雨の降る日は…

 煙るような雨が降っていた。
 サァサァと降りしきる細かい粒子のような雨の雫。
 ブルーともグレーとも銀色ともつかないような不思議な色に彩られた街を、大阪在住の推理小説作家有栖川有栖はぼんやりと眺めていた。
 こんな風に雨の街をしみじみと見るのは何だかひどく久しぶりだった。
 専業作家になって外に出る機会が減った事も大きな要因だろう。
 晴れていても、雨が降っていても、或いは雪が降ったとしても、学生時代やサラリーマン時代のように出かけなければならないという事がなければさほど気にはならない。
 それこそ原稿が切羽詰ってくれば雨が降ろうが槍が降ろうが関係なくなってしまうし、そうでない時でも、晴れていれば「いい天気やなぁ。ああ、洗濯せなあかんなぁ」くらいで、雨はただ単に『降っている』という感覚でしかない。
 雪ならば・・そう・・気楽な小説家で良かったと思うくらいだろうか。
 自分の小説の中でも雨が降るシーンはあったが、降っている事はある意味で必然であって、それが現実の自分の事になると、天気は旅行など何かの予定がない限り、それ以上でもそれ以下でもないものになっていた。
 だが・・・・。
 7階という場所がらザアザアという音は聞こえないものの降りしきる雨。
「今頃何しとるんやろうなぁ・・」
 思わずポツリと漏れ落ちた言葉と同時に頭の中に浮かんだのはここしばらく会っていない恋人の顔だった。
 母校である英都大学の社会学部助教授、火村英生。
 長年の友人である彼とそんな関係になったのは4回生の夏だった。
「・・・そういえば初めてキスしたのも雨の日やったな・・」
 どこだったかは忘れたが、二人で出かけた帰り道いきなり雨に降られ雨宿りをする場所もなく、濡れ鼠になって火村の下宿に駆け込んだ。
 そうして濡れたTシャツを脱ぎながら「水も滴るいい男やな」などと笑っていたら「あんまり無防備にしてるな」とぶっきらぼうに言われて、いきなりキスをされたのだ。
「・・・・って、何を思い出しとんねん」
 甦った記憶に微かに顔を赤くして、有栖は再び窓の外に視線を戻した。
 先ほどと変わらずに降り続ける雨。
 あれから十数年。
 今も変わらずに隣にいる現実が素直に嬉しいと有栖は思う。
「・・・・ああ・・そういえば・・あの時も雨やったな」
 確かそれは・・・そう、大学を卒業してサラリーマンになってしばらくした頃だった。
 慣れない営業と捨て切れない夢。そして思うように書けない現実に有栖は少しばかり遅い“5月病”にかかっていた。
 見つめる雨の中、再び浮かんでくる記憶を有栖は
ぼんやりと追い始めた・・・
 

 


 
 
