インプリンティング

「アリスって本当に甘やかされてるわよね」
「・・え・・?」
 相も変わらぬ学生会館の2階。あまりにも唐突なその台詞に法学部2回生の有栖川有栖は驚いたように顔を上げた。
 訪れた沈黙。
 その数瞬後、同学部・同学年でついでに同サークルの“マリア”こと有馬麻里亜は大きな大きな溜め息をついて信じられないと言うように再び口を開いた。
「自覚ないの?アリス」
「自覚って・・・」
 勿論自覚があれば驚いたりはしないのだ。
 大体はじめの台詞の意味も分かっていないのにそんなものがある筈もない。
 そんな声にならない有栖の答えを聞いかのように彼女は2度目の溜め息を漏らした。
 再び落ちる沈黙。
 その気まずい時間の中で有栖は必死に理由を考えていた。一体全体自分は誰に甘やかされていると言うのだろう。そして、どうして突然そんな話題が登ってしまったのか。
 麻里亜がそれに思い当たった経緯に至っては丸っきり判らないけれど、もしかするとふとした瞬間に何かを思い出したのかもしれない。
 そこまで考えて有栖は唯一可能性のある理由に思い当たった。彼等が所属するEMC(英都大学推理小説研究会)のメンバーの中で有栖はただ一人の自宅通学者だった。もしかすると何か嫌な事があってそんな風に切り出したのかもしれない。そう考えるとそれはひどくもっともらしい理由に思えて、有栖は小さく息を吸って口を開いた。
「・・・あの・・下宿とかで何かあったんか?」
「何もないわよ」
 話を聞く位なら出来る、そんな気持ちで口にした言葉はにべもなく切り捨てられてしまい、瞬時に有栖の手持ちの札は再び0に戻る。
 容赦なく訪れた3度目の沈黙。
 けれど僅かな時間のそれを破ったのは麻里亜の3度目の溜め息だった。
「マリア?」
「本当に気付いてないっていうか、無意識なのね。まぁこれはアリスのせいだけじゃないし。って言うかどちらかって言えば江神さんの責任かもしれないわね」
「江神さん!?」
 出てきた名前は有栖が思ってもいなかった名前だった。
 『江神さん』こと江神二郎は文学部4回生の7つ年上の先輩で、EMCの部長でもある。
 それでは自分は彼に甘やかされていると言われているのだろうか・・・。
「何で?」
「何でってさっきまで一緒に話してたでしょう?」
「そんなんマリアも居たやないか」
 そう。あの台詞の少し前に彼はバイトがあるからとラウンジを出て行ったのだ。
「それで約束とかしてたじゃない」
「約束って・・古本屋巡りは前からの約束で」
「バイトが入ってすまないとか謝ってたし」
「せやから予定を変更してただけやろ?」
「うちに来るとか来ないとか夕食はどうするとか」
「それも決めとかな困る事やないか!」
「でもね、そういう細かい事の一つ一つが妙ーにこう・・ラブラブのカップルを目の前にしているような、新婚家庭を彷彿させるような、そんな気持ちにさせられるのよ」
「何でや!?」
 思わずグラグラとする頭。
 どうしてそれで“ラブラブ”で“新婚”なのか、有栖にはその方が聞きたかった。
 けれど有栖のそんな思いは麻里亜の次の言葉で一気にとどめを刺される事になる。
「だってインプリンティングとか言われてるのよ」
「は・・・・?」
「ほら、ヒヨコが初めて見たものを親だと思って後をついてゆくっていうあれ。きっとここに来て初めて接した先輩が江神さんだったから懐いちゃったんだろうって」
「・・・・・それ・・誰が言うてるん?」
 聞くのも恐ろしい事を人は時として聞いてしまう事がある。ドクンドクンと早まる鼓動。
 グラグラからガンガンとドラを叩かれている様になっている頭を抱えて有栖は麻里亜を見つめた。
「んー・・・誰って友達とか、同じ講義を取ってる子とか、結構居るわ」
「・・・・・・・・・」
「だからアリス、ちゃんと自覚をしなさい。このままだとヒヨコ扱いよ」
 勿論有栖に返す言葉はなかった。
 
 
 
 
 
 
 
