而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等が頂を照し給うべき地神いかでか彼等の足を戴き給うべき」を引用する。
しかし、この引用は恣意的な引用であって、その前の部分を含めて、引用すれば、
このこと一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣とならびに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛すとおもいぬべし。法華経をひろむる者は、日本の一切衆生の父母なり。章安大師云わく「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり」等云々。されば、日蓮は、当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、また主君なり。しかるを、上一人より下万民にいたるまであだをなすをば、日月いかでか彼らの頂を照らし給うべき。地神いかでか彼らの足を載せ給うべき。(173)
とある。『撰時抄』では、「仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとする(者)」=「法華経をひろむる者」=「日蓮」という文意は明白である。日蓮は主師親の三徳を具備しているが、その立場は「仏の御使い」であるということが言明されている。したがって主師親の三徳があっても仏であるとか、本仏であるとかの議論は自明のものではない。
次に、「南無日蓮聖人」「大聖人」という呼称を論拠にした日蓮本仏論は、須田氏は出典を明示しないが、日寛の『文底秘沈抄』の、「大聖人とは即仏の別号なり」の議論(注2)を前提としている。
だが、「聖人」との差異を示すために「大聖人」と呼称し、それが「仏の別号」であるという日寛の議論は、「大聖人」で御書検索をすれば、『曾屋入道殿許御書』に「迦葉・阿難等、竜樹・天親等、天台・伝教等の諸大聖人、知ってしかもいまだ弘宣せざるところの肝要の秘法は、法華経の文赫々たり。論釈等に載せざること明々たり」(1406)という用例があり、ここでは「迦葉・阿難等、竜樹・天親等、天台・伝教等」を「大聖人」と呼んでいるが、かれらを仏であるとする文意はない。つまり、日寛の「大聖人=仏の別号」という議論は日蓮自身の「大聖人」という用語の使用意味とは矛盾するのである。
また、「法主」という用語が、仏を指すという議論に関しても、「法主」で検索をすると、須田氏が引用する『滝泉寺申状』以外に、『本因妙抄』に「しかりといえども、仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」(2224)とあるだけで、ここでは「法主」が「教主」と同様な意味で使用されてることが分かるが、『滝泉寺申状』ではどのような意味で使用されているかは分からない。須田氏が指摘する『中阿含経』については、御書検索を掛けても、ヒットしない。したがって「法主」という用語を論拠にして、日蓮本仏論を主張することは論拠薄弱とするしかない。
(注2)文底秘沈抄』には「復次に南無日蓮大聖人とは、 問う他門流の如き一同に皆日蓮大菩薩と号す即ち是れ勅命に由るが故なり、所謂人王九十九代・後光厳院の御宇・大覚僧正祈雨の効験に依り文和元年壬辰(延文三年)六月二十五日大菩薩の綸旨を賜う故なり、何ぞ当門流一日蓮大聖人と称するや、
答う是れ即ち蓮祖の自称亦是れ仏の別号の故なり、撰時抄下云く「南無日蓮聖人と唱えんとすとも南無と計りにてや有らん不便」と云云、又云く「日蓮当世には日本第一の大人なり」云云、既に大人なり聖人なり豈大聖人に非ずや、聖人知三世抄(二十八)に云く「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」等云云、第一と言うは即大の義なり、故に開目抄上(十一)に云く「此れ等の人々に勝れて第一なる故に世尊をば大人と申すなり」云云、聖人の名通ずる故に大を以て之を簡ぶなり。
応に知るべし大聖人とは即仏の別号なり、故に経に云く「慧日大聖尊」と云云、尊即人なり人即尊なり唯我独尊・唯我一人是なり、又開目抄に云く「仏世尊は実語の人なる故に聖人大人と号するなり」等云云、故に知りぬ日蓮大聖人とは即蓮祖の自称にして亦是れ仏の別号なり何ぞ還って大菩薩と称すべけんや、下山抄二十六(五十一)に云く「教主釈尊よりも大事なる日蓮」と云云、佐渡抄十四に云く「斯る日蓮を用ゆるとも悪敷敬わば国亡ぶべし」等云云、之を思い合わすべし」(『六巻抄』90-91)とある。
3 【日蓮が釈尊から結要付嘱によって南無妙法蓮華経を付嘱したことを無視する須田氏】ー「③日蓮が末法の教主(本仏)である所以」について
須田氏は、ここでは南無妙法蓮華経を説いたのは、日蓮であり、釈尊ではないということを論拠にして、日蓮本仏論を主張しようとしている。そのことを須田氏は、
釈迦仏は文上の法華経の教主であっても南無妙法蓮華経を説いてはいないので、南無妙法蓮華経の教主にはならない(さらに言えば、久遠実成の釈迦仏といっても所詮は法華経制作者が創造した観念に過ぎず、いつ、どこに出現したという具体性を持たない架空の存在でしかない。その意味では阿弥陀如来、大日如来、薬師如来などと同列である。「諸法実相抄」で「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり。〈中略〉仏は用の三身にして迹仏なり」〈同一三五八頁〉として釈迦仏をも迹仏であると断じている所以である)。
と述べている。
ここで、須田氏が「さらに言えば、久遠実成の釈迦仏といっても所詮は法華経制作者が創造した観念に過ぎず、いつ、どこに出現したという具体性を持たない架空の存在でしかない」と述べていることは、日蓮自身の歴史認識とは大いに異なる。
ここでの、須田氏の釈尊と日蓮との関係をめぐる議論では「上行所伝」という付属の議論、仏教の歴史の中で、日蓮自身の南無妙法蓮華経の主張の正統化の問題の議論が欠落している。須田氏は後の部分で、「南無妙法蓮華経だけが衆生を救済できる大法であるという日蓮の主張は、文上の法華経を根拠にして(法華経に依存して)初めて成立するものではない。いわば、法華経があろうとなかろうと成立する永遠普遍の真理である」と述べているが、法華経の教説を無視しては、日蓮の主張は論拠を失うのである。
『法華取要抄』には、
問うて云わく、如来の滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえるところの秘法は何物ぞや。
