格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 9  
 

  眉間に皺を寄せたままの火村に有栖は一つ息を吐いて再び口を開いた

「こんな余裕のない君を見たのは初めてや…」
 言いながらそっと
頬に触れた指。
「ああ、ごめん。ここ…痣になりそうやな」
 先ほど抵抗した時に有栖の手がぶつかったところだ。

「………馬鹿か…」

 火村は何故だか泣き出したくなってしまった。どうして別れようとしている男に有栖はそんな事を言うのだろう。

 好きだと言って、一度は受け入れられて、そしてみっともなく振られてしまうのは自分の筈なのだ。

「俺はこれ以上のひどい事をお前にしただろう…?」

「…何や…自覚があるんか…」

 クスリと漏れた笑い。その途端有栖の顔が小さく歪む。

 それに気付いて火村は最前とはうって変わった様子で横たわった身体を慎重に抱き起こした。

「…すまん…」

「ちゃうわ。謝ってほしいって言うたわけやない。俺は理由が知りたいって言った筈や。それと何であいつと会うたの知っとるんや?」

「………そうだな。偶然…だ」

「偶然て…まぁ…ええけど。じゃあ、知っとるんやろ?西尾の事」

 腕の中で他の男の話をする有栖に再び湧き上がってくる苛立ちを今度はしっかりとねじ伏せて、火村は「西尾って言うのか」と呟いた。

「さっき電話があったやろ。うまく言ったんや。良かったな」

「………」

「そのうち機会があったら君にも話そうと思うとったんやで」

「…紹介するつもりでいたのか?」

「え?…ああ…まぁ…照れるけど、君がそれでええなら」

 微かに赤く染まる顔にジクリと胸が痛む。

「…それでいつからなんだ?」

「何?」

「そいつと会ったのは」

「…ああ…えーっと高校の時の友達で、この前君に電話した時」

「それで?そんなに短期間で話が進んだのか?」

「君……一体何を言うてるんや?」

 信じられないと言うような火村の声に有栖は訝しげな顔を上げた。

 どうもまた話が食い違い始めたような気がするというか、まったく噛み合っていない気すらする。それにおいうちをかけるように火村が顔を歪めて口を開いた。

「…紹介なんてしない方がいい」

「火村…?」

「今みたいに何をしでかすか判らないぜ?」

「何言うて…」

「俺は好きな奴の幸せを遠くで祈るっていう程おめでたくないからな」

「…ちょっと待て。何言うてんねん」

 やはり話がおかしくなってきている。有栖は慌てて支えられていた火村の腕の中から身体を離した。

 途端にひどい痛みが身体を走ったがそんな事を言っている場合ではない。さすがの有栖もそれは判った。

「何で君が遠くで幸せを祈らなあかんねん」

「そうは出来ないって言ったんだ」

「だから!何でそないな事考えるんや!?」

「………あいつが好きなんだろう?」

「…は…?」

 苦いクスリを我慢して飲む子供のようにその言葉を口にした火村に有栖は思わず絶句してしまった。

「……誰が?」

「お前が」

「…誰を?」

「西尾って奴を」

「…ちょっと…待て!何でそんな事になっとるんや!?」

「そんなもこんなも俺は『コキュ』になるつもりはさらさらないからな。今更離せるくらいならはじめから好きだなんて言わない。誰にも渡せない。だから離れるなら
俺を殺して行けよ」

「………」

「そうじゃなければ俺はどんな事をしてでもお前を縛り付けるから」

「………」

 ジョージの言っていた『仲直り』とも『話をする』ともだいぶ違ってしまったが言いたい事を言った気がして火村は呆然としているような有栖を見て、今更ながら顔を
顰めた。破れたシャツだけをかろうじて纏っているその姿が、自分がやった事だというのに痛々しくて、勝手極まりないがしっかりと服を着たまま、まるで排泄のような
扱いを彼にしてしまった自分に怒りさえ覚えた。

