O−TEACHERの入院日記

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前口上

これは私が2週間入院して体験した実話である。たかが2週間されど2週間。14日間の闘病の記録である。よってギャグもお笑いもない ただの暗い、気が滅入るだけの記録である。だから変に期待などせず、せっかくのハッピーな気持ちでいる人は看過してもらって良いページである。 ここには単なる小心者の病弱者の繰り言があるだけだから。とりあえず自分の健康過信への警鐘としての記録なのです。

いちおう事の起こりから書いておこうと思う。今回私が入院した病名は「慢性肝炎」その増悪によるものである。 まずは肝炎について書かねばなるまい。とは言っても専門家でもないし、本で読んだり医者から聞いた話をつなぎ合わせた、個人的で勝手な解釈で あるので、本当に知ろうという人はこれを当てにされても困るので。いちおう念のため。

私が慢性肝炎に罹っているのがわかったのは偶然である。約4年前の1998年の時である。その時私はたまたま食中毒を起こしたことがあった。 父方の田舎へ帰省した帰りに、途中のドライブインで食べた腐ったおにぎりのせいである。あるドライブインで買ったおにぎりが、どうやら 火の近くに置いてあったらしく、どうも変な味がした。その時点で辞めれば良かったものの、意地汚い私のことだから全部平らげた。すると 途端にその日の夜、激しい腹痛を起こした。冷や汗と寒気が交互に来るほどひどいもので、すぐ近所の病院へ駆け込んだ。すぐ食中毒とわかり 4日間入院した。もちろん単なる食中毒だったので絶食して安静にしていたせいですぐ治った。その病院は個室しか空いていなかったので、たった 4日間の入院で5万円もした!当時は5万円のおにぎりと家族中に笑われたものである。その時の検査で、医者の方から 「血液検査したところ、肝臓の状態があまり良くない。一度きちんと検査してもらった方がよい。」と言われていたのだ。

肝臓?今まで考えたこともない箇所だった。以前に一度、尿管結石で6日間ほど入院した経験があるが、肝臓が悪いなどと一度も言われたことが無くて とまどう。それまでの肝臓の病気というと、黄疸が出て疲れやすくなる、そんな知識しかなかった。しかしその時は食中毒が治ったことの方が 嬉しくてたいして気にとめていなかった。

しかし家族が心配がり、一度検査を受けることを強くすすめた。そこで夏休みのある日。地元の割と信用のおける大きな病院に出かけ、採血してもらったのだ。 その結果、肝機能障害、「慢性肝炎」と診断された。ちょっとびっくり。過信はしていなかったけど、かといって不健康だとは全然思っていなかった。 しかし病気は突然やってくる。

医者曰わく「肝炎」と言ってもピンからキリまで色々あるらしい。最近新聞とかでもにぎわしているので知っている人も多いだろうが 例えばA型・B型・C型肝炎。実はD型以降も色々あるらしい。その他アルコールの飲み過ぎによるアルコール性肝炎等々。で、だいたい 何とか型肝炎とか呼ばれるやつは、ほとんどウィルスによるものらしい。普通では感染しなくて血液でしか感染しないのだそうだ。昔、日本に 多かったのは母子感染らしいが、最近は妊娠中の検査でわかるそうだ。あと、感染源として多いのが、ニュースにも出ている、昔よく行われていた 注射針の使い回しによる感染らしい。昔はよくその危険性がわかっていなくて、どこの医療機関でもやっていたらしい。私もその可能性が なくはない。ただ私の場合、以前父親が、やはり肝臓病の疑いで若い頃1ヶ月ほど入院した経験がある。また父方の親戚にも肝臓病の 疑いがある人が数人いる。その遺伝かもしれないが、やはり判然としない。つまり原因はわからないのだ。

さてその症状だが、先ほど書いたとおり、黄疸が出て、肝機能が低下し、慢性的な疲労感に襲われる。そして肝硬変から肝臓癌へと 進んでいくのが一般的らしい。普通の人でも肝臓癌にかかる人はけっこうな割合でいるのだが、C型肝炎などは、普通の人の10倍以上の 確率で肝臓癌になるらしいのだ。また肝臓は沈黙の臓器と言われていて、自覚症状がないのが一般的なのだ。 だからこそ怖いとも言える。自覚症状があって、例えば黄疸やら極度の疲労感があった場合は、かなり悪化していると考えて良いらしい。 幸い私はまだそういう症状はないのだが。

で、治療方法だが...実はきちんとしたのがないのが現状である。ウィルスのため、抗体になってしまい自然治癒する人もけっこういるのだが そうならずずっとウィルスが存在する状態が続く人、それを慢性肝炎と呼ぶのだが、そういう人も意外といる。肝臓というのは身体の中の 悪いものを除去する浄化作用がある臓器なので(例えばアルコール分解など)これが十分に機能しないとやはりまずい。肝臓は自己回復機能が あって、自分自身が悪くなっても、自分で回復しようという機能が備わっている。ところがウィルスがいると、その機能が効かなくなり 少しずつ悪くなっていくのだ。ならばウィルスを除去すれば良さそうなものなのだが、それが現在の医学ではまだできないのだ。ウィルスと 言えばエイズ然りである。だから現在行われている治療は対処療法に近い。ウィルスの勢いに負けないように、肝臓の自己回復能力を促進するための 投薬、強力ミノファーゲンCという注射、また一部の肝炎には効果があると言われているインターフェロン投与などである。しかしどれも 決め手に欠け、肝硬変や肝臓癌への移行を遅らせる効果があるぐらい。なかなかやっかいである。アルコール性肝炎などはお酒を止めれば ある程度効果があるらしいが、あまり悪くなってからではそうでもないらしい。以上が私が得た浅薄な肝臓病に関する知識である。

話を戻すと、そう診断されたが、医者の方は「GOT、GPT(肝臓の機能を表す数値)ともさほど高くないから、2ヶ月に一回くらい血液検査して、変化がないかどうか 見るだけで良いです。いちおう肝機能を回復するためにグリチロンとウルソという錠剤を出しておきますから、これを飲んでいてください。」と 言うだけだった。私の方も、ハイそうですかと言うことで、ただその通りにしていただけで全然危機意識はなかったのだ。逆に2ヶ月に一度 わざわざ病院まで来て採血するのが面倒だなぁというお気楽なものだった。それでも医者はいちおうエコー検査とかMRIという造影検査など たまにしたが、特にどうと言うことはなかったのだ。

それが2年ほど続いていたが、ある時少し数値が高くなった時期があった。その時医師は「インターフェロンか強ミノ(強力ミノファーゲンC)を やった方が良いかなぁ。」と言い出した。インターフェロンの場合、効く人と効かない人がいて、しかも1ヶ月入院して点滴で投与しなければ いけないと言われた。ゲッ!1ヶ月入院!?そんなに仕事を休めるわけがなく、無理だというと強ミノを勧められた。これは60ccの静脈注射を 週3回、それも2年ぐらいは打ち続けなければ行けないと言うものだった。もう究極の選択である。悩んだ末、入院にびびっていた私は 強ミノを選んだ。これは自宅近くの町医者でもすぐできるというので、そちらを選択したのだ。これなら少し早めに学校を終え、8時までやっている 近くの町医者で打てばいいだけ。そう思ったのだ。

しかしこれもけっこうしんどかった。週3回、それも60CCとなると、打つのに5分ぐらいかかる。おまけに私は昔から血管の出が悪く、 肘の当たりにはなかなか血管が浮き出ない。そこを探って刺すと、たいがいはずされて痛い思いをする。そんなわけでその町医者では肘→手首→手の甲と だんだん細い針で打ち続けていたのだ。おまけに週3回も打っていると、どちらの手も穴だらけ。血管が塞がる間もなく、まるでチャブ中の ような腕になっていった。そのうち寒くなってきて血管も収縮する季節となってきて、半年ぐらいすると手の甲の血管も浮き出なくなり 町医者も音を上げ始めてきた。手の甲でも針を刺したまま何度も血管を探るというような、とても痛くて辛いことが続いていた。そのことを 検査の時に病院の担当医に言ったら「それなら少し休みましょう。」と言い、そこでやっと強ミノは終わりとなった。数値の方は少し下がり 安定した状態になっていた。

