食いしん坊万歳


 夏風邪はバカがひくと言われている。
 だから秋に風邪をひくのは馬鹿ではない。
「くだらねぇ屁理屈こねてるんじゃない!・・ったく!いつひいたって馬鹿は馬鹿だ」
「・・・・馬鹿って言うな」
「言われたくなければ、言われないようにしろ」
 言葉と同時に額に乗せられた濡れタオルに、悔しいような、けれど有り難いような複雑な気持ちで私、有栖川有栖はホッと息をついて瞳を閉じた。聞こえてくる小さな溜め息。
 何がどうしてどうなっているのか、話は10日程前に遡る−−−−−−−−・・・。
 
 
 
『ああ?何だって?』
 受話機から聞こえてくる、他の人間が聞いたらよほど不機嫌なのか、もう怒っているのかというような声。
 それに慣れた調子で私は今さっき言った言葉を繰り返す。
「もう耳が遠くなったんか?せやから、いい店を見つけたから食べに行かんかって誘ったんや」
『その後だ。その後』
「後?」
『お前こそもうボケが始まってるんじゃねぇのか?痴呆症になるにはまだ少し早い気がするぜ?』
 イライラとした色を泌ませつつも、嫌味を忘れない電話の相手は学生時代からの長年の友人であり、母校の社会学部で教鞭をとる火村英生助教授である。
「やかましいわ。後って・・俺は食べに行こうって誘っただけやで?。君こそ幻聴でも聞いたんと違うか?」
『お陰様で幻聴も難聴もねぇよ。場所だ、場所!ちょっと遠いけど何だって?』
「ああ、丹後。間人。間に人って書いて“たいざ”って読むんやて。日本語って不思議やなぁって思わへん?」
『・・・・・アリス』
「あーっとすまん、脱線してもうた。えっとな、カニすきや。カニ料理が11月から始まるんやて。とれたてのカニのフルコース。6500円っていうのはちょっと捨て難いやろ?」
『・・・・・・・』
「幸い原稿の方も10月終わりには上がっとるし、11月一番のりでカニ食べに行こう」
『・・あのなぁ』
「カニ嫌いやなかったよな?あ、それともちょっとだけずらして祝日にするか?」
『お陰様で仕事だ!大体どこのどいつが丹後半島の向こう側に日帰りでカニを食いに行くんだ!?そんな奴はお前位だ!』
 その瞬間耳に響いた声に私は思わず眉を寄せた。誘っている人間に対してその言い方はないだろう?
「せやかて、暇はあるかって聞いたらあるわけないってそっちが言うたんやないか。俺は別に日帰りでなくてもええんやで。その方がええなら宿の手配するけど」
『生憎どこぞの作家先生と違ってカニ食いに行く為に休暇が取れる程暇じゃねぇよ』
 ケッと音がつくような言葉と口調。瞬間私の中で何かがブチッと音を立てて切れた。
「・・判った。判りました!忙しい先生を誘って悪うございました。他を当ります」
『お前程暇な奴はそうはいないと思うぜ』
 ニヤニヤと笑う顔が見えるような気がした。
「余計な世話や!後で食いたかったって思うても知らんからな!」
『人の飯の心配をする前に自分の心配をしろよ、先生。まぁ、せいぜい無事に原稿が期日に上がっている事を祈っていてやるさ』
「!!言うてろ!アホんだら!!」
 かくして交渉は決裂に終わった。
 けれど、その勢いで何としてもカニを食べに行ってやると私は作家仲間に連絡をして、火村曰く“私のように暇な奴”を確保したのだ。
 悔しさ紛れに宿まで取ってしまうという念の入れようで、馬鹿にされないように原稿だって勿論頑張った。
 そう・・頑張ったのだ、本当に。
 だが、しかし、相手の原稿が上がらなければどうにもならない事もある。
 出発日2日前、かかってきた「すまん」を10回以上も繰り返す電話に、ショックがなかったといえば嘘になる。
 そうして途方にくれた私は、まさに“泣き面に蜂”の諺を地で行くように、ものの見事に風邪を引き込んでしまったのだった−−−−−−−−−−・・・。
 
