無神論者の誕生日

青い空。白い雲。萌える新緑の柔らかな色。
洗濯をしたら洗濯物はパリッと乾きそうだし、布団を干せばきっと夜はふかふかのお日さまの匂いのするそれで熟睡出来るだろう。
そう、やりたい事は色々ある。
この新緑を見ながら久々に街をふらふらとしてみるのもいいし、近頃少し御無沙汰になっていた本屋に同業者の新刊チェックを兼ねて足を運ぶのもいい。
せっかくの晴れ晴れとした良い天気なのだ。
こんな中であくせくと働いている方々には申し訳ないがそこはもう自由業の強み。
抱えていた締め切りさえクリアーすれば平日の午前中に(もっともあまりこの時間に起きた事はないが)いい年をした大人がふらふらしていても大腕を振っていられるわけで。 けれど、でも・・・・・。
(いっそどしゃぶりにでもなったらええんや!)
・・・・悪いけれど気分は最悪だった。
原因は、判っている。事もあろうに夕べのTel。
『悪いがキャンセルしてくれ』
悪いとはかけらも思っていないような口調で十数年来の友人・火村英生はそう口にした−−−−−−・・・。
 
 
 
「はいはいはい・・今出るって」
ようやく上がった原稿にここ何日かの寝不足によるハイテンション。
けれどそんな事も気にならない程、私・有栖川有栖は上機嫌だった。
時計の針は午前1時を回っている。一般家庭ならご迷惑窮まりない時間だが、私の場合はこの時間が主な活動時間である事が多い。
けれどそんな生活スタイルを知ってはいても流石にこの時間に電話をかけてくる人間はそ
う多くはない。
コーヒーを入れたカップを片手に零さぬ様に小走りでという器用な事をしながら私は慌てて受話機を取った。
「はい、有栖川です」
『アリスか。俺だ』
耳の奥に響くバリトン。
予感的中。
それに何故か緩んでしまう頬を戻しつつ私は電話台の端にカップを置くと受話機を握り直した。
「何や先生、こんな時間に予定の確認か?心配せんでも原稿は上がったからちゃんと行けるで」
そういつもこの口の悪い友人に計画性がないだの、遅筆だのと散々言われているのだ。
たまにはこんな風に言い返したいではないか。
目の下に隈を作りながら言える台詞ではないが、相手の顔が見える電話ではない。
更に予定は明後日、もとい明日の夜。
朝一番で原稿を送り、その後一日休めばまさにベストコンディションである。
『それだがな・・』
「うん?」
『悪いがキャンセルしてくれ』
「・・・今、何て言うた?」
『耳が遠くなったのか?キャンセルをしてくれって言ったんだ。予定が入った』
「−−−−−−−−!!」
ガンと頭を殴られた気がした
「ちょお待て!予定って何や!?」
『学会。教授の代わりに急に出る事になったんだ。東京。2泊3日だ。朝発つ』
彼らしい端的な言葉の羅列。
「・・・・・レストランは1ケ月も前から予約しとるんやぞ?」
そう、その店のフルコースを奢れと言ったのは他ならぬ火村自身なのだ。
『ああ。だからキャンセル・』
聞こえてくる溜め息を堪えたような物憂げな声が勘に触る。
「・・その日が何の日か判っていて言うてるんやな?」
『アリス・・』
「俺との約束の方が先やろ!?」
子供じみた事を言ってしまった自覚はあった。
けれど・・・・。
『仕方がないだろう』
「!!!」
次の瞬間聞こえてきたその言葉に私の中で全ての回線がぶちぎれた。
「あーそーかい!ほんなら何も言う事はないわ!お仕事頑張って下さい!!さいなら!!!」
ガンと叩きつけた受話機に脇に置いてあったカップが床の上に落ちて砕ける。
フローリングの上に散った破片とジワリと広がる褐色の液体。
「・・・・・サイテーや・・!!」
一気にどん底に落ちた気分に目暈がする。
破片に指を伸ばした途端走った痛みとジワリと指先に泌んだ真紅が情け無くて、やるせなくて、痛くて・・・
そして悲しかった−−−−−−・・・。
 
 
 
