春うらら… 
 

 京都・西陣のとある下宿屋の一室。
「GWは予定があるんか?」
「いえ・・特には。江神さんはバイトですか?」
「一応な。けど全部が埋まっとるわけやない」
 ユラリと揺れるキャビンの煙。
「え・・・」
「どこかに行こか?」
「!ホンマですか?」
 思わず横になっていた布団の上で、ガバッと半身を起き上がらせた年下の恋人に、英都大学文学部4回生の江神二郎はクスリと笑って吸っていたキャビンを枕元の灰皿に押しつけた。
「日にち、空けられるか?」
「いつでもOKです!」
 勢い切ってそう答えた声にもう一度クスリと江神は笑ってその身体を抱き寄せた。
「・・江神さん?」
「春っていうてもまだ夜は冷えるやろ」
「・・はい・・」
「・・と言うのは建前で、目の前でそんな格好をいつまでもされてたら抑えがきかんようになる」
「!!!」
 言いながら小さく笑った顔。その瞬間、腕の中の顔がバッと赤く染まった。
「・・・・い・・今したやないですか・・」
「そうやな」
 耳元に寄せられた唇が紡ぐ優しい声。
「・・明日・・バイト・・でしょう?」
「まぁな」
 肩口に回されたままの手。
「・・あの・・」
 ああ、やっぱりさっさとシャワーをでも借りてパジャマを着ておくべきだった。もとい、今はそう言う問題なのか。だったらこの状態で何をどうすればいいのか。
 ガチャガチャとしだす思考回路。
「・・・・え・・っと・・」
「何や?」
「・・・・・・あの・・」
 ドクンドクンと早まる鼓動。
「うん?」
 先刻抱き合ってようやく落ち着いてきた筈の身体の火は、存外簡単に点き直されてしまうものらしい。
 どうすればいいのか。肩を抱かれたまま身動きも出来ずに固まってしまったような恋人に、江神は再び小さく笑って耳元に唇を寄せた。
「しよか?」
「!!」
 頬を掠めた長い髪。
「・・あ・・した・・起きれなくなります」
 赤い顔を更に赤くしての言葉は最後の抵抗。
 それを「一日寝ててええよ」の一言で軽くいなして、江神は「・・もう・・」と呟く腕の中の赤い顔にゆっくりと顔を寄せた。
「・・江神さん・・」
 重なる唇。
 背中に回された手。
「・・・アリス・・」
 幸せな幸せな、春。
 もうじきやってくるGWが待ち遠しかった。
 そしてやってきたその日。約束通りに実行された『デート』も嬉しくて、楽しくて・・・。
 だが、しかし、けれど・・・・
 幸せがあれば不幸もある。
 今が一番幸せ!などと思った事がまずかったのか何なのか。その僅か半月後に大きな大きな落とし穴がある事などこの時のアリス、こと英都大学法学部2回生の有栖川有栖には気づく筈もなかった。
 
 
 

 
 
 


 
 

 
 