そんなかんなんで4年目に入ったある日のこと。とうとう運命の日が来た(長過ぎ!)2002年6月中旬の検査で、いきなり数値が跳ね上がったのだ。 以前の10倍の数値!さすがにこれには医者も私も驚いた。劇症肝炎化を疑ったのである。ウィルスの量もいきなり100倍、これはまずいという 状況になった。医師は、最近認可され効果のある薬としてラブミジンという薬を飲むように申し渡した。これは確実にウィルスの増加を抑えるので というお墨付きで、2週間後に再検査となった。ところが...数値は上がり続ける一方、薬の効果がない!緊急入院するように言われた。

もうこの時の気持ちはどう表現したらいいだろう。頭の中真っ白というか、色々なことが走馬燈のように回り、もう死ぬんだ、入院したら もう出て来られないんだ、もう授業も出来ないんだ、そんなことがグルグル駆け回り、今だから言えるがその場で脳性貧血を起こし、少し 横になったくらいショックを受けていました。もちろんそんなに早急に死んだりするものではないのですが、その時はそれぐらい早く悪い 方向に考えてしまったのです。とりあえず明日から入院と言われましたが、仕事のこともあるし、どれくらい入院するのかもわからないので 一日猶予をもらい、次の日職場へ行き、各方面へ頭を下げ仕事のことを頼みました。授業のこと、テストのこと、成績のこと、情報部の仕事のこと、 もうあちこちに頼み回ってお願いして回りました。そしてやっと入院と相成ったのです。前口上長過ぎ...(^^;)


第1日目 6月21日(金) 入牢の日

前日は眠れなかった。明日から入院、どうなってしまうんだろう、ここへ再び帰ってこれるのだろうか、そんな事ばかり考えて何度も夜中に目を覚ます。 入院の手続きは9:00〜11:00までで良かったので、少しでも行きたくないので、ぐずぐずする。妙に家族も優しくて、かえってそれが 不安を誘う。多分入院したら入浴もままならないと思い、朝、シャワーを浴びる。脇で妻が少しずつ荷物を用意しているのを見るのも、落ち込みモードに 拍車をかける。

さていよいよ観念して病院へ向かう。入る病院は自宅から車で10分程度のところ。わざわざお袋が送ってくれる。4年も検査で通い慣れた病院だが この時ばかりはむなしく見え、一歩一歩足取りが重くなる。まずは入退院の受付カウンターで手続き。5分で終わる。そして7階のナースステーションへ 向かう。普段こんな奥の方まで入ったことがなく、ますます不安が募る。ナースステーションのところへ行き、名前を告げると可愛い事務のSさんが 「はい、こちらです。」と768号室に案内される。4人部屋で、その入口近くの一角。思ったより明るく広くきれいだった。そういえば この病院、何年か前に建て直したと聞いたことがある。こんなことでも心を慰めなければどんどん落ち込みそうになるので、少しでも良いことを 考えようとする傾向かも。いちおう同室の二人(T田さんとM川さん)へ挨拶する。もう一つのベッドは空いていた。

すると婦長が来て挨拶する。その後すぐ看護婦が来て採血する。このままポッとしていても仕方がないので、パジャマに着替え荷物などを 片付ける。ベッド脇にろっかー、引き出しがあり鍵もかかる。病室の入り口には洋服用のロッカーと個人個人の小さな冷蔵庫もあり、けっこう 備品の品揃えは良い感じ。そんなことを確認していると11:30頃になる。すると廊下で「お食事の用意が出来ました。」と叫ぶ声。 廊下へ行ってみると大きなキャスターに食事の盆が段重ねに入っている。私の名前もそこにあった。取り出すと右半分が温かく左側は冷たかった。 どうやらそういう保温保冷が出来るものらしい。食事のメニューはごはん、ウニ焼き魚、インゲン炒め、一夜漬けである。もちろんうまいものでは ないが、病院食としてはマシな方ではないか。2度ほどの入院経験からして。しかし今後この食事しか楽しみが無くなろうとは思いもしなかったが。 後で気が付いたがナースステーション前に1週間のメニューが貼ってあり、それをメモして来て、『今日の夕食は...』と調べるのが日課になって しまった。

昼食を食べていると担当のN田医師登場。「どうですか、入院は?初めのうちは『自分は何でこんなところにいるんだろう。』って戸惑いますが しばらくすると、すっかり病人らしくなりますから。ハハハッ。」そんな笑いながら慰められても...。「それで先ほど採血した結果ですが 至急検査してもらった結果、20ぐらい下がってますね。あの薬を飲み始めて2週間は急激に上がっていましたが、今日は横ばい状態ですね。 しばらくこのまま様子を見てみましょう。もしかしたらそろそろピークかもしれませんが。とりあえず薬だけ飲み続けて安静にしていて 下さい。今後の病状により何か他の方法を考えるか、例えばインターフェロンをやるとか、色々ありますので。では。」と言うだけ言うと帰って いってしまった。数値が少し下がっていると聞いてちょっとホッとする。妻もホッとした表情。とりあえずおとなしく寝ているしか仕方がないので そうするか。肝臓病は身体を休めることぐらいしかあまりやることがないらしい。それも食後に30分から1時間ぐらい横になっていると 起きている時に比べて20%〜30%くらい肝臓に血が回るので、それが一番良いらしいのだ。だから食後すぐ横になっている。牛になりそうな 気持ち。

妻を夕方帰し、病棟をウロウロして探検する。ゴミ捨て場、ラウンジ、お風呂場、トイレ、テレビカード売り場、体重計、身体を拭くおしぼり置き場、 エレベーターで1階へ下りると全然品揃えがない売店等々。どのくらい長く入院するかわからなかったので、とりあえず快適に過ごすための 施設などを把握する。また一日のスケジュールなども。6時起床、7時過ぎ第1回お茶の時間、8時朝食、10時検温血圧など看護士が巡回、 11時第2回お茶の時間、12時昼食、14時看護士巡回、このあたりで手が空くと担当の医師が来て、様子を見ながら色々話していく。17時 第3回お茶の時間、18時夕食、21時消灯。だいたいこんなスケジュールである。その他先生が来るのはまちまちだったり、8時過ぎに掃除の人が 来たり、9時頃ベッドを直しに看護士が来たり、午前中に点滴が来たり...。

さてすることもないので本を読んだりテレビを見たり、そんなことしていると夕食の時間。まだこの時点では普通にお腹が空いていた。そして 自分の夕食の盆を取りに行くと...なんと塩分調整と書かれている!そういえば入院時に「少し高血圧気味で。」と 言っていたので、そのせいか?後で来た看護士が「O−TEACHERさん、食事はこれから塩分調整したものが出ますからね。」とのこと。 何だこの味がしない食事は!塩気が全くない!よく見ると塩分6gと書いてある...。なんとこれは一日に摂る塩分量だったのだ! 今後私がいかに味気ない食事を摂ることになったかは想像に難くないだろう。煮物も味がしない。おひたしもゆでただけ。みそ汁もお湯みたい。 まさかこの後煮物の汁まで吸うようになるとは自分でも考えていなかった(笑)そんなわけで慣れぬ入院一日目は過ぎていった。精神的に 緊張していたせいか、消灯の9時には眠くなってしまった。ああ、明日はどうなるのだろうと不安になりながらも。


第2日目 6月22日(土) 甥の一言

まだ2日目。今こうして後から書くと、何日で何曜日とわかるが、入院中はもうすでに2日目ぐらいから曜日の感覚が麻痺していたと思う。

5:30に一度目を覚ます。もっと寝付けないかとも思ったが、そうでもなかった。同室の人たちがゴソゴソしているので何となく目は覚めてしまうのだ。 しかし一応起床時間は6時なので、あからさまに起き出して音を立てるのも悪かろうと、おとなしく本を読んでいた。この入院のために5冊ほど 買い込んでいた。でも寝転がって読んでいるうちにうとうとしてしまい、再び目を覚ましたのは7:10頃。こういう入院生活でダラダラしていて いると、本当に身も心も病人になってしまうと思い、きちんとした生活のリズムが大切だと思い直し、ひげを剃ったり顔を洗ったりなどする。

朝食は、ごはん、お湯のようなみそ汁、魚肉の練り物と茹でたカリフラワーとアスパラ、塩気のない漬け物、グレープフルーツに牛乳。

同室の二人はどうやら今日から外泊のようで、朝食後ウキウキして帰り支度を始めている。二人とも長いようで、特にT田さんは何度も入退院を 繰り返しているらしい。隣のM川さんも2週間経っているらしい。途中少しM川さんと話すが、どうやらアルコール性肝炎らしい。あまり肝臓病に 関する知識がないらしく、色々レクチャー。60代だが途端に仲良くなるのも病気が取り持つ縁か(苦笑)まだ2日目なのでホームシックには かかっていないが、二人が嬉しそうに外泊へ「では行ってきます。」と出ていく様子に少し嫉妬。でもこれで名実共に一人部屋になってしまった。 本当の個室!私のベッドは廊下側で全然外が見えないのだが、各ベッド回りのカーテンを全て開放し外を眺める。7階の最上階だけに見晴らしが良い。 自分の家の方向を眺め少し寂しくなる。午前中はすることもなく本を読んで過ごす。

