温泉に行こう…


「ああ、ええお湯やった」
 ひどく気持ちよさそうにそう口にしたのは大阪在住の推理小説作家、有栖川有栖だった。
 その隣で浴衣姿で肩にタオルを引っかけて歩いているのは京都在住の社会学部助教授、火村英生である。
「夕飯は何やろなぁ・・」
 ウキウキとした有栖の言葉に火村は呆れたように笑って口を開いた。
「温泉に入ったら次は食い物。本当にマニュアル通りつて感じだな」
 言いながら自販機の前で立ち止まりキャメルを買うとそのままバリバリとパッケージを開けて一本取り出す。
「温泉旅館に来て温泉に入らんでどないすんねん。大体旅の醍醐味は風呂と飯やろ」
「そりゃ観光協会の人間対する冒涜だな」
 嫌味ったらしく竦められた肩に有栖は思わず眉間の皺が深くした。
 それを横目で眺めてニヤリと笑いながら火村はひどく
機嫌良く銜えたキャメルに火を点けた──────…

きっかけは2週間ほど前に遡る。
『あ、もしもし?俺や俺。あんなぁ、温泉旅行のチケットを貰ったんやけど、君来週かその次の週、暇ないか?』
 突然の電話で相手を確かめもせずに喋り出すというのは有栖の得意とする事の一つだった。
『あれ?火村?おーい!繋がってへんのか?あれ?おかしいな?』
「・・まず名乗ってからものを言えと何度言ったら分かるんだ」
『何や、ちゃんと繋がっとるやないか。それでどうなんや?』
 呆れた様な言葉にも動じない、又は通じないというのも今までの経験でよく分かっている。
 たまたま火村が席を外していた時等、何でちゃんと出ないのか、お陰で恥をかいた等と理不尽な怒りを向けられた事もあるのだ 
 ちなみにこの電話も半月ぶりのものである。あまりにも相変わらずな親友、もとい恋人に火村はもう一度胸の中で溜め息を落とした。その途端聞こえてきた有栖の声。
『あのなぁ話をしとる時に自分の世界に行くのはやめてくれ』
「・・お前にだけは言われたくない。で、温泉がどうしたって?」
机の上にあったキャメルに手を伸ばして火村はゆっくりとそれを銜えた。
『せやから温泉旅行券って奴をお隣さんから戴いたんやけど、行かれるかどうか訊いとるんや』
「・・・・・・・・何で旅行券を隣人がくれるんだよ」 それは暗に誘われているという事なのではないのだろうか。勿論そんな事を告げるつもりは火村には毛頭なかった。たっぷり間をおいたその言葉に、けれど有栖は頓着無く話を続ける。
『秋の何とかっていう福引きセールで当たったんやけど期限があって行かれないから、よろしければって言われたんや。でな、今月中やねん。期限』
「本当に時々俺はお前が文筆業をしている事に疑問を感じるよ」
 言った途端聞こえてくる「どういう意味やねん!」という怒鳴り声。そして次の瞬間・・。
『それでどないするんや?』
「それが人にものを尋ねる態度か?」
『あのなぁ!!』
 脳裏に浮かぶ怒ったような拗ねたような顔に火村は小さく苦笑してキャメルの煙を吐き出した。
「勿論、ご同行させて戴きますよ。他の費用も全部お前
持ちなんだろう?」
「ふざけるな!アホんだら!!!」
 こうしてお約束のようなやりとりの末、二人は1泊2日の温泉旅行にやってきたのである───────…

 フワリフワリと揺れる紫煙。
 長い廊下を歩きながら有栖は何かを思い出したように隣を歩く火村を振り返った。
「なぁ」
「ああ?夕食のメニューなら俺に訊いても判らないぜ?」「ちゃうわ。そうやなくて、ここの温泉って【美人の湯】って別名があるそうなんやけど」
「ああ・・そう言えば風呂場の壁に何か書いてあったな」 
 記憶を思い起こすようにそう言った火村に有栖はクスリと笑った。
「・・何だ?薄気味悪いな」
 途端に小さく寄せられた眉。それにもう一度笑って有栖は再び口を開く。
「いや、何で【美人の湯】なんかなぁって思うて。でな、今気付いたんやけど腕とかツルツルやねん。それでなんかなぁって。それだけなんやけど」
 そう言って浴衣の袖を捲りながら何処か楽しげにあまり日に焼けていない自分の腕をさする手。それを見つめながら火村は「どれ」とそこに手を伸ばした。
「!!何すんねん!」
「何だよ。触って確かめろって事だろ?」
「あ・あほか!そんなん自分の腕を触ればええやん」
 それは確かにその通りである。否、普通ならばそうするだろう。だがしかし・・・
「それじゃ面白くないじゃねぇか」
「そう言う問題とちゃうわ!!」
 赤い顔で怒鳴る有栖に、それならばどういう問題なのかとニヤニヤと火村が笑う。
 
───────さぁ、温泉に行こう。

 いい年をした男が二人、どう見てもじゃれ・・もといふざけあっているとしか思えない状況に、二人の後ろで仲居が思わず目を逸らした事など、勿論有栖が気付く筈もなかった。
 

おしまい


えっとゲスト原稿です。ちなみに同じ設定で学生編もありました。
私的には結構好きなショートショートです