微熱

 熱を出した。
 不覚にも原稿を“作者急病の為”という、本当なのにえらく嘘くさい理由で落とした上、予定していた温泉旅行もチャラになった。
 まさにWショックという私・有栖川有栖に、長年の友人兼、恋人でもあったりする火村英生は文句を言いながらも心配をして様子を見にきてくれた。
 そこまでは良かった。
 涙が出る程嬉しかった。
 だがしかし・・・!
 火村は火村で、私はやっぱり私だったのだ。
 そう・・・つまり掘らなくてもいい墓穴を、思いっきりこれでもかという程、掘ってしまったのだ。

 以下再生−−−−−−−。
「とりあえず寝ろ。眠れないってぇなら協力してやってもいいぜ?」
「・・・・・協力?」
「熱があるといいって言うだろ?試してみるか?」
「−−−−−−−−!!!アホ!!いらんわ、ボケ!!
 それにな、そういうんわもっと微熱の時の話や!こない熱があって出来るか!」
「・・・へぇ、さすが有栖川先生。雑学データベースの範囲も広い広い。じゃ、そういう事で下がってきた頃試してみようぜ?まさか他の奴と実証済みなんて事はねぇよな?」
 壮絶な微笑みに無言のままブンブンと振った首。
「決まりだな。楽しみにしてるぜ、アリス」
−−−−−−−再生終了。

