プラトニックになれない

−−−プロローグ−−−

「−−−−泊まっていってもええですか?」
 ありったけの勇気をかき集め、押し潰されそうな程の羞恥心を無理やり胸の中に押し込めて口にした言葉。
 そしてその日を境に1ケ月間聞き慣れた“言葉”が変化をした。

 『泊まって行くやろ?』

 そうしてそれから更に2ケ月が過ぎていた−−−−・・・

**************************



 すっかり慣れ親しんだ6畳間。
 本とレコードとCDに埋もれたようなその空間は、この部屋の主人と同じ様に、これまたすっかり馴染んだ煙草の香りをそこここに残している。
「・・アリス・・」
「・・・あ・・」
「アリス・・」
「・・っ・は・・あ・・や・」
 切れ切れの声とせわしなくなる息遣い。
 金曜の夜のお決まりコース。
「あ・・や・いゃ・・っ・・!」
 ちなみにこれは火曜の夜−−つまり江神さんのバイトがない日の夜−−もほとんど変わらない事になっている。
「・・・ん・っ・・く・っ・」
 グッと唇を噛み締めた途端そこに触れた指とふわりと落ちた苦笑に近い微笑み。
 それに気付いて僕−−有栖川有栖−−は小さく首を横に振った。言われる事が判っているからだ。
「唇を噛むんやないって言うたやろ?傷付くやないか」
「!!」
 言いながら掠める様な口付けにパァッと赤く染まっただろう顔。それを見て江神さんが又微笑う。
「アリス」
「・・・・せやって・・」
 恥ずかしいのだ。
 抱かれるのは・・これはもう・・自分で決心した訳だし・・そうしていいと結果的にGOサインを出したのは僕なのだから・・・いいのだけれど・・。
(恥ずかしすぎるんやもん・・ )
 3学年上で7つ年上の先輩。同じ推理小説研究会の部長である“江神さん”こと江神二郎と僕は2ケ月程前からいわゆる『そういう関係』−−何だか卑猥・・−−になっていた。
 “尊敬”から“恋愛”の域の『好き』だと気付くきっかけは江神さんからのアプローチで、突然のキスとその後の江神さんの失踪(かなり大げさ)そしてその時の僕自身の不安な気持ち。それをまとめてブラックボックスに叩き込んだら答えは自然と出てきてしまったのだ。
 もっともこうなるまでにその後1ケ月の紆余曲折があるのだがそれはちょっと語りたくない
 とにもかくにも、その時から半分不文律の様に出来上がってしまった『この流れ』が決して嫌だという訳ではないのだけれど・・・・。
「声を我慢する事ないって言うたやろ?」
「っ・・」
 耳もとをくすぐる少しだけ笑いを含んだ言葉。それが熱くなり始めた身体をビクリと震わせる。
(・・・絶対に判ってやっているんだ、この人は・・)
「恥ずかしい事なんかあれへんよ」
「・・・・ぁ・・!」
(・・・・ほらやっぱり)
 囁く様に落とした言葉と同時に再び肌を滑った長い指。
 それに噛み殺し損ねた声が漏れ落ちて、僕は慌てて唇を結ぶと赤い顔をブンブンと横に振った。
「何でそないに恥ずかしいんかなぁ・・」
「・・ん・・ぅ・」
「それとも声やない何かを隠したいんか?アリス?」
 笑いを含んだその言葉は睦言めいて、けれど僕の胸をドキリとさせた。
「江神さ・・っ・い・いけずや!!」
「せやってアリスが悪いんやろ?傷付けてまで声を隠すから」
「隠し・てへんもん・!恥ずかし・いだけ・や」
「せやから何で恥ずかしいんや?」
「は・・」
 恥ずかしいもんは恥ずかしいから恥ずかしいんです!!
 理由にもならない言葉を胸の中で毒づいた途端、熱くなったそこに触れてきた指に僕は思わず身体を大きく震わ
せてしまった。
「あ・あぁ・・や・」
「恥ずかしい事なんかあれへんよ。アリス」
「・・ん・・!」
「何も隠す必要なんてない」
「ぁ・・ん・」
「そうやろ?」
「い・・あぁっ・・!」
 そこここに触れて落ちる口付けと熱を増してゆく身体に目暈がする。
 早まる鼓動。甘くなる吐息。そして・・・。
「アリス・・」
「は・あ・っ・・!」
「アリス」
「!・・っん・!」
「アリス・・・」
「あああっ!」
 繰り返されてその度にトーンを変えるその声に頬を伝って涙が落ちた。
「ん・あ・あぁ・・ゃ・・」
 もうすぐ・・・もうすぐこの何の実にもならない努力が崩れ落ちる瞬間がやってくる。自分の身体が、自分の物でなくなる時がやってくる。
「!!・・や・い・・ゃあ!・・ああぁっ!」
「アリス・・・」
「・さ・・あ・・え・がみ・さ・・えが・あぁ・」
 押し寄せてくる、焼けつく様な熱にも似た何か。
 それに抱き締めてくるその腕だけが頼りなのだとでも言う様に声を上げて、名を呼んで、僕は霞み始める意識の中でその背中に縋りつく。
「ん・ぁ・・っ・は・・」
「・・アリス・・」
 開いた瞳に映った顔はこの2ケ月間ですでに見慣れた表情を浮かべていた。
 穏やかで、優しい・・けれど熱い眼差し。
「!!・っ・・」
 ドクンと一つ鼓動が鳴る。
“声やない何かを隠したいんか?”
 脳裏に甦る言葉。
 それはあまりにも的を得ていた言葉だった。
 そう・・恥ずかしい気持ちだけでなく確かに僕はそれを隠したかったのだ。僕の中に芽生え始めている、ひどくつまらない、あほらしい、本当に性がないとしか言い様のない・・・こんな事を思っていると気付かれたら二度と会えなくなってしまうようなその思いを僕は・・・。
「!やぁ・っ・・あぁぁっ・も・・ああ・!」
「・・アリス」
「・・え・がみ・さ・・」
「・・・・好きや」
 その言葉を信じられないわけではないのに。
「・・・僕も・好き・・好きです・・」
 その言葉に偽りがある筈もないのに。
 引き寄せられる様に重なる唇。
 その中で僕はジリジリと焼け焦げて、広がってゆく気持ちを持て余し始めていた。

