Spring Spring  火村サイドストーリー

窓から差し込む明るい日差し。
その光の中に舞う小さな粒子と白い煙に、何だかひどく不健康な環境に居るような気がして、らしくもなく少しだけ換気と窓を開いてみたりする。
途端に入り込んでくる空気は少し前までのそれと違って肌を刺すような冷たさは全く感じられない。
その事実に何故かクスリと笑いを漏らして英都大学社会学部助教授の火村英生を再び椅子に腰を降ろして、雑然とした机に向かった。
大学は先日めでたく卒業式を終え、春休みに突入している。けれど勿論学生たちと同様に休んでなどいられない。
この時期は新学期の準備もそうだが、論文の作成にも又うってつけの時間なのだ。
短くなったキャメルをすでに満杯の灰皿に器用に押しつけて、火村はパソコンに向かう。そうしてその画面を見つめながらふと大阪在住の推理小説作家の事を思い出した。
彼も又今頃こんな風にワープロの画面に向かっているのだろうか?
「・・・・・そういやこの所連絡をしていないな・・」
フワリと脳裏に浮かんだ笑顔。
学生時代からの友人で、数年前から恋人でもある彼、有栖川有栖はすでにそれが習性化しているように締め切り前にならないと尻に火がつかない。
十日程前にフィールドの誘いを入れたのだが答えは「あかん」の一言だった。
「・・全くワープロだって学習機能を持っているんだぜ?」
言いながら火村は新たなキャメルを取り出して口に銜えた。
あれから十日。
そろそろ原稿は終わっただろうか?それともまだ−−−自業自得といえばそれまでの−−−青い顔でワープロに向かっているのだろうか?
「・・・・こいつが一区切りついたら電話でも入れてみるか」
ふぅっと息をついてカチリと煙草に火を点ける。ついでユラリと立ち昇った白い煙。
有栖は学生時代から不思議な魅力を持った男だった。
彼の回りにはいつも人が耐えなかった。
そんな彼に友情以上の、背徳的な欲望を持ち始めのはいつの頃だったのか。
なぜ、そんな風に思ってしまったのか。
有栖が火村自身に解けない謎を感じているように、火村も又有栖に対して多分一生解けないだろう謎を感じていた。
勿論それを有栖本人に伝える気はさらさらないけれど。
「・・まったく・・」
胸の中に込み上げてくる、らしくもない甘い感情。それを押し殺しつつ火村は再び画面に向かった。
その途端−−−−−−・・・。
「!!」
鳴り出した電話。
1コール、2コール、3コール・・・・
「はい、火村です」
掻き消されてしまったような思いに思わず胸の中に漏れ落ちた舌打ち。
けれどついで耳に流れ込んで来た声に、火村は限りなく甘くて苦い笑みを浮かべた。
『久しぶりやな、先生。元気にしとったか?』
「ああ、そっちこそ死んでるんじゃないかと心配してたんだぜ?・・・・・・・ああ!?花見だ?おい正気か?まだ桜なんか花見をするほど咲いてないぜ?それともお前の家の方だけ狂い咲きでもしてるのか?・・・・・アリス?どうしたんだいきなり。何かあったのか?・・・・・・・ああ・・目的はそっちか・・・・構わねぇよ。食えるもんなら何でもいいんだな?・・・・ああ、判った。そんなに遅くならないうちに帰れると思うからビールを冷やして待ってろよ」
「ほんなら後で」という声を残して切れた電話。それをゆっくりと元に戻して火村はふぅと溜め息をつく。
「まったく・・・」
有栖はやっぱり有栖だ。
こんな事を言うと怒るかもしれないが、昔から自分はあいつに振り回されっぱなしだ。
「食事代は高いぜ、アリス?」
ニヤリと笑って口にした言葉。
多分、おそらく、きっと、裏の家の桜はまだ蕾のままだろう。今日のこの陽気で花がいくつか開いていればみつけものだ。
「花見ねぇ・・・」
春になると浮かれ出すのは有栖に始まった事ではなく、平安の昔から多くの和歌が残されている事でも明白である。
「もっともあいつの場合は花より団子だけどな」
楽しげにそう口にして再び零れた笑い。
そうして次の瞬間、頭の中で今夜のメニューを考えつつ火村は冷めたコーヒーをゆっくりと口に運んだ。

Fin