 すっきりと晴れ渡った青い空に白い雲。
 5月。
 青葉が輝き、気持ちのいい風が吹くとなれば、一年で1番いい季節などという形容も頷ける。
 だが、しかし、けれども・・・。
 その一方で“5月病”という言葉もあるように、どんよりと重く沈んだ気分になってしまう事もよくある事で・・・。
「なんやなんや?鬱陶しいで」
 学生会館の2階のラウンジ。定位置である一番奥のテーブルに着いた途端そんな声を上げたのは英都大学経済学部3回生の織田光二郎だった。
「・・・どないしたんや?これ」
 そして次に、あろう事か人間を“これ”呼ばわりしたのは同じく経済学部3回生の望月周平。
「知りませんよ。朝からこうです」
 問い掛けられて、怒ったような呆れたような声で答えたのは法学部2回生の有馬麻里亜だった。
「アリス?おい、気分でも悪いんか?」
「・・・・違います」
「なら何でそない暗いんや。あ、さては何かミスをして呼び出しを食らったとか」
「5月のこんな時期に呼び出されるようなものなんてないですよ。信長先輩」
「・・・そうか・・・」
「じゃあ、もしかして、財布でも落としたんか?」
「え!?・・あ、それでお昼も食べなかったの?アリス」
「そうなんか?出てくる確率は低いけど、一応警察に届けた方がええで」
「そうよ。出てくるかもしれないじゃない。どの辺で落としたか見当はつかないの?」
「大体の場所が判るだけでも違うで。自分でも戻って探してみたんか?」
 次々と答える間もなく投げかけられる質問はすでに当事者を置き去りにして更に続けられる。
「いくらくらい入っとったんや?昼飯も食えんくらい貧民になっとるんやったら、カレーくらいなら奢ったるで?」
「すごい!モチさん太っ腹!」
「こいつ昨日バイト代が入ったんや。家教のバイトは実入りがええからな。アリス、遠慮なくたかってやれ」
「良かったわね、アリス」
「したら早速食いに行こか。腹が減っては…っていうやろ?」
 そう言って座った椅子から立ち上がった望月に、先刻から話題の的になっている“アリス”こと法学部2回生の有栖川有栖は、眉間に深い皺を刻んだまま口を開いた。
「・・・・別に財布を落としてなんていません」
「・・なら・・定期を落としたとか?」
「定期も落としてません」
「・・・・・したら・・何を落としたんや?」
「!せやから!財布も定期も何も落としてへんって言うとるやないですか!」
 ムッとしたままついつい声を荒げてしまった有栖に、3人は一瞬だけ茫然としたような表情を浮かべ、次の瞬間、麻里亜が有栖以上に不機嫌な顔で口を開いた。
「なら何なのよ!さっきからこの世の終わりみたいな顔しちゃって!グジグジと男らしくないわね。言いたい事があるならはっきり言いなさいよ!」
「・・・・おいおい・・マリア・・何もそんな風に」
 流石に怖ず怖ずと口を開いた織田に、麻里亜はきっぱりと言い切った。
「いいえ!いい加減にしたらいいんですよ。こんなにみんなが心配してるのにこの言い方はないでしょう?」
「・・誰も心配してくれなんて言うてない」
「!!ああ、そう。じゃあこんな所でそんな地球滅亡みたいな顔してないで頂戴」
「悪かったな、地球滅亡で!どうせ始めからこんな顔や!」
「だからそう言う言い方が良くないって言ってるんでしょう?」
「良くても良くなくても関係ないやろ」
「アリス!」
「まあまあ、その辺にしとき。アリスもマリアも熱くなりすぎや。マリアの言い方も結構キツイで」
「・・・だって・・」
 眉を寄せて幾分顔を俯かせた後輩に、望月はポンポンと方を軽く叩いて有栖の方を向き直った。
「けど、アリスの言い方もない」
「・・・・・・」
「何がどうしたのか、言いたくないなら言わんでええけど、自分の感情を人に向けるな。最低のルールやで」
「・・・・はい・・」
 渋々と頷いて、有栖は訪れた気まずい沈黙の中で深い深い溜め息を落とした。
