NoSmoking


「禁煙や!禁煙!!」
「・・・ああ!?」
 久しぶりに訪れた夕陽丘のマンション。
一応インターフォンなどを押し、開いたドアから覗いた
顔に「よぉ」と短い挨拶をすると、英都大学社会学部助教授の肩書きを持つ火村英生は、そのまま家主の横をすり抜けるようにして玄関に入った。
 そうして勝手知ったるなんとやらでリビングへと向かい、すでに定位置となっているソファにドカリと腰をかけると、これ又当り前の流れの様に上着の内ポケットからキャメルを取り出す。
 その途端の言葉がこれである。思わず不機嫌な声を上げて眉間に皴を寄せた火村にこの
部屋の主、推理小説作家の肩書きを持つ有栖川有栖はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「禁煙やていうとるやろ?聞こえへんかったんか?」
「いつからこの家は禁煙になったんだ?」
「2週間前からや」
 答える顔は“怒っています と書かれている。
それを見つめながら火村はとりあえず煙草とライターをテーブルの上に置いてふぅと一つ息をついた。
「何でだ?」
「判らんのか?」
「判らないから聞いてるんだろ?」
「考えろ」
「・・アリス」
「うるさい。ヒントはやったやろ?考えて反省するまでは許さんからな」
 心なしか赤い有栖の顔に火村は少しだけ眉間の皴を深くした。多分、おそらく、きっと、大した事ではないのだと火村は咄嗟に判断を下した。大体、自分は今来たばかりなのだ。しかもどこかの推理小説家と違って朝から働いてだ。それが座るなり禁煙だの考えろだの反省しろなど非常に面白くない。
「・・・・心当りがあるやろ」
「心当りねぇ・・」
 小さく睨みつけてくるような瞳から視線を逸らして火村はすでに首に引っ掛けてあるだけのようなネクタイを更に緩めると疲れたように上を向いた。
 視界に映る白っぽい天井。
 今日のこの時間を確保する事がどんなに大変だったかなど、きっとこのお気楽な作家先生には判っていないに違いない。
「・・・・・・2週間前や」
 火村の沈黙をどう取ったのか有栖がポツリと口を開いた。どうやらそれがヒントだったらしい。
 2週間前。もう一度それを繰り返して火村は記憶を探り始めた。
 2週間前といえば・・・フィールドの帰りに有栖のマンションに寄った日がそれくらいだったのではないだろうか?その時に何か有栖が膨れてしまうような事をしただろうか?
「・・・・・まだ判らんのか!」
 焦れたような有栖の声に火村はゆっくりと唇に手を当てた。ヒントは2つ。2週間前と禁煙・・・つまり煙草だ。煙草・・・。
「・・・・・・」
「・・やっぱり確信犯やったな・・!」
 唸るような有栖の言葉に火村はニヤリと唇の端を上げ
て笑った−−−−−−・・・。


 
 
「・・・おい、ここで煙草は吸うんやないって。ベッドに燃え移ったらどないするんや」
 意識の戻った途端の有栖の言葉に火村は小さく笑ってサイドテーブルに乗せられていた灰皿にキャメルを押しつけた。が、しかし、そこにはすでに結構な数の吸い殻が入っている。大体寝室に灰皿は置かれていなかったのだ。リビングにある筈のそれがここにこうしてあり、しかも吸い殻の数が1.2本ではないという事実に有栖は思わず顔を顰めた。
「・・何時や?」
「ああ・・?・・・2時近い。何か食うか?」
 フィールドが近くだったからとやってきた友人であり恋人でもあるこの男にそのまま抱えられるようにして部屋に入った(連れ込まれた)のはまだ日付が変わる大分前の事だった。
(・・・無茶しやがって・・)
 動くと痛む身体。起き上がろうする有栖を見て、火村が小さく眉を潜める。
「おい、本当に何か食うのか?」
「アホ。水飲むんや、水」
 ベッドの下に落ちていた服を拾い集めて羽織ると有栖はゆっくりと歩き出す。その後ろ姿に火村は小さく口を開いた。
「なぁ・・」
「ああ?」
「このスーツどうしたんだ?」
「え?」
 振り返った視界の中に入った、クローゼットの横の壁に掛けられている薄いモスグリーンのスーツ。
「ああ、大御所作家の何周年記念パーティーとかいうのがあってな。それで引っ張り出したんや」
「へぇ・・・作家先生も付き合いが大変だな」
「言うてろ。どうせ、大学の助教授ほどお忙しくはあり
ませんよ」
「ひがむのは年を取った証拠だぜ?」
 ニヤニヤと笑う顔。
 そう、この時に気付くべきだったのだと有栖は幾度も後悔をした−−−−−−・・。

 