答えて曰わく、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。
問うて曰わく、正像等に何ぞ弘通せざるや。
答えて曰わく、正像にこれを弘通せば、小乗・権大乗・迹門の法門、一時に滅尽すべきなり。
問うて曰わく、仏法を滅尽するの法、何ぞこれを弘通せんや。
答えて曰わく、末法においては大小・権実・顕密共に教のみ有って得道無し。一閻浮提、皆、謗法となり了わんぬ。
逆縁のためには、ただ妙法蓮華経の五字に限るのみ。例せば不軽品のごとし。我が門弟は順縁なり。日本国は逆縁なり。
疑って云わく、何ぞ広・略を捨てて要を取るや。
答えて曰わく、玄奘三蔵は略を捨てて広を好み、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てて略を好み、千巻の大論を百巻と成せり。
日蓮は広・略を捨てて肝要を好む。いわゆる、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。(156)
と述べて、「妙法蓮華経の五字」が「上行菩薩の所伝」であることを明示して、法華経の教説の上で成立することを述べている。
法華経には「妙法蓮華経の五字」が釈尊により上行等の四大菩薩に付属されたという明文はないが、日蓮は結要付属において、「妙法蓮華経の五字」が上行等に付属されたと解釈しているのである。前節で引用した『曾屋入道殿許御書』にも「迦葉・阿難等、竜樹・天親等、天台・伝教等の諸大聖人、知ってしかもいまだ弘宣せざるところの肝要の秘法は、法華経の文赫々たり。論釈等に載せざること明々たり」とあり、「迦葉・阿難等、竜樹・天親等、天台・伝教等の諸大聖人、知って」とあるから、日蓮はこれらの人々が「肝要の秘法」すなわち「妙法蓮華経の五字」を知っていたと考えていた。それではいつ、どこで知ったかと問えば、法華経の虚空会の会座で、結要付属の時に釈尊が虚空会の衆生にも分かるように説いた場所と時間である。しかし、「弘宣」するのは上行等の地涌の菩薩の結要付属を得た人々に限定したと考えていた。つまり、日蓮は、「妙法蓮華経の五字」は結要付属において、釈尊により説かれて、上行に付属されたが、それを弘めることはしなかった、なぜなら、「妙法蓮華経の五字」は末法の逆縁の衆生が成仏するための法であり、その法を弘めるのは上行等の地涌の菩薩であるからだという解釈をしていたからである。
だから、須田氏が主張する「釈迦仏は文上の法華経の教主であっても南無妙法蓮華経を説いてはいない」ということは、日蓮自身の解釈とは異なる。釈尊は、末法の衆生の救済のために「妙法蓮華経の五字」を説いたが、その救済事業を自らが遂行するのではなく、上行等に付属、すなわち全権委任したと日蓮は考えていた。須田氏の上行論は「⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想」で論じられているので、それを検討するときに、詳論しよう。
4 【日蓮正宗の管長の発言を権威あるものとして引用する須田氏】 ―「④日蓮が釈迦仏を宣揚した理由」について
ここでは、須田氏は、
日蓮が南無妙法蓮華経を弘通するためには、その前提として念仏や真言密教などの諸宗を破折していく実践が必要であった。そのための不可欠の前提として法華経の最勝性を強調したのである。法華経を宣揚したのと同様に、日蓮は釈迦仏を宣揚することによって阿弥陀や大日などの諸宗の教主を退けたといえよう。
と述べる。
その趣旨には賛同するが、そのための論証として、大石寺第六十五世日淳の「「けつして聖人の御主意は法華経そのものを御弘通なさるものではない。(中略)聖人が法華経を最第一として此の経を押し立てられたのは、一には諸宗の謗法を破する順序からと、一には此の経がその権威を現はしてこそ初めて末法に上行菩薩と三大秘法とが出現する因縁が明らかになるからである」(『日淳上人全集』八八八頁)という発言を引用していることが気になる。
同様のことは、日蓮の上行所伝の議論を使用して論証可能だと思われるが、なぜ創価学会を破門して、別の教団となった日蓮正宗の管長の言葉を引用する理由があるのか、私には分からない。まさか日蓮正宗との友好的な関係を復活させたいという希望があるとも思われないが、私は別教団になったのだから、創価学会の教義についての説明責任は創価学会にあり、日蓮正宗の議論については吟味が必要だと考えている。
ちなみに『『創価学会教学要綱』の考察』の「(4)日蓮が釈迦仏と法華経を宣揚した意味」では、ほぼ同様の趣旨を述べているが、日淳の引用は削除されている。
5【釈尊本仏義と釈尊本尊論、日蓮本仏義と日蓮本尊論を混同する須田氏】―「⑤曼荼羅本尊の相貌に表れる日蓮の真意」について
須田氏は、ここでは、日蓮が図顕した文字曼荼羅の考察により、日蓮本仏論を主張しようとしている。須田氏は、
日蓮図顕の曼荼羅本尊において常に「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」と大書され(これが欠けた曼荼羅は一例もない)、一方では釈迦・多宝が略される場合があるという事実は、日蓮こそが南無妙法蓮華経と一体の本仏(教主)であることを示しており、それが日蓮の真意であると解すべきである。もしも日蓮が奥底の真意において釈迦本仏義に立っていたならば、曼荼羅の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かずに「南無釈迦牟尼仏」としたためるか、もしくは釈迦・多宝の二仏を並べる形になっているはずであろう。実際には一幅としてそのような形の曼荼羅がないところに日蓮が釈迦本仏義をとっていないことが表れている。
と述べている。
ただ曼荼羅の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と書いてある日蓮の図顕曼荼羅は、建治、弘安期であり、それ以前の文永期の曼荼羅では、「日蓮」と「花押」が中央ではなく、左右に書かれている。つまり、「南無妙法蓮華経」と「日蓮」が一体となっていない、それなりの数の曼荼羅が残っており、両者の一体化は曼荼羅本尊の相貌の説明としては不十分であり、その意味では不適切である。
むしろ重要視すべきことは、曼荼羅中央に、「南無妙法蓮華経」が大書されている理由は、『本尊問答抄』に「問うて云わく、しからば、汝、いかんぞ、釈迦をもって本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。