 言われたことは理解できる。どう考えても今のやりとりは自分の八つ当たりである。その自覚は十分ある。だがしかし、自覚があってもどうにもならない、或いは感情が付いてこないと言う事も多分よくある事なのだ。
「・・・・・」
 その瞬間、脳裏に甦る、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべた穏やかな顔。
 大好きなその顔は、けれど今は思い出すだけでチクリと小さな胸の痛みを覚える。
 もう5日も前の事だ。
 自分の中でもそんな事をまだ引きずっているのかと呆れるような自分がいる。けれどその反面、「引きずっているとも!!」と思い切り答えてしまう自分もいたりして、すでに自己アイデンティティーの崩壊寸前でなのである。
 そう・・事の起こりは5日前。
『昨日有馬さんから付き合うてるんやないって聞いたから思い切って言ってみようと思って・・』
 肩につくサラサラの柔らかそうな黒い髪。
 少しだけ俯いて緊張を隠せない顔。
『なんか思い切り古典的なんやけどうまくはなせなかったらと思うて書いてきたの。手紙・・読んでもらえる?』
 差し出された薄いピンクの封筒をどうすればいいのか判らないまま受け取ってしまったその瞬間。
 間が悪いというのはきっとこういう事を言うのだ。
 視界の端に入った、一番見られたくない人影。
『・・・あ・・』
 思わず漏れた小さな声。まるで悪戯を見つかった子供の様なそれにけれどその人は何事もなかったかのように背を向けたのだ。しかも・・・・
「どうしてそこで笑えるんや!!」
 バンと思い切り机を叩いて叫ぶように立ち上がった有栖に他の3人がビクリと身体を震わせた。
「ア・・アリス・・?」
 今までの勢いはどこへやら、怖ず怖ずと口を開いた麻里亜に、有栖はハァ・・と再び溜め息をつきつつ「すみません・・」と言いながら椅子に座り直した。それを見て3人は思わず顔を見合わせた。先刻とは少しだけ違う、2度目の沈黙。
「・・・・何か辛いことがあるんやったら話を聞くで?」
 ボソリとそう切り出した織田に有栖は今更のようにハッとして顔を上げた。
 途端に視界に入る心配そうな3つの顔。
 3度目の沈黙。
「・・・・・あの・・」
「うん」
「・・・え・・っと・・」
「・・・借金の相談なら今はモチや」
「いえ・・そうやなくて・・。あの・・」
「・・・・」
 真っ直ぐに向けられる3つの瞳。
「・・・・・・・・ゆ・・」
「ゆ?」
「・・あの・・ちょっと友人から相談を受けて」
「何や、それで悩んでたんか?」
「ええ・・・まぁ・・」
「ふーん・・。アリスを悩ます相談か。で?」
 望月の問いに有栖はゆっくりと口を開いた。
「え・・っと・・実は手紙を貰うたのを付き合うてる人に見られて」
「恋愛関係か。そりゃ又相談する相手を間違うとるな」
「・・・・モチさん」
「ああ・・悪かった。で?」
「・・それだけです。見たのに何にも言わない」
「・・・はぁ?ちょっと待て。何やそれ。手紙っていうんわ、ようするにラブレターなんやろ?女の子からラブレターを貰うて、それを付き合うてる彼女に見られて、何でその男の方が何も言うてくれへんて悩むんや?」
「あ・・・」
 織田の言葉に有栖は思わず声を詰まらせてしまった。
「そうよね。むしろ言わなきゃならないのはその男の方でしょう。そんなの見た彼女の方が不安に決まってるじゃない」
 更にとどめを刺すような麻里亜の言葉に有栖は唸るように口を開いた。
「ち・・違うんや・・手紙を貰うたんわ女の方で」
「・・てことは・・ラブレターを書いたのは男か。随分古風な男やな」
「・・・・・」
 どちらにしても苦しい例えに、けれどそれ以上どうも言いようが無くて、有栖は言葉を続けた。
「い・・・・とこ。あの・・ほんまは従姉妹なんです。たまたま手紙を渡された所を付き合うてる彼氏に見られて。で、焦った・・らしいんですけど。当の彼氏は絶対見ていた筈なのに何も言わなくてあろう事かちょっと笑って見て見ぬ振りをしたりして。それでもってその後も勿論何にも言わないし」