 それから3日。
 幸か、不幸か、精神的ショックか、はたまた取り憑いた風邪がしつこすぎるのか・・・・。
 私の熱はまだ微熱の域に入らずにいた。
「・・・・38.1度。明日は絶対に医者に行け」
「・・嫌や・・」
 幾度繰り返したか判らないやりとり。
 けれど流石に3日目も終わりに近づけば、いささか状況が変わってくる。
「死にたいのか?アリス」
 呆れたような声は、どこか剣呑だ。
「こんな熱で死ぬか、寝とけば治る」
「そう言って3日目だよな。3日目。大事な休暇を使い果たして、それでも熱が下がらないバカを置いて出かけた俺の気持ちも少しは考えてもらえると有り難いんだけどな」
 そうなのだ。忙しい助教授の休暇はわずかに2日間しかなかったのだ。だから今日、火村はここ、つまり私のマンションから出勤し、又マンションに帰ってきた。テーブルの上に置かれたお粥が半分以上残っていた事が火村の神経を更に苛立たせているらしい。
 そして今も、せっかく作ってくれたスープだが半分を食べるのがやっとだった。
 とにかく、食欲が出ない。だから食べられない。ゆえに熱も下がらない。完璧に悪循環である。
「注射でもしてもらえばきっと一発で治るぜ?」
「・・・・・嫌やていうとるやろ」
「ガキじゃあるまいしまさか注射は嫌だとか駄々はこねないよな?」
「うるさい。とにかく医者は行かん。その辺の薬を飲んどけばそのうち治る」
「・・・で、ズルズルと完治を伸ばして有栖川先生は又原稿を落とすと」
「!!あのなぁ!」
「そういう事だろうが。とにかく医者に行け。行かないって言うなら引きずってでも連れてくぞ」
「そんなん!だ・・第一、君は明日も講義やろ!?そんな事出来るわけ」
ない、と口にしようとした言葉を火村はニヤリと笑って遮った。
「救急車を呼ぶって手もあるよな。大の大人が医者に行くのを嫌がって救急車を呼ばれて引きずられてゆく。結構な見物だよなぁ、アリス?」
「・・・・・・・サイテーや・・」
「判ったら大人しくしろよ。今ホットタオルと着替えを持ってきてやる。明日の朝少しでも下がっている事を願って眠っちまいな」
 言いながらカチャカチャと下げられた食器と、ドアの向こうに消えた背中。
 火村が心配してくれているのは判っていた。あんな風に言いながらひどくひどく心配している。
「・・・・・何で下がらんのやろなぁ・・」
 よもや、まさか、3日前の火村の言葉のせいだとは勿論私だとて思ってはいない。確かにあの時はびっくりしてあの男の事だから本当にそうしかねないと思ったのだが2日経ち、3日経つうちに、それは罪悪感にすら変わっていった。つまり、いつまでも迷惑をかけて悪いという気持ちだ。もっともそんな事を言ったら「余計な事考えているから下がらないんだ。知恵熱なんじゃねぇか?本当は」位は言いかねないが。
「・・・・でも医者は嫌や・・」
 子供じみた事を言っている自覚はある。
 でも熱で苦しい中、待合室で待たされるのも嫌だし、馬鹿にされるのは判っているが注射も嫌なのだ。
 自分の腕に針を刺しにわざわざ行くなど言語道断だ。
 薬など血管から入れずとも口から入れれば十分である。
 大体、当り前だが刺されば痛いし、それだけではなく血が少量たりとも出るのだ。生活の中で殺人事件を書き散らし、あまつさえ本当の現場に行ってそれを見てしまう事もあるが、血は、苦手だ。それが自分のものであるなら尚更だ。
(・・・鼻血やってクラクラすんのに・・)
「ほら、タオル。着替えはここに置くからな」
 ツラツラと下らない事を考えているうちに火村が戻ってきた。差し出されたそれを受け取って、私はモソモソとパジャマのボタンを外し始める。
「手伝ってやろうか?」
「!!・・い・いらんわ!!おおきに、ありがと。後は出来るから向こう行っててええで」
 突然かけられたその言葉に私は慌てて口を開いた。今更だろうが、何だろうが、恥ずかしいものは恥ずかしいのである。   が、しかし・・・・。
「バーカ。大体俺が向こうに行ったら誰がてめぇの背中を拭くんだよ」
「・・背中?」
「着替えろって言っただろう?汗を拭いて、さっぱりして寝るんだ。判ったらさっさと脱げ」
 脱げと言われて、はいそうですかとは脱げない。
「自分で拭けるって」
「アリス?」
 持ってきた洗面器−−−多分お湯が入っているのだろう−−−を置いて火村は眉を寄せた。
「ふざけるな。何ならそのまま風呂に撲ち込むぞ」
「風呂になんか入ったらそれこそ死ぬやろ!」
「そう思うなら早くしろ。いつまでもパジャマを羽織っているような格好でいるんじゃない!」
「せやから自分でやるって言うとるやないか!」
「アリス!」
 怒鳴って言い合うような内容ではない。
 けれど私も、火村も、かなりキテいた。
「火村!?」
 声を上げた時はもう肩を掴まれていた。
 そのままパフンと押し倒されてバラバラと上着を剥ぎ取られる。
「ひ・火村!嫌やて言うてる・!」
「いきすぎる抵抗は誘っているのと同じだぜ?アリス」
「−−−−−−!」
「いいのか?」と視線で問いかけられて、私はピタリと動きを止めた。それに満足したかの様に火村はゆっくりと熱めのタオルを肌に当てる。
「・・・っ・・」
「熱いか?」
「・・大丈夫・・」
 答えるとゆっくりと身体を起こされて今度は大きな手が手際良く背中を拭いてゆく。
 腕の中に抱き抱えられる様にしながら私は熱くなる頬を隠して小さく口を開いた。
「・・・ごめんな・・」
「アリス?」
「・・・旅行・・ほんまに楽しみにしてたんや」
「又、行けるさ。ほら」
 パサリと着せ掛けられた新しいパジャマの上着。
 そうして一旦タオルをすすぎに戻って、火村はギシリとベッドの端に腰掛けた。
「よし、次。脱げよ」
「・・へ・・?」
 何を言われているのか判らない。そんな私に火村は小さく溜め息をつくとおもむろにズボンに手を伸ばしてきた
「ひひひひひひ火村!?」
「笑ってるのか?」
「違うわ!何すんねん!ね・熱があるんやで!?」
「バカ。勘違いしてるんじゃねぇよ。足を拭くんだ」
「ええって!!そんな事せんでも・・やっ・!」
「安心しろよ。下着は自分で取り替えさせてやるから」
「あ・・当り前や!!やめ・・ほんまに・・ええから」
「アリス・・」
「せやって・・嫌や・・こんなん・・」
 情け無くも目尻に涙が浮かんできた。
「汗をとるだけだろう?」
「でも嫌や」
 こんな電気が光々とついた明るい中でズボンを脱いで足を拭かれるなどとても自分には耐えられない。
 それでなくても1ケ月以上触れていないのだ。
 浅ましいと言われようと、何と言われようと、今、胸をそして背中を触れられただけでも心拍数は十分に上がっている。これで更に足など触れられたら・・・。
「足だけなら・・風呂場で自分で洗ってくるから。ちゃんと着替えて、すぐに寝るから」
 「だから」と続けようとした声は暖かな温もりに遮られた。触れて、重なり、絡んで、離れて、又重なる。
「・・ん・ぅ・・ひ・・火村・」
 口付けをされているのだと気付いたのは再びベッドの上に倒されてからだった。
 その時には着せ掛けられていた筈の上着はどこかに消えていた。
「な・・何・」
「始めからこうしちまえば良かったな、アリス」
「あ・アホ!・・熱があるって判っとるやろ!」
「今更だ。それに微熱だろうが、高熱だろうがきっと大差はないぜ?」
 言いながら肌を滑ってゆく指に息が止まる。
「汗をかけば下がる」
「い・・いい加減な事を・・あ・・あぁ・・」
 鎖骨の辺りに落ちた唇。
 それだけの事にビクリと震えて、漏れた声が情け無い。
 息が上がって行く。熱い身体が更に熱を帯びて行く。
「アリス・・」
 再びズボンに掛けられた手に私は縋る様な瞳を向けた。
 その途端クスリと返ってきた小さな笑い。
「大丈夫だ」
 何が大丈夫なのか。けれどそれを問う事も出来ずに私は更にその瞳を歪めた。
「・・・・風邪・・うつる」
 言ってから、ああ・・火村はそれを言っていたのかもしれないと思った。
「うつらねぇよ」
 スルリと降ろされて足に触れる手。
「・・・3日も・・・その前からだから・・4日も風呂に入ってへんねんもん・・」
泣き出しそうな声は本当に私のものなのだろうか?
「大丈夫だ」
 頬に、瞼に、唇にキスが降る。
「・・・っ・・火村・・や・・嫌・・」
 上がる息に最後の抵抗とばかりに、否定の言葉を口にして・・。
「仕方がないな・・」
「・・・・・・っ・・」
 困った様に言いながらも火村の手は止まらない。
 いつの間にか着ている物は何もなくなったしまった。
 けれど先ほど感じた恥ずかしさは不思議になかった。
 でも、だけど、それを口にするのはあまりに口惜しいかくて。
 そう・・口惜しすぎてやっぱり恥ずかしいから。
「どうしてもお前が、それが気になるってぇなら、綺麗に拭いてから、してやるよ」
 耳もとに囁く様に落ちた声。
 それに勿論顔をこれでもかと赤く染めて。
「アホ!!」
 精一杯、これでもかと気持ちを込めて怒鳴った口はどこか楽しげな助教授の唇で塞がれてしまった。




