すっかり夜の闇の中に沈んでしまったような古い町並み。
もう見慣れてしまった、木造の長屋のような家々が並ぶ小道を軽い足取りで歩きながら目の前に見えてきた目的地についつい笑みが零れる。
本を借りたいという申し出に返ってきたのは『9時近くなるけどいいか?』という確認の言葉だった。
問われたのではなくそれがすでに確認であった事が嬉しかった。
勿論異議などある筈がない。
『借り賃にビールを持っていきます』
その言葉に尊敬して止まない先輩、兼恋人は確信犯さながらに有栖の大好きな微笑みを浮かべて待っていると口にした。
そうして約束の9時近く。
「・・やっぱりポテチも買うてくればよかったなぁ」
何となく火照る頬を自分自身でごまかすようにして、有栖はそう呟いた。
その途端、フワリと鼻を掠める甘い香り。
「何やろ?」
何となくそれが何なのか確かめたくて、有栖は立ち止まったままキョロキョロと辺りを見回した。
そして香りの先がどうやら右前方の生け垣の当たりだとそろそろと足を動かす。
「花・・・?」
そう。それは深い緑の葉の中にひしめき合うように身を寄せて咲く小さなオレンジ色の花だった。
こんな小さな花からこれ程の香りが出るものなのか。
驚き半分、感心半分で有栖はそこに顔を寄せるようにして、屋根と生け垣の間で視線を奪われる。
「うわぁ・・・綺麗やなぁ・・」
ふとした角度で瞳に飛び込んできたのは秋の高い夜空に浮かぶ白い白い月だった。
「・・・吸い込まれそうや・・・」
一年の中で一番美しいと言われている仲秋の名月はもうとっくに過ぎてしまったけれど、それでも今夜の月も十分に美しい。
甘い香りの中、その元となる花の事をすっかり忘れ、有栖は丸い月に見とれていた‥‥
「遅くなってすみません!」
10分遅れで飛び込んできた年下の恋人。
ドアが開いた途端、読んでいた文庫本から顔を上げた江神はフワリと鼻を掠めた甘い香りに少しだけ不思議そうな表情を浮かべた。
そうして次の瞬間「すみません」を繰り返しながら近づいてきた有栖をゆっくりと引き寄せる。
「ええええ江神さん!?」
腕の中から聞こえる驚きと焦りを混ぜた声。
「なんやアリス。そこの角で月にでも見とれてたんか?」
「え・・」
何故判ったのか。
もしかして窓からその様子を見ていたのだろうか?
けれど、今通って来た道は江神の部屋からは完全に死角になっている筈だ。
それなら何故?
まさに口ほどにものを言う眼差しに江神はクスリと笑って口を開いた。
「アリスの事なら何でもお見通しってとこやな」
瞬時に真っ赤に染まった顔で「江神さん!」とどこか怒ったように有栖は言った。
けれどすぐさまその口で「ほんまですか・・?」と問い掛けてくる愛しい恋人を抱きしめながら、江神はそっと判らぬようにその柔らかな髪についたオレンジ色の小さな花をつまんで「ほんまや」と口にした。エンド