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青葉、萌ゆる

 
 
 
   
『お前を好きだって言ったら信じるか?アリス』
 宵闇の中で白く浮かび上がる盛りの花を見つめながら言わずにおく筈だった言葉を口にした春の日。
 それに「信じてやる」と小さく返事を返した彼を抱きしめて、らしくもない触れるだけの口づけを落とした。
 それが多分、あの時の自分にも、そして彼にとっても精一杯だったのだ。
 何を今更この年で・・と思うけれど、今更だから手が出せないこともある。
 「好きだ」という言葉を「信じる」と言ってくれた大切な『友人』。
 その日確かに自分たちは『友人』から一歩を踏み出したのだ。
 だが、しかし・・・。
 口づけの後で彼から「好きだ」という言葉は聞かれなかった。
 
 
 そうして1ヶ月。
 依然としてその言葉は彼、有栖川有栖の口から出る 事はなかった・・。
   
 
 
 


 
 
 
 
「何だって?」
 ゴールデンウィーク直前のキャンパス内はどこか浮き足だった雰囲気に包まれていた。
 と言っても世間一般的には今日からゴールデンウィーク入っているところが多いのだが、土曜日に講義が入っている身の上では流石にそんな事は言っていられない。
 もっとも大学はカレンダー通りではなく、連休と連休に挟まれている3日間を休講日にしてしまっている為、今日を乗り切ればまさしく大型の連休が待っているのだ。けれどそれを丸々休みに出来るのは暇で5月病などとほざいている学生達だけである。教職員サイドの人間は何故この時期にと思う学会やら、今のうちにやっておかないと後で泣きを見る羽目になる論文だのに時間を割くケースが多い。
 窓の外は嫌になるほど晴れ渡った青い空。 
 ついこの間まではとは言っても今年は開花が異常に早かったのでもう1ヶ月以上前になってしまう のだが、春の代名詞とも言える臼紅色の花が咲いていた木は、今は目に痛いほどの鮮やかな緑の葉を茂らせている。そういえば昨日学生達が毛虫がどうとか言っていた。あれは多分桜の木の事なのだろう。
 受話器を握りしめたままぼんやりとそんな事を考えてしまった英都大学助教授、火村英生の脳裏にふと脳天気な声が甦った。
『人間が塩漬けにして餅に巻いて食べるくらいなんやから虫が好んで食べても仕方ないやんなぁ』
 その昔、桜餅を食べながらそんな奇天烈な事を言っていたのは今、この電話の向こうでやはり奇天烈な事を言い出しているこの男だった筈だ。
『なぁ・・って、おい・・・聞いとるか?』
「・・・・聞こえてる」
『・・・・・・・・それは聞こえてはいるけど聞く気はないっちゅう事なんか?」   
「・・へぇ・・修羅場中だったてぇのに頭の回転がいいじゃねぇか」
 ついつい現実逃避をしてしまった 思考を隠すように火村はニヤリと笑ってキャメルを取り出した。
 その火村の姿が見えているかのように電話の向こうでは大阪在住の推理小説作家、有栖川有栖がキィキィと喚く。
「・・怒鳴るなよ。耳が壊れる」
『怒鳴らせたのはどこのどいつや!』
「あんまり怒鳴ると血圧が上がるぜ?」
『人を更年期障害の老人扱いすんな!』
「・・・・そろそろか?」
『あほ!ふざけんな!俺はお前と同い年や!!!もういい!とにかくそっちには行かれへん。予定もキャンセル!』
「おい、ふざけてるのはどっちだ。大体どこも混むって判っているのに出掛けたいって駄々を捏ねたのはそっちだろう?それが前々日になってキャンセルなんて聞けるかバカ!どこかのバカに付き合ってこの予定を空けるのに俺がどれだけ苦労したのか判っていないだろう?とにかく抱えてる原稿を死ぬ気で書き上げろ」
『死ぬ気でって・・』
「編集にとっても、お前にとっても、俺にとってもそれが一番だろう?万事丸く収まるじゃねぇか。とりあえずこっちには来なくていいぜ?百歩譲ってそっちに行って拾って行ってやる。判ったら電話なんか掛けてる時間に一字でも原稿書け。じゃあな」
『・・・』
 言いたいだけ言って切ろうとした電話の向こうで小さな声が何かを言ったような気がしけれど火村にはそれを聞き取る事が出来なかった。
 再び耳に当てた受話器。
「アリス?」
『・・・・・悪かった。煮詰まって苛々してたんや。原稿する。・・・それと・・昨日はわざわざ有り難う。じゃあな』
 プツリと切れた電話。
 発信音のする受話器を黙って握りしめ、ついで湧き上がる苛立ちのまま火村は乱雑な机の上の電話機にガチャンと音を立てて戻した。
