相馬氏の恋人

「遅れてすみません」
 柔らかな物腰で頭を下げて向かいの席に腰を下ろす男。
 声を掛けられた相手が何かを言う前にやってきたボーイに「ビール」と告げて男はほっと息をつきながらもう一度ゆっくりと口を開いた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?有栖川さん」
「ええ、お陰様で。相馬さんの方も相変わらず忙しそうで、少し痩せたんやないですか?」
「そうですか?」
「うん、そんな気がする。ちゃんと食べてるんですか?」
「多分・・修羅場中の有栖川さんよりはずっと食べていると思いますよ」
「・・・・・・・何か・・相馬さんどんどん性格良くなってるんちゃう?」
「そんな事ありませんよ」
 ニッコリと笑う男に何か言いたげに口を開いて、結局有栖は目の前のビールに口を付けた。

 大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖と東京本社勤めのサラリーマン・相馬明人が出会ったのはもう3年近く前に遡る。
 今はすっかり『恋人』の座に座っている長年の親友。英都大学社会学部助教授・火村英生への思いを有栖が必死に隠していた頃、薄暗いバーの片隅で相馬が有栖に声をかけたのだ。
“その恋は苦しい恋なんですか?”
 そう尋ねられて有栖は声を失った。自分も同じように好きな『男』がいると言われ、そうしておずおずと、まるで何かに縋るように口を開いた。
“この気持ちはおかしなものだと思いませんか?”
 それは有栖がずっと・・・そう、親友に対する自分の気持ちに気付いた時からずっと、自分自身に問い掛けてきた言葉だった。けれど相馬は言ったのだ。
“誰かを好きになるっていう気持ちにおかしいもおかしくないもないでしょう?”
 そうしてその後、紆余曲折の末、多分・・・・相馬に後押しをされる形で有栖と火村は『恋人』と呼ばれる関係になった。
 けれど、同士である相馬の『朗報』を有栖はまだ聞けずにいたーーーーーー。

「今日は先生はご一緒ではないんですか?」
 運ばれてきたビールを口に運びながら、相変わらず柔らかな微笑みを浮かべる相馬の言葉に有栖は微かに顔を赤く染めながら眉間に皺を寄せた。
「・・・・そんなん・・別にいつも一緒にいるわけやないですよ」
「でも今日ここに来る事はご存じなんでしょう?」
 どこか笑いを含んだような言葉に有栖はますます眉間の皺を深くした。そう。確かに知っている。
つい先日、相馬から電話があった時、火村は有栖のマンションに居たのだから。そしてその電話の後で「えらく嬉しそうだな」等と揶揄られて・・・・・・・・・・・あとはちょっと言いたくない。
「・・・宜しく伝えてくれと言ってました」
「そうですか。 残念だな、先生がいらっしゃると有栖川さんが輪をかけて可愛らしくなるので楽しみにしていたのに」
「・・・・・相馬さん、仕事に疲れとるんやないですか?」
 がっくりと肩を落とした有栖の言葉に相馬は又クスクスと笑った。
 それを見て有栖は微かに首を傾げた。
「前言撤回。相馬さん、何かいい事ありました?」
「・・・何故ですか?」
「何となく。仕事・・・・やなくて・・もしかして・・・?」
「・・・・・・・・・・・」
 途切れた言葉。真っ直ぐに見つめてくる有栖の眼差しに相馬はやがてクスリと小さな笑いを漏らした。
「推理小説家を甘く見たら駄目だって言う事ですかね」
「え!?したら・・ほんまに?」
 子供のように思っている事が全て判ってしまう表情がひどく眩しくて、二度ほど会った事のある彼の恋人が有栖を思う気持ちが判ると相馬は思った。
「まだですよ。ちゃんと『朗報』になったらお知らせしようと思っていたんです」
「・・・・ちゃんとって・・」
 相馬の言葉に有栖は訝しげな表情を浮かべた。
 それを見て相馬はもう一度小さく笑う。素直で残酷な子供のようだ。そう。子供とは本来そう言う生き物だ。
「東京の大学でそれらしい人間をみつけたんです」
「・・・大学?」
 聞き慣れたその場所に有栖はただ相馬を見つめていた。
「ええ。私はしばらくこちらに滞在の予定なので、会うにしてもまだ少し先なんですけどね」
「会うにしてもって・・・・会わないつもりなんですか?」
「・・・・正直言って思案中です。3年半・・・もう3年以上の時間が流れてしまいました。それは一人の人間が違う生き方を見つけて歩き出すには十分な時間だ」
「そんなん・・・だって・・好きなんでしょう?」
「好きですよ。今でも好きだ。多分別れた時以上にそう思っている」
「それなら・・」
 有栖の言葉を微笑みで止めて、相馬はビールのグラスを傾けた。
「好きでも、時間は戻せないし、彼の人生をねじ曲げる事も出来ない。彼の時間と私の時間は、多分大きな差がある」
 小さな沈黙が落ちた。
 ザワザワとした喧噪が二人を包む。
「なんで・・・そんなん・・・・相馬さんらしくない」
「有栖川さん?」
「単純な恋をしたいって言うたんわ、相馬さんや。言わなきゃ伝わらんて言うたのも、怖いと思うのはそれに答えてほしいと思うからやて・・・。あの時相馬さんが後押しをしてくれたから俺は・・・。せやから今度は俺が後押しする。言わなあかん。時間は誰の前でも平等や。3年は3年以外の何ものでもない。ちゃんと好きやて言うて、それでもしも・・・もしも玉砕したらいくらでも付き合う。飲んで飲んで飲みまくりましょう」
「・・・・・・・火村先生に怒られてしまうな。そんなに有栖川さんに付き合わせたら」
「勝手に怒らせておけばええねん。なんたって俺と相馬さんは同胞なんやから」
「・・・力強いエールですね」
「そうやろ?」
 有栖が笑う。
 つられて相馬も笑みを零す。
「・・・・・・・まぁ・・・一応会ってみるつもりではいたんですよ」
「うん」
「でもさすがに大学に乗り込んでゆくのもどうかと思ってね」
 その言葉に有栖は料理に伸ばした箸を止めた。先程も引っかかった言葉。
「なぁ・・・」
「はい?」
「その・・・相馬さんの相手も大学の関係者なん?」
「・・・・関係者・・・・というか・・・・学生です」
「・・・・・・・は・・・・・・?」
「ああ、お話していなかったですか。一緒に暮らして居たのは彼が高校生の時です」
「高校生・・・・・」
「ええ、なので今は大学2年生みたいです。どうやら一年間浪人していたようですね」
「・・・・・・・・・」
「ね、有栖川さん。かなりの覚悟が必要でしょう?」
 にっこりとどこか悪戯っぽく微笑む相馬に有栖は引きつりながら必死に笑みを浮かべていた。