「……っ…」

 着ていた上着を素早く脱いで有栖に羽織らせると火村は「クスリを探してくる」と立ち上がった。

 勿論今日はさすがに泊まる気はないが、有栖をこのままにして帰る気もなかった。

 けれど離れてゆこうとする火村の腕を今度は有栖が掴んで止める。

「…アリス?」

 驚いたように立ち止まった火村の前で有栖は怒りに顔を歪めて口を開いた。

「ふざけるな」

「……」

「何が『コキュ』で、殺して行けや!人の事をなんだと思うとるんや!!」

「……おい…」

「大体何で俺が西尾と寝なあかんねん!!」

「……アリス…」

「君は!君は俺が誰とでもそんな事をする人間やと思うとるんか!アホんだら!!!!」

 着せ掛けた上着が言葉と一緒に投げつけられた。
「アリス!」
 反射的に伸ばした手。
「触んな、ボケ!」
 その途端、有栖の平手が火村の頬を打った。

「……っ…」
 はじかれたように顔を上げた火村を有栖は泣き顔のような表情で睨んでいた。

「痛いか?当たり前や!俺はもっと痛かった!!何かしたんやろかって思うた俺が馬鹿やった。ほんまに…何で…こんなん…出来るか…アホ…!」

 途切れ途切れの言葉に火村は目の前の身体を抱きしめた。
「アリス、アリス」
「離せ!クソボケ!!もう、もう…君なんか知らん!!」

 その腕の中でひどく弱々しい抵抗を繰り返す有栖に、火村は自分が思っている以上にとんでもない事をしてしまったのかもしれないとその身体を抱きしめる手に
力を込めた。

「アリス…」

「うるさい!」

「アリス…」

「やかましい!勝手にコキュにでもなんでもなっとけ!」

「…アリス…」

「知らん…もう…大嫌いや!!」

 こめかみに、髪に、涙の止まらない瞳に宥めるような口づけを繰り返して火村は落ちていた上着をもう一度有栖に着せ掛けた。

「…悪かった」

「………」

「……ひどい事をした」

「…違う。そんなんはもうええねん…」

「ああ…。疑ったりした俺が馬鹿だった、許してくれ」

「…………うん」

 それが今回の真実なのだろう。

 何がどうしてどうなったのかは全く判らないけれど、有栖が自分に対してだけなのだと言う事は疑う余地がないのだと言うことは判った。

 トクントクンと次第に落ち着いてくる鼓動を感じながらそっと背中をあやすようにさすっていると有栖がゆっくりと口を開いた。

「…ほんまはな…頭にきたけどちょっとだけ嬉しかってん」

「………」

「誰にも渡さないって言われたのも、どんな事をしても縛り付けてやるって言われたのも嬉しかった。君もアホやけど、俺も大概アホやな…」

 くぐもった声でそう言われて、少しだけ身体を離して顔を見て、引き寄せられるように口づけた。

「……あいつの恋人が見合いがあるけどどうしたらええかって訊いてきたんやて」

「……」

「あいつ好きなようにしたらええって言うてもうて、えらい落ち込んでたんや。それで話を聞いて、焚きつけた」

「…アリス?」

「あいつの恋人、准教授なんや…」

 少しだけふてくされたようなその言葉に火村はようやく全ての謎が解けた気がした。

 見合いの話を持ち出された事も。喫茶店での会話も、先程の電話も、有栖の君がそれでいいなら紹介をすると言った事も全てがとけて一本の糸になる。

「…キスしていいか?」

「…何やねん…今更」

 上げた顔が一瞬で赤く染まって行くのを火村は見つめていた。そうしてその後でゆっくりと頷いた顔にひどく優しい口づけを落とす。

「…ふ…」

 落ちた吐息とひどく扇情的な赤い顔。

「…アリス」

「…何?」

「好きだ」

「!」

「…好きだ、アリス」

「…俺も」

 背中に回した腕がしがみつくようにその指先に力を入れて、お互いに引き寄せられるように唇を合わせた後で先程“凶行”と呼ぶにふさわしい事があったその床に
倒れ込んでいた。

「…は…」

「ひどくしないから」

「…アホ…っ…」

「アリス…」

「…ぁ…」

 漏れ落ちた声が自分のものではない様な気がした。

 それに煽られるように火村は自分が着せ掛けた上着を脱がして、引き裂いたシャツに手を掛けながら胸のそこここに口づけを落として行く。

「…や…ぁ…」

 自分でも驚くほど早く身体に火がついてゆく。

 上がって行く息。

 早まる鼓動。

「…このままでしたら…殴る…」

 脱いでいないシャツの袖を引かれて火村は小さな苦笑を浮かべた。

 愛して止まない恋人の可愛らしい“お願い”に答えるべくすばやく服を脱ぎ捨てて再び肌を重ねると先程傷つけてしまったそこを確かめるようにして火村はそっと舌を
這わせた。

