発熱

「・・・あかんー・・もう・あかん・・」
「駄目ならとっとと薬を飲んで寝ろ!」
「・・・・・・それが出来る位やったら始めからそうしとるわ。それが出来ひんからあかんのや」
「自業自得だな」
 すっぱりきっかりそう言い切って、ほとんど手をつけていない食事をガチャガチャと片付け始めるその姿をテーブルに頭を乗せたまま私・有栖川有栖はぼんやりと眺め
ていた。 
 どういう経緯で現在どうなっているのか。
 話は1ケ月以上前に遡る。

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「温泉に行きたい!」
「・・温泉だぁ?」
「せや、秋・紅葉とくれば温泉や」
「その台詞は別のバージョンで聞いた気がするな。冬・蟹とくれば後は温泉や!とか春・花見とくればうまい酒と温泉や!とか・・」
「喧しい!!日本人は元来温泉好きなんや!せやからこんな温泉だらけのところに暮らしとるんやで?」
「説得力のかけらもねぇ言葉だな。そんなに好きならわざわざ温泉のないところで暮らさずにあるところに住めばいいのによ」
「あーいえばこういう男やな。たまに入るから有り難みも倍増するんや。で、行くのか行かへんのかどっちなんや?」
「・・そうだな・・行ってやってもいいぜ?」
 かくして温泉行きが決定した。
 したのだが・・・・その予定の日に熱を出したのだ。

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「ふつう締め切りが間に合わねぇ上に熱を出すか?」
「・・・・・・」
「前日に確かめの電話を入れなかったら、俺は今日一人で列車に乗って温泉旅行に出かけていたわけだ。どうせ寝坊でもして後からくるんだろう、あの馬鹿とか思いながらな」
「・・・・・自分かてした事あるくせに」
「俺はちゃんと後から行った」
「・・・・・・」
どうやら何をどう言っても分が悪すぎる。
「・・悪かった。ほんまに・・心の底から悪いと思う。せやから・・・・堪忍や・・」
「少しでも真面目にそう思うなら薬を飲んで寝ちまえ」
 繰り返された言葉はぶっきら棒だが、本当に彼・火村英生が心配して言ってくれているのが判るものだった。
 けれどそれに従うわけにはいかなかった。
 風邪薬は眠気を誘うものが多い。特に発熱を抑えるものはそれが強い。そして今の私が一番してはいけないのが眠る事なのだ。
「・・・・原稿上げたら有り難くそうさせて貰うわ」
「アリス!?」
「せやって!締め切り過ぎてるんやもん!これ以上片桐さん待たすわけにいかん」
「それまでにやらなかったてめぇが悪いんだろ!」
「やらなかったんとちゃう!」
「出来なきゃ同じ事だ!」
 まさにごもっとも。一度途切れた言葉の応酬に私はクシャリと顔を歪めた。
「・・・せやって・・」
「熱があって馬鹿になっているような頭で書いたものを読まされる方が気の毒だ。世の中には“作者急病の為”っていう言葉があるだろ?」
「あんなんほんまにそうやて思う奴の方が珍しいわ」
「じゃあ注釈でも付けて貰うか?病状を細かく載せるとか?“38.6度の高熱の中必死でワープロに向かうが
泣く泣く断念。次回は必ず!”」
「あんなぁ!!」
「とにかくとっとと片桐さんに電話をしろ。これ以上伸ばした上に落とされたんじゃその方がよっぽどだろ?」
「・・・・・・・」
「何なら俺が保護者よろしくしてやってもいいぜ?」
 ニヤリと笑う顔は、けれど本当にやりかねない色をたたえていて、今の私に出来たのはがっくりと肩を落として言われるままに電話に向かう事だけだった。



「薬は飲んだな?」
「飲んだ」
「寝る前にもう一度熱を計れよ」
「ん・・」
「起きたら今度こそ何か食えよ。薬を飲んでも効かねぇからな。リクエストは?」
「任せる」
「判った」
 言葉と同時に空になったコップを持って出て行く後ろ姿。けれど、完全に閉めずに少しだけ開けられたドアが今は何故か安心出来る。
 夕べかかってきた電話。
『・・・おい・・まさか熱でもあるんじゃねぇだろうな』
 原稿が終わっていないと伝え、いくつか会話を交わした後、火村はいきなりそう切り出してきた。
『・・いつからだ?』
「微熱は4日位まえから・・」
『この馬鹿!!』
 そうして何時間か後に鳴り響いたドアフォンに不覚にも涙が出そうになった−−−−−−−−−−。
「何度だった?」
 入ってくるなりそう口にした火村に私は慌てて脇に挟んだままの体温計を取り出した。そして。
「・・・38.2・・・。寝ろ」
 見る前に取り上げて短くそう告げると火村は怒った様にも呆れ切った様にも見える視線を投げてきた。
「・・・火村・・・その・・すまん」
「安心しろ。この貸しは必ず返して貰うさ」
 ベッドに潜り込みながらの言葉に皮肉気な笑みを浮かべて返ってきた返事。
 それに思わず返す言葉を失った私を見て火村はもう一度ニヤリと笑った。
「とりあえず寝ろ。眠れないってぇなら協力してやってもいいぜ?」
「・・・・・協力?」
 瞬間、近づいてきた顔が唇を掠めて耳元に寄せられる。
「!?」
「熱があるといいって言うだろ?試してみるか?」
「−−−−−−−−−−!!!」
 全くどうしてこの男はこうなんだ!!!
「アホ!!いらんわ、ボケ!!それにな、そういうんわ、もっと微熱の時の話や!こない熱があって出来るか!」
 そして・・・どうしてこう私は一言も二言も多く墓穴を掘ってしまうのか
「・・・へぇ、さすが有栖川先生。雑学データベースの範囲も広い広い。じゃ、そういう事で下がってきた頃試してみようぜ?まさか他の奴と実証済みなんて事はねぇよな?」
 壮絶な微笑みに無言のままブンブンと振った首。
「決まりだな。楽しみにしてるぜ、アリス」
「・・・・・・・・・・・」
 ひどくご機嫌な顔でそう言って火村は体温計を持ったまま部屋を出てゆく。
 その後ろ姿を熱のせいだけではない赤い顔を見つめながら、私は現実逃避をするように掛けていた布団を頭から被った。

おしまい