「どないしたんや?」
 西陣にある江神の下宿。
 もう幾度となく訪れたそこで借りた本をボーっと眺めたままの有栖に江神は小さく声をかけた。同時に出されたコーヒーの入ったマグカップ。
「あ・・・・有り難うございます」
 それを両手で受け取って、有栖はチラリと目の前に腰を下ろした男を盗み見た。
“甘やかされてるわよね”
 脳裏に甦る麻里亜の言葉。と同時に漏れ落ちた溜め息を江神が聞き逃す筈がなかった。
「何や具合でも悪いんか?」
 言いながら額に伸ばされた手はひんやりとして気持ちがいい。
「・・・何でもないです」
「そうか?」
 そう短く言って離れた手に有栖は小さく俯いてしまった。
 僅かな沈黙。
 やがて有栖の耳にカチリと煙草に火を点ける小さな音が聞こえてきた。ついで漂ってくるキャビンの香り。
「・・・・・・」
 その香りに誘われるようにおずおずと顔を上げ他途端、揺れる煙の向こうに真っ直ぐに見つめてくる瞳を見つけて、有栖は何だか悪戯を見つかった子供のような気持ちにさせられてしまった。
 再び俯いた顔。そして・・・
「どないしたんや?アリス」
 繰り返された問い掛けに思わずクシャリと顔が歪んだ。
 胸の中に申し訳ないと言う気持ちと情けないと言う気持ちが交差して絡まる。
「・・・・・ヒヨコやて・・・」
「・・・は?」
 あまりにも突然の、そして脈絡のない有栖の言葉に江神は昼間の有栖と同じような声を上げてしまった。
 それが何だかおかしくて、有栖は少しだけ浮上した気持ちで言葉を繋げた。
「言われたんです。すり込み現象のヒヨコと同レベルやて」
「・・・・」
「江神さんもそう思いますか?」
 問いかけの内容はあまりにも低次元だったが、有栖にとっては大きな問題だった。20にもなる男がヒヨコ扱いされているのだ。付け加えられた“ラブラブ”や“新婚”は「何やそれ?」でもヒヨコはちょっと否かなり胸に突き刺さっている。
「・・・・・ちょっと待て。誰が誰に対してインプリンティングされとるんや?」
「・・・・僕が、江神さんに対して、だそうです」
「・・・・・」
 答えを聞いて江神は灰皿に長くなった灰をトンと落とす。ついで吐き出された煙。
「それでアリスはショックやったんか?」
 その言葉は何だか少しだけ笑いを含んでいる様にも思えた。
「・・・ショックって言うか・・そんな風に見られてるって言うのに驚いたって言うか・・・」
 次第に小さくなってゆく言葉に、有栖は持ったままだったコーヒーを思い出したようにすすって、コトリとテーブルの上に置く。
「・・・それに甘やかされとるって・・」
「・・・・それも言われたんか?」
 ユラユラと立ちのぼる紫煙。今度の言葉は先程よりもはっきりと笑いを滲ませている。その証拠に江神の顔には微笑みが浮かんでいた。
「・・・・やっぱり甘やかされてるんでしょうか」
 当の本人にそれを聞くのもどうかと思うが、何となく口惜しくて有栖は敢えてそれを問い掛けた。
 けれど、でも・・・
「アリスはどう思う?」
 返ってきたのは楽しげな問いかけで有栖はムッとしたように唇を尖らせた。
「・・・・・そんなん判ってたら聞きませんよ」
 そう。それが判ればこんなに悩まない。
「そうか。それなら質問を変えよう。アリスは甘やかされるのは嫌か?」
「え・・・」
 それは思ってもいない質問だった。絶句する有栖に江神は更に質問を増やす。
「俺に甘やかされるのは嫌なんか?」 
ちょっとこれは反則だと有栖は目の前の尊敬した止まない先輩を睨みつけた。
「嫌とかそう言うんやなくて・・」
 顔が熱く、赤くなって行くのが判る。
 口惜しくて、恥ずかしくて、情けなくて・・・。
「・・それじゃやっぱり甘やかされてるんですか?」
「さぁ、どうやろな」
 ニヤリと笑う顔が何だか憎らしくて。でも、何故だか妙に嬉しい気がするのはなぜなのだろう?
「・・江神さんはぐらかしてずるいです」
 有栖の言葉に江神はクスリと笑って短くなったキャビンを灰皿に押しつけた。そして・・・・。
「まぁそない拗ねるんやないって。ヒヨコかてそのうち鶏になるんや。もしかすると、白鳥にだってなれるかもしれへんよ」
「・・・僕は醜いアヒルの子ですか!?」
 途端に吹き出すように笑い始めた江神を真っ赤な顔で有栖が怒鳴る。
 そうして心の何処かで甘やかされるのも悪くはないなどと思いながら、有栖は当分その答えは口にするまいと、堅く堅く誓ったのだった。

エンド


自分的にはオチが好きな一作です。でもアリスって何となくインプリされてる感じですよね。