 もしも−−−−−−−・・・

 もしもこのまま、これだけの関係になってしまったらどうしよう・・・・。

*********************



「・・・・アリス?」
「・・なんぞあったんか?」
 相も変わらぬ学生会館の2階。思わず知らず落ちてしまった溜め息に経済学部コンビが顔を見合わせておずおず
と口を開く。
 推理研のメンバーに会えるか会えないかといういわゆる“賭け”の水曜日。(あまりにも全員講義の時間がバラバラだから)結局昨日の火曜日も同じコースを辿ってしまった事に軽い自己嫌悪を感じながら足を向けたそこでは水曜日には珍しく織田・望月の両名が定位置でコーヒーを飲んで話をしていた。江神さんは居ない。そう・・講義がなくバイトを入れている水曜日に彼にここで会える事はほとんどないのだ。
 僕自身も感じた様に「水曜に会うなんて珍しいな」と二人は笑った。それに「そうですね」と同じく笑って答えながら何となく会いたくなかった等と思ってしまう辺りが煮詰まってきているというか、行動が矛盾している。
 そうして他合いのない話をしていて・・・冒頭の部分になるわけである。
「・・別に何も」
「そんならええけどでかい溜め息やったからその・・」
 話の途中で織田は急に声を潜めポリポリと頭を掻いた。
「信長さん?」
「・・・ああ・・その前に言ってた“内輪の事情”とかが再浮上したんかなとか・・」
「・・・・・・」
 ああそう言えばそんな事を口にしたかもしれないと僕はぼんやりと思い出した。あの時は江神さんが姿を見せな
くなった時で、そして・・・
(・・進歩がないっちゅうか・・後退しとるな・・)
 そう・・今自分が思っている事といったら・・。

『会えばこれだけってサイテーとか言われたんやて』
『そら確かにサイテーやな。がっつきすぎや!』
『せやけどしゃーないとこもあるやんなぁ』
『へぇ・・お前もケモノか。でもそいつお前に相談するくらいやから相当煮つまってたんやなぁ』
『あんなぁ!!』

