ふとして気付く日常


「あ…しもうた」

 小さく声を出したのはミステリー作家、朝井小夜子だった。

「どうかしたんですか?」

 それに声をかけたのはこの部屋の主で、同じくミステリー作家の有栖川有栖だ。

「煙草切らしてしもうた。ついてないなぁ」

「キャメルでしたっけ。ありますよ」

 そういって有栖は立ち上がるとリビングボードの抽斗を開けて新しいキャメルの箱を取り出した。

「はい、どうぞ」

「……おおきに」

 それを少しだけ複雑そうな表情で受けとって、小夜子は手の中のラクダの絵のついたそれを眺めながらゆっくりと
口を開いた。

「なぁ、アリス。知っとる?一人暮しの娘の家に来て、親がまずチェックするのは洗面所。歯ブラシなんやて」

「…は?」

 突然の言葉に有栖はなんともとぼけた声を出してしまった。

 長編を1本書き上げて、遊びに出てきた彼女とたった今話していた内容は、どこをどうしても歯ブラシには繋がらない。
 一体なぜどうしてどこから出てきた話題なのか。またはこの話がこの先何かに繋がっていくのだろうか。

 そんな気持ちでそのまま黙って小夜子の言葉を待っていると、彼女はハァと溜め息をついた。

「この前な友達のところに田舎から久しぶりに両親が来て泊まっていったんやて」

「…はぁ…」

「でな、半同棲しとるのがバレた」

「…かち合ったんですか?」

「ちゃうわ。歯ブラシやねん」

「……歯ブラシ」

「そう。洋服やら専用のカップやらは隠したんやけど歯ブラシがな。一人暮しなのに2本。変やろ?」

「あ…」

 なるほど、と頷く有栖に小夜子は出された紅茶を飲みながら更に言葉を続けた。

「昨日火村センセ来た?もしくは現在お泊り中とか?」

「火村ですか?ええ…まぁ…。フィールドワークがあったらしくて一晩泊まって今朝帰りましたけど。何か?」

 またしても飛んだ話題。一体なんなのか。だが、その答えはすぐに出た。

「さっきトイレ借りたやろ?」

「はい」

「トイレの向かい側が洗面所や」

「はい」

「これ見よがしにコップに立てて置いてある2本の歯ブラシ」

「!!!」

「センセも色々とアイテムを残して牽制しとるんやねぇ」

「ああああああ朝井さん!?」

 赤くなったり、青くなったりする有栖に小夜子はフワリと笑って「センセによろしく」と言った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……って朝井さんに言われたんや!」

「ふーん」

 言われて考えてみれば恐ろしいほど火村のものがある。歯ブラシもそうだし、カップも茶碗も箸も今火村が
履いているスリッパも、彼専用のものだ。

 そればかりか、勿論そこまでは朝井は知らないだろうが、洋服ダンスの抽斗の一つはすでに火村用になっている。

 あまりにも当たり前になっていて考える事もしなかったが改めて見てみると、まさしくいつの間にこんな事に
なっていたんや!である。

 かかってきた抗議の電話に呼び出されて大阪までやってきた英都大学社会学部の准教授、火村英生はそんな有栖の
言葉に気のない返事を返しながら大きく開けている口の中にポイと何かを放り込んだ。

「!!なにすん…あ…うまい…何これ」

「カリフラワーのカレーマリネだとさ。スーパーでレシピを配ってたから作ってみた。酒の肴にはいいだろう?
あとは冷製ポークソテー」

「それもうまそう…。食べる食べる!って…ごまかされへんで。なぁ歯ブラシって牽制なんか!?」

「使ったから乾かしていただけだろう?それとも俺に旅行用の歯ブラシを持参しろって言うのか?」

「……そうか…そうだよな。うん…」

 確かにそれもどうかと思う。気になるのなら備え付けの洗面台の扉付の棚にしまってしまえばいいのだ。
うんうんと頷いて有栖は手渡された皿をソファーの方のテーブルに運び、いそいそとビールをグラスを取りに行く。
だが、そのグラスさえも火村専用のものになっている事を有栖は気付かない。

 そして、キャメルをすでにカートンで置いてあるそのリビングボードの上から、これまたほとんど自分しか使わない
灰皿と有栖宅用に置いてあるライターを手にして、火村はゆっくりとソファーに座った。

 

                                               FIN

プラウザで戻ってね♪