 

 



「・・・38.6℃。飯は?」
 ピピッと鳴った体温計を有無を言わせず取り出して見た途端深くなった眉間の皴と、ついで聞こえてきた限りなく無感情で簡潔すぎる言葉に、私は顔を引き吊らせながら口を開く。
「・・・夕べから食ってへん」
 痛む喉から声を絞り出すようにして出した答えは、やはり助教授のお気には召さなかったようだ。
 ベッドの端に腰掛けたらしい火村の何度目かの溜め息が耳に流れ込んで、居たたまれない気持ちが倍増する。
「・・・・それで、原稿は終わっているのか?」
「終わっとる」
「ふーん・・食い物の力ってぇのは凄いもんだな、アリス。まぁ、もっともせっかく原稿が上がっても熱を出してカニを食えないんじゃ踏んだり蹴ったりだけどな」
 容赦のない言葉は怒りの表れ。それは分かっているけれど、人間、理解する事と感情にはいくばくかの隔たりがあるのだ。
「・・馬鹿にしに来たんか・・君は」
 熱のせいか、情け無さのせいか目尻にジワリと涙が浮かんだ。
 一瞬だけの、僅かな僅かな沈黙。
 そうしてその次の瞬間、火村はひょいと小さく肩を竦めた。
「まさか、それ程暇じゃねぇよ。そう言っただろう?電話で言っていた通り無事にカニが食いに行けるようになったのか確かめにだけさ。まさか高熱で倒れている作家先生の面倒をみる羽目になるとは思わなかったけどな」
「・・・それのどこが暇とちゃうねん!大体元を正せば君が行けへん言うたからやないか」
 火村が来たからこそ、自宅マンションで遭難という状況を免れた事を棚の上に上げ切って、私はベッドの中から目の前の男を睨みつけた。
「自分の体力の無さを他人のせいにするなよ。自分だけうまいもんを食おうとして罰が当ったんだ」
 再びカチンとくる台詞。
「俺だけとちゃうわ!」
 その途端ズルリと額から温くなった濡れタオルが滑り落ちた。
「アリス?」
「他の奴と行く約束したんやもん」
「・・ほぉ・・じゃあ高熱をおして有栖川先生は明日御出発か」
「行くか、アホ!お陰さんでそいつからは昨日原稿が上がれへんて電話が来とるんや!」
 半ば自棄糞で怒鳴った私に、火村は珍しくも一瞬だけ茫然として、次の瞬間思いきり吹き出したのだ。
「火村!」
 喉が痛い。けれど、そんな事は構っていられない。
 仮にも踏んだり蹴ったりの病人に対してこれはあまりと言えばあまりではないか。
「・・・おいおい、俺はお前のように暇な奴はそうはいないと言ったが、お前のような奴を探せと言った覚えはないぜ?。どうせ探すならただ単に“暇な奴”にしてお
けよ」
 言いながらも火村の笑いは止まらない。
「・・もうええわ・・どうせ・・どうせ、カニは食えへん運命やったんや。世話かけて悪かったな。お忙しい先生は早よ帰って仕事をして下さい。ご覧の通り、カニは食いに行かれませんでした・・!」
 熱は人間の感情のコントロールを失わせるらしい。
 グズグスとそう言って蓑虫よろしくベッドの中に潜り込んだ私に、火村はなぜか急に機嫌を直すとポンポンと宥めるように布団の上から肩(の辺り)を叩いた。
「拗ねるなよ」
「・・拗ねとらん!」
「カニなんかいくらでも食いに行けるさ」
「・・もうええって・・!」
「10日前のお誘いは無理だが、1ケ月位の余裕があれば考えてもいい」
「・・・・・・」
「カニは旨いよな、アリス?」
「・・・・・・」
 思ってもいなかった言葉にモソモソと布団の中から顔を出した私の目の前で、火村は胸ポケットからキャメルを取り出すと、何故かそのまま小さく舌打ちをしてそれをサイドボードの上に放り投げた。
 どうやら、一応は気を遣っているらしい。
「・・・・何や・・ほんまは君もカニを食いたかったんやろ?」
 照れ臭さ半分、本気半分の私の言葉に火村は僅かに鼻白んだように顔を顰めた。
 僅かな沈黙。
 やがて聞こえてきた小さな溜め息。
「とにかく、何か温かいもんを作ってやるからそれを食って、クスリを飲んで、寝ろ」
「・・うん。おおきに」
 素直にそう口にすると、火村は落ちたままだった額のタオルを持ってゆっくりと立ち上がり、次の瞬間、なぜかピタリとその動きを止めた。
「・・?・・火村?」
 重なる視線。そして。
「−−−−−!!」
 掠めるような口付け一つ。
「とりあえずの報酬な」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 とりあえずって何なんや!とりあえずって!
 ニヤリと笑う顔が憎らしくて、けれどなぜか優しいと思う自分が情け無い。
「・・風邪うつるで・・!」
 文句にならない言葉。
「うつらねぇよ。馬鹿じゃねぇから」
 肩を竦めて返される言葉。
「!!!せやから!夏風邪とちゃう言うとるやろ!」
 グルリと一周して戻った話題に「それなりの報酬は後日な」と言いながら部屋を出て行く、すっかり機嫌の良くなった助教授の背中を見送って。
 そうして私はひどく安心した気持ちになっている自分に呆れつつ、熱のせいだけではない赤い顔を布団に潜り込ませたのだった。