「・・・・・なぁ・・・・・」
「ああ?」
「君から見て大学生ってどう思う?」
「ガキ」
「・・・・・・・・君に聞いた俺が間違いだった」
「何だよ、やぶから棒に。今度の新作か?」
「ちゃう」
「おい」
「ええねん。ほっといてくれ」
「・・・・・・・そういう事を言っていると襲うぞ」
「この体勢でまだそうくるか・・・」
 夕陽丘の有栖のマンション。その一室。つまり寝室の、更にベッドの上で、情事の後のけだるさを身体の中に抱えたまま有栖はふぅと溜め息をついた。
「・・・・っと・・・こら・・もうやめ・・火村!」
「うるせぇ」
「うるせぇって・・や・・・も・・出来ひんってば・・」
「大丈夫」
「勝手に決めるな!あ・・ほんまに嫌や」
「ならさっさと吐けよ」
 言いながらようやく顔を上げた恋人に、有栖はすでに赤くなった顔でもう一度溜め息をついた。
「ほんまに・・・なんでこんな奴、好きなんやろ。自分で自分の趣味を疑うわ」
「・・ほぉ・・・やっぱりもう1ラウンドやりたいらしいな」
「アホ!さ・・・3回もしたら十分や!話す。話すから、離せ」
 有栖の言葉に火村抱きしめていた腕をほどいた。
「それで?」
「・・・昨日相馬さんに会った」
「知ってる」
 短い答えに有栖は黙って聞けと視線を投げる。
「相馬さんが恋人を捜している話は前にしたやろ?」
「・・・・ああ」
 そう。なぜ、どこで、どうして、相馬と会ったのか、そして、なぜ同胞なのかと問いただされて話をした・・・・もとい、させられたのだ。
「でな、どうやら見つかったらしいんや」
「へぇ・・・」
「でもな、迷ってた。恋人と別れて3年半以上経っとるんや。その時間って言うのは人間が新しい道を見つけて歩き出すには十分な時間やて」
「・・・ああ・・・・まぁな・・・」
 それは確かにそうだと火村は思った。勿論何年経とうが変わらぬ思いもあるがそれが全ての人間に対して当て嵌まると思うほど火村はお気楽な性格ではない。どちらかと言えば変わってしまう人間の方が多いだろうと思う。
「すっごく驚いたんやけど、相馬さんの恋人って・・・その・・・大学生なんやて」
「・・・・・・・・そりゃ又ご苦労なこった」
 そう言った火村を軽く睨みつけて有栖は独白のようにそっと口を開いた。
「うまくいってほしいなぁ」
「アリス?」
「単純な恋がしたい・・・・相馬さんが言うたんや。恋が単純なんてそんな風にうまくいかん事は知っとる。けど、そんな風になって欲しい。好きだと気持ちを伝えたいし、伝わって欲しい」
「・・・・・・・」
 何も言わないまま火村の手がいつの間にかサイドボードの上に置かれていたキャメルに伸ばされた。
「ベッドの上は禁煙や」
「誰かさんがキスもさせてくれないんで口寂しいんだ」
 いけしゃあしゃあと言うその口に有栖は小さく吹き出すように笑い出した。
「うまくいってほしい」
「・・・ああ」
 銜えられた煙草。
「もしも玉砕したらいくらでも付き合うって言うたんや。飲んで飲んで飲みまくろうって」
 有栖のその言葉に火村はキャメルを銜えたまま小さく顔を顰めた。
「・・そりゃあ、何が何でもうまくいってくれないとな」
「なんやねん、それ」
 クスクスと漏れる笑い。銜えた煙草をそっと奪い取って。
「アリス?」
「・・・・・・・吸うたらあかん」
 僅かな沈黙。
 そうして次の瞬間、頭の良い恋人の、近づいてくる信じられないほど甘い顔に目を閉じて、有栖はそう遠くない未来に相馬が『朗報』を聞かせてくれるに違いないと思っていた。

おしまい


わはははは・・・。すっかり遅くなりました。シンタローさん、いかがなもんでございましょう。いくら何でも相馬さんと有栖だけで話が終わりにするわけにもいかずこんな形になりました。
相馬さんの恋人の設定は実は結構前から考えていました。この先どうなるのかは皆さんのご想像にお任せ・・・でしょうか。
せめて空想の世界はどこまでも甘いものでよいとするか、いやいや現実はそんなに甘くないだろうと思うか・・うーん・・・。
ちなみに相馬さんとその恋人がどんな風に出会ってどんな風に別れたのかは全く考えてません。ので、田村に聞かないでくださいね。あっ、でも考えてくださって田村に見せてくださるというのは大歓迎です♪