シャコンヌ(ヨハン=セバスチャン・バッハ) 野瀬百合子
昨夏、私はヴァイオリンの音に心を捉えられた。低音ファンを自認し、高音楽器には惚れ込まない自信の有る私には珍しいことだったが、彼の奏でる深く豊かな音色に私の気持ちは大きく揺らいだ。
彼と初めて会う為に、ホテルメトロポリタンに行った私はドキドキしていた。ロビーを横切って来る彼は写真以上のハンサム振り、背も高く、実に凛々しい顔立ちだ。マネージメントのS子さんと友人のA美さんが彼と打ち合わせをする間も、私の視線は彼の瞳に吸い寄せられていた。グレーがかった緑色、引き込まれそうな色をした瞳の主はテディ・パパヴラミ、「アドリア海の生んだ叙情詩人」といわれるヴァイオリニストだ。天は二物を与えずというけれど、天は彼に全てを与えた。才能、美貌、そして知性。
ホテルメトロポリタンは芸術劇場楽屋口に徒歩一分、芸術劇場でコンサートをする演奏家にはとても便利な場所にある。勿論、池袋駅にも近い。近頃は、仕立てたバスで渋滞の中を行くより、各自が公共の交通機関を利用するという東京の交通事情にマッチした移動法を取る外来演奏団体も多くなっているので、そういった利用者が増えているに違いない。そして、あまり知られていないが、このホテルにはピアノの入ったレッスン室が有る。ホテル内で練習が出来るなんて夢のような話、演奏家に人気がある所以である。
その日、パパヴラミは来日翌日、しかもレコーディング後すぐに飛行機に乗ったというので、疲れているように見えた。気分転換にお茶を飲もうと誘ってみた。カウンター席に並んで座り、共通の友人達の消息を話し、スケジュールの確認をする内、彼はうち解けてきた。私は彼の生い立ちについて聞いてみた。アルバニア生まれの彼は、フランスの高名なフルート奏者アラン・マリオンに見いだされ、十一歳の時、当時共産主義国であった故国から単身フランスに渡った。異国での最初の生活はとても辛かったと、彼は語った。胸が熱くなっている私に、彼は続けた。「でも、次の年にフランス政府がマ・ママン(僕のママ)を喚んでくれたんだよ。」と。マ・ママンという言葉に籠められた彼の思いに、目が潤んだ。向かい合って座らなくて良かった。そっと隣を見ると、彼は遠くを見ていた。
数日後のコンサートの日、彼の弾くバッハの「無伴奏パルティータ第二番」は観客の心を奪った。彼の息遣いが音楽に命を吹き込んでいた。その終曲「シャコンヌ」の素晴らしさ、観客は彼の世界に完全に引き込まれていた。この演奏に、友人のH氏は「今日は人生最高の日だ。」と驚喜した。異国での試練をくぐり抜け大輪の花を咲かせた彼、彼のママンはどんなに嬉しく思っていることだろう。
演奏後、Tシャツに着替えたパパヴラミは、理想的なアスリート体型だった。「明日は?」と訊くと、「スポーツジムに行くよ。」と笑った。ホテル近くに提携スポーツジムが有るという。友達から「あれは病気」と言われる程スポーツ好きの彼、彼にとってスポーツジムの善し悪しはホテル選びの重要なポイントに違いない。
プロフィール
のせゆりこ ( コンサートオーガナイザー)
コンセール・パリ・トーキョウ主宰。日仏音楽交流の為の演奏会等を企画。パパヴラミは世界的な若手ヴァイオリニスト。多忙な演奏活動の傍ら、俳優としてカトリーヌ・ドヌーヴと共演し、アルバニア人作家作品の仏語訳をする等、多方面に活躍。来秋来日予定。
ホテルメトロポリタン Tel (03)3980-1111
ホテルジャンキーズ40号(2003年10月25日発行)掲載分