Sweet  −−−Dear H  From A−−

 相も変わらぬ研究室。積み上げられた本と書類と学生の提出したものだろうレポートの束に埋もれる様なそこで、推理小説家の有栖川有栖はただ声もなく立ち尽くしていた。
 目の前には椅子にもたれて死んだ様に眠っている社会学部気鋭の助教授。
 「締め切りが明けたんや」と電話をした有栖に「じゃあ、飯でも奢るから出てこいよ」と言ったのは、今眠りこけている助教授−−−火村英生自身だった。
 研究室のドアを開けても、名前を呼びながら中に入ってきても、あまつさえ目の前に立ってシゲシゲと顔を見られても、火村は起きる気配すら見せない。
「・・人のクーラー病の心配する暇があったら、自分の過労を心配したらどうなんや」
 そう・・この夏、その事で色々とあったのだ。もっとも確かにそれ一歩手前の状態だったのだから大きな声では反論出来ないのだが・・。
「・・・・ったく・・」
 ふぅと息をついて、有栖は来客用のソファに腰を下ろした。約束の時間までに−−珍しい事だが−−まだ20分以上もある。せめてその時間まではそっとしておいてやろう。
 小さく動くとキシリとソファが軋んだ。けれど火村は起きない。それを見つめながら有栖はテーブルの上に置かれていた本に手を伸ばした。
(・・・ほんまに少し休めばええのに・・)
 パラリパラリとページをめくる指。が、勿論その内容が頭に入ってくる事はない。
(大体休めって言うてもこいつがきく筈ないしなぁ・・)
 多分、おそらく、きっと有栖がそんな事を言えば火村はニヤリと笑ってこう言うのだろう。
−−−−どこかの作家ほど休んでいたら食っていかれないんでね。
(せやけど、身体の方が大切やろ?)
−−−−その言葉、そっくりそのままお返しさせてもらうぜ。
 頭の中のシュミレーションを有栖はストップさせた。大体、学生時代からこの男に口で勝てた例がないのだ。
「・・・・あほんだら・・」
 火村が有栖を心配している様に、有栖も火村を心配しているのだ。勿論そんな事を火村が言う筈はないし、有栖自身その事を火村に告げるつもりもない。
 けれど、でも、お互いにその事が判っていればいい。そうすればいつか、何かの時にそれが歯止めになる事もある筈だから。
「・・・今時“太く、短く”なんて流行らんで、先生」
 ポツリと漏れ落ちた言葉。その瞬間。
「うるせぇぞ、小説家」
 ぱっちりと開いた瞳に有栖は慌ててソファから立ち上がった。
「起きてたんか!?」
「いや、寝てた」
 短い答えと重なるあくび。それを見て有栖がプッと吹き出す。
「何だ?」
「そんな顔を見たら嘆く女子学生が居るんやろうなって思うて」
 有栖の答えに火村は顔を顰めて「関係ねぇよ」と首を回した。
 
 −−−−−Dear・・・・大切な貴方へ
 −−−−−From・・・・心を込めて
 
「さてとじゃあ、行くか」
 バサバサと机の上の資料をまとめながらの火村の言葉に有栖は「御馳になります」とニッコリと笑った。
 その途端ピタリと止まった手。
「どないしたんや?火村?」
「なぁ・・アリス」
「何や?」
「今度から起こす時はグチより、キスにしてくれ」
「−−−−−−−!やっぱり起きとったんか!」
「ばーか!お前の独り言が大きすぎるんだよ」
 ニヤリと笑う顔。次いで銜えられたキャメル。上機嫌で歩き出して出した助教授に有栖はお約束のように赤い顔で「あほんだら!」と決め台詞を口にした。


今度こそおしまい!!