(みんなあいつのせいや!)
瞳に映った指先に巻いたバンドエイド。
あまりに口惜しくて、情け無くて、原稿が上がったというのに寝不足は解消されないまま、私の機嫌も回復の兆しすら見せない。
“俺との約束の方が先やろ!? 
確かに子供じみた、どう考えても我壗にしか聞こえない事を言ったと思う。
思うけれど言うに事かいて“仕方がないだろう はないだろう!?“仕方がない”は!!
その予定の為に短編と慣れないエッセイの2つの締め切りを奇跡的にこなした私の努力を一体どうしてくれるのだ?このぽっかりと空いてしまった時間と煮えくりかえる様な怒りをどこにどうしろというのだ!
まさに、ふざけるなアホんだら!!である。
まだこれが「すまん」とでも謝るのならば−−−もっとも謝られてもやっぱり腹は立ったと思うのだが−−−もう少し違う気持ちで居られたと思うのだ。
けれど、自分が必死に果たそうとしていた約束が“仕方がない”の一言で済まされる様なものだったのかと思うと、何だか自分の存在までもがその程度のものなのかと思えてしまうのだ。
“仕事は終わらせておけよ 
脳裏に甦るニヤリといつものどこか皮肉げな笑みを浮かべてそう言った男の顔。
「無理して終わらせてすっぽかされたら割に合わんわ!」
側にあったクッションをボスッと放り投げて私は座り込んでいた床の上にゴロリと転がった。
何度見ても、どう見ても、窓の外はうんざりとするほどいい天気である。
青い空にゆっくりと流れてゆく白い雲。
つい先程原稿を送った。
怒りも新たにレストランの予約もキャンセルした。
(・・・・・明日は何しよう・・)
週間予報はものの見事な晴れマーク。
それこそ洗濯をするとか、布団を干すとか、空になりつつある冷蔵庫の中身を買い出しに行くとか少しでも生産的というか、実のある事をすればいいのだがこういう気分の時にはそういう気持ちはまったくおきないタチなのだ−−−−−勿論普段そういう気持ちがおきるかと言えばそうではないのだが・・・。
「・・・・どーせ・・その程度の事やもんな」
そう。いい年をした男が二人、誕生日を祝って食事をする約束等、仕事とは比べようもない事だ。
「今更の事やし・・」
言えば言う程どつぼに嵌まるとはまさに今の状態を言うのだろう。
完璧にふてくされて、寝転んだまま青い空に背を向けると私はギュッと瞳を閉じた。
 
 


 
 