「・・・・・何か見てきたように詳しいわね」
「な・・何回も聞かされたんや!」
「何ムキになってるのよ。そうかぁ・・。何も言ってくれないね。何となく判るなぁ・・」
 しみじみと呟くような麻里亜の声に有栖は「そうやろ」と口を開いた。
「けど、アリスにそんな風に心配にしちゃう従姉妹がいるなんて初耳」
「・・・・・・・」
 クスリと笑う麻里亜に思わず胸の中で、そんなものはいません、とツッコミを入れながら有栖はヒクリと顔を引きつらせて笑った。
「それで、その彼女は手紙をどないしたんや?」
「悪いけどって返した・・そうです」
「それを相手は・・つまり、彼氏は知っとるんか?」
「・・・・よく分かりません」
「・・なんでや?」
「その・・こっちからあえて話題に出すのもなんか、ちょぉ・・憚られて・・。向こうは全然変わりがないし。それにそんなにちゃんと会う時間もなくて。とりあえず顔を見たり挨拶をするくらいはしてる・・・って言うてるんですけど」
「・・・・・・ちょっとええか?」
「はい」
 しどろもどろの有栖の説明にまたしても望月が割り込んだ。
「従姉妹っていうたら、まぁ・・高校くらいか?でその男は一体幾つくらいの人間なんや?」
「・・・・・・・・・えーと・・7つ・・年上」
「!!!7つ!て事は社会人か!?」
「すごい年上の人と付き合っているのね」
 織田と麻里亜の声に有栖は再びヒクリと頬を引きつらせる。
 訪れた3度目の沈黙。
「・・・・それで・・どう思います?」
 やがて耐えかねたようにそう切り出した有栖に3人は3様の渋い表情を浮かべた。
「・・・・まぁ・・年の差は個人の趣味の問題やしな。それで、その・・質問の答えやけど。今考えられることは3つある。一つは彼女が他の男になびく筈がないと男の方に余裕がある場合」
「・・何かそれって嫌味な感じ」
「まぁ、黙って聞け。二つ目は7つも年が上っていうんが邪魔をしてどうしたのか聞けずにいる場合」
「うん・・年上のプライドっちゅうのもあるやろうしな」
「で、三つ目が・・・これはあんまり言いたないけど・・」
「モチさん?」
「・・ああ・・・えーっと・・な。その・・相手が本気じゃない。どうでもいいと思うてる。もしくは、男の方にしたら恋愛やなくて妹みたいな存在として思われとるっていう可能性もある」
「・・え・・・!?」
「せやから・・どういう付き合いをしとるのか分かれへんから、これはもう何とも言えへんけど、可能性の問題として、遊ばれとるんやないとええなぁ・・って・・」
「・・そんな・・だって・・」
 みるみる蒼くなっていく有栖に望月は慌ててつけくわえる様にして口を開いた。
「いや、まだそうと決まった訳やないし」
「そうよ、アリス!年の差はあっても真剣に付き合ってるのかもしれないでしょう?」
「せや。仮定やで、仮定!!」
 次々と向けられる言葉は、けれど半分も有栖の耳には届かなかった。
(・・・遊ばれてる・・・恋愛の対象として思われていない・・・?)
「いっその事、どうして何も訊いてくれへんのかぶつけてみるのも一つやで?モチが言うとった1番目も2番目も十分考えられるしな」
 織田の声がジワリと胸に染みた。
 何故何も言ってくれないのか。どうしてあれからどうしたと尋ねてはくれないのか。
 再び脳裏に甦る、あの日の江神の微笑み。
「・・・何で・・笑ったんやろ?」
「アリス?」
「・・・・っ・・」
 本当に弟のようにしか思われていなかったらどうしよう・・。
「・・すみません。なんか・・ちょっと・・。帰って考えてみます。アドバイス、有り難うございました」
「いや・・あの・・従姉妹さんによろしくな」
 なんとも言えない雰囲気の中、有栖はヨロヨロと出口に向かって歩き出した。
 その後ろから聞こえてくるワアワアとした、にぎやかな声。
「ちょっとモチさん!よけいショックを受けちゃってるじゃないですか!」
「そんなん知るか!俺は仮定を言うたまでの事や!」
「けど、あれはきつかったよなぁ。そうとう可愛がとる従姉妹なんやろなぁ」
