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資料 優陀那日輝『本尊略弁』

 

はじめに

 

以下に公開するのは、江戸時代末期の日蓮宗一致派を代表する宗学者優陀那日輝の『妙宗本尊略弁』(略称 『本尊略弁』)である。底本には、明治五年(1872)新井日薩校訂による飯高学室蔵版を使用し、あわせて『充洽園全集』第3巻所収の『妙宗本尊略弁』を参照した。明治五年版は現在でも数千円で購入できるが、『充洽園全集』は5巻揃で十万円前後の値段が付いているため、一般の人には入手しにくいという事情があるためである。両方のページ番号を付しているので、参照しやすいと思われる。

私は現在創価学会の本尊論構築に関してあれこれ研究しているが、私は日興門流の系譜を引いているので、日興の曼荼羅本尊正意説を支持しているが、その場合日蓮自身の文献で曼荼羅本尊正意説を根拠付ける信頼の置ける文献は『本尊問答抄』であると考えている。しかし他方で『報恩抄』には明確に三大秘法を説明して、「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」とあり、「本門の教主釈尊」を本尊とすることを明確に示している。

曼荼羅本尊と教主釈尊本尊との関係をどのように考えたらいいのか、という問題に関して、私は、1、日蓮自身の信頼できる文献によって、どのようなことが言えるのか、という問題を、「本尊問答抄について」という論文で考察した。この考察に対して、日蓮宗法明教会の村田征昭は「『本尊問答抄』をめぐって」という論文の中で、優陀那日輝の『本尊略弁』を使用して、『本尊問答抄』は「随他意・未顕真実の法門」であると批判して、『本尊問答抄』の価値を、『報恩抄』よりも低く見る見解を示した。

その後、私は、2、日蓮仏法の継承者たちは、この問題をどのように考えてきたのか、ということを調べようとして、望月歓厚の『日蓮宗学説史』を再び、本尊論に注目して、読み始めた。彼の研究によれば、身延中興の師とされる室町時代の行学日朝は、法勝人劣思想によって(p.125)、「一辺首題の曼荼羅」(p.124)ならびに「十界曼荼羅」(p.123)を正本尊とし、釈迦仏像は傍意として容認したにすぎないとされる。この法勝人劣思想は、江戸時代初期の受不施派の指導者として日蓮宗全体を牽引した一如日重、寂照日乾、心性日遠にも継承され、一致、勝劣を問わず、法勝人劣思想による曼荼羅本尊を正本尊とする思想が大勢であった。江戸時代中期の一妙日導は『祖書綱要』を著し、それまでの法勝人劣思想を否定し、人法一体論を積極的に主張した(p.775)。江戸時代後期に、草山元政の影響を受けた本妙日臨が本尊問答抄を一往の説(p.856)として、法本尊正意説を否定したことを受けて、優陀那日輝が久遠実成釈尊=無作三身こそが根本の本尊であることを主張し、『本尊問答抄』を論駁した。

このような本尊論に関する歴史的経過を見るならば、現在の日蓮宗の本尊論は、久遠実成釈尊を本尊とするということであるようだが、実は日蓮宗の公式HPには、日蓮宗宗憲第2条に「本門の本尊」とあるだけで、久遠実成釈尊本尊論への言及がない。日蓮宗勧学院監修の『宗義大綱読本』には「本門の本尊は、伽耶成道の釈尊が、寿量品でみずから久遠常住の如来であることを開顕された仏である。宗祖は、この仏を本尊と仰がれた。そして釈尊の悟りを南無妙法蓮華経に現わし、虚空会上に来集した諸仏諸尊が、その法に帰一している境界を図示したのが大曼荼羅である。」(p.76)とあり、久遠実成釈尊本尊論を明記しているが、同時に曼荼羅にも本尊の項目で言及しているから、曼荼羅も本尊とするようである。

また「本尊の実体 本門の本尊の実体は日蓮宗宗憲の第1条に明記してある通り、『久遠実成本師釈迦牟尼仏』である。これは報恩抄に三秘の第一として『日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし』と述べられた定言のとおりである。」(p.85)とあるが、宗憲第1条は本尊について述べた文ではないので、この表現は誤解を生じやすいが、日蓮宗の本尊論が報恩抄の記述に依存していることだけは明示された。

さらに「本尊の形態 この本門の教主釈尊を本尊として表現する場合、聖人は五種の様式を用いられた」(p.87)と述べて、首題本尊、釈迦一尊、大曼荼羅(一塔両尊四士の木像も含む)、一尊四士、一塔両尊四士(報恩抄に教示される)を挙げる。

そして「同じ観心本尊抄の中で、本尊段では大曼荼羅、流通段では一尊四士であるから、両者は一法の異表現である。この点は報恩抄では本尊を示される時、もっとも明瞭に表示される。『一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし』と。『所謂』の前段は釈迦一尊、後段は二尊四士である。しかし釈迦一尊は『本門の教主』であるから必ず四士を脇士とする。二尊四士は前にも述べたように一塔を予想するから、大曼荼羅の上段部分である。そしてこの両者は『所謂』で結ばれるから、一尊四士と大曼荼羅とは聖人の内意においては同一御本尊の異表現に外ならない。」(p.91-92)とする。

その上で、両者の差異について大曼荼羅は「本仏釈尊の内観の世界の表現である」(=所証の世界)(p.92)とし、一尊四士は「能証の仏」であるとする。そして「所証と能証との表現差であるから、どちらの表現を本尊として安置するかは行者の環境によるところであって、何れが正、何れが副でもない。」(同)とし、さらに註において、『日蓮宗読本』(望月歓厚が編集責任者)『大崎学報』104号を参照するように指示している。

この議論の最大の問題点は「この両者は『所謂』で結ばれるから、一尊四士と大曼荼羅とは聖人の内意においては同一御本尊の異表現に外ならない。」という論理が成立するのかという問題である。事実上二つの本尊様式があるから、宗務行政上両者を認めてしまえという議論はそれなりに分かりやすいが、この議論は「所謂」は前と後ろとを同じであるとする表現だと断定している。しかしネット検索すると『学研全訳古語辞典』の「世間で一般に言われている。よくいうところの。」という意味がヒットする。つまり「所謂」の(分かりにくい)前段部分を(分かりやすい)後段部分で説明するという働きをする言葉だとしている。私の理解も似たようなものだ。しかし『宗義大綱読本』は前段部分を後段部分が説明するというようには考えない。

日蓮の「所謂」の使用例を検索すると『唱法華題目抄』の「大通智勝仏法華経を説き畢らせ給いて定に入らせ給いしかば十六人の王子の沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給いけり、其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず当座に悟をえし人は不退の位に入りにき、又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり、其の間又つぶさに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退の位に入る所謂・舎利弗・目連・迦葉・阿難等是なり」という用例がヒットするが、ここでは「所謂」は「例えば」の意味で使用されているようだ。ここでは「法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり、其の間又つぶさに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退の位に入る」が誰なのかは不明だから、「舎利弗・目連・迦葉・阿難等是なり」と例を挙げて、「所謂」の前段部分を、後段部分で説明している。

あるいは『立正安国論』では「所謂覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。」という用例があるが、ここでは「所謂」は「(涅槃経で)謂う所の」の意味で使用されている。つまり、この場合は「所謂」で結ばれる「覚徳」比丘は「迦葉仏」のことなのですよという意味で使用されており、両者が同じであると言えば言えるが、力点は(よく分からない)前者を(よく分かっている)後者で説明するという意味で使用されている。一一引用しないが、『守護国家論』の三例も同様に前段を後段で説明している。また佐渡期の『開目抄』の「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」も同様な用法であると考えられる。

もしこの用法を報恩抄に適用すれば、(よく分からない)「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という表現の意味を(よく分かっている)「宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし」という表現で説明したというように解釈できる。つまり「本門の教主釈尊を本尊とすべし」ということは一尊四士という表現様式を意味しているのではなく、曼荼羅の上部部分を意味しているという解釈も成り立つだろう。これはあくまでもある文章がどういう意味かを問題にする読解という論理的な作業=国語学の問題であり、宗教教義の解釈問題とは別問題である。

さらに『宗義大綱読本』は「聖人の内意においては同一御本尊の異表現に外ならない。」とあるが、どうしてこの本の執筆者に日蓮の心の中が分かるのか、と突っ込みを入れれば、多分、「そのように私は理解しているからだ」という答えしかないだろう。文字によって表現されたテキストの意味は、執筆者の意図した意味に限定されるものではなく、読者が執筆者とは異なった歴史的文化的コンテキストによって、解釈した意味も、テキストの意味でありうる、つまりテキストの意味は一つに収斂しないで絶えずコンテキストにより差延(differance)を引き起こすというのが、デリダのテキスト解釈理論であるが、報恩抄の文章の意味を執筆者である日蓮の意図した意味に収斂しようとしても、その意味が日蓮の意図した意味であることを論証する作業は、日蓮によってではなく、読者=解釈者によってなされるのであり、その論証は、同時代の他の読者に対して、同意を求める作業でしかない。少なくとも私は『宗義大綱読本』の執筆者の論証作業は成功していないということを、「所謂」という言葉の使用法という点から示している。また「他人の心」というブラックボックス問題を引き起こすような『宗義大綱読本』の記述は、哲学的に見ても、問題の多すぎる表現となっている。

本尊の表現様式として異なる、一尊四士と曼荼羅を同一の実体である「久遠実成釈尊」の異なった表現とする『宗義大綱読本』の議論はそれほど説得力があるとも思えないし、それで片付くなら、日蓮宗各派の数百年にわたる本尊論争は一体何だったのかという思いが生ずるのは、私一人ではあるまい。永い間、曼荼羅の実体は「久遠実成釈尊」ではなく、「本法」もしくは「要法」としての「妙法蓮華経」とされてきた。『宗義大綱読本』が曼荼羅の実体は法ではなく、釈尊だとする議論の歴史的淵源をたどれば、江戸時代末期の優陀那日輝の議論に大きく依存しているようだ。しかし江戸時代と現在では日蓮の文献資料に関する使用方法についてのルールが大きく違い、はたして日輝の議論は現在でも使用可能なのかを、検証する必要があるだろう。ところが『本尊略弁』に関してはネット検索すると三原正資の「妙宗本尊弁考−御本尊の意義を考える−」(日蓮宗現代宗教研究所『所報』第27号)がヒットするくらいで、それほど検証が進んでいないようだ。

私は、優陀那日輝の議論には、多角的に本尊を考察して、現在でも参考にする点がそれなりにあるとは思うが、文献の扱いにおいては現在では使用できない点が多いと考えている。しかし私の考察を示す前に、多くの人に、優陀那日輝の議論を資料として提示して、自分でまず考えていただくことが重要であると思い、ネットで公開する次第である。今年の1月に眼底出血を再発し、細かい活字を読むことが困難になり、多少回復した4月頃から少しでも仕事をしようと思い、大きな字体の明治五年版を少しずつ入力したものであるので、多くの字の入力ミス、転換ミス、誤読があると思われるが、読者の中で気づかれた方は、お知らせいただければ、ありがたいと思います。原文はカタカナ交じり文であるが、読み易さを考えて、ひらかな交じり文に変えた。

 

 

 

優陀那日輝和上撰 『本尊略弁』 下総飯高学室蔵

 

一丁表

(3-377)

妙宗本尊略弁巻の上

加州犀川 優陀那日輝述

 

(総標)

本尊は妙行の正的、一宗の大事なり。其の体を知らずんば、全く帰依処を知らず。宗旨を失うなり。予、先に妙宗本尊弁を著す。然るに其の文やや寛広にして、義も亦甚細なるが故に、初学の為に便ならず。故に今重ねて略弁を撰し、其の肝要を顕す。大段二科とす。初めに迷惑を破し、次に正義を明す。

初めに迷惑を破すとは、案ずるに人多く我が宗の本尊、其の体仏なりや、法なりやと云うことに迷いて、多くは法を以て本尊とす

一丁裏

るが正意なるべしと謂へり。其の迷いの根元三あり。一に眼前の迷惑、二に心底の迷惑、三に学問の迷惑なり。

眼前の迷惑とは、大曼荼羅の正中に、五字七字の題目を書して、左右に釈迦多宝等を列ね、随て木像の本尊も、亦両尊の中央に首題を顕す、是なり。

心底の迷惑とは、法は諸仏の師とする所にして、法は勝れ、仏は劣れり。本尊は最勝なるに依るべしとなり。

学問の迷惑とは、是に二あり。一に経文に迷い、二に祖書に迷うなり。経文に迷うとは法師品等なり。祖書に迷うとは本尊問答抄等なり。然るに問答抄は専ら本尊を論じ給える御書なるに、題目を本尊とするが、法華経の行者の