昼食は焼き魚にブロッコリーを茹でたもの。この後、魚ばかり出て、また野菜はほとんど茹でただけのものが続き、その上塩気が無く、辟易していく。 そこへ妻と父、そして甥と姪が来る。甥と姪は小学校一年生の双子。子供のいない私はとっても可愛がっている。するとその小一の甥が こんな事を言いだした。「おじちゃん、看護婦さんで好きな子いる?」これには笑った。さすが今時の小学生、言うことがませている。 「うーん、どうかなぁ。まだおじちゃん、あんまり看護婦さん見ていないんだよ。」「さっき来たところに看護婦さん、いっぱいいたよ。」 おそらくナースステーションのことだろう。「僕見てくるね。」と飛び出していってしまった。子供だから色々な興味があるらしく、姪も 「これ何?」と病院にある様々器具に興味を持って聞いてくる。それにいちいち答えているうちに、甥が戻ってくる。「可愛い看護婦さん、いた?」 「うーん...」子供は正直である(笑)そしてまた一言。「おじちゃん、看護婦さんとチューした?」これには大爆笑。自分は保育園の時に したというのが自慢らしい。さすがに私の甥っ子である。「僕が頼んできてあげようか?」是非ともお願いしたいところでした(^^;)

父と甥姪が帰った後、また妻と色々話す。何くれとなく世話を焼いてくれて本当に感謝。看護婦さんチュー発言撤回(爆)途中あまりゴロゴロ しているのも足が萎えてしまうので、病院前のコンビニまで散歩。わずか10メートルの。結局今日も血圧と検温だけで、これなら家にいても 同じだけではないかと思う。まぁ週末だから本格的なことは月曜以降なのだろう。妻が帰ると、途端に4人部屋に一人きりになり静けさが身にしみる。 テレビもイヤホンなしで見られるが、それでも嬉しくない。こっそり妻にメール。

8時頃に看護婦が来て、入院診療計画書なるものを渡される。そこには病名「慢性肝炎、急性増悪」症状「慢性疲労」と書かれている。なんか 「増悪」っていう字が嫌だなぁ。気が滅入る熟語。症状たって、別に自分的には何の自覚症状もないのに、ただ血液検査で数値が悪くなっただけで 「慢性疲労」って書かれるのかなぁ。釈然としないものを感じる。そして治療計画の欄には「インターフェロン投与あるいは肝庇護剤投与」と ある。やっぱりインターフェロンやるのかなぁ...そうすると入院1ヶ月はゆうにかかるなぁとまたまたショック。薬だけで済まないのだろうか。 そしてやっぱり書かれていたのは「推定される入院期間」の欄。「約20日」ショック!個人的には2週間で済めばと期待していたのに3週間...。 それもインターフェロンとなれば1ヶ月以上。けっこう絶望。起きていても悪い方にばかり考えそうなので、一人で誰にも迷惑がかからないが 早々と9:00に不貞寝。


第3日目 6月23日(日) 情報不足

6:00起床。同室者全て出払っているため、昨夜は静かでよく眠れる。特に変わりも無し。本日も天気は曇り。実は退院してから気が付いたのだが 入院当日と退院の日だけは茹だるような暑い晴天で、入院中はほとんど曇りか雨だった。まるで私の気持ちを反映しているかのように。 入院していると天気か食事にしか興味が無くなるとは本当のことかも。午前中は寝たり本を読んだり、これならうちにいる時の日曜日と変わらないではないか。 少し頭痛もするがポッとしていたので気にならず。血圧も138−88で、今までの最低値。よしよし。昼食前に看護婦さんが来て「日曜日は 体重測定の日です。ナースステーション前にある体重計で測ってください。」と言われる。そんな決まりかあるのか。それで計ってみると... 200グラム増えている!なんだよ!入院したら痩せるって言ったのは誰だよ!でも何もせずゴロゴロして食事も全て平らげていればそりゃそうか。 ちょっとブルー。

午後から妻、来る。この病院の面会時間は土日は12:00から20:00まで。平日は14:00から20:00となっている。お弁当を 持ってきて一緒に昼食。一人で食べていると味気ないが、食事はやっぱり人がいた方が楽しい。くだらない話ばかりだが気が紛れる。元々 妻とは普段からもよく話すので、特に入院してから変わったということはないが、こういう時には頼りになる人だと改めて実感。感謝感謝。 途中また散歩がてら、病院内の広大な駐車場を散歩。この病院の脇を流れる川は、春になると桜がとてもきれいなのだ。そしてその病院に隣接していて おそらく看護婦さん達の寮らしきものがある。ひとたび白衣を脱ぐと、そのあたりにどこにでもいるお姉ちゃんになる。そんな看護婦さんらしき 私服の女性と何人かすれ違う。ああいう服装で接せられても信用がおけないが、白衣になると途端に頼れる存在になるから不思議なものである。 コーヒー、スイカを食す。夕方に母、現れる。そこでひとしきり弟の嫁の愚痴。見舞いなのか愚痴を言いに来たのかわからない(苦笑)

妻が新聞や雑誌を持ってきてくれたのは良いのだが、テレビ欄が一日遅れで困る。昨日の夕刊を持ってこられても今日の番組がわからない。 こういう時こそ情報不足で、唯一テレビだけが世の中のことを知る手段となってしまう。もちろんラジオもあるがどちらかというとテレビっ子なので。 売店で週間TVガイドみたいなものを買えばいいのだが、ああいう2週間分も載っているものを買うと、それだけで入院が長引くことを 自ら認めているようで、縁起でもないので買い控えている。そこで妻が持ってきたのは、週に一回新聞に付いてくる一週間分の番組表。これなら とりあえずの用には立つ。しかしよくよく眺めてみると、先の方の日付の番組欄には「番組未定」とか書かれているところがあったり、ドラマも 「第3回目」としか書いていなかったり、午後にやっている奥様向け情報番組に至っては、連日「お得な生活情報満載」しか書いていない。 これでは何の情報にもならない。まっ、いいか真剣に見るわけでもないし...。せいぜいニュースとワールドカップさえわかれば。 しかしこのワールドカップだが、夜の8時30分開始だと、9時に消灯なので、前半の途中までしか見られないという、何とも生殺し的な ことになってしまうのだ。やれやれである。妻が6時頃帰り、適当にチャンネルを回しつつ消灯を迎える。刺激のない生活。あったら困るか。


第4日目 6月24日(月) 早過ぎる

まだ寝ていると、なんと朝の5:20に採血しに看護婦が来る。いくらなんでも早過ぎないか?起床時間は6時なのに、この朝の奇襲はビックリした。 寝ていると、小さな声で「Oさん、Oさん、採血しますね。」と呼びかけられる。夢かと思いつつ腕を出すと、確かに止血バンドを締められ、 これは夢ではないと悟る。でも眠くて眠くて、夢うつつでいると「はい、終わりました。お休みなさい。」と言われる。へっ?今、針刺したの? 全然痛くない。というかまだ知覚が起きていない。それでも眠くて何となくまた寝てしまう。7時頃目を覚ますと、確かに針を刺した部分に テープが貼ってあり夢ではないとわかる。それにしても早くない?

