温泉に行こう… ───学生編───
              

「気持ちよかったですねぇ」
 ひどく嬉しそうに口にそう口にしたのは英都大学法学部1回生の有栖川有栖だった。
 その後を引き継ぐように「食事も楽しみやなぁ」と言うのは同じく経済学部2回生の望月周平で「このあたりだと何が名物なんかなぁ」と付け加えたのは彼と同期の
織田光次郎である。
そして自販機で買ったばかりのキャビンを手にしながら「アリスのお陰やな」と言ったのは文学部4回生の江神二郎。

『温泉に行きませんか?』

 唐突にそう言い出したのは江神の言う通り最年少の有栖だった。何でも母親の申し込んだ温泉旅行券が当たったのだという。
 けれど送られてきたそれは日付指定のものだった。そうしてそう言うものに限って用事が入っている時とぶつかるものなのだ。
 果たして有栖の母もそうだった。
 以前から楽しみにしていた同窓会とやらにものの見事にかち合ったのだ。
 宿泊代は確保されてはいるけれど交通費は自己負担の温泉旅行と久々に会う友人たちとの時間を秤に掛ける事なく彼女は「あんたにやるわ。行くんやったらお土産くらいは買うてきて」と投げて寄越したらしい。
 家族旅行と銘打ってあった温泉旅行券は4名分の宿泊代がセットされていた。勿論素泊まりではなく2食付きというものである。
 こうして英都大学推理小説研究会、略してEMCのご一行様は1泊2日の温泉旅行にやってきたのである。

「まぁ正確に言えばアリスのお母様のお陰やけどな」
 ニヤリと笑って江神はキャビンに火を点けた。
「そんな“お母様”何て言うガラやありませんよ」
「まぁ、そう言いなや。温泉に入れるのも、うまい料理が食えるのも母上様の強運の賜なんやから」
間に割って入った望月の言葉に有栖は渋々と頷いた。
「・・・まぁ、それはそうですけど。ああ、でもほんまにいいお湯でしたねぇ。江神さんもモチさんたちも知ってはりました?ここって別名“美人の湯”って言うんですって」
「ああ、書いてあったな。まぁ男湯に美人の湯も何もないけどな」
苦笑に近い笑いを浮かべて織田が口を開く。
 フワリフワリと立ちのぼる煙草の煙。
 長い廊下は二人で歩くのが丁度いいほどの幅で、自然前を江神と有栖が、後ろを経済学部コンビが歩いていた。
 歩くたびにパタパタというスリッパの音に合わせて聞こえる小さく床板の軋む音。
その僅かな沈黙を破ったのはひどく嬉しそうな有栖の言葉だった。
「でもすっごいスベスベですよ。ほら」
「・・・・・・」
 言いながらまくり上げられた浴衣の袖。出された肘に一瞬他の3人の時間が止まった。
「・・・・・」
「ほらほらスベスベ」
スリッパの音も、廊下の軋みも、何もかもが消えて無くなり、ただ向けられた笑みとさするようにしながら見せられた腕をどうすればいいのか。
「・・・・・・・ああ。そうやな」
 数瞬後、触れた江神の手と答えに満足して有栖は捲っていた袖を直した。
 思わず漏れ落ちた息。けれど、織田と望月のそれに気付く事なく有栖は更に言葉を続ける。
「江神さんは?」
「!?」
 後方で声にならない声を上げた経済学部コンビに有栖は勿論気付かない。
 そして、気付いているのも関わらず仕方がないなと言わんばかりにクスリと笑って自分の浴衣の袖を捲った江神を果たしてどう考えればいいのだろうか。
「あ、やっぱりスベスベですね」
「そらそうやろ。同じ湯に入ったんやから」
 クラリと視界が揺れたのは絶対に自分たちのせいではないと二人は思った。
どうしてそこで笑って腕を出すのかとか、何で当たり前のようにそれに触れるのかとか、今はとにかく考えるのも嫌だ。
「信長さんたちも食事が終わったら又温泉に行きましょうね」
 振り返った顔は恐ろしい程無邪気な笑顔。
「お・おう・・」
 引きつる頬を宥めつつ、再び歩き出した有栖と江神に、とりあえず2歩遅れて歩き出しながら織田が口を開く。
「・・・俺は何も見なかった」
キシリキシリと軋む音。
 前方でユラリユラリと揺れる煙。
「・・・・・俺は何も言いたない」

─────さぁ、温泉に行こう。

ひどく楽しそうな有栖とそれを相手にしながら微笑う江神。
その後ろで、必死に夕食に意識を飛ばす二人がいたこと等、勿論有栖が気付く筈もなかった。

           おちない(-_-;)


学生編の温泉です。如何でしょう?私的には気に入っている話です(*^。^*)