えんど



 
                     

おまけの話(笑)
 
『なぁ、焼き鳥食いに行かへん?』
「・・・・随分カニに比べて格が下がったじゃねぇか」
 研究室にかかってきた変わりばえのしない内容の電話に火村英生は思わず眉間に皴を寄せた。
 この電話の相手である、有栖川有栖が熱を出したのが10日前。
“秋風邪”だと言って譲らなかったそれも無事2日間で完治をし、予告をしておいた“それなりの報酬”を戴いたのは1週間前の事だ。
「カニはどうした、カニは」
『んー、短編とエッセイが入っとるから考え中。お忙しい先生には1ケ月前にアポを取らして貰うわ』
「よろしく頼むぜ、先生」
 嫌味に嫌味で返して、火村はゆっくりと机の上のキャメルに手を伸ばした。
「で?何で焼き鳥なんだ?」
『ええ店を見つけたんや』
「・・・・」
 それはひどく聞き覚えのある台詞だった。
「この前も確かそんな事を言ってたな。どこからの情報なんだ?」
 そう、確か件の“カニ”もそう言っていた筈だ。
『え?・・ああ、本や。本。グルメ誌って言うんか?何や片桐さんの所で・・って言うても勿論別の編集部やねんけど、創刊された雑誌で、よろしかったらどうぞって送ってくれたんや。これがほんまに旨そうなとこばっかりでな』
「・・・カニも、焼き鳥も“それ で見つけたのか?」
『?・・そうやけど。ちなみにな、鍋の店も載っててこないだ短編の事で電話がかかってきた時にその話が出て今度一緒に行こうって話になったんや』
「・・・・・・」
『火村?どないしたんや?おーい!』
「・・聞こえてる」
『なんや、急に黙るからどないしたかと思うやないか。で、焼き鳥どないする?因みに場所は二条の辺りや』
「ああ、行ってもいいぜ」
『そうか!』
 耳に響く嬉しそうな声。それを聞きながら火村は持っていた箱からキャメルを1本取り出した。
 そして・・・。
「それとアリス。その鍋の店、俺も連れて行けよ」
『・・へ?・・何で?』
「鍋料理が食いたいから」
『・・ああ・・判った』
「じゃあ、焼き鳥の方も、鍋の方も日程は任せる。決まったら連絡をしてくれ」
『うん・・・ほんなら又な』
 戸惑ったような色をにじませつつ“よぉ判らんけどまぁええか”というように切れた電話を火村はゆっくりと雑多な机の上に戻した。そうして先刻取り出したキャメルに火を点けるとニヤリと笑って口を開く。
「まぁ、狙い所は悪くねぇけどああいう鈍感ははっきり言わないと通じないんだよな」
 どこか楽しげにそう呟くと、火村はフワリと白い煙を吐き出した。

今度こそおしまい