暑中お見舞い申し上げます

「・・・・・はぁっ・・?」
 夏の盛りの暑い暑い午後。
 『ちょっと友達のところに遊びに来たんやけど』と時間までの繋ぎに大阪在住の推理小説作家の有栖川有栖を呼び出したのは京都在住の同業者、朝井小夜子だった。
「はぁっ!?やないで。ほんまにそういう事があるんやから」
 天王寺駅近くの喫茶店。
 言いながらコーヒーフロートをかき混ぜていた長いスプーンをピッと立てて小夜子は小さく眉間に皺を寄せた。
 何の話なのか・・・。
 近況報告だの、仲間内の話だの・・・始めはそう言う話だったのだ。それが今後の予定になり、トリックがどうのという話になり、気付けばアメリカの裁判の話になっていた。そこで−−−−−−−−−−。


「どのくらい前やったかしら、アメリカのどこかで夫が冷たくなったとか言うて妻が刺し殺した事件。日本でもちょっと報道されたんやけど、覚えてへんよね?まぁ、結局奥さんの被害妄想やったらしいけど証言がえらい赤裸々で、ええの?そんな事言うて・・みたいな。法廷でいつしたとかしないとかやで?裁判官も忍耐やと思うたわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 この辺りから風向きはおかしかったのだと有栖は思う。
 その言葉にどう答えていいのやら。そんな有栖に構う事なく小夜子は言葉を続ける。
「でな、至った動機がまたふるってたんよ。『愛してるよ』って3日も言うてくれなかった!これやで!?」
「・・・・あ・・いしてる・・?」
「そう。言わなかったから殺されたん。あんたこんな動機で話書いてみ、私等一遍に干されてしまうわ」
「・・・・・・・・・」
 たしかにそれはそうだろう。犯行の動機が【痴情の縺れ】というのは往々にしてあるけれど、『3日間、愛してるって言ってくれなかったから』と出てきた日にはまさに“アホ言うてんやない!!”である。
「・・それは・・そうですね」
 ようやく口を開いた有栖に小夜子はフローとのアイスクリームをパクリと口に入れ、スッと目を細めた。
「けどな・・アリス。それだけやないんよ・・・・」
「・・・へ?」
「殺されるまではいかんけど、同じような事で訴訟が起こされとるん」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「恋人同士で“始めは毎日愛してるって言うてくれたのに、それがそのうち2日に一度になり、3日に一度になり、一週間・・・になった時に彼女が訴えた。言わないのは怠慢である!」
「・・・・・はぁっ・・?」
「はぁっ!?やないで。ほんまにそういう事があるんやから」
 こうして冒頭の部分に辿り着くわけである−−−−−−−−。



「その他にも“行ってきますのキスをしてくれなくなった”とか“始めは毎晩だったのに、そのうち週一になり、一ヶ月に一度もなくなって、これは夫婦の義務を怠っている!”だとか、極めつけが“恋人同士で一晩同じ部屋にいて何もなかったのは精神的に苦痛を味わい、女としてのプライドを傷つけられた”ってあんたどう思う!?」
 どうと言われてもどう答えればいいのだろう。
 判っているのはこれが昼間の喫茶店で話す内容ではないという事だけだ。
 周りからチラチラと向けられる好奇の視線に居心地悪く身体を動かした有栖に小夜子はフゥと息を付いた。
「・・・・実は今アメリカの民事訴訟についてちょっと調べもんをしててな。そうやないのも勿論あるんやけどこんなんがゴロゴロあって、ただでさえ煮詰まってるのがより一層拍車をかけて煮詰まっとるん」
「・・新作ですか?」
「まぁね」
 サラリと言って小夜子は少し薄くなった琥珀色の液体を一気にストローで吸い上げた。
 音を立てる一歩手前でピタリ止めるのは流石と言えば流石の所業だ。
「ああ、そろそろ時間やわ。ほんならアリス、悪かったわね、付き合わせてもうて」
「いえそんな」
「ほんまに読んどるうちに妙ーに腹が立って誰かにぶちまけな納まらん気になってしもうたんよ。あんたがうちに居てくれて助かったわ」
「・・・はぁ・・・・」
 向けられた鮮やかな微笑み。
 それにヒクリと頬を引きつらせた有栖を見て小夜子はもう一度クスリと笑いを零した。
「ここが日本で良かったって思うとるやろ?せやけどそれで安心してたらあかんで」
「朝井さん?」
「愛してるって言わな訴えられたり、殺されたりする日がいつか来るかもしれへんで?」
 瞳に浮かんだ悪戯っぽい輝き。
 そうして次の瞬間、小夜子は思わず言葉を失ってしまった有栖の目の前で伝票を片手にヒラヒラと右手を振り、有無を言わせぬ勢いで勘定を済ませるとそのまま颯爽と店を後にしたのだった。


