甘やかされている理由



『こう言ったら何やけど、あんたってホンマ甘やかされとると思うわ』
「・・・・は・・?」
 受話器から聞こえてきた言葉に、大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖はあまりに短すぎる声を上げていた。
 その返事とも何ともつかない有栖の答えに電話の相手、京都在住の同業者・朝井小夜子はあきれたような溜め息をつく。
『まぁ、あんたの事だから、勿論そんな事思ってもみなかったんでしょうけど、世間一般ではそう言うのを甘えてる、もしくは甘やかされてる言うんやで』
 やってられないというその口調に、けれど有栖の頭はパニック寸前だった。大体自分たちは今、何の話をしていたのだろうか。必死に記憶を巻き戻しても答えは見つかりそうにない。
 そう。確か自分たちはお互いの次回作の話をしていた筈なのだ。しかも有栖に至っては発売予定が先月だったという長編で、修羅場も何も極まれりと言う状況だった。そこにかかってきた同業者の励まし(?)の電話・・・・というシチュエーションだったのにこの展開は何なのだろう???
 判らない。
 さっぱり、やっぱり判らない。
 それならば、方法は一つしかない。
「・・・・・あの・・」 
 意を決したように有栖は受話器を持つ手に力を込めた。すぐさま聞こえてきた「何?」という小夜子の声。
「あの・・誰が・・は聞いたんですけど、誰に甘やかされてるって言うんですか?」
『・・・・・・・・・・・・』
 返ってきたのはたっぷりとした沈黙だった。
 もしかして切られてしまっているのではないだろうか。そんな心配が頭の中をグルグルと回り始めた頃有栖の耳に再び大きな大きな溜め息が聞こえてきた。
「朝井さん・・・?」
『自覚の無いのも程があるって。はぁ・・・あんた今私と何の話をしてたん?』
「何って・・・新作の・・」
『ちゃうわ。その後』
「・・後って・・・修羅場の事ですか?」
『そう。伸ばしに伸ばして片桐氏に神経性胃炎を起こさせているあんたの新作の修羅場』
「・・・・・・・・」
『そこでご飯を作ってくれたのは誰だって?』
「・・・・え・・火村」
『倒れていないか心配して様子見に来てくれて、散らかり放題の部屋まで片付けてくれて、それのどこら辺が甘やかされてないのか教えて欲しいわ』
「!!せやかて、俺はあいつにふざけるなとか、遅筆作家とか、ととっととやれとか、叱りとばされてけなされてたんですよ!?それの何処が甘やかされてるって言うんですか?」
『見事な飴と鞭やないの。ったく・・あの先生もほんまに甘やかしたい放題するから鈍感に磨きがかかるんやわ。とにかく、何か反論があるんやったら修羅場明けでも、普段でも、炊事・洗濯・掃除をこなして人並みの生活ってもんを自分で確保してごらん!はぁー‥発行が遅れて落ち込んで、煮詰まっとるんやないかと心配して電話してあてられるとは思うてもみなかったわ。早よ原稿しなさい。新刊楽しみにしとるわ。じゃあね』
 重いプレッシャーを送りつけて有無を言わさず切られた電話。
 すでに無機質な発信音のするそれを呆然と握りしめながら有栖は「・・・何やねん」と呟いた。
 
 
 
 


 
 
 
「何だって?」
 食後のコーヒーを手にしながら英都大学社会学部助教授・火村英生は目の前で眉間に皺を寄せる有栖を見つめた。
「・・・・せやから・・食事も、掃除も、洗濯もちゃんとやれるからもうやらんでええって」
「・・・・熱でもあるのか?」
 言いながら伸ばされた手を有栖は邪険に払う。
「失礼な奴やな」
「そういうのは飯を食う前に言えよ。で、万年修羅場中の先生は何だって急に家事に目覚めたんだ?」
 ニヤニヤと笑いながら取り出されたキャメル。それにゆっくりと火が点けられるのを見つめながら有栖は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて口を開いた。
「甘やかされてるって・・」
「ああ?」
 憮然とした口調はどこかふてくされた子供のそれにも似ていた。キャメルを銜えたまま返された声に有栖は再びムッとして口を開く。
「甘えてるし、甘やかされとるって言われたんや!しかも反論があるなら自分で人並みの生活をしてみろっていうおまけ付きやで!」
 誰からとは言わないけれど、火村には何となくその相手の見当がついていた。
 思わず漏れ落ちた笑い。
 それに気付いて有栖は眉間の皺を深くする。
「何やねん!あーもうほんまにメッチャ腹立つ!とにかく俺はちゃんと出来るからほっといてくれ!」
 しっかりはっきり言い切って、がぶりとコーヒーを飲み干した有栖に火村は長くなった灰をトンと灰皿の上に落とした。そして。
「そりゃまぁ、やるってぇなら止めやしないけど。でも残念だったな。明日の朝食はこの前食べたいって言っていたクラブハウスサンドの予定だったんだ」
「・・え・・・」
「ちなみに夕食はやっぱり先週だったか食べたいって騒いでいた地鶏のトマト煮込みってヤツの用意をしてきたんだが。仕方がないな」
「・・・・・・・」
「明後日も午後からの講義だからゆっくりして、明日は布団も干してやろうかとも思って来たんだけど、自分でやるって気持ちを無駄にしたらいけないし、予定を変更して明日帰る事にするか」
「か・帰るんか?」
「邪魔しちゃ悪いだろう?」
「そんな・・邪魔なんて・・・」
 頭の中に料理番組で観たそれらが浮かんでは消えて行く。
 おいしいと料理とふかふかの布団。
 小夜子の言葉と火村の言葉が交互に聞こえているのだろう次第に情けない顔になってゆく有栖に、火村は小さく吹き出すようにして、残りのキャメルを灰皿押しつけた。ついで吐き出された白い煙。
「なぁ、アリス」
「何や」
 口惜しげな、恨めしげな顔すらが愛おしいと火村は思う。
「俺は別にただ働きをしているつもりは無いぜ」
「え・・・?」
「報酬は貰ってる」
「報酬・・・??」
 火村の言葉に有栖は訝しげに眉を寄せて呟いた。
 その瞬間・・・・
「!!!!!」
 掠めるような口づけに顔を赤くして有栖は思いきりソファの上を後退った。
 目の前にはニヤニヤと笑う確信犯。
「何・何すんねん!!」
「いや。判らないようだったからヒントをやっただけだ。まだ判らないようだったらはっきり言ってやろうか?報酬はから・」
「わー!!!そんなん言うなんて信じられへん!」
「そう言うつもりはなかったっていうお前の気持ちも有り難いけどな」
「勝手に自分にいいように解釈するんやない!」
 赤い顔で怒鳴っても少しも迫力がないのは判っている。もっともこれが普通の時なら迫力があるかと言えば唸ってしまいたくなるのだが・・・
「それで、どうする?アリス」
「・・・・・」
「早く仕上げないと大事な担当者の胃に穴が開いちまうかもなぁ・・」
「・・・鬼・・!」
「失礼な奴だな。大義名分を作ってやってるんだぜ?確かに甘やかされているかもな」
「ふざけるな!!あほんだら!!」
「今度言われたらちゃんと報酬を払ってるって言ってやれよ」
 言いながら取り出された新たなキャメル。
「・・・・誰が・・・」
 カチリと小さく響いたライターの音。
「言えるか!ボケ!!!!!」
 
 
 
その翌日有栖が火村作のクラブハウスサンドと地鶏のトマト煮込みを口にしたかどうか。 
それは多分、貴女のご想像通りなのである。

エンド