歌劇「魔笛」(W.A.モーツァルト)
横浜ロイヤルパークホテル58階の部屋で目を覚ました。カーテンを開けると何と窓より下に雲がある。朝7時、雲から昇る太陽の光が眩い。朝食に降りるエレベーターの中、聞こえてきた音楽に耳が釘付けになる。フルートの音。私には、フルートの音を聴くと反射的に思い浮かべる「彼」の音がある。
香りから過去の想い出がよみがえるというが、音でもそういった事が起こる。だが、私の場合、スーパーでの買物中に聞こえて来る音楽から記憶がよみがえるという事は無い。ホテルという非日常的空間、港の眺めや美しいインテリアに心を癒されている時だったから、響きが直接心に飛び込んで来たのだろう。「彼」の豊かな音が思い出され、聴きたくて堪らなくなってしまった。
「彼」、それはパリ管弦楽団首席フルート奏者、ヴァンサン・リュカ。5年間の数々の演奏が心に浮かぶが、極め付きのシーンといえば近江楽堂でのフルート二重奏の為の組曲「魔笛」だ。 「魔笛」は楽しいオペラだ。ベルイマンの映画も良かったが、ザルツブルクのマリオネッテン・テアター(人形劇場)の人形劇も素晴らしかった。荒唐無稽なお伽噺なので人形劇に合っている。二組の恋人達、パミーナとタミーノ、パパゲーナとパパゲーノのアリアは愛らしく親しみやすいが、夜の女王と高僧ザラストロのアリアは迫力たっぷり。夜の女王の華麗なコロラトゥーラとザラストロの重厚なバスの火花散る対決は見物だ。このオペラでは、大人が若者より「かっこいい」のが嬉しい。
横浜からの帰宅途中、夜の女王のアリア「復讐心は地獄のように燃え」が頭の中を駆けめぐる。急かされるように家に帰り、早速MDをかける。拍手、そしてリュカの咳払い、あの日の空気が私を包む。素晴らしいアンサンブル、リュカと愛弟子Mちゃんの同質の音色が溶け合う。難曲の前、愛弟子の緊張を察したリュカが半歩進み出て話し始めた。「皆様、今夜、私は大切な生徒であるMさんと初めて共演する事になり、とても幸せです。」お客様から暖かな拍手がわき、Mちゃんの顔が綻ぶ。速いパッセージが始まる。演奏者と百人の観客の心が一つになり、凝縮された時が流れる。終わった瞬間のどよめきと拍手。何度聴いても涙がこぼれる名演だ。
あの絶妙なタイミングの一言、ゲネプロまで三枚目のパパゲーノキャラを演じていたリュカが本番で突然見せたザラストロの貫禄、若者だとばかり思っていたリュカに大人の魅力を認め、はっとした。戸惑いつつ見上げた私の目の奥を見つめて微笑んだリュカの眼差しがいつになく眩しかった。
「・・・素敵だわ。」MDに頬ずりをする。今日こそファックスを送ろう、パリの朝に間に合うように。
横浜ロイヤルパークホテル Tel:045-221-1133
野瀬百合子 ●コンサートオーガナイザー。
パリ管弦楽団首席フルート奏者ヴァンサン・リュカの秘書も務めている。東京芸術大学ピアノ科卒業後、パリで研鑽を積む傍ら、ドイツでも室内楽を学ぶ。1997年コンセール・パリ・トーキョウを設立し、日仏音楽交流の為の演奏会・公開レッスンを開催。読売日本交響楽団ホルン奏者の夫との間に大学生の一男一女。