発達心理学における一考察

Aちゃんは、入ってはいけないよというお父さんの部屋で遊んでいてインク瓶を倒し、これ位(親指と人差し指で○を作る)汚してしまいました。

Bちゃんは、入ってはいけないよというお父さんの部屋で掃除をしていてインク瓶を倒し、これ位(両手で○を作る)汚してしまいました。

さて、AちゃんとBちゃんはどっちが悪い子でしょう?


「何やて?」
 相も変わらぬ本に埋もれたような部屋。
 長年の、息子同然の店子の部屋がいつかその重みで崩れ落ちるかもしれないと口には出さないけれど心配しているに違いない、心優しい大家の手作りの漬け物をつまみながらビールを片手に“アリス”こと私、有栖川有栖は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「おいおい、お前仮にも推理小説家だろう?出された問題の内容はきちんと聞いて把握しろよ」
 どこか呆れたようにそう言いながら白瓜の漬け物をつまんでパクリと口に入れたのはお互い母校での社会学部で助教授をしている火村英生である。
「そんなん推理小説と関係あるか。推理小説は謎々とは違うんや!大体それを言うなら君こそ教職の立場にあるんやからもっと判りやすく物を喋れ」
 すかさず反撃にでた私に火村はビールを煽って小さく肩を竦めた。
「・・・ったく・・自分の脳味噌を棚に上げて我が儘な奴だな。いいか?Aちゃんは、入ってはいけないという父親の部屋で遊んでいてインク瓶を倒し、これ位汚してしまいました。で、Bちゃんは、入ってはいけないという父親の部屋で掃除をしていてインク瓶を倒し、これ位汚してしまいました。さて、AちゃんとBちゃんはどっちが悪い子でしょう?」
 “これ位”と作られた丸は明らかにBちゃんの方が大きい。
「・・・何かの謎かけか?」
「てめぇ、本当に人の話を聞いていやがらねぇな。心理学だ。発達心理学。俺は全くの畑違い何だがこの前の学会が知り合った奴から聞いたんだ。幼児期の社会性の獲得と心理学的発達の事例だとよ。ちなみにこの話は3歳くらいだと全く理解できないそうだ。レベル3歳だな」
 ニヤリと笑う顔が憎らしい。
 思わず憮然とした表情を浮かべた私に火村は楽しげに口を開いた。
「で?レベル3歳児の推理小説家はどう思う?」
 どこまでも嫌味な奴だ。
「どうって?」
「まさか本気で3歳児の訳じゃないだろう?『どちらが悪い子でしょう?』納得できる答えじゃなかったら今夜は夜通しで個人授業な」
「ア・・アホ言いなや!そんなん・・・」
 何を言っているのか、ニヤニヤと笑うその顔を見れば一目瞭然である。
 そんな事に誰がのるとか言いかけて私はピタリと言葉を止めた。
 火村の『個人授業』云々はどうであれ、幼児と同じ質問をされているのだ。それに答えないと言うのは大人としてあまりにも情けなさ過ぎるのではないだろうか?
 黙り込んでしまった私の目の前で、やはり無言のまま火村は空になったアルミ缶を片手で潰して新たなそれに手を伸ばした。
「・・・・・・・・・・・心理学の問題なんだよな?」
「違う発達心理学の事例。謎々じゃない。その答えで発達を見る一つの材料。統計を取ると大体その時期にそう言うことが理解出来てくるって言うのが判る」
 言いながら火村は今度は程良く漬かった賀茂茄子に手を伸ばして口に入れた。
「・・・・・・・・・・・」
 再びの沈黙。
 果たして素直に言っていいものなんだろうか?
 大体その発達って言うのがどうも胡散臭い。何かがあるんじゃないだろうか。
「アリス?」
「・・・・・・・・・・・・・・Aちゃん」
「何でだ?」
「・・・・だってAちゃんは遊んでてBちゃんは掃除をしてたんやろ?汚した大きさが“悪い子”の基準やなくて・・火村ぁ!?」
 言葉の途中で苦しげに身体を折り曲げて笑い出した男に私は再び素っ頓狂な声を上げてしまた。
 その声に助教授は目尻にうっすらと涙を溜めて顔を上げる。
「く・・・っ・・・・・は・・まいった・・」
 漏れ落ちる切れ切れの声と納まりきらない笑いに私の中で何かがブチっと音を立てて切れた。
「何や!君は!いきなり訳の判らん事言うて!ほんまはこれ心理テストかなんかやろ?俺そういうんわほんまに嫌いやって・」
「・・がう・・・・・違う、アリス。本当に事例なんだ。4歳から6歳の子供にこれを尋ねるとほとんどの割合で同じ答えが返ってくる。“Bちゃん”。どうしてか・・・“いっぱい汚したから”ところがこれが小学生低学年から中学年以上になってくると答えが変わる。“Aちゃん”。どうしてか・・・“遊んでいて汚したから”認知力の発達の程度を表しているんだ。だがな、アリス。よぉーく考えて見ろよ」
「・・・・・何をや?」
 そう。別に自分は涙を流して笑われるような事は言っていない筈である。
 そんな私の子都議にならない言葉が聞こえたのだろう。火村は再びゆっくりと口を開いた。
「答えは中学年、から高学年以上に、いわば思春期に入ってくるあたりから再び変わってくるんだ」
「・・え・・・?」
「“どっちも悪い”どうしてか・・・・“入ったらいけない部屋に入ったから”」
「あ・・・・」
「状況の把握力。物事の理解力がしっかりとしてきて価値判断の基準が明確なる・・・・・と言う風に人間は発達していくんだとよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「3歳児レベルからは上がったが、助手が小学生レベルってぇのは泣けるよなぁ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
 まさにぐぅの音も出ないとはこの事である。
「さてと、それじゃあ飲み会はお開きにしてお勉強会を始めるか」
「何の勉強や!何の!大体それの何処が心理学なんや!絶対せこい謎々と一緒や!!」
 瞬時に赤くなってしまった顔で怒鳴る私に火村は最後の賀茂茄子を口に放り込んだ。
「お前が何か面白い話はないかって聞いたんだろう?」
 ニヤニヤと見慣れた笑みが浮かんでいる。
 伸ばされた手。
 触れる指先。
「全然!全く!これっぽっちも面白ろないわ!!!」
 そうして次の瞬間、静かな京都の夜に助教授の笑い声が響いた。

エンド




長らくお待たせいたしました。作家編の心理学話です。
皆様はなんだったでしょうか?
私的にはアリスが可愛くて仕方がない一作なんです(;^^)ヘ..