二丁表

正意なりと云い、殊に法仏の優劣を論じて、法は勝れ仏(3-378)は劣れる旨を顕し給えり。故に法を本尊とするが、我が宗の正意なりと。是、学問に依りて迷惑を生ずるなり。今此の三惑の昏昧を破して、無明の眠りを警覚すべし。

(破眼前迷惑)

第一に眼前の迷惑を破するを言わば、本尊に書き給える所の題目は、即ち久遠実成の仏体なることを知らず。故に迷いを生ずるなり。然るに法が即ち仏なりと云う義には非ず。直ちに久遠の仏体を、題目を以て顕し給うなり。其の故は久遠の仏は、「或説己身或説他身」等と説き給いて、其の形相も定まらず、「名字不同年紀大小」と説き給いて、其の名号も定まらず。故に妙法五字を以て、久遠の仏

二丁裏

体の名号と定めて、本尊の中央に書き給うなり。故に寿量品の御義口伝に云く、「無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」文。三大秘法抄(外十五 三十)に云く、「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点、当初已来の、此土有縁深厚、本有無作三身の、教主釈尊是なり」文。此の寿量所顕の無作三身の宝号を、五字七字の題目を以て顕し給うなり。観心本尊抄に云く、「其の本尊の為体、本時の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏」、乃至、「正像に未だ有らざる寿量品の仏、末法に来入して、始めて此の仏像を出現せしむべきか」文。分明に大曼荼羅の体相を顕し、直ちに之を指して「寿量品の仏」と云い、又「此の仏像」と名づけ給えり。此の文は本尊抄中の正宗たる最

三丁表

第一の肝文なり。夫れ本尊抄の諸御書に勝れて大切なることは、誰か是を争わんや。其の勝れたる所以は、妙宗第一の大事たる本尊を顕し給う故なり。故に本尊抄と題し給うなり。又本尊抄に云く、「此の時地涌千界(3-379)出現して、本門の釈尊の脇士と為り、一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」文。是亦、分明に仏を本尊と定め給えり。送状に云く、「此の書、日蓮の身に当てて一期の大事なり」と。縦い、余の御書に法を本尊とする文ありといえども、余書を取りて、本尊抄を捨つべけんや。況や本尊抄のみには非ず。報恩抄、開目抄、四菩薩造立抄、三大秘法抄等の、諸の軽からざる大切の御書に、仏を本尊と定め給えり。当に知るべし、余書に法本尊の説ある者は、隋他意の語、未顕真実の法門なり。祖

三丁裏

判尚然り。況や後人の書伝をや。報恩抄(内七 三十四)に云く、「一には日本乃至一閻浮提、一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の中の釈迦多宝以外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」文。本門の教主釈尊を本尊とすべしとは、久成無作の本仏にして体の仏なり。釈迦多宝以外の諸仏並びに上行等とは、脇士の仏菩薩にして、垂迹別相の用の仏なり。体の本仏を顕すには、五字七字の妙題を以て之を顕し、用の迹仏を顕すには釈迦牟尼仏と書して、多宝と相対し、脇士とし給うなり。又日女抄(外二十三 十二)に云く、「多宝塔中の大牟尼世尊、分身諸仏、すりかたぎたる本尊なり。されば首題の五字、

四丁表

中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に座し、釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ」、乃至「一人も漏れず、此の本尊の中に住し給う。妙法五字の光明にてらされて、本有の尊形となる、是を本尊とは申すなり。経に云く、『諸法実相』是なり」。乃至「伝教大師云く、『一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏なり』」文。「大牟尼世尊」とは報恩抄に「本門の教主釈尊」と云う(3-380)に同じ。本尊抄に「正像に」「未だ有らざる」「寿量」品の「仏」と云う是なり。されば「首題五字中央にかかり」とは本尊抄に「塔中妙法蓮華経」と云うに同じ。報恩抄には此の言を略せり。三秘並に明かす文なる故に、単に本尊を明かす文に異なるなり。本門の題目を出だして南無妙法蓮華経と云うに

四丁裏

濫せざらしむるなり。「出尊形仏」の文を出だして結び給えるも、十界の曼荼羅が即ち仏体にして、久成の本仏の形相なることを示し給うなり。又造立抄(外十五 三十三)に云く、「一御状に云く、本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼ねて聴聞し候いき」。又云く「今末法に入れば、尤も金言の如きは、造るべき時なれば、本仏本脇士造り奉るべき時なり。当時は其の時に相当たれば、地涌の菩薩かや、出でさせ給わんずらん」文。仏を本尊と定むるは、本化の大事なるを知るべし。又「兼ねて聴聞」の言、富木殿も毎度聴聞ありしこと知るべし。「兼ねて」とは「予ねて」の俗語なり。又開目抄(内三 十一)に云く、「寿量品を知らざ

五丁表

る諸宗の学者は畜生に同じ。不知恩の者なり」。乃至妙楽大師は寿量品の仏を知らざる者は、「父統の国に迷える才能ある畜生」と書けるなり。又云く、「天台宗より外の諸宗は本尊に惑えり」文。この抄の意も寿量所顕の本仏の本尊とすべしと云う意なり。本尊の実体を知らざる時は、不知恩の責に預かるべし。上来の文義を以て、題目の本尊が取りも直さず、寿量の教主久遠実成の釈尊なることを知るべし。然るに釈迦牟尼仏と書き給わざることは、用の迹仏に簡ばんが為なり。而も三大秘法を(3-381)定め給う時は、久成釈尊と銘じ給う。是第二の本門の題目に簡ぶ為なり。故に名を立てるには仏と名づけ、体を顕すには首

五丁裏

題を以てし給う。然れども久遠の本法を取るに非ず。久遠の本仏を取るなり。所謂寿量所顕の、無作三身の本仏是なり。但、久成の三宝は法仏一体なりと雖も、毫厘の違いに似て、千万の得失あり。人法の別によりて、迷悟の大事を誤る。故に聖人出世の一大事なり。択ばずんば有るべからず。今問うに、大曼荼羅と三秘の中の本尊と同じとせんや、異なるとんせんや。同じと云わば、何ぞ人本尊に非ずと云うや。若し異なると云わば、三秘中の第一たる本尊は何処にあるや。又大曼荼羅は三秘の外とせんや。又法は正意にして仏は傍意なりと云わば、三秘中には傍意を挙げ給うとせんや。又本尊抄に「地涌出現して、閻浮第一の本尊、此の国に

六丁表

立つべし」と云えり。閻浮第一の傍意の本尊を立て給うと云うべしや。又本尊抄報恩抄三秘抄等は正意を明かし給わずと云わんや。良に本迹の進退、台当の浅深、縛脱の得失は、但、此の人法の異目による。具に下に述ぶべし。先ず須く知るべし、三秘中の第一たる本門の本尊は、一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。祖師師恩を報ぜんが為に究竟の本師を本尊として、日本乃至一閻浮提の大師と成り給う。報恩抄の明文と、我が祖出世の一大事を顕発し給いて、正像未有観心証道の随自意の語たる、本尊の抄に慇懃に開示し給える明文に隠れ無き、我が宗一同の本尊は、但是久遠の本仏、大曼荼

六丁裏

羅の当体たる人本尊なりと知る(3-382)べし。

(破心底迷惑)

第二に心底の迷惑を破するを言わば、夫れ仏は軽く法は重しと云うは、迹門諸経の文義なり。仏は重く法は軽きが、本門寿量の義旨なり。故に無始無作の三身を顕して、仏を三千の万法の正体とするが、一経の肝心、究竟の実義なり。故に仏の尊重なることを顕して、証道の極意とし、一経の大事とするなり。故に疏に「如来秘密神通之力」の文を釈して云く、「仏三世に於いて等しく三身有り。諸経の中に於いて之を秘し伝えず」と文。文意は諸の偏円の経の中に、寿量の三身を秘して説かずとなり。久遠の本仏は所詮の体なり。妙法五字は能詮の名なり。故に五字の名を以て無

七丁表 

作三身の宝号と定むるなり。豈に名は尊重にして、体は軽賤なるべけんや。所詮人は軽く法は重しと謂うが元品の無明なり。自体の尊重なることを知るが、本門寿量の旨帰なり。故に常不軽は四衆を礼して本尊とせり。常不軽の三字は本門精要の妙旨なり。良に凡夫の情に従うが故に、法を貴んで人を軽くするなり。無始の本仏、悟達の聖人は、法よりも人の尊重なることを通達知見するなり。抑抑人の為に法を立てるにてこそあれ、法の為に人を造るに非ず。仏は能証なり。法は所証なり。仏は体なり。法は用なり。仏の心用を理法とし、仏の口用を教法とし、仏の身用を行法とす。仏は大乗能乗の人なり。法は

七丁裏

大人所乗の車なり。良に人ありてこそ車も入用なれ。人無くんば、何ぞ法を用いん。人の体を知らんが為の法なり。人の徳を(3-383)顕さんが為の法なり。人は本なり実体なり。法は末なり仮用なり。抑抑成仏の為の大乗なり。大乗の為に成仏するには非ず。「即成就仏身」の為の、「得入無上道」なれ。「是人於仏道」のために「応受持此経」なれ。「即得究竟」の為の「須臾聞之」なり。仏が久遠より常住なれば、此の法も貴きなり。久遠の法を主宰し受用し説示する久遠の本仏なり。所詮法と云うは仏の徳なり。本を悟らずして末を貴むは、権迹の方便なり。根本の尊体を悟るが本門の開悟なり。故に本門は証道の実義、成仏の直旨、立教の本意なり。人は万

八丁表

法の精霊、天地の宗主なり、法界の根元なりと悟るが、成仏の実義なり。故に仏有っての法なり。人有っての教行理なりと悟るが法華の宗趣なり。是を知らずんば、永く本尊を知ること能わず。是を悟らずんば永く成仏すべからず。心仏衆生の三法も、倶に人なり。一念三千十界十如も、倶に人なり。人は是妙法の正体なり。我等衆生、妙法蓮華の当体なりとは、当体義抄に分明なり。本有の十界の外に本有の妙法無し。理に約しても事に約しても法は名なり用なり。人は体なり実なり。久遠の本仏は天なり智なり。久遠の本法は地なり境なり。究竟して論ずれば、妙体二而不二なりと雖も、仏を以て正とするが、悟道の真詮なりと知るべ

八丁裏

し。問うて云く、法を本とし、仏を末とすることは、普賢経涅槃経等に分明なり。又「依法不依人」と云えり。何ぞ相反するや。答えて云く、経に「依義不依語」とて義を正として文に泥むべからずと見えたり。又記に云く、「無文有義智者用之(文無くとも義有らば、智者は之を用ゆ)」と云えり。義を以て本とすべし。況や明文了義に依り(3-384)て人本尊を立てるをや。又経に「依了義経不依不了義経」とて、寿量顕本の了義経に依りて迹門涅槃等の不了義経に依らざるべしと誡め給えり。又「依智不依識」とて随智の了義を用いて、方便施設の識に依らざれとなり。況や今は人師の説に依るに非ず。本門顕了の説による。亦「依法不依人」に非ずや。故に文に云く「我実成仏已来我常住在此説法教化」

九丁表

又云く「自我得仏来常説法教化」又云く「諸仏如来法皆如是」と。豈に仏は先に存し、法は後に在するに非ずや。仏は体にして法は用なるに非ずや。当に知るべし、仏は本にして法は末なり。本を明かすが故に本門の教とす。南無妙法蓮華経は無作三身の宝号なりとは祖文分明なり。故に知りぬ仏経祖判文義顕了なり。知るべし、本門の題目は因なり用なり。本門の本尊は果なり体なり。寿量品の御義に云く「無作三身の所作は何物ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり」文。所作とは作用なり。体用分明なるに非ずや。故に知るべし、本仏は法の父母なり主なり。迹仏は法の子なり臣なり。今は本仏を本尊とす。況や開迹顕本すれば迹仏即本仏なり。迹中

九丁裏

の仏も亦仏は体なり法は用なり。但し本門に非ざれば、実義は顕れざるなり。所詮一念三千の仏体の功徳を顕さんが為に三観を修し、三徳を成ずるなり。無作三身の徳体を顕さんが為に本門の題目を唱うるなり。法は因行なり、仏は果証なり。仏は所依なり、所観なり、所期なり、境本なり、主君なり、身体なり、本心なり。行者自己の色心なり、正体なり。豈に仏を本尊とせざる可けんや。(3-385)

 (破学問迷惑)

第三に学問の迷惑を破するに、先ず経文の迷惑を破するを言わば、法師品に云く、「在在処処、若説若読若誦若書、若経巻所住之処、皆応起七宝塔、極令高広厳飾、不須復安舎利」文。文意は七宝の塔を起て、法華経を供養すべし。仏舎利を安