「ちょっと待て!それじゃおれが悪者みたいやないか!」
「何もそうは言ってませんよ」
「そうやで」
「どこがや!十分言うとるわ!」
 背中から聞こえてくる声はまだ止まない。
 辿り着いたドア。
 ふぅと零れた溜め息。
 その瞬間。
「なんや、外まで聞こえるで。随分と賑やかやな」
「!!!」
 トンと肩に置かれた手と、聞き慣れた声に振り返って。
「!!・アリス!?」
 いきなり溢れた涙で滲んだ瞳に映ったのは、おそらく初めて見る江神の驚いた顔だった。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「ほらコーヒー」
「すみません」
 久々に訪れた江神の下宿は、GWの前に来た時と少しも変わらずに有栖を迎えてくれた。
 あの時は何も不安な事はなくて、ただ幸せで笑っていられた。なのに僅か半月足らずでどうしてこんな事になっているのだろう。
 受け取ったコーヒーカップをぼんやりと見つめていると、再びジワリと涙が浮かんできて、有栖はスンと鼻を啜った。
 そう・・学生会館の出入口で鉢合わせをした江神の顔を見た途端、有栖は思わず泣き出してしまったのだ。だがそれを見て驚いたのは江神だけではなかった。およそ似合わない、彼の焦った声と
表情に慌ててやってきた3人は声と顔を引きつらせながら言ったのだ。
 曰く・・・
「江神さん、有栖に何かいいアドバイスをしてあげてください!」
 こうして奇しくも織田が言っていた“いっそのことぶつけてみる”というシチュエーションがなし崩しに成立した訳である。
 何のアドバイスをどうすればいいのか。訳も分からぬまま江神は「とりあえず下宿にくるか?」と有栖に言った。
 その優しさと、仲間たちの「そうした方がいい!!」という言葉に後押しされて、やってきたのだが、有栖にはすでにどうしたらいいのか判らなくなっていた。
 一体何をどう話せばいいのだろう。
 望月たちに話した架空の従姉妹の話をした方がいいのか。それともあの日は・・といきなり切り出して・・・それで万が一“弟のように”等と言われたらどうしよう。
 それならば、何故あんな風に抱いたのか。
 好きという気持ちは本当に自分だけなんだろうか。 それとも“好き”であっても自分の好きと、江神の好きには差があるのだろうか。
 自分ならば江神が他の誰かから手紙を貰っていたら、絶対に、絶対に、絶対に嫌だと思うのに。
 他の誰にも渡さないと思うのに・・・!
「それで、どないしたんや?何か悩んどる事があるって言うてたけど」
 言いながら取り出されたキャビン。
 目の前で銜えたそれに火を点けると、次いでユラリと白い煙が上がった。
「・・・・」
「・・・アリス?」
 本当に違うのだろうか。
「どこか具合でも悪いんか?」
 名前を呼ぶ声も、向けられる眼差しも、何も変わらないのに何かが変わってしまったのだろうか。
 それとも始めから違っていたのだろうか。
「・・何やほんまにおかしいな。熱でもあるんか?それともそんなに深刻な悩みなんか?」
 吸いかけのキャビンを灰皿の上に置いて、江神は有栖の顔を覗き込んだ。その途端、再び江神が表情を驚きに変えた。
「・・・・アリス?」
 零れ落ちた涙。
「・・・・・・・そない悲しい事なら泣きたいだけ泣いたらええよ」
 訳も聞かず抱き寄せられた身体。
 包まれるぬくもりに縋り付くように背中のシャツを握ると、トントンとひどく優しく肩を叩かれた。
「・・・・・っ・・江神・・さ・・」
「なんや?」
「・・っく・・えが・・さ・・ん」
「うん」
「好き・・」
「・・ああ」
「好きや・・好き・・」
「アリス」
 繰り返される、宥めるような肩を叩く手。
 まるで小さな子供が母親に慰められているようなそんな状況の中、有栖は再び小さく口を開いた。
「・・・だから・・」
「うん・・?」
「だから・・僕を嫌いにならないでください・!」
「・・・・・何やて!?」