********************


 インターフォンの音に相変わらず相手を確かめる事もせずに開いたドア。
「よぉ、どうした先生。景気の悪い面をして。原稿は終わったんだろう?」
 その途端聞こえてきた言葉に有栖は一瞬だけ瞳を見開き、次にガックリと肩を落とした。
「・・・なんや・・君か・・」
「何だとはご挨拶じゃねぇか。誰か他に来る予定でもあったのか?」
「いや、別に・・」
 いいながらドアノブを離してスペースを空けると当たり前のように目の前の男が入ってくる。
 微かに香るキャメルは彼のトレードマーク。
「何かあったのか?」
 靴を脱ぎながらのその質問に「んー・・ちょっとなー・・・」と言って有栖はクルリと踵を返して歩き出した。その後をそのままゆっくりと歩きつつ、英都大学社会学部助教授兼、学生時代からの親友兼、数年前から恋人という肩書きまで付け加えた火村英生はリビングに入るとドカリといつものソファに腰を下ろして煙草を取り出した。
 そして・・・。
「で?」
「・・・でって何や?」
 いきなりこれ以上は短くしようがないという問い掛けに有栖はおもわず眉間に皺を寄せた。
 それに飄々として銜えたキャメルに火を点けながら火村は白い煙を吐き出して口を開く。
「はじめに中途半端な事を言ったのはお前だろう?“んー・・ちょっとなー・・・”だから、で?」
「・・・・あのなぁ・・・」
 どうしてこの音はこういう風な物言いしか出来ないのか。眉間の皺を深くした有栖に火村は再びゆっくりと口を開いた。
「それとも話し辛い話なのか?」
「・・・・・・うーん・・」
「そりゃあぜひとも聞かせてもらわないとな」
「・・・・・・・・・」
 そう、この男はこういう男だ。黙ってしまった有栖に火村はふぅと白い煙を吐き出した。
「せっかく締め切りが開けただろう頃を見計らって貧しい食生活からの救出に来てやったんだぜ?ところが扉を開けた途端の言葉が“何や、君か”。それでも怒り出さず何かあるなら聞いてやろうという心遣いにも“んー・・ちょっとなー”でシケた面しか見せない。さて、悪いのは誰でしょう?」
「・・・・悪かった!私が悪ぅございました!」
「判りゃあいいんだよ。アリス、コーヒー」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「ちなみに本日の予定メニューは婆ちゃんの特製炊き込みおこわと鯖のみそ煮に茗荷竹の吸い物な」
「・・・・心を込めて淹れさせてもらうわ」
 持ち上げられた紙袋を受け取ってアリスはいそいそとキッチンに向かって歩き出した。情けないと言うなかれ。本当に久々の店屋物やレトルト以外の食事なのだ。ここで火村の機嫌を損ねて万が一にでも持ち帰られたらシャレにならない。
「なぁー火村、鯖と茗荷竹と・・・味噌は冷蔵庫に入れておくか?」
「ああ、この陽気だしいくら冷房の部屋だって言ってもおこわもいれとけよ。後で温めなおしてやるから」
「うん。ええっと・・ビールはあるしぃ・・・・あ、ついでに日本酒も冷やしておこう」
「アリス、灰皿どこにやったんだよ」
「え!?・・ああ、悪いボードの上に置いたんや。なぁなぁ、冷凍の枝豆があるんやけど後で茹でてくれへん?」
「いつのだよ?」
「10日くらい前に買った奴やから全然OKや」
「・・・・作家だろう?正しい日本語の使い方をしろよ」
「ええやん。別に。この会話が活字になるわけやないし」
 キッチンとリビングの散文的なやりとり。やがていい香りをたてながら運んできたコーヒーをテーブルの上に置いた途端。火村はすでに2本目だったキャメルを灰皿の上に押しつけて再び口を開いた。
「ご苦労さん。で?有栖川先生は締め切りも明けたってぇのに何だってシケた顔をしていたんですか?」
 丁寧に蒸し返された問い。
 それに思わず顔を顰めてやがて有栖は溜め息を落としながらそっと口を開いた。
「・・・・今日、朝井さんに会うたんや」
「へぇ?」
 意外なその名前に火村の瞳が大きく見開かれる。
 その目の前でコクリとコーヒーを一口口にして、有栖は言葉を続けた。
「待ち合わせの時間までの繋ぎに呼び出されたんやけどな。色々話をして・・・・新作の資料でアメリカの民事訴訟について調べとったらしいんやけど・・・・・」
「セクハラとかか?」
 取り出された3本目のキャメル。銜えたそれに火が点けられるのを見つめながらかすかすに眉を寄せて有栖は言葉を繋げた。
「いや・・・それがそういう問題やなくて・・まぁそういうのもあるんやろうけど、話が出たのは“愛してる”って3日言わなかったから殺された夫とか」
「・・・おい・・・」
「毎日が週一になって月イチになったら夫婦の義務を怠ってるとか」
「・・・・・・・・・・・お前等何の話をしてたんだ?」
 思わず頭を抱えたくなってしまった火村に有栖は大きな溜め息をついた。
「訴訟。・・せやから話したくなかったんや。俺なこの話を聞いた時ほんまに日本に生まれて良かったと思うてん。義務やで?義務!せやけど朝井さんが俺の顔見て言うんや」
 その先の言葉は聞かなくても判る気がした。けれどあえて口をつぐんでいると有栖が溜め息混じりの声を出す。
「安心してたらあかん。そのうち日本も愛してるって言わな訴えられたり、殺されたりする日が来るかもしれへんて。考えただけでゾッとしたわ」
「・・・なるほど。それで先生は浮かない顔をしていたっていうわけか。ところでアリス、素朴な疑問なんだかな、誰に愛してるって言うつもりなんだ?」
「へ・・・?」
  灰皿に押しつけられた3本目のキャメル。