答う。上に挙ぐるところの経釈を見給え。私の義にはあらず。釈尊と天台とは、法華経を本尊と定め給えり。末代今の日蓮も、仏と天台とのごとく、法華経をもって本尊とするなり。その故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日、総じて十方の諸仏は、法華経より出生し給えり。故に今、能生をもって本尊とするなり」(304)とあるように、「法華経の題目」=南無妙法蓮華経が「能生」であり、釈迦・多宝が所生であるからであり、須田氏が言うような日蓮本仏義や釈尊本仏義とは無関係である。須田氏は釈尊本仏義と釈尊本尊論との差異を無視して、日蓮には究極的には釈尊本尊義がないから、釈尊本仏論もなかったと言いたいようだが、両者は異なった議論であり、後に述べるように、大石寺の教学を再編した日有の日蓮本仏論と日蓮本尊論との差異についても同様のことが言える。
本尊の相貌を初めて明示した『観心本尊抄』では「その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり。
かくのごとき本尊は在世五十余年にこれ無し。八年の間にもただ八品に限る」(136)と述べられており、中央の「妙法蓮華経」には言及されているが、中央下部に「日蓮」を配置することには、なんら言及がない。
曼荼羅の相貌を論拠に日蓮本仏論を主張したのは、堀日亨の『日蓮正宗綱要』であるが、そこでは、
本尊の出現に靈格としてと人格としての兩面がある。即ち法の本尊と人の本尊とである。法の本尊と云ふのは誰の智慧ででも稍考が付く真如とか真理とかの、一層精撰せられた事の一念三千の不思議の境界で、此が妙法の曼荼羅である。其姿を文字に顕はしてある。真中に南無妙法蓮華経日蓮と書いて此が曼荼羅の中心となる。其左右周囲に十界の代表者の佛菩薩から世界を守る神々、妙法を伝へて来た人々までも並べてあるのは、中心となる佛の靈格を示したもので、又中心の光明に照らされて皆々佛に成るべき事を示したものである。
次に人の本尊と云ふのは、法報應の三身が互に融通する上での自受用報身如来である。久遠の智徳を表面として、内面では法身仏とも応身仏とも交渉するのである。其が末法には人格者としての日蓮大聖人と信じ奉って、木像にも繪像にも作りて猶生きて御座する如く敬ひ奉るのである。
此自受用身の人格に妙事の三千の法が具って属る處が人即法の本尊であり、三千の法に自受用身が具はってる處が法即人の本尊である。此互具一体の處を人法一箇とも一体とも云って、吾等の帰依し奉るべき佛樣と仰ぐのである。
或は密に考うれば御曼荼羅の中心の南無妙法蓮華経は法で日蓮判は人であるから、此が人法一体である。斯云へば一重の一体で濟むのに、曼荼羅の前に御影を置く時は二重の一体となる勘定であるけれども、人法を即離するのは理の當然で、又此には一般の佛像を安置せし餘情を引く事にも成り、常識の上から追慕の意にもなる。人間名字の本宗では其れが善いのでは無からうか。併し人情を超越した理智の非常に進んだ非人間には、此信仰の必要は無いと云ふ事にも成らうかと思ふのである。(『日蓮正宗綱要』謄写版 1925年 p17)
とある。
ここの前半で「本尊の出現に靈格としてと人格としての兩面がある。即ち法の本尊と人の本尊とである」と述べているのは、日有以降明確になった「霊格としての」「法の本尊」=「妙法蓮華経の曼荼羅」と、「人格としての」「人の本尊」=「木像にも繪像にも作」られた「人格者としての日蓮大聖人」との二つである。日有の時代には曼荼羅本尊と日蓮御影本尊との両方が本尊として並立しており、両者の関係について人法一体の議論は見られない。後に日寛が大石寺教学を大成するときに、曼荼羅本尊を人即法の本尊とし、日蓮御影本尊を法即人の本尊として規定し、両者を人法一体の議論で統合しようとした(注3)。
創価学会では、日蓮御影を法即人の本尊とするという本尊論は継承されずに、曼荼羅のみが人法一箇の本尊とされた。その論拠がここで、「或は密に考うれば御曼荼羅の中心の南無妙法蓮華経は法で日蓮判は人であるから、此が人法一体である。」と述べられている。
須田氏は日蓮本仏論を論じているが、日蓮本仏論に含まれていた日蓮本尊論=日蓮御影本尊論を全く無視している。それは大石寺門流の日蓮本仏論=日蓮御影本尊論の理解としては不十分である。なお日興門流の曼荼羅書写様式の意義については後に述べる。
(注3)日寛の『観心本尊抄文段』冒頭には「序 夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ」(『日寛上人文段集』443)とあり、本尊には人本尊と法本尊とがあるが、『観心本尊抄』は「人即法の本尊」=曼荼羅本尊について述べた御書であるとしている。
また「問う、本尊の名義は如何。
答う、凡そ本尊の名は、外に通じ、内に通じ、権に通じ、実に通じ、迹に通じ、本に通ず。 故に内外・権実・迹本の諸宗、皆主師親を以て用いて本尊と為す。故に宗祖云く「一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と。故にその家々に主師親を根本と為しこれを尊敬す。故に本尊というなり。故に本尊の名は内外・権実・迹本の諸宗に通ずと雖も、而してその体に於て天地雲泥なり。所謂儒家には三皇・五帝を用いて本尊と為す。倶舎・成実・律宗並びに禅宗は三蔵劣応身の小釈迦を本尊と為す。法相・三論の二宗は通教の勝応身の大釈迦仏を本尊と為す。浄土宗は阿弥陀仏、華厳宗は台上の盧舎那報身、真言宗は大日如来を用いて本尊と為す。若し天台大師は止観の四種三昧の中には弥陀を以て本尊と為し、別時の一念三千の時は南岳所伝の十一面観音を以て本尊と為し、正しく法華三昧の中には但法華経一部を以て本尊と為す。若し伝教大師は迹門戒壇の本尊は四教開会の迹門の教主釈尊なり。根本中堂の本尊は薬師如来なり。但し多くの相伝あり云云。
若し日本国中の諸門流は、或は螺髪応身立像の釈迦、或は天冠他受用報身、或は応仏自受用報身を用いて本尊と為す。此くの如く宗々流々の本尊はその体殊なりと雖も、その名義に於ては格別なるべからず。只これ根本と為してこれを尊敬す。故に本尊と名づくるなり。当流また爾なり。文底深秘の大法・本地難思の境智冥合・久遠元初の自受用報身・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を根本と為してこれを尊敬す。故に本尊と名づくるなり。これ則ち十方三世の諸仏の御本尊、末法下種の主師親なるが故なり。
