蚊取りブタ

 

 ブーン…。
 特有の羽音を響かせて飛ぶ真夏の小さな吸血鬼。
「ああ!取り損ねた!!」
 悔しそうな声を上げた有栖に、火村は『お前に捕まるほど間抜けじゃなったか』などとむかつく事を言う。
「なんやねん!君もぼんやりしてないで捕まえろ!」
「無益な殺生は趣味じゃないんだ」
「ふざけるな!くそぅ・・こんな事なら蚊取り線香を買うとくんやった」
「蚊取り線香ねぇ・・。閉め切ったこの部屋でそんなものを炊いたら燻煙状態だな」
「そんなん君の煙草よりはましや。何たって煙いだけやなくて蚊が取れる。君のはただ煙を吐き出して居るだけで壁は汚れるし、蚊も殺せへん」
 というか、蚊が殺せる様なものを吸っていたらまずいのではないか。頭の中に浮かんだ言葉をあえて口にせず、火村は肩を竦めてコメントを控えた。
 こういう時の有栖は駄目だ。何を言ってもまともに話が入っていかない。だが、長い付き合いこんな時の対処法を火村は良く心得ていた。
「蚊とり線香って言えば随分歴史があるって知ってたか?」
「・・・・・は?」
 突然の話題に有栖は眉間に皺を寄せた。
「例の渦巻きの蚊取り線香自体は明治に発明されたらしい。でも蚊取り・・ああ、その当時は蚊やりと言ったそうだが、それは江戸時代末期にはあったらしいとされている。実際な、元宿場町、内藤新宿(東京都新宿区)の武家屋敷跡から当時の蚊取り豚が発掘されているらしいぜ?」
「・・・何でそんな事知っとんねん・・」
 茫然とした顔の有栖に火村は教えて貰ったと言った。
「何でも、あの蚊取りブタはどうしてブタなのか。気になったら眠れなくなったらしい。色々な人間がいるよな」
「・・・・・・」
 全くだ。そんな有栖の様子に火村は更に講釈を続ける。
「で、その当時は除虫菊もまだ日本に来ていないので、“だいだい”や“杉の葉”を入れて蚊を燻し、追い払っていたんだそうだ」
「ふーん・・・そういや昔から蚊取り言うたらブタやんなぁ。でもほんまに何でブタなんやろ?」
 すっかり気が逸れてしまった有栖の様子に火村は改めて先程吸えずにいたキャメルに火をつけた。
「説は色々あるらしい。除虫菊を焚くのに使った土管が変形した。または一升徳利の底を抜いたものを使って焚いたから。火を使うため危険だから、火伏せの神の猪から変形した」
「猪?」
「発掘された蚊取りブタってぇのは口の部分が細くて一見ブタと言うよりも猪に似ているらしい。他にもブタは水神の使いと言われるから、火をつけて焚くそれに安全を祈願して、あえて使われたんじゃないかって説もある」
「あ、それは聞いた事がある。ほら、『西遊記』の猪八戒って居るやろ?あのブタの顔したの。あの前世は水軍大将なんやで」
「へぇ、そいつは初耳」
「そやろ?」
 すっかり機嫌を直した有栖の目の前でタイミング良く火村が目の前に来た蚊を叩いた。
「!取れたか?」
「もちろん」
 そう言ってティッシュで手を拭いて火村はニヤリと笑った。
「な?蚊取り線香よりも有能、確実だろう?」
「・・・・・・・・」
 やはり根に持っていたのか。そんな有栖の心の声が聞こえたかように、うまそうにキャメルをふかしたのだった。


ユリさん有り難う。この話本当に好きなんです。らしいですよね。