 そうして本日3度目の江神らしからぬ慌てた声を上げさせた後、更に・・・。
「僕を・・僕を・・捨てんといて下さいー・・」
「!!!」
 出会って初めての絶句に追い込んだのである。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「すみませんでした・・」
「嫌い、で捨てるやなんて・・。ほんまにどこをどうしたらそう言う事になるんや」
 すでに半分ほど減ったキャビンの箱の中から新たな1本を取り出して、江神はどこか疲れたように銜えたそれに火を点けた。
「だって江神さん何も言われへんし・・」
「せやから、さっきも言うたように何か、手紙みたいなもんを渡されたんわ見えたけどそれがラブレターとは限らんやろ?」
「・・・その後に笑わはるし」
「・・あんまり情けない顔して見とるから、大丈夫やでってつもりやったんや」
 もう何度目かになる同じ説明を口にして江神ははぁと溜め息をついた。
「・・江神さん・・?」
 その溜め息にさえビクリと反応して有栖は恐る恐る顔を覗き込んで様子を窺う。そうして視線のあった瞬間、泣き出してしまいそうにクシャリと歪めた顔に江神はもう一度胸の中で溜め息を落とした。
 訪れた短い沈黙。
 やがて吸いかけのキャビンを灰皿に置くと江神はゆっくりと長い髪を掻き上げて口を開いた。
「・・・そんな顔をするんやない。・・せやから・・ああ・・だから・・大人気ないやろう?あれはなんや、これはどうしたって細かい事を一々訊いとったら・・・その・・嫌がられるかもしれんと思うたんや」
「!!!」
 その途端、有栖は思わず目を丸くしてしまった。 今の言葉は本当に江神が言った言葉なのだろうか?自分の都合のいい空耳なのではないだろうか。
 だが、しかし、けれど・・・
「・・え・・がみ・・さん?」
 目の前のこれもまた初めて見る、バツの悪そうな表情がそれが現実だと言っていた。
 本当に、本当に、そんな風に思われていたのだと伝えてくる。
「あんまり束縛されたら嫌やろ?」
 どうしてこの人はそんな事を言うのだろう。
「・・江神さんは束縛されるのは嫌ですか?」
「え・・?」
「僕はいいです」
「アリス!?」
「江神さんに限ってならいくらでも束縛されたいです」
「・・・・・・・」
 本日2度目の絶句。
 やがて江神はほとんど吸わないまま灰皿の上で灰にキャビンを揉み消すと、その右手でアリスの髪をクシャリと掻き回した。
「・・全く反則や」
「江神さん?」
「完敗や・・アリス」
「・・・?」
 一体何を言っているのだろう。
 だがその答えはすぐに判った。
「・・まだ日が高いけど・・声、抑えられるか?」
「!!!」
 バッと鮮やかに顔が赤く染まった。
「ええええ・・江神さん?」
「束縛させてくれるんやろ?」
「・・・・・・」
 本当に・・やっぱりこの人には勝てない。
 ふと見た窓の外は言葉の通りの青い空。
 日が暮れるまでにはまだ間がある。
 けれど、でも・・・。
 
 春うらら。
 温かな春の日差しに花が咲く。
 満開を誇るように花は、咲く。
 けれど季節の雨にその花が散らされても、春の日の光の中で新たな葉が輝いて伸びて行くのだ。
 翌年により美しく咲くために・・。
 
「アリス?」
 重なる視線。
「頑張ります・・!」
 その途端、大好きな微笑みが「よろしく」と言いながら近づいて来て、ゆっくりと重なった唇の向こう、シャッとカーテンの引かれた音が聞こえた。
                   
 

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追記
 翌日、すっかり機嫌の直った有栖を見た3人が一体どんなアドバイスをしたのか。やはり江神はすごいと尊敬を新たにしたのは言うまでもない事だった。 
               
   


やはり学生編は甘やかしがポイントですね。ふふふ…。Hがなくても十分照れる(*^_^*)