本尊問答抄に云く「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし乃至上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり乃至普賢経」等云云。此等の文意、主師親を根本と為してこれを尊敬する故に本尊と名づくる意なり。これに人法あり。謂く。人即久遠元初の自受用報身、法即事の一念三千の大曼茶羅なり。人に即してこれ法、事の一念三千の大曼陀羅を主師親と為す。法に即してこれ人、久遠元初の自受用身蓮祖聖人を主師親と為す。人法の名殊なれども、その体恒に一なり。これ即ち末法我等が下種の主師親の三徳なり。(460)然るに日本国中の諸宗諸流、我が主師親を知らず。仍在世熟脱の三徳に執し、他人の主師親を以て我が主師親と為し、還って我が主師親を下す。豈不孝の者に非ずや。哀むべし、悲しむべし云云」(同 458-460)とあり、法即人の本尊を「久遠元初の自受用報身」とし、人即法の本尊を「事の一念三千の大曼茶羅」としている。
また「問う、蓮祖の影像を造立して本尊と崇め奉る、その謂は如何。
答う、初めに道理を明かす。一にはこれ下種の教主なるが故に。謂く「末法は是れ本未有善の衆生なり。故に不軽、大を以て而して之を強毒するの時なり。日蓮は不軽の跡を紹継す」等云云。二には三徳の縁深きが故に。謂く「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし」と云云。三には人法体一なるが故に。伝教云く「一念三千即自受用身」等云云。宗祖云く「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」と云云。妙楽云く「本地の自行は唯円と合す」等云云。
(中略)問う、若し爾らば本因妙の教主釈尊を本尊と為すべし、何ぞ蓮祖を本尊と為すべけんや。答う、本因妙の教主釈尊とはこれ蓮祖聖人の御事なり。故に血脈抄に云く「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」と云云。故に次下の三徳有縁を明かして云く「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし親徳、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり師徳、無間地獄の道をふさぎぬ主徳、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」と云云。豈三徳分明に非ずや。故に本尊と崇め奉るなり」(同 529-531)と述べて、日蓮御影像を法即人の本尊とすることを述べている。
6【教主交代における上行菩薩の存在を無視する須田氏】―「⑥天台大師が示す教主交代の思想」について
須田氏は、ここで、「天台大師によれば、釈迦仏の化導は、本から善根をもっている衆生に対して行うものであり、初めから善根をもっていない衆生に対しては有効性をもたない。そのような衆生に対しては、不軽菩薩のように、より偉大な法を直ちに説いて逆縁によって救済する以外にない。つまり、仏法の化導法には釈迦仏が行った順縁の方式と不軽が行った逆縁の方式の二つがあり、前者が無効になった時代には後者を用いなければならないということである。そのことを教主の視点から言えば、釈迦仏の化導が無効になった時代には不軽に当たる存在が釈迦仏に代わってその時代の教主となるという「教主交代」の原理がそこに示されている」と述べる。
日蓮自身も龍ノ口の法難以後は、自身を不軽菩薩になぞらえるようになり、本未有善の衆生に対する逆縁教化を強調し、須田氏は不軽菩薩論を論拠に「教主交代」論を述べ、その論拠として、『曾屋入道殿許御書』と『顕仏未来記』を引用する。その点については、それほど異論がないが、問題は不軽菩薩が法華経においては釈尊の因位の姿であることは言及されているが、末法の弘通を付属されていないということである。だから教主の交代を言う場合には、上行菩薩論を介在させなければならないのだが、須田氏は上行論を「⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想」で展開しているので、このことはそこで論じよう。
7「⑦仏教の東漸と西還――仏教交代の原理」について
須田氏は、ここでは『顕仏未来記』『諌暁八幡抄』を使用して、釈尊の仏教がインド、中国、日本に伝播して、末法時代に、日本からインドに弘まっていくという日蓮の構想に言及し、「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」という文を取り上げ、仏=釈尊、聖人=日蓮であるとして、日蓮本仏論が示されているとする。須田氏の日蓮本仏論と日寛の日蓮本仏論との差異を論じなけば、それほど問題のある箇所ではない。
8【釈尊は本仏であっても本尊ではないことを知らない須田氏】―「⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想」について
さてここで、須田氏は、法華経での上行菩薩の説明をした後で、「事実の上で日蓮以外に妙法を弘通した存在はいないのであるから、日蓮が上行菩薩の再誕に当たるとの認識は広く日蓮在世の門下にもあったと考えられる」と述べているが、京都布教に成功し、後醍醐天皇の綸旨を得て、朝廷の勅願寺となった日像の四条門流では、天台宗との抗争を避けるために、日蓮=上行説を封印したことは、三位日順の『摧邪立正抄』に明記されるところであり、また五老僧が申状で「天台沙門」と書いたことを、日興が厳しく批判したことは、『富士一跡門徒存知事』や三位日順の『五人所破抄』に明示されていることである。ただ今日においては須田氏が述べているように、「日蓮宗各派は日蓮が上行菩薩に当たるとする認識ではほぼ一致している」のである。
そのうえで須田氏は、「問題は、日蓮宗各派が「日蓮=上行」との認識は持っているが、上行が釈迦仏から末法弘通の権限を与えられた、いわば「如来の使い」であるから、やはり仏教全体の教主(本仏)は釈迦仏で、上行は釈迦仏より下位に当たる菩薩に過ぎないとしていることである」と述べているが、私は問題は須田氏が言うような釈尊本仏論にあるのではなく、末法における救済理論としての釈尊本尊論の可不可にあり、釈尊が上で、上行が下であるという本仏論の議論ではない。
