発達心理学における一考察

Aちゃんは、入ってはいけないよというお父さんの部屋で遊んでいてインク瓶を倒し、これ位(親指と人差し指で○を作る)汚してしまいました。

Bちゃんは、入ってはいけないよというお父さんの部屋で掃除をしていてインク瓶を倒し、これ位(両手で○を作る)汚してしまいました。

さて、AちゃんとBちゃんはどっちが悪い子でしょう?


「え・・・・?もう一度言って下さい」
 相変わらずの学生会館の2階。そのラウンジの端の堅い木の椅子に腰掛けて、僕、英都大学法学部1回生の有栖川有栖はは思わず眉を寄せてしまった。それを見て目の前の銀縁眼鏡、一学年先輩で経済学部の2回生である望月周平が小さく笑う。
「せやから・・Aちゃんは入ったらあかんよって言われとったお父さんの部屋に入って遊んでインク瓶を倒してこん位汚してしまいました」
 望月は片手で小さな○を作った。
「で、Bちゃんは入ったらあかんよって言われとったお父さんの部屋で掃除をしててインク瓶を倒してこの位汚してしまいました」
 僕の目の前に両手で先程よりも大きな○が作られた。
「さて、AちゃんとBちゃんはどっちが“悪い子”でしょう?」
「・・・・・・・・・・・」
「アリス、繰り返すけど『なぞなぞ』やないんやで?」
「せやけどこれで発達の度合いが判るんでしょう?」
「・・・まぁな」
 ニヤニヤと笑う望月に僕は眉間に皺を寄せたまま頭を抱えてしまった。
 どうしてこんな事になったのか。
 久しぶりに古本屋でも巡ろうかとそれぞれの講義の終わる時間を考えてここで待ち合わせをしていたのだ。その時間よりも少し早めに来た僕と、目当ての講義が休講になった望月。何とはなく先日出た新刊の話になり、未読だった僕はが慌ててその話を止めると「面白ないなぁ、新刊くらいチェックしておけ。あ・・せやアリス。したらこんな話はどうや?」と望月は話題切り替えた。それがこの『発達心理学』の話である。
 何でも飲み屋で知り合った他大学の教育学部の人間から聞いた話らしい。
「・・・・でも・・僕に内緒で3人で飲みに行くなんてひどいです」
 その瞬間余計な事まで思い出して僕は思わずムッとして俯きかけていた顔を上げた。
 それに少しだけ驚いたように望月が口を開く。
「・・考えてたんやないのか!?」
「考えてたら思い出したんです。除け者にするなんて」
「除け者にしたわけやないで。お前がバイトがある言うたんやないか」
「せやってモチさんたち飲みに行くなんて一言も言わんかったやないですか」
「後輩の勤労精神の邪魔をしたらあかんという優しい心遣いや」
「・・・・・あのですねぇ・・・」
 全くどこまでが本気なのか、次の瞬間「嘘や。ほんまは急に決まったんや」と笑って望月は小さく肩を竦めた。とその途端。
「モチ!やっぱりここに居ったんか!」
 聞き慣れた声がラウンジに響く。顔を向けると見える二つの影。
「よぉ!信長!江神さんも。早かったやないですか」
「アホ!呑気な事言うとる場合か。お前掲示板見てへんな?」
 にこやかに手をあげた望月に経済学部コンビの片割れ信長こと織田光二郎は妙に慌てた様子で口を開いた。
「・・・?情報処理学の休講の張り出しなら見たで?」
「ちゃうわ!その横!坂巻ゼミのお呼び出しや」
「・・・へ!?」
「へやない!坂巻ゼミに集合がかかっとるんや」
「・・・何で?」
「知るか!そんなんあの爺さんに訊いてくれ。ほんまに江神さんがはりだしあったけど見たか?言うてくれんかったら気付きませんでしたよ。ったくあの気まぐれじじぃ・・・」
「・・・・・・・最悪・・」
 潰れてしまった今日の予定にかなり頭に来ているらしい織田の半ば自棄になった様な言葉を聞きながら望月はガックリと肩を落として立ち上がった。
「・・あーあ・・・また今度誘ってくださいね」
 呼び出しがかかっている以上行かないわけにはいかない。
「ああ。また今度な」
 小さく苦笑を浮かべて、我らが推理研の部長『江神さん』は望月の肩をポンポンと叩いた。
「・・と言う訳や。続きは又今度な。アリス」
「あ・・はい」
「何の話や?」
「ああ、この前の心理学の話ですよ。そうや、江神さんも知っとるんやからアリスの答えを聞いておいて下さい。ただしカンニングはなしですからね。次回は今日行かれへんかった古本屋を巡って、ついでにアリスのレベルを肴に飲みに行きましょう」
「モチさん!」
「モチ!!いつまで喋っとるんや、置いてくで!!」
「分かったって!!じゃあな」
 笑いながら手をあげて走り去ってゆく二つの影。その背中を見送りながら僕は思わずほぉと溜め息を付いた。そして。
「・・やれやれ・・・古本屋巡りは延期やな。さてとほんならどうする?ここで話の続きをするか?」
 小さく笑いながら覗き込んでくる瞳に僕は「下宿に行ってもええですか?」と問い返していた。