十丁表

置することを須いじとなり。然るに直ちに次の文に其の所以を釈して云く「所以者何、此中已有如来全身」文。文意は応身砕身の舎利を用いず。其の所以は法華経の中に法身全身の舎利之有る故なりと云うことなり。法華経所詮の理は法身なり。経文は法身の舎利なり。当に知るべし、文の表は法を供養する様なれども、意は如来の法身を供養する義なり。神力品も亦同意なり。文に云く「是中皆應起塔供養。所以者何。當知是處即是道場。諸佛於此得阿耨多羅三藐三菩提。諸佛於此轉于法輪。諸佛於此而般涅槃」文。法華経修行の当処、如来の三徳を成就し、又生処、得菩提、転法輪、入涅槃、四処道場の仏の功徳を具足するが故に、法華経並び

十丁裏

に行者を供養すべしと云う意なり。縦い法は能生なり、仏は所生なる故に、法を供養すれば、自然に仏を供養するになる故、法を供養すれば別に仏を供養するに及ばずと云う文意にもせよ、法を供養すれば、自ら仏を供養するになると会釈する底意を推せば、本より仏を供養すべき者と云う意を含む。故に文の裏には仏を供養せよと云うことを含むなり。況や本門寿量品には、「広供養舎利」と云い、又「一心欲見仏」と云えり。十界三千の仏なる故に「広供養」と云い、衆機一同の供養なる故に「広供養」と云う大曼荼羅是(3-386)なり。観心本尊の仏なる故に、「一心欲見仏」と云うなり。(外二十五 初 他受用一 二十五)況や良医の譬えは常住の本

十一丁表

師久遠の父を見るを本意とせり。故に「咸使見之」の文を以て譬えを結せり。所詮「即成就仏身」が如来の本懐なる故なり。故に寿量品は直ちに本仏を本尊として供養せしむるなり。故に御義口伝に「倶出靈鷲山」の文を大曼荼羅の依文とせり。亦是大曼荼羅は即ち是本仏なるの一証なり。故に本門寿量の本尊は迹門法師品に同じからず。直ちに仏を表として本尊を立つべき経文なり。当に知るべし、大曼荼羅は久遠の本仏、霊山虚空の衆僧と倶に「一心欲見仏」の行者の前に出現し給えるの相なり。

次に祖判の中に最も迷惑を生ずる者、正しく本尊問答抄なり。今別して此の書の疑滞を破し、余は例して知らしむ。此の書

十一丁裏

全篇専ら本尊を論じ、又佐後の撰にして、而も文の末に本化の上首、弘通の本尊たるべき、文相分明なり。故に学者此の書を会せずんば、必ず三秘の本尊に迷惑を生じなん。故に今殊に此の書を弁ず。文(内九 十六)の初めに云く、「問うて云く、末代悪世の凡夫、何物を以て本尊と定むべきやと。答えて云く、法華経の題目を以て本尊と定むべきなり」文。文分明に題目を本尊とせり。然るに次下に「問うて云く、何の経文、何の人師の釈にか出たるや」と問うて、答えに法師品起塔供養の文および涅槃経如来性品の「諸仏所師所謂法也」等の文を引く。次に天台法華三昧の文を引証とせり。又云く「是私の義に非ず。上に出す処の経文並びに天台大師の御釈を本とする計りな

十二丁表

り」文。是則ち法体は題目を出し給えば、全く本門の本尊なり(3-387)と雖も、引証は但だ迹の文を引きて本の文を引かず。又迹化の弘通を所依とせり。「私の義に非ず」とは随自意に非ざる意を含めり。迹門並びに天台の義に依るのみとは随他意の語未顕真実の趣なり。然る所以は、対告衆浄顕房、其の機未だ生しきが故に、但権実相対の一辺を示して、真言諸家の本尊を破し、通途の天台法華の法相を述べ給うなり。然るに諸宗皆仏を以て本尊として、法本尊の例無きが故に、法華三昧を引き給うなり。然るに又云く「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文に依れり。此は法華経の教主を本尊となす。法華経の行者の正意には非ず。上に挙げる所の

十二丁裏

本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり」文。文に法華儀軌を会し給うことは浄顕房もとより真言の学者故に、彼人の疑いを遮し給うなり。法華行者の正意なりと宣うことは、題目の正体は本是寿量所顕の本仏なるが故なり。而も本仏なることを明かし給わざることは当機未熟の故なり。故に文中都て権実相対の法門のみなり。然れども此の一段の文、最も学者の迷惑に堕する所なり。余文の明鏡を以て照徹するに非ずんば、誰か無明を免れんや。又文の末に云く、「此の御本尊は世尊説き置かせ給いて後二千二百三十余年の間一閻浮提の内に未だ弘めたる人候らわず。漢土の天台、日本

十三丁表

の伝教、粗知ろしめして、聊か弘めさせ給わず。当時こそ弘まらせ給うべき時に当たりて候へ。経には上行無辺行等こそ出でて弘めさせ給うべしと見へて候へども、未だ見へさせ給はず。日蓮は其の人に候はね(3-388)ども、粗意得て候へば、地涌の菩薩の出でさせ給うまでの、口ずさみにあらあら申し候いて、況滅度後のほこさきに当りて候なり」文。上に法華三昧を引きながら「天台粗知ろしめして、聊か弘めさせ給わず」と宣う事は、通途の直ちに法華経を本尊とするに同じからず。寿量所顕の法体たる題目なる事を密かに示し給うなり。而も分明に寿量に依らず、又神力品をも引かざる事は、略略本化弘通の大法な

十三丁裏

る事を示して、其の実義は未だ宣い給わざる故なり。但迹仏に簡んで本門の本尊を示して、其の法体は還って未だ本仏なる事をば明かし給わざるなり。然るに先に既に師恩を報ずるに約して、閻浮一同の三秘を掲示せる報恩抄と、正意分明なる寿量所顕の本尊を顕せる出世一大事の本尊抄に、人本尊を定め給う。二書の明文を以てこの書の未顕真実を照却せば、何の疑罔か有らん。豈に彼の正説を閣いて却って此の書の略示を取るべけんや。而も二書の法体全く別に非ず。但当書の本尊の題目、即ち報恩抄中の寿量の本仏なり。此の書は表に随いて、法に約し、彼は裏に随いて、真仏を點示し給う。法師品の文に含め

十四丁表

る、裏底の法身を開顕すれば、即ち久遠の本仏なり。当書迹文所依の法本尊を開するに、即ち彼書所顕の本仏、人本尊と成るなり。十界の凡夫を開するに、即ち久遠の本仏なることを表する、大曼荼羅の法門なり云々。当に知るべし、此の抄は、応仏迹仏に対する故に、法を取るなり。三秘の本尊は、本仏法仏に約する故に、仏を取るなり。是即ち法の所顕にして所生に非ず。凡そ諸文に仏(3-389)を本尊とし、及び高祖伊東に感得し給える、御一代の本尊たる釈尊等は、皆久成の釈迦、寿量所顕の本仏なり。其の余の題目を本尊とするは、皆無作三身の宝号に約して、題目を挙げて本仏を顕すなり。其の余の脇士とする仏は釈迦多宝を始

十四丁裏

め、皆迹仏応仏なり。此の義を得て、往きて祖文を見れば、文として通ぜざる処なし。(釈迦多宝の脇士属不は、下に至りて弁ず)我宗の本尊、二種の別ありと謂うは、祖意に達せざるなり。豈に二種の所尊を立て、初心を迷惑せしむるの理あらんや。但聖語従容にして解し易からざることは、深く所以有るなり。具に下に弁ずべし。然るに不二なる故に首題に約して本仏を顕すのみ。而も法に則する仏を取りて、仏に即する法を取らず。此れ良に立教の深旨なり。必ず迷惑を生ずることなかれ。問答抄を弁じおわんぬ。(校者云く、問答抄を弁ずること、恐らくは義未だ尽くさざるに似たり、故に付録に至って更に之を弁ず、学者よろしく参看すべし。)

 

(弁中央首題)

更に委しく中央の首題を料簡せば、問う、中央の首題、是本仏

十五丁表

ならば傍辺の釈迦は不用に非ずや。答う、傍辺の釈迦有らずんば即ち二仏並座の形相を成さず。問う、しからば両重の釈迦を成するや。答う、しかなり。問う、両重の釈迦、差別如何。答う、本仏迹仏の異なりなり。問う、迹仏とは迹門の教主なりや。答う、本化を脇士とす、豈に迹門の仏ならんや。問う、しからば何ぞ本仏迹仏と云うや。答う、本迹とは、久近本迹に約さず、体用本迹に約して、真身応身理仏事仏の異なるのみを論ずるなり。問う、傍辺の釈迦を脇士に摂するやいなや。(3-390)答う、釈迦は脇士とすることを得ず。而も中尊に対する時、脇士に属摂す。今具に三科を以て之を論ぜん。初めに釈迦を脇士とするを得ざる義は、一に事に約するに、霊山

十五丁裏

の塔中、別に中尊あるに非ず。但釈尊、是教主なり。豈に正しく中尊なるに非ずや。又理に約するに、釈迦多宝等の外、別に本仏の体あるに非ず。既に別の本仏無し。釈迦豈に脇士ならんや。二に寿量品の本仏、但釈迦に約して之を明かせば、釈迦の身相、即ち是本仏の体相にして、寿量の本尊、唯釈迦なり。何ぞ脇士の義あらんや。三に釈迦は是仏果にして、大千の教主なり。脇士は是伴なり。伴は是僧衆なり。釈迦多宝等は仏にして僧に非ず。若し更に脇士とせば、主伴相濫ずるなり。四に釈迦に約して本果を顕すが故に、正しく是、行者顕本の軌範なり。故に行者悟入の手本たる正本尊なり。豈に脇士の義あらん

十六丁表

や。五に四菩薩は並びに本因を表し本用を表す。釈迦は本果を表し本体を表す。本果は正しく行者の所期なり。所期は的境なり。的境を以て本尊とすべし。豈に脇士とするを得んや。故に本尊抄、特に釈尊の脇士上行等と云い、又四菩薩釈尊に脇士と為ると云う。造立抄亦四菩薩を脇士とす。本尊抄は別して釈尊を脇士と称すべからざる証文なり。

次に釈迦を脇士に属摂する義は、一に釈迦牟尼仏は応形一仏の名なる故に本仏を顕すに便ならず。本仏は別に名字無き故に首題を以て本仏の名字と定めて、中尊に立てるなり。是の時応身別形の釈迦は多宝分身と同位(3-391)にして別の仏界の摂に

十六丁裏

属して本体とせず。故に中尊に対して眷属となる故に、脇士の摂に属す。故に報恩抄に久成本仏を立て已って、「宝塔の中の釈迦多宝以外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」と云うなり。既に「並びに上行等」と云う。故に分身仏は必ず脇士に属すること分明なり。分身は是仏位にして而も脇士にするを得ば、釈迦多宝も亦脇士とするを妨げず。故に傍辺の二仏及び一切の仏並びに上行等、皆肩を並べて配列し、釈迦等皆本仏に対して脇士とす。是は曼荼羅の相に随い、傍在の相に約して脇士と名づけたるのみ。故に日女抄に「首題の五字中央にかかり、釈迦多宝本化四菩薩肩を並ぶ」文。是曼荼羅の配列

十七丁表

に託すといえども、「肩を並ぶ」の言は自ら二尊四菩薩、倶に脇士とするの意なり。又本尊抄に「塔中妙法蓮華経の左右釈迦牟尼仏多宝仏」と云う。左右の言亦脇士の意を含めるなり。但脇士の名を立てることを得ざる辺ある故に、髣髴に云うなり。但し報恩抄の「並びに脇士となるべし」との言、最も脇士と云うこと分明なり。彼は直ちに久成の教主を指したる勢いを受ける故に、応用の二仏、直ちに指し付けて脇士と云うなり。日女抄は先ず大牟尼世尊と本尊を立たれども、通じて諸尊を列したる故に、別して脇士と云わず。是総の釈迦を立て本仏とする故に。余は並びに別に属し、並びに迹に属するなり。日女抄に「分身の諸仏、すりかたぎた

十七丁裏

る本尊なり」と云うは、十界並びに分身とする義なり。又総じて本仏の垂迹なれば、諸仏と云うなり。日眼女抄(内二十八 二十)之に同じ云々。二に曼(3-392)荼羅には首題を中尊とする故、便宜に約して釈迦をも脇士の摂に属するなり。前に理に約し、今の義は事に随うのみ。

三に別して首題の中尊を安ずる所以は、一に正しく所宗を表す。何となれば二仏並座に非ざれば虚空会を顕すことを得ず。本化の脇士に非ざれば本門八品の儀を表すること能わず。首題を中尊とせざれば寿量の法体を顕すに足らず。故に正しく所立の宗を表顕するが為に首題を中尊に立てるなり(約教)。二に因果不二を表す。何となれば二仏