9時頃にベッドメイキング&コロコロを持った看護婦さん(?)たちが掃除しに来る。普通の床やゴミを回収したりする清掃員のおばさんとは 別で、どうも准看の人らしい。ベッド回りを殺菌ティッシュのようなもので拭いていく。これね院内感染対策の一つか。看護婦さんが先生に聞いてくれて どうやら風呂はダメだけどシャワーなら良いとのこと。ありがたい。N田医師はけっこう神経質だから、あまり入浴は認めてくれないとの 情報も聞いていたので、とても嬉しい。風呂場はナースステーション前にあり、男は月・水・金、女性は火・木・土となっている。午後開放されて いるので、30分区切りのホワイトボードへ部屋番号と名前を書き込むようになっている。いち早く3:00にゲット。金曜日の朝、自宅で シャワーを浴びて以来なので3日振りか。嬉しい。午後N田医師が来て、朝の採血の結果を聞く。また20ぐらい数値が下がっているとのこと。 これも朗報。やはり2週間ぐらい安静にするのが一番効果があるとのこと。忙しさが一番ダメだと言われても仕事柄ねぇ...。その後シャワーを 浴びるも少し疲れる。入浴というのがこんなにも体力を使うものだということを改めて実感。健康な時はそんなこと考えたこともなかったのに。

風呂上がりにアイスコーヒーなど飲んでいると妻が来る。汚れ物を山ほど渡し、何か申し訳なく感じる。一緒に夕食を食べ(と言っても妻は コンビニ弁当、私は病院食(泣))6時過ぎに帰る。7時過ぎに同室の二人が外泊から戻ってくる。ギリギリまで病院に戻ってきたくないため こんな時間になるとのこと。これで個室も終わりか...ちよっと残念。テレビでウィンブルドンテニスを見て寝る。いきなりテレビカードが 切れたのが何かむかつく。


第5日目 6月25日(火) 入院仲間

5:40起床。昨日は珍しく寝付けず遅くまで悶々としていた。やはり同じ病室の人たちが帰ってきたので、夜中、何となく気配で寝付けなかったのかも。 こう見えても神経は細やかなので(^^;)同室者達は朝から採血されていた。私は今日はないらしい。ただゴロゴロしているだけの一日か。 火曜日はシーツ交換の日らしく、8時頃、いきなりシーツ隊が来て20分ほど病室をおん出される。血圧もちょっと高め。

血圧測定や検温が終わると、比較的自由な時間がある。もちろん点滴している人もいるが、基本的に動ける人は10時頃を目安にぞろぞろ廊下に出てくる。 ここで入院患者同士のサロンが開かれるのだ。それがけっこう声高に話しているので、私の所まで会話の内容が筒抜けなのである。いつもよく だべっているメンバーは、同室のT田さん(釣具屋・52才)隣の部屋のSさん(JR運転手・30代)隣室の名前はわからない若者(サラリーマン・20代) そしてもう一人、いつも派手なパジャマを着ているおじさん(職業不明・40代)である。この人達が点滴のキャスターを押しながら、廊下で ああでもないこうでもないと話している。どの人達も元気そうなのだが、どうやら長く入院している人たちばかりらしい。後々それぞれの病気の 内容がわかって愕然とするのだが、この時点では、あまりに元気なので『どうしてこの人達ここにいるのだろう?』と思うばかりのトークを 展開している。

一番よく話している内容は、看護婦さんのことである。やっぱり(^^;)どの看護婦さんは優しいとか、あの看護婦さんは彼氏の車が迎えに来ていたとか、 そんな話題ばかりである。まぁ、それぐらいしか楽しみがないのだろうけど。長く入院しているせいか、色々看護婦事情に詳しく、あの人は 最近彼氏と別れたとか、あの人は機嫌が悪いとここに皺が寄っているから気をつけろとか、そんな話が延々と聞こえてくる。それが発展して よくみんなでナースステーションのところで、ある看護婦さんを捕まえて延々だべっている姿も見かける。でもあれだけ職種や年齢が違っても 「病気−入院」という括りになると、途端に仲良くなってしまうのが何か妙。ただ会話の内容が看護婦さんの品定めばかりが中心なので、どうも その輪には入りづらい。いや、別に偽善者ぶっているわけではないのですが、それだけというのもねぇ。長くいるとああなるのかなぁと思い、 早く仲良くなる前に退院したいと強く思う。

時々虫の知らせか、ふと思い立ち携帯メールの受信をしてみると、偶然仕事中の妻から励ましメールが入ってたりする。毎日来てくれるのに わざわざメールすることもないと思いつつも、その優しさに感謝。それにしてもたった1分前に送られてきたメールをふと受信するなんて、 もちろん単なる偶然だと思うが、それが3日も続くと、テレパシーの存在を信じたくなる。

昼食の冷や麦、ありゃなんだ!今回の入院中の病院食ワースト1である。だってつゆの味がしないのだ。出てきた時、色のあまりの薄さに 嫌な予感がしたのだ。麦茶より薄い色...。塩分控えめの食事なのに、冷や麦とはラッキーと思っていたのが甘かった。いざ食べてみると ...である。味がしない。水につけて食べているようだった。味のしないつゆにつけて食べる冷や麦のまずいことまずいこと。これなら 他のメニューにしてくれと言いたくなるほどのまずさ。参りました。

妻が夕方来る。仕事帰りに電車で病院の最寄り駅まで来て、そこから10分ぐらい歩いてくる。ところがその駅の回りが、昔ながらの狭く細い道ばかり。 袋小路だらけの道なのである。私も小さい頃、よくチャリンコで走り回ったからわかっているのだが、このあたりは迷路のような袋小路が 山ほどある。ずーっと細い道をたどっていくと人の家の玄関にたどり着く、そんな道がかなりあるのだ。今日も迷ったらしい(笑) 妻と話しているとN田医師来る。今日は採血もしていないので何も言うことがないらしく「ゆっくりしてください。」ハイ、言われなくても それしかすることがありません。妻と散歩してから病室に戻ろうとしたところ、ナースステーションでN田医師に呼び止められる。「ウィルスの 量が1/100に減っています。」とのこと。おいおい、言うことがあるじゃねぇか。それならさっき回診できた時言えよ。ていうか今日は 採血してないんだから、その結果は昨日のだろ?なら昨日の時点でわかっていたなら昨日言えって話。まっ、果報なんで文句は言わないけどね。 ついでに「次回の採血は金曜日です。」と言われる。へっ?今日は火曜日...火・水・木と何もなしかい。ただゆっくりしているだけなら 入院せずとも自宅でも出来ると思うのだが...。まっ、そうは言ってもまだまだ数値は微々たる量しか下がっていないので、やはりあまり よくない状態なのでしょう。肝臓というのは急に悪くなり、急性肝炎みたいになったら危険なので、それにすぐ対応するために念のため 入院したのですからね。そうまた言われるのがオチ。でもそれなら中3日も採血が空くのってどういうこと?


第6日目 6月26日(水) 誰かに似ている

6:00起床。今日も特になし。ただひたすら本を読んで過ごす。この6日で8冊ほど読破。羨ましいというなかれ。これしかすることがないのだから。 元々「食」に対して欲が強くないので、ましてや病院食なので、ますます食事は、ただ一日のうちで時間を計るものでしかなくなっている。

10:20看護婦さん来る。体温は35.7度、血圧は132−70...。日によってだいぶ違う。妻は昨日の血圧の下の方が112と、高めだったので とても気にしている。でも今日の数値ならほぼ正常。あまり一喜一憂するのもどうかと。その看護婦さんに「芸能人で誰かに似ているって言われません?」と 言われる。さぁ、あまり言われたことはないが、生徒にたまに言われるのは「木梨憲武ですか?」「いや、違う。うーん、誰だろう。」「尾美としのりって 言われたこともあります。」「違うなぁー。」そう言われても自分ではわからない。「じゃ、よーく考えておきます。」どうやら宿題らしい(笑)

昨日、隣のM川さんがN田医師と話しているのが、カーテンの仕切り越しに聞こえてきた。どうやら便が白いらしい。また疲労もあるらしい。 胆汁がでないらしく、そういうまるで白ペンキを塗ったような便が出るらしい。そこでどうやら造影剤を入れてまず検査をするらしい。その後、 膵臓の方へ内視鏡か何かを入れて、その組織の一部をブラシで取って検査すると話していた。その膵臓の方の検査はけっこう大変らしく、やった後は 軽い膵臓炎になるらしいことを話していた。それを聞いて本人は大変ビビっており、しきりにN田医師に、やらなくて済む方法がないのか、 違うやり方はないのか相談していた。というか説得。しかしやはりやるしかないようだった。本人はちょっと落ち込んでいた。多分私も検査だけとはいえ、 ああいうふうに言われたらショックで落ち込むだろうなぁ。同情を禁じ得ない。

768号室で唯一空いていたベッドに一人入ってきた。70代のおじいちゃん。これで4人部屋満室。これでベッド稼働率を心配する必要もないのだから 私だけ退院させてくれないかなぁ...。

午後はラジオを聞いて過ごすうち妻が夕方来る。頼んでおいた新聞やらなにやら全て忘れてくる。まっ、1分でも早く病院へ来ようと言うので、気が 焦っていたのだとわかっているから、許してやろう(^^;)入院していない間に車が車検に出されたとの報告。万事よろしく頼む。妻が帰った後も あちこちで自分の病気の重さ自慢が廊下サロンで始まり、嫌でも耳に入ってくる。どれを聞いても暗くなる。怖い...。


第7日目 6月27日(木) 回診...

