トロイメライ(ロベルト・シューマン)
十月十七日午後九時、私はドラマ「フジ子・ヘミングの軌跡」を見る為にテレビの前に居た。耳鼻科のシーンの後、トロイメライが流れる。庭四秒、縁側四秒、そして管野美穂さんが映る。監督さんのお話通りだ。彼女の指の動きを追う私の肩に力が入る。二ヶ月の時間が、手を重ねて指導したレッスン室の光景がフラッシュバックし、目が潤んだ。物語に感動しながらも、ピアノのシーンの時だけ、私の視線は教師の視線に戻っていた。最後にスクロールされていく「ピアノ指導 野瀬百合子」の文字を感無量の思いで見送った。
その六日後の夕暮れ時、私はシャンゼリゼ近くのカフェで、パリに住むピアノ学生のRさんとSさんにドラマの話をしていた。夏の間に休みが取れなかった私の遅めのバカンスは、枯葉の季節のパリへの旅だった。カフェオレカップで手を温めながらのお喋りの話題は、やはりトロイメライ。ピアノに関わる者にとって、この曲を二ヶ月の練習で弾いたという話は、かなりショックな事なのである。トロイメライは聴き易くはあっても、決して弾き易くはない。あそこまで上達したのは、菅野さんの感性の鋭さとひたむきさが有ってこそ。話をしながら、私は彼女のキラキラした瞳を思い出していた。
カフェを後にして三人で向かったのは、エリック・ル・サージュのピアノリサイタル。シューマン好きの彼、プログラムに「フモレスケ」と「ダヴィッド同盟舞曲集」を入れ、アンコールにも「ダヴィッド同盟舞曲集」の中の美しいワルツを弾いた。私は、すっかりシューマン色に染まってホテルに戻った。
「オテル・エリゼ・メルモズ」は、シャンゼリゼから少し入った所に有る全二十七室のホテル。瀟洒な佇まいを雑誌で見て泊まりたいと思っていたが、メールでの感じの良い応対が気に入り、宿泊を決めた。私の場合、パリではホテルに二泊しかしない。三日目に「パリのママン」宅に移るので、ホテルは観光客の多い地区を選ぶ。言葉に慣れない間は、観光客に紛れて過ごす方が気楽だから。
フロントの紳士が「今夜は冷えますね。」と言いながら、鍵を渡してくれた。部屋に戻り、明かりを点けると、昨夕着いた時はよそ よそしかった部屋が、今夜は「お帰り。」と言っている。花模様の壁紙とベッドカバーの赤い色が心に温かい。窓の有る可愛いバスルーム、ブルーの洗面台の奥のバスタブにゆったりと身を沈めた。
風呂上がりに焙じ茶を淹れる。私の外国旅行の鎮静剤だ。焙じ茶の香りが、明日からの電話以外日本語一切無しの「即席パリジェンヌ生活」への気負いをなだめてくれる。右手を机に置くと指がトロイメライの音を探している。左手がそれに応え、十本の指が細やかに私の想いを編んでいった。二年半夢見続けたパリ、遂に訪れることの出来た幸せを抱きしめながら空を見上げると、そこには、七時間前に日本を照らしていた三日月が煌々と輝いていた。
トロイメライ、それは夢想という意味。この曲は、夢見ることの楽しさと重さ、その両面を知る大人に捧げられた曲なのだ。
Hotel Elysees Mermoz
Tel:+33 (0)1 42 25 75 30
野瀬百合子(コンサートオーガナイザー)
コンセール・パリ・トーキョウ主宰。東京藝術大学ピアノ科卒業後渡仏。九七年より日仏音楽交流の為の演奏会を企画。十月放映の「フジ子・ヘミングの軌跡」のピアノ指導を担当した。トロイメライの入ったお勧めCDは、九月発売の「シューマン
ル・サージュ」(BMG)。