日蓮宗各派は上行付属論は承知しているが、その上行である日蓮が、『本尊問答抄』で、本尊を釈尊ではなく、能生の「妙法蓮華経」の五字にしたことを無視し、正像時代と同様に、釈尊を本尊としている。須田氏は釈尊本尊論の否定が釈尊本仏論の否定であると誤解しているようであるが、両者は区別されなければならない。釈尊は本仏であっても、末法においては本尊とはなりえない。しかもその末法の衆生救済の責務は、釈尊により上行等に付属、権限移譲されたのであるから、末法における本仏釈尊の直接的な救済活動は、日蓮の御書には想定されていない。末法の衆生の救済者は本仏釈尊ではなく、付属を受けた上行であり、その意味で、末法の教主が日蓮であると言える。だから須田氏の正像時代の教主が釈尊であり、末法時代の教主は日蓮であるという教主交代論は日蓮の御書で説かれているが、そのことと日蓮=上行が外用であり、内証では日蓮=久遠元初自受用報身であるという日寛の日蓮本仏論とは関係がない。
だから、須田氏が以下で展開している、三十二相論や、古仏論は不必要な議論である。天台大師智顗の『法華文句』の「地涌の菩薩を指して『皆是れ古仏なり』」についての須田氏のコメントは、『法華文句』の始めの部分で説かれた「四節三益」(注4)の議論を無視している。そこでは、地涌の菩薩については、「復た次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等、是れなり」と述べている。五百塵点劫の久遠実成において釈尊に下種され、それ以後の過去において熟益を受け、五百塵点劫の久遠に比べれば、近世というそれほど遠くはない過去において脱益を得て成仏した者として、地涌の菩薩を説明している。したがって地涌の菩薩は古仏ではあっても、久遠実成の釈尊に下種されたことを智顗は認めている。
(注4)智顗の『法華文句』の始めの部分で、釈尊によって「種熟脱」の三益を得る衆生を四種類に分類しているが、それを「四節三益」と言う。そこでは、「且らく三段に約して、因縁の相を示す。①衆生は久遠に、仏の善巧に仏道の因縁を種えしむるを蒙り、中間に相い値いて、更に異なる方便を以て、第一義を助顕して之れを成熟し、今日、花を雨らし地を動ぜしめ、如来の滅度を以て、之れを滅度す。②復た次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等、是れなり。③復た次に中間を種と為し、四味を熟と為し、王城を脱と為す。今、開示悟入する者、是れなり。④復た次に今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す。未来に得度する者、是れなり」とある。地涌の菩薩については、「②復た次に久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す。地涌等、是れなり」(大正蔵三四、二下一~五)と述べている。
9【仏教文献学の学問的成果を無視する須田氏】―「⑨真偽未決の御書について」について
須田氏は真偽未決の御書を使用して、日蓮の思想を検討することを容認しているようだが、そのことにより日蓮思想についての多様な見解が生じており、議論が全く嚙み合わないという弊害も大きい。特に偽撰が濃厚な相伝書を論拠にして日蓮本仏論を主張した日蓮正宗は、御書についての文献学的研究の成果を全く無視し、在家団体としての創価学会は、少なくとも教義的な事項に関して、日蓮正宗に異議申し立てをすることもできなかった。私は学問的研究に宗派性を持ち込むべきではないと考え、学問的研究を共通の土俵として、日蓮思想を構築できないかと考えており、少なくとも本尊論に関しては、学問的研究を踏まえて、日蓮宗や日蓮正宗の本尊論を批判することは可能だという見通しを持っている。そこに日蓮正宗の古い日蓮本仏論を持ち込む必要はない。御書の真偽問題に関しては容易に決着がつく問題ではなく、古文書の新たな発見により、従来の定説が否定されることは、学問上ではよくある出来事であるが、少なくとも現在の学問的研究に関してリスペクトすることは、多様な学問分野の研究者である信仰者をも包摂している創価学会にとっては必要な態度だと思われる。
日蓮思想研究は、中世の宗教者日蓮の思想研究という側面と、日蓮から派生した信仰の歴史的継承の研究という側面もある。後者においては、偽撰が濃厚な御書が大きな影響力を持つということもあり、偽撰御書であるからといって捨てる必要はない。なぜ多くの信仰者が偽撰御書を信奉するのかということも学問的な宗教研究の一つとなっている。須田氏も法華経の成立について、学問的研究をある程度受け入れて、日蓮とは異なった思想を持っているようだが、その差異を自覚したうえで、日蓮仏法をどのように受容するのかということについて、それなりに努力された成果が、私の日蓮本仏論批判への論文発表となったと思われるが、まだわれわれの間でコミュニケーションが可能であれば、有意義な意見交換となることを期待したい。須田氏が引用する個々の御書の文献学的批判は、必要であれば、その時に行いたい。
10【後期日興門流において日蓮本仏論が生じる理由を知らない須田氏】―「⑩日興門流による日蓮本仏論の継承」について
須田氏はここで、日興が日蓮御影に供養を奉げ、その消息に日蓮をいろいろな敬称で呼んでいることから、日蓮本仏論があったという議論をしている。そして、「また重大なことは、日興の文書において供養の品を釈迦仏に供えたという記述が一切存在しないということである。この事実は、日興が自身の信仰において日蓮本仏義に立ち、釈迦本仏義を退けていたことを示すものとして理解できよう」と述べている。
日興が釈迦仏に供養を供えたという記述が一切ないのは、日興が釈迦仏を本尊として造立しなかったからであり、釈迦本仏義と釈迦本尊義を須田氏は混同している。日興が釈迦を本尊としなかったのは『本尊問答抄』により能生の「妙法蓮華経の五字」を本尊としたからであり、釈迦を本尊としなかったから、日蓮本仏義を持っていたとは短絡的に結論できない。より重要なのは日蓮本仏論を明確にした日有にとって、日蓮御影を本尊とすること(注5)が、日蓮本仏論にとって重要なことであったが、須田氏も認めるように、日興は日蓮御影を本尊とはしなかった。だから、日蓮御影本尊論を含む日有の日蓮本仏論は、明確に日興の本尊論に反している。しかし、須田氏は日蓮御影本尊論に関しては、一貫して無視している。それは日蓮御影本尊論を認めてしまえば、それを含む日蓮本仏論が、日興門流の正統な教義だとする須田氏の議論が崩壊するからである。
次に、須田氏は日興門流と他門流との本尊作成様式が異なっていることを論拠に、
このように、文字曼荼羅の書き方において日興門流と他門流では大きな相違がある。それは、日蓮の位置づけが日興と日昭・日朗ら五老僧の間では大きく異なっていたことを意味している。日昭・日朗らは日蓮を南無妙法蓮華経と一体の本仏と捉えられず、自身と同列の存在と位置づけていたのに対し、日興は自身を日蓮の弟子と位置づけ、日蓮を南無妙法蓮華経と一体不二の末法の本仏と捉えていたと解することができよう。日興が堅持した文字曼荼羅書写の形式は、日興が日蓮本仏義に立っていたことを強く類推せしめる。