聞こえてきた言葉が一瞬理解できずに間の抜けた声を出す有栖に火村はニヤリと笑って言葉を続ける。
「愛してるって言わないと殺されたり、訴えられたりするかもしれねぇんだよな。誰にだ?」
「あ・・アホ!アメリカの話や!」
「現実に置き換えたから浮かない顔をしていたんだろう?ああ・・・それともこれは遠回しのお誘いか?」
「だ・誰が誘うんや!!とっとと飯でも作れ!!」
「つれないなぁ。そんな事を言わなくたって聞きたいなら俺はいつでも言ってやるぜ?愛してるよ、アリス」
「★◎◆※%(*_*)!!!!」
 全身がザワーッと総毛立った。
 パクパクと声も出せずに動く口。
 そんな有栖を見つめたまま火村は更に楽しげに言葉を紡ぐ。
「月イチとは言わないまでも最近ちょっとご無沙汰だったもんなぁ。訴えられる前に義務を果たさないとな」
「何の義務や!何の!!大体なぁ、俺は義務なんかで抱かれるのは・」
「へぇ・・」
「!!!」
 ハッとして上げた瞳の中で火村はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
 罠に嵌った。
 墓穴を掘った。
「・・・・・・わざとやな・・」
「何がだ?義務じゃなきゃいいんだろう?なら心を込めて言わせてもらいましょう。愛してるぜ、アリス」
 赤く染まった顔に落とされた、掠めるような口づけ一つ。
「さ・・・・・鯖の味噌煮は!?」
「勿論作ってやるさ。おれがお前を食べた後に」
「この・・・・・・・・・・・アホんだら!!!」
 そうして次の瞬間、これ以上は赤くなれないと言うほど赤い顔でついた悪態を、火村は唇を重ねて止めたのだった。

********************

「食わねぇのか?」
「食ってる!」
「怒るなよ。約束通りちゃんと作ってやっただろう?」
 確かに目の前には熱々の鯖の味噌煮と茗荷竹の吸い物と温かなおこわが並べられ、更に茹でた後冷やされたらしい枝豆とよく冷えたビールまでもが並べられている。そして冷蔵庫には先程入れた日本酒が待っている。だが、しかし・・・・。
(身体が痛くて怠いんだよ・・!)
 脳裏に甦る、思い出すのも恥ずかしい記憶の数々。
 久しぶりに意識を飛ばして、起こされたのは食事が出来たというつい先程の言葉でだ。
(・・ったく・・好き勝手しやがって・・・)
 そう・・。修羅場明けで体力がないと判っているにも関わらず本当に好き勝手な事をしてくれたのだ。しかも、その間中思い出したように聞かされた言葉・・。
“愛してるよ・・”
 普段あまり使われない言葉の出血大サービス。耳に残る声に赤くなってしまった顔で有栖は低く唸るようにして声を出した。
「・・・もう二度と言わんでええからな」
「ああ?」
 枝豆を口に放り込みながら火村は気のない返事を返した。
「ええか!もう二度と言うんやないで!」
「・・・・・何だよ。お前が言えって言ったんだろう?」
「!!言うてへんっっ!そう言う事があったって話をしただけや!!」
「だから言って欲しかったんだろう?」
「ちがーーーーーーーう!!ああ、もうほんまに腹の立つ!とにかくもう二度と言うな!さぶ疣立つわ!」
「おい・・・言うに事かいてさぶ疣はないだろう?」
「やかましい!!」
 赤い顔を更に赤くして怒鳴る有栖に火村がヤレヤレというように肩を竦める。それを見て「何やねん、その態度は!」とかかる声。
 暑い暑い夏の夜。
 枝豆とビールと、そして終わらないやりとりに、どこかで話を振るだけ振った朝井小夜子の「勝手にやってなさい」という声が聞こえる気がして・・・・。
「人間ってぇのは言うなって言われると言いたくなるもんなんだよ。愛してるぜ、アリス」
「そういうのは嫌がらせ言うんや!!」

−−−−−−−暑中お見舞い申し上げます。

 とにもかくにも、相変わらずな二人です。

エンド


自分ではらしくて結構好きな話です。なんて言うか、朝井さんって私の中では男前(笑)
まさに女史ってイメージなんですよね。皆様は如何ですか?