 
「・・・39℃かぁ・・」
 母親から無理矢理持たされた救急セットの中に入っていた体温計。ピピッと鳴ったそれに表示された数字を見て有栖はハァと溜め息をついた。
 無理に無理を重ねて熱を出した週末。多分夕べ雨に打たれたのがまずかったのだろう。火照るように熱いのにゾクゾクと寒気が走る。おまけに喉も痛む気がする。典型的な熱風邪の症状だ。
 予定では今日も出社する筈だったのだが、これで行ってもどうにもならない。
 何より来週は絶対に休めない取り引き先との打ち合わせが入っているのだ。
「・・・・・とにかく寝て治せやな・・」
 そう言って体温計をケースの中にしまうと有栖は小さな救急セットの中から『総合感冒薬』と表示された箱を取り出した。
 何かを食べてからでないと効かないとは思ったが何があるのか判らないし、あまり食べる気も起きない。
 一瞬頭の中に最近会っていない友人兼恋人の呆れたような、怒ったような顔が浮かんだ。だが、それでも何でもその気にならないものは仕方がない。
 ヨロヨロと立ち上がり、台所に行くと取り出したカプセルを水で流し込んで有栖ははぁと熱い息を吐き出しそっと目を閉じた。
 その途端自分で作った暗闇の中でザアザアという音に混じって パタン・パタタタン!と忙しなく聞こえてくる、屋根を打ち、雨どいから溢れ出す雨の音が響いた。
 それに引かれるようにフラフラと窓際に移動して有栖は閉めていたカーテンを少しだけ開けてみた。
 無数の水滴のついた窓の向こうに見える、青みがかった銀色の海に沈んでしまったような町並み。
「・・・・朝やのに、もう夕方みたいやな」
 ポツリと零れ落ちた言葉。
 その途端クラリとする頭。
 妙に火照る顔に思わずその額を窓に押し付けて有栖はもう一度ため息を漏らした。
「・・・・っ・・」
 何だか本当に何もかもがうまくいかない。
 仕事が溜まっているのも、原稿が全く進まないのも、熱を出したのも、そしてこの雨が降っている事までもが自分のせいであるような気さえする。
 何度も思い、何度も押し込めてきたこんな筈じゃなかったのにという思い。
 夢を諦めるつもりはないが、社会人としてやらなければならない事があるのは当然だ。それはこの道を選んだ時にだってそれはある程度判っていたつもりだった。でもだけど・・・。
「・・・・・・・」
 再び脳裏に浮かんだ火村の顔。それに思わずクシャリと顔を歪めて有栖は悔しげに口を開いた。
「・・火村を妬んでどないすんねん・・」
 そう・・。これも実はもう何度も思ってしまった事だった。考えないように、そして焦らないようにしようと思うほど苦しくなってしまい、彼は・・と思ってしまうのだ。
 彼は、院に進み、自分の選んだ道を確実に歩いている。それなのに自分は・・・。
「・・・・サイテーや・・」
 こんな風に考えてしまう自分が嫌いだと有栖は思う。情けなさ過ぎると判っている。
 比べても仕方のない事だ。
「・・・・寝よ」
 窓から額を引き剥がすようにして、有栖はカーテンを閉じた。
 こんな風にどんどんキリもなく馬鹿な事を考えてしまうのは熱があるからだ。
 今は仕方がないのだ。
 別に自分は夢を諦めたわけではない。
 だからとにかくこの風邪をちゃんと治して、そしてちゃんと仕事をして、ちゃんと・・・
「!!」
 その途端部屋の中に響き渡った電話のベルに有栖はハッと顔を上げた。
 一体誰からだろう。
 今日の出社はあくまでも個人的な用事で他の人間と約束をしていたものではなかった。
 それとも何か大切な事を忘れていたのだろうか。
「・・はい」
『もしもし?』
「・・・!」
 受話器から聞こえてきた声は間違いなく友人兼恋人の火村英生のものだった。
『アリス?』
「・・あ・・うん・」
『何だよ。ちゃんと返事くらいしろよ。間違えたかと思うじゃないか』
 久しぶりの火村の声は、電話を通すといつもより少しだけくぐもったように聞こえる。
 その声を聞きながら有栖はたった今考えてしまった事がこの電話を伝って火村に判ってしまいそうな気がして思わず受話器を持つ手に力を入れる。
『おい』
「な・・なんや?」
『なんやじゃねえよ。どうかしたのか?』
「・・・なんで?」
『何でって変だから』
「勝手に人の事変呼ばわりすんな。君から電話なんて驚いただけや。で、何か用か?」
 ドキドキと早い鼓動。おかしくはなかっただろうか。いつもの通り軽口を叩けていただろうか。
『何か用かとはご挨拶だな。つれない恋人がちっとも連絡をよこしやがらないからご機嫌うかがいをしているんだって言ったら納得するか?』
「・・・・」
『おいそこで黙るなよ。本当におかしいな。もしかして具合でも悪いのか?』
「・・・・・いや・」
 全く鋭い男である。こうなっていると先ほどの、自分自身でも嫌になってしまうような考えが本当に判ってしまいそうで、有栖はもう一度受話器を二義治して口を開いた。
「ほんまに何ともあれへんよ」
『・・・・・・・』
「こ・これから仕事やねん」
『なんだ?土曜日も出なのか?』
「新人やからしゃあないねん」
 一つ嘘をつくと次から次へと嘘をつく羽目になる。しかも火村相手にその場の思いつきのような嘘をついているのである。口にしてからこれでは仕事が溜まっている、もしくはうまくいっていないと愚痴っているようなものだと気付いて有栖は再び口を開いた。
「また連絡するから」
『アリス?』
「・・・・・」
 何かを見透かすように呼ばれた名前にドクンと跳ねた鼓動。思い出した様にグラグラとし始める頭。
「ほんまに・・ほんまに何ともあれへんねん。ちゃんとやっとるし」
『・・・・』
「ちゃんと・・ほんまに」
『・・判ったよ。じゃあな』
「!!!」
 短い言葉と共に切れた電話。
 自分から切ると言っていたくせに、切られてしまった事が悲しくて有栖は受話器をもったまま呆然としてしまった。
 そうして次にジワジワと、自分の情けなさや弱さを隠そうとしてせっかく電話をかけてきてくれた火村を怒らせてしまったかもしれないと思い始め、熱のせいで涙腺が緩んでいるためかジワリと涙が滲んできた。
「・・・アホや・・俺・・」
 やっぱり本当に何もかもがうなくいかない。
「・・・・・・寝よ・・」
 先ほどまでの自分よりももっと自分が嫌いになった気がして、有栖は手にしたままの受話器をそっと戻すとヨロヨロとしながら布団の中に潜り込み、身体を丸めて目を閉じた。
 