十八丁表

は果を表し、四士は因を表す。今因果同時、不二相即の妙乗を表する故に、首題を中尊と定めて、宗旨を表するなり(約行)。三に諸尊一体を表す。何となれば首題の中尊無き時は、十界の諸尊、各立の相にして、唯一の妙法、唯一の仏界及び倶体倶用の相顕れず。是の故に首題を中尊とするなり(約人)。四に一念三千を表す。上の義と大意是同じ云々(約理)。五に経文に二仏並座の時、更に宝塔あり。今宝塔を表するが故に首題を書す。是則ち宝塔は還って首題を表し、(五大五陰所成無碍の妙法を表す)首題は却って宝塔を表(境智冥合の内証)するなり(世界)。六に能観の題

十八丁裏

目と所観の本尊と合一ならしめて、妙行を成し易からしむるなり(為人)。七に正中に本尊無き時は信仰純ならず。所見尊重ならざる等の失ある故に、二仏の中央、更に主尊を立てるなり(対治)。八に十界の諸法、全く是行人の一色心なるを、教示し観(3-393)解し証悟せしめんが為の故に、行者の当体を表顕して中央に安ずるなり(第一義)九に法界総合の相を表する故、十界別法の外、中尊を安じて、総別合成し、三諦頓ちに現前せしむるなり(約法)。十に本仏を表するに、久遠実成釈迦等と表すといえども、義浅近を成す。故に首題を以て久成の仏を表し、所宗をして深遠微密ならしむるなり(約仏)。是等の諸義の故に、別して

十九丁表

首題を書いて、中央の正主とするなり。総じて之を云わば、寿量所顕の仏慧(体)、無作三身の妙果を表するなり云々。問う、中尊と諸尊と傍正ありや。答う、通別を論ずべし。傍正の名を許さず。先ず通別を論ぜば、一に機縁に約す。中尊は順逆二機に通じ、諸尊は別して順機の為なり。二に法体に約す。中尊は通じて十界の妙因妙果を表し、諸尊は別して十界の円因円果を表す云々。傍正を許さずとは、一念即三千の相なり。豈に総別傍正を云わんや。良に中尊に非ざれば、諸尊の円融を表するに足らず。諸尊に非ざれば、中尊の実相を顕すに足らず。本迹合成理事冥一なり。正像未有の妙処、但十界具足にあり。観心本

十九丁裏

尊正宗の深旨、偏に事相の十界に存す。総別体同全象唯一なり。豈に傍正の義あらんや。深思見るべし云々。

夫れ十界円融諸法常住の妙相を顕示して、行者一身の当体、三世十方無碍円満の妙体なることを開発し給う、深秘の本尊にして自己の当位を本尊と悟入すべき、最勝最妙の観境なるを人(3-394)本尊の直旨とす。本門寿量の大事、豈に是に過ぎんや。衆生成仏の至要にして、諸宗超過の妙処、偏に此れに存せり。元品の無明を断ずる莫耶なり。失して重障の泥濁に委することなかれ云々。三種の迷惑を破して本尊の正体を弁じ畢ぬ。

本尊略弁巻の上 明治四年辛未冬刊弟子文嘉日薩校訂

(妙宗本尊略辯巻之上 畢)

 

 

一丁表

妙宗本尊略弁巻之下

加州犀川 優陀那日輝

 

次に正義を明かす。上に既に本尊の正体を顕し、本尊は只是無作三身の本仏なることを知る。是即ち正義なり。然りといえども、今更に其の体相等を弁ず。故に更に正義を明かすと云うなり。大分四科とす。一に名義、二に体相、三に功徳、四に利益なり。

(名義)

初めに名義を釈す。名とは本尊及び曼荼羅なり。初めに本尊とは、根本尊崇の義なり。是を立てて修行の(3-395)根本とし所依として最も尊崇する故に本尊と云う。尊崇する所の三宝等多しといえども、其の

一丁裏

中に根本とする所なり。故に根本尊崇の義とす。復次に本来尊重の義なり。謂く、今の所尊、無始より法爾として天然最勝の尊貴珍重の法なる故に、本来尊重の義とす。復次に本有尊形の義なり。曼荼羅の全体、是久遠の尊形なり。復一一の諸尊、本時已来常住の尊相なり。故に本有尊形の義とす云々。

次に曼荼羅とは梵語なり。義に随って且く四訳とす。一に諸仏集、二に功徳聚、三に浄壇、四に輪円具足。一に諸仏集とは、本迹の諸仏、三身の体用、一処に集在する故なり。二に功徳聚とは、本仏所有の一切の因行果徳、聚会して一処に存する故なり。三に浄壇とは諸の三宝諸天、普く勧請して一処に安置す

二丁表

る清浄の壇台なる故なり。真言家には壇場に諸尊を画布して曼荼羅とし、供養する故なり。故に亦大壇場と翻ず。四に輪円具足とは、輪は車輪にして譬喩なり。義は集聚にして円満具足の意なり。十界三千の諸の妙法、集聚して一処に存在す。故に輪円具足と云うなり。曼荼羅は密経より出て、真言家の法なり。祖師彼を用いて法華の曼荼羅を製作し給うなり。(已上釈名)

次に義を釈せば、行者自身の当体は、是万行万徳の根本にして、自ら其の体を尊崇して軽ろしめず、無作三身の覚体を愛敬し、妙法蓮華の実身を保護し、諸仏を供養し、衆生を化益し、仏土を厳浄すべき、根本尊崇の妙体なることを、開示し悟入

二丁裏

せしむる軌境なり。故に本尊と名づくるなり。復次に行者一色 (3-396) 心の当体、十方に融通し、三世に周徧して、融妙円満の法体にして、本来尊重なることを覚知し、念念諸仏を供養し、事事衆生を利益し、時時仏土を厳浄して、本有の妙用を顕し、円妙の浄体を保護すべきことを、開示し悟入せしむる軌則なる故に、本尊と云うなり。復次に自身及び一切の依正、皆是久遠の四大、本時の六塵の所成にして、一体円融し、自在に顕現せる、本有の尊形なることを信解して、日夜に円融の果徳を楽しみ、寤寐に不思議の因用を修施すべき、大乗甚深の道を開示し悟入せしむる観境なるを本尊と云うなり。復

三丁表

次に苟も本尊を信解すれば、自身全く久成の仏体にして、十方三世の諸仏、唯身の法界の体内に来集し給う。是の如く自己の偏一切身中、所有の尊貴を開示して悟入せしむる本尊なる故に、諸仏集と云うなり。復次に若し妙法蓮華経を受持すれば、本仏所有の因行果徳、一念刹那中に集聚して、唯心法界となり、遍く法界の功徳、悉く心内に顕現す。此の感応を成就せしむる本尊なるを、功徳聚と云うなり。復次に行者所住の依処、全く自心所現の不思議境域にして、遍く一切処妙色心内に顕現せる十方三世の一切国土、全体浄妙にして、三千の荘厳、無尽に縁起する宝場なることを開示して、以て

三丁裏

悟入せしむる本尊なる故に、浄壇大道場と号するなり。復次に諸仏衆生、塵塵法法、互いに周徧し、互いに摂受し、相入相現して、融妙不可思議なり。一一の法、悉く輪円具足の妙法なることを開示して、普く一切の円(3-397)妙法界に遊び、時時念念、不思議境を知見せしむる本尊なるを、輪円具足大曼荼羅と名づくるなり。名義を釈すること畢ぬ。

(体相 能表本尊相)

二に体相を辯ずとは、一に能表の曼荼羅の相を弁じ、二に所表の本仏の体を弁ず。初めを辯ずとは、分ちて六種の曼荼羅とす。一に法界自爾の曼荼羅なり。謂く、十方三世広しといえども、十界常住の相にすぎず。故に直ちに法界を以て一の大曼荼羅とす。此の

四丁表

時は大千万億の日月も曼荼羅の中に周帀し、諸仏衆生も曼荼羅の中に行住坐臥し、天地国土、都て大曼荼羅中に羅列して常住なりと観ずべし。此の大曼荼羅を一幅の紙上に模写したる道場荘厳の曼荼羅なり。二に霊山顕現の曼荼羅なり。謂く、釈尊法華を説き給う時、宝塔太虚に湧現して、二尊塔中に並座し、四衆八部三乗九界、同じく寿量の仏慧を信解し、各々に本位に居て、妙法蓮華、福智円満の儀式を整え、堂々厳然たる大会を見るなり。此の虚空会上、顕現の形相を、一幅の紙上に模写したる道場の本尊なり。三に道場荘厳の曼荼羅なり。是即ち紙墨縁起の宝形、仏滅度後二千二百二十余

四丁裏

年の間一閻浮提未曽有大曼荼羅、十界具足本有常住、妙法蓮華、因円果満、本門観心の本尊なり。是則ち顕には霊山虚空の儀相を写し、冥には法界自爾の形容を示し、正意は行者観心の信解を表発する、末代当機の大円鏡なり。四に行者心具の曼荼羅なり。是則ち一心の当体、三千円具し、分身散体、徧く十方法界常住、唯(3-398)一の妙法にして十界の依正、全く心内に具せるを、曼荼羅の真相とするなり。五に念念縁起の曼荼羅なり。是則ち日夜念念の起心に、毎に三千倶に発して、介爾の当念、みな三千含融して動起する不思議の法なり。六に依正各具の曼荼羅なり。是則ち森羅の諸法、一色一香一塵

五丁表

の中にも十界の依正互いに具足して、一種子中に衆多の枝葉花果を具足するが如き不思議の法なるを、各々互具の大曼荼羅と知見観照せしむるなり。行者一度曼荼羅を拝礼する時は、上に挙げたる六種の曼荼羅、不思議の法界を一時一念一刹那に供養すと信解すべし。大曼荼羅の実相かくの如し。

(体相 所表本仏体)

二に所表の本仏の体を辯ずとは、又二と為す。初めに寿量所顕無作の三身を辯じ、次に本門観心一体の三宝を辯ず。初めを辯ずとは、秘法抄に云く、「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点当初已来、此土有縁深厚、本有無作三身、教主釈尊是れなり」文。「五百塵点」等とは、爾前迹門の仏に簡ぶなり。「此土有縁深厚」とは、

五丁裏

他仏に簡ぶなり。「本有無作三身」とは無始常住を顕すなり云々。受職灌頂抄(外十八 二十二)「此の品の肝要は、釈尊の無作三身を明かし、弟子の三身を増進せしめんと欲す。今の疏に云く、『今正しく本地三仏の功徳を詮量す。故に如来寿量品と言う』此の三身は無始本覚三身なりといえども、且く五百塵点劫の成仏を立つ。三身即三世常住なり。今の弟子始覚の三身も亦我如く顕して、三世常住の無作を成すべきなり。」又云く「此の品の観心とは、妙法一心の如来寿量品なる故に、我等凡夫の一心なり。一心は即ち如来久遠の本寿、本地無作の三身、本極法身、本因本果の如来なり。所居の土は常在霊山、四土具足の本国(3-399)土妙なり」文。本尊抄に云く、「寿量品に云く、『然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり』等、我等が己心の釈尊は、五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古

六丁表

仏なり」文。意は寿量顕本の仏は、我等己心の釈尊にして、能顕の五百塵点によりて、顕るる所の所顕の三身、無始の本仏を云うなり。真間書(内三十七 二十九)に云く、「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ、己心の一念三千の仏造り顕しましますか、馳せ参りて拝み参らせ候わばや」文。本仏即己心の仏なる意なり。全く本尊抄等の意に同じ。御義口伝に云く、「此の品の如来は理即の凡夫なり」云々。所詮無作三身とは十界の依正、一切の諸法、悉く妙法の実体にして、凡夫所見の当位に於いて、法法円融し、一多相即し、一体の妙法、種々の異相を顕し、不同不異不生不滅なり。一切の諸法、並びに本有常住なるが

六丁裏

故に、一切みな非生現生非滅現滅の妙法なり。事事物物、同体一体、互融相生し、三千常住永く不尽にして、未だ曽って隔異之無き妙法なるを、無作の法身と云うなり。又三千の諸法並びに自体顕照にして、本仏の心内自在に顕現せる、妙智妙識妙福妙色を以て、一切諸法の色心境智を造起し、互いに相資け相光顕せる浄満法界なるを、無作の報身と云うなり。又十界の依正、三千の因果、並びに本仏体内の妙用にして、普現造色久成秘密の自在神力なり。苦楽得失、みな現一切色身三昧、普門示現の実相なり。是非善悪、悉く普賢神変不思議法界なり。かくの如く一切本有常住の諸相諸用なるを、無作