 途端にハラハラと落ちる灰。
「・・・ったく・・あのバカ・・」
 判っている。
 本当は判っているのだ。
 有栖が今更そんな事を言いだした理由を火村は判っている・・つもりだった。
 この旅行を決めたのは火村の誕生日だった。
 結局何もないまま、あの口づけ以外はほとんどいつもと変わらぬ調子で翌日有栖は夕陽丘のマンションに帰っていった。  その後も何がどう変わるわけでもなく、有栖は一進一退を繰り返しているらしい長編の締め切りに追われ火村は火村で新年度が始まり、新しいゼミ生たちや講義に追われ、お互いにうまく時間がとれなかった。
 そうこうしているうちに有栖の方から電話が入った。言われて気付けば確かに自分の誕生日だった。呆れたような声で「ボケでも始まったんか?」と言いながら「なぁ・・・」と有栖は切り出した。
 そっちはいつ暇になるのか。自分は多分誕生日もままならない。
 ケーキでも持って陣中見舞いに行ってやろうかと言うとやめてくれと答えが返ってきた。
 何でも件の長編が長引きすぎて、エッセイだの、他の作家から頼まれた解説だの、季刊誌のほうの原稿だのが押し迫ってきているらしかった。
“自業自得だ”
“やかましい!”
 それがこの時交わされたやりとりである。
 そうしてその後で有栖は言った。
“GWにどこか出掛けへん?”
“ああ?”
“多分その頃にはちょっとは違うと思うんや”
“・・・混むだろ”
“うん・・でも君かてそう言う時くらいしか休みが取れんやろう?ほら前に言うてたやん。温泉に行きたいって”
“・・・・行きたいじゃねぇよ。行った方がマシだって言ったんだ”
 そう。以前持ち上がった縁談話にわざわざ時間を割くくらいなら温泉にでも行った方がマシだと火村は確かにそう言った。
“どっちでも同じやん。とにかく近場でええから。温泉。日頃の疲れをゆっくり癒す。正しい休日の使い方やろ?”
“お前のどこに日頃の疲れが溜まってるんだよ”
“・・・・小説を書くって言うのは非常にデリケートで神経を使う仕事なんや。じゃあ、手配の方はよろしく。前日にはそっちに行けるようにするから”
「・・・・・・あち・・っ」
 持ったまますっかり短くなったキャメルを火村は慌てて灰皿の上に押しつけた。
 吐き出した溜め息。
 それから2度有栖の家を訪れた。
 一度目はやや不可抗力的だったのだがフィールドワークで今までと同じように簡易ホテル代わりに使わせてもらった。
 そして二度目は昨日。止めてくれと言われたがとりあえずカットをされているショートケーキを買って、寿司折りを持って陣中見舞いに行って、帰ってきた。
 いずれも何かがあったわけではない。
 フィールドの時も「気にせず執筆活動を続けてくれ」といつも通りソファを借りて横になった。
 しいて言えば夕べ。ケーキと寿司折りを渡し、玄関先で驚いている有栖に「じゃあな。頑張れよ」と帰ろうとしたのを引き留められて「お茶くらい飲んで行け」と赤くなった顔で誘われた位のもので、本当にお茶を飲んで「ありがとう・・」と言った有栖に「そんな顔をするな」と苦笑を浮かべて帰ってきた。
 らしくない事この上ないが、どうにもしようがなかったと言うのが火村の正直な気持ちである。
 有栖は何も言わない。
 好きだという火村の言葉を信じるとは言ったが自分自身の気持ちは口にはしていない。
 誕生日の電話もどういうつもりでかけてきたのか。
 なぜ旅行に誘ったのか。
 今時中学生だってやる事はやっている。それが30も遠に過ぎたいい大人がいざ告白をしてみればこの様だ。
「・・・ったく・・・」
 別にこの旅行で何かをもの凄く期待していた訳ではないのだ。
 ただでさえ長年の友人で、しかも同性で、先日の口づけでおそらく自分が置かれてしまうだろう状況を有栖は判っているのだろう。それらに対する有栖の戸惑いも判らなくはない。
 だから、待ってくれと言われれば待つつもりでいるのだけれど・・・。
「・・・それ以前・・って感じだよな・・」
 呟くようにそう言って火村は少しくたびれた箱から新たなキャメルを取り出した。
 カチリと点けた火。吐き出した息に揺れて昇り、消えてゆく白い煙。
 思い出す、夕べ帰り際に見せた何かを言いたげな有栖の視線。
「・・・白紙に戻したいって言いたいのか?」
 視界の中に映った電話に火村はポツリとそう呟いた。
 そうして次の瞬間、助手が壁に掛けた時計が告げる講義の時間に舌打ちをして荷物をまとめるとまだ長い煙草を灰皿に押しつけて、火村は研究室を後にした。
 