と述べている。
だが、本尊作成様式の相違を説明するのに日蓮本仏論が必要なのだろうか。本尊図顕について日蓮は文永の役の直後の文永11年(1274年)12月に図顕した通称万年救護本尊の図顕讃文において「大覚世尊御入滅後、二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も、月漢日三箇国の間、未だ此の大本尊有さず、或は知って之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父、仏智を以て之を隠し留め、末代の為に之を残し玉う、後の五百歳の時、上行菩薩世に出現して、始めて之を弘宣す」と述べている。ここでは「後の五百歳の時、上行菩薩世に出現して、始めて之を弘宣す」と明確に述べている。ここで日蓮自身を「上行菩薩」とし、その上行菩薩が曼荼羅本尊を「弘宣」するとしているのである。この通称万年救護本尊は個人に与えられた本尊ではないが、日興、日目、日郷と継承され、現在保田妙本寺にある。日興は曼荼羅本尊を図顕する資格があるのは上行菩薩である日蓮だけだと受け取ったと思われる。上行菩薩ではない日興が曼荼羅本尊を作成するには、上行菩薩が図顕した曼荼羅を書写する以外になかった。だから、日興の書写した初期の曼荼羅には、その手本となった日蓮の図顕曼荼羅が容易に推測できるものがある。各門流における曼荼羅作成様式の相違を説明するのに、日蓮本仏論を持ち出す必要性はない。
須田氏が認めるように、「日興の著作や消息に日蓮本仏論を明示しているものはない。」日興の著作の中で、他門流との相違を明確に示すものとして『三時弘経次第』がある。そこには、
一仏法流布の次第
一正法千年流布 小乗 権大乗
一像法千年流布 法華 迹門
一末法万年流布 法華 本門
今ま末法に入つて本門を立てゝ国土を治む可き次第。
桓武天皇と伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てゝ像法を利益し国土を護持する事之を図す。
迹門の寺 付属の弟子は 薬王菩薩 伝教大師。
比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。
今ま日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てゝ末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。
冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代 (『富要』1-49,50)
とある。
ここには正像末の三時で弘教される教法の相違を述べ、迹門の仏は「始成の釈迦仏」であり、付属の弟子は「薬王菩薩」=伝教であり、その寺院は比叡山であり、本門の仏は、「久成の釈迦仏」であり、付属の弟子は「上行菩薩」=日蓮聖人であり、その寺院は富士山に建立されるべきことを明示している。ここには日蓮本仏論の片鱗も伺うことができない。
須田氏は、三位日順の『表白』の「我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し」という文からここで「本仏」としているのは、日蓮だと解釈しているが、『三時弘経次第』によれば、富士山には「久成の釈迦仏」がいることになっており、『表白』の「本仏」も「久成の釈迦仏」と解釈するほうが、日興の思想に適合すると思われる。
須田氏は、またこの「本仏」を解釈するのに、日順の『五人所破抄』の富士山の記述を参照して日蓮本仏論を主張するが、やはり『三時弘経次第』の富士山と「久成の釈迦仏」との関係を否定する材料にはならない。
また須田氏は、日順の『用心抄』を取り上げ、「何れの人法を敬信して現当の二世を祈らんや、答へて云はく、経に云はく、一大事因縁、又云はく世を挙つて信ぜざる所文、然りと雖ども試に一端を示して信謗の結縁とせん、人は上行・後身の日蓮聖人なり、法は寿量品の肝心たる五字の題目なり」を引用して、「信の対象とは本尊の意味であるから、この文は日蓮を人本尊とする日蓮本仏義を示すものといえよう」と述べているが、日順が「日蓮を人本尊とする」という日蓮御影本尊論を採用したということを述べようとしているのだろうか。それでも、ここで「人は上行・後身の日蓮聖人なり」という文を無視して、日蓮本仏論を主張するのは無理があると思われる。
また、日順の『誓文』に「本尊総体の日蓮聖人」とあるから、「日蓮と曼荼羅本尊が一体不二であることを示すもので、日蓮本仏義を明示するものとなっている」と述べているが、「日蓮と曼荼羅本尊が一体不二であること」を認めたとしても、その場合の日蓮の仏教上の位置づけは、「上行菩薩」なのか、「本仏」なのか、何か明示した文があるのだろうか。日蓮が「上行菩薩」であるということは、日順の諸著作に見られるが、日蓮が本仏であるということは偽撰が濃厚な『本因妙口決』にしかない。
須田氏は、「三位日順に日蓮本仏論がないという宮田氏の見解は、「本因妙口決」を除いて、日順撰述が確定している文献だけを見る限りでも否定されるのではなかろうか」と述べているが、私は日蓮=上行説を明示した日順の著作はあるが、日蓮=本仏説を明示した著作はないと考えている。
次に、日眼の『五人所破抄見聞』であるが、現在では池田令道の「西山本門寺八世日眼に関する考察――新出史料「法華本門弘通得意」をめぐって」(『興風』第20号)によって、大石寺9世日有とほぼ同時代の元日尊門徒の学匠西山本門寺8世日眼であることが示されている。南条時光の子息妙蓮寺日眼の著作という説は、今では成立しない。だから日興の時代に日蓮本仏論があったと推論できる論拠はない。
須田氏は、
仮に日有が富士門流の根本教義を従来の釈迦本仏義から日蓮本仏義に切り替えたというのであれば、日有が何故にそれほどの大転換に踏み切ったのか、合理的な説明がなければならない。しかし、宮田氏においてはこの点の説明は一切存在しない。常識的に考えるならば、日蓮・日興以来、継承されてきた釈迦本仏という根本教義を日有が突然否定して、それまで誰も主張したことのない日蓮本仏義を新たに唱えるに至ったとすることは余りにも不自然であり、ほとんどあり得ない事態であろう。やはり、日蓮本仏論は日蓮・日興という日蓮仏法の源流において既に存在していたのであり、それを日興以後の貫首として初めて明確に表明したのが日有であったと考えるのが妥当であろう。
と述べている。