七丁表

の応身と云うなり。(3-400)故に四大六塵皆法身に非ざることなく、五陰三業皆報身に非ざることなく、四体六根みな応身に非ざることなし。但生滅即非生滅、四枯(苦、不浄、無常、無我)即四栄(常楽我浄)なることを、了達するに非ざれば、難信難解の法門なり。良に愛憎取捨の凡情を免脱して、後に妙処に悟入することを得べし。是即ち仏世の通機皆凡情を解脱し、厭離怖畏を降伏し得て、方に始めて開悟し顕本する所以の実義なり。(無作三身の実事を知らんと欲せば具に仏界一覧の中に説くが如し、又総勘文抄を熟覧すべし)、当に知るべし、行者の一色心全く是本成の妙体にして天地法界三千の森羅、全く自身の分身散体にして法界の依正全く自己一身内、事相顕現の三千なることを、

七丁裏

事の一念三千と名づく。是即ち法身の全象なり。向に引く所の灌頂抄、観心の本仏是なり。大曼荼羅は、全く此れ自体の法身を顕示する本尊なる故に、中央の妙題は、但是行者自己の色心を表章せる本尊にして、霊山顕現の諸仏衆僧、四衆八部、並びに自身の分身なり。乃至十方三世の、十界の依正、自己一色身の全象なることを、開示し悟入せしむる本尊なりと知るべし。又当に知るべし、行者は自己の当位に於いて、一切諸仏の教導冥応を受用し、一切の菩薩、衆賢の補佐を受け、一切の天神冥衆の擁護を受け、一切の智者識者能者作者の智徳を受用し、万国の冥利、王公士民の行用を受け、天地山海、草木禽獣

八丁表

の恩施を受用し、一切諸法の福徳妙用、来て一身に会し、無辺無尽の福報、三世十方に受用し、十界の妙能勝用、一色(3-401)心に、受用し主宰し、戯楽する相貌を、中央の首題に約し、観智普く察し、悟解し覚了し、娯楽歓喜すべき相を、開示し悟入せしむる本尊なり。是正しく無作自爾に備足し感得せる、天然の報身なり。又当に知るべし、行者自己の妙体、十方三世に貫通周徧して、十界の色像、三千の森羅、無尽縁起し、形相応用、円融無碍なる相を、中央の五字七字に託して、開示し悟入せしむる本尊にして、無作の応身、顕示分明なる大曼荼羅なり。已上大曼荼羅の図上に於いて、寿量所顕無作三身

八丁裏

の仏体を表示することを辯じ已ぬ。

二に本門観心一体三宝を辯ずとは、無作三身の釈迦牟尼仏と円因円果の妙法蓮華経と一念三千の菩薩摩訶薩と、是三全く一体なるを一体三宝と号す。何となれば、無作三身の仏は前に辯ずる如し。円因円果の妙法蓮華経とは、十界の依正、三千の森羅、円融不二の妙体に住して、是を信解し観行し、妙因を修するを円因と名づけ、法界円満の果報を受用するを円果と名づく。良に妙体は常に円融すれども、而も差別の相起きて、差別の見を生ず。差別の当位、本来円融なりと、信解し受持して妙行を修する故に、円融無碍の果報顕るるなり。

九丁表

是則ち果に即して因を修し、因に即して果を顕す。故に初心も法界同一の妙体を離れず、後心も亦法界円融の体に住して、而も差別の成道を致す。是の如きの因果は二而不二なり。果に即して因なれば、本に即して迹なり。因に即して果なれば、迹に即して本なり。是の如く本迹不二の円の(3-402)因果を、妙法と称し、蓮華と号す。此の妙因妙果、一時に具足して、行者一心の当体なることを、開示し悟入せしむる所の、妙経一部の法相にして、此の法華経の法体を、開示し信解せしむる、大曼荼羅の形相なり。当に知るべし、久遠実成無作三身の釈迦仏を離れて、別の法体なし。本仏の当体、即円因円果、妙法蓮華経の実体なり。

次に一

九丁裏

念三千の菩薩とは、即ち法華経の行者なり。亦是法界の全体、行者一念の依正なるを、事相の三千一念不思議の色心と知りぬれば、三千大和合僧海に帰して、仏法僧並びに唯一法界なるのみ。一念三千の僧身を離れて、別の仏体無く、是を離れて別の法宝なし。本門観心の一体三宝、其の相かくの如し。是の如き行者の妙体、事の一念三千の相貌を、開示し悟入せしむる大曼荼羅の形相なり。亦此の一体不異の三宝を、開示し覚了せしむる、大曼荼羅の形相なり。灌頂抄に云く、「釈尊と法華経と我等との三つは、全体不思議の一法にして、全く三つの差別無きなり。されば日蓮の類並びに弟子檀那、南無妙法蓮華経

十丁表

と唱うる程の者は、久遠実成本眷属妙なり。」文。「本眷属」とは本果の当体に即して本因なる故に本眷属と云うなり。事に約すれば主伴別あり。本理に約すれば主伴一体なり。三宝一体の義同じ云々。又文に「日蓮並びに弟子檀那」と云う。当に知るべし、並びに皆本眷属の菩薩摩訶薩なり云々。又当に知るべし、事に約すれば釈迦は本仏なり。法華経は本法なり。祖師は本僧なり。もし理に約すれば行者即仏即法即僧なり。故に御義には「如来」と云い、当体義には「妙法蓮華(3-403)経の当体」と云い、灌頂抄には「本眷属」と云う。大曼荼羅は並びに事理の三宝を開示す。而も理の一体三宝に悟入せしむるを正意とするなり。事の一体三宝は、本門の三宝なり。

十丁裏

理の一体三宝は正に観心の一体三宝なり云々。大曼荼羅所表の本門観心一体三宝の体を辯ずること畢ぬ。

(功徳 三秘受持の功徳)

三に功徳を辯ずとは、又二あり。初めに三秘受持の功能を述し、二に本尊信解の徳用を明かす。(今正しく本尊を弁明すといえども、三秘の法体、相離すべからざる故に、三秘に約し法の功徳を知るべし。即ち本門の妙戒を受持し、本門の本尊を信解し、本門の題目を修行するに、既に本門の三帰を具し、三学を備足し、三徳を成就する、是則ち三秘具足の功徳なり。故に先ず三秘相対して、総じて功能を明かし、次に別して本尊を信解するの徳用を述す)初めを明かすに又三とす。初めに三帰を具足するを云わば、先に已に本尊の体全く一体の三宝なることを明かすといえども、本尊は正しく仏に帰依して立行の所託とするにあり。題目は正しく是立行の法なり。故に正しく法

十一丁表

宝に属することを知るべし。妙戒を受持するは、正しく外小権迹九界の分域を免脱して、本門の行者、仏界の円人と成りて、僧宝の徳を成就するにあり。故に三秘の法体、正しく本門一体の三宝を成就して、観心の妙行を成し、本門の三宝に帰命依託するにあるなり。次に三学を備足するを云わば、聖密房書に云く、「宗と申すは戒定慧の三学を備えたる者なり」文。仏道の要は之にすぎず。故に本尊に依って心を定め、題目に依って仏慧を修し、妙戒を以 (3-404) て身を護るなり。是即ち久遠本仏の身口意三密の乗乗と知るべし。帰依の始めより、臨終乃至尽未来、妙法を受持して、之を信じ之を念じて、本地常住の三身を守

十一丁裏

護するは、是妙戒なり。(本門戒壇の事、今抄の正意に非ざる故に之を略す。要を以て之を言わば、今時は戒有って壇無し、受持有って事相無し、理戒総戒を以て、事戒別戒を、摂取して受持するなり。又受得の法式、文義倶に存して、行儀未だ伝流せず云々。)本尊に帰命して、円因円果の信心を決定し、妙境に依止して、即身是仏の安心を成就するは、本門の妙定なり。若し人、即身是仏の妙位を信受せずんば、名字の行者にして名字即の行者に非ず。即の義を信じざる故なり。説い即を信ずといえども、迹家の即に住せば、本化の弟子に非ず。蓋し今時の人、即の義に於いて信じず解せず。それ実に不信不解には非ず、不聞不聴なり。それ実に不聞不聴には非ず、説示する者無き故なり。弘経の人、自ら信解明浄ならずんば、豈に説示

十二丁表

することを得んや。蓋し昔より本尊の実義、隠没して顕れず。是最も大事を失する所以なり。四海の四衆、題目を随喜すといえども、本尊に随喜を生ぜず。是説示せざる故なり。然るに草山の所謂遐劫の微縁を甘んじて、下種結縁に安心する者あり。或は纔に寿量顕本の意を知るに似て、却って分別功徳増勝の益を知らざる者あり。此れ等は且く置き、詮ずる所は、無解但信を貴んで、未来成仏のみに安心しては、実教最上乗を受持する甲斐なく、王化隆盛の世代に生まれたる甲斐なし。教は実教なれども、意(3-405)は権宗に同じ。又小乗の情に流るる事、尤も歎惜すべきなり。若し一向下種結縁に安心せば、順次生の往

十二丁裏

生を期するよりも劣れるに非ずや。況や未来を期する信心も分明ならざる者に於いてをや。抑抑本尊抄御義口伝等の、佐渡以後の法義を見るに、出家在家男子女人に通じて、究竟の信解に安住して、唱題の妙行を修するを本意とすべし。殊に授職潅頂受円頓戒等の、高上の法儀分明なるをや。四衆通じて妙覚の高位を判ずること、祖文分明なり。況や即得究竟、もと経文より出たり。何ぞ信心を決定せざるべけんや。当に知るべし、初心より即身成仏の信解を決定して、実智の中に安住すべき、手本たる十界皆成、当位即仏の本尊なり。「是人之功徳、無辺無有窮」、「亦見亦供養、亦令得歓喜」とは、経に

十三丁表

円因を歎ずるなり。「時我及衆僧、倶出靈鷲山」、十界「諸色像、皆於身中現」とは、経に因果を歎ぜるなり。是の如きの円因円果、速疾頓成の相を、開示し悟入せしむる、妙境の本尊なり。是を本門究竟の妙定とす。

本門の題目は究竟の仏慧なり。一部の妙旨、諸仏の秘要、但此の五字に帰結す。故に若しは三諦、若しは三千、若しは五玄、若しは十妙、唯だ妙の一字を念ずれば、現前せざる事なし。況や五字の妙名は、法として摂せざることなし。「如来の一切の法、如来の一切の神力」等、一音に召起し、一念に受用す。但経文祖章の、妙義を信解し得て、解了に任せて妙名を唱うれば、諸の法門妙行に帰せざること

十三丁裏

なし。例せば一切の法門、三観に結帰して修(3-406)習するが如し。御義口伝の指南の如く、一切の法門、五字に結帰して、之を受持し修習するなり。観経(佛説觀普賢菩薩行法經)に「不入三昧、但誦持故、專心修習」と云う。南岳(法智遺編觀心二百問)の「散心誦法華、不入禪三昧」、但誦持の故に「見普賢身」(節略)と云う。法師品に「於法華經乃至一句受持讀誦解説書寫」と云う。及び処々に「一句一偈」等と云う。意並びに妙題に在るなり。一句の要、妙題にしく無きが故なり。唱題は即一句を誦持するなり。経に読持誦持書持等と云うは、読文に約して持し、誦文に約して持する義にして、口業に託して念持するなり。今唱題は正しく誦持に約して念じ持するなり。三業倶に持すれども、口業

十四丁表

最も持し易く、念じ易し。故に初心の持経、唱題肝要なる所以なり。信解品の御義口伝に云く、「諸仏の智慧をかう(買う)は信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり」文。仏智如来智自然智を、一言に結集せる、五字の妙名なり。妙名を持するに、仏慧現前するなり。然るに唱題の慧行を成ずること、必ず聞解に由るなり。竜女云く、「又聞成菩提」、仏云く、「須臾聞之即得究竟」と。然るに但信無解も益無きには非ず。若し解了に比せば、天地遥かに殊なるなり。然るに即身成仏を信じて、疑うこと之無き者は、解了と何の異なりあらんや。信即解なり。今斥う(うかがう)所は即成を信ぜざるにあり。若し即身成仏に於いて、信心決定せば、全く妙解に等し。而も等と不等は、其の

十四丁裏

人にあり。又自行全く等なるも、但信を解了に比せば、化他の用、何ぞ同じからんや。試みに問う、但信の行者を、宗祖に比せば同異云何。誰か敢えて全同を許さん。当に知るべし、信解行証、初後無きに非ず。若し(3-407)は即、若しは六、以て知るべし。故に知んぬ、但信を貴んで、解了を欲せざるは、自棄に非ずや。豈懈怠に非ずや。但利鈍智愚、其の分に随って、進退を知るべし。幼少壮老の人、飲食不同あり。無智有智、上中下根、法身慧命を養うに、解行聞思、種々の増減を知るべし云々。要を取って之を論ぜば、仏智を得んが為の信に非ずや。若し永く仏慧を得ざらんは、信じて何の益あらん云々。諸仏秘要蔵、「能持是經者 不久亦當得」と云えり。既に是経