「せやからそんなに悩むもんやないって言うとるやろ?」
「けど、これで自分の発達レベルが分かるなんて嫌やないですか」
 すでに見慣れた部屋。
 そのテーブルの上に置かれたコーヒーをズズッと行儀悪くすすって僕は眉間に皺を寄せた。
 途端にクスリときこえてくる小さな笑い声。
「・・・何で笑うんです?」
「いや、何でそないに発達のレベルが気になるんかなぁと思って」
「・・・・・そんなん・・・・アホと思われたら嫌やないですか」
「誰に?俺はアホでも何でもアリスが好きやで?」
「・・あ・・・あのですね・・」
 クスクスと零れる笑いを聞きながら僕は赤くなっているだろう顔を隠すようにして再びマグカップに口を寄せた。本当にどうしてこの人はこう言うことを平気で言ってしまえるのだろう。
 そんな僕の胸の中の言葉が聞こえているかのように、江神さんはもう一度クスリと笑ってキャビンを取り出した。
「確かに面白い話では有ったけど、俺としては倫理観と躾の問題の気がしたな」
「倫理観と躾?」
「そう。ちなみに俺等は全員答えが違うた」
「えっ!?」
 言いながら銜えた煙草に火を点けて江神さんは更に言葉を続けた。
「“基準”は気になるけどどうしても言いたないか。アリスは我が儘やな」
「・・・・・だって・・・・」
 からかわれるのも、好きな人からアホだと思われるのはやっぱり嫌なのだ。
 そんな僕に江神さんはまた笑ってふぅと白い煙を吐き出した。
「しゃあないな。したら口に出さんでええから、自分はこうって思うだけにしとき。・・・・・ええか?」
「・・・・はい」
 コクリと頷いた僕に江神さんは「よし」と言ってゆっくりと口を開いた。
「まず、3歳児以下」
「江神さん!!」
 ちょっといくら何でもそれはないだろう!?けれど7つ年上の先輩兼恋人はサラリとかわして笑みさえ浮かべる。
「発達心理学のサンプルなんやから順に説明していかなあかんやろ?よく聞くように。3歳児以下。質問の意味が理解できない。流石にこれやないやろ?したら次、4才から小学校1年生程度。“Bちゃん”なぜか?“いっぱい汚したから”」
 尋ねてくるような視線に僕はブンブンと首を横に振った。それに小さく笑って江神さんは更に言葉を続ける。
「次は小学校中学年前後。高学年も結構含まれるらしいけどこれはあくまでも統計やから。答えは“Aちゃん”なぜか?“遊んでいたから”」
 そう言ってチラリと視線を向けながらけれど何も言わず江神さんはそのまま言葉を続けた。
「で・・・次が信長の答え。“両方悪い”なぜか?“入ったらあかん部屋に入ったから”ちなみにこれが中学生以降に多い答えらしいんやけど、議論はここからなんや」
 一端途切れた言葉。そうしてユラリと揺れた紫煙の向こうで江神さんはひどく楽しげな笑みを浮かべると再び口を開いた。
「それを聞いたモチが言ったんや。“やっぱり悪いんわBちゃんやろ?”なぜか?“同じ入ったらあかん部屋に入ったんやからその時点で罪は一緒。ほんなら沢山汚した方がやっぱり悪いやん”」
「・・・・・・・も・・・・モチさんて・・・・」
 聞いた答えに僕は思いきり顔を引きつらせてしまった。凄いとしか言いようのない意見だ。
「で、ここでその話を振った連中と大もめになってな。4時近くまで討議をするはめになったんや。で?アリス。お前の答えはなんやった?」
「ま・・・・まだ江神さんの答えを聞いてませんもん!」
 最後の悪あがきとも言うべき僕の言葉に江神さんは一瞬だけ瞳を見開いてひどくひどく楽しそうに笑った。
「俺か?俺は言うたやろ?倫理観と躾の問題やて。同じ禁止区域内で『遊んだ事』と『掃除をした事』のどちらを良しと捕らえるのか。そんなん一概に言える事やない。いわば躾の問題や。手伝いを励行しとって失敗したから悪い子じゃやってられへん。躾っちゅうのはもともとその家のしきたりみたいなもんが大きいんや。で、尚かつそこに持ってきて入ったらあかん所に鍵をかけておかなかった親の責任もあるし、倒しただけでインクが零れるなんてちゃんと蓋を閉めておかんかった父親も悪い。けどな、何が悪いってこんな中途半端なサンプルを作った心理学者が一番悪い。そう思わんか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「で?アリス。お前は?」
 鮮やかな笑みと共にそっと伸ばされた手。
 それに掴まれて引き寄せられながら僕は大きな大きな溜め息をついていた。
「・・・・・・“Aちゃん”なぜか?“遊んでいて汚したから”」
 レベル小学校中学年。
 でも何となくその方が普通のような気がするのはなぜなんだろう?
「アリスは素直でええ子やな」
 聞こえてきた言葉はどこか甘くて優しい笑いを含んでいた。
 そうしてキャビンの香りのする腕の中、僕は何だか自分がとんでもない集団の中にいるような錯覚を起こしつつ、そっとそっと瞳を閉じたのだった。



ちなみに作家編もあります。いかがなもんでしょ?