 きっかけになったのは友人に誘われて行った飲み会。
 酒も入って出てくるのは悲しいかな下品なネタが多かった。そうして聞くともなしに聞いてしまったその話題を思わず自分に置き替えてしまったあたり僕自身もかなり酔ってはいたのだろう。けれど一度しっかりと思ってしまった事はなかなかどうして忘れる事は難しくて・・。
「・・リス・・アリス?」
「!!あ・はい・!」
「・・あのなぁ・・頼むから会話の最中にどこかにいかんでくれ」
「すみません」
銀縁眼鏡を押し上げながらの望月の言葉に僕は小さく頭
を下げた。訪れた沈黙。
「・・で・・その・・信長の言うた通りなんか?いや別に言いたくないなら言わんでええんや」
 遠回りに聞いてくるそんな彼等の優しさが少し切なくてけれど嬉しくて、僕は先ほど会いたくなかったなどと感じた事を胸の中で思わず詫びてしまった。
「いえ・・その・・それはもういいんです。ご心配おかけしました。溜め息のわけはレポートで、突然今日の講義で言われたもんやからどないしようって。ほんとにすみません」
 ペコリともう一度頭を下げた僕の目の前にホッとしたようなまったく仕方がないというような二つの呆れ顔が浮かぶ。
「ったく性もない事で溜め息なんかするんやないわ。おっと・・丁度時間や。ほんならアリス又な」
「はい」
 バタバタと飛び出していった二人の背中を見送って僕はホォッと息をついた。
 本当に性のない事だ。
 好きだという気持ちが変わったわけではない。
 それが嫌なわけでもない。
 けれど、でも・・・。
「どないしたいんかな・・俺は・・」
 ポツリと漏れ落ちた言葉の答えはとても出せそうになかった。

************************

「泊まって行くやろ?」
 悩んでいても何をしても時間はちゃんと回っていて水曜日の次には木曜日がくるし、木曜日の次は金曜日が来てしまうのだ。金曜日・・いつもの様に講義の終わる時間に待ち合わせをして、話をしながら西陣の下宿に行って本を物色したり、夕食の相談などをしたり・・そうしていつもの時間にまるで約束の様に聞こえてくるいつもの言葉。瞬間泣き出したい様な気持ちになって僕は小さく首を横に振った。
「アリス?」
「・・・今日は帰ります。急なレポートが入って」
 それは嘘ではない。ただそれがそれ程切羽詰まったものではないというだけで。
「そうか。ほんならしゃあないな。でもそれやったら今日来て大丈夫やったんか?」
 言いながらフワリと微笑む顔。
 それが又切なくて僕は小さく顔を俯かせる。
「・・・せやって・・」
 今日会えなければ次にまともに会えるのは火曜日。
 悩んで、考えて、けれどどうしても一週間会えないのは嫌だったのだ。
「・・ほら、アリス。帰るなら急がんと」
「あ・はい」
「そのつもりなら前もって言うとけばもう少し早めに声を・・アリス!?」
 驚いた様な声。情け無いと言うなかれ、その瞬間ようやく僕は自分がどんな顔をしているか気付いたのだ。
「・・・・どないしたんや?」
「・・・どうもしません」
 寄せられた眉。熱くなる瞼。クシャリと歪められた顔。“今、まさに、これから泣きます。もしくは、泣くのを我慢しています”という僕の表情に江神さんは困った様な表情を浮かべて口を開いた。
「どうもせんて顔やないやろ?何かあったんか?」
「・・・・・・・何も」
「アリス・・」
「・・っ・・せやって・・江神さんが早よ帰れって・」
「帰る言うたんはアリスやろ?」
「そうやけど・・!・・それやったら今日は来いへん方が良かったみたいに・・」
「誰もそないな事言うてへんて」
「言うてなくても言うてるのと同じや!江神さんは平気なんや・・会われへんでも・・僕が・・」
 ああ・・・支離滅裂な事を言っている
「アリス・・?」
 聞こえてきた名前を呼ぶ声。それにポロリと涙が零れて僕は慌てて顔を背けた。
「アリス?どないしたんや?」
「何も・・何でもない。あのすみません、帰ります」
 流石にここには居られない。これ以上居れば僕がどんなにつまらない事を考えていたか江神さんは気付いてしまう。そしてもしそれを知ったら・・・。
「アリス、待てって」
「ほんまに・・あの・・すみませんでした」
「アリス!」
 呼ばれた名前の強さに僕はビクリと身体を震わせて再びクシャリと顔を歪めた。
「荷物も持たずに帰る様な奴をそのままに出来る筈ないやろ?」
「・・・・・」
「何があった?」
「・・・・・」
「何か言われたんか?」
 どうしてこの人はスルリと核心近くをついてくるのだろうか。
「とにかく、今日は泊まっていき。何のレポートかは判らんけどその辺あされば資料になりそうなんが一つや二つでてくるかもしれへんよ。で、落ち着いたら大人しく寝るんや。ええな?」
「・・・・・・」
「何もせんから」
「・・っ・・・」
 ・・・本当にどうしてなんだろう?
「・・・・て・・」
「アリス?」
「・・嫌わんといて下さい」
「・・・アリス?」
 ズルズルとしゃがみこんでしまった僕をふわりと抱き寄せる優しい手。
 それにしがみつく様にしてポロポロと泣き出した僕の耳に少しだけ笑いを含んだ声が聞こえてくる。
「なんでアリスを嫌いになるんや?」
「・・・・・・」
「好きやて言うとるやろ?」
「・・・・・・」
「せやからアリスの嫌がる事はせぇへんよ」
 ポンポンと背中を叩く大きな手。
 子供のようだと思った。
 怒って、甘えて、駄々をこねて・・・。
 でも、だけど・・・
「・・嫌やない」
「アリス?」
「嫌やない!そんな風に思うた事ない!せやけど・・」
 それだけは伝えておきたくて、けれどうまく言葉にならなくて、けれどそれも何も全てを知っているかの様に江神さんはふわりと微笑って僕の目もとに唇を落とした。
「判ってるよ」
「・・・江神さん」
「好きや。せやから今日はこれだけな」
 言いながら掠めるような口付け一つ。
「・・あ・・」
「泊まって行くやろ?アリス?」
 いつもの言葉。
 でも、それは行為を示唆する言葉でなくて。
「・・はい」
 答えと同時にポンと叩かれた背中。そこから広がる何かが僕の心の中の不安を溶かして消して行く。
 本当に、性のない事を考えて、悩んでしまったのだと今更ながらに思った。
 思いながら、でも江神さんはちゃんと判って許してくれると思えた。
「・・江神さん」
「うん?」
「好きです」
「・・・・眠り」
 そうして僕はその言葉に甘えて、甘えて、甘えきって、瞳を閉じてしまったのだった。