十五丁表

を持す。何ぞ秘要を得ることを欲せざるや。「樂説無窮盡」は現報を明かせるなり。何ぞ強いて初心に執することをせん。宝珠目前に在り。何ぞ永く貧窮を楽うべけんや。無尽の法財、祖章に彌布せり。何ぞ一餐を志求せざる云々。願わくば海内の緇白、同じく仏慧を信解して、祖師の本願を満たせんのみ。上来は通じて三秘に約して三学を論ず。若し別して本尊に約せば、本尊に帰依するは、即ち三帰戒徳を成ず。本尊に信順して、一心決定し、又対向依止すれば、定徳を成じ、是に依って、妙解成就し及び仏慧を顕示するは、即ち慧を成ず。当に知るべし、三学成就するは、本尊を信解するの功勲なり。

三に三徳を成ずるを云わば、本

十五丁裏

尊は行者の内体を顕し、本有の実身を見せしむる妙境なり。実身とは即ち法身なり。肉身生身即ち法身なるを、開示し悟入せしむる本尊なり。題目は仏慧即ち般若なり。妙戒は亦解脱戒と号す。一一の戒、必ず解脱を得る故に、解脱戒と名づく。即ち解脱の徳、本有の妙戒は無解無脱にして即ち解脱なり。不思議解脱是なり。三道即三徳、一法の捨(3-408)離すべき無く、免脱すべき無し。又取捨縛脱も亦皆実相なれば、事事是解脱なり。但此の妙法即是解脱なり云々。三秘受持の功能を述すること畢ぬ。

(功徳 本尊信解の徳用)

二に本尊信解の徳用を明かさば、夫れ妙法蓮華無作の三身、十界の依正無尽の色像を現じて、四大六塵徧一切処、無

十六丁表

量無数の妙境と成り、五陰六識徧一切処、無量無碍の妙智と成り、久遠以来尽未来際、体用照応窮尽あること無し。故に一法として妙法に非ざることなく、一塵として仏体に非ざるはなし。故に一切の取捨憎愛、種々の煩悩、並びに妙智の変動に非ざる事なく、善悪浄穢一切の作業、久成の秘密神通に非ざる事なく、一切の生住異滅、並びに無始の本体の非生現生、非滅現滅に非ざる事なし。故に集として断ずべき無く、苦として捨つべき無く、道の修すべきなく、滅の証すべきなし。界界即是、事事全く真なり。然るに六塵七情に貪著を生じて、三毒を増長すれば、互相残害、損減消衰、須臾に至り、乃至

十六丁裏

悪道の重苦を受けて、憂悩無量なり。故に仏法王教を設けて、巧慧を施し、一切衆生の五欲七情を折伏し、小欲知足普賢法界の妙道に入らしむ。如来一代教法の帰趣は、遮障門は小欲知足にとどまり、顕徳門は円因円果にとどまれり。六塵に於いて貪著を生ぜざれば、境界に障碍無し。障碍無ければ、根塵自然に清浄なり。円因円果に住すれば、六塵五欲皆実相に帰し、報土の妙境自然に現前すべし。行者大曼荼羅を信解して円果に住し、円因を修すれば、一切の愛(3-409)欲、頓に実智に帰し、五欲七情、仏智に非ざる事なく、三業六作、不思議解脱を成し、生老病死、頓に常楽我浄に帰す。

十七丁表

況や種々の教を摂し種々の行を開し、十妙に遊戯し、十乗を愛玩し、自在の妙行を以て、法身を荘厳し、仏国を浄治せば、法喜妙楽、虚空界に彌満すべし。尽未来際窮尽すること無し云々。無尽の徳用広く説くこと難し。信解弥弥深ければ、徳用弥弥顕る。

(利益 即成大利)

四に利益を述すとは、又二にして、初めに初成の大利を明かし、次に増勝の深益を明かす。

初めに本尊の相貌を信解して、己身本有の妙利を逮得することを明かさば、夫れ現前事相の妙法を観ずるに、天気地味、山薬海藻、食し来たりて、自己の身肉となり、自身の皮膚毛爪垢穢便塵、下し去りて、千山万田、人民鬼畜の食因となり、肉因となり、又天雨海水、渓流叢露、来りて自己の

十七丁裏

潤膏となり、自身の涕唾汗膏小水等、去って人畜草木の滋澤となり、又三際の気、十方の風、来りて自己の気息連命となり、自己の風喘気息、去って天気地風、人命獣息となり、又天暑地熱、木火温暖、来りて自己の温暖血気となり、自己の温熱去って、天下の陽気温暖となり、十方の虚空、常に鼻端に入り、徧身の毛孔、譲りて万物の含象と成ることを知るならば、事の一念三千の相、及び身土徧法界の体、須臾に了達し、一身無量身、一法一切法、円融無碍の相摂相具の貌、刹那に信解するに堪えたり。事相に顕れて、了了分明なる、分身散体の果体なり。眼前に赫赫顕著なる、身土不二の儀式なり。

十八丁表

是則ち(3-410)大曼荼羅の図面に画示せる久成常住の法身なり。復当に知るべし、自己の色身、是天地万象の主宰にして、万法を知見し覚照する大法王なり。天地法界現前すれども、人心照見し受用し、愛玩するに非ずんば、孰か諸法の妙を顕揚せんや。当に知るべし、人は是天地の心なり、法界の宰官なり、万物の王者なり、諸法の知者覚者なり、世間の尊なり、鬼畜の調御丈夫なり、幽冥天神の開示宣揚の師なり。天の覚照の徳に如し、地の愛養生育の徳に如し、如実の道に乗じて来現する、無上具徳の士なり。四大六塵を受用する応供の主なり。十方三世を開覚し徧知する正法王なり。心以て諸法を

十八丁裏

明了し、身以て万象を行用する、万徳具足の福報あり。実体不滅、法身常住、三世不生の広大善逝、生死即涅槃の大報主なり。尊卑賢愚、大小優劣、種々の世間法に於いて、解知分明なる真仏なり。要を以て之を云わば、一切の行用を兼含し、一切の福徳を全備せる、人間の果報なり。十方三世の功徳不思議を具足し、三千唯一身の妙体、一身一念徧法界の実体なり。是則ち大曼荼羅の図面に顕象せる久成常住の報身なり。又当に知るべし、一身の五大六根、五陰六塵、皆法界に周徧して、無碍無際の色心なる故に、父母所生の肉身、全く大千円融の浄妙法身なり。隔歴差別の現相に即して、円

十九丁表

融無碍の内体常住なり。故に差別の相は、鏡像水月の如くにして、微妙円浄の法身に即する相好具足の凡夫身なり。釈迦仏に約すれば、王宮誕生の肉身、即ち周徧浄(3-411)妙法身なり。三十二相とは、六根四支の美なるを云うなり。八十種好とは、皮膚毛爪の全備を云う。当に知るべし、仏と凡夫とは美醜異なりありといえども、生身の形相、碩いに異なるに非ず。応身猶異ならず。況や本有常住の法身、久遠円満の福報をや。当に知るべし、智眼一度明浄なれば、頓に仏位を成じ、覚体平等なり。故に得失は信解の有無に由る。信解明浄なれば、即得究竟の懸記、忽ちに自身に帰し、速成仏身の本誓、須臾に満たし、従本垂迹の化

十九丁裏

身、他に求むるに非ず。開迹顕本の実体、全く自家の事を成ず。是則ち凡身の当位、自然に具足する無作の応身なり。大曼荼羅の開示する所、正しく如上の信解妙証に在り。八万法蔵の旨帰、二十八品の真詮、五字七字の実義、即身成仏の妙悟、更に余蘊之無きなり。又案ずるに、寿量品に云く、「衆見我滅度 廣供養舍利」「一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出靈鷲山」云々。文に「不惜身命」とは、生死苦命の見著を捨離せしむるなり。蓋し寿量の長行偈頌、みな生滅の仏に即して不生不滅常住の仏体を見せしむるにあり。故に今所引の文、また「衆見我滅度」乃至「常在此不滅」と云うなり。「衆」とは滅後の

二十丁表

当機なり。「廣供養」とは、一に処に約して、謂く、在在処処、皆舎利を分布して供養す。二に物に約して、謂く、諸物を以て種々供養す。三に行に約して、謂く、種々の行相を以て、三業六根広く供養す。四に人に約して、謂く、衆人皆供養す。五に観に約して、謂く、一身無量身に住して供養するなり云々。「舎利」とは、一に肉身、二に法身、三に観身なり。法身とは経文及び曼荼羅なり。観(3-412)解とは行者の色身即本仏の舎利なり。三義則ち文義意の三、及び教行証の三意なり。「一心欲見佛」の一心とは、一に専心不失なり。二に心外に仏を求めず。一心即法界なるを、真身の仏とす。「不自惜身命」とは、一に事に約して、謂く、障難を顧みず、真実を求むるなり。二に行に約して、謂く、愛養を忘れ、身著を離るるなり。

二十丁裏

三に理に約して、謂く、凡身を見ず、直ちに自身是仏を信解し、凡身の執情を捨離するなり。即ち凡身に於いて凡身を惜しまず、永く捨てて迷わず、唯是仏身を存するなり。此の時業報身、差別身を、捨離免脱して、妙法身、円融身、法界身を感得するなり。「時」とは信解相応の時なり。「我及衆僧」とは、「我」は即ち中尊、「衆僧」は即ち諸尊なり。是、曼荼羅に約す。また「我」は即ち自身、「衆僧」は即ち十方三世の十界なり。是、信解に約す。又「我」は即ち釈尊の三身、「衆僧」は即ち諸尊の真身、各々の第一義身なり。是、円理に約す。又「我」は即ち自身是牟尼、「衆僧」は自身即多宝、乃至一一尊なり。是、観行に約す。「倶出靈鷲山」は、一に道場に約し、二に曼荼羅に約し、三に観に約す。自身即霊山、唯身

二十一丁表

法界、常住寂光なり云々。已上寿量の文意に約して、己身本有の妙利を逮得する義なり。亦是、曼荼羅を信解する故に大利を得るなり。(又経文の「質直意柔軟」は、「質直」とは信なり。「柔軟」とは解なり。又「質直」は実教を信ずるなり。「柔軟」は権教を捨てるなり。信及び捨、皆一には教に約す。二に理に約さば、謂く、権教の文を捨つとも、権迹の義を捨てずんば、妙解成らず。又「質直」は正理に信順するなり。「柔軟」は妄情を遮碍せざるなり云々)又開目抄に云く、「日蓮と云いし者は、文永八年九月十二日子丑の時に、首刎られぬ。此れは魂魄佐渡の国に至りて」等云々。文意は(3-413)宗祖大士、自ら開迹顕本を明かして、佐渡已前の凡夫と見つる身命を捨て已って、佐渡以後の本地聖身を顕して、凡夫身即聖者身にして、垂迹の肉身、即本地法身なることを開示し、例して弟子檀那諸の四衆の、開迹顕本、即身成仏を

二十一丁裏

体達せしめ給う妙判なり。即ち煩悩業所感の凡夫身と謂える、無明の見著を破して、本地果海無作の三身、常住の真寿、法身慧命を開悟せしめんが為の深妙の教諭なり。此の抄、殊に此の法門あることは、高祖自ら一天四海の、大導師慈父君主たる、願行功徳を成就して、日本国の依正を、自身の全体と知見し給う、悟道の妙旨を顕し給う、御文章なるが故なり。当に知るべし、近くは日本一州、遠くは一閻浮提、乃至大千国土、十方三世の依報正報の、三千の身土を、皆以て自己の一身に領受して、師君父母等の思想を起こし、全く自己の一身体を護持する、大知見を具足せば、正しく「我此土安穏」の妙旨、「唯我

二十二丁表

一人、能爲救護」の経意を見得する者にして、真の事の一念三千の開悟なり。是、真の仏子法王子、出世の長者、人天の眼目、便成正智覚の大薩埵、初めて仏位に坐するなり。即得究竟、豈、空しからんや。大経の「發心畢竟二不別」とは、豈、余義ならんや。当に知るべし、自身全く天地の主にして、森羅万象、全く自己一身内の妙境なることを了達せば、何の智か発せざらん。何の願いか発せざらん。何の行か修せざらん。何の楽か受用せざらん。又当に知るべし、自家の天地法界、即ち是万人各々の自家の天地法界なれば、円融無碍の妙果、眼前に見るなり。(3-414)一月万家の玉、一金四海の宝となる。塵塵法法、顕わに融し、冥に融し、周徧