かなり爆睡。起きても朝からまた雨で、やることもなく朝食後1時間ぐらいウトウトしてしまった。昼間寝ると夜、寝られなくなるので 注意していたのだがついつい居眠り。

ボーっと過ごしていたら午後2:45に回診があった。15分くらい前から色々な看護婦が来て「この後、回診ですから必ずベッドに いてください。」とか「お腹をすぐ出せるようにしていてください。」とか「もう今来ます。」と、矢継ぎ早に注進が来る。なんだなんだ、 昔テレビドラマの「白い巨塔」にあった「医院長先生のご回診で−す!」とか言って、田宮二郎がやっていた財前教授の、大名行列のような 回診のシーンが思い浮かぶ(古過ぎ?)でも実際はそれに近かった。来たのは入院初日に顔を見せた内科部長のK谷医師。看護婦の先導で 「ただいまより回診を行いまーす!!」の一声に、ぞろぞろ10人ぐらいの集団が来る。看護婦が私の両脇に立ち、婦長が自ら私のお腹を出させ、 そしてK谷医師が、トントンとお腹をたたいて触診する。脇にはインターンらしき医学生が4人ほどボードを持って立っている。さらし者状態。 K谷医師「内容は?」インターンの若い女医「慢性肝炎です。」「数値は?」「はい、GOTが××で、GPTが××です。」インターンは 緊張状態で素早く答える。何かの審問なのか?患者を前にテストするなよ。K谷医師、データを見せてもらいながら「良ければコンパー...(聞き取れず)、 悪ければ増悪。」と一言。するとインターンは「はい。」と怖い顔で頷く。わずか30秒で終わり、一群去る。看護婦がホッとした顔で「お疲れさまでした。」と 一言。なんなんだ、この威圧感のある雰囲気は。それにしても「悪ければ増悪」という一言が心を暗くする。

午後はまたひたすら読書して過ごす。夕方に妻が来る。あんまり寝てばかりいても足が弱るので、またまた散歩。と言っても雨が降っているので、病院内を2周。売店で文庫本一冊買う。こう長く入院していると、楽しみの一つに売店へ何かを物色するというものも加わる。夕食中にN田医師来る。やはりウィルスが減っていると話す。「明日の採血で数値が良ければ来週にでも...」と言われ心が躍る。かすかな希望の灯が...。もちろん油断大敵だが嬉しくなる。うまくいけば...。

夜、携帯メールをチェックしていると、かつての教え子のAさんから激励メールが届く。ありがたい。こんな私でも身内以外でも心配してくれる人がいるなんて。気が弱くなっているから、たかが励ましのメールだけでも泣けてくる。ありがたや。


第8日目 6月28日(金) 再び失意

よく眠れた。朝の6:40頃採血に来る。右手首より採る。良い結果が出ればと祈るのみ。午前中は何となく落ち着かず悶々とした時間を過ごす。どんよりした曇り空も憂鬱にさせる。本を読んでいても集中できぬまま時間がノロノロと過ぎていく。読書は全然はかどらないので、午後からは聞くともなくラジオを聞いて過ごす。シャワーも浴びリフレッシュしようとするが、やはり落ち着かない。夕方に妻が来る。妻も落ち着かない様子。二人で散歩で外へ出る。三日振りの外気。蒸し暑いけど嬉しい。病院のすぐ近くにある2軒のコンビニを巡る。

夕食を食べているとN田医師来る。今回の採血では数値が下がっていないとのこと。ガーーーン!!大ショック!妻も衝撃を受けへなへなとベッドに座り込む。ここ2回ほどの採血では、肝機能の状態を表す数値が20ずつ下がっていたのだが、今日の採血では逆に上がってしまっている!医師曰く「20ぐらいの(数値の)上下は誤差の範囲。ウィルス量は減っているが肝機能の状態は今ひとつ。ただ黄疸も出ていないし、今すぐ大変だということはないが、もう少し様子を見た方が良いだろう。この程度で入院させるのは、外国と比べると過剰医療だと思うが、突発的に悪くなることもあるので、もう少し入院を続けて様子を見ましょう。ただこのような数値の高い状態が続くのは良くないので、もしあまり変わらなければ何か手を打ちましょう。ただ今飲んでいるラミブジンという薬は、インターフェロンを打つのとかわらないものなので、今のところはまだよいでしょう。ただ場合によっては今後検討するかもしれません。」

ショック...。一気に天国から地獄へ。振り出しに戻る感じ。退院できるかもと期待していたのに、いきなりまだ入院が続くという宣告。妻もショックを受け顔面蒼白。仕方がないと思おうとするが期待が大きかっただけに...。それでも妻が一生懸命励まそうとしている姿が痛々しい。そんな表情の妻を見て、かえって逆に励ます。でも今晩一晩は落ち込みそう。開き直るのに時間がかかるタイプなので。 妻が帰った後に、突然ベッドの上の電球が切れる。不吉なことは重なる。営繕係の人が来てすぐ取り替えてくれるが、落ち込む一方。また色々考えてしまいそう。アンラッキーな日。


第9日目 6月29日(土) お見舞い

一応眠れた。神経が太いのか細いのかよくわからない。でも夜中に同室のT田さんが音を押さえるようにして吐いていた。とても怖かった。後で聞いたのだが、T田さんは急性骨髄性白血病らしい。風邪がどうも抜けきれないし、口内炎が治らない。医者に行くと風邪薬を出されたが一向に治らない。歯科医に口内炎を見てもらった時に「すぐに大きな病院へ行くように。」と言われ、検査してみたら白血病だと わかったのだそうだ。その時は呆然として頭の中が真っ白になったそうだ。そりゃそうだろう。その後何度も入院を繰り返し、辛い治療を 繰り返してるらしい。1週間に一度ずつ輸血。でもすぐ血小板がなくなってしまうのだそうだ。先日も骨髄に注射をしていた。カーテン越しで見えはしないが、医者2名看護婦5名が来て、やっている様子が声だけ伝わってくる。「刺す時は言いますからね。」ごそごそ、看護婦への指示、うめき声、かえって声だけ聞こえてくる方が想像してしまい怖くなる。でもこういう治療で病室でやるの?でもそういう様子とか話を聞いていて、途端にびびる。病気は怖い。何もかも奪ってしまう。自由、生活、仕事...何もかも。私もそこまではひどくないのだからと心を奮い立たせようとするが、やはり自分の身となるとなかなか悟れない。あと一週間ぐらいなら我慢できそうだが、それ以上となると自信がない。2週間が限界か。

そんなわけで今日初めて朝食を残してしまった。食欲がない上に焼き豆腐と豆腐の味噌汁なんだもん(豆腐はあまり好きじゃない)それでも昨夜と今朝の、妻から来たメールに励まされる。妻の方がよっぽど辛いくせに。いつものように食事後は安静にして横になっているが 効果がないのか?昼食も最悪。

昼頃妻が来る。色々話すがやはり心が和む。土曜日なので午前中の診療が終わってN田医師が来るかと思いきや音沙汰なし。それなら暇つぶしに妻と二人で下の売店でも冷やかしに立ち寄ると...なんとそこでバッタリM井先生、S藤先生、学年主任のS賀先生に会う。お見舞いに来てくれたのだ。びっくり。わざわざこんな遠いところまで。やっぱり車で1時間半かかったらしい(これが私の普段の通勤時間)とりあえず病室は狭いので同じ7階にあるラウンジへ。色々と学校のこと、仕事のことなどを話す。気にかかっていた、様々な放り投げ仕事のことが聞けてちょっと安心。お見舞いももらう。ありがたい。良かった友達がいて(^^;)かなりの気分転換になる。特にM井先生は私の授業を数多く受け持っていただいている上に、文庫本の差し入れまで(でもどうして私がミステリーのファンだって知っていたのだろう)S賀先生からは、差し迫っていたコース選択の進み具合などを聞き、すべてやっていてくれているようで感謝に堪えない。そしてS藤先生は、2−2のみんなから激励メッセージの手紙というかメモを渡され、これもことのほか嬉しかった。1時間ほど話してかなりの気分転換になった。でも私があまりに元気なんでびっくりしているのでは?(爆)