私は大石寺6世日時の時代に、日郷門徒との大石寺東坊地をめぐる争いに決着がつき、大石寺東坊地の日目の住坊蓮蔵坊にあった日蓮御影像が、日郷系の小泉久遠寺に移され、日時が改めて大石寺門徒の総力を挙げて、日蓮御影像を造立し、大石寺の寺塔を整備したころから、まず日蓮御影を本尊として信仰する傾向がより強く出現したと考えている。
次いで同時代の日舜により『報恩抄』の写本が作成されたことが大きいと考えている。『報恩抄』の一般の写本では「一には、日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし」(261)とあるが、日舜写本には「一には、日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の脇士となるべし」とあり、「四菩薩」が欠如し、この写本では「宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏」が「上行等の脇士となるべし」と読めるようになる。
日有の『連陽房雑雑聞書』には、
一、当宗御門徒の即身成仏は十界互具の御本尊は当躰なり、其の故は上行等の四菩薩の脇士に釈迦多宝成りたまふ所の当体大切なる御事なり(報恩抄)、他門徒の得意には釈迦多宝の脇士に上行等の四菩薩成りたまふと得意て即身成仏の実義を得はづしたまふなり、去れば日蓮聖人御筆に曰はく一閻浮提の内・未曽有の大漫荼羅なりと云へり、又云はく後五百歳に始たる観心本尊とも御遊ばすなり、上行菩薩等の四菩薩の躰は中間の五字なり、此の五字の脇士に釈迦多宝と遊ばしたる当躰を知らずして上行等の四菩薩を釈迦多宝の脇士と沙汰するは、中間の妙法蓮華経の当躰を上行菩薩と知らざるこそ、軈て我が即身成仏を知らざる重で候へばと御伝へ之れ有りと云云。(『富要』140)
と『報恩抄』日舜写本を使用した議論がある。
つまり、大石寺では上行等の四菩薩の脇士に釈迦多宝がなると解釈しているのに対して、他門流は上行等の四菩薩が釈迦多宝の脇士になると解釈しているが、これが重要な誤りである。上行等の四菩薩の本体は曼荼羅中央の「妙法蓮華経」の五字であることを他門流は理解していないと、日有は批判しているのである。「上行等の四菩薩」=曼荼羅の中央の「妙法蓮華経の五字」が「左右の釈迦多宝」より勝れているという構図が示されている。上行が釈迦多宝より上位にあるとしていることは明白である。
しかも、日時によって大石寺の中心の崇拝の対象として日蓮御影が作成されていれば、上行=日蓮本仏論が形成さるのは自然のことであろう。
現在では日道ではなく日時の著作であることが示された『三師御伝土代』の「日興上人御伝草案」には、
一、天台沙門ト仰せらる申状ハ大謗法ノ事
地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗ハ者智顗禅師の所立迹門行者ノ所判なり、既ニ上行菩薩の血脈を汚す、争カ下方大士ノ相承と云はん、本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり、迹門の教主を尋れば大通以来三千塵点始成の迹仏なり、教ハ是レ法華経の前十四品迹門也、弘通の時を云へば像法の御使いなり、付嘱を云へば四巻法師品にして迹門の付嘱を稟ケ給フ、因薬王菩薩告八万大士乃至薬王在々処々(法師品第十)ト云云、勧持品にして本門弘経を申シ給フと云へども、涌出品にして止善男子と止められ給ふ、上行菩薩をめしいだされ候、その機を論ずれば此ノ菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。
日蓮聖人云ク本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧祇劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍成数の本仏なり。
法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり何ぞ日蓮聖人の弟子となつて拙くも天台の沙門と号せんや。
文句ニ云ク迹門ハ二乗鈍恨の菩薩を以て怨嫉となし本門ハ菩薩の中ノ近成を楽う者を以て怨嫉とす、御書ニ云ク本迹ノ教主を論すれば猿と帝釈とのごとし、迹は池中の月本は天月なり、其機を論スれば畜生に同し、又云ク逆臣が旗をば官兵指スことなし、干食の祭には火を禁ずるぞかし、小善還ッて大悪トなり親の讎還ッて怨敵となる、薬変じて毒となる云云。
しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は、天台と云フ寺字を禁ずべきものなり、本門迹門ノ付嘱すでに異なり、下方他方弘通何ゾを同ジカランや、すでに、号する全く地涌千界の眷属にあらず。(『富要』5-10,11)
とある。
つまり、日時の時代までは、「本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧祇劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍成数の本仏なり」とあるように、釈尊本仏論を採用しており、日蓮の仏教的位置づけは「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子なり」とあるように上行菩薩である。しかも、弘通の法は「法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経」であり、弘通については日蓮は「後五百歳中末法一万年導師」である。末法の衆生を実際に救済する導師は、本門教主の久遠実成無作三身の本仏釈尊ではないことも示されている。本仏釈尊は本尊でもなければ、末法の導師でもない。事実上の救済活動、布教活動においては、出番がないのである。それに対して日蓮は末法の導師であり、日蓮御影は大石寺の中心的崇拝の対象となっている。しかも『報恩抄』日舜写本の奥書には「民部阿闍梨日影に之を授与す。応永九年(1402)卯月十一日 日時花押」とあり、日時から大石寺8世日影に相伝されている。日影が相伝した『報恩抄』日舜写本を次の日有に相伝したことは明らかである。
また、日有は『化儀抄』において「一(79)、日蓮聖人の御書を披見申す事、他門徒などの御書も書写しこい取りつゝなどして見るべからず本寺の免許を蒙るべし、其の故は当宗は信の上の智解なるが故なり云云」(『富要』1-72)と述べている。他門流の使用する御書を書写することは本寺である大石寺の住持日有の許可が必要であるとしている。だから日舜写本以外の『報恩抄』を学ぶことは大石寺門徒にとってはかなり困難であったと思われる。
