や・く・そ・く

「え・・・」
 瞳の見開かれた顔はひどく幼い印象を見ている者に与えた。
 ただ驚いたと言う表情が悲しげなそれに変わるのにそれ程時間はかからない。
「それって・・・キャンセルって事ですか?」
「いや。延期の申し出」
 告げられた言葉に英都大学法学部2回生の有栖川有栖は眉間に寄せた皺を更に深いものにする。
「せやかて・・・約束してたやないですか」
「・・・・急に人手が足りなくなったんや。堪忍してくれ」
 それに苦く微笑んで同じく英都大学のこちらは文学部4回生の江神二郎は目の前の後輩の顔を見つめた。
 なんの話題なのか、判る方は判ってしまったと思うが、二人で出掛ける予定をしていた日に江神のバイトが入ってしまったのだ。
 江神はいわゆる勤労学生である。彼のバイトに彼の『生活』がかかっている事はよく分かっている。
分かってはいるけれど、納得がいかない。
 今は夏休みで、大学がある時のようにほとんど毎日会えるという状況ではないのだ。会いたければそれだけの為に大阪から出てこなければならない。
 勿論それが面倒だとか言うのではない。
 出てきて会えるならばいくらでも出てこようと有栖は思う。
 けれど、だが、しかし、出てきても相手が居なければ出てくる意味はないのだ。
 しかもバイトから帰ってきて疲れているだろう江神の負担になるのはもっと嫌だ。
 だからバイトのない日を確かめて、絶対に語らない身体の調子を聞こえる声だけで出来うる限りに判断して、そうして作った約束が『バイト』で日延べされるのはあまりにも理不尽すぎる。
「江神さん働き過ぎです・・」
 ムッとしたまま、けれど心配の色を滲ませて出された言葉。
「アリス?」
「絶対絶対働き過ぎや」
 可愛らしいその文句に江神はついクスリと笑ってしまった。するとすぐさま返ってくる「笑うてる場合やありません!」という怒った声。
「すまん。けどな、社会に出ればこんなもんやろ?毎日朝から夜まで働いて、残業もある」
 言いながら江神はキャビンを口にして火を点けた。
吐き出される白い煙。
「でも会社なら決まった休みがありますし、幾つもの職種を掛け持ちするような事はありません」
「・・・・・・・なかなか鋭いとこをつくな」
「そんなん誉められても嬉しくないです!」
 ぐるりと一周回って戻ってきたような会話に有栖はもう一度江神の事を睨みつけた。
「・・鞍馬から貴船に抜けるって言うてたのに・・」
「・・・・・・・」
「杉々堂の団子がうまいつて言うてたのに・・」
「・・・・アリス」
 聞き分けのない子供をあやすような声がした。
 けれどこれはちょっとやそっとじゃ譲れない種類のものだ。バイトに焼き餅を焼くなどと今時三文芝居にもない「私と仕事どっちが大事なの!?」と同じだが言うべき所は言わなければ、一応自分たちは『恋人』と呼ばれるものなのだから。
「貴船神社も行って、川床料理は無理やけどちょっと奮発して鮎茶漬けを食べよう言うてたのに・・・!」
「神社も団子も鮎茶漬けも逃げへんよ」
諭すように言われて有栖は思わずクシャリと顔を歪ませた。
「・・・・逃げないけど、減りますもん!!」
「アリス?」
 思っても居なかった言葉に今度は江神が少しだけ驚いたような顔をする。それに勢いづいて有栖は更に言葉を続けた。
「逃げへんけど、気持ちが減る!!こんなにこんなにこんなに行きたいと思って楽しみにしてた気持ちが減ります!その日を楽しみにしていた僕の気持ちが減ります!日延べしても・・・同じと違いますもん・・」
「・・・・・・・・」
 ユラユラと揺れる紫煙。
 言いたいだけ言ってしまえば後に残るのは僅かばかりの後悔と嫌われたらどうしようという不安だった。 訪れた沈黙に、ドクンドクンと鼓動が早まる。
 思考が悪い方にばかり進んでゆくのは好きな相手を困らせていると言う自覚があるからだ。
 数分が、永遠になってしまうのではないかという沈黙の末、江神は吸いかけのそれをギュッと灰皿に押しつけた。
 そして・・・・。
「アリス」
「は・はい!!」
 情けないくらいに上擦った有栖の返事に、江神は次の瞬間フワリと柔らかな笑みを浮かべて口を開く。
「妥協案を出してもええか?」
「は・・?」
「延期になるのはどうにも仕様がないんやけど、その代わり日延べした一日目は鞍馬と貴船に行って、翌日は本屋巡りをする言うんわあかんか?」
「・・・・・翌日・・?」
「こっちも無理をきくんやから2日間休みを取る。アリスの言う通り、社会人には盆の休暇がある筈やろ?」
「!!!」
 勿論有栖に異議のある筈もない。
約束とばかりに交わされた短い口づけに赤くなる恋人を抱きしめながら、こんなワガママも可愛いと思う自分に江神は胸の中で限りなく苦笑に近い笑みを浮かべたのだった。

エンド



作家編との同コンセプト本。予定をキャンセルされちゃったアリスの話です。お待たせしました。