 
 
 
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「・・・・なんかもう・・・最悪・・」
 先刻からほとんど進んでいない画面に溜め息混じりの声を出して有栖はグシャグシャと髪を掻き回した。
『ふざけてるのはどっちだ。大体どこも混むって判っているのに出掛けたいって駄々を捏ねたのはそっちだろう?それが前々日になってキャンセルなんて聞けるかバカ!どこかのバカに付き合ってこの予定を空けるのに俺がどれだけ苦労したのか判っていないだろう?とにかく抱えてる原稿を死ぬ気で書き上げろ』
「・・そんなん言われんでも判っとるわ」
 再び落ちた溜め息。
 確かにこの旅行を誘ったのは有栖だった。
 でもまさかこんな事になるとはあの時には思ってもいなかったのだ。
『お前を好きだって言ったら信じるか?アリス』
 桜の花の咲く春の夜。
 見合いをしたらしいという友人の家に押し掛けて訳も分からず真相を問いつめるような事をした。なぜ自分に言ってくれないのかと、ちゃんとおめでとうと言えるつもりだったのに、どう言葉にしていいのか判らなかったのだがショックという言葉が一番正しい様な感情を抱えて、淋しいとか悲しいとかそんな言葉を羅列しながら慌てて変な意味ではないのだと付け加えた有栖に火村は「別に変な意味でも構わない」と笑ってその腕に抱き寄せながら言ったのだ。
 『お前を好きだって言ったら信じるか?』と・・・。
 そして自分は「信じてやる」と言った。
 その言葉に嘘はなかった。
 抱きしめられたまま受けた口づけも、常識的に考えればどうかしているとしか思えない事なのだが、それでも平気だった。
 それどころか・・・
「・・・嬉しいとか思うあたりが・・・すでに・・だよな・・」
 だから言いそびれてしまったのだ。
 長年の友人だった男に抱きしめられて、口づけられて、そうして押し倒されて我に返って、真っ赤になって残りのビールを煽って沈没した。
 それのどこに「自分も多分・・・好きだ」等と言える余裕があったのか。
 しかもその後、多分どころか繰り返し思い返すにあたって間違いなく『好き』なのだと思い当たったはいいが、それを言う機会はどこにもなく、そうこうしているうちに火村の誕生日がやってきた。
 けれど電話で「あれから色々考えたんやけど、俺も好きや」等と言うのはどう考えても自分に出来る所業ではなく、それでも何でもとりあえず電話だけでもと思って近況報告をするうちにどう考えてもしばらくは会えそうもないと思ったら「出掛けようと」口をついて出ていた。
 そう・・・。狡い考えだったが、GWまでは間があるし、もしかしたらそれまでにきちんと告げることが出きるかもしれないと思ったのだ。
 万が一、そんな機会がなかったとしても、それならそうで、行ってからこの間の様な雰囲気にでもなったらその時はちゃんと言おう。
 一体お前は幾つの人間なんだと有栖自身言いたくなるような行き当たりばったりの、子供だましのような計画だったが、何しろ十数年も親友の位置にいた男なのだ。しかも、どう考えても自分が火村をどうこうするのは想像できない。となれば・・・どうこうされてしまうのは自分なのである。
 30余年生きてきて自分が男にどうこうされてしまうかもしれない日が来るとは思ってもみなかったのだ。だからこれぐらいの画策は許して欲しい。
 けれど、でも、だけど・・・・
 状況は思わぬ方に転がった。
 不意に入ったフィールドワーク。