二十二丁裏

隠顕、自在無碍なり云々。初心の信猶解是の如し。況や善入仏慧、通達大智、能度無数の大導師の功徳をや。日夜勤修して、以て深妙の娯楽を求むべし。自ら是の大知見を開き、又普く一切を教諭して、是の如く仏知見を開かしむ。是即ち開目抄所顕の、広大無辺の妙行、開仏知見の実義なり。又不軽品に云く、「其罪畢已 臨命終時 得聞此經 六根清淨 神通力故 増益壽命」文。「其罪畢已」は三道即三徳と転ずるを云う。「臨命終時」とは、妄情の謝去するを云う。「得聞此經」とは、一切の六塵、皆円妙修多羅と知見覚するを云う。「六根清淨」とは、父母所生の肉身肉眼等、皆法界円融の相を見るなり。所謂三千一切法、眼根法

二十三丁表

界に趣入する等、大千の依正、自己身内に顕現する相なり。六根皆十方三世に周徧して、久遠常住の清浄妙色なることを知見する故に、六根清浄なり。「神通力故」とは、正信塞がずして、天然の慧性、三世十方、周徧無碍なるを云う。解了円通して、六根の妙用、十方無限なるを云うなり。所謂円妙の信解力是なり。「増益壽命」とは、過去常、未来常の本寿を得るなり。故に増益二百万億那由多歳と云う。又本寿常存すといえども、信解力に依って発する故に、本覚の寿の上、更に始覚の智寿を得る故に増益と云う。又三身の寿命並びに増益し、顔貌厳好にして、報寿自ら中夭なく、老衰無きを云うなり云々。常住の仏身現前して

二十三丁裏

不軽の尊体を得る故に、常不軽と云うなり。大折伏の威音王仏の法威を存して、常(3-415)住不軽の開悟を成就し、一切四衆皆十界に摂して、本尊中に入り、不軽の敬礼を受く云々。若し人此の妙法を信ぜずして、此の本尊を解さざるは、貧窮・孤露・徳薄・垢重の、客作の賊人なり。徒に三仏の宝を数えて、自ら半銭の分無き者なり。故に深信の行者は、自己の身上も常不軽なり。三千の依正も、他宗の人法も、常不軽なり。意に不軽の解を懐き、口に不軽の法を唱え、身に不軽の業を修す。不軽とは尊重高上の行なり。無辺広大の行なり。清浄甚深の行なり。安意立身の行なり。久成の仏体を知るは、高上尊重の行なり。唯身法界の体な

二十四丁表

れば、無辺広大の行なり。三道即三徳なれば、甚深清浄の行なり。娑婆即寂光なれば、安意立身の行なり。是れ即ち四大薩埵の、徳行を具して、無作無為の道に安住するなり。又日女抄に云く、十界一人も漏らさず、「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」乃至「此の御本尊左右前後に立ちそひて」「日女御前をかこみ・まほり給うべきなり」(節略)又云く、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ」文。意は行者の当体を本尊の正主と云う意なり。本尊抄に云く、「妙覚の釈尊は我等が血肉なり」又云く「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして(塵点是能顕、無作三身是所顕)無始の古仏なり」文。自の色心即是の義なり。宝塔品に云く、

二十四丁裏

「若有能持 則持佛身」。御義口伝に云く、「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり」今云く、若し人此の妙法を受持せば、誰か久成無作の本尊身を持つにあらざらんや。若し仏身を知るならば、高上厳重の行を修して、仏徳を荘厳す(3-416)べし。卑賤の行を行ずべからず。無辺広大の行を修して、衆生を利益すべし。偏僻の行を行ずべからず。清浄深妙の行を修して、仏土を厳浄すべし。穢悪の行を行ずべからず。安穏成立の行を修して、三宝を護持すべし。顛倒の行を行ずべからず。正法を建立して、国家を平安ならしむべし。当体蓮華を開布して、仏界を荘厳すべし。開仏知見の道を修して、衆生に主となり親と

二十五丁表

なり師となるべし。己身の本尊を光顕して、主伴魏魏たるべし。何ぞ必ず下種の微善を甘ぜんや。何ぞ宝蔵を得て守護せざらんや。豈、宝山に入りて手を空しくすべけんや。既に宝渚に遊び、又何ぞ珍宝を取らざらんや。法華涅槃重々の法門も、日用の行事を録するなり。華厳維摩若干許多の法門も、昼夜の作業を記するなり。祖師(総勘文抄)云く、「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」又(外二十二 二十九)云く、「日蓮が法門は狭きに似て甚だ深し」とは是なり。大曼荼羅に重々無尽の妙法門あり。即身是仏、行人即本尊の義を其の肝要とすべし。本尊は但是行者の手本なるが故なり。

(利益 増勝深益)

二に増勝の深益を明かさば、御

二十五丁裏

義口伝及び内外の祖文に准ぜば、解了は自身是仏に止まり、修行は唱題及び読誦解説までなり。是時代に順じ、下機に従う故なり。徳川家御治世より、世の中大いに文華に帰して、大いに昔時に同じからず。機自ら利鈍交雑せり。故に中興の諸師、学校を啓き、三学を興し、懺法を修し、声明を兼ね、博覧を究め、詩文を弄せしむ。然りと雖も、当家の学甚だしく隠れ(3-417)たり。故に近代観如透師、智渓導師等、務めて当家の学を興せり。然るに宗義やや顕れたりといえども、未だ本迹双用の妙旨を究めず。今や文華の盛んなるのみならず。儒学国学、高上の議論を立て、大いに仏教を破斥し、王公貴人文学の士は、大体仏法を

二十六丁表

軽視して、児女童蒙の誘善草とのみ謂えり。然るに諸宗一同に是を知らず。今や尋常の仏法にては、大いに威徳勢力を失う故に、必ず学問も高上ならしむべく、修行も高上ならんことを欲すべし。是当今の大義なり。是即ち増勝の益を求むることを論ずる所以にして、本より迹を開し、頓より漸を開し、助行を増進し、妙道を光顕する義旨なり。行人もし護法の志怠らず、修学増進し、妙行高上なれば、自然に勝利を得べし。

或いは文才雅辞を習いて、無作の法身を荘厳すべし。本尊もとより微妙の文華あり。或いは多聞博学以て仏知見を扶翼すべし。本尊素より世間出世間種々

二十六丁裏

の法相、無尽の妙旨を含容せり。或いは妙智を求めて論議を巧みにし、或いは妙弁を習いて法門を開演し、本尊を光顕し、衆生を利益すべし。或いは大乗甚深の妙旨を観察して本尊の幽致を顕し、或いは講解四衆を誘き、著述後学を開導して、本尊を護持し、或いは筆道習熟して、本尊を荘厳し、或いは戒律威儀三業清浄にして、貴人高士を信伏せしめ、或いは外道異学に達して、外を伏し内を扶け、或いは妙唄吟誦、鬼神を摂伏し、或いは摂心修禅、妖邪を降し、異類を伏し、或いは高談妙論、王公を摂伏し、或いは天台真言、華(3-418)厳禅門諸宗に通達し、他の四衆を摂受教化し、又諸宗の法門、本尊に総摂する旨

二十七丁表

を知り、或いは修造灑掃して、仏土を荘厳し、或いは四摂六度、四弁八音、十力四無畏を分修し、本有の仏徳を光顕して、本尊を成就す、一一の法の中に於いて、無量の妙用を具足し、解行増勝なれば、得益亦増勝なり。但宜しく妙解円転して、思惟明了なるを本とすべし云々。深解を以て妙境を照らせば、妙境の無碍無量あるを見る。妙境漸現すれば、妙智増明なり。妙智明らかなれば、妙行増自在なり。妙行自在なれば、妙位益高し。其の道位益高ければ、其の徳益成就す。或いは花鳥風月の中に於いて、種々の三昧を得る。或いは諸の技芸の中に於いて、陀羅尼門に入り、無量の法相を総持して、無碍弁才を発し、

二十七丁裏

或いは大慈悲心を運んで、自然に法界に融し、王公臣民四衆群生の帰依処となり、天神冥衆服従をなし、大道行を成就すべし。娑婆に於いて報土を見るは、分別品の如し。六根明浄を得るは、具に品の如し。三昧を得るは、普門品の如し。自在神力を得るは観発品の如し。勝益増進の相、思いて之を知るべし。略して上に出すが如し云々。

上来略して本尊の本意を弁じ畢ぬ。又筆法座配付嘱等種々の議論、具に広本の如し。

妙宗本尊略弁巻の下 明治四年辛未冬刊 弟子文嘉日薩校訂

 

 

 

一丁表

(3-419)本尊略弁付録

付録に五科あり。一に略して本尊得意の要を結し、二に重ねて本尊問答抄を弁じ、三に祖書綱要の説を議し、四に隋身の立像を議し、五に釈尊の形像を安置することを論ずるなり。

(本尊提要)

第一に略して本尊得意の要を結すとは、久成の釈尊を立名とし、妙経の題目を形相とし、行者の自体を実体と定むるなり。此の義本編に委悉なれども、今結要を提示するのみ。

 (弁問答抄)

第二に重ねて本尊問答抄を弁ずとは、或人云く、祖師本尊抄報恩抄等に、既に分明に釈尊を本尊とす。然るに重ねて最後の問

一丁裏

答抄に、一向に題目を本尊と定め、殊に釈迦多宝等を立つるは、法華行者の正意に非ず。題目を本尊とするは、法華行者の正意なりと云えるは、何なる所以ぞと案ずるに、一に諸仏所師の妙法を本尊と定めて、諸宗超過の本尊なることを顕す。是は他宗に対する義なり。二に釈尊を本尊とする時は、行者の正意あらわれ難く、題目を本尊とする時は行者自己の全体の本尊なる正意顕れ易し。是は初心の行者に本尊の実体を知らしむるの便宜なり。三に所観の本尊と能観の正行と其の相全同なれば、唱題修行の時甚だ便宜あ(3-420)り。是等の義に依りて、本尊の正体を分明な

二丁表

らしむ。且つ前来本尊抄報恩抄等にては、本尊の相貌、初心に分弁し難く、久成釈尊教主等の言に惑いて、其の正意を失わんことを恐れ、重ねて泛濫なき様に、問答料簡して重ねて分明に開示し給うなるべし云々。此の濫を、簡義を加えれば四義なり(已上或説)。今更に云く、問答抄に専ら法師品に依り、法華三昧に准じて論じ給えるを見れば、天台大師迹門に依りて、一部を本尊とし給えるに対して、宗義は本門の意に依り、根本法華本有常住の題目五字を本尊と定め給う意もあるべし。此の義は本迹相対の意なり。是を加えて五義とすべし。是にて重ねて法本尊を立て給える疑いは消えたり。或説尤も依用すべ

二丁裏

し。

さて法師品涅槃経普賢経等を引き、寿量品を引き給わざることは、顕了なる文に依りて便宜に従うなるべし。法華三昧天台大師に依拠し給うことは、他宗に対して先例を強くし、法本尊を専らにせんが為なり。

報恩抄等に(は)言は釈尊なれども題目を正体とする義なる故に、前後の二説相違に非ず。本尊抄報恩抄等は義を顕すを正意として、人本尊を立て給うなり。問答抄は形態を正意として其の義を論じ給わざるなり。就中、本尊抄は文義意倶に備えて、名相体顕然なれども、初心には其の旨を得難き故に、問答抄には一向に義趣を論ぜず、唯法華の行者の正意とのみ云い給うなり。

予が人

三丁表

本尊を主張するは、祖師の本意を顕し、其の実体を開示せんが為なり。人法二説なれども、実は唯(3-421)一種の本尊にて、其の旨元より決定せるなり。所詮名相体の三に約して決了すれば、解行滞らざるなり云々。

さて正しく本尊を造立するには、必ず二尊四菩薩乃至諸尊具足せる大曼荼羅を図して全く宗家の正本尊と意得るべし。委しくは広弁の如し。問答抄は形相の正主を顕すまでなり。真の形相は大曼荼羅を正体とし、本体とし、本尊抄を究竟の旨帰とすべし。本尊抄は正宗の説なり。問答抄は流通分なり云々。

諸寺院に安置せる形像は大曼荼羅を模取たるなり。寺院は荘厳を正意と

三丁裏

する故、木像を用いるべきなり。自行の便宜は書写の曼荼羅にしくは無し。委しくは広弁の如し。

(弁綱要説)

第三に綱要の説を議すとは、第七巻(冊略)本門本尊三種異目章に、一尊四士、二尊四士、両種の木像、祖師の親刻にて、中山に蔵するの由を弁ぜり。亦或人云く、綱要の説信じ難し。何となれば、一に祖師仏像を彫刻し給う事、内外の祖文に一向見えず。二に本門の本尊を佐前に彫り給うべきにも非ず。佐後に延山より手づから彫って送り給うならば、必ず副書等もあるべきに、其の事無きのみならず、弘安二年の四菩薩造立抄に云く、「一御状に云く、本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久

