環境設計学会・スカイハウス見学会  菊竹先生聞き書き 20070323湯本、阿部、小山 「スカイハウスの設計と建設まで」   (菊竹先生は、在学中に「国鉄久留米駅舎コンペ」1等や、「広島平和記念カトリック聖堂 コンペ」3等入選など、建築家として華々しいスタートを切った。1950年に卒業後は竹中工 務店に入社、建築学会「テラスハウス」コンペ入選を経て、1952年に村野・森建築設計事務 所入所。1953年に菊竹請訓建築設計事務所を開設した。)   (Q)このたびは、スカイハウス見学を許可戴き、有難うございます。電話と書面だけのお 願いで、大変失礼致しました。宜しくお願いします。 私たちは、入学時の最初のコピーでスカイハウスに出会い、衝撃を受けたものです。見学を させて戴けるとは、大変嬉しいです。   (K)いえいえ、そんなふうに言って戴けると・・。 実は、独立後しばらくは全く仕事が無く、石橋さん(ブリジストン創業者、最初の菊竹夫人 の一族)の計らいで回って来る仕事だけをしていたのです。しかしそんな素晴らしい仕事を 貰っていた訳ではなく、「木造」の、しかも古い建物を移築して、ほかに転用するというよ うな仕事ばかりだった。と、思っていました。 その中に、ブリジストンの古い建物(事務所)を移築して、保育園にするというような仕事 があった。私は内心あまり面白くもなく、また周囲からもブリジストンの石橋さんともあろ う人が、新築でなく古い建物を寄付されるとは如何なものか、というような声も聞こえて来 た。それでも案を持って説明に伺うと、石橋さんの突っ込みは鋭く的確で、計数に明るいと いう評判のあった人らしく、「それで何人が坐れますか?」とか、「食事は何交代くらいで 出来ますか?」とか、単なる定性的なコンセプト以上の定量的な押さえを、鋭く指摘し追求 された。この勝れた施主に鍛えられて、私は次第に定量的な押さえ(建築計画的スタディ) を身に付けていった。それでもまだ、なぜ木造の古い建物かということには、自分自身、決 して潔しとしていなかったが、これは竣工時の石橋家の娘さんの御礼の挨拶で、眼からウロ コを落とすことになった。 「この建物は古い建物ではありますが、空襲などを受けて危うく焼失しようという時に、ブ リジストンの社員や近隣の人たちが、生命を掛けて守って下さったものです。その想いのこ もった一本一本の柱や梁が、今日こうして甦り新しい生命を得て、新しい役割を担うことに なりました。そのことが何より嬉しいことですし、関わった多くの人々に心から感謝申し上 げたいと思います。」お若いにもかかわらず、本当に立派なご挨拶をされたと思います。私 は心から感動し、そして自分もこれではいけないと思い直して、「自分とは何か?」「自分 の建築設計とは?」「自分を現す建築とは」などと深く考え、自力で自宅を建設しようと思 い立ちました。 広さの原型としたのは久留米の実家の中の中心空間の広さで、畳間を建具で仕切り、日常生 活から冠婚葬祭まで、全てそこでまかなっていました。私はその広さがあれば、何とでも対 応できると思いました。また建具についても、石橋さんの木造建築の仕事の経験が役立ちま した。ある母子家庭の家族のための寮を設計した時、風の強いところでは板一枚の仕切りで は、外に近い人たちは隙間風が寒くて眠ることも出来ない。もっと厚みのあるもので、その 中に幾つかの働きがつまっているような、雨戸袋ではないけれど従来の板一枚以上のものが いう機能を持つものとしてあったので、使いました。木造の建物の良い所は、一つ一つの材 がまた別の役割を得て働き、取っ換え引っ換えしても、また新しく生まれ変わっていく所に あります。「メタボリズム」の考え方も、後により発展はして行きますが、その原点は、木 造の建物ばかりやっていた頃の設計の仕事にあると言えます。   寒さと隙間風を防ぐのに、少し床より高くなっていることも重要で、そうした経験もスカイ ハウスに生きています。住宅公庫から、確か200万円(当時の200万円は初任給が10倍以上に なっていることから見ても、相当な金額)借りて、誰も頼らず全てそれでやりました。 無双も初めは、ひのきで考えていましたが、良い材木屋さん(石川木材?)がいて、「ひの き」なんて初めから使うものじゃない、何とかラワン材で作ってやろうと言って下さって、 それでやりました。それがいまだにちゃんと保っています。