 やってきた火村は有栖が拍子抜けするほどいつもと変わらなかった。
 そして昨日。会えない筈の有栖の誕生日に火村が突然訪ねてきた。
 けれど、有栖が思うような事はまるっきり考えていないかのように火村は持ってきたものを置いただけで部屋に上がりもしないで帰ろうとする。
 慌てて部屋に上げ、ケーキと差し入れの寿司折りの礼を言えば今度は「そんな顔をするな」と困った顔をされた。
 一体自分がどんな顔をしていたのか有栖には判らなかったのだが、仮にも自分が好きだと言った人間に対してその言い方はないだろう。しかも「泊まっていくか?」と訊けば間髪入れずに「帰る」と言うし、原稿の事で気を遣っているのかと思って「大丈夫だから」と言うと「気にするな」と言う。
「・・・気にするわ・・アホ」
 正直に言えば嬉しかったのだ。
 ありがとうという言葉だけでは表せないほど嬉しくて、自分は本気でこの男が好きなのだと思った。
 「明日も仕事なんだ」と言う言葉に、わざわざこれを届けるためだけに来てくれたのかと申し訳なさと照れくささが混じったような感情も生まれたけれど、それは僅かな時間の会話の中で幾度か逸らされた視線で冷めてしまった。
 一体どういうつもりで火村はここに来たのだろう。 元々誕生日などというイベント事にはあまり関心のない男である事は良く知っている。
 それでも何かにかこつけて引っ張り回していたのは有栖だった。火村からこんな風にコンタクトを取ってくるのは初めてでそれも又どうしていいのか判らない原因になっている。
「・・・・一体俺にどないせいっちゅうんや」
『お前を好きだって言ったら信じるか?アリス』
「信じてやるって言ったやないか」
『ちなみに俺はお前の結婚が決まったら阻止するぞ。覚悟しておけ』
 そんな事まで言って抱き寄せた腕に力を込め、口づけたのは火村なのに。
「・・・ほんまに・・どないしたらええんやろ」
 原稿は進んでいない。
 威張って言える事ではないが、進まない。
 けれどとりあえずエッセイも、同業者の友人から頼まれた文庫の解説も終わり、もう一本の短編は一応は見通しがついていて、この連休の後半に旅行に出掛けたとしても死ぬほど困ってしまうような状況にはならない筈だった。
 だから昨日の態度が判らずに「原稿が上がらないから旅行をキャンセルして欲しい」というのは全くの嘘ではないが、詭弁ではあった。
「・・・・もう・・遅いんやろか・・」
 いい年をして「好きだ」とすら返さない有栖に火村はそれならそれでいいと思ってしまったのだろうか。
 それとも口づけをしてみて何かが違うと思ったのだろうか。
 もう二度とそんな事はしたくないと思っているのだろうか。
 好きだと言ったけれど、その先の行為は考えてはいない・・と言う事なのだろうか。
「・・・・・っ・・・」
 抱かれたいと思っているわけではない。
 正直、抱かれる事は有栖にとってはある意味で恐怖だった。
 それでも、好きだと思う。
 だからもしも、あの夜のように求められるならば、口づけも、その先も・・・と考えてしまう。
 自分はそれが判らない程幼い子供ではないし、まして初めてのそれを恥じらい怯える少女でもない。
「けど・・そんなん・・俺だけ考えてたって・・しゃあないやん」
 自分自身が墓穴を掘るようにお膳立てをしてしまった温泉旅行。
 いっそ何をどう思われてもいいから全てを放り投げて逃げ出してしまおうか。
「・・・・・」
 零れた溜め息。