その後、2−2からのメッセージを読みながらほくそ笑む。でもやはり男子はメモ帳に一言ぐらいで愛想がない。でもそれでも嬉しいけどね。その中から見栄えが良く、イラストも入ったものを2枚ほどベッドの頭の上の方に貼っておく。これでだいぶ励まされます。その後今度こそは(笑)妻と売店に行き、病院内を逍遙したりする。夕方にまた母が来て「めそめそ落ち込んでじゃないの!」と相変わらずの叱咤激励。そうそう妻がわざわざ今日、ゲームボーイアドバンスのソフトを買ってきてくれたので、それで少し遊ぶ。少しでも気を紛らわそうとしてくれる心遣いがありがたい。隣のM川さんは外泊で夜はとても静か。夕食時にサクランボが付いてきてちょっと嬉しい。何かこういうひとつひとつの小さな感動に支えられていると、実感する一日。


第10日目 6月30日(日) 病人の不安

もう10日目か。長いなぁ...。6:30起床。しかしそれにしても病院の夜は怖い。言いしれぬ恐怖がある。どこかで誰かが苦しんでいるような。でも確かに誰かが苦しんでいるのだ。何か夜になるとそういう死の匂いが渦巻いている。夜中にふと目を覚ますと、子供の時によく目を覚ました時のような感覚が甦る。自分が今どこにいるのかすぐ把握できず、夢と現実の境界がわからなくなっているあの感覚。漠然とした不安。あれとよく似ている。もう朝が来ないのではないか。夜が永遠に続くのではないか、このまま光は二度と差さないのではないかという恐怖心。様々な不安、恐怖、絶望、諦め...。そういうものが闇に溶ける。地獄の口が開いている...。 そんなことをふと考えてしまった。朝食はまた揚げ豆腐とおひたし。そろそろ病院食も飽きた。飽きた飽きたと言いつつもそれしか楽しみがないので、気が付くと待ちわびている自分。何という矛盾。血圧は下の方が68!最低値更新!ならもう塩分調整の食事は止めても良いのでは?昨日妻が持ってきてくれたゲームボーイアドバンスのソフト「黄金の太陽−失われし時代−」のマニュアルをよくよく見てみると、どうやら前作のクリアデータが使えるらしい。すかさず妻にメールして、前作を持ってきてもらうように手配(何故か前作を持っていたりする(^^;)) 昼頃、妻と妻の母が来る。わざわざお義母さんにまでお見舞いをもらい恐縮する。その後二人は近くに食事に行き、妻のみ再び戻ってくる。二人でまた近くまで散歩。これが日課となっている。看護婦が同じ病室の他の人たちへ「明日、採血ですからね。」と言いに来るも私のところへは言ってこない。あれ?前回月曜日にやったはずだが、忘れているのかな?さっさと月曜日に採血してもらい、数値を気合いで下げて、退院のめどを付けようと思っているのに...。もう10日もいると気が滅入ってくるので。夜、看護婦に確認すると、次の採血は7/3(水)だそうだ!!唖然。それじゃあいつ退院できるかなんてわかりゃしない。明日、N田医師に直談判すると決意。卒業生へメールしたりW杯の決勝を見たりして夜を過ごすが、集中できない。ゲームもやる気が起きない。


第11日目 7月1日(月) 大フィーバー

昨晩夜中、大フィーバー炸裂!同室の後から入ってきたA本さん(70代)が夜中騒ぎ出した。初めは消灯時間を過ぎたのに煌々と自分のベッドの周りの電気を付けていたのだ。『寝たいのに眩しいなぁ。』と思っているうちに、イヤホンもせず大きな音でテレビを付け始めた。これがうるさい。でもわざわざ言うのも気が引けるし、すぐ止めるだろうと思っていると、その後15分ぐらいでテレビを消して、ブツブツ何か言っている。その後、いきなり大きな声で「誰か来てくれー!」と叫ぶ。ハッと思っていると隣のT田さんが「どうしたの?」と聞くと、何か訳のわからないことをいって「二階に息子がいるんだ。危ないんだよ。」と言う。どうやら寝ぼけていたらしい。「大丈夫ですか?」と聞くと「大丈夫。」というので、寝ぼけかと聞き耳を立てつつ、また眠ろうとした。しかし再び夜中の1時頃にガタガタ音を立てている。点滴を付けているのだが、それを動かしたり壁にぶつかったり、途中トイレに立ったらしいのだが、何かお茶碗らしき物を落としたり。とにかく音がうるさいのだ。相変わらずブツブツ言っているし。すると急に隣のT田さんが起き出して「だめだ!看護婦さん呼ばなきゃ!」と叫んでいる。何事かと私も起き出してカーテンを開けてみるとそこは...血の海だった!!!床、壁、カーテン、通路に血が飛び散っているのだ!私もびっくりしているうちに看護婦さんが数人駆けつける。どうやら幻覚を見たかボケなのかよくわからないが、暴れて点滴の針を抜いたらしい。そのせいで血が逆流しあちこちに飛び散ったらしい。それが半端な量ではないのだ。床からトイレまで点々と血の痕、ベッドからカーテンからすごいことになっていた。まさに本物のスプラッタ状態。いちおう看護婦さんが来て血を拭き取ったり、本人を処置室へ連れて行ったりしたが、およそ1時間その後始末に追われていた。びっくりして見ていると「いいですよ、寝てて。」と言われても血が飛び散っている近くで寝られるもんか、と思っていたが寝てしまった。明くる朝見てみると、その痕跡があちこちにあり、その大捕物の様子がうかがえる。こりゃ早くここを出ないと、と痛切に思う。

病は気からとわかっているが、あんなもの見せられると気が滅入りますよ。朝、妻と卒業生からメールあり。ありがたい。とりあえずお礼の手紙を、M井先生と2−2のみんなへ出す。

午後N田医師来る。こちらが口を開く前に向こうから言われる。水曜日の採血の結果で今後どうするか決めるとのこと。けっこう微妙な数値なので、場合によってはそこからインターフェロンをやるかもとのこと。やり始めると1ヶ月のはず...。2週間ただ安静にさせといて、そこから1ヶ月治療かよ!と思ったのだが、どうやらそれは最悪のパターンらしい。本当は出来ればやりたくないと言っているがどうなんだろう。でももし良ければ退院の方向もあると言う。退院の目途が立つかインターフェロンでまた1ヶ月入院が続くか、全ては水曜日の採血の数値次第...。ひゃあーまさに天国と地獄じゃないですか。怖すぎるハイ&ロー。「水曜日まで安静にしていれば良い結果が出るかもしれませんね。」ハイハイ、一歩もベッドから降りません。1ミリも動きません。おしっこも尿瓶でもおまるでも使います。だから退院させてください。このままなんて絶対嫌だ。あと1ヶ月なんて耐えられません。14:00頃看護婦が来て「顔のところのかぶれ、明日、皮膚科に予約を取っておきましたから、呼ばれたら行ってください。」あのー、動きたくないですけど一歩も(笑)ついでに診断書を頼む。いちおう療養休暇を取るために必要なので。

夕方妻が来るが、事の次第を話すと、どうやら腹を決めたような毅然とした顔。逆に私の方がシュンとしてしまっているよう。心弱い男ですね。二人で散歩しながら、数値がどうあれ、一時退院を頼み込もうと決意を固める。妻も、このままあと1ヶ月以上連続するのは可哀想と思っているらしく、同意してくれた。結果がどうあれ、一時退院して再度インターフェロンのための入院をし直せばいいと考える。それにしてもたかが2週間、1ヶ月ぐらい耐えられないなんて、つくづく弱い自分を恥じ入る。弱い弱いとわかっていたが、やっぱり弱かった。妻よ許せ。心配かけてごめんな。


第12日目 7月2日(火) 色んな先生

まずまずの目覚め。9時頃シーツ交換、血圧・検温と続く。もうすっかり一日の流れどころか一週間の流れまで把握している自分が切ない。その後、外のコンビニまで雑誌を買いに行く。ついでにモーニング娘。がコマーシャルをやっている「モニフラ」というジュースを買う。これがうまい!私がよく旅行のコーナーで書いて激賞している「コンガ」という飲み物に味が近い!少し南国気分を味わう。

