金木犀、香る


資料の本を捲りながらノートパソコンのキーを打つ。
そんな作業の繰り返しに英都大学社会学部助教授・火村英生はすでに残り少なくなったキャメルを取り出してゆっくりと口に銜えた。
突然の教授会の出席。遅れている上思うように進まない論文。
くさくさとした気持ちで銜えたキャメルに火を点けて、火村は殊更ゆっくりと白い煙を吐き出した。
音のない空間の中、ユラユラと揺れて消えてゆく煙。
それを何とはなしに目で追いながら、これも又何とはなしに肩など軽く回してみる。
こうしてみてはじめて火村は自分がひどく疲れている事が判った。
思わず浮かんできた苦い笑い。
そうして次の瞬間、火村はふと学生時代からの友人であり、何年か前から恋人になった彼・有栖川有栖の事を考えた。
前に会ったのは半月以上も前になるだろうか。
しかもそれすらがフィールドワークに誘った時で恋人として会ったのはどれくらい前になるのだろう。
疲れている時に会いたいと思える人物を火村は他に知らなかった。
そうして一度会いたいと思ってしまえばそれは果てのない欲求となる。
会いたい、声を聞きたい、抱きしめたい・・・・
「馬鹿か・・」
どうやら本当に思考回路がおかしくなりつつあるらしい。
吸いかけのキャメルを灰皿の上に押しつけて火村はコーヒーを淹れるべく台所に向かった。
時計の針はまだ10時を少し回ったところだこんな時間に寝てしまうわけにはいかない。
その途端「ニャー・・」という声と共に火村の鼻に甘い香りが届いた。
振り返れば小さく開いていたドアの所から飼い猫が一匹滑り込んでやってくる。
「どうした小次郎」
「ニャー」
「お前、何処で遊んでたんだ?」
よく見れば小次郎と呼ばれた猫の身体には沢山の小さなオレンジ色の花がついている。
「・・金木犀か・・」
香りの正体はこれだったのか。
そう言えば隣の家の生け垣にこの花が咲いていたのを思い出す。
普段の生活の中では判らなかったが、静かな秋の夜の中では、この花はこんなにも甘い香りを漂わせるのか。
「いい匂いだな・・」
思わず口をついて出た言葉と同時に階下から聞き慣れた声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げた火村の手から小次郎がスルリと逃げ出す。
そしてその替わりとでも言うように階段を上がる音が聞こえ間を置かず「火村ー、居てるかぁ」という何とも脳天気な声と共に開いたドアからは先程とは比べものにならないような甘い香りが押し寄せてきた。「久しぶりにこっちに出てきたから、ちょっと遅いとは思ったんやけど、宵っ張りの先生ならええかなと思うて」
にっこりと笑った顔。
手には土産らしい缶ビール等が入っているのだろうビニール袋。そして・・・
「それはいいけどな、その手にしてるのは何だ?言っておくがビールとかボケやがったら殴るぜ」
火村の言葉に有栖はコンビニのビニール袋を持つ手とは反対の手をややバツが悪げに上げて見せた。
何も言わない有栖に、思わず零れたわざとらしい溜息。
「・・確かに花盗人は罪にならないけどな」
「違う!折れて落ちてたんや」
「へぇ・・」
「ほんまに道端に落ちてたんや!そのままにしといて誰かに踏まれるよりこうして誰かに見て貰えた方がええやん。こんな小さいけどいい香りなんやで」
目の前に差し出された金木犀の一枝。
その甘い香りと、何よりも目の前にいる恋人に火村は感じている疲れが消えてゆくのを自覚してクスリと小さな笑いを漏らして、ゆっくりと口を開いた。
「ああ。そうだな。トイレの芳香剤にも使われてる花だ」
その途端、有栖は情緒がないだの、無神経だのと騒ぎ出した。
それを見つめて火村はいつもの笑みを浮かべてながらその身体を抱きしめたのだった。

エンド


同コンセプト・同タイトルでチラシに書いたショートショートです。
両方読んでいただければと思います。