「!!や…」

「……悪い」

「謝るな、アホ!」

 思っていた以上にひどい傷になっているそこは、これ以上この行為を続ける事が無理であると火村に伝えていた。今更ながら湧き上がる罪悪感。

 とにかくやはりクスリをつけるのが先だ。

 そう思った途端それが聞こえたかのように有栖は火村の手を掴んで首を横に振った。

「嫌や」

「…なに?」

「いいから…その…」

「出来るか、馬鹿。じっとしてろクスリを持ってくる」

「嫌や!後でいい。どうせつけるなら…してからでいい」

「あのなぁ…」

「いいって俺が言うとるんやで。は…早く…きて」

「……」

 真っ赤な顔で紡がれた言葉に火村は泣き笑いの様な表情を浮かべた。それに有栖がクスリと笑う。

「何か…ほんまに今日は大発見や。そんな情けない顔初めて見た」

「言ってろ、馬鹿」

「…馬鹿はお互いさまや」

 言いながらおずおずと広げられる足に、込み上げてくる嬉しさとも、切なさとも、愛しさともつかない思い。
 今度はその表情を見られぬように火村はそっと有栖に口づけを落とした。
そうして次の瞬間ゆっくりと重ねた身体に、落ちる痛々しい声を聞きながら、火村は確かに
自分は情けなくて、格好悪い事この上ないと思った。

 けれど、でも…。

「あ…あ…火村…」

「…アリス」

「…ん…ぁ…」

 部屋の中に漏れる甘い声。

 繋がったそこから溶け合ってしまうようなそんな甘い錯覚の中で、それでも有栖が好きだと言ってくれるのだからいいのだとそんな都合のいい事を考えて、火村は腕

の中の身体を掻き抱いた……










 結局その翌日、有栖はベッドから起きあがる事が出来なかった。

 初めての時のようにこれでもかと言うほど世話を焼いて、甘やかして、日曜に夜ではなく月曜の朝、火村は京都へと帰ってきた。

 理由は帰りたくなかったという実に単純明快なものだが、もう一つの理由は日曜の夜に西尾という男からかかってきた2度目の電話だった。

 電話を受けた有栖はチラリと火村の顔を見ながら「おめでとう」と言っていた。どうやら完璧に旨くまとまったらしい。となると自分が恋人を置いて帰るという事が
ひどく理不尽で、不愉快で、泊まる事にしたのだ。

 今朝、玄関先で「次は火曜日だな」と笑ってキスをすると有栖は顔を赤くして「しっかり仕事をしろ」と怒鳴った。
それに今度は了解のキスを送って火村は素早くドアを閉じた……。

 

 

 




◇◇◇◇◇ 

 

 

 
 

 

 

 京都、英都大学の相変わらずの研究室。

 窓の外は金曜日よりも又少し鮮やかになった新緑が明るい日差しの中で揺れていた。

 これから夏に向かって、その色をより鮮やかな深い緑に変えて行くのだろう。

 この休み中、ベッドで横になる有栖の傍らで不本意ながら仕事を広げつつ火村は色々な話をした。

 大体なぜそんな喫茶店にいたのかという質問にフィールドワークで呼ばれたというと「何で声をかけてくれへんねん」と拗ねられた。
そう言えば有栖を抱くきっかけになったのはそれだったのだと今は薄くなった有栖の腕の傷を見て思い出した。

 出来上がったという原稿も読んだ。日付の間違いを一つ見つけてからかった。

 そしてジョージの話もした。勿論仲直りだの愚か者だの恋人の噂だのの事ではなく、以前ご馳走になった和菓子のお礼に【麩饅頭】をご馳走したいと言っていた
と言うと目を輝かせて「是非」と伝えておいてくれと言っていた。もっともわざわざ呼ばなくとも多分そのうちに『火村先生は恋人と仲直りをして絶好調だ』等と
いう噂を伝えに件の英国紳士はやってくるに違いない。

 そうしたらとりあえず【麩饅頭】の件を伝え、その後で「助言を有り難う」と言う代わりに「格好悪くても、情けなくても、好きだと言われた」と惚気てみようか。

 それを聞いた日本語の達者な英国人は何と言うだろう。ニヤリと笑って「ご馳走様」とでも言うだろうか。

「…さてと…」

 小さく声を出して、キャメルを取り出して火を点けると、火村は窓の外の風景から視線を外して、やっぱりちっとも進まなかった仕事に視線を移した。

「そうだ。マドレーヌのレシピも聞かなきゃな」

 きっと有栖は喜ぶだろう。ついでに英国人にもお裾分けをしておこう。これ以上噂を広げられるのは適わない。
 頭の隅で火曜の夜の献立を考えながら、火村は今度こそ広げたレポートに目を落とした。 


FIN






ありがとうございました<(_ _)>