*************************

−−−エピローグ−−−

 スウスウと寝息をたてる横顔。
 いつかあった光景に、それでも今回は煙草だけはしっかりあると江神は限りなく苦笑に近い笑みを落とした。
 そう、前回は煙草もなく長い夜を過ごしたのだから。
“・・嫌わんといて下さい”
 全くこの愛しい後輩は何を考え始めるか判らない。
 カチリと銜えた煙草に火をつけると江神は溜め息と同時に白い煙を吐き出した。
 結局具体的に何をとは言わなかったけれど、何を考えてしまったかおおよその検討はつく。
 つまりは・・・多分・・そういう事だ。
“嫌やない!そんな風に思うた事ない!” 
 それは本当に、そうなのだろう。だが、しかし、何事にも限度と言うものがある。
「確かに・・・ケモノ・・並みやったな・・」
 そう。会うたびに抑え切れずコトに及んでいたのは紛れもない事実だ。
 ガシャガシャと長い髪を掻き回して江神は瞳を閉じるとさらに幼くなるその寝顔を見つめた。
 ユラユラと立ち上る紫煙。
「・・・ん・・」
 微かにみじろぐと小さく眉間に皴を寄せてギュッとシャツを掴んでくる。
 やっぱりどうしても今夜はこの体勢で過ごすしかないらしい。
「・・不甲斐無い先輩ですまんな」
 クスリと漏れ落ちた苦笑を含んだ言葉。
 触れた指の間からサラリと柔らかめの髪が零れる。
 そうして次の瞬間、江神はすでに一杯になりつつある灰皿に短くなったそれを押しつけると、ゆっくりと新たなキャビンを取り出した。

その後「泊まって行くやろ?」言葉が微妙に変化して、それはそれで又アリスが真っ赤になって頭を抱えたくなってしまう状況が出てくるのだが・・。その辺りはもう勝手にやってなさいという事で。

 とりあえず、犬も食わないお話はここまで!

おしまい(笑)



はいどうも。嫌別に裏に入れる話でも??・・・でも、ねぇ・・・(苦笑)
これを出した当時は『ケモノな江神さん』と友人から言われ、自分で書いたくせにちょっぴりショックを受けていたという心温まる(?)エピソードがあります(;^^)ヘ..