 

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「・・・っ・・・」
 何の夢かは覚えていないが、いやな夢を見ていたという事だけは感覚的に判りながら、暑くて、苦しくて、気持ち悪くて目が覚めた。
 びっしょりとかいた汗。
 だが汗をかいても熱が下がっている気配はない。 全身のだるさに頭痛と喉の痛みの加わって気分は最悪である。
 どのくらいウトウトしていたのだろうか。雨の音は相変わらず聞こえていて、カーテンを閉め切った部屋は薄暗い。
「水・・」
 がさつく声でそう呟いて起き上がろうとして有栖はヘタリと布団に逆戻りをした。身体にうまく力が入らないのである。頭の中では、汗だくのTシャツだけでも取り換えた方がいいとか、水分は取らないとまずいとか判っているのだが、気持ちがそこについてこない。
「・・・・・バチや」
 先ほど火村にあんな事を言って、情けない自分を隠そうとしたから、否、そもそも他人を妬んだりするようなことを思ったからバチが当ったのだ。
 寒くて、暑くて、苦しい。
 とにかくもう一度、そう、せめて水分補給だけでもチャレンジして・・そして・・・。
 その瞬間ガチャリといきなりドアが開いて、有栖はギョッとして目を見開いた。
「・・・ひ・」
 そうして当たり前のように入ってくるその姿に更に言葉を失う。
「いいから寝てろ。どうせ俺が今きたばかりじゃなくて、買い物から帰ってなんて判っちゃないだろう?」
「・・・え・・」
「30分くらい前だったかな。もう少しか前か。インターフォンを押しても梨の礫。けどドアの鍵はかかってない。何度言っても忘れる事が多いが、今回はそれが正解だったな」
 そう言いながら火村はテーブルの上に買ってきたらしい食料品やら何やらを取り出して手際良く片付けていった。
「・・・なん・・で」
「ああ?」
「何で来たんや。俺・・」
 詰まるようにそう言うと火村は小さく笑った。
「来てくれって言ってただろう?」
「!?」
「“何でもない”がSOSに聞こえた」
「お・・俺は・・」
 そんな風には思っていなかったのだが本当にそんな風に声に出てしまっていたのだろうか。思わず考えてしまうと再び火村が小さく笑う。
「嘘だ。あんまりちゃんとしてるばっかり言いやがるからどれほどちゃんとしているのかチェックしに来たんだ」
「・・・・・・・・」
 訪れた沈黙。
 部屋の中に響く雨の音。
「・・・・本当は会いたいから来たんだよ。電話して、ちゃんとやってるからって言われてむかついて、でも声を聞いたら無性に会いたくなって来た」
「・・・・・っ・」
「でも何となくこんな予感もしたんだけどな」
 取り出された鍋。
 捻った水道から流れ出した水。
 カチカチと小さな音と共に火の点けられたコンロ。
 回り出した換気扇の音。
「・・・・ったく・・勝手にこんなに痩せやがって」
「火村・・?」
「抱きごこちが悪くなるから早く戻れ」
「・・・・アホ・・」
 多分・・・と有栖は思った。多分この男は判っているのだ。有栖が抱えていたモヤモヤとした気持ちも何となく気付いているし、それを隠そうとした事もきっと判っている。
「せっかく起きたなら上だけでも着替えろよ。それに今何か作るから少しでも食っておけ。どうせお前の事だから薬しか飲んでないんだろう?」
 雨音が響くように火村の優しさが響いていた。
 響いて、しみ込んで、溢れ出していく。
「・・・・俺・」
「!」
 声と共にポツリと零れ落ちた涙。それに珍しく驚いたような顔をして、つけたばかりの火を消すと火村が近づいてきた。
「どうした?どこか痛むのか?」
「ちが・・・俺・・」
 パタパタと零れる涙。俯いた頭を次の瞬間そっと肩口に引き寄せられて、久しぶりに触れるぬくもりに目を閉じる。
「熱いな・・。相当熱があるぞ?」
「・・・・うん」
「お粥なら食べられるか?」
「・・・・うん」
 トクントクンと聞こえる鼓動。
「アリス・・」
 聞こえてくる、名前を呼ぶ声。そして
「言いたくないことは言わなくていい」
「・・・・・」
「でも言って軽くなるんだったら聞いてやるから喋っちまえ」
「・・・・っ・・・」
 耳をくすぐるその言葉はいつもの声よりもひどく優しく、甘やかしているようにさえ聞こえた。
 それに甘えきって、顔も上げないまま有栖はそっと口を開いた。
「仕事が・・・」
「ああ」
「頑張っとるんやけど、うまくいかなくて・・」
「・・ああ」
「忙しくて・・それは判ってるつもりやってんけど原稿が書けなくて」
「・・うん」
「夢を諦めたつもりはない。けどそう思うそばからこれでええんかって思う」
「・・・・・」
「書いても全然形にならなくて。怖くなる」
「・・・・・」
「全部・・全部あかんようになりそうで、仕事も夢も・・全部うまくいかん」
 熱に浮かされた様に口にした弱さ。
 情けないけれどこれが確かに今の自分だった。それが何故か素直に有栖自身の気持ちの中に落ちてきていた。
 勿論これで火村に慰められたいなどとは思っていない。
 抱えていたものを甘えて吐き出したそれだけだ。「喋ったらちょっと軽くなった」
 寄せていた肩口からフワリと香ったキャメルの香り。
「・・もう一つ懺悔するとほんまは君にこんな情けない事を知られたくなかったし、自分の道をちゃんと進んでる君が羨ましくて、妬ましかった」
 耳に届いた「馬鹿」と言う小さな声。次いで「俺は別に神父じゃねぇよ」と言うて火村は肩を抱いている手に少しだけ力をこめた。そして。
「そんな風に言うなら俺だって色々考えたさ。学生の身で社会人の恋人を持ってりゃ不安の一つや二つはある」
「・・・・・・」
 ボソボソとしたその言葉に有栖は思わず顔を上げてしまった。
「・・・なんだよ、その顔は」
「いや・・・君に不安があるなんて・・」
「俺をなんだと思ってやがる。ったく。とにかく、書けばいいだろう」
「へ?」
「書いていれば形にならなかったものが突然形を作り始める時もある。それでも書けない時は大人しく身体を休めてろ。疲れが取れればお前の事だ、嫌でも書きたくなってくるさ」
「・・・・・・」
「ごみは宝の山だって言う奴も居るぜ?」
 ニヤリと笑う顔。
「!!ごみは余計や!アホ!!」
「よし、調子が出てきたな。じゃあ飯でも作るか。あんまりこうしてるとヤバイしな」
「・・・・・・え・・?」
 ゆっくりと離された身体。
「それとも熱があるといいっていうから試してみるか?」
 再びニヤリと笑った顔に有栖は熱のせいではなく
赤くなった顔で「せえへん!」と怒鳴った…
 