 
 そうしてその晩。
 そんな気弱な心だけが京都に飛んで行ってしまったのかもしれないと思いながら、有栖は開いたドアの向
こうで「よぉ」と笑う男を見つめた・・・。

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「どうせまともな飯を食ってないだろう?出来たら呼んでやるからさっさと仕事しろ」
 そう言って勝手知ったる様子でキッチンで動き始める火村を見つめて有栖は小さな溜め息を落とすと書斎に戻った。
 相変わらず遅々として進まない原稿にコーヒーでも飲もうかと立ち上がった途端鳴り響いたインターフォン。この時点で何となく嫌な予感はしたのだと有栖は思った。
 案の定やってきたのは火村だった。
 有栖の気持ちなどこれっぽっちも気付いていないかのように火村は「とりあえずこっちの仕事が一段落したから応援に来てやった」とスーパーの袋を掲げて見せた。
 「カンヅメになった気持ちだ」と有栖が言うと「否応なく進んでいいじゃねぇか」とニヤリと笑う。
 そうしてあまりにもいつもと変わらず上がり込み、いつもと同じようにキャメルを吸い、嫌味を言いつつキッチンに向かう。  本当に何一つ変わっていない。
 まるで「好きだ」と言った事自体が有栖の夢だったのではないだろうか思う程火村は変わらない。
「・・・・・っ・・」
 カタカタとキーボードを叩く手を止めて有栖はギュッと拳を握って唇を噛んだ。
 そう。これではまるで自分だけが空回りをしているようだ。
「・・・アホみたいや・・・」
 ポツリと零れ落ちた言葉は、ひどく深く有栖自身の胸に突き刺さった。
『お前を好きだって言ったら信じるか?アリス』
 驚いたけれどそれは本当に嬉しい言葉だったのだ。
 けれど今は苦しいと有栖は思う。
 一体どういう意味で火村はそんな事を言ったのか。
 火村は自分に何を求めているのか。
 自分は一体どうしたいのか。
 何もかもが宙に浮いてしまっているようで、ひどく不安定で判らない。
 自分は火村に抱いて欲しいのだろうか。
 それとももう一度好きだと言って欲しいのだろうか。
 そうしたら彼に「好きだ」と言えるのだろうか。
「・・・っ・・」
 その途端コンコンというノックの音が響いてカチャリとドアが開いた。
「おい、出来たぞ。こっちに来られるか?」
「・・・・・」
 覗いた顔にゆっくりと振り返ると、すぐさま寄せられる眉。
「アリス?」
「・・・・・・何や?」
「何かあったのか?」
「・・何かって何や?」
「・・・・絡むなよ。具合でも悪いのか?」
「別に」
「別にって顔じゃねぇぜ?まさかそんなに切羽詰まっているのか?」
「そんなんと違う」
「じゃあ何だよ」
「だから別に何でもないって言うとるやろ」
「おい、いい加減にしろよ。アリス」
 ムッとしたような顔をして近づいてくる身体。
 言いながら伸ばされた手。
 触れた指先。
「触るな!」
 パンッと鳴った乾いた音に驚いたのは火村だけではなく、その手を払った有栖自身も自分のやってしまった事にショックを受けていた。
 軽く払っただけなのにジンジンと痛む手に顔が引きつる。
「・・・・ご・め・・・」
 震えた声。
 けれどそれを遮るように火村は薄く嗤って口を開いた。
「そういう事か・・」
「・・火・・村・・?」
「ようするにお前は白紙に戻したいって・・事なんだろう?」
「白紙って・・・」
 言いながら再びヒクリと引きつった顔に火村も又先刻と同じような薄い嗤いを浮かべてもう一度口を開いた。
「そのまんまの意味だよ。だから旅行も断ってきた。そういう事だろう?」
「・・・意味が・・」
「判らない筈がない。はっきり言えばいい。信じてやるとは言ったが、正気に返ってみたら冗談じゃないって思った。それともされるかもしれない事が恐くなった?」
「火村!」
 あまりな言葉に声を上げた有栖を見て火村はクスリと小さく笑いを漏らした。そうして次の瞬間もの凄い勢いで有栖の身体を引き寄せる。
「火村!」
「・・・言うつもりなんてなかったんだ」
「な・・に・・?」
「でもそれを言わせたのはお前だ。言っただろう?覚悟しろって。俺は今更お前を手放すつもりはない」
「・・・・・」
 それはひどく冷たい・・けれどどこか火村らしくない自嘲と不安を滲ませた声だった。
 なぜ火村がこんな風に言うのか。