この日舜写本の『報恩抄』を大石寺門徒が重視していたことは、左京日教の『類聚翰集私』に、
報恩抄に云はく天台伝教の弘通したまはざる正法有りや、答へて云はく有り、求めて云はく其の形貌如何、答へて云はく所謂三つ有り一には本門の教主釈尊、所謂宝塔の中の釈迦多宝已下の諸仏菩薩は上行等の四菩薩の脇士となるべし、二には本門の戒壇・三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱ふべし此の事未だ弘まらず云云(中略)此の三箇の秘法を爾前四十余年・迹門十四品・本門に至り広開近顕遠まで秘すと云云、文底の大事とは是れなり、然るに報恩抄の事は釈迦多宝を上行等の四菩薩の脇士とあそばすを日向日頂御書を片仮名又は漢字に書きなすより御文言をも書き失へり当宗に闇かりけるか、三箇の法門を悪く取てして宝塔の中の釈迦多宝上行等の菩薩を脇士とすべしと書けり、ノとヲとの仮名一つの違ひ致し御書かなまじりなるを片かなにす私語を備へたり、他門徒の御書には在世の釈迦を本尊とすると思ひて書きなせるか。(『富要』2-313)
と述べて、日舜写本には「宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の脇士となるべし」とあるのを、左京日教は「宝塔の中の釈迦多宝已下の諸仏菩薩は上行等の四菩薩の脇士となるべし」と表現し、日向日頂の書き直した『報恩抄』では「宝塔の中の釈迦多宝(は)上行等の菩薩を脇士とすべし」とあり、それは「在世の釈迦を本尊とする」という誤解から、書き直したのであると批判している。
須田氏は日有の「「我カ申ス事私ニアラス、上代ノ事ヲ違セ申サズ候」という言葉を論拠にして、日有が日興以来の上代思想を忠実に継承しているとするが、日蓮御影像を本尊とする本尊思想の転換はとても忠実な継承とは言えないだろう。
上で述べたように、須田氏の行論には、(1)日寛の日蓮本仏論と異なる独自の本仏論を立てていること、(2)主師親三徳具備と本仏義を混同していること、(3)日蓮が釈尊から結要付嘱によって南無妙法蓮華経を付嘱したことを無視していること、(4)日蓮正宗の管長の発言を権威あるものとして引用していること、(5)釈尊本仏義と釈尊本尊論、日蓮本仏義と日蓮本尊論を混同していること、(6)教主交代における上行菩薩の存在を無視していること、(7)釈尊は本仏であっても本尊ではないことを知らないこと、(8)仏教文献学の学問的成果を無視していること、(9)日有以降の後期日興門流において日蓮本仏論が生じる理由を知らないことなど多くの問題点があることを指摘してきた。これでは、世界宗教を目指す創価学会の教学を担うことができるか、はなはだ疑問である。むしろ、創価学会の世界広布の足を引っ張ろうとしているだけではないかというのが正直な感想である。
(注5) 堀日亨は『有師化儀抄註解』で「日蓮大聖人を本尊とする事・当家独頭の大義にして・興目嫡流の相承茲に存して誤らずといへども・他の日蓮諸宗に於いては大に惑ふ所なり、之を以つて諸宗に宗祖の影像を安置する事あるも・唯日蓮一家の高祖として之を視るに過ぎずして・本尊本仏に以て之を尊敬せず、」(『富要』1-85)と述べて、日蓮を本尊とするということは、日蓮御影を本仏の具体的形象化として信仰することであり、教義的には人本尊として扱うということだと解釈している。そして日蓮御影信仰は日蓮宗各派においてあるが、日蓮御影を本仏として信仰するのは日蓮正宗だけであることを強調している。ただし、この日蓮本尊論は『本尊問答抄』『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』『御伝土代』の曼荼羅のみを本尊と認める記述とは整合しない思想である。
日寛は『観心本尊抄文段』において、『本尊問答抄』『富士一跡門徒存知事』を引用して釈尊像を本尊としないことを述べた後で、「問う、蓮祖の影像を造立して本尊として崇め奉る、その謂は如何」(『文段集』529、『宗全』4-217)という問題を立て、それに対する答えとして、日蓮が下種の教主(本仏)であること、主師親の三徳を持つこと、人法体一であることを挙げる。
この人法体一、人法一箇の議論はどのような文脈で使用されるか検討してみよう。日寛は、「問う、本尊問答抄の意は、但『法華経の題目を以て本尊とすべし』と云々。何ぞ蓮祖の形像を以てまた本尊と為すや。 答う、『法華経の題目』とは蓮祖聖人の御事なり。蓮祖聖人は即ちこれ法華経の題目なり。諸法実相抄に云く『釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ』等云々。具には予が末法相応抄の如し云々」(『文段集』532、『宗全』4-220)と述べて、『本尊問答抄』における「法華経の題目」とは「本仏日蓮」を指すのであり、それは『諸法実相抄』(真蹟、上代古写本なし)で「妙法蓮華経」を「本仏」と規定していることに根拠を持つ、つまり法と人(仏)とはその体(本質)は同一であるという人法一箇論によるのだと説明している。
この人法一箇論は『本尊問答抄』における仏像ではなく曼荼羅を本尊とすべきだという議論を無効にして、久遠元初仏の具体的形象化である日蓮御影を本尊とすることの理由として使用されているのである。
なお、不思議なことには、釈尊像造立を批判した日寛の『末法相応抄下』には日蓮を人本尊とすることは述べているが、それが具体的には日蓮御影であることには言及されていない。そこでは、要法寺十九世日辰(1508-1576)が「もし蓮祖を以て本尊と為ば左右に釈迦多宝を安置するや」という非難を加えていたことに対して、日寛は蓮祖を本尊とするということが日蓮御影を本尊とすることであるというようには明確に答えずに、「蓮祖一身の当体全く是十界互具の大曼荼羅なり」(『富要』3-165,166、『宗全』4-81)と答えている。この日寛の言葉は、日蓮御影は曼荼羅と同一であるから、日蓮御影以外に釈迦多宝の二仏を安置する必要はないという意味なのか、それとも日蓮を本尊とすることは曼荼羅を本尊とすることであるという意味なのか不明である。(創価学会新宿区青年部編の『末法相応抄に学ぶ』は、後者の解釈をとって、日蓮御影には言及していない。 181)
筆者には日寛がなぜこの『末法相応抄下』で日蓮御影を本尊とすることを明確にすることを避けているのか、また後の『観心本尊抄文段』でそれを具体的に述べているのか、その理由が分からない。つまり日蓮御影本尊論とは日蓮正宗の教義の中ではどのような位置づけになっているのか、『日蓮正宗要義』などの日蓮正宗の出版物を読んでもかよく分からないのである。