「37.4度。見事に微熱だ、良かったな」
「・・・・・・ちぃーっとも良かないわ!」
 出された朝食の玉子粥をベッド入ったまま粗方腹の中に納めて、私は赤い顔で小さく怒鳴り返した。
 何故小さくなのかと言えば・・・声がうまく出ないからである。ちなみにその原因は目の前で機嫌良く片付けを始めている。
「この分なら医者には行かなくて済むぞ」
 ええ、ええ、それはそうですとも!!
「何だよ、不服そうだな。医者に行きたかったのか?」
「行きたいわけないやろ!・・ったく・・好き放題して・・ほんまに・・」
「いいじゃねぇか、本当に下がったんだから」
 ケロリと言うその口が憎らしい。
「それに」
「・・それに?」
「良かっただろ?」
「−−−−−−−!!!」
 ニヤニヤと笑う顔に私は思わず枕を放り投げてやった。
 それを見事によけて火村はキッチンに向かう。
 確かに、火村の言う通り、熱は下がった。
 下がったけれど・・・
(・・・恥ずかしすぎるわ・・・)
 熱があるとなぜ“いい”と言われるのか・・・そのわけが何となく判ってしまった自分が情け無い。
(・・ようするに・・・・抑えがきかれへんのやなー)
 そう・・声を抑えようだとか、もう少し堪えようだとか・・そのテの意識が気薄になってしまう・・らしい。まぁ・・もっと別の意味もあるのかもしれないが・・。
「今晩したら完治だな」
 いつの間に戻ってきたのか、ネクタイを締めながら火村はそう口にした。
「・・・・・え・・」
「言っただろう微熱になったら試してみるって。あれだけ下がったんだ。きっと明日は平熱だぜ」
「ちょ・ちょっと待て!夕べしたやろう!?」
 そう。微熱どころか高熱の域で、だ。
「微熱じゃねぇだろ?実験はきちんと徹底的にだ。それにどうせなら治しちまった方がいいじゃねぇか」
「・・・・・・・」
 まさに言葉もないと言うのはこの事である。
 手早く身支度を整えると火村は「じゃあな」と寝室を出てそのまま出かけてしまった。
 後に残る巨大な脱力感。
 一体なぜ、私が熱のせいではなく、まだベッドにいる羽目になっているのかあの男は判っているのだろうか?
「・・・・・・大人しく医者に行けばよかった」
 後悔というのはまさに後でするから後悔なのだ。
 再び上がってきそうな熱に、もうこんなのは冗談じゃないと胸の中で叫びつつ、私は数日前と同じようにバサリと布団を被った。



読んでお分かりの通り、発熱の続編です。
いかがなもんでしょ?ちなみにこの後日談はありません(;^^)ヘ..