 
 


. 


 
「・・・思い出さんでもいいとこまで思い出してしもうた・・」
 少しだけ赤くなってしまった顔を有栖はパタパタと手で扇いだ。
 あの後、結局火村の作ってくれたお粥を食べて薬を飲んで、着替えをして・・・・身体を拭いてもらっているうちに何となくそんな気になってしまってそれを実践してしまったのだ。
 熱があるといいというのは、本当に結構そうだったかもしれない。
「・・・まぁお互い若かったし、久しぶりだったし・・ってもう思い出すな俺!」
“気分が悪くなったら言えよ”
 そんな言葉と共にひどく優しく抱かれた。
 その翌日は風邪ではなく、身体の痛みで布団の中に居た気がする。 
「まさか雨でこんな事まで思い出すとは思わんかったな」
 まだ赤い顔を押さえて有栖はフウと息を吐いた。 あの後も結局仕事の量が変わるわけではなく、勿論いきなり原稿が驚く程進んだこともなかったが、それでも何かを乗り越えたのは確かだった。
 大袈裟だと言われてしまうかもしれないが、あの時火村が来ていなければ今の自分はなかったかもしれない。
「・・・・・・何しとるんやろな」
 先程と同じ言葉を呟いて、けれど先程よりもその気持ちを深くして、有栖はそっと電話を振り返る。
 連絡をしてみようか。
 そう、例えば君のうちの(正確には火村の下宿先のだが)庭に咲く紫陽花(あじさい)が見たくなった等と言ったら気味は何ていうだろう。
『現実逃避か?先生。あんまり編集者を苛めるなよ』等とあの頃よりも落ちついて深くなった声で笑うだろうか?
 手にした電話。
 登録してある番号を押して。
 1コール…2コール…
「・・・・あ、俺や俺。・・・・え?ええやんか。ちゃんと君やって判っとるんやから。細かい事気にするな。・・・少しは気にしろってほっとけ。・・ああちゃうねん。君と漫才するつもりはないんや。なぁ、ところで、今何しとった?・・へ?何が変態電話や!アホ!!俺は紫陽花を…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 さて、有栖が火村の部屋で紫陽花を愛でたのか。それは多分貴女の想像通り。
 ともあれ、降り続ける雨もまたいいものだと推理小説家と助教授はガラにもなく思ったらしい。



そろそろ梅雨入りだというのでそれらしい話を。