 好きだと言ったのは確かに火村で、有栖は同じように好きだとは返してはいないが、それでもその言葉を信じると言ったのだ。
 けれどその後で火村は何も変わらなくて、だから自分は不安になっているというのに、それなのになぜ火村の方がそんな不安げな声を出すのだろう。
「・・・」
 抱き寄せられた腕の中でドクンドクンと騒ぐ鼓動。
 それが自分のものだけではない気がしたのは、火村の腕に少しだけ力が込められたからだった。
「・・・俺が・・恐いか?・・・アリス」
 耳を打つ掠れる様な声。
「・・・・・好きだって言葉は重いか?」
「・・・・・・・・」
 こんな声は聞いた事がないと有栖は思った。
「・・・お前が・・・落ち着くまで会いたくないって言うならそう言ってくれていい」
「!・・ひ・」
「でも俺は・・・俺は好きだって言った言葉を撤回するつもりはないし、会わないって言ってもずっとそうするつもりもない」
 抱きしめられたまま表情も見えずに聞こえてくるその言葉に有栖はクシャリと顔を歪めた。
 どうしてこの男はこんな事を言うのだろう。
 一体人の事を何だと思っているのか。
「・・何で・・」
「アリス?」
「何で会わないとか、恐いとか、手放すとか・・そんな言葉が出るんや」
「・・・・おい」
「君は人の事を何だと思うとるんや!誰が・・誰が会いたくないなんんて言うたんや!このアホ!!」
「・・旅行を断ったじゃねぇか」
「そんなん・・そんなん当たり前やないか!恐い?恐いわアホ!けど恐いのは君やなくて自分自身や!好きって言われて信じるって言ってキスされて!嫌やなかったら答えなんて出とるのと同じやろ!好きでもない奴にキスされたら気色悪い以外の何物でもないわ!大体野郎にキスなんかされて普通だったら黙ってられるか!!!そんくらい気付けクソアホんだら!!」
「・・・・・」
 緩んだ腕の中から抜け出してハァハァと肩で息をしながら有栖は普段あまりお目にかかれない茫然としたような、毒気を抜かれた火村の顔を睨みつけた。
「好きや!ほんまに・・何で俺こんな男好きになったんやろ。アホすぎや。それやのに会わないとか・・手放すとか・・」
「そのつもりはないって言っただけだろう?」
「言ったのも同然や!」
 怒鳴った途端ツンと鼻の奥が痛んでジワリと瞳に涙が滲んだ。
「・・・恐いって・・恐いわ・・そんなん当たり前やん。自分がされるかもしれへん事が判らない年やない。
それやのにキスされて、その後相手が何も変わらんかったら不安になる。言ってはみたけど、キスはしたけど、やっぱり何かが違うって思ったんやろか。そっちこそ・・は・・白紙に戻したかった・火村!?」
 言葉の途中で再びもの凄い勢いで抱きしめられて有栖は慌てて顔を上げた。けれどそれを待っていたかのように火村の唇が有栖のそれを塞ぐ。
「・・んっ・!」
 寄せられる眉。
 不意に塞がれた唇にうまく息が出来ず有栖はジタバタと手を動かしたが勿論抱きしめる腕は緩まない。
「・・・っ・・くる・・ひ・む・・っ」
 一瞬だけ離れて、再び奪われるように重なる唇に何か文句を言いたくて、けれどそれすらがままならなくて、ポロリと落ちた涙。頬を伝って流れ落ちるその滴をそっと離した唇で触れて、ついで目元に、髪に、額に、火村は触れるだけの口づけを落とした。
「・・好きだ。アリス」
「・・・・・」
「信じるって言ってくれないのか?」
 先刻の不安げな声はどこに行ってしまったのか。今度は余裕すら感じさせるその声に有栖は赤くなった瞳をふいと逸らして「言わない」と口にした。
「・・・・おい」
「絶対に言ってやらない」
「・・・・・・・・」
「信じてやるって言ってこれや。どこかの助教授の冴えた頭を信じた俺がバカだった。信じるなんて絶対に言わん」
「・・・・・・・・」
 カチリと重なる視線。
「好きや」
「!」
「これでどうや」
 泣いた鴉はどこへやら・・。勝ち誇ったようにそう言うどこか幼い子供のようなその顔に火村はフワリと笑ってもう一度腕の中の身体を抱きしめた。
「それじゃあ、遠慮なくその先に進ませていただくさ」
「・・え・・遠慮はともかく・・手加減はしてくれ。その・・・・は・・初めてなんやから」
 早口になった言葉と顔を俯かせてギュッと背中を掴む手。それにクスリと小さな笑いを漏らして火村は「努力する」と呟いた。