 
「俺がパーティーでどんなに気まずい思いをしたか!」
「気まずいなんて心外だな。ちゃっと煙草の香りがついたスーツを着ていただけだろう?煙草を吸う奴なんて掃いて捨てる程いるだろうが。それがどうして気まずくなるんだ?それともそのパーティーは禁煙者の集いだったのか?銘柄がまずかったとか?」
「・・・・・・」
「キャメルを吸っていて迫害された経験はないけどな」
 どこまでも白々と言う火村に有栖は顔を赤くしてキッと目の前の顔を睨みつけた。
「吸わない人間から煙草の匂いがしたらおかしいやないか!」
「へぇ・・スーツについた煙草の匂いが判る距離っていうのも気になるな、アリス」
「・・・・・・この・・」
「で?その恐ろしく鼻のいい人間はどこのどいつなんだ?」
 多分、恐らくその答えを火村はもう持っているに違いない。
『アリス、悪いけど一本くれへん?切らしてしもうたんよ』
『・・え?』
『え・・って煙草・・・』
『すみません。滅多に吸わないんで』
『・・・・滅多にって』
 言うが早いかグイッと襟を掴まれて寄せられた顔に有栖は思わずギョッとしてしまった。
『あ・朝井さん!?』
『こんなに煙草の匂いさせて滅多に吸わんって一体なんやの?』
『え・・匂い・・?』
 ここに至ってようやくその訳に気付いた有栖は思わず慌てて口を開いた。
『ああ・・あの・・昨日火村が来てて、あいつプカプカ吸いよるから多分そのせいやと。壁に掛けておいたから燻煙んされて・えっと・』
 しどろもどろの言葉。
スーツの下に冷たい汗が流れるような気がして有栖はヒクリと頬を引き吊らせる。
 そう、あの後、水を飲んで寝室に戻ってくると火村は又煙草を吸っていたのだ。
(・・・あいつ・・!)
『・・アリス』
『はい?』
『あんた、リビングにスーツを吊しておいたの?』
『・・・・・・・・!!!』
 その瞬間絶句する以外、有栖には何も出来なかった−−−−−−−−。


 
 
 
「絶対に、朝井さん気付いたわ!ほんまに・・禁煙や!二度とここで煙草を吸うんやないで!!」
 赤い顔で怒鳴る有栖に火村は胸の中で何度目かの溜め息を落とした。やっぱり大した事ではなかった。しょせん有栖の不機嫌の理由などこの程度のものだ。
 こんな事で大事な時間が減ったのかと思うとやっぱり面白くない。
「そんなのてめぇのドジのせいじゃねぇか。いくらだって言えるだろう?“はい”って答えたってそれまでだ」
「よくもぬけぬけと!とにかく!禁煙!壁も天井もヤニで汚れるしええ事ないわ!」
 怒鳴るだけ怒鳴って立ち上がった有栖の腕をを火村はグイと引き寄せた。その瞬間バランスを崩して腕の中に倒れ込んでくる身体。
「何するんや!危ないやろ!」
「人に禁煙を迫るんだ、もちろんそれだけの見返りがあるよな?アリス」
「・・・・・」
「それともいっそ、一緒に喫煙っていうのもいいんじゃないか?それならいつだって煙草の匂いがしてもおかしくないだろ?」
 クスクスと笑う助教授に有栖は思わず眉を寄せる。
「ふざけるな!・・・大体見返りってなんや、恥をかいたのは俺やで!?」
「煙草が吸えないと口寂しいんだよ」
「・・・・・・飴でもなめとけ」
「同じ甘いならこっちの方がいいな」
「!!」
 小さく音を立てて触れた唇。
「さてと、じゃあ、煙草も吸えないし、行こうぜ?」
「行くってどこに、火村!人の話を聞け!!アホ!!何で煙草を吸わないかわりがこれなんや!火村!!」
 抱き抱えられた腕の中で有栖は頭を抱えていた。
禁煙がなぜ、どうしてこうなってしまうのか?
「判った!そんなら1・・1本だけなら吸ってもええ!せやから!」
 ゆっくりと開いた寝室のドア。
連れ込まれる手前で立ち止まった男に有栖はホォッと息をついた。
 けれど、でも・・・。
「それじゃ、終わった後で遠慮なく」
「−−−−−−−!!」
 火村は火村で有栖はやっぱり有栖だった。
 ニヤリと笑った顔と、ついで重なる唇に飲み込まれた言葉。
 そうして次の瞬間、パタンと静かにドアが閉じた。
 
 
 
********

 
 
 その後、勿論火村の禁煙は成されなかったのである。
 
                    


 

おまけ・・ 
 
『京都の作家の独り言』
 
 ワープロを叩く手を止めてフゥッと一つ息をつく。そうしてそのままデスクの端に置いてある煙草に手を伸ばして、目的の物がなくなっていた事に気付く。買い置きはリビングだ。
 再び漏れ落ちた溜め息。その瞬間甦る記憶に、京都在住の女流推理小説作家・朝井小夜子はひどく馬鹿馬鹿しいような気持ちになってガクリと肩を落とした。
『リビングにスーツを吊しておいたの?』
 それは本当にからかい半分の言葉だったのだ。それがよもや、これほどまでに脱力するようなリアクションがかえってくるとは思わなかった。
「全く・・匂いでマーキングするような先生も先生やけど、子供瞞しの引っ掛けに“お約束”と言わんばかりに真っ赤になるアリスもアリスやと思うのよ。ほんま、犬も食わないもの食ったって感じやわ。今度会ったら絶対に奢ってもらわな・・」
 3度目の溜め息。溜め息をつくと幸せが逃げるといったのは誰だったか。
それもこれもみんなあの二人のせいやわと胸の中で毒づいて、小夜子は椅子から立ち上がってリビングへのドアを開けた。

今度こそおわり