ダヴィッド同盟舞曲集(ロベルト・シューマン)
「アンコールのピアノに注目」というメモと一緒に、フルートのパユとピアノのル・サージュのビデオがY子さんから回ってきた。お弁当作りをしながら、「やっぱり上手い、さすが。」と見ていったが、アンコールのボリングが始まった途端、「なあに、これぇ。」と手が止まった。ル・サージュが魔法の様に軽やかなタッチでジャズしている。音の切れ目から悩ましい甘さが香り立つ。そのかっこ良さ、尋常じゃない。パユは悠然と引き立て役に回る。九八年のル・サージュとの日本初公演、オーソドックスな曲目の後の遊び心の披露は、彼等ならではの魅力をアピールする心憎い演出だった。しかし、ル・サージュの寡黙さと優しい心遣いに惹かれて彼のファンになったY子さん、この変身には目を回したに違いない。
エリック・ル・サージュは、私の最も好きなピアニスト。上手いピアニストは数多く居るが、私には彼の演奏が心地よい。洗練された感性と情熱の混ざり具合が絶妙なのだ。定評のあるシューマンはもとより、古典から現代曲、そしてジャズまで弾きこなす彼の豊かな表現力に、色彩感のある美しい音に、私は魅了されている。
五月末、キャピトル東急ホテルに行った。サントリーホールに近いこのホテルには多くの音楽家が宿泊する。パリ管弦楽団、ラジオ・フランスのオーケストラの友人達との再会の場も、このロビーだった。カルガモの来る庭や客室の障子等、随所に生かされている和のテイスト、心が落ち着くと友人達からの評判も良い。
ロビーの椅子に腰を下ろすと、半年前の寒い日の事が心に蘇った。その日、約束の時間の前に着いた私は、数日前のパユとの演奏会を思い出しつつ、ル・サージュを待った。メンデルスゾーンの爽快感、「ウンディーネ」の色っぽさ、彼の音をなぞる私の前に、マネージメントのS子さんが現れた。さすが、時間ぴったりだ。「某大オペラ歌手が出発」という情報に、二人で首を伸ばして入口を見ているところに、「遅れてごめん。」とパユとル・サージュが入って来た。パユの冗談をかわしつつ、ル・サージュと打ち合わせをした。
こじんまりした会場でのル・サージュのリサイタルは、彼の音楽を愛する人達の高まる期待の中で始まった。最終曲の「ダヴィッド同盟舞曲集」では弾き手と聴き手のテンションがぴたりと一致し、一体感が会場全体に拡がった。シューマンの二つの性格、明朗なフロレスタンと瞑想的なオイゼビウスの間を振り子の様に行き来するこの曲は、表現の幅の広いル・サージュの独壇場。フロレスタン系の小気味良いリズムと方向性のある旋律、オイゼビウス系の耽美的で透明な響き、シューマンの世界を旅する至福の時が流れた。クララへの想いに溢れたワルツは、涙がこぼれるほどの美しさだった。
和やかな打ち上げの席、その日解禁のボージョレー・ヌーヴォーを手に、ル・サージュはくつろいだ表情を見せていた。演奏会の計画を話す彼は本当に楽しそうだ。次回来日は来年秋、彼が見せてくれる次のシーンを、私はワクワクする思いで待っている。
キャピトル東急ホテル Tel:03-3581-4511
野瀬 百合子 ( コンサートオーガナイザー)
コンセール・パリ・トーキョウ主宰。東京芸術大学卒業後渡仏。九七年より日仏音楽交流の為の演奏会等を企画。ル・サージュはプーランク室内楽全集CDでレコードアカデミー賞大賞を受賞、今秋シューマンのCDをリリ―ス。来年秋にパユとのデュオで来日予定。