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 淡い灯りに照らされて上下する胸。
 電気を消してくれと言われ、譲歩の結果部屋の電気を消す代わりに点けられたベッドヘッドの灯り。
 そのくすんだオレンジ色の光の中で上がる息に先刻止まったばかりの涙をうっすらと滲ませながら有栖は目の前の男の背中に縋り付いた。
「あ・・も・・やぁ・・!」
 唇も、胸も、腹も、足も、そして熱くなったそこも、その奥も・・・信じられないところにまで触れる火村の指と唇に泣いて、喚いて、どうしていいのか判らずに溶かされた。
 そうして達った後、息も整わないまま再び追い立てられてほぐすように探られるそこに許してくれと泣き言を言ったけれど、勿論それが聞き入れられる事はなくて・・。
「ん・・ぅ・・ぁ・・んん・・」
 もうきっと自分の身体でこの男の触れていない所などないに違いない。
 荒い息の中、ともすると霞む意識の端でそんな事を思いながら有栖は自分を抱く、つい先日まで『親友』という名のポジションにいた男の背中に爪を立てた。
「・・・っぅ・・」
 途端に上がる小さな声。
 ついでゆっくりと上げられた顔はどこか不機嫌そうな、けれど有栖が今まで見た事のない『男』の顔をしていた。
 それが又やりきれないというか、恥ずかしすぎるというか、もしも今自分の身体が思い通りに動くなら、のし掛かっているこの男を突き飛ばし、頭の上から布団でも何でも被してその顔を隠してしまいたい。
 だがしかし、実際はそんな事が出来る筈もなく、吐き出される息に混じるおよそ自分ものとは思えないような甘い声に耳を塞ぐ事さえ出来ないのだ。
「・・ビギナーやから・手加減しろって・・やぁっ!」
「してるだろう?」
「うそ・・つき・・!」
「ひどいな」
 シレッと言い返す言葉はおよそそんな事を思っているようには聞こえなかった。
「あ・・も・・そこ・・やぁ・・!」
「・・じゃあどうすればいいんだ?」
「どう・・・ぁ・・すれ・・って・」
「お前のいいようにしてやる。どうすればいいんだ?」
 言いながら頬に、耳に、目元にと気まぐれに落とされる触れるだけのあやすようなキス。
「い・・や・・ぁ・・」
「何が?」
「あ・・も・・」
「だから訊いてるだろう?どうすればいい?アリス?」
「・・・・っ・・」
 チュッとわざとらしい音をたてて唇に触れたバードキス。
 絶対に判ってやっているに違いない。この男はこういう男だ。
 乾き始めた涙がジワリと滲んで再び涙目になってしまった瞳で目の前の男を睨みつけながら有栖はもう一度小さな声で「手加減しろ」と先程と同じ言葉を口にした。
「だからどうやって?」
「・・そん・・なん・・知るか!」
「それじゃあ判らない」
「だったらもうしない!も・・どけ・・!」
「この状態でどうすんだよ」
 ニヤリと笑う顔。
「トイレに行く!」
「それじゃおれの立つ瀬がないだろう?」
「そんなもん・知らな・・あ・や・・触んない・あ・・あ・・・後ろ・も・・やめ・火村!」
 前をゆっくりと握り込まれて、再び後ろを探る指にビクビクと身体が震える。
「嫌やて・・い・あ・」
「ばか。ここを慣らしているのはお前の為だ」
「けど・・い・や・・・」
「・・我慢しろよ」
「い・・や・やぁ・・・あ・・ん!」 
 喋りながらも増やされる指。
 おそらく先程有栖自身が放ったものを塗り込めているのだろう聞こえてくるクチャクチャという粘着質の音がひどく執着心を煽った。
「あ・・・ふ・・ぁ・・」
「声を殺すな」
「・・ん・・・っ・」
「辛いだろ・・?」
「・・誰のせいやと・・ふ・・ぅ」
 いつの間にか大きく開かれた足に今更ながら気付いてこれ以上ないと言うほど赤く染まる顔。それに気付いてクスリと笑いながら火村が唇に口づけを落とす。「・・・・いい・か?」
「・・・は・・」
「・・入れたい・・アリス」
「・・っ・・」
 露骨な台詞にヒクリと喉が引きつった。
「・・・・加減はするつもりだけどこっちも初めてだからきつかったら声でも何でも上げてくれ」
 言外に声を上げても止めるつもりはないと言われた気がして有栖は眉を寄せた。
「・・そんな顔すんな」
「・・・アホ。させたのは自分やで」
「ばか、いってる意味が違う。煽られるだけだ」
「・・・・・変態」
 短いやりとりをしながら抜かれた指と代わりに当てられた熱に有栖は小さく瞳を見開いた。
「・・火村・・」
「・・・・・アリス」
 囁くように呼ばれた名前。そして。
「い・・いっ・あ・・あ・あぁぁぁ!」
 声が押し殺す事さえ出来ずに口を出た。
「や・・あ・っ痛・・いた・・ひ・む・・らぁぁ」
 脂汗が一気に吹き出した身体は、無意識のうちに痛みから逃げようとする。それを無理矢理押し戻されて更に穿たれて、ボロボロと涙が溢れて流れ落ちる。
「好きだ・・」
「・・あ・」
「・・好きだ・・アリス」
「ん・っ・・ふ・・あ・あ・」
「好きだ・・・・」
「あ・あぁぁ・・」
 繰り返される言葉。
 それに必死に開けた瞳に映った男の顔は、どこか苦しげに見えて、多分、火村も又、今のこの状態が苦しいのだろうと痛みに霞む意識の中で有栖は思った。
「・・・ごめ・」
「アリス?」
「・・・まだ・・もう少し・・っ・・待って・」
「・・・・ばか・・手加減しろって言ったのはそっちだろう?」
「うん・・でも・・っ・・ぅ・・ふ・・っ・」
 息を吸って・・吐いて・・・繋がったそこが熱く脈打つのが切なくて、苦しくて、熱くて・・・。
「・・・ええよ・・」
「アリス?」
「・・・・だから・・も・・動いてええよ。その・・」
 一緒に達こう・・・
 小さなその言葉はうまく届いたのか。
 チラリと上げた視線に絡んだ視線。
 そうして次の瞬間、突き上げられた身体に声を上げて、有栖は痛みと、その中に確かに湧き上がる甘い快感に溺れた。
 