 
「・・・・あかん・・わ・・」
ついていない時というのは何から何までついていない様になっているらしい。
ピピッという小さな音をたてた体温計を気怠げな動きで脇の下から取り出して眺めた途端私は思わず眉を潜めてしまった。
並んだ数字は38.9℃。
目の上まで上げていた手をパタリとベッドの上に落としてフゥッと一つ息をつく。
どうしてこうなったのか。答えは簡単だ。
昨日ふてくされて床の上に転がった後、睡眠不足のツケが襲ってきて、まさに『ふて寝』以外の何者でもない事をしてしまい気付いたら青空は夜空になっていた 
いくら天気が良いとはいえ春先に、窓を開け放したままフローリングの床の上で何時間も眠っていたらどうなるか・・・である。
つまり、完璧に風邪をひいてしまったわけだ。
くしゃみと共に目が覚めて、ゾクリとする身体に慌てて窓を閉めて、熱めのシャワーを浴びて早々にベッドの潜り込んだのだが時すでに遅しだったらしい。
一晩たっても熱は下がる気配すらみせない。
(・・う〜・・頭痛い・・)
グラグラとする頭を抱えて、フラフラと立ち上がるとカクンと身体から力が抜ける。
とにかく何か薬を飲まなければいけない。
医者に行くのがいいのだが、この状態では医者に辿り着く前に路上で遭難しそうである。
(・・・・せやけど、薬飲むんやったら何か胃に入れなあかんな・・)
幸い胃にはきていない様で吐き気はない。
けれど・・その瞬間私は何とも情け無い事実に思い当った。食べられても、食べる物がないのだ。
(・・・やっぱり買い出しは行っておくんやった)
後悔とは後になって悔いるから後悔というのである。
先手を打っていれば後悔はしないのだ。
「あかん・・思考がバラバラや・・」
この際とにかく薬だけでも飲んでおこう。
それでもし、午後になって少しでも調子が良くなったら食べ物を買いに行こう。
「・・・レトルトのおかゆかなんかは万が一の時の為に常備しとかなあかんな・・・」
壁を伝う様にしてドアに辿りついてノブを回して体重をかける。
ゆっくりと開くドア。
普段当り前の様にやっている事がこういう時には一つ一つがひどく大変で、何だか切なくなってくる。
「・・・・薬・・・」
リビングに置かれたボードの引き出し。
さして広くもないリビングを必死の思いで横切ってしゃがみ込む。引き出しを開けて、市販の錠剤を取り出してそこから今度は水を手に入れる為にキッチンに向かっ
て歩き出す。
「う〜・・・・」
頭は痛くて熱くて、身体は震える程寒い。
生理的に水を触りたくなくて、震える手でコップにそれを入れ、ようやく薬を飲んで息をつく。これで又ベッドに戻るのに果てしないリビングを越えて行くのだ。
「ここで寝たら今度は死ぬやろな」
そうして新聞3面の片隅に“推理小説作家孤独死”とかセンスのかけらもない見出しがつけられてしまうのだ。
「それはやっぱり嫌やなぁ・・」
はぁ・・と吐いた息が自分でも熱いのが判った。
確かに床の上でふて寝をしたのは自分だ。
だからこうなったのも自業自得と言えばそうなのだけれど、その原因を作ったのは・・・。
「・・・あいつの誕生日に死ぬっちゅうのも恨みがましくてええかもしれへんな」
埒のない事を口にして私は座り込んでいたキッチン床から力を振り絞る様にして立ち上がった。
恨みがましいのもいけれど腹ぺこのまま死ぬのは感情的に許せない。
(絶対100万回位文句をたれて、うまいもん奢らせてやる!!)
この件に関しては絶対にあいつが悪いのだ。
だから何としてもあの口から謝罪の言葉を言わせてみせる。
「・・・・明日帰ってきて訪ねて来いへんかったら藁人形でも送りつけたる!」
そう考えると何故だか少しだけ気持ちが軽くなった気がして私はクスリと笑いを漏らした。
もっとも藁人形の作り方も知らないし、あの無神論者にそんな物を送り付けたとしてもどうにもならないと判ってはいるけれど、それでもその考えは熱でボーッとした私の頭にはとてもナイスな事に思えた。
「早く帰って来い・・」
帰って来て、謝って、そして・・・。
電話を受けた時に腹が立ったのと同じ位に、私は皮肉げな言葉を言いながら笑う友人以上の男に今、心の底から会いたいと思っていた。
ウトウトとして目が覚めては又眠りの中に引きずり込まれる。
そんな事を繰り返してどれくらい経ったのか。今が何時なのかも判らないまま私は小さく寝返りを打った。
途端にクラリとする頭。
目の端に映った時計は午後の8時が少し前だった。
けれどどうやら熱はまだ引いていないらしい。
うざったい気持ちのままサイドテーブルに手を伸ばして体温計を捜す。この時間では医者は無理だが、少しでも、そう、ほんの少しでも熱が下がっていたら何か食べ物を買いに行かなければならない。そうしなければ熱よりも何よりも今度は動けずに餓死してしまう。
指先に触れた感触にカタンと小さな音を立てたそれを掴んで私はゆっくりとそれを持ち上げた。その瞬間。
「・・・起きたのか?」
「!!!」
その瞬間開く筈のない扉が開き、聞こえる筈のない声が聞こえてきて、私は思わず僅かに持ち上げたそれを取り落としてしまった。
「おい、体温計がイカレるぞ」
「・・・なんで・・」
「・・ったく人の誕生日に熱なんか出してんじゃねぇよ」
言いながらツカツカとベッドの脇に近づいてくる影。
開け放した扉の向こうから漏れる光に照らされたその顔は何だか疲れている様にも見えた。
「・・・まだだいぶあるな」
額に触れたヒヤリとする大きな手。
言いたい事は山程あったのだ。
文句を言って、謝らせて、奢らせて・・けれど・・でも・・・。