四丁表

成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと云云」。この問いの文にて未だ一向彫刻無き事明らかなり。又中山に安置し給う程ならば、必ず身延山にも造立(3-422)し給うべき筈の事なるに、一向その儀無きは不審なり。三に中山両種の本尊も、親彫あること分明ならず云々。今云う、綱要に挙げたる記録の中にも、埴谷抄と啓運抄は祖師自作の仏像ありし由見ゆれども、畢竟未審なる事、或説の如し。又造立抄にも、又云く、「当時は其の時に相当れば地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るべし」云々。「先其程」の三字は地涌の菩薩の出現之有るまでと云う意な

四丁裏

るべし。但し前年の問答抄と忽ち相違出来する故、釈尊の事を且く置きて脇士のみを筆し給う意もあるべし。此の書の中親から釈尊等を彫刻し給うべき文勢も見えず。但泛爾に正しく其の時に当たれる由を答え給うのみ。又綱要の中諸法実相書を引いて、二尊四士を造顕し給うべき義を証すれども、在島の撰書なる故、但その義勢のみを筆し給えるなるべし。造立抄と同じ意味なるべし。但し或説の義は祖師の本意は釈尊造立の義、有るまじき事と定めての議論なり。予が意は必ずしも造像あるまじとも思わず。されども中山の本尊を証とする事は不審なる事、向に云うが如し。

然るに諸寺院安置

五丁表

の木像の義は、大曼荼羅を木像にしたるまでのこと故、祖師の彫刻は無くとも妨げには之無し。本尊抄にも木画二像とあり。祖師の在世にも、四条氏夫妻の建立もあり。真間の仏もあり。立像の隋身仏も廃し給わざる故に、木像金像等一切妨げなき事なり。諸尊の存略不同なるも、曼荼羅の存略不同の例あれば、一向相違之無し(3-423)云々。

然るに綱要の正意は本尊抄に依りて、逆縁下種の本尊は一尊四士、順縁脱益の本尊は、二尊四士と云うことを立てんが為なり。然るに本尊抄の正宗、本尊の相貌を明かすには、具に大曼荼羅の相を列し給えども、結句には寿量品の仏と名づけ給う上は流通の

五丁裏

中の本門の釈尊と云うも、別体なるべからず。(是一)又四菩薩を脇士とすることは二処文同じ。畢竟逆縁下種は時の正意なる故、本尊抄一部の大判は種益にあり。然れども逆縁には本尊を授与すべき、義に非ざる故、順縁の機に寄せて本尊を顕し、別に逆縁の本尊あるべからず。(是二)又名目は釈尊とあれども、意は題目を本尊とする故、大曼荼羅の中尊即順逆二縁に被むるなるべし。(是三)又逆縁の本尊は、不軽の礼拝の如く、直ちに当機を本尊と見る故、佐前弘通の題目、その義を兼ねるべし。但佐後に至りて、義旨を発顕し給うのみにて、畢竟逆縁の本尊は名ありて、相無かるべし。若しその表

六丁裏

相を立てんとならば、伊東感得の釈尊は、逆縁を以て逆機にふれ給いて、顕れたる本尊なれば、此の仏の外に別に造立に及ばず。脇士の義は祖師常に随侍し給えるが、即其の相なれば、是良に佐前逆縁の本尊とするに足れり。(是四)又伝記には佐前に一尊四士の造立ありし様の説もあれども、佐前に四菩薩を造立し給うこと、必ずあるまじき義なり。佐後に至りて別に逆縁の本尊を造り給うも、後れたる事と云うべし。佐後には終に無用の仏なる故なり。若し逆縁結縁、其の「儀廃す」(全集欠落)(3-424)べからずと云うならば、諸寺院にも一尊四士を正意に安置すべき事なるに、嘗て其の義無しとして見れば、唯大曼荼

六丁裏

羅の中尊、即逆縁の本尊なるべし。(是五)又二尊四士も中尊無くば、本尊抄にも諸処の祖文にも違す。若し中尊あらば、只是曼荼羅の存略なるのみ。別に逆縁の一尊に相対する義に非ず。中尊即釈尊なる故なり云々。(是六)又順縁の本尊、題目ならば、逆縁の本尊弥弥以て題目なるべし。理体に約して、逆機を本尊と見る故に、有相好の本尊最も便ならざるなり。(是七)此れ等の妨げある故に、祖師一代、木像は造り給わざるなるべし。若し造作あらば、宝塔の題目を造り給うべき事、諸寺院の木像の如くなるべし。中山の二尊四士と云うもの、中尊無き者に似たり。若し然らば全く祖師の立義に違す。若し中尊あらば何ぞ

七丁表

其の説無きや云々。

案ずるに問答抄は諸尊を云わず。脇士を出さず。単に題目を本尊とすることを論ずる事、一遍首題の本尊と云うに似たり。則ち正しく逆縁下種の本尊に当たれり。是則ち本尊抄に釈尊と称するは、猶教相を帯するに似たるは(れば 全集)問答抄に単に題目を標して、退いては逆縁下種の本尊を顕し、進んでは順縁の行人、自体真実の旨を表す。然るに(れば 全集)問答抄は一向教相の本尊なれども、観心の旨を含し、本尊抄は正しく観心の本尊なれども、亦本門の教を兼ぬ。本尊抄は祖師一期の教観の旨帰なる故、其の意多含なり。是れ本尊抄の諸抄に勝るる所以なり。(3-425)

七丁裏

(弁隋身仏)

第四に隋身仏を議すとは、伊東朝高寄付の立像の釈迦仏、祖師因縁に任せて、受用ありしなれども、生涯身辺を離さず奉事し給い、弟子檀那へも付託し給わず、尊敬ありし事、深く所以無くんばあるべからず。古来種々の伝意ある由は、且く置く。所詮(世界 全集ルビ)属累品の釈尊、後五弘経の時を得て、祖師に帰託し、「如我昔所願 今者已滿足」の意を顕し、祖師の化導成就を表章し給えるものか。又(為人 全集ルビ)釈迦仏と法華経と祖師と事相に三宝具足し、見聞の資檀をして信敬を生ぜしめ給う義もあるべし。又(対治     全集ルビ)逆縁の四衆を一仏に摂して、誓願の境とし給う意あるべし。又(第一義 全集ルビ)生死海中無造無作、の本仏を

八丁表

発顕し給うべき、瑞祥もあるべし。是則ち且く四悉の意を以て大略を弁ず。乙御前抄に云く、「鳩摩羅炎三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給いて候いしぞかし、日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ昔と今と一同なり」文。隋身の釈迦仏、其の義なからんや云々。

さて祖師一代、此の仏を本尊とし給いたるやと云えば、左には非ざるべし。云何となれば、佐前には法華一部を本尊とし、佐後には題目五字、十界の本尊を立て給うべきが本意なるべき故なり。然るに法華三昧などは格別、平生には仏像無くては、何となく落ちつきもあしく、三宝具足の意も顕れざる故、幸いに任せて釈迦仏を立て給えるなる

八丁裏

べし。委しき意味は向に述べるが如し。然るに新たに造立あるも本意に濫ずる妨げあれば、自然感得の尊像なる故、立義にそむかず、釈迦仏を教主とし、(3-426)戒師とし給う意も備わりて、後々の弟子檀那、造立の発端とも成りて、自然に其の宜しきを得たるが、感応の妙なるべし。今此の仏を論ずるは、正本尊に濫ぜざらしめん為なり。余は次の章の如し。

(弁仏像安置)

第五に仏像安置の義を弁ずとは、祖師已に行用ありし上、冨木氏四条氏も皆造立ありしを以て、諸弟子諸檀越も、追々造立ありて、宗門一同の風俗と成れり。是則ち得意の者に於いては、大曼荼羅のみにても宜しきなれども、初心には有相の

九丁表

仏果を求むるは通機なる故、初心を摂する意あるべし。又仏国土清浄荘厳の為なれば、寺院の殿堂には金木等の美形の仏像を安置して、妙法を光顕すべし。又正本尊は無相の法仏を用いれども、而も教主は釈尊なる故、灌頂抄撰法華経等にも、第一に釈尊を勧請する(ある 全集)なり。又血脈も釈尊上行祖師と次第する故、尤も尊像を安置し供養を修すべし。是則ち釈尊を師として、大道を行じ、大徳を成就すること、釈尊の如くすべき軌範なり。又祖師年々大師講さえも修行ありしなれば、釈尊の供養報恩は勿論なるべし。主師親三徳の大教主なること、開目抄に委悉なり。彼の抄も釈尊を教主

九丁裏

として、祖師の三徳を成就し給える旨を顕し給うなり。造立抄にも「教主釈尊の御恩報じ奉り難し」云々。在家の人は祖師の恩を知って、釈尊の恩を忘るるも、猶可なり。出家は釈迦の遺法に依りて身を養い、祖師の親(3-427)教に依りて心を安ずる者なり。仏は君の如く、祖は父母の如し。重恩相等し。不知恩の者となる勿れ。又仏は君主の如く、祖師は将軍家の如し。仏門に住する者、皆然なり。又自宗には祖師の恩を知らしむべし。他宗の人及び外学世道の人には、釈迦を尊崇することを現さずんば、世人信ぜずして、公道の学に非ずと謂わん。況や又法華は釈迦の説也。題目は釈迦の所

十丁表

伝なり。宗義は釈迦の付嘱なり。豈流れを浥して、源を遺るべけんや。尤も釈尊を宗奉すべし。況や又釈氏の徳は、万国に周流し、幽冥に通徹す。其の大智徳に依准せざるべけんや。世の法華を学する者、或いは台教に縛せられて、祖師の貴きを知らず。或いは宗教に拘泥して、釈迦の広大を覚らず。或いは外聖を貴びて、釈師子の慈悲を知らず。或いは自身是仏を解すれども、法界を体内に摂することを思わず。或いは生死を畏怖して、常住の妙覚を修めず。並びに人情の執着褊小の局見なり。請う、釈迦氏の真面目を見て、祖師の実地を履き、法界の大都を知るべし。或人謂く、祖師の仏法は、釈迦の仏法に非ずと。若し然らば

十丁裏

何ぞ祖師のみならん。達磨の仏法あり。親鸞の仏法あり。天台の仏法あり。東叡の仏法あり。各々教外に出て妙絶と称し、四海に周流す。抑々諸家を妙摂する者は、誰が仏法ぞや。最自在大法王あり。求めて師と為すべし云々。

本尊略弁付録

 

 

 

 

 

 

十一丁表(追加)

(3-428)

本尊略弁付録追加

造立抄に、冨木氏四菩薩造立の義を、尋ね申されし事は、兼ねてより末法当今、本門久成の釈尊を、本尊に立て、脇士には、本化の四菩薩を造立すべき義を、聴聞ありし故、自ら其の像を造立せんと欲せられしかども、一尊の義は古今異議無し。但し四士は、古今その例之無きの故、殊に四士造立の義を尋問せんとの意なるべし。是則ち正中山一尊四士、造立の濫觴なるべし。

然るに是は釈尊の木像を、本尊とする義なる故、曼荼羅の中尊と、体同じく相異なり。本尊抄に、「木画二像」と云える中の木像は、即中山の釈尊等之なり。画像と云

十一丁裏

えるは大曼荼羅なり。木画等の義は、具に広弁の如し。是則ち本尊の作成に両種あれども、体は唯一種にして、人本尊久成の本仏のみ。

又問答抄に人を簡んで法を取るといえども、其の実体を秘して、且く外相に約して、法本尊と名を立てたる義なる故、是亦別の本尊に非ず。久成の本仏を迹仏応仏に簡んで法本尊と号し、初心の為に、外相に随いて、法本尊と定め給えるなり。委しくは本編並びに付録の如し。当に知るべし、本尊の実体に二種あるに非ず。

祖師自ら二種の本尊を立て、弟子旦那を惑乱せしむる義はあるべからず。然るに或いは仏と名づけ、或いは法と名づくる事は、内体外相、教門観門の不同な

十二丁表

るのみ。予も亦常(3-429)に曼荼羅を称して、大曼荼羅法宝と称す。其の意同一般なり。

一尊四士の木像は、四菩薩を脇士として、中尊を題目とする事、形相便宜あしき故、中尊を釈尊の形相に作るなり。是則ち応身即法身、迹仏即本仏の儀相にして、霊山の儀式に准ず。是亦行者の形体即本仏なる事を、体達せしむる観門の意なり。大曼荼羅と不同の意は、具に広弁の如し。大旨は向に云うが如し。

或師釈尊を人本尊とし、大曼荼羅を法本尊とし、我宗二種の本尊ありとする者は、祖意を得ざるなり。予が人本尊

十二丁裏

を主張する事は、大曼荼羅即久遠本仏の形相にして、本門所顕久成世尊、三秘中の一たる、人本尊なる事を顕し、即ち行者自身是仏の妙旨を諭し、祖師観門の本懐を、分明ならしめんとなり。故に本尊の実体を簡示するのみ。従来の本尊を改易するには非ず云々。

 

本尊略弁付録

明治五年壬申春刊 弟子文嘉日薩校訂