しばらくぽっとしていると、7階ナースステーションのアイドル、事務のSさんがわざわざ診断書を届けてくれる。しかし実はこの診断書の期日内容が色々頭を悩ますことになる。実はこの診断書は、日付が7/1になっており、内容には「今後1週間程度の入院加療が必要である。」と書かれている。今回最終的には入院2週間自宅療養10日と、長期に学校を休むことになった。その勤務の扱いなのだが、事前にどのくらい入院するかわからなかったので、とりあえず10日間ほどただの年休にしていたのだ。しかしこれだけ長くなると年休も使い切ってしまうし、このあと2週間ごとの検査でまだまだ年休を残しておきたい。そのため療養休暇というものに切り替えようと思っていたのだ。だからこの日の午後も教頭に電話して、「年休以後の休みは療養休暇扱いにしておいてください。」と頼んでいたのだ。「療養休暇なら診断書が必要なので、もらっておいてください。」と言われていたので用意したのだ。ところが日付が7/1で、「今後1週間の〜」という記述があるため、7/1〜8までしか療養休暇扱いできないという事態に陥ったのだ。気を利かせてN田医師がコメントを書き込んでくれたものだから、年休→療休→年休という複雑なことになってしまったのだ。しかもこの時点ではまだとの程度入院が続くのかわからず、どうしようと悩むことになったのだ。

さて本日は「先生」というキーワードで先生ネタを2つほど。今日の昼飯は何だっけとぼっと考えていると、皮膚科へ呼ばれる。左頬に少しかゆみがあり、赤くなっていたので、念のためという入院していて暇だったので、ついでに見てもらうようにしたのだ。私の場合ストレスが溜まると、ちょっとアトピーの気があるので、たまにあるのだ。そこでパジャマのまま、一般患者に混じり2階の皮膚科へ。15分ぐらいで呼ばれて中へはいると、皮膚科の女医(推定35歳)の機嫌が悪そうな顔が待っていた。「どうしました?」とこっちも見ずにカルテに何か書き込んでいる。「あのここのところが少しかゆくて...」ちらっと横目で一瞬だけ見ると、看護婦に「××持ってきて。」という。渡されたのはサンプルの弱酸性石けん。「これで良く洗って。売店でも売ってるから。塗り薬、出しとくから。すり込みすぎないように一日2回ぐらい塗ること。ハイ。」とえらく無愛想な様子で言う。ただ「はい...。」と言いつつ座っていると、まだいたの?という目をして「はい、いいですよ。終わり。」と言われた。正味30秒。まさに秒殺...いやいや秒診療。なんかすごく嫌な感じ。とりあえずカルテだけ返してもらい、7階の入院病棟へ戻る。先生と言っても、学校の先生だけでなく、医者も先生と呼ばれるが、やっぱり先生なんて呼ばれるのはろくなもんじゃないと痛感する(もちろん私も)

14:00頃看護婦さんが見回りに来る。するとベッド脇に貼ってあった。生徒のメッセージをめざとく見つける。「Oさんって、先生なんですか?」「はい。」「何の先生なんですか?」どうやら高校の先生だとわかってくれたようだ。先日、他の看護婦さんに小学校の先生と勘違いされたけど。で、だいたいここでいつも素直に答えない。「何の先生に見えます?」と必ず聞き返す。こういうと私の場合たいがい70%の確率で私は「社会?」と言われることが多い。社会科顔なんだろうか?そんなものがあればだが。でも一発で国語と見破られたケースは、おそらくほとんどない。そういわれたのは過去1、2回ぐらい。さて今回は...

「体育ですか?」

これには超びっくり。生まれてこの方、体育の先生と言われたのは初めてである。どうしてこのブヨブヨの肉体でそう思ったのか、是非とも理由を知りたいところである(笑)「ちっ、ちっ、違いますよ...はははは。」「じゃあ、地理?」そうこなくっちゃ(笑)でもそれも違うとわかると真剣に悩みただす看護婦Mさん(推定21歳・とっても可愛い(爆))「うーん、わかりません。教えてください。」なら退院させてくれと心の中でつぶやくも「実は国語です。」と言うと「へぇー、見えませんね。」と意味不明なことを言われしばし悩む。

夕方妻が来て、昨日のことを話し合う。妻としては、何とか治療して治させたいので、頑固として「退院する。死んでもする。数値が高くても出ていく」宣言している私を説得する。でもこのまま入院させておくのもどうかと思い、その葛藤で悩んでいる様子。とりあえず妻といつものように病院をそぞろ歩きする。病室に戻って妻に身体を拭いてもらっていると、N田医師来る。「明日の採血で、結果が良ければ退院の方向で考えてみましょうか。」とのこと。本当?でも前回もそれで入院続行となったのだから、心から喜べない。これがいつもの手だから(疑心暗鬼)「もし悪かったら?」「その時はまた別の方法を考えましょう。」うーん、一抹の不安。たとえ結果が悪くても意地でも退院してやると気張っていたのに、先に医師の方から「退院の方向で」と言われるとへなへなになってしまう。不安は残るが少しは期待してしまう。この2週間これの繰り返し。不安、期待、絶望、諦め、期待....。何とか頑張ってくれよ、我が血液!


第13日目 7月3日(水) 運命の結果

6時過ぎからそわそわして眠れない。今朝の採血が全てを決めるものだから。退院or入院続行、運命の時。6時40分頃看護婦が来て 左手首より採血。『頼むぞー俺の血!』と心の中で祈る。自分の血液にこんなに祈るやつも珍しいか?そんな心配を後目に妻より「肝臓に良いウコンの錠剤飲んだ?」と気楽なメールが届く。それどころじゃないんだよ、こっちは(笑)

午前中は長かった。本を読もうにも全然字が頭の中に入ってこない。ラジオを聴いていても全然耳に入らない。ただボーっとして過ごす。結果がわかるのはおそらく夕方だろう。そう思って一日気にしつつ過ごすのだろうなぁと考える。10時40分に検温と血圧測定。140-98でちょっと高め。緊張しているせいか。朝、採血に来た看護婦も「この採血の結果次第ですよねー」と気楽な口調、血圧を測りに来た看護婦も「採血で決まるんですよね、た・い・い・ん」もちろんそうなんだけど、そう言われるたびに心が波立つ。

昼食を食べ終わりゴロゴロしているとM子婦長が来る。「今、N田先生から電話があって、外来から手が離せないんで伝えてくれと言われたんですけど、数値も良いようなので明日以降退院と言うことでいいそうです。で、どうします?」

ヒヤッホーーーー!!!

飛び上がりたいくらい嬉しかった。最後の方はボーっとしてよく聞き取れないくらいだった。ちょっと涙目。ただ同室でまだ長く入院している人もいるので、もちろん大きな声では叫べないけど。嬉しさに浸っているとM子婦長が「で、いつにします?」あれ、まだいたの?えっ、何ですか?あっ、いつ退院するかですね(笑)「あのー、今日はダメですか?」「話を聞いてくださいよ。明日以降です。」じゃ明日。当然。「食事のこともあるので午前か午後か、どちらの方が...」「もちろん午前中です(キッパリ)」1時間でも1分でも早く退院したいのだ。「わかりました。じゃそうN田先生に伝えておきます。退院の手続きは事務の方で処理しますので、明日午前中看護婦から呼ばれたら荷物をまとめて、1階の入退院のカウンターまで行って精算してください。」はいはい、言われた通り何でも従います。そう言うとそそくさと戻っていった。

嬉しくてその場では頭の中に「退院」の二文字しか浮かばなかったが、あとで冷静になって考えてみたら、決して完治したわけではない、数値的には少し下がって安定してきたのだが、今後も予断を許さないはず。今後の治療はどうなるんだろう。少し不安になる。またインターフェロンとかやるとか再入院とかなったら嫌だなぁ。その時は断固拒否したい。でもとりあえずは束の間の幸せをかみしめよう。妻へメールを出しておき、午後の入浴も気持ちよく入れた。しかし妻よりメールの返事なし。あれ?喜んでいないの?