良く乾燥させて処理された、し っかりしたラワン材であったので、いまだにきちんと機能を果たしています。おかげで随分 予算的にも、もうかってしまいました(笑)。   石橋さんには、本当に鍛えられた思い出があります。私は何度も誘われて、ブリジストンの 取締役会に出席したことがあります。有名大学卒の立派な役員さんが(実家の没落による貧 窮で)小学校しか卒業していない石橋さんに「具体的問題で定量的把握が出来ていない」と いうようなことで厳しくやられているのを見て、私もこの人の言うことに従って作って行っ て、間違いないと思いました。単位数量などは一度聞くと決して忘れないので、私も間違っ たことを言わないように必死で心がけていました。 色々と平面計画を工夫すると、幾つか突っ込まれて、それでも負けずに説得すると最後は分 かったと言ってくれる。しかし決まって言われたのは、「それは良いが、予算は増やす訳に は行かないから、その中で収まるようにやって下さい」というようなことでした。コストを 抑え込むために、必死に工夫もし勉強もしました。 (Q)菊竹先生はそういう経験がおありなので、構造計画の構想が大きいのですね?細かく 個別の対応をしていたらコストが嵩むので、大きく一発で全体を支えないといけなくなりま すね。 (K)そういう面もあるかも知れませんね (Q)お話戴いた学校や寮、あるいは病院も、元を辿ると兵舎が原型で、さらにその元は修 道院であるという説もあります。大きなスペースに、皆がズラッと並んで寝るような空間で す。時間と団体行動で制限された、いわゆるinstitution(施設)というのが原型だと思い ます。 そのように、なかなか変わらない原型空間を、新たに創り出すということは、本当に難しい 創造的なことだと思いますが、スカイハウスは追随を許さない、新しい原型空間を世に示し たことが、本当に凄かったと思います。私たちは入学した直後のコピーや図法の教材がスカ イハウスであったので、建築学科での最初の出会いがスカイハウスでした。今まで見たこと のない建築空間で衝撃を受けたことを覚えています。40年前のことになりますが・・・ (K)そう言って戴き、また改めて見ていただけるのは、嬉しいことです。ただ、冬の間は ご覧戴けなかったので、5月中旬なら所員の人たちにも協力戴いて、何とか出来ると思いま す(4月に大掃除をされて、5月から住み始めるということです)。やはり空調は入れない ということで、フィロソフィーを貫いています。それでやはり冬は厳しいので、こちら (K-HOUSE、事務所兼住宅)の5階に引っ越しています。   (Q)当時の日本建築界には大変な衝撃を与え、日本住宅建築史上不朽の名作になりました。 (K)いえいえそんなことはとんでもありませんが、思いがけず大変注目して戴いたお蔭で、 自宅で寝ていると皆さんがおいでになって、しかも逃げる場所のない住宅なので、結局起こ されてお相手をするようなことで、大変困りました、フィロソフィーは貫いた住宅ですが、 正直住みにくいので、(最初の)家内は大変であったと思います。この家は、本当に色々な 方がおいでになって、そして、ご覧になった方とは、本当に永年の知己のように分かり合え ることが出来て、その点は幸せだったと思います。ルイ・カーンさんや、フライ・オットー さんなどもおいでになって、その後は、心の底から許し合える友人になれたように思います。 オットーさんは私の方からお宅にお邪魔させて戴いたことがありますが、やはり奥様は住み にくいとコボしておられました。同じものだなあと、安心したような嬉しいような不思議な 気持ちでした。やはり建築家は自らのフィロソフィーを貫いて、自宅を設計することが必要 かと思います。私も住みにくくて苦労もしましたが、貫き通した甲斐はあったと思います。   (Q)5月19日、15〜17時に見学をさせて戴いた後、出来ますれば近くの鳩山会館を会場に、 1時間ほどご講演を戴けると有難いのですが。 (K)では、1960年日本で開催された世界デザイン会議の折に、スカイハウスを訪問した 「ルイス・カーンさんのお話をさせていただきましょう。 (Q)有難うございます。大変楽しみにお待ち致します。詳細の打ち合わせは、幹事長の阿部 光伸(梓設計)がさせて戴きます。 本日は予定を大幅に超過し、事務所の方にも本当に申し訳ありません。長時間本当に有難う ございました。