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「・・・・信じられへん」
 目が覚めたら昼だった。
 悲しいかなそんな事は有栖にとっては良くある話だった。というか、それよりもひどい状況の経験もある。
 けれどでも、目が覚めたら体中がひどい痛みで指を動かす事すら辛いというのはおそらく人生始まって以来の経験だろう。
 起きあがろうとして走り抜けた痛みにベッド逆戻りして、それが又痛みを引き起こして、それ以上何も出来ない。唯一動く口でさえも、声はガサガサでカスカスなのだ。
 思い出す夕べの記憶。
「・・・うう・・恥ずかしすぎる」
 自分があんなになってしまう事も、火村があんな風に求めてくる事も想像もつかなかった。そう考えて顔を赤くした瞬間。
「・・アリス?」
 タイミング良くカチャリと開いたドアから覗く顔。
「起きたのか?飯が出来てるけど食えるか?」
「・・・・今起きたら死ぬ」
「じゃあ運んでくるか?」
「だから起きあがれない」
「食わしてやるよ」
 とんでもない事を何でもない事のように、ひどく機嫌良さげにそう言って火村はパタンとドアを閉めた。 その顔さえ見る事が出来ないまま有栖はハァと大きな大きな溜め息を漏らした。
 本当に・・ 何もかも、全てが恥ずかしすぎる。
「・・・ううう・・」
 どうして人間というものは思い出したくないと思う記憶に限って何度も思い出してしまうのだろう。
「手伝ってやるから少しだけ起きろよ。クッションを当てれば少しは違うだろう?」
 再びドアが開いて、食事だの、クッションだの椅子だのがあれよあれよという間に運び込まれてセッティングされるのを有栖はうまく動けないまま黙って見つめていた。そうしてまさに至れり尽くせりの状態でどうしていいのか判らないうちに多少の痛みを伴いつつ抱き起こされて、卵でとじたおじやをスプーンで掬って口元に出されるに至って、有栖はこれ以上はないと言うほど赤い顔をしながらゆっくりと口を開いた。
「・・自分で」
「出来ないだろう?」
「・・・後で」
「食事をしないと鎮痛剤が飲めないんだ」
「・・・・・・・」
「アリス」
「・・・・・・・」
 訪れた沈黙。
 カチャンと器の中に戻されたスプーン。
「アリ・」
「旅行行かれへん。動けんし、こんな・・温泉入られへんもん・・」
 突然のその台詞に火村は微かに眉を寄せ、ついで小さく笑いを浮かべた。
「アホ。笑い事ちゃう・・ほんまに・・」
 そう。先刻起こされてパジャマを着せ掛けられた際に見えてしまったこれでもかと言うほどの赤い跡。
 本当に何をとっても今日は恥ずかしい事だらけだ。
「安心しろよ。昨日のうちに断った」
「こ・・断った?」
「ああ、お前はあんなだったし、気まずいままで温泉もないと思ったし、何より誰かさんが逃げ出さないうちに4日間で口説き直そうと思ったからな」
「・・・・・・・・」
 本当にどこまでも頭の回る男である。
「そんな顔するなよ。また今度連れて行ってやるさ」
「・・・・・忙しいくせに」
「一泊くらいならどうにかする。身体が辛くなくなったらその辺の散歩にでも出掛けるか。桜の花もいいけど新緑も綺麗だぜ?」
 らしくもない火村の言葉に有栖は思わずクスリと笑いを漏らしてしまった。
 この男が新緑が綺麗だなどと言う日が来るなんて。
「何だよ」
「何でもない」
 クスクスと笑うと痛む身体に眉を顰めて、それでも零れる笑いに緩く抱きとめられて有栖は素直にコトンと目の前の胸に凭れかかった。
 閉じた瞼の中に浮かぶ5月の青い空に映える鮮やかな新緑。
 
 青葉、萌ゆる・・・。
 
「アリス?痛むのか?」
 ひどく優しいその声に湧き上がる気恥ずかしい気持ち。そして・・・・。
「好きやで、火村」
「!」
「・・散歩に行ったらついでに柏餅も買うてこよう」
 クスリと笑ってそう言うと「色気より食い気」と嘯きながら火村も笑う。
 そうして男は了解の返事の代わりにひどくひどく優しい口づけを恋人の唇の上に落としたのだった。 
 

おしまい


『桜、咲いた』の続きです。一気に載せました。楽しんでいただけると幸せ♪