夕方妻が来る。相変わらず不安げな顔で入ってくる。とりあえず同じ病室の人の手前もあるので、ベッドで大声を出して喜べないので、 妻をラウンジへ連れて行く。「明日、預かり金の紙が午前中には必要だからさ。」「?」「多分11時過ぎかな。お昼近くになるかもしれない。」「?」相変わらずきょとんとした顔。あれ?メール届いていないの?「来てないけど何かあったの?」だから退院が明日に決まったってメールしたじゃない。「えええええーーーっ!」声がでかいよ(笑)どうやらメールがきちんと届いていなくて、多々印のことを知らなかったよう。いきなり妻も涙ぐむ。それを見てこちらももらい泣きしそうになる。でも途端に「でもまだ完治したわけじゃないんだから、ゆっくり静養して、あれは...これは...」はいはい、ちゃんと言うこと聞きますって(笑)

夕方にN田医師来る。数値が80近く下がり、とりあえず退院して2週間ほど安静にして自宅でゆっくりしろとの指示。はい、わかりました。2週間後に再度検査。そこで数値が悪ければ再入院もあり得ると脅される。はいはい、二度と入院は嫌なので自宅でおとなしくしています。仕事もその2週間は控えるようにとのこと。はい、わかりました。その後、義妹が来たり母が来たりして、とりあえず退院の報告。ご心配かけました。いちおう明日の退院の手はずを相談する。今日は安心してゆっくり眠れそう。


第14日目 7月4日(木) 退院の日

今日は朝から晴れ。入院した日と退院の日だけ晴れなんて、なんか不思議。いちおう天も祝ってくれていると勝手に解釈。嬉しさから5:30から目が覚める。でもあんまり朝からバタバタしているとなんなんで、なるべくおとなしくしている。でも顔だけは多分に焼けていただろう。朝食後、恒例のゴロ寝も終わり、9時頃になってやっと片付けを始める。まだ周りには長く入院が続く人が多いので、浮かれてガタガタやってしまっては申し訳ないので極力静かに隠密行動。

ところが怠けてゴロゴロしていたせいか、なんか段取りが悪い。ロッカーへ何度も荷物を取りに行ったり、ゴミ捨ても一度に行けばいいのに何度も往復したり。その上やはり疲れやすい。ちょっと片付けているだけで、ふぅーっと大きな息を漏らしてしまう。本当に退院して大丈夫なのか?それせいでなんと片付けに1時間以上もかかってしまった。やれやれである。あとはナースセンターからの連絡を待つのみ。 着替えも終わってベッドでゴロゴロしていた。この期に及んで焦っても仕方がないので、本を読んで過ごす。多分11時頃かと思っていたら、10時過ぎに呼ばれる。そのまま1階の入退院受付に行って精算してくださいとのこと。そして2週間後の再検査のことを言われる。 死んでも再入院が嫌なので、はいはいと神妙に聞く。

そこで母へ迎えに来てもらおうと電話すると「あんた、××ちゃん(妻の名前)倒れたのよ、今朝。」えーっ!何で!?超びっくりである。でもよく聞いてみると、仕事帰りに毎日病院に寄ったためにかなり疲れが溜まり、また退院が決まってホッとしたせいもあって、そのため風邪気味で今日会社を休んだとのこと。おいおい、おおげさだよ、倒れたなんて。我が母親ながらオーバーな物言い。

その後1階へ行き、退院手続き。なんと総計7万円!ベッド代はたいしたことないのだが、薬の方が保険が利かないので、そうなるらしい。最初の預かり金の5万円で足りるかと思っていたのでちょっとびっくり。30分ほどで母と妻が来る。なんだ元気じゃないか。脅かすなよ。母曰く「あんたがさんざん心配かけたんだから、これぐらい心配かけてもいいだろう。」はい....。そして2週間振りの我が家。やっぱりいいねぇ、うちは。仕切られていないし。精神的な面で本当に開放感がある。でもさっそく風邪気味の妻は「はい、すぐ横になって。食事は塩分控えてあるから。2週間はおとなしく一日15分だけ起きて良いから、あとは必ず横になっていること!」おいおい、それって病院より厳しいんですけど....(笑)

後口上

そんなわけで無事退院しました。しかし次の検査までの約10日間。仕事には復帰できず、自宅療養と相成りました。それでも病院と比べれば100万倍も良いわけで、仕事に行けないくらい我慢できる喜びでした。退院してからは入院中と同じで、食事後常に30分から1時間は横になって休み、食事も、妻が気遣い、小分けにされ塩分控えめなものになりました。そんなわけで退院してからもほとんど入院中と同じ生活をしていたのです。だって次の検査で数値が悪かったら、再入院という最悪の事態に逆戻りだったわけですから。途中一日だけ学校へ行き、療養休暇や年休の扱いについて、教頭や事務と相談。例の診断書の日付や内容の件で、色々悩むもとりあえず療休と年休を組み合わせて対処。まだ仕事復帰はしていなかったのですが、何人かのお世話になった先生にお礼を申し上げるにとどまる。

そして運命の再検査の日。朝からけっこうびびりました。いちおうおとなしくはしていたのですが、それでも自宅へ戻った気軽さからか、パソコンへ向かったり近所の本屋へブラブラ散歩しに行ったり、最後の方は寝たきりというわけではなかったので。午後1時頃採血して2時半の診察。ドキドキしながら待っているとついに呼ばれる。怖々入っていくとN田医師が「あれ?Oさん、退院後初めての検査だっけ?」と気軽な口調。そうです!この10日間生きた心地もせずにおとなしくしていたんですよ、あなたの言いつけを守って!「なんかいつも病棟で会っていたような気がするなぁ。退院したんですよね。なんかOさんの亡霊と会っていたのかなぁ、ははははっ。」って笑い事じゃないでしょ!さて検査の結果は...少し良くなっている!!!以前300以上あった数値が(健康な人は30ぐらい)150くらいまで下がっている!とりあえず良し!N田医師も「とりあえず良いでしょう。このまま薬を飲み続けて様子を見ましょう。」とのこと。ラッキー!今まで100前後だった数値が入院前には急に200、300と跳ね上がり、このままでは急性肝炎か?と疑われたが、その後2週間の入院と10日間の安静で300→200→150と確実に下がっている。もちろん健康な人の数値とは及びもつかないが、とりあえず最悪の事態は回避できたということ。良かったー、力が抜けてしまいましたよ。「じゃあ、先生、仕事の方は戻っても構いませんか?」「そうですね。無理しないと言うことであれば良いでしょう。ただし検査は定期的に頻繁に行いますので、それはご承知置き下さい。」はい、それはもう。やれやれ。何とか無事復帰できそうである。良かったー!

そんなわけで、これが入院2週間、療養10日間の全記録である。入院中こまめにメモを取り、その日の揺れ動く入院患者の気持ちを克明に書いたつもりだ。実は毎日3食の病院食のメニューまで書いてあったのだが...(笑)自分で読み返してみてもなかなか可哀想な日記である。でも今回入院してわかったことは、健康の大切さ。いやわかってはいたんだけど肌で知るというか、病気してみなければ入院してみなければわからないことって、たくさんあった。多分また時間がたてば健康の大切さを忘れてしまい、結構無茶したりすると思うのだが、その時こそこの日記を読み返して自戒しようという意味で書いたものなのだ。もちろんそれだけでなく、入院中に出会った様々な病気と闘う人たちのこともとても印象に残った。懸命に病魔と闘いながら、なおかつ明るく振る舞う患者さんたち。そこには本当の明るさではなく自暴自棄的な明るさもあった。諦観というにはあまりにも過酷な人の生があった。急性骨髄性白血病の人、小腸の病気でカレーライスすら食べられず5週間も点滴だけで寝ている人、膵臓癌の疑いで苦しむ人、呆けてしまい点滴の針を抜いて血だらけになったおじいちゃん、そんな人たちと病室をともにして、本当に「生きる」ことの難しさ、素晴らしさを体感した。もちろん看護婦さんやお医者さんに助けられたことは言葉では言いきれないくらい多い。そんな貴重な体験をした入院生活だったと思う。

もちろんまだ完治はしていない。いや一生完治せず付き合っていくしかないのかもしれない。そう思うと自分の身体というか人生について深く考えてしまう。いつか死ぬということはわかっていても、今はまだその覚悟が出来ていなかった。もがき、悩み、その上で感じた自分の生き方について再考するきっかけとなった。今までみたいな人生では多分後悔するだろうと。もっともっとそんなに突っ走らず、ゆっくり歩くような穏やかな人生も良いのではないかと。仕事だけでなく、家族も自然も、そういうことにもっと目を向けてのんびり過ごす人生も良いのではないかと。もちろんまだ働き盛りで若いのだけれども、もっと余裕のある人生を送らねば損だという気がしてきた。病気になって初めて感じた新しい生き方。ちょっと大げさかもしれないけれども、せっかくおおごとにならなかったのだから、この命を大切にしたいと真剣に思った。そんなことを忘れないようにここに書いておこう。 心配してくれた皆さん、ご迷惑をかけた皆さん、本当にありがとうございます。本当であれば身体で返したいのですが(笑)そういうわけで、無理は禁物な身体になってしまったので、別の形でお返しできればと思っています。本当にありがとうございました。

最後に妻へ。一番心配かけたと思います。感謝します。ありがとう。

以後、療養しながら書き続ける予定

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