「・・火村・・?」
「ああ?」
かすれた呼びかけに返ってきた返事。
枕もとに腰掛けて覗き込んでくる顔が次の瞬間困った様に小さく歪んだ。
「・・おい・・・何泣いてんだよ」
「・・・・い・・」
「いい年した男が熱位で泣いてんじゃねぇよ」
「・・うるさいわ・・ボケ・・誰のせいやと・・」
「さぁ・・誰のせいかな。少なくとも熱を出したのは俺のせいじゃないな。どうせ腹でも出して寝てたんだろ?」
本当に口の悪い男だ。
ニヤリと笑って火村は胸のポケットからキャメルの箱を取り出すと思い出した様にそれを又元に戻した。
どうやら一応は熱のある私に気を遣っているらしい。
「何か食べたのか?」
「何も・・昨日から・・」
「・・おい・・」
「薬は飲んだ。今日」
「何も食ってないのに薬を飲んだって効くわけがないだろう!?」
 呆れた様にそう言って「どうりで冷蔵庫の中に何もないと思った」と火村は少し苛立った様に言葉を続けた。
そこで私はふと妙な事に気が付いた。
確か火村は2泊3日で学会に出ると言ったのだ。それがなぜここにこうしているのか?
もしかして薬を飲んだまま私は丸一昼夜眠り続けていたのだろうか?
「・・アリス?」
黙り込んでしまった私に、火村は訝かしげに口を開いた。それに僅かに眉を寄せて私も又小さく口を開く。
「・・・・お前なんでここに居るんや?」
「・・・・・・」
今更な台詞に火村が眉間の皴を深くした。
「せやって帰ってくるんわ明日やろ?・・それとも俺薬飲んでからずっと眠ってたんか?」
その問いかけにフワリと限りなく苦笑に近い笑みが零れ落ちる。
「言っただろう?人の誕生日に熱なんか出してんじゃないって。誰かさんが怒って拗ねて泣いてると思って無理やり予定を繰り上げて帰ってきたんだ」
「・・・・・・・」
「もっとも熱を出して唸っているとは流石の俺も予測は出来なかったけどな」
言いながら小さく竦められた肩。
誰が拗ねて泣くんじゃボケ!!!
「・・・とにかくとっととこの風邪を治して、次の仕事を片付けろよ」
「・・火村?」
「仕切り直しだ。お前の誕生日に予約を入れ直したからな」
「!!!」
思わず絶句をしてしまった私に火村は見慣れた笑いを浮かべながら再び口を開いた。
「全く人の話は最後まで聞けって学校で習わなかったのか?“今日はキャンセルにして代わりにお前の誕生日に予約を入れ直しておいてくれ”そう言うつもりが勝手に怒鳴って切りやがって」
「・・・・せやって・・お前・・その日は用事が」
そう、お互いにその日は忙しいと火村の誕生日に会う約束をしたのだ。
「無理をきいたんだ。こっちも無理を通させて貰う。俺がここまでしたんだからお前もその日まで仕事抱えているような事はするなよ」
「・・・・・っ・・」
謝るどころか何ともふてぶてしいその言い様に私は思わず吹き出してしまった。
もう、そうするのが当り前で、人の予定なんか有って無きが如しで・・・。
「・・・・ほんまに・・なんで・・」
 目尻に涙を浮かべながら、私はクシャリと笑って見せた。
(なんで・・こんな奴が好きなんやろ・・理不尽や) 
そうしてその言葉の続きをそっと胸の中で付け足す。
「アリス?」
聞こえてきた小さな呼び声。それに顔を向けながら私は単純にも軽くなってきた頭と気持ちにもう一度小さく笑った。そして。
「まぁ・・今回の事は許したるわ。せやから、何か食べるもの作って」
一瞬の沈黙。交差する視線。
そう・・。ここはあくまでも強気でいかなければいけない
「・・・・・・っ・・」
僅かな沈黙。
次の瞬間、火村はホールドアップという様に両手を小さく上げて溜め息をついた。
「OK。判ったよ」
ベッドから離れてゆく後ろ姿を見つめて私はクスリと笑いを漏らした。
せめてこの位の事はしてもらってもバチは当らないだろう。
けれど、でも・・・。
ドアのところで火村はいきなりクルリと後ろを振り返った。そして、逆光でよくは見えないのだがおそらくあの特有の笑みを浮かべてこう口にしたのだ。
「アリス、これは貸しだからな。俺の誕生日にこうして働かせるんだ。この貸しはお前の誕生日にきっちり返して貰うからな」
「−−−−−−−−!」
ちょっと待て!これはお詫びだろう!?
「火村!ちょお待て!貸しっておい!」
答えの代わりに、リビングから助教授の吹き散らかす口笛が聞こえてくる。
頭の中を駆け巡る“軍師策に溺れる”とか“絶体絶命”とか訳の判らない言葉たち。
やはり火村は火村だった 
(・・・絶対・・理不尽や・・!)
熱のせいだけではない目暈がする。
けれどその隅でこの状況に安心している自分も確かに居て・・・・。
(・・・・ったく・・ほんまに・・)
 クスリと落ちた何度目かの苦い笑い。
(・・ほんまに・・もう・・!)
無神論者の誕生日。
この日に感謝をすると言ったらきっと火村は笑うだろう。
けれど、でも、とりあえず・・・。
「・・・ハッピーバースデー、火村」
口惜しいから面と向かっては言ってやらないその言葉を半分熱に浮かされたまま私はベッドの中で口にした。
そうしてドア越しにキッチンで忙しく動くその気配を感じながらそっとそっと瞳を閉じたのだった。

エンド



えっと・・Hもなにもない話になってしまいました。裏話でも書き下ろして載せようかと思ったのですが、さすがにそんな事をしているとGWの新刊が落ちそうなので止めます。
助教授の誕生日なのに、実は熱を出した有栖が書きたかっただけなのかと思えるこの所業(;^^)ヘ..
ご意見、ご批判は謹んでお受けいたします。